古代史探訪

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天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)

 天地開闢のときに現れた五柱の神を別天津神(ことあまつかみ)と云う。天御中主尊、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)、可美葦芽彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)、天常立尊(あめのとこたちのみこと)の五柱の神である。
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 私見ですが、この五柱の神は紀元前1世紀に博多周辺の地域で代々首長を務めた。揚子江周辺の江南人(倭人)の中の呉人が博多に立ち上げた国で、西暦元年に奴国として建国、初代奴国王の国常立尊(くにのとこたちのみこと、西暦元年出生)が西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」となった。
 王の名は書(ふみ)によって少しずつ違っている。
 2代目が豊雲野尊、3代目が宇比地邇尊(ういじにのみこと)、4代目が角杙尊(つのくいのみこと)で西暦107年に後漢に朝貢して倭王帥升となり、政治の面でも交易の面でも北部九州の28ヵ国で成り立った倭国を統率した。
 5代目が意富斗能地尊(おおとのじのみこと)、6代目が淤母陀琉尊(おもだるのみこと)、7代目が伊弉諾尊(いざなぎのみこと、西暦125年頃-190年頃)と続く。
 この時代になると、出雲系の素戔嗚命や大国主命が現れ、日本列島の広範囲に政治的・交易的な協力関係が広まってくる。

 紀元前1世紀の別天津神のなかでも天御中主尊、高皇産霊尊、神皇産霊尊は造化三神と呼ばれ、特に天御中主尊は中心的な最高位の神として重要視されている。
 天御中主尊を祀る神社は、北極星・北斗七星信仰、妙見北辰信仰、水天宮信仰と結びつけて天御中主尊を信仰している。これらの信仰は中世の神仏習合思想と共に広まったと考えられる。

 兵庫県明石市上の丸1丁目17-18の日蓮宗本松寺の西北に妙見社が鎮座、妙見尊(天之御中主神)を祀る。明治の神仏分離令により本松寺と妙見社に分かれた。
 本松寺は立派な桜、妙見社は見事なツツジで有名。
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# by enki-eden | 2017-11-17 00:18

富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)

 奈良市丸山1丁目にある円墳の富雄丸山古墳は、円墳としては全国第1位の規模の径110mで、築造は4世紀後半頃。時期的には15代応神天皇(363年-403年)の時代である。
 墳丘表面には葺石と埴輪片があり、粘土槨の内部に6.9mの割竹形木棺と多数の副葬品が出土し、出土品は国の重要文化財に指定されている。墳丘北東部には短い造り出しがある。
 富雄丸山古墳の東側を富雄川が流れている。

  赤のアイコンが富雄丸山古墳、黄が垂仁天皇陵、青が神功皇后陵



 従来の発掘調査では2段築成の径86m、高さ10mとなっていたが、今年の奈良市教育委員会による上空からのレーザーによる三次元計測調査で、3段築成の径110m、高さ14.3mと確認され、全国で最大規模の円墳であることが分かった。これまで国内で最大とされた埼玉県行田市(ぎょうだし)の丸墓山古墳の径105mを上回った。
 出土品は石製品類、銅製品類、鉄製品類の他、三角縁画文帯五神四獣鏡、三角縁吾作銘四神四獣鏡、三角縁画像文帯盤龍鏡が出土、銅鏡は「国の重要美術品」になっている。
 被葬者は神功皇后(321年-389年)や応神天皇の大和政権と結びついた相当の有力者だったと考えられる。5.5km北東には神功皇后陵がある。
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# by enki-eden | 2017-11-16 11:19

弥生末期の人口

 3世紀(弥生末期)の列島人口は60万人ほどと考えられている。その中で、倭国(北部九州28ヶ国)の人口はどれくらいになるのか。
 列島総人口の25%が倭国に住んでいたとすれば、倭国の人口は15万人ほどになる。
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 同じ3世紀の大陸は、魏、呉、蜀の三国時代で、三国の人口は合計で約500万人であった。

 魏志倭人伝記載の各国戸数は、対馬国 1,000戸、一大国(壱岐)3,000戸、末盧国(佐賀県)4,000戸、伊都国(糸島市)1,000戸、奴国(福岡市)20,000戸、不弥国(福津市・宗像市)1,000戸、投馬国(福岡県東部・大分県)50,000戸、邪馬台国(筑後川周辺地域)70,000戸となっている。
 合計すると150,000戸になる。倭国の人口が150,000人とすれば、150,000戸は150,000人のことになる。

 倭国の中心国は、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の6ヵ国で、上記8ヶ国以外の20ヵ国は、中心国の属国か関係国で、その人口は6ヶ国の人口に含まれていると考えられる。
 私の過去の投稿で、倭国は29ヶ国と書いたが、今回は28ヵ国とした。それは魏志倭人伝に「奴国」が2度記されており、倭国の最も重要な国は「奴国」であることを示すために奴国を2度記したと考えられるからである。しかも2度目を29番目の最後に記すことで「奴国が最も重要な国」であると示唆する「筆法」だと考えられる。

 佐賀県、長崎県、福岡県、大分県の現在の人口は845万人ほどになっている。3世紀に比べると56倍にもなっている。日本全体の人口は3世紀の列島人口の208倍にもなっている。
 倭国の人口比率は、3世紀に総人口の25%、現在では7%、3世紀の列島の中心は北部九州にあった。列島の中心が4世紀には北部九州から近畿地方に移り、17世紀には関東に移り、19世紀の産業革命で人口が爆発的に増えていった。
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# by enki-eden | 2017-11-11 00:06

湊川神社(神戸市)

 久しぶりに湊川神社に参拝しましたが、七五三詣りで大賑わいでした。
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 入口の神門近くにオリーブの大きな古木。140年ほど前にヨーロッパから数本持ち帰った中の1本で日本最古のオリーブの木。
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 拝殿前に親子さざれ石
 10年ほど前に奉納されたさざれ石の二塊は、京都府舞鶴市岡田由里で採取された。まるで楠木正成公(大楠公)が「桜井の駅」(大阪府三島郡島本町桜井1丁目)で我が子・正行公(小楠公)を諭す姿に想われ、「親子さざれ石」と名付けられた。
 桜井の駅は楠公父子決別の場所として知られる。
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 2013年3月26日投稿の「湊川神社」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-11-06 09:46

倭の五王

 中国の5世紀から6世紀は南北朝時代で、北朝と南朝に分かれていたが、それぞれ短い期間に国が入れ替わっていった。
 北朝は北魏(386年-534年)から東魏(534年-550年)と西魏(534年-556年)に東西分裂する。
 更に北斉(550年-557年)と北周(556年-581年)に分かれる。
 南朝は宋(420年-479年)→斉(479年-501年)→梁(502年-556年)→
    陳(557年-589年)と移り変わる。建康(南京)を首都とする。

 北朝の北魏は、386年に鮮卑族の拓跋氏によって華北に建国された。北魏は五胡十六国時代(304年-439年)の戦乱を終焉させ、最終的には442年に華北を統一した。北魏は五胡十六国時代から遊牧民的習俗を改め、漢化政策に積極的であった。
 首都も洛陽に遷し、徹底的に漢化を進め、多くの仏教寺院・仏像を造った。胡族と漢族の通婚を奨励した。

 戦乱の五胡十六国時代には、大和王権は大陸と殆ど交易を行えなかったが、その間に国家形成を進めることができ、古墳時代に入って100年を経ると、神功皇后の新羅討伐(363年)をきっかけに朝鮮半島には頻繁に軍隊を派遣していた。

 北魏時代の日本の天皇は、15代応神天皇、16代仁徳天皇、17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇、20代安康天皇、21代雄略天皇、22代清寧天皇、23代顕宗天皇、24代仁賢天皇、25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇であるが、大和政権は華北の北魏との政治的・文化的な結びつきが強かったと考えられる。
 しかし、北魏書や北斉書には外国伝(倭国伝)は記されていないので、大和政権との関係は分からない。

 「倭の五王」による南朝の宋への朝貢は、先ず413年に倭王・讃が東晋(317年-420年、南京)に朝貢した。年代的には倭王・讃は仁徳天皇。東晋は420年に宋に禅譲させられ宋が成立。
 その後421年から478年までの倭王・讃、珍、済、興、武は南朝の宋に朝貢(宋書、夷蛮伝・倭国伝)した。421年と425年に倭王・讃が朝貢、年代的にはこれも仁徳天皇。
 430年に倭王が朝貢、倭王名が記されていないが、年代的には履中天皇。
 倭王・讃が没し、弟の珍(安東将軍倭国王)が438年に朝貢、年代的には反正天皇か允恭天皇。
 443年(安東将軍倭国王)と451年(安東大将軍)に倭王・済が朝貢、年代的には允恭天皇。
 460年に倭王が朝貢、年代的には雄略天皇。
 462年に済の子、倭王・興(安東将軍倭国王)が朝貢、年代的には雄略天皇。
 倭王・興が没し、477年に弟の倭王が朝貢、年代的には雄略天皇。
 478年に倭王・武(使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王)が朝貢、年代的には雄略天皇。
 宋の後を継いだ斉は479年に倭王・武を鎮東大将軍(斉書、倭国伝)に、年代的には雄略天皇。
 斉の後を継いだ梁は502年に倭王・武を征東大将軍(梁書、武帝紀)に進号、年代的には武烈天皇。

 倭の五王とは年代的に仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇・安康天皇・雄略天皇・武烈天皇の時代であるが、年代的に少し辻褄の合わない部分がある。
 そして、大和政権が華北の北朝と交易せず、江南の南朝だけと交易・朝貢したと考えるのは難しい。
 北魏と宋の地図、ウィキペディアより。
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 古事記・日本書紀の5世紀の記事には、朝鮮半島の百済・任那・新羅・高麗・呉(高麗の隣国か属国)との往来や戦争の記事は多いが、中国の記事は全くない。
 記紀成立の8世紀の日本は国家意識が非常に高く、「中国(中心の国)」とは日本のことであるとさえ言っている。そんな風潮の中で、皇室の先祖の卑弥呼、臺與、大和の天皇が中国に朝貢貿易をしていたなどと云う記事は書けなかったと考えられる。

 私見ですが、北魏書・北斉書に倭国伝はありませんが、大和政権は華北の北魏と交易していたのではないかと考えています。
 倭国が南朝の宋と交易したのは宋書夷蛮伝・倭国伝に記されているが、「倭の五王」を天皇に特定できにくい部分がある。実際に交易していたのは有力豪族なのではないか。

 当時の有力豪族に葛城氏がいるが、葛城円(かつらぎのつぶら)が456年に雄略天皇に殺される。大伴金村も540年頃に失脚、物部氏も海外にはあまり興味を示さない。
 葛城氏と同じく武内宿禰の子孫と云われる蘇我氏が朝廷の代行として南朝と交易し、富と軍備を蓄え、配下に東漢氏(やまとのあやうじ)を置き、物部氏を超える最有力豪族にのし上ったのではないか。当時南朝でも北朝でも仏教が盛んであったので、蘇我氏は大和で仏教を定着させた。
  武内宿禰-蘇我石川宿禰-蘇我満智-蘇我韓子-蘇我高麗(馬背)-
  蘇我稲目-蘇我馬子-蘇我蝦夷-蘇我入鹿

 
 5世紀の時代に蘇我満智は既に朝廷の財政を統括していた。地方からの税・貢物、海外使節の接待、朝鮮半島からの貢物、そして内外交易品の管理を統括し、勢力を伸ばした。
 蘇我氏は主要な海人族を統率し、朝廷の代表として自ら大陸、朝鮮と交易をしていたと考えられる。蘇我稲目の時代に各地に屯倉(みやけ)を設立、蘇我氏の発言権が更に大きく躍進した。
 蘇我馬子は587年に物部守屋を討つ。天皇家を凌ぐ勢いになった蘇我氏は、蘇我馬子(626年没)・蝦夷(645年没)・入鹿(645年没)の3代の横暴により滅ぼされ、勢力が弱まった。

 北魏後継の北周の楊堅(爵号は随、541年-604年)が589年に全国統一し、南北朝時代を終焉させた。楊堅の爵号「随」に似た「隋」を国名にして建国する(初代文帝)。
 2代皇帝・煬帝(569年-618年)の失政と外征失敗により謀反が起こり、煬帝は618年に殺される。聖徳太子(574年-622年)は遣隋使を数回派遣して隋を模範とした。遣隋使の小野妹子(蘇因高)が隋の裴世清を伴って帰国した。
 隋の4代皇帝・恭帝侗から禅譲を受けた李淵(566年-635年)が618年に唐を建国する。李氏は隋の鮮卑系貴族で、唐国公の爵位を与えられていたので、李淵(高祖)は国号を唐とした。
 隋も唐も鮮卑族の拓跋氏が支配層を形成した。

 日本は遣隋使、遣唐使を派遣して中国文化を積極的に取り入れることになるが、その前段階として北魏と交流していたのは間違いないと見ています。

 6世紀飛鳥時代の仏像は北魏様式と云う。弥勒菩薩半跏思惟像の穏やかな表情をアルカイック・スマイルと表現される。洛陽の北魏から長安の隋・唐に時代が変わっても、政治的・文化的・宗教的な基本は漢化した北魏の制度が引き継がれていった。
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# by enki-eden | 2017-11-03 00:16

伊奢沙別命(いざさわけのみこと)

 別名 氣比大神・笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神(みけつおおかみ)。
 「ケ」は食物、「ヒ」は霊を意味する。

 伊奢沙別命は越前国一宮の氣比神宮(北陸道総鎮守、福井県敦賀市曙町11-68)の主神。

 越前国二宮の剣神社(福井県丹生郡越前町織田113-1)の主神は素戔嗚大神であるが、氣比大神を配神として祀っている。剣神社の地名は織田とあるように織田信長の祖先発祥の地で、信長も氏神として崇敬していた。
  赤のアイコンが氣比神宮、黄が剣神社


 伊奢沙別命の神格は海の神(海人族系)・食物神で、ご神徳は衣食住・海上安全・農漁業。
 古代の越前国敦賀郡は御食国(みけつくに)で、皇室に海産物の贄(にえ)を貢納していた。
 敦賀(つるが)の古名は角鹿(つぬが)であったが、大宝律令により敦賀と改称された。

 敦賀の立地は嶺南と呼ばれ、福井県南部の若狭湾沿岸地域になっている。文化的・経済的には北方の嶺北よりも西方の若狭湾沿岸との関係が深く、すぐ南方には琵琶湖があり近江国や京都との関係も深い。言葉も嶺北は福井弁(北陸弁)であり、嶺南の敦賀は北陸弁の要素もあるが近畿弁に近い。

 琵琶湖周辺を拠点とする息長氏にとって、琵琶湖北端から20kmほどの敦賀湾は日本海交易や海外交易に必要な津(港)であった。大和や摂津、河内にも拠点を持つ息長氏は瀬戸内海航路を利用する場合は住吉津(すみのえのつ、大阪市住吉区)の津守氏と連携した。
 津守氏は天火明命系の海人族で、住吉大社の歴代宮司を勤めている。住吉大社については、2013年12月5日投稿の「住吉大社①」をご参照ください。

 氣比大神は天日槍(あめのひぼこ)と同神説がある。天日槍の子孫である神功皇后は氣比神宮が鎮座する敦賀と関係が深い。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 日本書紀によると神功皇后摂政13年、誉田別尊(15代応神天皇)が立太子の時、武内宿禰と越国(北陸)に行き、敦賀の氣比大神(伊奢沙別命)と名前を交換したとある。西暦375年のことである。
 これは、立太子や成人の時に、その地に因んで名前を変える習慣のことか。例えば、平安時代に石清水八幡宮で元服した八幡太郎義家、賀茂神社で元服した賀茂次郎義綱、新羅明神で元服した新羅三郎義光のように。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 氣比大神が天日槍であるならば、神功皇后の先祖の名前を応神天皇が交換して継ぐことにより、天日槍(氣比大神)の家督を引き継いだのかもしれない。
 日本書紀垂仁天皇3年紀に、天日槍の神宝に「胆狭浅(いささ)の太刀」が記されている。

 加古川市の日岡神社の主祭神は天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)である。神社の由緒によると、10代崇神天皇が「四道将軍」を派遣したが、西海将軍には7代孝霊天皇の皇子である彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命、桃太郎のモデル)と弟の若武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)を派遣した。この彦五十狭芹彦命が日岡神社の祭神の天伊佐佐比古命であると云う。
 日岡神社については、2013年3月3日投稿の「日岡神社」をご参照ください。

 天伊佐佐比古命(吉備津彦命)と伊奢沙別命は同一神と云う説があり、吉備と氣比の発音が似ているとも云う。
 先代旧事本紀の国造本紀のよると、「成務朝の御代に吉備の臣・若武彦命の孫の建功狭日命(たけいさひのみこと)を角鹿国造に定められた」とある。
 古事記の7代孝霊天皇の記事に、「孝霊天皇の皇子・日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)は高志(越)の利波臣(となみのおみ)、豊国の国前臣(くにさきのおみ)、五百原君(いおはらのきみ)、角鹿済直(つぬかのわたりのあたい)祖先」とある。
 7代孝霊天皇の皇子は吉備国と角鹿国に深く関わっている。
 伊奢沙別命は天日槍であり、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)であり、角鹿氏(角鹿直)はその子孫の海人族で角鹿国造と云われる。
 角鹿国造初代の建功狭日命から64代目の子孫が福井県丹生郡越前町氣比庄の氣比神社禰宜・角鹿尚文(つのがたかふみ)氏である。
 
 兵庫県豊岡市気比286に氣比神社が鎮座。祭神は五十茶狭沙別命(いささわきのみこと)、神功皇后、仲哀天皇で、神社の西に気比川が流れている。
 神功皇后が敦賀から穴門(山口県)へ航海する途中に立ち寄ったとみられる。
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# by enki-eden | 2017-10-27 00:13

天一神社(てんいちじんじゃ、神戸市西区押部谷町)

兵庫県神戸市西区押部谷町押部496   車は境内に停められます。
押部(おしべ)の氏神で「押部の天一さん」と呼ばれる。

祭神  事八十神(ことやそがみ、ことやそのかみ)、
    国常立命(くにのとこたちのみこと)、須勢利姫命(すせりひめ)、
    倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと)、
    天神(あまつかみ)、孤津姫命(つまつひめのみこと)、
    市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)。



 祭神は素戔嗚命(西暦140年頃-200年頃)の子が多い。国常立命(西暦元年生)は奴国の初代国王で、素戔嗚命はその子孫だと云う説もあるが根拠はなく、別系統だと考えられる。
 私見ですが、国常立命は江南人(呉人、越人、楚人)の呉系海人族、素戔嗚命は楚系製鉄族だと考えています。

 事八十神は先代旧事本紀によると、素戔嗚尊の子で大己貴神(西暦160年頃出生)の兄。兄弟は稲羽の八上姫(やがみひめ)に求婚して争ったが、大己貴神が勝った。
 八上姫は御井神(みいのかみ)を生んだが、大己貴神が素戔嗚の娘・須勢利姫を正妻にしたので、八上姫は恐れて御井神を木の俣に挟んで稲羽に帰ってしまった。それで御井神は木俣神(きのまたのかみ)とも云われる。

 「押部(おしべ)」の地名は当地支配者の忍海部(おしんべ)氏に由来するが、忍海部氏が102代後花園天皇の代(1449年11月13日)に当社を創建したと云う。

   拝殿
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 拝殿手前の手水鉢のふちに盃状穴(はいじょうけつ)が彫られている。 ヨーロッパではカップマークと呼ばれ、古代の原始信仰のなごり。
 日本では縄文時代から存在し、磐座に彫られ、子孫繁栄、病気平癒や魂の蘇生を願うとされる。
 寺社の灯篭、手水石、柱の礎石などに彫られることもある。
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  近くの稲荷神社を18世紀終わり頃に拝殿右に遷した。
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 拝殿左に天満宮と大歳神社。近くの天満宮を18世紀終わり頃に拝殿左横に遷し、大歳神社を1915年に天満宮の左に遷した。
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# by enki-eden | 2017-10-19 00:10

顕宗仁賢神社(けんそうにんけんじんじゃ、神戸市西区押部谷町)

兵庫県神戸市西区押部谷町(おしべだにちょう)木津(きづ)569
柴垣の宮、木津の宮。

祭神  顕宗天皇(23代)、
   仁賢天皇(24代)、
   大日孁命(おおひるめのみこと、天照大神)。

創建  5世紀末に仁賢天皇の勅により創建。

 第17代履中天皇(5世紀前半)の孫にあたる弘計(ヲケ、23代顕宗天皇)と億計(オケ、24代仁賢天皇)は、父の市辺押盤皇子(いちのべのおしわのみこ)が皇位継承の紛争に巻き込まれ、従弟の21代雄略天皇(432年-479年)に滅ぼされたので、避難のために播磨国赤石郡(明石郡)の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の館に、身分を隠して使用人となって匿われた。
 細目とか天目一箇(あめのまひとつ)などの名は、踏鞴製鉄、鍛冶を職業とする者の名である。また、押部谷(おしべだに)の地名由来は忍海部(おしんべ)だと云われている。

 三木市志染町窟屋(いわや)に「志染の石室(しじみのいわむろ)」と呼ばれる岩穴があり、二人の王子が隠れたと云う伝説がある。
 石室の湧水には「ひかり藻」が生息しているので、春にはひかり藻が繁殖し、光を反射して水が金色に光ることから「窟屋の金水(いわやのきんすい)」とも呼ばれていた。しかし、周囲の開発の影響や気候の変動でひかり藻が枯れることもある。

 志染川に沿って御坂神社(みさかじんじゃ)が鎮座、志染の氏神になっている。2015年1月16日投稿の「御坂神社」をご参照ください。
 赤のアイコンが顕宗仁賢神社、黄が志染の石屋、青が御坂神社。


 二人の王子は身分を悟られないように言葉の不自由なふりをして、使用人として働いた。やがて、479年に雄略天皇が崩御、皇太子が即位して22代清寧天皇となったが、清寧天皇には皇子がないため皇位継承者を探していた。
 播磨国の司(みこともち)山部連の遠祖・伊与来目部小楯(いよのくめべのおたて)が、新嘗の供物を整える為に細目の館に来たところ、新築祝いの祝宴をしていた。小楯は、この席で歌に託して身分を明らかにした二人の王子に驚き、仮宮を造り二王子の御殿とした。これが「柴垣の宮」である。
 小楯が清寧天皇に詳細を報告すると、天皇は大いに喜び、直ちに二王子を都の磐余(いわれ)に迎えた。

 清寧天皇が484年に崩御、485年に顕宗天皇が即位、488年に兄の仁賢天皇が即位した。この二王子ゆかりの「柴垣の宮」跡に当社が創建された。

 清寧天皇崩御の後、弘計(ヲケ、顕宗天皇)が弟だと云うことで直ぐには即位しなかったので、暫くの間、叔母の飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が職務を執ったので、飯豊天皇とも呼ばれる。
 飯豊青皇女は様々な呼び方があるが、忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)と云う呼び方があり、「忍海、おしぬみ」は葛城の中の製鉄・鍛冶の地名で、飯豊青皇女の本拠地である。忍海部(おしぬみべ)は飯豊青皇女の部民(べみん、私有民)であった。
 別の説では、飯豊青皇女の姪である飯豊女王(いいどよのひめみこ)と取り違えているとも云う。

 忍海部造細目は飯豊青皇女の配下にあって押部谷(神戸市西区)の部民を統率していたと考えられる。そして縮見屯倉首であるので、志染村(しじみむら、三木市)の屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)の管理人でもあった。神戸市西区押部谷町の北に三木市志染町がある。

 当社は細目氏が宮司を務めていたが、細目氏が明石川下流域まで、そして西へと顕宗仁賢神社を広めたようだ。神戸市西区や明石市には顕宗仁賢神社・宗賢神社が多く鎮座している。

 飯豊青皇女と細目の関係により、細目の家で二王子は匿われたと考えられ、「身分を隠して使用人として働いた」と云うのは「逃避行の苦労物語」を強調するために挿入したのかもしれない。

 社号標と石の鳥居、後ろはシブレ山で、東に六甲国際ゴルフ倶楽部がある。サントリーレディスオープンで有名、今年の6月は宮里藍選手が日本で最後の試合だと云うので大フィーバーになった。
諸見里しのぶ選手や上田桃子選手は六甲国際ゴルフ倶楽部の江連忠ゴルフアカデミーに所属していた。
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   階段の上に大きな檜(ヒノキ)が見える。市民の木として親しまれている。
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   拝殿
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   拝殿の絵馬、二王子の働く様子と、身分を明かして都へ戻る様子。
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   本殿
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   本殿右に天照皇大神社と厄神社
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  本殿背後に手前から権現神社、愛宕神社、若宮八幡社、大歳神社、
  三十八社大明神(子授けの神)、大山祇神社、稲荷神社。
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  本殿左に杵ノ宮神社
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 奈良県葛城市の「角刺神社」は飯豊女王の「角刺宮」跡と伝えられ境内に飯豊王女が鏡として使ったという池がある。
 2014年11月15日投稿の「飯豊天皇」、11月19日投稿の「角刺神社と飯豊天皇陵」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-10-10 00:13

忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の屋敷跡

 兵庫県神戸市西区押部谷町(おしべだにちょう)木幡(こばた)416
 車を停めるスペースあります。

 押部谷地域には、弘計(ヲケ、後の23代顕宗天皇)と億計(オケ、後の24代仁賢天皇)の二王子が、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の使用人として身を隠したという伝説がある。

 三木市に志染町(しじみちょう)細目(ほそめ)と云う地名があり、志染町の北を志染川が流れている。細目は在地の豪族で、志染村(三木市志染町)の屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)の管理を任されていた。
 また、明石川上流の押部谷村(神戸市西区)にある忍海部(おしんべ、大和葛城・忍海部女王の領地)の管理も任されていた。逃亡している二王子は忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)の甥なので当地に匿われたと考えられる。
 押部谷の地名は忍海部からきている。三木市志染町は神戸市西区押部谷町の北側にあり、細目は両地区の管理を任された在地の豪族であった。

 赤のアイコンが細目の屋敷跡、紫が明石川、黄が志染川、青が志染町細目


 忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)は17代履中天皇(400年頃-435年頃)と葛城黒姫の皇女で、大和国葛城の忍海(葛城市忍海、おしみ)を領有していた。忍海は葛城氏の鍛冶工房であった。
 忍海部女王の祖父は16代仁徳天皇(385年頃-429年頃)で祖母は磐之媛(葛城襲津彦の娘)である。
 忍海部女王は23代顕宗天皇(485年即位)と24代仁賢天皇(488年即位)の叔母になる。飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)とも呼ばれる。
 忍海地区には忍海部女王(飯豊青皇女)の忍海角刺宮(現・角刺神社)、近鉄電車忍海駅(おしみえき)、忍海(おしみ)小学校など忍海関連の名がある。

   奈良県葛城市忍海


  「史跡 忍海部造細目屋敷跡」の石碑、右に稲荷神社。巨木が多い。
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  細目の屋敷跡石碑の左に木幡若宮神社(こばたわかみやじんじゃ)が鎮座。
   祭神 応神天皇(15代)、
      顕宗天皇(けんそうてんのう、23代)、
      仁賢天皇(にんけんてんのう、24代)、
      厳島大神(いつくしまのおおかみ)。
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 後ろの山はシブレ山(275m)、山頂近くに天狗岩がある。
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# by enki-eden | 2017-10-04 00:23

新羅神社(姫路市四郷町)

 新羅大明神
 兵庫県姫路市四郷町明田(しごうちょう あけだ)706 駐車場はないが神社の前に停める。
 麻生八幡社の宮司が兼務している。

 祭神: 帯中津彦命(14代仲哀天皇)、
     品陀別命(15代応神天皇)、
     息長帯姫命(神功皇后)。



 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征の際、戦勝祈願のため福泊港から上陸して麻生山をめざして、この地まで来た時に天明に及んだので、この地を暁田(あけだ、後に明田村)と称した。
 当地は古くから開けており、中世には「緋田荘(あけだのしょう)」と云う摂関家領の荘園であった。江戸時代には当社が明田村の氏神になった。

 神功皇后は新羅遠征から帰還の途次(西暦363年)、当地に人質の新羅の王子を預けた。当社はその王子を祀ったので新羅神社(新羅大明神)と称した。
 日本書紀によると、「新羅王の波沙寝錦(はさむきん)は微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質として差し出し、貢物の金・銀・彩色・綾・羅・縑絹を船に乗せた。」とある。
 しかし神功皇后摂政5年(西暦367年)、新羅が朝貢してきた時に使者が微叱己知波珍干岐を連れて帰った。同行していた葛城襲津彦は微叱己知波珍干岐が逃亡したので、使者を焼き殺し、草羅城(慶尚南道梁山)を攻め落とした。この時、葛城襲津彦は鍛冶職人を捕虜として連れ帰り、地元・大和国葛城に住まわせた。

  拝殿、右の灯篭の奥は岩神社(素戔嗚命)、その奥に神明社(天照大神と豊受大神)。
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   本殿
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   金森稲荷神社(宇迦之御魂命)
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   大歳神社(大年神)
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 当地の西は白浜町と云うが、地名由来は「新羅浜(しんらはま)」と云われる。新羅からの渡来人や戦争捕虜が住み着いた。
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# by enki-eden | 2017-09-28 00:17

麻生八幡社(あさおはちまんしゃ、姫路市)

 通称: 麻生八幡宮
 兵庫県姫路市奥山563   電079-245-2536  神社東の池の横に車を停める。
 奥山を地元では「おっきゃま」と云うらしい。

 祭神 足仲彦命(たらしなかつひこのみこと、14代仲哀天皇)、
    品陀別命(ほんだわけのみこと、15代応神天皇)、
    氣長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)。



 麻生山(あそうさん、小富士山、172m)南麓に鎮座。麻生山には神功皇后(321年-389年)伝説が多い。麻生山の元の名は大己貴命(大国主命)に因み「醜男山(しこおさん)」と云っていたが、神功皇后の故事により麻生と改めた。

 神功皇后が新羅遠征に行く途中、市川の東にある麻生山に登り、戦勝を大国主命に祈願して弓で地面を叩くと麻が生えてきた。この麻で弓の弦を作ったと云う。
 その弓で矢を放ち、矢が落ちた所に稲岡神社、生矢神社(いくやじんじゃ)、行矢射楯兵主神社(いくやいだてひょうずじんじゃ)、破磐神社(はばんじんじゃ)を建てたと云う。

 中世には京都・石清水八幡宮の社領・継荘(つぎのしょう)の鎮守となった。石清水八幡宮については、2016年12月2日投稿の「石清水八幡宮」をご参照ください。

 麻生山は神仏習合の修験道の山で、山頂に45代聖武天皇(701年-756年)勅願の華厳寺があり、役小角(えんのおづぬ、634年-701年)が祀られている。
 華厳寺は明治以前の神仏習合時代には麻生八幡社の宮寺(奥の院)であった。

  石の鳥居、後ろの右の山が麻生山。
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  随神門と社号標、神門の神額は神仏習合の両部額になっている。
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   拝殿
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   本殿
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   金刀比羅宮(大物主命)
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   本殿左後ろに三島神社(大山祇命)
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   本殿右後ろに武内神社(武内宿禰)
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 当地播磨国の「奥山」を「おっきゃま」と発音するのは、吉備弁の影響だと思います。古代では加古川以東が針間国(播磨国)、加古川以西が吉備国で当地は古代の吉備国であった。
 2012年12月28日投稿の「いにしえの吉備の国の東の端は加古川」をご覧ください。
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# by enki-eden | 2017-09-22 00:16

松原八幡神社(姫路市)

 兵庫県姫路市白浜町甲399   電079-245-0413  無料駐車場あります。
 祭神 中殿、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、
    左殿(東殿)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、
    右殿(西殿)、比咩大神(ひめおおかみ、三女神)。

 妻鹿(めが)漁港の漁師・久津里が「八幡」と書かれた1尺(30cm)ほどの霊木を海中から網で拾い上げたので、霊木をお祀りし、763年に豊前・宇佐神宮から分霊を勧請、47代淳仁天皇(733年-765年)により当社が創建された。
 平安時代には松原荘が京都・石清水八幡宮の社領(荘園)となり、当社はその別宮・荘園鎮守となって松原荘を管理した。

 秋季例大祭(10月14日、15日)は勇壮な「灘のけんか祭り」として有名で、兵庫県と姫路市の重要無形民俗文化財に指定されており、テレビで放映される。

 飾磨郡誌によると、神社の東部の地名は、松原八幡宮の勧請先である宇佐八幡宮にちなんで白浜町宇佐崎と名付けられた。
 白浜町宇佐崎南1丁目の海沿いには763年に創建の蛭子神社(ひるこじんじゃ)が鎮座している。更に東南に行くと、的形町福泊(まとがたちょう ふくどまり)に子授け地蔵で有名な八家地蔵(やかじぞう)がある。私も昔、孫の願掛けにお参りしましたよ。

 白浜町の語源は新羅浜と云う。神功皇后が新羅遠征(363年)の帰路、多くの新羅の捕虜などを姫路に住まわせた。人質の新羅王子も姫路に住まわせたか、大和国まで連れて行ったかもしれない。
 新羅王子の名は微叱旱岐(みしこち)で、367年に新羅から使者が3人やって来て、王子を連れて帰る。葛城襲津彦が見張りとして同行したが、対馬で微叱旱岐に逃げられた。
 怒った葛城襲津彦は3人の使者を焼き殺し、新羅(慶尚南道)を攻撃、捕虜を連れ帰った。捕虜は葛城襲津彦の地元・大和国葛城に住まわせた。



  赤い大鳥居、昭和初期まではここが海岸線だった。
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  楼門(随神門、姫路市指定有形文化財、1679年造営)
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  社殿(1718年造営)と右に大きな神木(イチョウ)
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  手前に神木と奥に本殿
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  俱釣社、霊木を海中から拾い上げた漁師・久津里を祀る。
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  神明社
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  宮白稲荷神社
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  白躰社
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 右から恵美酒社(大国主命、蛭子命)、天満社、地神社、八坂社(素戔嗚命)、弁財天社。
 7月には八坂社の祇園祭が執り行われる。
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 右から高良社(武内宿禰)、日清・日露戦没慰霊堂、厳島社、春日社、若宮社。
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# by enki-eden | 2017-09-14 00:22

高御位神社(たかみくらじんじゃ、加古川市)

 高御位山(たかみくらやま、播磨富士)の山頂に鎮座。
 高御位山は兵庫県加古川市と高砂市の市境にある304mの神山。
 東の麓の加古川市志方町成井(しかたちょう なるい)に無料駐車場があります。

 祭神 高御位大神(大己貴命、少彦名命)。
    大己貴命は大国主命とも云う。少彦名命は淡嶋神とも云う。

 高御位山は縄文時代・弥生時代から山岳崇拝の聖地であったが、5代孝昭天皇の時(3世紀半ば)に天御中主神を祀ったと云う。



 中央の山が高御位山、左が小高御位山(こたかみくらやま、185m)、東の方(加古川市志方町成井)から写す。ハイキング登山として有名で、多くのハイカーで賑わっている。
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 大己貴命と少彦名命が天津神の命を受け、国造りのために降臨したので、高御位山と名付けられ、29代欽明天皇10年(548年)に山頂に高御位神社が創建された。高御位山全体を御神体としている。
 大己貴命(大国主命)に因んで地名が付けられたのか南東の麓には大国(おおぐに)と云う地名がある。

 成井登山口に階段で整備されたルートがあるが、私は「けもの道ルート」を選ぶ。これがいけなかった。細くて急な獣道は年寄りにとってあまりにも大変で、途中で何度も引き返そうと思った。
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 成井登山口近くに高御位神宮が鎮座、「高御位神宮神祇本庁、熊野修験道本庁」と記されている。
神仏習合の神宮。
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 登山道途中の磐座(いわくら)
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 少し登った所で休憩して東の方を眺める。
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 更に登って休憩、南の方の播磨灘を眺める。
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 何とか山頂に辿り着くと東南向きに社殿が鎮座。日の出方向を調べると、ピッタリ節分の日(立春)の日の出方向に社殿が向いている。
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 社殿南の岩を登って見ると播磨平野と播磨灘を見渡せる。
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 南の方を見ると、播磨灘の手前に竜山石で有名な竜山地区が見える。石の宝殿の生石神社については、2013年4月29日投稿の「生石神社」をご参照ください。
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 社殿横に祠(宇迦之御魂神、佐田彦神、大宮能売神)
 稲荷神社では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の配神として大宮能売神(おおみやのめのかみ)が祀られことが多い。朝廷でも重視されている女神。
 佐田彦神は猿田彦神の別名で、主祭神の宇迦之御魂神の配神となることが多い。
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# by enki-eden | 2017-09-06 00:07

臺與の東遷(とよのとうせん)

 日本書紀の神功皇后年に「200年を加えると卑弥呼と臺與の事績年」になり、「320年を加えると神功皇后の事績年」になる。
   図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 神功皇后47年(西暦367年=47+320)夏4月、百済と新羅の使いが来たが、14代仲哀天皇(313年頃-362年)が既に亡くなっていたので拝謁できなかったと日本書紀に記されている。
 この記事は仲哀天皇の崩御にかけて、卑弥呼(179年-247年)が247年(神功皇后47年、47+200)に亡くなったことを指摘するための「筆法」である。日本書紀には筆法が頻繁に使われている。

 神功皇后(321年-389年)は西暦363年の新羅遠征から大和に帰還する時、仲哀天皇を仮に埋葬していた穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、下関市長府宮の内町の忌宮神社)から天皇の遺骸をとり出し、大和に向かった。
 摂政2年(364年)、仲哀天皇を河内国の長野陵(大阪府藤井寺市藤井寺、岡ミサンザイ古墳)に葬った。

 神功皇后の上記の記事から次のことが判読できます。
 卑弥呼が247年に亡くなった後、魏が265年に滅び西晋となる。248年に女王になった台与(235年頃-295年頃)が266年に西晋に朝貢したが、大陸は内乱と北方異民族の侵入により動乱状態となる。
 大陸との交易ができなくなると九州に拠点を置く必要性が低くなり、臺與は270年頃に大和に東遷した。その際、臺與は九州の卑弥呼の墓から遺骸をとり出して大和に向かった。
 臺與は定型的前方後円墳の箸墓古墳を280年頃に完成し、卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬、古墳時代に入っていく。

 臺與は295年頃に亡くなり、箸墓古墳の前方部に葬られた。箸墓古墳の前方部も後方部も分厚い石積みが施されているので盗掘を免れていると考えられる。

 ミマキイリヒコも臺與と共に東遷し、10代祟神天皇(251年-301年)になった。臺與は記紀に倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)として記述されたのではないか。祟神天皇は物部氏と共に大和から全国支配を進めていく。
 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと、崇神天皇)の名は、伊都国の王で五十猛(160年頃出生、素戔嗚と筑紫紀氏の大矢女命の子)の子孫だと私は考えています。

 箸墓古墳は全長278m、神功皇后陵は275mで神功皇后陵は箸墓古墳を念頭に築造されたと考えられる。陵墓築造においても神功皇后を卑弥呼と臺與に結び付けたかったようだ。
 臺與と関係の深い祟神天皇陵(行燈山古墳)は242m、神功皇后の天皇・仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)も同じく242mで、仲哀天皇陵は崇神天皇陵を念頭にして築造したと考えられる。
 古墳の形や大きさにはそれぞれ理由があるのでしょう。
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# by enki-eden | 2017-08-30 00:08

投馬国(とうまこく)

 投馬国は三国志魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)において、倭国(北部九州29ヶ国)の中で7番目に記されている国の名である。
 投馬国の官は弥弥(みみ)、副官は弥弥那利(みみなり)と云い、50,000戸余りある。邪馬台国の70,000戸に次ぐ大国である。

 私見ですが、投馬国の版図は福岡県東部、大分県、山口県に及ぶ。素戔嗚(西暦140年頃出生)の第5子である饒速日(165年頃出生)が宇佐を本拠地にして統率していた出雲系の国である。

 博多の奴国は海人族・安曇氏の国で、後漢(西暦25年-220年)の時代から倭国を代表して大陸と交易をしてきた。
 西暦57年に後漢の光武帝(紀元前5年-西暦57年)が奴国からの使者に賜った漢委奴国王金印(国宝)が安曇氏の聖地・志賀島から出土した。
 西暦57年の奴国王は初代の国常立(くにのとこたち、西暦元年出生)と考えられ、光武帝とほぼ同じ時代に活躍した。奴国の始まりは偶然にも西暦元年になる。紀元前1世紀に国としての萌芽があった。

 北部九州の海岸地区は安曇氏・宗像氏・和邇氏・海部氏・尾張氏など海人族で占められていたが、全体を統率しているのは素戔嗚・大国主(160年頃出生)を中心とする出雲族であった。
 九州西北部は素戔嗚の第2子である五十猛(160年頃出生)が統率しており、その中には吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)がある。

 邪馬台国は筑後川周辺にある最大の国で、朝倉市が倭国の政治の中心であった。邪馬台国にも出雲族が多く、小石原川の東に平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)などがある。小石原川は高天原を流れる天安川(あめのやすかわ)と考えられる。
 投馬国と邪馬台国は隣同士の大国で、出雲族を通じて密接な関係にあった。列島全体の各豪族も何らかの形で素戔嗚の出雲族と主従関係・協力関係・同盟関係にあった。

 投馬国はその後、豊国(とよのくに、とよくに)と呼ばれる。倭国女王の臺與(とよ、235年頃-295年頃)の出身地だから豊国と呼ばれた。或いは、豊国の出身だから臺與と呼ばれたのか。

 豊国の遠賀川(おんががわ)周辺地域は出雲族の物部氏の本願地になっている。弦田(つるた)物部、二田物部、芹田(せりた)物部、鳥見(とみ)物部、横田物部、大豆(おおまめ)物部、肩野(かたの)物部、聞物部、嶋戸物部などがある。
 その他の地域では、宗像の赤間(あかま)物部、朝倉市秋月の相槻(あいつき)物部、当麻(たきま)物部、浮田物部、足田物部、久米物部、布都留(ふつる)物部などがある。
 これらの物部氏は西暦185年頃の「饒速日東遷」に従って大和国へ移住し、奈良県天理市や大和川周辺などに住み着いた。その後、各地にも拡散していった。

 記紀神話は出雲神話を多く取り入れているが、記紀の「出雲」は出雲国(島根県)ではなく、北部九州の出雲族支配地のことである。従って、記紀と出雲国風土記の内容はそれぞれ別地域の神話で共通性は少ない。
 西暦200年頃に素戔嗚が亡くなり、大国主が跡を継ぐと統率力・求心力が低下して海人族が権限を回復、201年に卑弥呼(179年-247年)が即位して「葦原の中つ国(北部九州の出雲族支配地)」を平定した。

 北部九州だけでなく列島各地も出雲族が移住・開拓し、大和国も大国主系・事代主系の出雲族が治めていた。その後、西暦185年頃に出雲族の饒速日が大部隊で大和国に東遷、纒向(まきむく、太田地区)を都にする。太田は出雲系の地名。人名では大田田根子(意富多多泥古)。

 素戔嗚が列島を統率し、皇室の基盤を創り上げた。私見ですが、素戔嗚の出自は「楚(現・徐州市)」だと考えています。楚は紀元前206年から紀元前202年の楚漢戦争(項羽と劉邦の戦い)に敗れた。一部の楚人が列島に逃れて来た。楚人は文化程度も高く、武力も強かった。

 西暦204年頃に初代神武(181年-248年)が九州から東遷を開始、211年に大和国で即位。出発地は出身地の岡水門(おかのみなと、遠賀川河口)で、投馬国にある。
 投馬国の首長はミミと呼ばれ、素戔嗚と宇佐の比売大神(天照大神)が誓約(うけい)をして生まれた長男はアメノオシホミミであった。
 神武天皇の実名はヒコホホデである。神武天皇と吾平津媛の間に生まれた皇子はタギシミミとキスミミがいる。神武天皇が大和国に東遷後に皇后にしたイスケヨリヒメとの間の皇子はヒコヤイミミ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミ(2代綏靖天皇)。
 3代安寧天皇の名もシキツヒコタマテである。

 大和朝廷は出雲族と海人族の協力・合体によって成り立った。やがて4世紀半ばの14代仲哀天皇・神功皇后(321年-389年)の頃には大和朝廷が全国制覇をほぼ成し遂げた結果、363年に神功皇后が新羅に軍事遠征するまでになった。弥生時代が終焉し、古墳時代が始まって100年ほど後のことである。
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# by enki-eden | 2017-08-24 00:01

経津主神(ふつぬしのかみ)

 日本書紀によれば、経津主神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)と共に「葦原の中つ国平定」(国譲り神話)を実行した神となっている。

 葦原の中つ国平定で大国主命(160年頃-220年頃)が譲ったのは出雲国ではなく、大国主命が素戔嗚尊(140年頃-200年頃)から引き継いで支配していた北部九州の地域を西暦201年頃に明け渡したと云うことです。

 10代崇神天皇(251年-301年)の時代になると、弥生時代から古墳時代に入り、大和国から全国を制覇し、大和朝廷が出現する。
 大和朝廷が安定すると、363年に神功皇后(321年-389年)が新羅に軍事遠征するまでになる。三輪山の麓に箸墓古墳が出現して古墳時代に入ってから100年も経っていない。

 伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神・軻遇突智(かぐつち)を生んだ時に火傷で亡くなったので、伊弉諾尊(いざなぎのみこと、125年頃出生)が軻遇突智を斬った。
 その剣からしたたる血が、天の安河(あめのやすかわ)のほとりに多くの岩群を造った。これが経津主神の先祖になった。経津主神の両親は磐筒男(いわつつのお)と磐筒女(いわつつのめ)となっている。
 先代旧事本紀には、磐裂神(いわさくのかみ)と根裂神(ねさくのかみ)の子が磐筒男と磐筒女で、その子が経津主神となっている。
 栃木県下都賀郡壬生町安塚1772-1に磐裂根裂神社が鎮座、磐裂神・根裂神を祀っている。

 天の安河は高天原を流れる川で、神々が集まって会議をするところ。また、素戔嗚尊と天照大神が誓約(うけい)をしたところ。誓約については2013年1月2日投稿の「盟酒、うけいざけ」をご参照ください。
 私見ですが、福岡県朝倉市の秋月地区(筑前の小京都)から安川地区・甘木地区を流れ、筑後川に注ぐ「小石原川」が「天の安河」だと見ています。
 小石原川周辺が高天原で、弥生時代末期の2世紀から3世紀の倭国の中心地だったと考えられる。小石原川と大分自動車道が交わる辺りに平塚川添遺跡(BC1世紀からAD4世紀)などの遺跡群がある。
 安本美典氏の説によると、甘木・朝倉地方が邪馬台国の中心地で、後に大和に移って大和朝廷ができたと云う。



 高天原については、2014年8月29日投稿の「高天原」をご参照ください。その中に掲載の神世の年表はその後、少し修正していますので修正年表を次に掲載します。
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 経津主神は香取神宮(下総国一宮、千葉県香取市)に、武甕槌神は鹿島神宮(常陸国一宮、茨城県鹿嶋市)に祀られている。
 そして、奈良市の春日大社には経津主神と武甕槌神が祀られている。

 素戔嗚尊(布都斯、ふつし)の父が布都(ふつ)で、天理市布留町の石上神宮(いそのかみじんぐう)の御神体は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ、布都の剣)になっている。
 先代旧事本紀には布都主神魂刀が布都御魂剣であるとしているので、素戔嗚尊の父である布都と布都主神(経津主神)が同じと云うことになる。
 布都は西暦125年頃出生であるが、葦原の中つ国平定の経津主神は西暦180年頃の出生になるので時代が合わない。私見ですが、布都と経津主神は出自も時代も違う別神でしょう。

 石上神宮の御神体は布都御魂剣(布都の剣)の他、布都斯御魂剣(素戔嗚の剣、天羽々斬剣、あめのははぎりのつるぎ)、布留御魂(饒速日の十種の神宝)がある。そして、国宝の七支刀も奉納されている。

 出雲国風土記に布都怒志命(ふつぬしのみこと)が登場し、布都斯(ふつし、素戔嗚尊)のことであると云う説もある。経津主神は元々出雲系の神であったのを高天原系にすり替えられた可能性がある。これは藤原不比等(659年-720年)が記紀の記述に影響を与えたからであろう。
 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子に和加布都怒志命もいる。物部系の祖神、神社、祭祀(御魂振り)も藤原氏・中臣氏の勢力に取り込まれていくことになる。
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# by enki-eden | 2017-08-18 00:08

天尾羽張神(あめのおはばりのかみ)

 古事記によると、伊邪那美神(いざなみのかみ)が迦具土神(かぐつちのかみ、火の神)を生んだ時の火傷で亡くなってしまったので、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が十束剣(とつかのつるぎ)で迦具土神を斬り殺した。
 この十束剣は「天尾羽張(あめのおはばり)」又は「伊都尾羽張(いつのおはばり)」と云う。
 その十束剣に付いた血から多くの神が生まれるが、その中に「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ、雷の神)」がいる。別名を建御雷神(たけみかづちのかみ)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、建布都神(たけふつのかみ)又は豊布都神(とよふつのかみ)と云う。

 高皇産霊神と天照大神が大国主命に「葦原の中つ国(北部九州の出雲族支配地)」の「国譲り」を迫る為、天穂日命(あめのほひ)を交渉に行かせるが、天穂日命は大国主命に味方して戻ってこない。次に派遣した天稚彦(あめのわかひこ)も帰ってこない。
 そこで、天安川(あめのやすかわ)の川上の岩屋にいる伊都尾羽張神(剣の神)に大国主命を説得するよう依頼したが、伊都尾羽張神は自分の子の建御雷神を派遣してくれと云う。それで建御雷神に天鳥船神を添えて「葦原の中つ国」に派遣することにした。
 天尾羽張神(伊都尾羽張神)の子が建御雷神(建布都神、豊布都神)である。

 奈良県御所市に曽我川が流れているが、曽我川が高天原を流れる天安川であるとの伝承があり、川沿いに天安川神社が三社も鎮座している。
 奈良県御所市重坂(へいさか)1005の天安川神社、祭神は市杵島姫命とも天尾羽張神とも云う。御所市樋野109の天安川神社、祭神は市杵島姫命。御所市新田の天安川神社、祭神は市杵島姫命。
 素戔嗚尊と天照大神が天安川を挟んで誓約(うけい)をして生まれたのが三女神なので、祭神が市杵島姫命になっている。天尾羽張神も祭神とされる。
 これは、九州の高天原から御所市に移住してきた人々が元の地名や川の名前を付けたのでしょう。元の高天原は福岡県だと考えられる。2014年8月29日投稿の「高天原」をご覧ください。これは3年前の投稿で、年代表についてはその後、少し修正しているので違う部分があります。

 天尾羽張神の子の建御雷神が国譲りを成功させ、大国主命は出雲国(島根県)へ帰っていった。大国主命の子の建御名方命(たけみなかた)は抵抗したが、建御雷神に敗れ、諏訪国(長野県西部)に逃亡した。
 剣に人の名前を付けることがある。素戔嗚命(布都斯、ふつし)の父・布都(ふつ)の名を付けた剣が布都御魂(ふつのみたま)と云われ、天理市の石上神宮の御神体になっている。
 建御雷神はこの剣を用いて「葦原の中つ国」を平定した。布都御魂の剣は素戔嗚命の父の布都が使っていた十束剣である。布都御魂剣は内反り(日本刀とは逆の方に反っている)の鉄剣で85cmほどの長さがある。
 素戔嗚命は布都御魂剣を孫の熊野高倉下(くまのたかくらじ)に授け、熊野高倉下が建御雷神に渡したと考えられる。

 天尾羽張の「尾羽張」は「切っ先が広がった剣」又は「諸刃の剣」の意味だと云う。
 私見では尾張氏の尾張は「矢羽に鳥の尾羽を付けた天羽々矢(あめのははや)」と見ているが、尾張氏の名前の由来も「尾羽張」かもしれない。国譲りを実行したのは尾張氏のようだ。
 尾張氏・海部氏の系図
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 建御雷神は熊野高倉下や天叢雲命(天村雲、あめのむらくも、170年頃出生)の世代になる。建御雷神が熊野高倉下から布都御魂剣を受け、200年頃に国譲りを成功させた。尾張氏は名前の前に「建」をよく使う。
 天叢雲命は素戔嗚命の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の時に出た銅剣(天叢雲剣)と同じ名前になっている。素戔嗚命は孫の天叢雲命に銅剣を授け、銅剣に天叢雲の名を付けたと考えられる。
 天叢雲剣は草薙剣とも云い、三種の神器の一つで名古屋の熱田神宮(尾張国三宮)のご神体になっている。
 熱田神宮は尾張国造の娘・宮簀媛(みやずひめ、日本武尊の妃、320年頃出生)が創建し、草薙剣を祀った。兄は建稲種命(たけいなだね)で天火明命の12世孫。

 素戔嗚命が草薙剣を得た時に用いた十束の剣は天羽々斬(あめのははきり、布都斯魂剣)で、長さ120cmの鉄剣で布都御魂剣と共に石上神宮に祀られている。

 平安時代末期、熱田神宮大宮司の尾張員職(かずもと)の娘・尾張職子は藤原季兼(すえかね、1044年-1101年)の妻となり、藤原季範(1090年-1155年)を生む。藤原季兼は尾張国の目代(もくだい、国司の私的代理人)であった。
 1114年、尾張員職は孫の藤原季範が尾張国目代になったのを機に大宮司職を譲り、その後は藤原氏が大宮司職を世襲する。尾張氏はそれ以降、権宮司に引き下がってしまう。
 尾張氏に嫡男があったにも拘わらず大宮司職を藤原氏に譲ったのは、「神のお告げ」と云うが、藤原氏に半ば強制されたのであろう。これにより、藤原氏が三種の神器の草薙剣を奉斎することになる。藤原氏は権力によるゴリ押しが多い。

 藤原季兼と尾張職子の孫・由良御前(1159年没)は源義朝(よしとも、1123年-1160年)の正室になり、熱田神宮の近くで源頼朝(よりとも、1147年-1199年)を生む。
 愛知県は優秀な人材、企業が多い。源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、最近ではフィギュアスケートの多くの選手、野球のイチロー選手、将棋の天才少年・藤井4段、企業ではトヨタ自動車など。

 藤原氏は鎌倉時代以降、家名を「近衛」、「鷹司」、「九条」、「二条」、「一条」、「三条」、「西園寺」、「中御門」などを名のり、貴族の頂点を極めた。
 熱田神宮の大宮司が尾張氏から藤原氏に替わったので、藤原氏の氏神である春日大社の祭神は第一殿に建甕槌命が祀られている。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮(常陸国一宮)から勧請されたと云う。
 第二殿には経津主命(ふつぬしのみこと)が祀られ、千葉県香取市の香取神宮(下総国一宮)から勧請されたと云う。
 熱田神宮、春日大社、鹿島神宮、香取神宮は藤原氏が奉斎しているが、権力と策略により藤原氏のものとなった。
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# by enki-eden | 2017-08-10 00:07

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

 愛知県清須市廻間(はさま)3丁目の廻間遺跡(はざまいせき)に墳丘墓が6基あるが、1基が「前方後方型墳丘墓」となっている。2世紀前半の築造で、発掘調査された後は道路になっている。
 愛知県には廻間(はさま、はざま)が付く地名が大変多く、200程あるのではないか。「廻間」は「谷間の地形」を意味する。
 「桶狭間の戦い」で有名な「桶狭間」も尾張国知多郡桶廻間村大字桶狭間である。

 方墳の周りに溝がある「方形周溝墓」に渡るための陸橋部が拡大して「前方後方型墳丘墓」となった。更に、前方部の長さが後方部の二分の一以上に拡大し、周濠も大規模になり、「前方後方墳」へと発展していく。
 
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 愛知県一宮市開明(かいめい)にある西上免遺跡(にしじょうめんいせき)の西上免古墳(墳長40.5m、周濠幅9m)が2世紀末か3世紀初めの築造で、最も古い前方後方墳と考えられている。東海地方で生まれた前方後方墳が東日本を中心として全国に広まっていった。

 「前方後円墳」は大和国で物部氏がリードしたが、「前方後方墳」は尾張国で尾張氏がリードした。埴輪が発見される前方後方墳は少ない。
 奈良県北葛城郡広陵町大塚の新山古墳(しんやまこふん)は前方後方墳であるが、多数の埴輪が出土している。墳丘長126mで宮内庁「大塚陵墓参考地」になっている。4世紀後半の築造で、25代武烈天皇陵とも云われるが、武烈天皇は506年頃の崩御なので時代が合わない。
 当地は馬見古墳群(うまみこふんぐん)の南群で、葛城氏の墓域と考えられる。葛城氏と尾張氏は密接な関係にある。

 愛知県一宮市の西上免古墳は前方後方墳ではなく前方後方型墳丘墓で、滋賀県東近江市の神郷亀塚古墳(じんごうかめづかこふん、墳長36.5m、3世紀前半)が最も古い前方後方墳であると云う説もある。それであれば、2世紀から3世紀にかけて但馬から近江へ、近江から尾張へと人や文化が流れていったと考えることができる。
 2世紀に尾張氏と海部氏が九州から日本海沿いに東進し、敦賀から近江(琵琶湖東部)へ入り、更に濃尾平野まで進出していったのか。
 西暦185年頃に「饒速日の東遷」に従って瀬戸内海経由で大和国高尾張に移住した尾張氏は、天香語山、天牟良雲、天背男などの一族であるが、その後波状的に東国の尾張国に移住していった。
 いづれにしても西上免古墳と神郷亀塚古墳の両古墳が前方後方墳の最古級と云うことでしょう。

 前方後方墳は全国に300基ほどあり、全長100m以上の大型前方後方墳は大和国に集中している。最長の前方後方墳は奈良県天理市の西山古墳(全長183m)である。西山古墳については、2013年7月19日投稿の「西山古墳」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-08-02 00:11

岡本八幡神社(神戸市東灘区)

兵庫県神戸市東灘区岡本6丁目10-1  電078-452-0796  駐車スペースはあります。
祭神 応神天皇(誉田別尊)、神功皇后(氣長足姫尊)。
厄除け開運の厄神宮

 神戸市には神功皇后(321年-389年)由来の神社が多く、伝承は363年の新羅遠征関連が多い。
当社の創建ははっきりしないが、1192年に鎌倉幕府が開かれ、源氏の勢いにあやかろうと源氏の氏神である八幡神を村の高台に祀ったと云われる。



   石の鳥居
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   急な階段を登ると拝殿
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   本殿
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   絵馬は「しゃもじ」になっている。
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 当地岡本は古くから「梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波」と云われ梅の名所であったが、1938年の阪神大水害、1945年の神戸大空襲、戦後の高度成長期の住宅開発により、美しい梅林は失われてしまった。
 しかし、1982年に住民の要望に応えて神戸市が「岡本梅林公園」を整備した。その後も整備・拡充され、園内には紅梅、白梅、しだれ梅など200本の梅の木が植えられている。
 その中には太宰府天満宮から贈られた菅原道真公ゆかりの「飛び梅」もある。飛び梅については、2016年4月7日投稿の「太宰府天満宮の飛び梅ちぎり」をご参照ください。

 当社は阪急電鉄「岡本駅」の北500mほどにあり、周辺は六甲山の南麓地区で坂道の街になっているが、住宅地としての人気は非常に高く、豪邸も多い。
 すぐ東に天上川が流れており、春は梅の名所のようだ。
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# by enki-eden | 2017-07-25 00:15

魚崎八幡宮神社(うおざきはちまんぐうじんじゃ、神戸市)

兵庫県神戸市東灘区魚崎南町3丁目19-18  電078-411-1617
                    無料駐車場あります。

祭神 八幡大神(15代応神天皇)、
   春日大神、
   八衢比古神(やちまたひこのかみ、道路を守る神)、八衢比売神、
   天照皇大神(あまてらしますすめおおかみ)、
   久那戸大神(くなとのおおかみ、縁結び・安産の神)。

 当地の魚崎は酒造りの灘五郷の一つで、地名を元は五百崎(いおざき)と称していた。神功皇后(321年-389年)が新羅遠征の際、この浜に500艘の船を集結して船出したことにより地名を五百崎とした。それが魚崎と変化してきた。
 江戸時代の魚崎村は住吉村の本住吉神社を氏神としていたが、明治になって魚崎八幡宮神社を氏神とするようになった。
 本住吉神社については、2015年9月28日投稿の「本住吉神社」をご参照ください。
   赤のアイコンが魚崎八幡宮神社、黄が本住吉神社。


   
   西の赤い大鳥居
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   東の石の鳥居
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   入口は東西で、社殿は南向き。
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    本殿
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 拝殿前に白髭(しらひげ)稲荷神社、祭神は八柱の稲荷大明神。
 主神は白髭稲荷大明神で一願成就の霊験がある。
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 東の鳥居横に遺跡「神依松」の切り株がある。この松は新羅遠征から凱旋(363年)してきた神功皇后の船がこれより先に進むことができなくなったので、五百崎(魚崎)の浜の大松に船の鞆綱を繋いで神功皇后が占ったところ、船に祀っている神の御誨(お告げ)があった。

 神功皇后はその御誨に従って、天照大神の荒魂を広田(西宮市の廣田神社)に、稚日売神を生田(神戸市中央区の生田神社)に、事代主神を長田(神戸市長田区の長田神社)に、住吉神を渟名椋長岡(大阪市の住吉大社、又は神戸市東灘区の本住吉神社)に祀った。それで船は無事に航海を続けることができた。

 鞆綱を繋いだ松は人々が神功皇后の大御形見としていたがやがて枯れてしまった。この松を「神依りの松」と云う。神依りの松の傍らに神籬をたてて八幡大神を祀り、五百神社と称したのが当社の始まりと云う。
 その後、天照皇大神と春日大神を合祀したと云う。
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   松尾神社(大山咋神、酒造りの神)
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 当社の元の祭神は素戔嗚尊であったが八幡大神に替わったと云う説がある。八幡大神とは応神天皇であるが、八幡大神は元々は素戔嗚尊だったと云う説もある。
 宇佐八幡宮の祭神は比売大神・応神天皇・神功皇后であるが、元々は素戔嗚尊と比売大神だったのかもしれない。神社の祭神は入れ替わることがある。
 又、元々の八幡大神は天火明命であると云う説もある。
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# by enki-eden | 2017-07-17 00:15

宗像・沖ノ島、世界遺産に一括登録

 ユネスコの世界遺産委員会は7月8日(土)、福岡県宗像市の沖ノ島など8つの史跡全てを一括して世界文化遺産に登録することを決めた。

 「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は、福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁、本土の宗像大社、宗像市の西隣の福津市にある新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群など8つの国指定史跡で構成する。
 宗像大社は、沖ノ島を神体とする沖津宮、大島の中津宮、本土の辺津宮(へつのみや)からなる。沖ノ島は本土から60km離れており、周囲4kmの孤島である。



 沖ノ島については、2014年2月26日投稿の「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。
 福津市の新原・奴山古墳群は5世紀から6世紀にかけて築造され、宗像氏の墳墓と云われるが、異説もある。津屋崎古墳群の一角で、対馬見山(つしまみやま、243m)の北2kmにある。対馬見山からは大島(中津宮)が眼前に見渡せる。
 新原・奴山古墳群は前方後円墳が5基、方墳が1基、円墳が35基現存、開発により失われた古墳が18基あった。
 新原・奴山古墳群は古代の海岸沿いにあり、大島との繋がりを重視されて選ばれたようだ。

 宗像国(宗像市)は大国主命が九州の本拠地としていたところで、隣国の刺国(さしくに、福津市津屋崎)は大国主命の母・刺国若比売の国であった。両国を合わせて宗刺国・胸刺国(むなさしのくに)と云われ、つながりが深く、関東に移動して武蔵国(むさしのくに)と名付けられたと考えられる。

 沖ノ島などを事前審査をしたユネスコの諮問機関が5月に、本土側の宗像大社など4つを除外するよう求めたが、日本側の熱心な説得活動もあり、全てが一括登録となった。これで日本の世界遺産は文化遺産が17件、自然遺産が4件となる。
 
 沖ノ島は宗像と朝鮮半島の間にあり、4世紀から9世紀の外洋航路安全や交流成就を祈る国家的祭祀が行われた。
 女人禁制や入島制限が守られ、古代祭祀の変遷を示す遺跡がそのままの形で残っている。奉献品約8万点が出土し、「海の正倉院」と呼ばれている。

 考古学者の石野博信先生は、沖ノ島の国家的祭祀は戦勝祈願も重要だったのではないかと云われている。4世紀末から5世紀末にかけて倭・高句麗戦争があり、その後も日本は百済と同盟を結び、高句麗・新羅とは基本的に敵対関係にあった。
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# by enki-eden | 2017-07-11 14:23

鷺森八幡神社(さぎのもりはちまんじんじゃ、神戸市東灘区)

兵庫県神戸市東灘区本山北町6丁目2-28  電078-411-5135(保久良神社)
有料駐車場(北畑会館)があります。

鷺の宮、産宮とも云われ、安産の神様としても崇敬されている。
明治時代に保久良神社の御旅所(境外末社)になっている。

祭神  天照皇大神、八幡大神、春日大神。
    明治40年に熊野神社、古山神社、山神社、賽神社が合祀された。
    熊野大神、高倉下命(たかくらじのみこと)、
    稲田宮主命(いなだのみやぬしのみこと)、
    八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神、
    大山津見命(おおやまづみのみこと)、
    具莫戸神(くなどのかみ)。



 現在の神社周辺は住宅街になっているが、昔は「鷺の森」と呼ばれる森であった。宅地開発で森は切り開かれ、神社境内のケヤキ1本だけが残った。
 このケヤキは高さ16m、樹齢800年の大木で神戸市の天然記念物に指定されている。

   鳥居の横にケヤキの大木
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   拝殿
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   本殿
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   拝殿左に稲荷神社(玉崎稲荷と鷺玉稲荷)
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# by enki-eden | 2017-07-10 00:19

保久良神社(ほくらじんじゃ、神戸市東灘区)

兵庫県神戸市東灘区本山町北畑680  電078-451-9435  駐車場なし。
祭神 須佐之男命、
   大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)、
   大国主命、
   椎根津彦命。
ご神徳 水難除け、海上安全、厄災除け、病魔退散。

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 中世には「天王宮」とも称し、江戸時代には「牛頭天王社」と称した。
 六甲山系金鳥山(338m)中腹の保久良山(185m)に鎮座。椎根津彦命が須佐之男命・大歳御祖命・大国主命を祀ったと云う。
 椎根津彦の系図は、天火明→天香語山→天村雲→椎根津彦(倭宿禰・珍彦・大和国造)で、椎根津彦は西暦185年頃に生まれ、初代神武天皇(181年-248年)の東遷(204年開始)に大きく貢献し、大和国造の祖となった。

 根津彦命は保久良神社の南方にある神戸市東灘区の浜に青亀(おうぎ)の背に乗って漂着したという伝承があり、それが東灘区青木(おおぎ)の地名となった。青亀は青い舟のことか。
   赤のアイコンが保久良神社、黄が青木


 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征(363年)の戦利武器を当社に収めたと云われる。また、椎根津彦の子孫で769年に大和連を賜った倉人水守が当社の祭祀をしていた。

 「ほくら」の社名由来は神社の説明では、「神霊(ひ)を集めた場(倉、くら)」→「ひくら」→「ほくら」としている。また、椎根津彦は社頭にかがり火を焚いて村人に提供したり海上交通安全を図ったので、火種(ひだね)を保持する庫・倉が由来で火倉(ほくら)の社名になったとも云う。
 私見ですが、弥生時代の当地が高地性集落だったので、「烽火(のろし)の山=火倉(ほくら)」かもしれないと考えています。六甲山南麓の高地性集落については、2013年7月31日投稿の「摂津国の考古学」をご参照ください。

 曲がりくねった急な山坂をやっと登りきると、眼下に神戸の街と大阪湾が見渡せる。
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 鳥居と社号標、左には椎根津彦命が亀に乗った像が大阪湾を指さしている。
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 鳥居の前には灯篭があり、瀬戸内海から大阪湾を航行する船の航海安全を祈るご神灯を焚いており、「灘の一つ火」と云われている。
 現在では電灯の灯篭に変わっているが毎夜点灯されている。「灘の一つ火」は古謡にも歌われ航海安全の信仰が篤い。
     沖の舟人 たよりに思う 灘の一つ火 ありがたや
  
 鳥居を過ぎて振り返ると「灘の一つ火(灯篭)」が行き交う船に灯台の役目をしている。
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   拝殿
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   拝殿左手前に「立岩(たていわ)」
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   末社の祓御神社(天照皇大神と春日大神)
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   遥拝所(小さな磐座)
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   本殿裏の磐座
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   本殿裏の大きな岩座「神生岩(かみなりいわ)」
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 境内には「立岩(たていわ)」と云われる大きな岩がたくさんある。
 これは神様に祈るために立て起こした祈願岩で、「磐座(いわくら)」・「磐境(いわさか)」などと呼ばれる。渦巻き状に配置された磐座群の中心の岩は本殿北裏の岩になっている。
 古代人は大きな岩に常世(とこよ)の国より神様をお招きして、繁栄・安全を祈願した。この神聖な場所は「古代祭祀遺跡地」と呼ばれている。
 祭祀跡から出土した土器破片や石器により、紀元前3世紀の弥生時代から当地「ほくら」で磐座祭祀をしていたことが分かる。20cmの銅戈が出土しており、国の重要文化財に指定されている。
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   保久良梅林
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# by enki-eden | 2017-07-02 00:04

Y染色体ハプログループ

 女性の性染色体はXXで、男性はXYになっている。
 男性のY染色体は父親から息子に引き継がれ、Y染色体ハプログループは次の図のように分類されている。
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 Aはアフリカ系。分岐した全てのグループはAに遡るので人類の起源はアフリカになる。
 Bはアフリカのピグミーに多い。

 日本人のY染色体ハプログループはD、O、Cが中心。Y染色体ハプログループの分類が2015年11月に改訂された。私が過去に投稿したDNA関連の記事は旧分類で表示しています。

 DとEはDEから分岐した。
 D1a(旧・D1)はチベット人。アイヌ人・沖縄人と近いハプログループであるが、外見は違う。
 D1b(旧・D2)は日本人(中でも縄文人、アイヌ人、沖縄人は日本人平均より比率が高い)。
 彫りの深い顔、濃いひげ、二重まぶたの特徴で日本固有の系統。
 北海道と沖縄は稲作に適していないので、江南人(倭人)が定着せず縄文系が残った。
 日本人男性のハプログループの40%ほどを占める。
 D*はインドのアンダマン諸島で、D1aにもD1bにも属さない。一見すると黒人と変わらないので、出アフリカ時のままの外見を保っている。

 Eはアフリカに多い。
 Eの中でもE1b1bはエジプト、チュニジア、ユダヤ人、アラブ人、南欧人など地中海沿岸地域に存在する。
 日本のD1b(縄文系)はEに近い。ユダヤ人とは文化的・言語的に共通点が多い。古代のシュメール人もEかF(ドラヴィダ人)だったと考えられる。

 Cは北方(遊牧民)からサハリン経由で日本列島にやって来て、日本人男性のハプログループの5%ほどを占める。C1a1(日本固有)、C2a(日本固有)、C2cが日本に存在する。
 C2bはシベリア、北東アジア、北米先住民に多い。モンゴル人に53%、韓国人に13%。
 C1b2はオセアニア地域先住民に多い。Cは北と南に分かれている。

 Oは東アジア系で、日本人男性のハプログループの52%ほどを占める。
 Oの日本での内訳は、
 O1b2(旧・O2b1a)が江南人(倭人、揚子江)の呉系で、日本全体の33%ほどを占める。紀元前473年に呉は越に敗れ、北方(徐州)に逃亡した。朝鮮半島南部や中国北東部にも逃亡・定住した。

 O1b1(旧・O2a)が江南人の越系で、日本の1%ほどを占める。越は紀元前334年に楚に敗れ、ベトナム(越南)、マレーシア、バリ島、ボルネオ島、ジャワ島などに逃亡した。日本にも僅かにやって来た。越系は中国にも15%の比率で存在する。

 O1a(旧・O1)が江南人の楚系で、日本の3%ほどを占める。楚漢戦争で楚は紀元前202年に漢に敗れたが中国に残り、中国人には10%ほどの比率で存在する。一部は台湾・フィリピンに逃亡、日本にも少数が逃亡・定住した。

 O2(旧・O3)が黄河系で、日本の15%ほどを占める。中国に55%、朝鮮半島に44%、マレーシア、タイ、チベット、ベトナムなど東南アジアにも多い。

 O系統は縄文時代から弥生時代にかけて波状的に日本列島にやって来て、縄文人と交わり、弥生人になった。

 Fはドラヴィダ人に多く、南アジアから中央アジアに少し存在する。
 Gはコーカサス地方に多く、ヨーロッパに少し存在する。
 Hはドラヴィダ人に多い。

 Iはバルカン半島、北欧に多い。
 Jは中東に多い。
 Kはパプアニューギニアに多く、周辺地域にも少し存在する。
 Lはインド、パキスタンに多い。Kから分岐した。
 Tはインド、中東、東北アフリカに多く、Kから分岐した。
 MとSはパプアニューギニアに多い。
 Nは北欧からユーラシア北部に広く分布する。日本にもわずかに存在する。

 Pは東南アジアの島に多い。
 QとRはPから分岐した。Qはアメリカ先住民に多い。
 Rはヨーロッパとインドで、R1aは東欧、インド北部、中央アジアに多い。R1bは西欧に多い。

 出アフリカの時期は7万年前から5万年前と云われるが、14万年前にも気候変動による出アフリカがあったと考えられる。
 人類は出アフリカの後、北ルート、南ルート、西ルートに分かれて分岐拡散していった。アフリカに残ったA、B、Eはアフリカの黒人になった。
 出アフリカをした人類はネアンデルタール人と混血したと考えられる。2015年1月13日投稿の「人類とネアンデルタール人の混血」をご参照ください。
 北ルートに分散したのはアジア系のD、C1a1、C2、N、O、Qに分岐し、
 南ルートに分散したのはオーストラロイドで、C1b2、F、K、Hなどに分岐、
 西ルートに分散したのはヨーロッパ系のC1a2、I、J、G、Rに分岐した。
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# by enki-eden | 2017-06-25 00:13

瀬田遺跡の円形周溝墓(奈良県橿原市城殿町)

 瀬田遺跡は橿原市の畝傍山(うねびやま、標高199m)から東へ1kmほどの城殿町(きどのちょう)にある。



 2016年春に瀬田遺跡で、弥生時代の終わり頃(2世紀後半)に築造された円形周溝墓が見つかった。墳丘の南側に周溝を渡るための台形の土手があり、前方後円墳に先行する弥生墳丘墓になっている。
 全長は26m、直径は19mで、墳丘は後世に取り除かれているので高さは分からないが、周溝が残っているので墳丘の形と大きさが分かる。
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 7km北東の桜井市箸中には最初に築造された定型形前方後円墳の箸墓古墳(墳丘長278m、高さ30m、3世紀後半築造)がある。

 定型形前方後円墳より古い弥生墳丘墓である纏向型前方後円墳(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)がある。纒向石塚古墳、纒向矢塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳で、2世紀後半から3世紀前半に造られた。
 饒速日命が西暦185年頃に北部九州から大部隊を率いて大和に東遷し、纒向を都にした頃である。ホケノ山古墳については2012年12月21日投稿の「ホケノ山古墳」をご参照ください。

 この他、纒向と繋がりが深い全国の豪族も纏向型前方後円墳を造っている。神門古墳群(ごうどこふんぐん)の神門4号・5号墳(千葉県市原市、3世紀中頃築造)、津古生掛古墳(つこしょうがけこふん、福岡県小郡市、3世紀後半築造)などである。
 津古生掛古墳については「ひもろぎ逍遥」の「津古生掛古墳」をご覧ください。

 この纏向型前方後円墳より更に古いのが瀬田遺跡の円形周溝墓で、瀬戸内中部から近畿地方には円形周溝墓が多い。
 瀬田遺跡の円形周溝墓から纒向石塚古墳へ、更に箸墓古墳へと進化していった。

 その瀬田遺跡から全国初の台付き編み籠が出土した。(6月22日の神戸新聞)
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 2016年6月に箱形の台が付いたかごが見つかった。台とかごが一体で見つかったのは初めてで、専門家は、用途を知る上で貴重な発見だとしています。
 見つかったのは細く削ったササで編まれたすり鉢状のかごで、高さ15cm、直径30cmほどのかごで、半分ほどが残っていた。
 かごの底の部分には、「四方転びの箱(しほうころびのはこ)」と呼ばれる、木の板4枚を組み合わせた箱形の台が付いていた。出土した土器などから、弥生時代の終わり(2世紀後半)のものと考えられている。
 「四方転びの箱」と呼ばれる台は、これまで用途が分かっていなかったが、かごと一体で見つかったので、用途を知る上で貴重な発見である。次はイメージ図です。
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 私見ですが、この台とかごが一体になった器は祭祀の時に使うものだと考えています。これが進化して、現在使われている三方(さんぼう、神前に物を供える)になったと考えています。

 また、弥生時代後半の大規模集落遺跡で、弥生人の脳が出土した鳥取県青谷上寺地遺跡では、河川跡から四方転びの箱が出土している。
 青谷上寺地遺跡については、2013年1月20日投稿の「青谷上寺地遺跡展示館と因幡万葉歴史館」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-06-22 17:56

伊邪那岐神・伊邪那美神の国生み

伊邪那岐神・伊邪那美神の国生み
 大八島国
  ①淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけしま、淡路島)
  ②伊予之二名島(いよのふたなしま、四国)
     愛比売(えひめ、伊予の国)
     飯依比古(いいよりひこ、讃岐の国)
     大宜都比売(おおげつひめ、阿波の国)
     建依別(たけよりわけ、土佐の国)
  ③天之忍許呂別(あめのおしころわけ、隠岐の島)
  ④筑紫島(九州)
     白日別(しらひわけ、筑紫の国)
     豊日別(とよひわけ、豊国)
     建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ、肥の国)
     建日別(たけひわけ、熊曾の国)
  ⑤天比登都柱(あめのひとつばしら、壱岐の島)
  ⑥天之狭手依比売(あめのさてよりひめ、対馬)
  ⑦佐渡の島
  ⑧大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)、
    またの名を天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
 建日方別(たけひかたわけ、吉備の児島)
 大野手比売(おおのてひめ、小豆島)
 大多麻流別(おおたまるわけ、大島)
 天一根(あめのひとつね、女島)
 天之忍男(あめのおしを、知訶島)
 天両屋(あめのふたや、両児島)

伊邪那岐神・伊邪那美神の神生み
 大事忍男神(おおことおしをのかみ)、石土毘古神(いわつちひこのかみ)、
 石巣比売(いわすひめ)、大戸日別神(おおとひわけのかみ)、
 天之吹男神(あめのふきをのかみ)、大屋毘古神(おおやひこのかみ)、
 風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、
 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、
   この二柱の神の生んだ神は、沫那芸神(あわなぎのかみ)、沫那美神(あわなみのかみ)、
   頬那芸神(つらなぎのかみ)、頬那美神(つらなみのかみ)、
   天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)、
   天之久比奢母智神(あめのくいざもちのかみ)、
   国之久比奢母智神(くにのくいざもちのかみ)、
 志那都比古神(しなつひこのかみ)、久久能智神(くくのちのかみ)、
 大山津美神(おおやまづみのかみ)、鹿屋野比売神(かやのひめのかみ、野椎神)、
   大山津美と野椎の二柱の神が生んだ神は、天之狭土神(あめのさつちのかみ)、
   国之狭土神、天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、国之狭霧神、
   天之闇戸神(あめのくらとのかみ)、国之闇戸神、大戸或子神(おおとまとひこのかみ)、
   大戸或女神(おおとまとひめのかみ)、
 鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ、天鳥船)、大宜都比売、
 火之夜芸速男神(ほのやぎはやをのかみ、火之迦具土神)、
 ここで伊弉冉尊は火傷で病になるが、更に神が生まれた。
 金山毘古神(かなやまひこのかみ)、金山毘売神、波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)、
 波邇夜須毘売神、弥都波能売神(みつはのめのかみ)、和久産巣日神(わくむすひのかみ)、
 和久産巣日神の子神に豊宇氣毘売神がいる。
 ここで伊邪那美神は火の神を生んだ時の火傷がもとで亡くなり、出雲国と伯耆国の境にある比婆山に葬られた。

伊弉諾神宮
 兵庫県淡路市多賀740    電0799-80-5001
 2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。

本殿以下の諸殿群
 明治初年から20年にかけての官費による大造営で、最初に改築(新築)されたのが本殿で、明治9年に竣功した。この本殿の後背には、伊弉諾大神の神陵があり神代から禁足であった。
 明治12年に神陵の墳丘を覆うように二重に基壇を設け、真新しい本殿を神陵の真上に移築した。
 本殿の形式は、三間社流れ造向拝付で、屋根の桧皮葺き(ひわだふき)は前方の幣殿と連結して、一屋根になっている。
 本殿大床下には、神陵に築かれていた数十個の聖なる石が格納されている。明治の大造営では、本殿のほか、拝殿、幣殿、正門、中門、翼廊、渡廊、透塀、正門と祓殿や齋館が整備され、官幣大社としての体裁が整うことになった。

幽宮(かくりのみや)
 日本書紀神代巻に「是以構幽宮於淡路之洲」とあり、神功を果された伊弉諾大神が、御子神の天照皇大御神に国家統治の大業を委譲し、最初に生まれた淡路島に帰還、多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごした。
 この地で終焉の時を迎えた伊弉諾大神は、その住居の跡の神陵(現本殿の床下)にお祀りされ、これが最古の神社である伊弉諾神宮の創祀の起源だとされている。

 私見ですが、伊弉諾尊は西暦125年頃に淡路島で出生、160年頃に倭国王兼7代目奴国王に就任した。伊弉諾尊は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の力を借りて各地を統率(国生み)したが、185年頃に素戔嗚尊や伊弉冉尊と争って倭国乱が勃発。
 伊弉諾尊は失脚し淡路島に隠遁、190年頃に淡路島の幽宮で亡くなる。倭国は卑弥呼(179年-247年)が201年に倭国王として就任した。
 素戔嗚尊は200年頃に亡くなり、相続した大国主命(160年頃-220年頃)が後を継いだが、卑弥呼と高皇産霊尊は北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)の国譲りを強制、大国主命は出雲国に隠遁した。
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# by enki-eden | 2017-06-19 00:19

政教分離

 有名な本能寺は法華宗本門流大本山で、京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522(京都市役所南)にある。
 1532年(天文元年)、京都で勢力を強めた日蓮宗(法華宗)の信徒(法華衆)により、浄土真宗の本山である山科本願寺が焼き討ちにあって全焼した。翌年の天文2年に本願寺教団は石山本願寺(大坂本願寺)に本山(本寺)を移転した。

 1536年(天文5年)、法華衆は比叡山延暦寺(天台宗総本山)の僧侶との宗教問答で論破し、裁判でも勝利した。
 延暦寺の僧兵は大軍を率いて京都の日蓮宗寺院を全て焼き払い、多くの法華衆を殺害した。この「天文法華の乱」により本能寺も焼失、法華衆は敗北して堺の末寺に逃亡した。

 1542年(天文11年)に日蓮宗の京都帰還を許す勅許が下され、15ヶ寺が京都に再建された。本能寺は1545年(天文14年)に四条西洞院(にしのとういん)北方に広大な寺地を得て大伽藍を造営した。
 延暦寺と日蓮宗は1547年(天文16年)に和解した。

 本能寺の末寺が近畿、北陸、瀬戸内、種子島まで拡大し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。本門流は早くから種子島に布教していた事から鉄砲と火薬を手に入れ、戦国大名と深い関係にあった。強力な鉄砲隊を持つ織田信長(1534年-1582年)の京都での宿は本能寺であった。

 天台宗延暦寺は織田信長に対抗するために北陸の浅井・朝倉と連携したが、1571年(元亀2年)信長の全軍による総攻撃により比叡山を焼き討ちにされた。
 浄土真宗の石山本願寺は城郭のように石垣をめぐらせて要塞化したが、信長との長い戦争の結果、1580年に炎上した。

 当時は武家勢力だけではなく寺社も武装・独立し、地域を治めていた。信長の天下賦武に反抗・独立していた各地の寺社を信長は武力鎮圧し、武装解除して本来の宗教活動に戻させた。
 信長により多くの寺社が破壊され、多くの人々が殺されたが、寺社の武装と政治活動が禁止され、大きな犠牲の結果、宗教改革の一面にもなった。

 織田信長が明智光秀(1528年-1582年)に襲われた本能寺は現在地にあったのではなく、寺域の南北は蛸薬師通と三条通の間の270mほど、東西は西洞院通と油小路通の間の140mほどで、大寺院であった。
 現在は道路横に「此付近本能寺跡」の石碑などが立っている。
 赤のアイコンが現在の本能寺、黄が本能寺跡。


 織田信長は広大な城郭のような本能寺を京都での宿としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)明智光秀に包囲され自刃した。旧暦の6月1日は新月で真っ暗闇、その深夜の2日に襲撃された。

 現在の大阪城の地には、石山本願寺ができる前には古墳があったと云う。また、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)の境内もあり、太古から信仰の場であった。生國魂神社については2014年2月14日投稿の「生國魂神社①」をご参照ください。

 1583年に、豊臣秀吉(1537年-1598年)が天下統一の拠点として、炎上した石山本願寺跡地に難攻不落の大坂城の築城を開始した。

 生國魂神社は石山本願寺と共に焼失したが、秀吉が1585年に現在の天王寺区に生國魂神社の社殿を造営した。
 本能寺は1592年に豊臣秀吉の命にて現在地に再建した。

 織田信長の武力により、大きな犠牲と大きな損失の結果として日本の宗教改革が実現した面もあった。
 イスラム教国のトルコでは、1923年にトルコ共和国初代大統領になったケマル・アタテュルク(1881年-1938年)が1928年に憲法からイスラムを国教と定める条文を削除して、世俗主義・民族主義・共和主義などを理念とし、政治と宗教を分離した。

 しかし、他のイスラム教国ではイスラム教・政治・軍が一体的に統合されており、主にスンニ派とシーア派に分かれて紛争・テロ・戦争を繰り返している。
 一部のテロ集団が外国にまで執拗なテロ活動を展開している。世界はテロとの戦いに力を入れているが、イスラム圏の政教分離を実現しなければテロの根絶は難しいのではないか。
 イスラム圏の政教分離は不可能だと云う意見もあれば、政教分離してもテロはなくならないという意見もある。
 私はテロとの戦いを進めるのと同時に、イスラム圏の政教分離を実現しなければ、テロはいつまでも続くと考えています。
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# by enki-eden | 2017-06-13 00:02

皇統の維持

 96代後醍醐天皇(1288年-1339年)は鎌倉幕府を倒幕する運動を行う。皇子は護良親王(もりながしんのう、1308年-1335年)で大塔宮(おおとうのみや)とも云い、共に倒幕を進める。
 足利尊氏(1305年-1358年)や新田義貞(1301年-1338年)による鎌倉幕府倒幕後に、後醍醐天皇は独裁体制の建武新政を実施するが、足利尊氏と対立し吉野で南朝を樹立、南北朝に分かれる。
 足利尊氏は光明天皇(1322年-1380年)を擁立して室町幕府(1336年-1573年)を開き、幕府の初代征夷大将軍となる。

 1392年に南北朝が合一し、北朝の後小松天皇(1377年-1433年)が100代天皇となる。しかし、室町幕府の権力が強く、皇室は幕府に従うしかなかった。
 102代後花園天皇(1419年-1471年)の弟の貞常親王(1426年-1474年)が伏見宮家第4代当主として、1456年に勅許により伏見殿と称して世襲親王家の成立となった。

 世襲親王家は複数存在し、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮(かんいんのみや)である。世襲親王家は天皇直系に皇子が不在の場合に皇位継承候補者を出し、皇統の維持補完に寄与してきた。伏見宮墓地は京都市上京区の相国寺内(京都御所の少し北)にある。
 明治維新後には永世皇族制となり、世襲親王家の制度は廃止された。天皇に皇子がない場合や、昔のように複数の天皇妃が存在しない現代では皇統の維持が困難になってきている。

 閑院宮(かんいんのみや)は113代東山天皇(1675年-1710年)の第6皇子・閑院宮直仁親王(1704年-1753年)により1718年に創設された。閑院宮邸跡の一部は京都御苑内の西南角に残っている。
 118代後桃園天皇(1758年-1779年)に皇子はなかったので、天皇崩御により、閑院宮直仁親王の孫の祐宮(さちのみや、1771年-1840年)が践祚して119代光格天皇となった。
 後桃園天皇崩御の時の新天皇候補者は3人で、伏見宮貞敬親王・閑院宮美仁親王・閑院宮祐宮親王がいたが、閑院宮祐宮親王が選ばれ光格天皇になった。
 光格天皇は1817年に第6皇子の恵仁(あやひと)親王(1800年-1846年)に譲位し、120代仁孝天皇(1800年-1846年)とし、自らは上皇(太上天皇)となった。

 現在の125代平成天皇(1933年~)も、来年の在位30年を機に皇太子徳仁親王(なるひとしんのう、1960年~)に譲位を希望し、「陛下一代限りの特例法」制定が成立すれば、今上天皇は再来年に上皇になる見込みとなっている。

 現在の皇統は閑院宮系の光格天皇から続いており、122代明治天皇(1852年-1912年)は121代孝明天皇(1831年-1867年)の第2皇子・睦仁親王で、1868年に京都御所で即位礼、1871年に東京の皇居で践祚大嘗祭(だいじょうさい)を行った。

 孝明天皇は天然痘が原因で崩御したとされるが、ヒ素毒殺説もあり岩倉具視(1825年-1883年)などが疑われている。
 これには異説があり、孝明天皇は崩御(1867年)と称して京都堀川6条の堀川御所に入り、ウラ天皇になったと云う。更に明治天皇は孝明天皇の皇子ではなく、長州藩奇兵隊士で南朝後醍醐天皇の末裔である大室寅之祐に明治天皇は取り替えられたと落合莞爾氏(1941年~)が主張している。
 睦仁親王は大室寅之祐とすり替わり、孝明天皇と同じく堀川御所に入ったと云う。堀川御所は西本願寺の北にあったが現存せず、今は西本願寺の駐車場になっている。

 私見ですが、薩長土肥(薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩)と一部公家の倒幕運動に対して、孝明天皇と睦仁親王の公武合体論は相容れなかったことが事件と関係あるでしょう。
 落合莞爾氏の著書は多いですが、『明治維新の極秘計画「堀川政略」と「ウラ天皇」』の動画を見ました。動画は3回に分かれていて、1回分は1時間20分以上の長さでした。
 内容全部が正しいとは限りませんが、古代から現代に至るまでの詳しい解説があり参考になりました。既に動画サイトは閉鎖されています。

 戦後の1947年、GHQ(General Headquarters、総司令部)の指令により皇室財産が国庫に帰属されたため、昭和天皇の実弟である秩父宮(1995年断絶)、高松宮(2004年断絶)、三笠宮(男子不在)の3宮家を残し、他の11宮家の51名は皇籍離脱した。
 旧皇族の11宮家は伏見宮、閑院宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、久邇宮、賀陽宮、東伏見宮、
朝香宮、竹田宮、東久邇宮。

 皇室典範第1章第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とある。皇族が限定され、皇族数が減少した戦後の皇統を維持するのは困難になっているが、政府はその場しのぎの対策しか打ち出せない。
 国民には女性天皇を認める意見も多いが・・・
 皇室典範第2章12条では、皇族女子が皇族以外の者と婚姻すると皇族の身分を離れることになっているので、秋篠宮眞子内親王も結婚後に皇籍離脱になります。女性宮家の創設も検討事項として考えられているが・・・
 また13条では、男性皇族が皇籍離脱するときはその子孫も同時に離脱することになっている。
私見ですが、12条、13条は変更する必要があるのでは? 旧宮家の皇籍復帰も必要と考えています。
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# by enki-eden | 2017-06-07 00:17

東明八幡神社(とうみょうはちまんじんじゃ、神戸市)

兵庫県神戸市東灘区御影塚町2丁目9-2  電078-857-7562
境内に車を停められます。
祭神 応神天皇(363年-403年)

 当社の西隣に4世紀築造の処女塚古墳(おとめづかこふん、70mの前方後円墳)がある。被葬者は美しい乙女で、その乙女と結婚しようとした二人の若者の墓が2.1km西方にある西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)と1.6km東方にある東求女塚古墳だと云う。
 西求女塚古墳(神戸市灘区都通3-1)は3世紀後半築造の前方後円墳(98m)、東求女塚古墳(神戸市東灘区住吉宮町1丁目9)は4世紀後半築造の前方後円墳(80m)で、出土品からどちらの古墳も相当な勢力の首長の墳墓と考えられる。
 西求女塚古墳も東求女塚古墳も処女塚古墳の方を向いているので恋物語が作られ、「菟原処女の伝説」として万葉集、大和物語、謡曲(求塚)、森鴎外の「生田川」などに取り上げられている。
 赤のアイコンが東明八幡神社と処女塚古墳、黄が西求女塚古墳、青が東求女塚古墳。



 神社の由緒によると、神功皇后(321年-389年)が新羅へ遠征の時に、武内宿禰が皇后の健勝を祈って当地に植えた若松が、枝葉も繁りまたたく問に大木に育った。
 後年、当地を訪れた武内宿禰はこの瑞兆により、応神天皇の偉徳を称え、松の傍に祠を建て神霊を勧請して「正八幡宮」と称し、遠目郷(とおめのさと、東明村・現御影塚町)の鎮守とした。
 その後、貞観の代(9世紀後半)に宇佐八幡宮の御神霊を京都男山の石清水八幡宮へお遷しの時、鳳輦(ほうれん、金の鳳凰の飾りを付けた神輿)が当社で休息されたと伝えられており、古来より厄除、息災、願望成就の神として近郷より篤く崇敬されている。
 石清水八幡宮については、2016年12月2日投稿の「石清水八幡宮」をご参照ください。

 東明八幡神社の説明によると、「武内宿禰が当地に松を植えたのは1,700年前」になっている。私見では武内宿禰の生年は西暦310年頃と見ているので、ほぼ同じ見方だと思います。

   入口の鳥居
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   拝殿
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 武内宿禰が植えた松の木は、江戸時代になって幹周り5m以上の巨木となり、「武内松」 と呼ばれ摂津名所として知られた。
   立ち寄りて いざ言問わん この里の 社の松に 古き昔を
                       (大中臣為村)

 この松は明治の初めに枯れたので、その一部を保存し、横に2代目の松を植えている。 奥の祠の中に1代目の松があり、左に現在の2代目の松が植えられた。
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 浅香稲荷社(あさかいなりしゃ)、境外摂社であったが明治中期に境内に遷した。心身健全、芸能成就、商業繁栄の神。
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 高良宮(こうらぐう、祭神は武内宿禰)、厄除けの神。当社では1月18日と19日に厄除祭が執り行われる。
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# by enki-eden | 2017-05-31 00:17

櫨谷諏訪神社(はせたにすわじんじゃ、神戸市西区)

兵庫県神戸市西区櫨谷町(はせたにちょう)長谷(はせ)75   電078-991-1034
無料駐車場あります。

祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)、
   誉田別命(ほむたわけのみこと)、事代主命、天児屋根命、
   大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)。

創建
 鎌倉時代の1264年に櫨谷城主の衣笠法眼為が信州諏訪大社より寺谷地区(櫨谷町東部)に勧請したが、毎夜のように長谷村の山の樹上に光り物が現れるようになり、神社の位置を現在地に移したところ光り物が現れなくなったと云う。

 櫨谷(はせたに)の地名由来は、櫨蝋(はぜろう)の生産が盛んであったと云われるが、由来は「櫨」ではなく、「長谷」だと考えられる。
 長谷(はせ)は、山間の細長い地域は長谷(はせ)と呼ばれることが多く、山の間を川が流れている。当地にも櫨谷川(はせたにがわ、はぜたにがわ)が流れており、明石川に合流している。



 祭神の建御名方命の父は大国主命、母は高志の沼名河比売命。建御名方命は出雲の国譲りに反対して抵抗したが、建御雷神(たけみかづちのかみ)に負けて信濃国諏訪に逃れた。
 后神の八坂刀売命の父は天八坂彦命で、西暦185年頃の饒速日尊東遷に従い、伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)の祖となる。
 八坂刀売命の父は綿津見神と云う説もある。

   鳥居から境内を望む。
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 拝殿は北向きになっている。
 当社の6km北方に建御名方命の父神・大国主命を祀る神出神社(かんでじんじゃ)が鎮座しているが、そちらを向いているのか? 諏訪大社も北向きと云うが正確には西北西を向いている。
 神出神社の祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命(大国主命)。神出神社については、2013年5月10日投稿の「神出神社」をご参照ください。
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   本殿
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   拝殿右に神明社(天照大御神)
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   天満宮(菅原道真公、学問の神様)
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   稲荷社(宇迦之御魂神、農商工業の神様)
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# by enki-eden | 2017-05-23 00:28