古代史探訪

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魚崎八幡宮神社(うおざきはちまんぐうじんじゃ、神戸市)

兵庫県神戸市東灘区魚崎南町3丁目19-18  電078-411-1617
                    無料駐車場あります。

祭神 八幡大神(15代応神天皇)、
   春日大神、
   八衢比古神(やちまたひこのかみ、道路を守る神)、八衢比売神、
   天照皇大神(あまてらしますすめおおかみ)、
   久那戸大神(くなとのおおかみ、縁結び・安産の神)。

 当地の魚崎は酒造りの灘五郷の一つで、地名を元は五百崎(いおざき)と称していた。神功皇后(321年-389年)が新羅遠征の際、この浜に500艘の船を集結して船出したことにより地名を五百崎とした。それが魚崎と変化してきた。
 江戸時代の魚崎村は住吉村の本住吉神社を氏神としていたが、明治になって魚崎八幡宮神社を氏神とするようになった。
 本住吉神社については、2015年9月28日投稿の「本住吉神社」をご参照ください。
   赤のアイコンが魚崎八幡宮神社、黄が本住吉神社。


   
   西の赤い大鳥居
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   東の石の鳥居
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   入口は東西で、社殿は南向き。
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    本殿
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 拝殿前に白髭(しらひげ)稲荷神社、祭神は八柱の稲荷大明神。
 主神は白髭稲荷大明神で一願成就の霊験がある。
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 東の鳥居横に遺跡「神依松」の切り株がある。この松は新羅遠征から凱旋(363年)してきた神功皇后の船がこれより先に進むことができなくなったので、五百崎(魚崎)の浜の大松に船の鞆綱を繋いで神功皇后が占ったところ、船に祀っている神の御誨(お告げ)があった。

 神功皇后はその御誨に従って、天照大神の荒魂を広田(西宮市の廣田神社)に、稚日売神を生田(神戸市中央区の生田神社)に、事代主神を長田(神戸市長田区の長田神社)に、住吉神を渟名椋長岡(大阪市の住吉大社、又は神戸市東灘区の本住吉神社)に祀った。それで船は無事に航海を続けることができた。

 鞆綱を繋いだ松は人々が神功皇后の大御形見としていたがやがて枯れてしまった。この松を「神依りの松」と云う。神依りの松の傍らに神籬をたてて八幡大神を祀り、五百神社と称したのが当社の始まりと云う。
 その後、天照皇大神と春日大神を合祀したと云う。
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   松尾神社(大山咋神、酒造りの神)
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 当社の元の祭神は素戔嗚尊であったが八幡大神に替わったと云う説がある。八幡大神とは応神天皇であるが、八幡大神は元々は素戔嗚尊だったと云う説もある。
 宇佐八幡宮の祭神は比売大神・応神天皇・神功皇后であるが、元々は素戔嗚尊と比売大神だったのかもしれない。神社の祭神は入れ替わることがある。
 又、元々の八幡大神は天火明命であると云う説もある。
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# by enki-eden | 2017-07-17 00:15

宗像・沖ノ島、世界遺産に一括登録

 ユネスコの世界遺産委員会は7月8日(土)、福岡県宗像市の沖ノ島など8つの史跡全てを一括して世界文化遺産に登録することを決めた。

 「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は、福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁、本土の宗像大社、宗像市の西隣の福津市にある新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群など8つの国指定史跡で構成する。
 宗像大社は、沖ノ島を神体とする沖津宮、大島の中津宮、本土の辺津宮(へつのみや)からなる。沖ノ島は本土から60km離れており、周囲4kmの孤島である。



 沖ノ島については、2014年2月26日投稿の「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。
 福津市の新原・奴山古墳群は5世紀から6世紀にかけて築造され、宗像氏の墳墓と云われるが、異説もある。津屋崎古墳群の一角で、対馬見山(つしまみやま、243m)の北2kmにある。対馬見山からは大島(中津宮)が眼前に見渡せる。
 新原・奴山古墳群は前方後円墳が5基、方墳が1基、円墳が35基現存、開発により失われた古墳が18基あった。
 新原・奴山古墳群は古代の海岸沿いにあり、大島との繋がりを重視されて選ばれたようだ。

 宗像国(宗像市)は大国主命が九州の本拠地としていたところで、隣国の刺国(さしくに、福津市津屋崎)は大国主命の母・刺国若比売の国であった。両国を合わせて宗刺国・胸刺国(むなさしのくに)と云われ、つながりが深く、関東に移動して武蔵国(むさしのくに)と名付けられたと考えられる。

 沖ノ島などを事前審査をしたユネスコの諮問機関が5月に、本土側の宗像大社など4つを除外するよう求めたが、日本側の熱心な説得活動もあり、全てが一括登録となった。これで日本の世界遺産は文化遺産が17件、自然遺産が4件となる。
 
 沖ノ島は宗像と朝鮮半島の間にあり、4世紀から9世紀の外洋航路安全や交流成就を祈る国家的祭祀が行われた。
 女人禁制や入島制限が守られ、古代祭祀の変遷を示す遺跡がそのままの形で残っている。奉献品約8万点が出土し、「海の正倉院」と呼ばれている。

 考古学者の石野博信先生は、沖ノ島の国家的祭祀は戦勝祈願も重要だったのではないかと云われている。4世紀末から5世紀末にかけて倭・高句麗戦争があり、その後も日本は百済と同盟を結び、高句麗・新羅とは基本的に敵対関係にあった。
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# by enki-eden | 2017-07-11 14:23

鷺森八幡神社(さぎのもりはちまんじんじゃ、神戸市東灘区)

兵庫県神戸市東灘区本山北町6丁目2-28  電078-411-5135(保久良神社)
有料駐車場(北畑会館)があります。

鷺の宮、産宮とも云われ、安産の神様としても崇敬されている。
明治時代に保久良神社の御旅所(境外末社)になっている。

祭神  天照皇大神、八幡大神、春日大神。
    明治40年に熊野神社、古山神社、山神社、賽神社が合祀された。
    熊野大神、高倉下命(たかくらじのみこと)、
    稲田宮主命(いなだのみやぬしのみこと)、
    八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神、
    大山津見命(おおやまづみのみこと)、
    具莫戸神(くなどのかみ)。



 現在の神社周辺は住宅街になっているが、昔は「鷺の森」と呼ばれる森であった。宅地開発で森は切り開かれ、神社境内のケヤキ1本だけが残った。
 このケヤキは高さ16m、樹齢800年の大木で神戸市の天然記念物に指定されている。

   鳥居の横にケヤキの大木
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   拝殿
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   本殿
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   拝殿左に稲荷神社(玉崎稲荷と鷺玉稲荷)
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# by enki-eden | 2017-07-10 00:19

保久良神社(ほくらじんじゃ、神戸市東灘区)

兵庫県神戸市東灘区本山町北畑680  電078-451-9435  駐車場なし。
祭神 須佐之男命、
   大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)、
   大国主命、
   椎根津彦命。
ご神徳 水難除け、海上安全、厄災除け、病魔退散。

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 中世には「天王宮」とも称し、江戸時代には「牛頭天王社」と称した。
 六甲山系金鳥山(338m)中腹の保久良山(185m)に鎮座。椎根津彦命が須佐之男命・大歳御祖命・大国主命を祀ったと云う。
 椎根津彦の系図は、天火明→天香語山→天村雲→椎根津彦(倭宿禰・珍彦・大和国造)で、椎根津彦は西暦185年頃に生まれ、初代神武天皇(181年-248年)の東遷(204年開始)に大きく貢献し、大和国造の祖となった。

 根津彦命は保久良神社の南方にある神戸市東灘区の浜に青亀(おうぎ)の背に乗って漂着したという伝承があり、それが東灘区青木(おおぎ)の地名となった。青亀は青い舟のことか。
   赤のアイコンが保久良神社、黄が青木


 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征(363年)の戦利武器を当社に収めたと云われる。また、椎根津彦の子孫で769年に大和連を賜った倉人水守が当社の祭祀をしていた。

 「ほくら」の社名由来は神社の説明では、「神霊(ひ)を集めた場(倉、くら)」→「ひくら」→「ほくら」としている。また、椎根津彦は社頭にかがり火を焚いて村人に提供したり海上交通安全を図ったので、火種(ひだね)を保持する庫・倉が由来で火倉(ほくら)の社名になったとも云う。
 私見ですが、弥生時代の当地が高地性集落だったので、「烽火(のろし)の山=火倉(ほくら)」かもしれないと考えています。六甲山南麓の高地性集落については、2013年7月31日投稿の「摂津国の考古学」をご参照ください。

 曲がりくねった急な山坂をやっと登りきると、眼下に神戸の街と大阪湾が見渡せる。
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 鳥居と社号標、左には椎根津彦命が亀に乗った像が大阪湾を指さしている。
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 鳥居の前には灯篭があり、瀬戸内海から大阪湾を航行する船の航海安全を祈るご神灯を焚いており、「灘の一つ火」と云われている。
 現在では電灯の灯篭に変わっているが毎夜点灯されている。「灘の一つ火」は古謡にも歌われ航海安全の信仰が篤い。
     沖の舟人 たよりに思う 灘の一つ火 ありがたや
  
 鳥居を過ぎて振り返ると「灘の一つ火(灯篭)」が行き交う船に灯台の役目をしている。
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   拝殿
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   拝殿左手前に「立岩(たていわ)」
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   末社の祓御神社(天照皇大神と春日大神)
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   遥拝所(小さな磐座)
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   本殿裏の磐座
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   本殿裏の大きな岩座「神生岩(かみなりいわ)」
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 境内には「立岩(たていわ)」と云われる大きな岩がたくさんある。
 これは神様に祈るために立て起こした祈願岩で、「磐座(いわくら)」・「磐境(いわさか)」などと呼ばれる。渦巻き状に配置された磐座群の中心の岩は本殿北裏の岩になっている。
 古代人は大きな岩に常世(とこよ)の国より神様をお招きして、繁栄・安全を祈願した。この神聖な場所は「古代祭祀遺跡地」と呼ばれている。
 祭祀跡から出土した土器破片や石器により、紀元前3世紀の弥生時代から当地「ほくら」で磐座祭祀をしていたことが分かる。20cmの銅戈が出土しており、国の重要文化財に指定されている。
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   保久良梅林
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# by enki-eden | 2017-07-02 00:04

Y染色体ハプログループ

 女性の性染色体はXXで、男性はXYになっている。
 男性のY染色体は父親から息子に引き継がれ、Y染色体ハプログループは次の図のように分類されている。
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 Aはアフリカ系。分岐した全てのグループはAに遡るので人類の起源はアフリカになる。
 Bはアフリカのピグミーに多い。

 日本人のY染色体ハプログループはD、O、Cが中心。Y染色体ハプログループの分類が2015年11月に改訂された。私が過去に投稿したDNA関連の記事は旧分類で表示しています。

 DとEはDEから分岐した。
 D1a(旧・D1)はチベット人。アイヌ人・沖縄人と近いハプログループであるが、外見は違う。
 D1b(旧・D2)は日本人(中でも縄文人、アイヌ人、沖縄人は日本人平均より比率が高い)。
 彫りの深い顔、濃いひげ、二重まぶたの特徴で日本固有の系統。
 北海道と沖縄は稲作に適していないので、江南人(倭人)が定着せず縄文系が残った。
 日本人男性のハプログループの40%ほどを占める。
 D*はインドのアンダマン諸島で、D1aにもD1bにも属さない。一見すると黒人と変わらないので、出アフリカ時のままの外見を保っている。

 Eはアフリカに多い。
 Eの中でもE1b1bはエジプト、チュニジア、ユダヤ人、アラブ人、南欧人など地中海沿岸地域に存在する。
 日本のD1b(縄文系)はEに近い。ユダヤ人とは文化的・言語的に共通点が多い。古代のシュメール人もEかF(ドラヴィダ人)だったと考えられる。

 Cは北方(遊牧民)からサハリン経由で日本列島にやって来て、日本人男性のハプログループの5%ほどを占める。C1a1(日本固有)、C2a(日本固有)、C2cが日本に存在する。
 C2bはシベリア、北東アジア、北米先住民に多い。モンゴル人に53%、韓国人に13%。
 C1b2はオセアニア地域先住民に多い。Cは北と南に分かれている。

 Oは東アジア系で、日本人男性のハプログループの52%ほどを占める。
 Oの日本での内訳は、
 O1b2(旧・O2b1a)が江南人(倭人、揚子江)の呉系で、日本全体の33%ほどを占める。紀元前473年に呉は越に敗れ、北方(徐州)に逃亡した。朝鮮半島南部や中国北東部にも逃亡・定住した。

 O1b1(旧・O2a)が江南人の越系で、日本の1%ほどを占める。越は紀元前334年に楚に敗れ、ベトナム(越南)、マレーシア、バリ島、ボルネオ島、ジャワ島などに逃亡した。日本にも僅かにやって来た。越系は中国にも15%の比率で存在する。

 O1a(旧・O1)が江南人の楚系で、日本の3%ほどを占める。楚漢戦争で楚は紀元前202年に漢に敗れたが中国に残り、中国人には10%ほどの比率で存在する。一部は台湾・フィリピンに逃亡、日本にも少数が逃亡・定住した。

 O2(旧・O3)が黄河系で、日本の15%ほどを占める。中国に55%、朝鮮半島に44%、マレーシア、タイ、チベット、ベトナムなど東南アジアにも多い。

 O系統は縄文時代から弥生時代にかけて波状的に日本列島にやって来て、縄文人と交わり、弥生人になった。

 Fはドラヴィダ人に多く、南アジアから中央アジアに少し存在する。
 Gはコーカサス地方に多く、ヨーロッパに少し存在する。
 Hはドラヴィダ人に多い。

 Iはバルカン半島、北欧に多い。
 Jは中東に多い。
 Kはパプアニューギニアに多く、周辺地域にも少し存在する。
 Lはインド、パキスタンに多い。Kから分岐した。
 Tはインド、中東、東北アフリカに多く、Kから分岐した。
 MとSはパプアニューギニアに多い。
 Nは北欧からユーラシア北部に広く分布する。日本にもわずかに存在する。

 Pは東南アジアの島に多い。
 QとRはPから分岐した。Qはアメリカ先住民に多い。
 Rはヨーロッパとインドで、R1aは東欧、インド北部、中央アジアに多い。R1bは西欧に多い。

 出アフリカの時期は7万年前から5万年前と云われるが、14万年前にも気候変動による出アフリカがあったと考えられる。
 人類は出アフリカの後、北ルート、南ルート、西ルートに分かれて分岐拡散していった。アフリカに残ったA、B、Eはアフリカの黒人になった。
 出アフリカをした人類はネアンデルタール人と混血したと考えられる。2015年1月13日投稿の「人類とネアンデルタール人の混血」をご参照ください。
 北ルートに分散したのはアジア系のD、C1a1、C2、N、O、Qに分岐し、
 南ルートに分散したのはオーストラロイドで、C1b2、F、K、Hなどに分岐、
 西ルートに分散したのはヨーロッパ系のC1a2、I、J、G、Rに分岐した。
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# by enki-eden | 2017-06-25 00:13

瀬田遺跡の円形周溝墓(奈良県橿原市城殿町)

 瀬田遺跡は橿原市の畝傍山(うねびやま、標高199m)から東へ1kmほどの城殿町(きどのちょう)にある。



 2016年春に瀬田遺跡で、弥生時代の終わり頃(2世紀後半)に築造された円形周溝墓が見つかった。墳丘の南側に周溝を渡るための台形の土手があり、前方後円墳に先行する弥生墳丘墓になっている。
 全長は26m、直径は19mで、墳丘は後世に取り除かれているので高さは分からないが、周溝が残っているので墳丘の形と大きさが分かる。
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 7km北東の桜井市箸中には最初に築造された定型形前方後円墳の箸墓古墳(墳丘長278m、高さ30m、3世紀後半築造)がある。

 定型形前方後円墳より古い弥生墳丘墓である纏向型前方後円墳(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)がある。纒向石塚古墳、纒向矢塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳で、2世紀後半から3世紀前半に造られた。
 饒速日命が西暦185年頃に北部九州から大部隊を率いて大和に東遷し、纒向を都にした頃である。ホケノ山古墳については2012年12月21日投稿の「ホケノ山古墳」をご参照ください。

 この他、纒向と繋がりが深い全国の豪族も纏向型前方後円墳を造っている。神門古墳群(ごうどこふんぐん)の神門4号・5号墳(千葉県市原市、3世紀中頃築造)、津古生掛古墳(つこしょうがけこふん、福岡県小郡市、3世紀後半築造)などである。
 津古生掛古墳については「ひもろぎ逍遥」の「津古生掛古墳」をご覧ください。

 この纏向型前方後円墳より更に古いのが瀬田遺跡の円形周溝墓で、瀬戸内中部から近畿地方には円形周溝墓が多い。
 瀬田遺跡の円形周溝墓から纒向石塚古墳へ、更に箸墓古墳へと進化していった。

 その瀬田遺跡から全国初の台付き編み籠が出土した。(6月22日の神戸新聞)
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 2016年6月に箱形の台が付いたかごが見つかった。台とかごが一体で見つかったのは初めてで、専門家は、用途を知る上で貴重な発見だとしています。
 見つかったのは細く削ったササで編まれたすり鉢状のかごで、高さ15cm、直径30cmほどのかごで、半分ほどが残っていた。
 かごの底の部分には、「四方転びの箱(しほうころびのはこ)」と呼ばれる、木の板4枚を組み合わせた箱形の台が付いていた。出土した土器などから、弥生時代の終わり(2世紀後半)のものと考えられている。
 「四方転びの箱」と呼ばれる台は、これまで用途が分かっていなかったが、かごと一体で見つかったので、用途を知る上で貴重な発見である。次はイメージ図です。
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 私見ですが、この台とかごが一体になった器は祭祀の時に使うものだと考えています。これが進化して、現在使われている三方(さんぼう、神前に物を供える)になったと考えています。

 また、弥生時代後半の大規模集落遺跡で、弥生人の脳が出土した鳥取県青谷上寺地遺跡では、河川跡から四方転びの箱が出土している。
 青谷上寺地遺跡については、2013年1月20日投稿の「青谷上寺地遺跡展示館と因幡万葉歴史館」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-06-22 17:56

伊邪那岐神・伊邪那美神の国生み

伊邪那岐神・伊邪那美神の国生み
 大八島国
  ①淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけしま、淡路島)
  ②伊予之二名島(いよのふたなしま、四国)
     愛比売(えひめ、伊予の国)
     飯依比古(いいよりひこ、讃岐の国)
     大宜都比売(おおげつひめ、阿波の国)
     建依別(たけよりわけ、土佐の国)
  ③天之忍許呂別(あめのおしころわけ、隠岐の島)
  ④筑紫島(九州)
     白日別(しらひわけ、筑紫の国)
     豊日別(とよひわけ、豊国)
     建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ、肥の国)
     建日別(たけひわけ、熊曾の国)
  ⑤天比登都柱(あめのひとつばしら、壱岐の島)
  ⑥天之狭手依比売(あめのさてよりひめ、対馬)
  ⑦佐渡の島
  ⑧大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)、
    またの名を天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
 建日方別(たけひかたわけ、吉備の児島)
 大野手比売(おおのてひめ、小豆島)
 大多麻流別(おおたまるわけ、大島)
 天一根(あめのひとつね、女島)
 天之忍男(あめのおしを、知訶島)
 天両屋(あめのふたや、両児島)

伊邪那岐神・伊邪那美神の神生み
 大事忍男神(おおことおしをのかみ)、石土毘古神(いわつちひこのかみ)、
 石巣比売(いわすひめ)、大戸日別神(おおとひわけのかみ)、
 天之吹男神(あめのふきをのかみ)、大屋毘古神(おおやひこのかみ)、
 風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、
 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、
   この二柱の神の生んだ神は、沫那芸神(あわなぎのかみ)、沫那美神(あわなみのかみ)、
   頬那芸神(つらなぎのかみ)、頬那美神(つらなみのかみ)、
   天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)、
   天之久比奢母智神(あめのくいざもちのかみ)、
   国之久比奢母智神(くにのくいざもちのかみ)、
 志那都比古神(しなつひこのかみ)、久久能智神(くくのちのかみ)、
 大山津美神(おおやまづみのかみ)、鹿屋野比売神(かやのひめのかみ、野椎神)、
   大山津美と野椎の二柱の神が生んだ神は、天之狭土神(あめのさつちのかみ)、
   国之狭土神、天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、国之狭霧神、
   天之闇戸神(あめのくらとのかみ)、国之闇戸神、大戸或子神(おおとまとひこのかみ)、
   大戸或女神(おおとまとひめのかみ)、
 鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ、天鳥船)、大宜都比売、
 火之夜芸速男神(ほのやぎはやをのかみ、火之迦具土神)、
 ここで伊弉冉尊は火傷で病になるが、更に神が生まれた。
 金山毘古神(かなやまひこのかみ)、金山毘売神、波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)、
 波邇夜須毘売神、弥都波能売神(みつはのめのかみ)、和久産巣日神(わくむすひのかみ)、
 和久産巣日神の子神に豊宇氣毘売神がいる。
 ここで伊邪那美神は火の神を生んだ時の火傷がもとで亡くなり、出雲国と伯耆国の境にある比婆山に葬られた。

伊弉諾神宮
 兵庫県淡路市多賀740    電0799-80-5001
 2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。

本殿以下の諸殿群
 明治初年から20年にかけての官費による大造営で、最初に改築(新築)されたのが本殿で、明治9年に竣功した。この本殿の後背には、伊弉諾大神の神陵があり神代から禁足であった。
 明治12年に神陵の墳丘を覆うように二重に基壇を設け、真新しい本殿を神陵の真上に移築した。
 本殿の形式は、三間社流れ造向拝付で、屋根の桧皮葺き(ひわだふき)は前方の幣殿と連結して、一屋根になっている。
 本殿大床下には、神陵に築かれていた数十個の聖なる石が格納されている。明治の大造営では、本殿のほか、拝殿、幣殿、正門、中門、翼廊、渡廊、透塀、正門と祓殿や齋館が整備され、官幣大社としての体裁が整うことになった。

幽宮(かくりのみや)
 日本書紀神代巻に「是以構幽宮於淡路之洲」とあり、神功を果された伊弉諾大神が、御子神の天照皇大御神に国家統治の大業を委譲し、最初に生まれた淡路島に帰還、多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごした。
 この地で終焉の時を迎えた伊弉諾大神は、その住居の跡の神陵(現本殿の床下)にお祀りされ、これが最古の神社である伊弉諾神宮の創祀の起源だとされている。

 私見ですが、伊弉諾尊は西暦125年頃に淡路島で出生、160年頃に倭国王兼7代目奴国王に就任した。伊弉諾尊は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の力を借りて各地を統率(国生み)したが、185年頃に素戔嗚尊や伊弉冉尊と争って倭国乱が勃発。
 伊弉諾尊は失脚し淡路島に隠遁、190年頃に淡路島の幽宮で亡くなる。倭国は卑弥呼(179年-247年)が201年に倭国王として就任した。
 素戔嗚尊は200年頃に亡くなり、相続した大国主命(160年頃-220年頃)が後を継いだが、卑弥呼と高皇産霊尊は北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)の国譲りを強制、大国主命は出雲国に隠遁した。
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# by enki-eden | 2017-06-19 00:19

政教分離

 有名な本能寺は法華宗本門流大本山で、京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522(京都市役所南)にある。
 1532年(天文元年)、京都で勢力を強めた日蓮宗(法華宗)の信徒(法華衆)により、浄土真宗の本山である山科本願寺が焼き討ちにあって全焼した。翌年の天文2年に本願寺教団は石山本願寺(大坂本願寺)に本山(本寺)を移転した。

 1536年(天文5年)、法華衆は比叡山延暦寺(天台宗総本山)の僧侶との宗教問答で論破し、裁判でも勝利した。
 延暦寺の僧兵は大軍を率いて京都の日蓮宗寺院を全て焼き払い、多くの法華衆を殺害した。この「天文法華の乱」により本能寺も焼失、法華衆は敗北して堺の末寺に逃亡した。

 1542年(天文11年)に日蓮宗の京都帰還を許す勅許が下され、15ヶ寺が京都に再建された。本能寺は1545年(天文14年)に四条西洞院(にしのとういん)北方に広大な寺地を得て大伽藍を造営した。
 延暦寺と日蓮宗は1547年(天文16年)に和解した。

 本能寺の末寺が近畿、北陸、瀬戸内、種子島まで拡大し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。本門流は早くから種子島に布教していた事から鉄砲と火薬を手に入れ、戦国大名と深い関係にあった。強力な鉄砲隊を持つ織田信長(1534年-1582年)の京都での宿は本能寺であった。

 天台宗延暦寺は織田信長に対抗するために北陸の浅井・朝倉と連携したが、1571年(元亀2年)信長の全軍による総攻撃により比叡山を焼き討ちにされた。
 浄土真宗の石山本願寺は城郭のように石垣をめぐらせて要塞化したが、信長との長い戦争の結果、1580年に炎上した。

 当時は武家勢力だけではなく寺社も武装・独立し、地域を治めていた。信長の天下賦武に反抗・独立していた各地の寺社を信長は武力鎮圧し、武装解除して本来の宗教活動に戻させた。
 信長により多くの寺社が破壊され、多くの人々が殺されたが、寺社の武装と政治活動が禁止され、大きな犠牲の結果、宗教改革の一面にもなった。

 織田信長が明智光秀(1528年-1582年)に襲われた本能寺は現在地にあったのではなく、寺域の南北は蛸薬師通と三条通の間の270mほど、東西は西洞院通と油小路通の間の140mほどで、大寺院であった。
 現在は道路横に「此付近本能寺跡」の石碑などが立っている。
 赤のアイコンが現在の本能寺、黄が本能寺跡。


 織田信長は広大な城郭のような本能寺を京都での宿としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)明智光秀に包囲され自刃した。旧暦の6月1日は新月で真っ暗闇、その深夜の2日に襲撃された。

 現在の大阪城の地には、石山本願寺ができる前には古墳があったと云う。また、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)の境内もあり、太古から信仰の場であった。生國魂神社については2014年2月14日投稿の「生國魂神社①」をご参照ください。

 1583年に、豊臣秀吉(1537年-1598年)が天下統一の拠点として、炎上した石山本願寺跡地に難攻不落の大坂城の築城を開始した。

 生國魂神社は石山本願寺と共に焼失したが、秀吉が1585年に現在の天王寺区に生國魂神社の社殿を造営した。
 本能寺は1592年に豊臣秀吉の命にて現在地に再建した。

 織田信長の武力により、大きな犠牲と大きな損失の結果として日本の宗教改革が実現した面もあった。
 イスラム教国のトルコでは、1923年にトルコ共和国初代大統領になったケマル・アタテュルク(1881年-1938年)が1928年に憲法からイスラムを国教と定める条文を削除して、世俗主義・民族主義・共和主義などを理念とし、政治と宗教を分離した。

 しかし、他のイスラム教国ではイスラム教・政治・軍が一体的に統合されており、主にスンニ派とシーア派に分かれて紛争・テロ・戦争を繰り返している。
 一部のテロ集団が外国にまで執拗なテロ活動を展開している。世界はテロとの戦いに力を入れているが、イスラム圏の政教分離を実現しなければテロの根絶は難しいのではないか。
 イスラム圏の政教分離は不可能だと云う意見もあれば、政教分離してもテロはなくならないという意見もある。
 私はテロとの戦いを進めるのと同時に、イスラム圏の政教分離を実現しなければ、テロはいつまでも続くと考えています。
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# by enki-eden | 2017-06-13 00:02

皇統の維持

 96代後醍醐天皇(1288年-1339年)は鎌倉幕府を倒幕する運動を行う。皇子は護良親王(もりながしんのう、1308年-1335年)で大塔宮(おおとうのみや)とも云い、共に倒幕を進める。
 足利尊氏(1305年-1358年)や新田義貞(1301年-1338年)による鎌倉幕府倒幕後に、後醍醐天皇は独裁体制の建武新政を実施するが、足利尊氏と対立し吉野で南朝を樹立、南北朝に分かれる。
 足利尊氏は光明天皇(1322年-1380年)を擁立して室町幕府(1336年-1573年)を開き、幕府の初代征夷大将軍となる。

 1392年に南北朝が合一し、北朝の後小松天皇(1377年-1433年)が100代天皇となる。しかし、室町幕府の権力が強く、皇室は幕府に従うしかなかった。
 102代後花園天皇(1419年-1471年)の弟の貞常親王(1426年-1474年)が伏見宮家第4代当主として、1456年に勅許により伏見殿と称して世襲親王家の成立となった。

 世襲親王家は複数存在し、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮(かんいんのみや)である。世襲親王家は天皇直系に皇子が不在の場合に皇位継承候補者を出し、皇統の維持補完に寄与してきた。伏見宮墓地は京都市上京区の相国寺内(京都御所の少し北)にある。
 明治維新後には永世皇族制となり、世襲親王家の制度は廃止された。天皇に皇子がない場合や、昔のように複数の天皇妃が存在しない現代では皇統の維持が困難になってきている。

 閑院宮(かんいんのみや)は113代東山天皇(1675年-1710年)の第6皇子・閑院宮直仁親王(1704年-1753年)により1718年に創設された。閑院宮邸跡の一部は京都御苑内の西南角に残っている。
 118代後桃園天皇(1758年-1779年)に皇子はなかったので、天皇崩御により、閑院宮直仁親王の孫の祐宮(さちのみや、1771年-1840年)が践祚して119代光格天皇となった。
 後桃園天皇崩御の時の新天皇候補者は3人で、伏見宮貞敬親王・閑院宮美仁親王・閑院宮祐宮親王がいたが、閑院宮祐宮親王が選ばれ光格天皇になった。
 光格天皇は1817年に第6皇子の恵仁(あやひと)親王(1800年-1846年)に譲位し、120代仁孝天皇(1800年-1846年)とし、自らは上皇(太上天皇)となった。

 現在の125代平成天皇(1933年~)も、来年の在位30年を機に皇太子徳仁親王(なるひとしんのう、1960年~)に譲位を希望し、「陛下一代限りの特例法」制定が成立すれば、今上天皇は再来年に上皇になる見込みとなっている。

 現在の皇統は閑院宮系の光格天皇から続いており、122代明治天皇(1852年-1912年)は121代孝明天皇(1831年-1867年)の第2皇子・睦仁親王で、1868年に京都御所で即位礼、1871年に東京の皇居で践祚大嘗祭(だいじょうさい)を行った。

 孝明天皇は天然痘が原因で崩御したとされるが、ヒ素毒殺説もあり岩倉具視(1825年-1883年)などが疑われている。
 これには異説があり、孝明天皇は崩御(1867年)と称して京都堀川6条の堀川御所に入り、ウラ天皇になったと云う。更に明治天皇は孝明天皇の皇子ではなく、長州藩奇兵隊士で南朝後醍醐天皇の末裔である大室寅之祐に明治天皇は取り替えられたと落合莞爾氏(1941年~)が主張している。
 睦仁親王は大室寅之祐とすり替わり、孝明天皇と同じく堀川御所に入ったと云う。堀川御所は西本願寺の北にあったが現存せず、今は西本願寺の駐車場になっている。

 私見ですが、薩長土肥(薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩)と一部公家の倒幕運動に対して、孝明天皇と睦仁親王の公武合体論は相容れなかったことが事件と関係あるでしょう。
 落合莞爾氏の著書は多いですが、『明治維新の極秘計画「堀川政略」と「ウラ天皇」』の動画を見ました。動画は3回に分かれていて、1回分は1時間20分以上の長さでした。
 内容全部が正しいとは限りませんが、古代から現代に至るまでの詳しい解説があり参考になりました。既に動画サイトは閉鎖されています。

 戦後の1947年、GHQ(General Headquarters、総司令部)の指令により皇室財産が国庫に帰属されたため、昭和天皇の実弟である秩父宮(1995年断絶)、高松宮(2004年断絶)、三笠宮(男子不在)の3宮家を残し、他の11宮家の51名は皇籍離脱した。
 旧皇族の11宮家は伏見宮、閑院宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、久邇宮、賀陽宮、東伏見宮、
朝香宮、竹田宮、東久邇宮。

 皇室典範第1章第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とある。皇族が限定され、皇族数が減少した戦後の皇統を維持するのは困難になっているが、政府はその場しのぎの対策しか打ち出せない。
 国民には女性天皇を認める意見も多いが・・・
 皇室典範第2章12条では、皇族女子が皇族以外の者と婚姻すると皇族の身分を離れることになっているので、秋篠宮眞子内親王も結婚後に皇籍離脱になります。女性宮家の創設も検討事項として考えられているが・・・
 また13条では、男性皇族が皇籍離脱するときはその子孫も同時に離脱することになっている。
私見ですが、12条、13条は変更する必要があるのでは? 旧宮家の皇籍復帰も必要と考えています。
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# by enki-eden | 2017-06-07 00:17

東明八幡神社(とうみょうはちまんじんじゃ、神戸市)

兵庫県神戸市東灘区御影塚町2丁目9-2  電078-857-7562
境内に車を停められます。
祭神 応神天皇(363年-403年)

 当社の西隣に4世紀築造の処女塚古墳(おとめづかこふん、70mの前方後円墳)がある。被葬者は美しい乙女で、その乙女と結婚しようとした二人の若者の墓が2.1km西方にある西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)と1.6km東方にある東求女塚古墳だと云う。
 西求女塚古墳(神戸市灘区都通3-1)は3世紀後半築造の前方後円墳(98m)、東求女塚古墳(神戸市東灘区住吉宮町1丁目9)は4世紀後半築造の前方後円墳(80m)で、出土品からどちらの古墳も相当な勢力の首長の墳墓と考えられる。
 西求女塚古墳も東求女塚古墳も処女塚古墳の方を向いているので恋物語が作られ、「菟原処女の伝説」として万葉集、大和物語、謡曲(求塚)、森鴎外の「生田川」などに取り上げられている。
 赤のアイコンが東明八幡神社と処女塚古墳、黄が西求女塚古墳、青が東求女塚古墳。



 神社の由緒によると、神功皇后(321年-389年)が新羅へ遠征の時に、武内宿禰が皇后の健勝を祈って当地に植えた若松が、枝葉も繁りまたたく問に大木に育った。
 後年、当地を訪れた武内宿禰はこの瑞兆により、応神天皇の偉徳を称え、松の傍に祠を建て神霊を勧請して「正八幡宮」と称し、遠目郷(とおめのさと、東明村・現御影塚町)の鎮守とした。
 その後、貞観の代(9世紀後半)に宇佐八幡宮の御神霊を京都男山の石清水八幡宮へお遷しの時、鳳輦(ほうれん、金の鳳凰の飾りを付けた神輿)が当社で休息されたと伝えられており、古来より厄除、息災、願望成就の神として近郷より篤く崇敬されている。
 石清水八幡宮については、2016年12月2日投稿の「石清水八幡宮」をご参照ください。

 東明八幡神社の説明によると、「武内宿禰が当地に松を植えたのは1,700年前」になっている。私見では武内宿禰の生年は西暦310年頃と見ているので、ほぼ同じ見方だと思います。

   入口の鳥居
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   拝殿
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 武内宿禰が植えた松の木は、江戸時代になって幹周り5m以上の巨木となり、「武内松」 と呼ばれ摂津名所として知られた。
   立ち寄りて いざ言問わん この里の 社の松に 古き昔を
                       (大中臣為村)

 この松は明治の初めに枯れたので、その一部を保存し、横に2代目の松を植えている。 奥の祠の中に1代目の松があり、左に現在の2代目の松が植えられた。
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 浅香稲荷社(あさかいなりしゃ)、境外摂社であったが明治中期に境内に遷した。心身健全、芸能成就、商業繁栄の神。
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 高良宮(こうらぐう、祭神は武内宿禰)、厄除けの神。当社では1月18日と19日に厄除祭が執り行われる。
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# by enki-eden | 2017-05-31 00:17

櫨谷諏訪神社(はせたにすわじんじゃ、神戸市西区)

兵庫県神戸市西区櫨谷町(はせたにちょう)長谷(はせ)75   電078-991-1034
無料駐車場あります。

祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)、
   誉田別命(ほむたわけのみこと)、事代主命、天児屋根命、
   大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)。

創建
 鎌倉時代の1264年に櫨谷城主の衣笠法眼為が信州諏訪大社より寺谷地区(櫨谷町東部)に勧請したが、毎夜のように長谷村の山の樹上に光り物が現れるようになり、神社の位置を現在地に移したところ光り物が現れなくなったと云う。

 櫨谷(はせたに)の地名由来は、櫨蝋(はぜろう)の生産が盛んであったと云われるが、由来は「櫨」ではなく、「長谷」だと考えられる。
 長谷(はせ)は、山間の細長い地域は長谷(はせ)と呼ばれることが多く、山の間を川が流れている。当地にも櫨谷川(はせたにがわ、はぜたにがわ)が流れており、明石川に合流している。



 祭神の建御名方命の父は大国主命、母は高志の沼名河比売命。建御名方命は出雲の国譲りに反対して抵抗したが、建御雷神(たけみかづちのかみ)に負けて信濃国諏訪に逃れた。
 后神の八坂刀売命の父は天八坂彦命で、西暦185年頃の饒速日尊東遷に従い、伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)の祖となる。
 八坂刀売命の父は綿津見神と云う説もある。

   鳥居から境内を望む。
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 拝殿は北向きになっている。
 当社の6km北方に建御名方命の父神・大国主命を祀る神出神社(かんでじんじゃ)が鎮座しているが、そちらを向いているのか? 諏訪大社も北向きと云うが正確には西北西を向いている。
 神出神社の祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命(大国主命)。神出神社については、2013年5月10日投稿の「神出神社」をご参照ください。
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   本殿
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   拝殿右に神明社(天照大御神)
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   天満宮(菅原道真公、学問の神様)
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   稲荷社(宇迦之御魂神、農商工業の神様)
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# by enki-eden | 2017-05-23 00:28

櫨谷神社(はぜたにじんじゃ、神戸市西区)

兵庫県神戸市西区櫨谷町福谷3-1  無料駐車場あります。
祭神:
 国常立命(くにのとこたちのみこと)、
  江戸時代元禄の頃に編纂された明石藩采邑(さいゆう)私記には天香香背男命(星神)と
  なっている。
 大日孁命(おおひるめのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
 建御名方命(たけみなかたのみこと)、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、
 吉備津彦命(きびつひこのみこと)、誉田別命(ほむたわけのみこと、15代応神天皇)。



創建:
 33代推古天皇11年(603年)9月9日に櫨谷庄の産土神として創建された。
 当社背後の杜は彗星(隕石)落下の謂れのある霊山で、当社は妙見宮と称していた。妙見信仰は神社とお寺が合体した形態だったので、明治の神仏分離令により櫨谷神社と改称した。
 明治以降の妙見神社は祭神を天御中主神(北極星)、国常立尊、北極星などとする。
 当社の彗星伝承により明石藩采邑私記には祭神に天香香背男命(星神)が記されたか。

 1989年より神戸市垂水区の海神社の兼務社として宮司・神職の奉仕を賜っている。海神社については2013年9月15日投稿の「海神社」をご参照ください。

 櫨谷の地名由来の一つに、当地は「櫨蝋(はぜろう)」の産地であったと云うものがあり、ハゼの木は450年ほど前に中国から九州に種子を輸入し栽培され始め、全国に広がった。
 縄文時代からあった漆(うるし)の木の樹液は漆器に塗る材料になったが、漆の実は絞って木蝋(もくろう、ワックス)として使われた。
 ウルシ科のハゼの実から蝋燭を作るようになったのは戦国時代末期からになる。「はせたに」の地名はそれよりずっと古いので、長谷(はせ)から櫨(はせ、はぜ)に変わったと考えられる。
 山間の細長い地域は長谷(はせ)と呼ばれることが多い。由来は奈良県桜井市の「長谷(ながたに)の初瀬(はせ、はつせ)」という枕詞から長谷(ながたに)を「はせ」と云うようになった。

   鳥居と社号標
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 階段を登ると社殿。左側の登山口から社殿背後の妙見山(168m)に登れる。
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   本殿
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   神紋は「丸に並び瓶子(ならびへいじ)」
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 源義経(1159年-1189年)が1184年の「ヒヨドリの逆落とし」の途上、一行100騎余りを当社(妙見宮)に駐屯させ本陣とした。義経が作戦を練るために腰掛けた「腰掛石」が境内にある。
   櫨谷の 杜(もり)に拝(まい)らば 神(み)を鎮(しづ)め
   みごと射止めよ 結願(けちがん)の的(まと)
 
 中央に歌碑と右に祈願石、左に腰掛石。
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 右の末社は四体末社(末社を合祀)
 右から天王大神(雨乞いの神)、
 稲荷大神(農業神・商業神・食物神・屋敷神・殖産興業神)、
 猿田彦大神(道祖神・天狗)、牛頭天王大神(疫病の神)。
 左の末社は妙見宮
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 身代わり不動
 この狛犬は1995年の阪神淡路大震災で損傷した。周辺も甚大な被害を受けたが、当社の被害は比較的少なかった。それで、損傷した狛犬さんがお守りくださったと云い伝えられ、現在は「身代わり不動」として拝殿の左側に移され鎮座している。
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 私見ですが、当社祭神の国常立命は西暦元年生まれの初代奴国王で、西暦57年に後漢に朝貢した漢委奴国王と見ています。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 国常立命については、2015年8月24日投稿の「日本書紀の神武天皇年」をご参照ください。  
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# by enki-eden | 2017-05-15 00:58

六甲八幡神社(ろっこうやはたじんじゃ、神戸市灘区)

神戸市灘区八幡町(なだく やはたちょう)3丁目6-5  電078-851-7602
有料駐車場がありますが参拝者は社務所で割引券をいただきます。
祭神: 八幡大神(15代応神天皇)、天照大神、春日大神。

「厄神さん」と呼ばれ、境内は広く森が深い。
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 1180年、平清盛(1118年-1181年)が福原遷都の時に京都・石清水八幡宮から勧請し、地名も八幡に改めたと云われる。石清水八幡宮については2016年12月2日投稿の「石清水八幡宮」をご参照ください。
 また、豊前の宇佐八幡宮から勧請したとも云われるが、宇佐神宮祭神の比売大神(宗像三女神)が当社では天照大神に代わった可能性がある。
 私見ですが、比売大神は元々は天照大神ではないかと見ています。下の系図にある「天照大神①」です。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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   石の鳥居と社号標
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   拝殿(右に社務所)
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   本殿は奈良・春日大社の旧社殿(安土桃山時代)を移築した。
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   手水舎の龍
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   摂社・厄神宮、県指定重要文化財。
   春日大社の社殿を移築するまではこの社が八幡社の本殿であった。
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   庚申社(こうしんしゃ、猿田彦神)
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   金比羅宮(大物主神)
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   稲荷宮
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 私は学生時代、当社の北に隣接する阪急電車神戸線の六甲駅で降りて大学へ通っていました。卒業して52年になりますので周辺の街並みも大きく変わっています。
 JR大阪駅の変貌ぶりは凄いですね。株式投資セミナーなどで時々大阪へ行きますが、行くたびに変わっています。
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# by enki-eden | 2017-05-09 00:19

熊野神社(神戸市兵庫区熊野町)

兵庫県神戸市兵庫区熊野町3丁目1-1 電078-511-2928 無料駐車場あります。
祭神:  伊弉諾命、伊弉冊命。
ご神徳: 縁結び、福徳延命、事業創設。

 「夢野の権現さん」と呼ばれる。
 当社南部が夢野町となっているが、旧・夢野村の範囲はもっと広い。古代では朝廷の禁猟地になっており、禁野(いみの)が夢野になったのではないかと云われる。
 現在の当地は住宅密集地になっているが、古代では六甲山系の麓の原野で鹿やイノシシなどが多かった。現在でも六甲山系の麓では時々イノシシが住宅街に現れることがある。
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 摂津国風土記逸文に、『昔、夢野(神戸市兵庫区)に夫婦の鹿がいて、牡鹿には淡路島の野島(のじま)に妾の鹿がいた。ある夜、牡鹿は背に雪が降り、すすきが生える夢を見た。
 妻の牝鹿は夢判断をして、矢で撃ち殺されて塩を塗られる前兆だと云って牡鹿が妾のもとに行くのを止めた。
 それでも、牡鹿は淡路島に泳いで行き、途中の海で船人に見つけられて射殺された。』とある。

 昔も今も、浮気の結果は悲惨なことになりますねぇ。ことわざにある「夢野の鹿」の意味は「悪い予感や心配事が、その通りになってしまうこと」。

 神社の由緒によると、平清盛(1118年-1181年)が福原遷都の際、皇城鎮護の神として、後白河法皇(1127年-1192年)のご崇敬の厚い紀州熊野権現を勧請し、東向きに奉鎮した。
 しかし、まもなく京都に還幸になったので地元夢野の住民が産土神として尊信するようになった。

  南向きの石の鳥居、後ろの山は六甲山系。
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  拝殿、東北東向きで「東向きの権現さん」とも云われる。
  熊野神社は一般的に「南東向き」が多いのではないでしょうか。
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  本殿、流れ造り、銅板葺。
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  社殿右手前に「力石」、石囲いと石碑の間に楕円形の力石が見える。
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  社殿右に大神宮社(天照皇大神)
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 大神宮社の隣に荒木稲荷神社(稲荷大神、商売繁栄)、
 京都伏見稲荷大社裏の稲荷山に鎮座する荒木神社(縁結び)から勧請された。
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 本殿後ろに金比羅神社(大物主神)。
 夢野村の山に祭祀されていたが、明治初期に当社に移築された。
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 祇園神社(素戔嗚神)、蛭子神社(蛭子神)、春日神社(天児屋根命)、
 八幡神社(応神天皇)、猿田彦神社(猿田彦大神)、地主神。
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  古殿神社(額田大中彦命、応神天皇の皇子)、大正時代に氷室町から移転。
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  牛神社(豊受姫大神)、昭和43年に熊野町5丁目から合併祭祀される。
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# by enki-eden | 2017-05-03 00:47

河内國魂神社(かわちのくにたまじんじゃ、神戸市)

兵庫県神戸市灘区国玉通3丁目6-5  078-861-0587  駐車場なし。
摂津国莵原郡(うばらぐん)鎮座
祭神 大己貴命、少彦名命(国土経営、民生安定、医薬、酒造、縁結びの神様)、
   菅原道真公(学問の神様)。

 当社は菅原道真(845年-903年)の没後、霊を勧請合祀して五毛天神と称した。

 古地名「五毛」は胡麻生(ごまう)の当て字として使われていたが、当地は水田がなく胡麻を栽培していたので胡麻生と云った。その地名由来で当社は五毛天神とも呼ばれる。
 また、当地は摩耶山(702m)の麓の傾斜地にあり、女人守護・女人高野と云われる摩耶山天上寺の寺領として胡麻を絞って灯火用油を作っていた。
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 祭神の大己貴命は大国主命と同神と考えられる。大己貴命は西暦160年頃に出雲国で出生、素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の末娘・須世理姫と結婚、素戔嗚尊が亡くなると大己貴命は素戔嗚尊の後継者となるが、高皇産霊尊に北部九州の出雲族支配地(葦原瑞穂国、葦原中国)を奪われ、高皇産霊尊の娘・三穂津姫と結婚して出雲国に戻る。

 大己貴命(大国主命)は八上姫、沼河姫、神屋楯姫、田心姫など多くの女性と結婚、181人の子ができたので、縁結びの神として信仰されている。
 また、大国主命は少彦名命と力を合わせて国土開発・病気治療を進めたが220年頃に亡くなる。

 河内国魂神社は河内国・和泉国・摂津国に勢力を有していた国造の凡河内氏(おおしこうちし)が奉斎していたが、当社の祭神は大己貴命と少彦名命で、凡河内氏祖神の天津彦根神や天御影命ではない。
 天津彦根命は素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)により生まれた男神5柱のうちの1柱で、子の天御影命は西暦185年頃の饒速日東遷に従って大和にやってきた。
   天津彦根命――天御影命――意富伊我都命――彦己曽根命(凡河内国造)
 凡河内氏は大和朝廷の港湾管理や海外との外交を担っていた。
 28代宣化天皇(6世紀前半)の妃に大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)があり、火焔皇子(ほのおのみこ)を生んだ。椎田君(しいだのきみ)の先祖となり、尼崎・伊丹地方を治めた。

 当社の創建時には摂津国造の凡河内忌寸(いみき)の祖・天御影命を祀っていたとも云われる。また、18世紀に奉行所から社名を五毛天神から河内國魂神社に代えるように強制されたと云う説もある。
 当社の東2.6kmの綱敷天満神社が河内国魂神社だと云う説もある。2014年10月12日投稿の「綱敷天満神社」をご参照ください。

   石の鳥居と社号標
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   手水舎の青銅唐獅子が面白い。
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   拝殿
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   奥に本殿
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   遥拝所、東の伊勢神宮に向いている。
   東隣りは曹洞宗の海蔵寺で五毛天神の神宮寺であった。
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 本殿左に厳島大神(市杵島姫命)と箕岡大神(みのおかおおかみ、伊弉冊命)が明治の終わり頃に当社へ移転・合祀された。
 手前は菅原道真公ゆかりの牛の石像。
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 本殿右に荒川稲荷神社、
 もとは箕岡神社(みのおかじんじゃ)の末社であったが箕岡大神と共に当社へ移転・合祀された。
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# by enki-eden | 2017-04-26 00:46

肥前国風土記

 神八井耳(神武天皇の子)の子孫の志貴多奈彦(しきたなひこ)の子・遅男江(ちおえ)が10代崇神天皇に火国造(熊本県中部)に任じられた。
 健磐龍命(たけいわたつ、熊本県阿蘇市の阿蘇神社の祭神)を火国造の祖とする説もある。阿蘇神社では健磐龍を神八井耳の子としており、健磐龍は阿蘇国造の祖と考えられる。
 阿蘇神社(肥後国一宮、阿蘇治隆宮司)は2016年4月に頻発した熊本地震の横揺れで楼門が倒壊、拝殿が全壊、神殿が損壊した。現在復旧工事を進めており、奉賛(募金)も募っている。

 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、「阿蘇」の地名由来は「麻」で、「宇佐」の地名由来も「麻」となっている。
 古事記には火の国を筑紫島の四面の一つ、建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)としている。

 火の国の由来
 肥前国風土記と肥後国風土記逸文によると、益城郡(ましきぐん)の土蜘蛛(つちくも)が天皇に背いたので、10代崇神天皇が健緒組命(たけおくみのみこと)に討たせた。
 その後、健緒組が国内巡察して白髪山(しらかみやま、1,244m、球磨郡五木村)に着いたとき、夕暮れ空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告した。天皇は「火の下る国であるから火の国というべし」と云われ、健緒組に「火の君」の姓を賜った。
 健緒組は佐賀県武雄市の武雄神社(祭神:武内宿禰、武雄心命ほか)と繋がりがあるようだ。武雄神社の本来の祭神は健緒組命であったとも云うが、健緒組命は武雄心命(武内宿禰の父)であるとも云う。健緒組は年代的には武雄心の父の家主忍男かもしれない。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 日本書紀によると、12代景行天皇が5月、葦北(あしきた、熊本県葦北郡)より船出して日暮れになった。その時、遠方に火の光を見つけて着岸した。そこは八代県の豊村であった。火の光の主を問うと、主は不明で人の火ではなかったので、その国の名を火の国と名付けた。
 肥後国風土記逸文にもこれに似た記事が載っている。

 火の国の地名由来としては阿蘇山(1,592m)の噴火、八代海の不知火(しらぬい、蜃気楼)、氷川町氷川(火川)、火打ち石の産地などの説もある。現代でも観測される隕石の火球かもしれない。
 また、八代郡肥伊郷(八代郡氷川流域)に古代の多氏の流れを汲む火君(ひのきみ)と呼ばれる有力豪族がいたことに由来するとも。

 私見ですが、火(肥)国の語源は羋(び)の国かもしれないと考えています。中国における春秋戦国時代の楚の国姓は羋(び)で、王の氏は熊(ゆう)です。紀元前221年に秦始皇帝が全国を統一、紀元前206年に秦が滅亡、楚は漢と覇権を争って楚漢戦争(項羽と劉邦、BC206年-BC202年)に敗れ滅亡。楚人の一部が列島に逃れた。
 私は逃れて来た楚人の羋国が火(肥)国になったのではないかと考えています。王の氏・熊(ゆう)が由来となって熊本、隈本、球磨川などの地名が発生したのでは? 
 肥後国は14世紀頃から「隈本(くまもと)」と呼ばれていたが、1607年に加藤清正が築城の際、「熊本」に変えた。
 3世紀には狗奴国として魏志倭人伝に記され、有明海の制海権や領土紛争などで邪馬台国と争った。狗奴国は魏ではなく呉と交易していたと考えられる。
 私は吉備国の「キ」は呉の姫(き)で、「び」は楚の羋(び)で両者合わせて「きび」になったとも考えています。有明海地方と吉備地方はどちらも楚人のDNAが多く認められます。

 人吉市や山鹿市の横穴式墳墓は揚子江(長江)沿いの江南人の墳墓に同じ。装飾文様にも特色がある。
 紀元前の江南地方の墓制に石棚墓があり、下には甕棺が埋葬されている。この石棚墓は江南人(倭人)により縄文時代末期から弥生時代前期にかけて九州北西部に伝わり、支石墓(しせきぼ、ドルメン)と呼ばれている。
 朝鮮半島にはテーブル式支石墓が遼東半島から伝わり、支石墓が爆発的に造られた。渡来経路は遼東半島からなので北部から南部へ広がっていった。朝鮮半島南西部は北部と違って支石の低い南方式(碁盤式)支石墓と呼ばれ九州と似た形になっている。
 2,500年ほど前から波状的に江南人(倭人)が北部九州にやって来たが、朝鮮半島南部海岸地域にもやって来て小国家群を建てた。


 肥の国はやがて、現在の佐賀県・長崎県(壱岐、対馬を除く)の地域をも含むようになるが、41代持統天皇の7世紀終わりごろに肥前国(佐賀県、長崎県)と肥後国(熊本県)に分けられた。
 肥前国府は佐賀郡大和町(現・佐賀市大和町)に置かれたが、肥前国庁跡の史跡公園として整備されている。肥前国庁跡の11km東には吉野ケ里遺跡があり、周辺地域は弥生時代からの中心地であった。
   赤のアイコンが肥前国庁跡の史跡公園


 肥前国一宮は佐賀市大和町の與止日女神社(よどひめじんじゃ、祭神は與止日女命)と三養基郡みやき町の千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう、祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后)で、両社の鳥居はどっしりとした肥前鳥居である。千栗を「ちりく」と読む。

 肥前国風土記の基肄郡(きいぐん、佐賀県鳥栖市)の姫社郷(ひめこそのさと、鳥栖市姫方町)条には、山道川(やまぢがわ、現・山下川)の西に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を殺していた。筑前国宗像郡の珂是古(かぜこ)が幡を投げて占うと、幡が筑後国御原郡(福岡県小郡市大崎)の姫社(ひめこそ)の社(媛社神社、通称七夕神社、祭神は媛社神と織姫神)に落ちて、祀りを求める神の居場所を示してから、また山道川に戻った。媛社神(岩舟大明神)は饒速日命の別名と云われる。
 珂是古はその夜、夢で神が女神であることを知り、社を建てて祀ったので人が殺されることがなくなった。
 鳥栖市姫方町には姫古曽神社(祭神は市杵島姫命、織女神)が鎮座。姫古曽神社の東3kmに七夕神社が鎮座。この繋がりから、饒速日と市杵島姫は夫婦ではないかと云う説がある。
 山下川沿いに姫古曽神社の北1.5kmには景行天皇が鎧を奉納した永世神社(ながよじんじゃ)が鎮座している。
 基肄の地名は魏志倭人伝記載の支惟(きい)国ではないでしょうか。

 肥前国風土記によると、神埼郡の三根村を本拠地とする海部直鳥が神埼郡を割いて三根郡を分立した。海部直鳥は筑後川から有明海の制海権・交易権と漁業権を統率していたと考えられる。
 三根郡物部郷(佐賀県三養基郡みやき町)には物部神社(経津主神)が鎮座。地名の三根は魏志倭人伝記載の弥奴国かもしれない。

 肥前国風土記は神埼郡の郡名起源として、景行天皇が荒ぶる神を鎮めたので神埼の郡と云う。神埼市神埼町神埼に鎮座の櫛田宮の略記には、『当地方に荒神があって人を害したが、景行天皇が櫛田宮を創建されてから人民は幸せになったので、神幸郡と名付けた。
 蒙古襲来の時は、本宮の神剣を博多櫛田神社に奉還して異族退散を祈り霊験あらたかであったので、厄除け開運の神と崇敬されるようになった。』とある。
 鳥居はどっしりとした肥前鳥居です。

 肥前国風土記の松浦郡褶振峯(ひれふりのみね)条には、28代宣化天皇の時代(537年)に大伴狭手彦連(大伴金村大連の三男)が船で任那へ向かった時、妻(地元豪族の娘)の弟日姫子(おとひひめこ)が褶振峯(鏡山、佐賀県唐津市、284m)に登り、褶を振って狭手彦の魂を呼んだことからその名が付いたと云う。
 この地名起源譚は万葉集に松浦佐用姫(さよひめ)の伝説として歌われている。
  松浦潟 佐用姫の児が 領巾(ひれ)振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ
                          5-868 山上憶良

 鏡山(褶振峯)に松浦佐用姫の黒い陶製像があるが、像の人気はもうひとつである。唐津市呼子町加部島(よぶこちょうかべしま)の天童岳(112m)にも唐津焼の佐用姫像があり、唐津市厳木町(きゅうらぎまち)の道の駅厳木(きゅうらぎ)にも白い大きな佐用姫像があって、像は回転するようになっている。
 加部島には田島神社が鎮座、祭神は宗像大社と同じ田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊。境内に佐與姫神社(祭神は佐用姫命)が鎮座。
 田島神社の鳥居の中に最古の肥前鳥居があり、肥前守源頼光(944年-1021年)が990年頃に寄進したので頼光鳥居とも云う。これが肥前鳥居の始まりか。

 江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町江田、国の史跡)
 5世紀末頃(21代雄略天皇の時代)に築造された全長62mの前方後円墳で、75文字の銀象嵌銘大刀や銅鏡など豊富な副葬品(国宝)が出土した。有明海に注ぐ菊池川沿いの古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置され、八女市の岩戸山古墳と同様の形式になっている。
 被葬者は筑紫君一族の配下にあった首長だと考えられており、5世紀後半、6世紀初め、6世紀前半の3名以上(ムリテほか)が埋葬されたと考えられている。従って副葬品が非常に多い。
 

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# by enki-eden | 2017-04-19 00:26

肥後国風土記逸文

 肥後国名の由来について13世紀後半完成の釈日本紀に、
 『肥後国風土記に曰く、肥後国は元、肥前国と合わせて一つの国であった。10代崇神天皇の時代に、益城郡(ましきぐん)の朝来名(あさくな)の峰(朝来山、あさこやま、465m)に打猿(うちさる)と頸猿(うなさる)と云う名の二人の土蜘蛛がいた。
 180人ほどの部下を率いて朝来名峰を拠点とし、朝廷に逆らって征伐できない。天皇の勅を受けて肥君の祖である健緒組(たけおくみ)命が賊を誅殺した。
 健緒組が国を巡察し、八代郡の白髭山に来ると日が暮れたので宿泊した。その夜、大空に火が出た。その火は自ら燃え、徐々に下って白髭山に落ちて消えた。健緒組は大いに驚き、事の次第を天皇に報告した。天皇は火の下りし国なれば、火の国と名づくべしと言われた。
 また、12代景行天皇が熊襲を誅殺された後、巡幸されたが海上で日が暮れてしまった。すると行く先に火の光が見え、その方向に舵を取ると岸に着くことができた。天皇は火の燃えるところはどこで、如何なる火なのかと聞かれた。土地の人が、ここは火の国八代郡の火の村ですと答えたが、何の火かは分からないと云った。
 天皇は、燃える火は人の火ではない、この火が火の国の地名由来だと分かったと言われた。』とある。

 私見ですが、魏志倭人伝記載の狗奴国は肥後国(熊本県)と考えています。女王国の南に狗奴国があり、女王国に属せず常に争っていた。首長は狗古智卑狗(菊池彦)で、菊池川が熊本県菊池市から玉名市に流れて有明海に注ぐ周辺地の出身か。



 肥後国の郡名は、玉名郡、飽田郡(あきたぐん)、山鹿郡(やまがぐん)、菊池郡、阿蘇郡、合志郡(ごうしぐん)、山本郡、託麻郡(たくまぐん)、益城郡、宇土郡、八代郡、葦北郡、球磨郡、天草郡。
 肥後国の中心地域は託麻郡と飽田郡(現在の熊本市)で国府や国分寺が置かれた。

 健緒組は熊本市東区健軍本町(けんぐんほんまち)の健軍神社(けんぐんじんじゃ)と繋がりがある。祭神は健軍大神(健緒組命)、健磐龍命(阿蘇山の神)。
 社殿は西向きで、神水(くわみず)1丁目交差点に石の鳥居があり、東へ550m行くと健軍交差点に加藤清正公銅像が目に付く。信号を渡ると「健軍神社参道」の標識があり、神社の神門まで750mもある。参道は一般道を兼ねているが参道の両側には灯篭が連なっている。神門前にも鳥居があるが、珍しい形で高さが低く幅が広い。
 地元では健軍神社を「たけみやさん」と呼ぶらしい。「たけみや」を昭和以降に「けんぐん」と音読みするようになった。

 釈日本紀は阿蘇山(閼宗岳、あそのたけ)について、「筑紫国風土記に曰く、肥後(ひのみちのしり)の国閼宗(あそ、阿蘇)の縣。縣の西南方向二十余里に禿山があり、閼宗の岳と云う。
 山頂に沼があり、時々水が満ち、南から溢れ出て白川に流れ込むと魚が死んでしまう。地元では苦水と云う。山の形はそびえ立って天に届き、諸々の川の源となり、徳は大きく高く真に人のようだ。奇しき形は天下に二つ無し。国の中心にあるので中岳と云う。いわゆる閼宗の神宮(かむつみや)、是なり。」とある。

 阿蘇文書に、「肥後国風土記に曰く、12代景行天皇が玉名郡の長渚の濱を出発し、阿蘇郡に行幸し、周囲を眺めたが原野が広いだけで人家が見当たらない。この国に人は居るのかと言われた。
 すると二柱の神が現れ、我らは阿蘇都彦と阿蘇都姫、我らが住んでますよと云って消えた。神名により当地を阿蘇郡と名付けた。二柱の神の社は阿蘇郡の東に鎮座している。」

 阿蘇宮由来記によれば、神武天皇の皇子・神八井耳命の子である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇に封じられ、阿蘇都彦と称して阿蘇に土着。その子・速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が阿蘇国造に任ぜられ阿蘇氏の姓を賜った。
 阿蘇氏は阿蘇国造や阿蘇郡司として当地を支配し、阿蘇神社の宮司を兼ねた。現在も大宮司は阿蘇氏である。
 阿蘇神社は熊本県阿蘇市一の宮町(阿蘇山北麓)に鎮座、肥後国一宮で祭神は健磐龍命(阿蘇都彦)と阿蘇都比咩命。全国に450社ある阿蘇神社の総本社となっている。
 残念ですが、阿蘇神社は2016年4月の熊本地震で楼門が倒壊、拝殿が全壊、神殿が損壊した。

 阿蘇山は火の国熊本のシンボルで、高岳(1,592m)を最高峰に、根子岳(1,433m)、中岳(1,506m、火口が有名)、烏帽子岳(1,337m)、杵島岳(1,321m)の阿蘇五岳とこれを取り囲む外輪山からなっている。
 阿蘇山から熊本市中心部へは白川と緑川が流れて有明海に注ぐ。

 阿蘇山は過去30万年の間に4度の大噴火を起こしている。その度に火砕流堆積物が積り、火山灰や軽石などが堆積した。阿蘇山に降った雨が地中の分厚い火砕流堆積物を通って36km西の熊本市中心部に湧水として湧き出てくる。
 このため、熊本市では水に関する地名が多い。熊本市中央区「神水(くわみず)」は健軍神社の西に在り、神水泉と称する湧水があったことによる。
 熊本市は地下水が豊富で水道水の全て(1日に22万㎥)を地下水で賄っている。健軍神社の南方には熊本市東区「水源」がある。水源1丁目1-1に健軍水源地があり、地下水で熊本市の使用量の四分の一を賄っている。
 このように阿蘇山の傾斜が熊本市中心部の平地にぶつかった所で湧水が発生し、井戸を掘ると豊富な地下水が湧いてくる。
 熊本地震で被害を受けた南阿蘇村でも湧き水が豊富で、断水した時の生活を支えている。しかし被災地では温泉の源泉が枯れたり、湧き水の名所で水が出なくなったりする異変が生じている。大きな地震が何度も相次いだことで地下水の流れに変化が起きた。水の名所として有名な「水前寺成趣園」(熊本市中央区)も一時、池の大部分が干上がった。

 熊本市は「森の都」とも云いますが「水の都」です。大阪市も水の都と云われますが、地下水ではなく川や運河による水運です。

 日本書紀に景行天皇が葦北の小島(八代市の球磨川河口)で休息して食事の時、水が無かったので小左と云う者が神に祈ったところ冷水が湧き出たので天皇に献上した。それでこの島を水嶋と呼ぶようになったとある。
 万葉集に水島を詠っているものが数首ある。
    聞きしごと まこと尊く 奇しくも 神さびをるか これの水嶋
           巻3-245 長田王(おさだのおおきみ、737年没)


 肥後葦北国造の三井根子命(みいねこのみこと)の子に刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)がおり、出雲国神門郡高岸郷(出雲市塩冶町)には式内社の阿利神社が鎮座し、味耜高彦根命が祀られている。
 葦北国造は出雲系と考えられる。西暦200年頃の出雲国譲りから150年ほど経った12代景行天皇や13代成務天皇の時代になると出雲系の国造が増えてくる。
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# by enki-eden | 2017-04-14 00:25

豊後国風土記

 豊国(とよのくに)は福岡県東部から大分県にまたがる。42代文武天皇の時(西暦700年前後)に豊国は豊前国(ぶぜんのくに)と豊後国(ぶんごのくに)に分けられた。



 豊後国風土記は、720年に完成した日本書紀を参考にしながら豊後の国司が地元の伝承を修正して記したと云う。
 現存する風土記の写本は出雲国風土記がほぼ完本、一部欠損するが残っているのは播磨国風土記、豊後国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記である。他の風土記については後世の書物による風土記逸文により部分的に内容を知ることができる場合がある。

 天平年間に災害や天然痘が多発し、741年(天平13年)に45代聖武天皇(701年-756年)が仏教による国家鎮護のため、「国分寺(国分僧寺と国分尼寺)建立の詔」を出したが、国司によっては国分寺造営に熱心ではなかった。しかし、豊後の国司は忠実に大規模な寺院を建立した。
 聖武天皇は743年には東大寺盧舎那仏建立の詔を出している。

 12代景行天皇(285年頃-350年頃、纏向の日代宮)は菟名手(うなで)に豊国直(とよくにのあたい)の姓(かばね)を与えて豊国を治めさせた。菟名手は国前(くにさき)氏・豊国氏の祖。
 菟名手は7代孝霊天皇(240年頃-286年頃)の皇子・吉備津彦の子孫であると云われ、吉備津彦の母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)、別名は紐某姉(はえいろね)である。

 豊後国風土記によると、菟名手が「仲津郡に白鳥が飛来し、まず餅に化し、次に芋草に化して茂った」と景行天皇に報告し、芋を献上したので、「天の瑞物、土の豊草なり」と喜び、この地を豊国と名付けたと云う。

 豊後国府が置かれたのは大分郡(大分市古国府、ふるごう)でJR大分駅の1.3km南とされるが遺跡は見つかっていない。
 その後、国府は大分駅の1km北の府内(大分市荷揚町)に移り、戦国時代末には府内城(大分城)が築かれた。
   赤のアイコンが古国府(ふるごう)、黄が府内。


 豊後国は現在の大分県で、豊後国一宮は大分市寒田(そうだ)の西寒多神社(ささむたじんじゃ)と大分市上八幡(かみやはた)の柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)の二社となっている。
 西寒多神社の祭神は西寒多大神(天照皇大御神)、月読尊、天忍穂耳尊。配祀は応神天皇、神功皇后、武内宿禰ほか。
 柞原八幡宮の祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后で宇佐八幡宮の別宮と云われる。

 豊前国府は仲津郡(福岡県京都郡、みやこぐん)にあった。
 豊前国の総社は惣社八幡神社(福岡県京都郡みやこ町)、
 一宮は宇佐神宮(大分県宇佐市、八幡総本宮)。
   赤のアイコンが豊前国府跡公園と惣社八幡神社


 古事記の国生みによると、豊国は筑紫島(九州)の4面の一つ、豊日別(とよひわけ)と云う。
 豊後国は8郡44郷があり、日田郡(日高郡)、球珠郡(玖珠郡)、直入郡(なおいりぐん)、大野郡、海部郡(あまべぐん)、大分郡、速見郡(はやみぐん)、国埼郡(くにさきぐん、国東郡)である。

 日本書紀によると、13代成務天皇(311年頃-355年頃)は天下を安定させるために国郡(くにこおり)に長(おさ)を置き、県邑(あがたむら)に首(おびと・かみ)を置いた。
 先代旧事本紀の国造本紀によると、成務朝の御代に伊甚国造(いじみのくにのみやつこ、上総国・千葉県)と同祖の宇那足尼(うなのすくね)を豊国造(とよのくにのみやつこ)に任じたとある。
 出雲郡建部郷(松江市宍道町伊志見)に伊甚神社(いじむじんじゃ、伊自美社)があり、伊甚国造一族の斎祀る神社である。祭神は大年神、倉稲魂命、武御名方命(たけみなかたのみこと)。
 宇佐市安心院町(あじむまち)の「あじむ」の地名由来は、「葦生(あじぶ)」であるとか、松本清張説や地元伝承によると「安曇(あづみ)」であるとの説があるが、「伊甚(いじむ)」が由来かもしれない。

 また、宇那足尼と菟名手は同一人物と云う説もあり、同一人物であれば12代景行天皇からは豊国直の姓を賜り、13代成務天皇からは豊国造に任じられたことになる。
 私見ですが、2世紀前半の尾張氏・海部氏・和珥氏などの海人族の本拠地は豊国(魏志倭人伝の投馬国)であったと考えています。これらの海人族はここから全国に拡大していった。
 尾張氏・海部氏の祖・彦火明命(140年頃出生)の6世孫の建田背命(たけたせのみこと、230年頃出生)は孝霊天皇に仕え、別名は大宇那比命・高天彦で、弟に建宇那比命、妹に宇那比姫命がいる。
 成務天皇が豊国造に任じた宇那足尼(うなのすくね)は建田背命より80年ほど後の人であるが、海人族の豊国と「宇那」のつながりで見ると、宇那足尼・菟名手は尾張氏・海部氏ではないかと考えています。

 豊後国は山に囲まれているが東側は豊後水道に面し伊予国とつながり、北は周防灘を挟んで周防国に近い。そして瀬戸内海を東進すると大和朝廷に結び付く。

豊後国の郡
 日田郡は主として日田市で、12代景行天皇が日田郡を巡幸した時に、久津媛(ひさつひめ)の神が人と化して迎えたので久津媛国と名付けたのが日田国と訛った。
 日田郡の五馬山(いつまやま)に土蜘蛛の五馬媛(いつまひめ)がいた。五馬媛は玉来神社(たまらいじんじゃ)に祀られており、境内に墳墓(元宮神社)もある。
 日田は北部九州を治めるためには軍事的に重要な位置にあるので、大和朝廷は早くからこの地を重要視した。

 玖珠郡には大きな樟(くす)の木があったので名付けられた。

 直入郡(なおりのこおり、なおいりぐん)は竹田市の大部分で、阿蘇山の東の山間部にあり、反逆する土蜘蛛が住んでいたので景行天皇が土蜘蛛退治に出かけた。
 速見郡の速見媛から土蜘蛛情報を得て、椿の槌で土蜘蛛を殺した。凄惨な戦いであった。

 大野郡は豊後大野市で、大部分が原野であったので名付けられた。

 海部郡(あまのこおり、あまべぐん)は大分県の東南部にある海沿いの郡で海人族が多く住んでいた。中心は穂門郷(ほとのさと)で向かいに保戸島があり、豊後海人族の本拠地である。豊後水道に位置し、航行・軍事上の重要な拠点であった。塩土老翁(しおつちのおじ、事勝国勝長狭神)の故郷か。

 先代旧事本紀の天孫本紀・尾張氏系譜によれば、彦火明命(140年頃出生)の6世孫の建田背命(たけたせのみこと、西暦230年頃出生)は神服連(かむはとりのむらじ)・海部直(あまべのあたい)・丹波国造・但馬国造らの祖であると記す。
 建田背命の弟の建弥阿久良命(たけみあくらのみこと)は高屋大分国造(たかやおおきたのくにのみやつこ)らの祖であると記す。

 大分郡(おおいたのこおり)は大分市と由布市の大部分と別府市の一部で、景行天皇が巡幸した際に、土地が広く大きいので碩田国(おおきたのくに)と名付けたのが訛った。

 速見郡(はやみのこおり)には別府温泉があり、景行天皇が到着すると速見郡の女王・速津媛(はやつひめ)が出迎え忠誠を示す。それで速見と名付けた。
 大分県由布市では宇奈岐日女神(うなきひめのかみ)が湯布院盆地を開拓し、宇奈岐日女神社に祀られていたが、現在の祭神は男神6柱に替わっている。
 別府湾岸部の海人族は大和朝廷と早くから提携して交易を進め、富を蓄え古墳が多く、前方後円墳もある。

 国埼郡は国東半島である。景行天皇が海路で巡幸した際に、「国の埼である」と云ったので名付けられた。元禄時代に国埼郡は豊後国の東部にあるので国東郡の字があてられた。
 畿内政権との結びつきを示す最も古い古墳は国東市安岐町の下原(しもばる)古墳で、3世紀後半の纏向型前方後円墳(全長約30m)である。
 古墳時代になると杵築市狩宿(きつきし かりしゅく)に全長116mの前方後円墳・小熊山古墳が4世紀初頭に築造される。
 国東郡が瀬戸内海西端に位置しているので、古墳時代前期には大和朝廷との連携が最も深かった。しかし、4世紀後半から5世紀にかけて海部郡の佐賀関半島に中心が移り、築山古墳(つきやまこふん、全長90mの前方後円墳)、亀塚古墳(全長120mの前方後円墳、大分県最大)が築造されることになる。
 亀塚古墳の被葬者は海部王(あまべのきみ)とされ、丹生川沿いの亀塚古墳公園として整備され、海部古墳資料館も建設された。
 古墳時代中期末になると中心は豊前国(京都郡)に移るが、古墳時代後期には速見郡の別府湾岸部が中心となる。

 景行天皇が周防国娑婆(さば、山口県防府市)に居留していた時、対岸の国東半島・伊美(国東半島の北端、国東市国見町伊美)を毎日見ていた。一度伊美へ行ってみたいと思い、わざわざやって来た。そして国見をすると素晴らしい国であったので、遠隔地の国をやっと見ることができたと感動した。
 伊美郷の地名由来は景行天皇の「国見」が訛って「伊美」となったと云う。天皇に見出された国として豊後の国は位置づけられた。
 伊美の郷のある国埼郡は国前臣(くにさきのおみ)の本拠地である。国前臣の祖は菟名手であるが、先代旧事本紀・国造本紀によると、国前国造は13代成務天皇の時に吉備臣と同祖である吉備都命の6世孫の午佐自命(うまさじのみこと)を国造に定められたとある。
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# by enki-eden | 2017-04-06 00:07

比多国造(ひたのくにのみやつこ)

 比多国造は比多国(豊後国日田郡、大分県日田市周辺)の国造で、先代旧事本紀の国造本紀によると、
 『葛城国造(大和国西部)は神武朝の御世(初代神武天皇、3世紀初め)に剣根命(つるぎねのみこと、高皇産霊尊の5世孫)をはじめて葛城国造とした』、
 『比多国造は成務朝の御世(13代成務天皇、4世紀前半)に、葛城国造と同祖の止波足尼(とはのすくね)を国造に定められた。』とある。

 神武天皇紀にも剣根命を葛城国造にしたと書かれており、比多国造になった止波足尼は高皇産霊尊(高魂命)の子孫であり、葛城国造となった剣根命の子孫でもある。
 豊後日田(比多、日高)も高皇産霊尊を表す地名になっている。日田市は大分県だが筑後川の水運により福岡県・佐賀県・熊本県とのつながりも深い。



 日田には日下部(くさかべ)氏の本拠地があり、日下部氏が比多国造となったか。日下部氏は阿蘇の氏族、高良大社の社家、肥前佐用姫の氏族、隼人と同族の氏族ほか九州に散見されるが、9代開化天皇系で但馬国造の但馬日下部氏、吉備の日下部、播磨の氏族、皇族の御名代部(みなしろべ)の氏族など全国に広がっている。
 日向日下部氏は日向国司を務め、宮崎県西都市の都萬神社(つまじんじゃ、木花咲耶姫、日向国総社)の神官でもあった。近くに西都原古墳群もある。

金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡
(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう、国の重要文化財)
 この鉄鏡は1933年に地主の渡辺氏が発見し、日田市立三芳小学校に寄贈した。しかし、戦時中に盗難に遭い奈良の古美術商に渡る。これを考古学者の梅原末治氏(1893年-1983年)が購入。
 1964年に国の重要文化財に指定され、東京国立博物館の所有となる。

 梅原末治氏は1962年に発見者渡辺氏の案内で「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」が出土したと云う跡地を調査した。そして翌年の雑誌に「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が出土したのは大分県日田市日高町(ひだかまち)の通称ダンワラと云われる地にあった古墳の石室であった」と発表した。
 そのダンワラ古墳は30mほどの円墳だったと考えられるが、1933年の線路工事により破壊されていた。周辺には5世紀から6世紀頃の横穴墓も多数ある。付近から金錯鉄帯鉤 (きんさくてったいこう)も出土している。
 豊後三芳駅の200m東には伊勢神宮が鎮座、出土した鉄鏡などと関係ありそうだ。

 ウィキペディアによると、『1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で線路の盛土を採集している際、石棺が出土し、その中から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡などが発見された。その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。』とある。
 古墳からは鉄刀・轡も出土し、もう一つの石室からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。

 金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は、直径21.1cm、厚さ2.5mmの反りのない鏡で、漢代の書体で「長宜(子)孫」の4文字が金で刻まれている。龍には銀の象嵌、赤や緑の玉が嵌入されている。東京国立博物館の所有であるが、太宰府市の九州国立博物館で保管されている。
 銅鏡に比べ鉄鏡は腐食が激しいが、再現復元品は非常に美しい。天領日田資料館(日田市豆田町)で展示されているようだ。

 鉄鏡は後漢時代(1世紀から3世紀)の製作で、後漢や魏では皇帝のみが鉄鏡を使用したと言われている。魏の武帝・曹操(155年-220年)も金錯鉄鏡を持っていた。曹操の墓から副葬品として大型の鉄鏡(21cm)が出土している。
 238年に魏に使節を派遣した卑弥呼(179年-247年)は親魏倭王の金印や銅鏡100枚を受けたが、243年の朝貢時に曹操の副葬品の金錯鉄鏡に似た鏡を受けたかもしれない。金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡も曹操の金錯鉄鏡と同じ大きさである。同笵鏡か似た鉄鏡かもしれない。

 しかし、この金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は豊後日田で造られたと云う説もある。国産であれば卑弥呼が魏から受けたかもしれない金錯鉄鏡を真似たか?

 日田には久津媛(比佐津媛、ひさつひめ)伝承があり豊後国風土記にも記されているが、久津媛がこの鉄鏡を神事に使ったものかもしれない。久津媛は会所山(よそやま、国見岳、164m)山頂の久津媛神社と麓の会所神社(よそじんじゃ)に祀られている。
 12代景行天皇が熊襲征伐の帰路、豊後国日田郡に来た時に久津媛の神が現れて迎えたことにより、久(ひさ)が地名の日田になったとも云われる。

 私見ですが、素戔嗚尊と宇佐の比売大神を思い浮かべ、宇佐の比売大神(宇佐津比売、うさつひめ)→久津媛(ひさつひめ)ではないかなと・・・
 糸島市の日向(ひなた)と同じように日田市も古代には日向(ひむか)と呼ばれ、鏡による太陽信仰の神事が行われていたようだ。

 豊後三芳駅の5kmほど北西には小迫辻原遺跡(おざこつじばるいせき、国の史跡)があって、古墳時代初期の日本最古の豪族居館跡がある。

 私の息子が日田の麦焼酎「百助(ももすけ)」をくれましたよ。
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# by enki-eden | 2017-03-30 00:47

インダス川から縄文時代の日本列島に

 インダス文明(ハラッパー文明)は4,600年前から3,500年前にインドとパキスタンを流れるインダス川流域に栄えた都市文明である。インダス川上流や支流のアフガニスタンにも遺跡が残っている。
 インダスとメソポタミア(現在のイラク)の間にあるイラン高原にはエラム人が住んでいて東西交易を担っていたので、インダスとメソポタミアは盛んに交易をしていた。
 メソポタミアのシュメール文明は古く、5,500年前から4,000年前に栄えた。私見ですが、インダス文明もシュメール人が築いたと考えています。インダスとシュメールがエラム人を通さずに直接交易する場合は海上航路を利用した。シュメールにとってインダスが「エデンの園」だったのではないでしょうか。

 そのインダス文明はドラヴィダ人(Dravidian)が興した文明ではないかと考えられているので、私見ではシュメール人とドラヴィダ人は同じ種族になります。
 ドラヴィダ語とシュメール語は共通性があると云わているので、シュメール人がインダスに来てドラヴィダ人になったのではないか。或いはドラヴィダ人がメソポタミアに移住してシュメール人になったのかもしれない。

 3,500年ほど前にアーリア人がパキスタンとインドに侵入したことにより、ドラヴィダ人はアーリア人に支配されたが、インド南部のドラヴィダ人は古くからの文化を保っている。

 ドラヴィダ人は古くからインドに定住した民族で、現代では南インドを中心としてインド全土に居住し、スリランカ、バングラデシュ、マレーシア、シンガポール、モルディブ、そしてアフリカ寄りのマダガスカル島、セーシェル諸島などにも居住している。イギリスの植民地時代に労働力として移住させられた人も多いでしょう。
 ドラヴィダ人の特徴は二重の丸い大きな目、彫の深い顔、肌が黒く、身長は低いが手足が長く、体毛は濃く、髪の毛はカールしたり縮れている。この特徴は肌の黒さ以外は縄文人、沖縄人、アイヌ人に似ている。

 そのドラヴィダ人が3,500年ほど前の縄文時代後期に日本列島へやって来たと云う説がある。渡来数は少ないが、ドラヴィダ人が鉄や青銅を持ち込み、焼畑農業を行ったと云う。ただし、DNA分析ではドラヴィダ人と日本人は近い部分はあっても一致する部分はない。

 天皇を大和言葉ではスメラミコトと云うが、スメラ(皇)はシュメール(スメル)ではないかと云う説もある。
 天皇家の菊花紋はシュメールを含む中近東の王族の紋と同じ。2014年9月19日投稿の「菊花紋」をご参照ください。
 このブログのURLはhttp://enkieden.exblog.jp/ですが、「enki」はシュメールの神名で、「eden」はエデンの園から取っています。私が一番好きなのはgilgameshですけどね。

 やがて2,500年前になると、揚子江(長江)周辺の江南人(倭人)が数百年に亘って波状的に日本列島に逃れて来て、列島は縄文時代から弥生時代に移行していく。

 ドラヴィダ語の一種のタミル語と日本語は似ているようで、生活習慣や文化も似ているようだ。ドラヴィダ人は戦争も少なく、平和な商人中心の文化だったようだが、その点も縄文人と共通性がある。
 紀元前334年に越が楚に敗れ、越人(倭人)の多くがインドや東南アジアに逃れて、その地に言葉・文化を残しているので、ドラヴィダ人の生活地域にも倭人語や甕棺墓が残された。この倭人繋がりで日本とドラヴィダの共通性も考えられる。
 また、海の民のドラヴィダ人が沿岸部に港町を造り、交易を行い、縄文時代の日本列島までやって来たのではないでしょうか。
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# by enki-eden | 2017-03-22 00:31

伊和志津神社(いわしづじんじゃ、伊和志豆神社、宝塚市)

兵庫県宝塚市伊孑志(いそし)1丁目4-3  電0797-72-3265
無料駐車場あります。
祭神 須佐之男命(和歌の祖神、厄除けの神、縁結びの神、開発の神)

延喜式内官幣大社、摂津国武庫郡伊孑志村に鎮座。宝塚の総鎮守。
神紋は素戔嗚の木瓜紋、境内の広さは3,000坪で宝塚市保存樹林になっている。
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 武庫川が流れる伊孑志周辺は、大和朝廷と結びついていた伊蘇志臣(いそしのおみ)が8世紀後半から本拠地とし、当社を創建。伊孑志の地名にもなった。創建時の祭神は伊蘇志臣の祖・天道根命であったかもしれない。

 新撰姓氏禄によると、「大和国 神別 天孫 伊蘇志臣 滋野(しげの)宿禰同祖 天道根命之後也」とあり、天道根命は神魂神の5世の孫で紀伊国造家。川瀬造(かわせのみやつこ)、名草氏、伊蘇氏(伊蘇志)、楢原氏、滋野氏などの祖。
 天道根命は西暦185年頃の饒速日命東遷に従って大和国へやって来た。神武天皇により初代紀伊国造に任じられた。

 天道根命は天日槍命であると云う説があるが、活躍の地域も時代も違います。
 紀氏の伝承によると、素戔嗚命が筑紫紀氏の大矢女命を娶り、五十猛命が生まれたとある。私見ですが、五十猛は160年頃出生、対馬・壱岐・松浦・志摩・伊都・基肆(きい)など九州北西部を治めていた。天道根は伊都国の重臣であったと考えられる。

 素戔嗚は北部九州の西側(長崎県・佐賀県)を五十猛に統治させ、東側(福岡県東部・大分県など)を饒速日に統治させたと考えられる。物部氏の出自地域は遠賀川と筑後川周辺が多く、五十猛の統治地域や奴国(福岡市)には物部氏の出自地域が殆どない。

 日本書紀によると、
 『14代仲哀天皇(320年頃-362年)が穴門(あなと、長門国)から筑紫に入ったとき、筑紫の伊都県主(いとのあがたぬし)の先祖、五十迹手(いとて)がやって来て歓待したので、天皇は五十迹手を誉め、「伊蘇志(いそし)」と云われた。
 人々は五十迹手の国を名付けて伊蘇国(いそのくに)と云った。いま伊都国(いとのくに)というのは訛ったものである。』とある。

 50代桓武天皇の798年(延暦17年)に伊蘇志臣は滋野宿禰を賜った。伊蘇志臣の祖・天道根命は伊都国(福岡県糸島市、旧・怡土郡)出身だと考えられる。紀伊国(和歌山県)にも伊都郡がある。

 伊都国は2世紀以前に既に存在していたので、その国名が4世紀の五十迹手由来というのは後付けです。地名由来ではこの手法がよく使われる。

 先代旧事本紀によると、天道根命は天孫瓊瓊杵の降臨に従って高千穂峰(伊都国)に天下ったとあるので、その後、饒速日命に従って東遷したか。

 西宮市の廣田神社にも摂社・伊和志豆神社がある。2013年5月18日投稿の「廣田神社」をご参照ください。
 
 当社の北東1kmに宝塚大劇場があるので、宝塚歌劇団の男役の方が一人で参拝に来られていました。名前を聞けばよかったと後悔。女性の参拝者も多い。

   鳥居と社号標
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   参道
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   拝殿
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  本殿覆屋、中に本殿(宝塚市指定文化財)が鎮座、拝殿奥に見える。
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  遥拝所(八幡宮、春日大明神、天照皇大神宮、山神社、大将軍社)
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   愛宕社(迦具土神、かぐつちのかみ)、火の守り神。
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 宝塚水天宮(天御中主神、81代安徳天皇)、安産の神、水の神、商売の神。
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 水天宮(すいてんぐう)の総本宮は久留米市瀬下町265-1の「水天宮」になっており、筑後川沿いに鎮座しているが、「筑紫次郎」の筑後川は古名を千歳川(ちとせがわ)と云い、久留米水天宮の鳥居横に「軍艦千歳慰霊碑」がある。
 軍艦千歳は筑後川の古名とって命名され、艦内に水天宮を奉斎する空母であったが、昭和19年10月にフィリッピンのレイテ沖海戦で撃沈した。
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# by enki-eden | 2017-03-14 00:19

宝塚神社

兵庫県宝塚市社町(やしろちょう)4-8  電0797-72-6329
無料駐車場あります。
祭神 大山祇神(金運・商売繁盛、安産祈願)
   素戔嗚神(農耕・厄除け・縁結び)

 創立は6世紀後半と伝えられ、同時期に隣接する武庫山平林寺が建立された。
 神社の由緒によると、明治以前は山王権現としていたが、明治の神仏分離により日吉神社と称した。1966年に素戔嗚神社(宝塚市小林、当社の600m東)を合祀し、宝塚神社に改称した。素戔嗚神社の末社・恵比須社(宝塚えびす)も当社の末社として遷された。
 大山祇神については2016年9月5日投稿の「大山祇神」をご参照下さい。

     楽しいご朱印(えべっさんが鯛を釣り上げました)
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 標高58mの境内から宝塚の街並みが見える。
 夏至の頃の日の出は大阪と奈良の境にある生駒山(642m)から昇る。
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   鳥居の奥に拝殿、神紋は素戔嗚の木瓜紋。
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   本殿、東向き。
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   天満神社(菅原道真公)、学問の神、諸芸守護。
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 恵比須社(蛭子大神)、宝塚えびすは商売繁盛の神。この社殿は清荒神清澄寺の三宝大荒神が祀られていたのを改築の際に旧社殿を譲り受けた。
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   右は八幡社(誉田別神)、厄除けの神、災難除守護、
   左は塞神社(八衢之神、やちまたのかみ)、道の神、交通安全守護。
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   塞神社の左に夫婦和合・子授けの石(男石と女石)。
   元素戔嗚神社の南面三差路に塞の神とこの珍石が奉斎されていた。
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   三社(住吉神社、伊勢神宮、春日神社)
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   右は愛宕社(火迦具土神)、火の神、鎮火守護、
   左は大神社(天照大神)、五穀豊穣守護。
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 私見ですが、天照大神は三柱の神を一柱の神にまとめて祀られていると考えています。先ず、2世紀後半に天の真名井で素戔嗚と誓約をした天照大神(大日霊貴、宇佐の比売大神)、次に238年と243年に魏に朝貢した卑弥呼(親魏倭王)、そして266年に西晋に朝貢し、270年頃に大和国へ東遷した臺與の三柱の神です。
 一柱の神を三柱の神に分けて祀ることがありますが、天照大神は三柱の神を一柱の神にまとめて祀っていると私は考えています。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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# by enki-eden | 2017-03-08 00:13

東天神社(ひがしてんじんじゃ、伊丹市)

兵庫県伊丹市昆陽(こや)4丁目1  電072-781-3577
車は境内に停められます。

祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊尊(いざなみのみこと)。
   猪名野(いなの)総社、息災延命長寿のご神徳。

 8世紀前半に行基法師(668年-749年)が昆陽池と周辺を開拓した時に事業達成の祈願所として創建。行基は各地で溜池や水路造りを指導した。昆陽池は伊丹空港(大阪国際空港)から飛び立つ飛行機からよく見える。
 当社は昆陽村の東の氏神、西の氏神は西天神社(伊丹市昆陽北1-5-21)で同じ祭神を祀る。
   ご朱印、神紋は「立ち葵」
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 伊丹市の北方の山間部に、兵庫県川辺郡(かわべぐん)猪名川町(いながわちょう)がある。猪名川町には1973年に閉山した多田銀銅山があり、埋蔵量は全国一と云われたほどであった。2015年に多田銀銅山遺跡が国の史跡に指定されている。
 猪名川町から猪名川が南方に流れ、川西市、伊丹市、尼崎市に至り、神崎川に合流している。途中、伊丹空港(大阪国際空港)の西側を流れている。空港の地下には弥生遺跡の岩屋遺跡、勝部遺跡などがある。
 猪名川流域の台地は猪名野と呼ばれ、伊丹市、宝塚市、池田市、尼崎市にまたがる。

 イナは鉄の古語だから猪名川町は踏鞴製鉄が盛んだったと考えられる。テツ、タタラ、サヒ、サビ、サナ、シナなど鉄を表す古語は多い。
 稲佐山(いなさやま)、犀川(さひかわ)、信濃(しなの)、更級(さらしな)などは踏鞴製鉄と関係あるでしょう。
 播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)、素戔嗚の鉄剣・韓鋤(からさび)、稲荷(いなり)も鉄が由来だと考えられる。漢字の稲を使う場合は後代に農業関連に結び付けられることがある。

 吉備国発祥の円筒埴輪は古墳に多く使用されており、その形は踏鞴製鉄に使われた炉(踏鞴)が原形である。吉備国の枕詞は「真金(まがね)吹く」で、吉備は踏鞴製鉄の最も盛んな地域であった。

   鳥居と社号標
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   拝殿、1970年に鉄筋コンクリート銅板葺きで改築された。
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   本殿は覆屋の中に鎮座。
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   拝殿右脇に、少名彦神社、戎神社、諏訪神社、金刀比羅神社。
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  拝殿左脇に、八幡神社、皇大神社、愛宕神社、春日神社。
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   境内奥に稲荷神社
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   庚申(こうしん、青面金剛)、右側。
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 当社と同じく伊弉諾尊を祀る伊弉諾神宮については、2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。
 倭王の伊弉諾尊は西暦180年代の倭国乱(北部九州)により失脚し、淡路島(淡路市多賀)に隠遁して宮に住み、185年か190年頃に亡くなった。伊弉諾尊の神陵の上に伊弉諾神宮の本殿が建てられた。
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# by enki-eden | 2017-03-02 00:27

猪名野神社(いなのじんじゃ、伊丹市)

兵庫県伊丹市宮ノ前3丁目6-4  電072-782-2704  無料駐車場あります。
祭神 猪名野坐大神(建速須佐之男命)

    誉田別尊(15代応神天皇)


当社の元宮は、7世紀半ばに猪名寺村(尼崎市)の猪名寺境内に建立されたが、60代醍醐天皇(885年-930年)の904年に猪名寺の元宮から当地に遷座した。

織田信長(1534年-1582年)の軍勢が、1578年に信長に対して反旗を翻した荒木摂津守村重(1535年-1586年)の有岡城(伊丹城)攻撃時に猪名寺は焼失したと考えられる。荒木村重は逃亡し、最後には出家して茶人となったが52才で亡くなった。

猪名寺は廃寺となったので法園寺(尼崎市猪名寺1丁目31-45)が継承している。猪名野神社の元宮は法園寺本堂右に現存しており、御旅所となっている。


赤のアイコンが猪名野神社、黄が法園寺


当社は神仏習合時には野ノ宮(天王ノ宮)と称したが、明治の神仏分離令により仏教関係を130m南の金剛院に移した。そして野ノ宮を猪名野神社と改称し伊丹郷町の氏神となった。

猪名野神社と同名の神社が伊丹市寺本2-81にもあるが、祭神は高皇産霊尊になっている。

伊丹は摂津国猪名川上流にあり、戦国時代には荒木村重の城下町となった。当社の立地は有岡城惣構(そうがまえ、東西800m、南北1700m)の北端に位置しており、「岸の砦」があった。境内に岸の砦の土塁跡と堀跡が今でも残っている。

伊丹の清酒の製法(鴻池流)は三段仕込みで効率がよく、大量生産できるので全国に製法が普及した。それで伊丹では「伊丹が清酒の発祥地」とみなしている。

鴻池村で清酒の醸造を始めた鴻池家は大坂に進出して醸造業を営み、海運業や両替商に転じ、江戸時代最大の財閥になった。

鴻池家は明治以降には第十三国立銀行を設立したが、普通銀行に転換し鴻池銀行となる。後に合併で三和銀行となった。現在は三菱東京UFJ銀行となっている。

   鳥居と社号標、神額は美しい両部額になっている。

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   拝殿、伊丹市は「清酒発祥の地」とされ、酒樽奉納が多い。

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   本殿、工事中。

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   大地主神社(大国主神)、恵比須。

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   稲荷神社(宇迦能御魂神)

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   神明神社(天照皇大神)

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相殿社(貴布弥神社、塞神社、祓戸神社、熊野神社、五桂皇子神社、
      立田神社)

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   愛宕神社(火之迦具土神)

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   佐田彦神社(大山祇命、佐田彦命、宮比売)

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 厳島神社(佐依毘売命、市杵島姫尊、多紀理毘売命、金山彦命、
         多紀都毘売命)

 市杵島姫尊だけ「命」ではなく「尊」の敬称を使っているのは意味がありそう・・・

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   天満神社(菅原道真公)

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   新宮神社(天児屋根命、大山咋命、三筒男之命)

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有岡城(伊丹城)惣構北端の「岸の砦跡」

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# by enki-eden | 2017-02-24 00:20

川西市文化財資料館

兵庫県川西市南花屋敷2丁目13-10  電072-757-8624  
無料駐車場あります。
鴨神社の250m西南にあり、入場無料です。


 当資料館は1993年に加茂遺跡内に開館した。川西市の遺跡から出土した文化財を整理、収蔵、展示をしている。展示品には、栄根遺跡(さかねいせき)出土の栄根銅鐸レプリカと奈良時代の墨壺、勝福寺古墳出土の画文帯同向式神獣鏡などがある。



資料館の説明によると、

『加茂遺跡は、川西市南部の加茂1丁目、南花屋敷2丁目・3丁目に広がる旧石器時代から平安時代にかけての遺跡です。

大正4年(1915年)、笠井新也氏によって多量の弥生土器・石器が発見されて以来有名になり、昭和11年(1936年)には採集資料を展示した宮川石器館が地元に開館しました。

その後の発掘調査では、およそ2千年前の弥生時代中期に近畿地方を代表する約20ヘクタールもの大規模集落に発展することがわかり、平成12年(2000年)には集落中心部が国の史跡に指定されました。また、居住区・墓地等の集落構造、防御のための環濠、集落を束ねる首長の住居と思われる大型建物等も明らかになってきています。』

栄根遺跡航空写真

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縄文時代の土器

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加茂遺跡出土の石器。縄文時代晩期の石冠(せっかん)で、呪術・儀式に使ったか。出土分布の最も西にあたる。形から判断すると性に関する儀式のようだ。

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  加茂遺跡出土の弥生時代初期・中期の土器

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加茂遺跡の西部には方形周溝墓群があり、環濠の外に造られている。環濠の中に墓が1基あり、他よりも大きいので、ムラの首長の墓と考えられる。埋葬される様子をイメージした模型。

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 弥生時代中期の加茂遺跡の銅鐸祭祀をイメージした模型。

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2世紀から3世紀の弥生時代後期になると、川西では加茂遺跡の大集落が急に小さくなり、かわって栄根・下加茂(したかも)・小戸(おおべ)遺跡などの集落が続き、北部に新たな集落が現れ、社会が大きく変化していった。

1800年前の栄根銅鐸(レプリカ)、原品は東京国立博物館所蔵になっている。高さ114cm、明治44年(1911年)加茂遺跡の東側崖下(加茂1丁目)で出土した。

弥生時代末期には銅鐸が巨大化し、栄根銅鐸は全国でも5、6番目の大きさとなる。

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6世紀初めの勝福寺古墳(しょうふくじこふん)築造時のイメージ模型。全長40mの前方後円墳で後円部に横穴式石室が2基、前方部に木棺が2基設けられていた。

墳丘上には円筒埴輪や形象埴輪が並び、川西南部を治めた首長と親族の古墳。

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後円部の第1石室は、玄室幅2.3m、全長9mの右片袖式横穴式で画文帯神獣鏡・六鈴鏡・銀象嵌竜文刀・馬具などの副葬品が出土した。

2石室は玄室幅1.4m、現存長2.5mの横穴式で、多数の須恵器などが出土した。

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展示室の中央に木舟。栄根遺跡の古墳時代河川跡から出土、針葉樹の幹を刳り貫いた幅50cm、長さ4.3mの木舟で、運搬用に使用していたが、6世紀の洪水で埋没したと考えられる。

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# by enki-eden | 2017-02-17 00:28

鴨神社(川西市)

兵庫県川西市加茂1丁目4-2  電072-759-4206  無料駐車場あります。
祭神 別雷神(わけいかづちのみこと)
    別雷神は加茂地区に住む鴨族の祖神で、
    京都上賀茂神社の賀茂別雷神と同じ神様。

摂津国川辺郡(かわべぐん)の式内社。
厄除け(やくよけ)、災難除け、方除け(かたよけ)、家内安全、心願成就、
商売繁盛など。

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猪名川西岸台地(標高20m~45m)にある弥生時代から平安時代までの加茂遺跡の中に当社は鎮座(標高42m)。当社境内からも住居跡が4棟発掘された。猪名川周辺には古墳も多い。

1911年に加茂遺跡の東の斜面に埋納されていた大型の銅鐸(114cm)は栄根銅鐸(さかねどうたく)と名づけられた。当社と猪名川の間にある地名は川西市栄根(さかね)という。

鳥居から参道へ、境内は4,000坪と広い。春は桜の名所となる。

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参道途中の左に磐座の修祓所

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拝殿、阪神淡路大震災で被災し、社殿はコンクリート造りに替わった。参拝した日は七五三詣りで賑わっていた。菊の花が美しい。神紋は立三葉葵。

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本殿、

右に春日神社(手力雄命)・天照皇大神社(日若宮尊)・
    愛宕神社(天香具土神)。

その奥に多賀神社(大国主神)・荒神社(天香具土神)・
    熊野神社(伊弉諾尊)。

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本殿左に稲荷神社(大月姫命)・八幡神社(応神天皇)・松尾神社(八十神)。

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その左に延寿社(えんじゅしゃ、伊邪那岐命・伊邪那美命)。

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鳥居の奥に加茂遺跡(国の史跡)の石碑

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加茂遺跡は標高40mほどの台地にあり、鴨神社を中心に200m四方に存在、旧石器時代から平安時代に至る長期間の集落跡。

弥生時代中期(2000年前)には大規模集落(東西800m、南北400m)が営まれていた。500人ほどが住んでいたと考えられている。

明治44年(1911年)に大型の栄根銅鐸(さかねどうたく)が出土し、大正から昭和にかけて多数の弥生式土器と石器が出土した。

1992年に鴨神社の裏手より古代首長の館跡、防護用土塁・柵跡が発掘され、2000年に加茂遺跡として国の史跡に指定された。

鴨神社は加茂遺跡の中心に位置し、ここは古代の地域集落の安全や五穀豊穣を願う祈りの場であったと考えられる。

次回の投稿は出土した大型の銅鐸や遺物を展示している川西文化財資料館をご案内します。

 鴨神社に参拝した後、近くの有名な手打ちうどん・そば処「てん川」でカレーうどんを頂きました。おいしかったですよ!

従業員のきびきびとした動きにも感心しました。


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# by enki-eden | 2017-02-09 00:02

松尾神社(宝塚市)

兵庫県宝塚市山本東1丁目9-1  電0797-89-8725  無料駐車場あります。
祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)、
   坂上田村麻呂公(さかのうえのたむらまろこう)。
旧・川辺郡山本村の産土神で、開運厄除・産業発展・醸造・治山治水の神として崇敬されている。



 坂上田村麻呂(758年-811年)を祖とする坂上党武家団の頭梁・坂上頼次(7代目)は、清和源氏の源満仲(912年-997年)により、当地の山本郷守護に任じられ、摂津源氏の体制造りに加わった。坂上氏は摂津源氏の家臣となった。
 摂津源氏から河内源氏が派生し、河内源氏は源頼朝(1147年-1199年)の鎌倉幕府へと発展していく。

 坂上頼次が坂上季長と坂上季猛(すえたけ、950年頃-1022年頃)親子を山本に呼び寄せ、摂津源氏家臣団に武術の指導をさせた。坂上季猛は渡辺綱(953年-1025年)、坂田金時(金太郎、956年-1012年)、碓井貞光(954年頃-1021年)と共に源頼光に仕え、源氏四天王と呼ばれた。

 969年頃に坂上季猛は当地に先祖の征夷大将軍・坂上田村麻呂公の遺品を奉納し当社を創建、山本郷の産土社とし天下平治を祈願した。当社の神紋は坂上氏と同じ「抱き柏」である。

 渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)の祖・阿智王から8代目の坂上苅田麻呂(かりたまろ、728年-786年)が山城国松尾大社に祈り得た子が坂上田村麻呂なので、幼名を松尾丸と名付けた。それで、当社の創建時には将軍宮、松尾丸社と称した。
 続日本紀によると、坂上苅田麻呂が「後漢霊帝(156年-187年)の曾孫・阿智王の子孫である」と上表している。

 坂上氏は新撰姓氏録によると、
 「右京 諸藩 漢 坂上 大宿禰 出自後漢霊帝男延王也」、
 「摂津国 諸藩 漢 石占 忌寸 坂上大宿禰同祖 阿智王之後也」とある。

 当社は将軍家の祖神として崇敬されが、源頼朝の信仰が特に篤く、将軍交代時には守護弓として新製弓を献上した。1177年に山本庄が松尾大社に寄進されたので松尾大社の大山咋命を勧請した。松尾大社については、2014年1月13日投稿の「松尾大社①」をご覧ください。

 塩川伯耆守国満が織田信長(1534年-1582年)の配下に入り、天正年間(1573年~1593年)に山本郷を襲い、当社をはじめ村は炎上、坂上氏は武装放棄させられた。戦国時代には多くの寺社が被害を受けている。
 坂上氏は16世紀中頃から山本氏を名乗り、先祖の時代から植木を栽培していたので、武装放棄させられてからは園芸を本業とした。
 当地周辺では造園業・園芸業が盛んになり現在まで続いている。大坂城、聚楽第、伏見桃山城などの庭園は山本の園芸職人が多く作庭した。
 坂上氏の中には、武士として復任し豊臣家旗本になった者も僅かにいる。

 当社は17世紀初めに現在地に復活し、松尾神社と称した。当社(東の宮さん)と600m西の天満神社(西の宮さん)は関係が深い。

  神社入り口と右手に薬師堂(薬師如来)。
  境内の「田村の森」は自然環境保全地区に指定されている。
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  階段を登ると赤い両部鳥居、奥に拝殿。
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  拝殿、1988年に改築された。
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 1988年に改築された覆殿、この中に1671年に再興された本殿(宝塚市の指定文化財)が鎮座。
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  拝殿横に神輿
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  末社の猿田彦神社(猿田彦命)
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# by enki-eden | 2017-02-02 00:37

舟木遺跡の鉄器工房跡(淡路市)

 兵庫県淡路市舟木(旧・津名郡北淡町)にある「舟木遺跡」は弥生後期の高地集落遺跡で、淡路島北部中央部の標高160mほどの山間にある。1世紀中頃に突然出現したので、海岸部から移住してきたのでしょうか。
 弥生時代末期(2世紀中頃~3世紀初め)に存在したとみられ、1966年に発見された。面積は東西500m、南北800mの約40万㎡(12万坪)。

 淡路市の教育委員会が舟木遺跡を発掘調査し、新たに鉄器生産工房跡から鉄器57点などが発見され、手工業品生産工房跡も見つかったと1月25日に発表された。
 舟木遺跡は過去に淡路市黒谷で見つかった近畿最大の鉄器生産工房「五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)」を上回る国内最大規模の鉄器工房跡の可能性があり、今後も発掘調査が続けられる。
 五斗長垣内遺跡(標高200m)は1世紀中頃に突然出現した高地集落であるが、舟木遺跡も2世紀中頃に突然出現した。

 西暦180年頃に勃発した北部九州の「倭国乱」により、倭国から淡路国へ隠遁した伊弉諾尊の幽宮(かくりのみや、伊弉諾神宮)は両遺跡に近く、関係があると私は考えています。その頃(2世紀末)に両遺跡は最盛期を迎える。伊弉諾神宮については2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。
 赤が舟木遺跡、黄が五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)、紫が伊弉諾神宮


 五斗長垣内遺跡の鉄器生産が終わった後も、舟木遺跡では少し鉄器生産が続き、やがて終了する。高地集落は大和国(天皇家)が強大になり近畿地方を中央集権的に支配するようになると消滅していった。弥生時代の一つの特徴である銅鐸祭祀も消滅し、古墳時代に突入していく。

 淡路市教育委員会は「淡路市国生み研究プロジェクト」を立ち上げて、昨年と一昨年に舟木遺跡などを調査し、国生み神話との関係を掘り下げる取り組みをした。
 出土した土器の年代から、工房があったのは2世紀後半とみられる。4棟の大型竪穴建物跡のうち、3棟は敷地が円形で直径が10mを超える大型で、うち1棟から4基の炉の跡が確認された。柱が外側に寄り中央部が広いことから、作業をする空間だったと考えられる。
 また4棟から鉄器製作に使った石器が多数出土、鉄器は計57点あった。鍛冶関連のほかに小型工具も出土した。

 2009年に工房12棟と鉄器127点が出土した五斗長垣内遺跡では、鉄鏃(てつぞく、矢じり)などの武器類が多く出土したが、舟木遺跡では武器以外の鉄製品が出土した。両遺跡は6km離れており、ほぼ同じ時期の工房なので、製造する品種を分けていたのかもしれない。

 古事記の国生み神話によると、伊邪那岐命と伊邪那美命が最初に生んだのが淡道之穂之狭別島(あわぢのほのさわけのしま)とあるが、その意味は「粟の穂の穀霊の島」と云う説がある。「淡(あわ)」は「海の泡」とも云われるが、私見では「淡(あわ)」は鳴門海峡の渦、「穂」は踏鞴製鉄の「火」と考えています。淡路島は海人の国であると同時に製鉄の島だった。
 淡路国の考古学については、2013年9月3日投稿の「淡路国の考古学」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-01-27 09:58

磯城氏

兄磯城(えしき)
 奈良県桜井市にある三輪山西部地域の磯城の首長で弟磯城(おとしき)の兄。西暦209年頃、神武東遷軍が熊野から大和へ侵入するのを防ごうとしたが、弟磯城が神武側に援護したので兄磯城は敗れた。

弟磯城
 弟磯城の名は黒速(くろはや)、戦功により神武天皇が弟磯城を磯城県主(しきのあがたぬし)に任命する。弟磯城の娘の川派媛(かわまたひめ)が2代綏靖天皇の皇后になる。
 三輪山に狭井神社(さいじんじゃ)が鎮座、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を主神として祀り、近くを狭井川が流れている。古事記によると、神武天皇は狭井川のほとりに住む伊須氣余理比売(いすけよりひめ)を妻とした。伊須氣余理比売は三輪山に住んでいるので磯城氏の娘でしょう。磯城(シキ)→イソキ→イスケに転訛して伊須氣余理比売になったのか・・・
 伊須氣余理比売は日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命を生み、神沼河耳命が2代綏靖天皇になる。
 狭井神社については2013年6月17日投稿の「狭井神社」をご参照ください。

 3代安寧天皇の和風諡号は磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)と云う。弟磯城の多くの子孫が天皇家に后妃として嫁ぐことになる。
 磯城県主大目は製鉄族で十市県主の祖になるが、大目の娘・細媛(ほそひめ、くわしひめ)が7代孝霊天皇の皇后になる。

 シキは鋪、坑で鉱山の坑道(採掘跡)のことである。磯城、志紀、志貴、師木、式、敷などとも書く。磯城氏は金属採掘、踏鞴製鉄の部族であったと考えられる。奈良盆地は踏鞴製鉄に適した絶好の場所であった。

 「大和の国」の枕詞は「敷島の」であるから、磯城は大和の中心地であった。
 三輪山(467m)の西麓、大神神社(おおみわじんじゃ)の南400mに志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)が鎮座、祭神は大己貴神(大国主命)とも天津饒速日命とも云われる。境内に「崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)趾」石碑がある。



 磯城氏は饒速日の後裔とされるが、磯城氏の本拠地が三輪山麓西であるので、祖神は大物主神と云う説もある。大物主は一般的には大国主となっている。
 祖神は父系、母系によって違うが、いづれにしても磯城氏は神武東遷以前から三輪山の西麓を本拠地にして奈良盆地の東側を治めていた豪族で、神武東遷以降は天皇家を支えた。
 磯城県主からは後に春日県主(かすがのあがたぬし)、そして十市県主(といちのあがたぬし、橿原市十市、十市御県坐神社、豊受大神)が派生する。

 河内国志紀郡に河内国総社の志紀県主神社が鎮座(大阪府藤井寺市惣社1丁目6-23)、主祭神は神八井耳命(神武天皇と伊須氣余理比売の皇子)となっているが、「河内名所図会」(1801年出版)には主祭神は磯城県主黒速となっている。
 当地は大和川の南にあり、奈良時代の朝廷直轄地で、神八井耳命を祖神とする志貴県主、志紀首(しきのおびと)が管理していた。志紀県主神社の200m南には19代允恭天皇陵(市野山古墳、230m)があり、更に1km南西には15代応神天皇陵(誉田御廟山古墳、425m)がある。
 新撰姓氏録には、
 「大和国 神別 天神 志貴連 神饒速日命孫日子湯支命之後也」、
 「和泉国 神別 天神 志貴県主 饒速日命七世孫大売布命之後也」、
 「和泉国 皇別 志紀県主 雀部臣同祖 神八井耳命之後也」、
 「河内国 皇別 志紀県主 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」、
 「右京 皇別 志紀首 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」とあり、
 饒速日系、神八井系が記されている。

 磯城氏は3世紀後半の10代崇神天皇の頃には衰退し、物部氏が急速に勢力拡大する。磯城氏の女性が物部氏の妻となり、磯城氏は物部氏の同族として取り込まれてしまった。
 先代旧事本紀巻第五天孫本紀によると、9代開化天皇と10代崇神天皇に仕えた伊香色雄(いかがしこお)は倭志紀彦(志紀県主)の娘・真鳥姫を妾として一男を生んだ。それが建新川(たけにいかわ)だと考えられる。
 物部氏の建新川は11代垂仁天皇に仕え、母系の志紀県主らの祖となった。
素戔嗚―饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄

 天皇家の系図は初代神武天皇から17代履中天皇まで親子関係で記されているが、天皇家に仕えた物部氏や磯城氏などの豪族系図と比較対照すると、兄弟従弟で天皇職を継いでいることが分かる。
 私見ですが初期天皇家の世代は次のように考えています。
 初代神武――2代綏靖
       3代安寧――5代孝昭
       4代懿徳  6代孝安――7代孝霊
                   8代孝元――9代開化
                        10代崇神
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# by enki-eden | 2017-01-26 00:19

アヂスキタカヒコネ

 日本書紀では味耜高彦根神と記され、大己貴神(大国主神)の子。大己貴神は大和の三輪山(三諸山)に住み、その子孫は賀茂君、大三輪君である。
 奈良県御所市鴨神の高鴨神社の主祭神は阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)、2013年3月12日投稿の「高鴨神社」をご参照ください。

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 古事記では大国主神と多紀理毘売命の子が阿遅鉏高日子根神(阿遅志貴高日子根神)と記され、大国主神と神屋楯比売命の子が事代主神(八重事代主神)、大国主神と沼河姫の子が建御名方神。海部氏の勘注系図によると、神屋楯比売は湍津姫とある。
 奈良県御所市宮前町の鴨都波神社には積羽八重事代主命(事代主命)と下照姫命を祀っている。2012年12月19日投稿の「鴨都波神社」をご参照ください。

 三島溝咋の娘の勢夜陀多良比売に三輪の大物主神(大国主神)が一目ぼれして結婚して生んだ子を比売多多良伊須氣余理比売と云う。伊須氣余理比売は三輪山の狭井川のほとりに住んでいたが、神武天皇の皇后になった。生まれた子は日子八井命(4代懿徳天皇?)、神八井耳命(3代安寧天皇?)、神沼河耳命(2代綏靖天皇)である。

 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子で、阿遅須枳高日子命と記す。

 先代旧事本紀によると、大国主神の子が味耜高彦根神と下照姫で、天津国玉神の子の天稚彦は下照姫を妻とする。味耜高彦根神と天稚彦は親友で姿形が似ていた。
 大己貴神の子は全部で181人いる。
 大己貴神は大和の三輪山に住み、茅渟の活玉依姫を妻として通った。また、大己貴神の別名は葦原色許男・顕見国玉神・大国主神・大物主神・大国玉神・八千矛神・大三輪大神で、素戔嗚尊の娘の須勢理姫命と結婚した。また、稲羽の八上姫を妻とし、木俣神(御井神)が生まれた。
 大己貴神は宗像の田心姫命を妻とし、味鉏高彦根神と下照姫命が生まれた。辺津宮の高津姫神を娶って、都味歯八重事代主神と高照光姫大神が生まれた。高津姫神は湍津姫(神屋楯比売)のことと考えられる。
 大己貴神は越の沼河姫を妻とし、建御名方神が生まれ、信濃国諏方郡の諏方神社に鎮座。
 都味歯八重事代主神は熊鰐となって三嶋溝杭の娘・活玉依姫に通い、天日方奇日方命と姫踏鞴五十鈴姫命、五十鈴依姫命が生まれた。大国主も事代主も活玉依姫に通ったことになるが・・・
 姫踏鞴五十鈴姫命は神武天皇の皇后になり、神渟河耳天皇(2代綏靖天皇)と彦八井耳命を生んだ。
五十鈴依姫命は綏靖天皇の皇后になり。磯城津彦玉手看天皇(3代安寧天皇)を生んだ。

 賀茂氏は系統が複雑だ。
 ①大和葛城(奈良盆地西南)を拠点とし、味鋤高彦根命を始祖とする賀茂族の系統。
 ②大和葛城で事代主命を始祖とする賀茂君の系統。
 ③大国主神を始祖とする賀茂朝臣・大神朝臣の系統。①②③は同族で時代が違う。
  新撰姓氏録に「大和国 神別 地祇 賀茂朝臣(大神朝臣) 大国主神之後也」とある。
 ④賀茂建角身命(八咫烏)を始祖とする天神系の賀茂県主(鴨県主)の系統。
  新撰姓氏録に「山城国 神別 天神 賀茂県主 鴨建津之身命之後也」とある。

 味鋤高彦根命=賀茂建角身命であれば、大和国葛城の賀茂氏が山城国へ移動したと考えられるが、別系統だと云う説もある。
 神武天皇東遷を助けた八咫烏(賀茂建角身)は、葛城を経由せずに大和国から直接山城国へ移動したと云われる。

 先代旧事本紀によると、饒速日命は十種の神宝をもち、32人の防衛、五部人、五部造、天物部等25部人、船長という多数の随伴者を従えて筑紫から大和に天降ったとある。
 その随伴者の中に天櫛玉命があり、鴨県主等祖と記されている。また、天神魂命も随伴しており、葛野鴨県主等祖と記されている。
 「古代豪族系図収覧」によると、神皇産霊尊――天神玉命――天櫛玉命――鴨建角身命とある。
 私見ですが、味鋤高彦根系と賀茂建角身(八咫烏)系は同じ鴨族を名乗るが別系統ではないか。
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# by enki-eden | 2017-01-20 14:23