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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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兵庫県養父市養父市場(やぶいちば)840  電079-665-0252  無料駐車場あります。

但馬国(たじまのくに)養父郡の名神大社式内社、但馬国三宮。

但馬五社明神(出石神社、絹巻神社、小田井縣神社、養父神社、粟鹿神社)の一つで、

「養父大明神」と云われる農業神。

養父市場(やぶいちば)の地名は、農耕用・牛車用の牛の売買による。牛市は当神社が管理していた。

現在でも丸山川対岸の「JAたじま但馬家畜市場」で但馬牛のせり市が行われ、食用の但馬牛として有名。

4月に開催される神事の「お走り祭り」が但馬三大祭りの一つとして養父市無形民俗文化財になっている。

   

祭神 「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)、農業・養蚕・牛馬の神、

    大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命)、国土開発統治の神、

    少彦名命(すくなひこなのみこと)、薬草・治癒の神、高皇産霊神の御子、

    谿羽道主命(たにはみちぬしのみこと、丹波道主命)、丹波将軍、彦坐王の御子、

    船穂足尼命(ふなほすくねのみこと)、彦坐王五世孫、但馬国造の祖、363年没。

創建 10代崇神天皇30年(西暦281年)。

    神社の由緒によると、創建は紀元前66年となっている。

昔は、神体山として弥高山(やたかやま、372m)山頂に上社、中腹に中社、麓(現在地)に 下社があったが、明治初頭に下社に統合されて上社と中社は現存しない。



9代開化天皇(248年頃‐294年頃)と姥津媛命(ははつひめ、和珥臣)の皇子である彦坐王(ひこいますのみこ)は、10代崇神天皇(251年‐301年)に丹波将軍に任命された。

和珥臣の姥津媛命(ははつひめ)が大和在住ではなく丹波在住の姫であれば、彦坐王も丹波道主命も丹波在住の皇族として、丹波将軍(丹波・丹後・但馬)を任されたのかもしれない。

崇神天皇は、彦坐王(ひこいますのみこ)に日下部足尼(くさかべのすくね)の姓を与え、諸国に日下部を定めた。日下部の地名に「たしま、たじま」が多い。

「但馬国(たじまのくに)」をご参照ください。

    

鳥居、

JR山陰本線と円山川を見渡せる。

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随神門

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随神門を振り返る。

狛犬は「狼」になっており、右の口を開けた方が雌で、左の口を閉じているのが雄。

狼は、田畑を荒らす鹿・猪などから農作物を守る益獣とする伝承が残っている。

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宝篋印塔(ほうきょういんとう、養父市指定文化財)。

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稲荷神社(保食命、うけもちのみこと)、商売繁盛・五穀豊穣。

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赤い御神橋を渡ると鉄板葺きの社務所。

11月に「やぶもみじ紅葉まつり」があり、300本の紅葉が境内を包む。

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拝殿、兵庫県登録有形文化財。

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本殿(西暦1690年建立)、入母屋造り檜皮葺、兵庫県登録有形文化財。

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御霊神社(祭神は伊邪諾命と伊邪冊命、西暦1423年建立)、

元の本殿で、皇居の方向を向いている。

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右は摂社の五社神社、兵庫県登録有形文化財、

祭神は天熊人命(あめのくまひとのみこと)、天照大神、素戔嗚命、月読命、五十猛命。

五十猛命は牛取引の神になっている。

左は琴平神社、祭神は事代主命。

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本殿後方に迦遅屋神社(かじやじんじゃ)、別称「猫の宮」でネズミ除け、災除け。

祭神は奥津彦命、奥津姫命、猿田彦命、表米(ひょうまい)親王(日下部氏)。

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厳島神社(厳島姫命)、女性の守り神で池に鯉が飼育されている。

鯉に縁のある当社は「鯉(恋)の宮」として鯉(長寿の魚)が珍重されている。

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摂社の山野口神社、西暦1690年建立、「狼の宮」、兵庫県登録有形文化財、

祭神は大山祇命   

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境内奥に明神滝。

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明神滝から小川が境内を流れる。

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「戦後日本の反日思想」をご参照ください。


印南神吉


# by enki-eden | 2024-03-17 00:07

 古事記によると、「伊耶那美命(いざなみのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだ時の火傷が原因で亡くなった。

 あの世へ行かれた伊耶那美神(いざなみのかみ)は、出雲国(島根県)と伯伎国(ほうきのくに、鳥取県)との境の比婆山(ひばやま)に葬られた。」とある。

 

 比婆山の所在地の一つは、島根県安来市(やすぎし)伯太町(はくたちょう)横屋(よこや)の比婆山(331m)で、山頂に比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)奥の宮が鎮座、拝殿には「雲伯堺」(出伎の)と記されている。30km北東に大山(1729m)を望める。

 奥の宮の由緒板には、久米の語源は「コムル(隠し奉る)」の意で伊邪那美命の霊をお祀りしたとある。

 本殿に向かって右横に古い塚があり、「伊邪那美大神御神陵」と記されている。

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比婆山久米神社奥の宮地図

 

 比婆山の麓には比婆山久米神社(主祭神は伊邪那美尊)の里宮(熊野神社)が鎮座、山頂の奥宮まで参道が続く。神紋は「二重亀甲」に比婆山の「比」。

 当地は踏鞴製鉄(たたらせいてつ)による玉鋼(たまはがね)の産地で、伊邪那美尊と火之迦具土神は蹈鞴製鉄と関係が深い。比婆は火場(ひば)かもしれない。

 

 出雲神族の亀甲紋は、竜蛇信仰の「セグロウミヘビ」の鱗だと云う。

 揚子江の楚国出身の出雲族である素戔嗚尊の亀甲紋は、神亀の甲羅紋だと考えられる。

 

 比婆山久米神社の20km北北西に伊邪那美命を祀る「揖夜神社(いやじんじゃ、いふやじんじゃ」が鎮座。その東に現世と黄泉国(よみのくに、あの世)の境の黄泉比良坂(よもつひらさか)もある。

 伊邪那美命は7代目奴国王兼倭王の伊邪那岐命(いざなきのみこと、125年頃-190年頃)の妻となり、日本の国(島々)を生み、多くの神々を生んだが、死後に黄泉国(よみのくに)に訪ねてきた伊邪那岐命と争ったので黄泉津大神(よもつおおかみ)とも云う。

黄泉比良坂

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 伊邪那岐命が黄泉国から筑紫に帰って、穢れ(けがれ)を祓った時に天照大神、月読命、素盞嗚尊(140年頃-200年)の三貴子(三貴神)が生まれた。

    

 宮内庁が伊邪那美命の陵墓としているのは、神納山(かんのうやま)にある松江市八雲町日吉の岩坂陵墓参考地である。



岩坂陵墓の1.2km北西の大庭町(おおばちょう)に神魂神社(かもすじんじゃ、国宝)が鎮座、伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)を主祭神としている。

奥宮の出雲大神宮には磐座があり、出雲神族の王(大国主)や副王(少名彦)が亡くなると3年間の風葬後に洗骨して磐座に埋葬した。

神魂神社は、出雲王国の「東の王家」である富家(神皇産霊尊系)の本拠地であった。


 


 出雲王国の「西の王家」である郷戸家(ごうどけ、神門家)の本拠地は智伊神社(出雲市知井宮町1245)の地であった。

 智伊神社の元は北東900mの多聞院の地であった。郷戸家は高皇産霊尊系であった。

 


 出雲市斐川町富村(とびむら)596の富神社(とびじんじゃ、八束水臣津野命)も関係が深い。



伊邪那美尊(いざなみのみこと)は、出雲国風土記には神魂命(かみむすひのみこと、かもすのみこと)と記されている出雲の祖神で、娘の綾門日女命(あやとひめのみこと)と真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめのみこと)には大己貴命(おおなむちのみこと)が通っていたので、神魂命と大己貴命(160年頃-220年頃)は強い絆で結ばれている。

 

 もう一つの比婆山御陵は広島県庄原市と島根県仁多郡奥出雲町の境の比婆山(ひばやま、1264m)にあり、山頂のイチイの古木(樹齢2000年)と巨石に囲まれた円丘が伊邪那美尊の墳墓となっている。

 当地周辺も蹈鞴製鉄が盛んであった。御陵の4.8km南南東の熊野神社(庄原市西城町熊野)、3.6km南南西の比婆山神社は伊邪那美神を祀り、比婆山御陵の遥拝所となっている。


印南神吉   メールは  nigihayahi7000@yahoo.co.jp   


# by enki-eden | 2024-03-12 00:03

卜部氏(うらべうじ)

弥生時代に行われていた卜占(ぼくせん)は、鹿や猪の肩甲骨を焼いて吉凶を判断する太占(ふとまに)であったが、古墳時代に中国の亀卜(きぼく)が伝わり、宮中では亀の甲羅を使って占うようになった。

亀卜(きぼく)は、亀の腹甲に溝や穴を開け、燃やして熱した木片を押し付けた時にできる卜兆(ぼくちょう、ひび割れ)の形により吉凶・方角を占う。

対馬・壱岐・伊豆の卜部氏(うらべうじ)が、宮中の神祇官として祭祀を司り、亀卜(きぼく)により国家事業や祭祀に関する吉凶を占った。

伊豆の卜部氏が主流で、国家の大事に関与した。

現在でも宮中では、大嘗祭(だいじょうさい、皇位継承祭祀)で使用する稲と粟の採取地の方角を決める際に亀卜(きぼく)により占っている。

「新撰亀相記(しんせんきそうき)」全4巻(甲巻・乙巻・丙巻・丁巻)が天長7年(830年)に卜部遠継(とおつぐ)により編纂され、53代淳和天皇(786年‐840年)に奏上された。

新撰亀相記は平安時代初期の卜占書で、神祇官卜部氏の伝承・職掌に関する書であるが、現在は甲巻の写本が残っている。

「宮主秘事口伝(みやじひじくでん)」が室町時代(南北朝の北朝)の康安2年(1362年)に神祇官の卜部兼豊(1305年‐1376年)により編纂された。

宮主(みやじ)とは宮中に仕える卜部氏で、それぞれ天皇、皇后、皇太子などに仕え、神事の実務を司っていた。

卜部氏と中臣氏は天児屋根命(2世紀)を祖とし、中臣氏も当初は卜部氏と称していた。両氏とも宮中の神事を担当していた。

卜占は古代中国の殷(いん、BC1750年‐BC1020年)で盛んに行われ、華北でも行われていたものが対馬に伝わったのではないか。

「契丹古伝」に記された都市伝説の「殷(いん)は元倭国なり」と関係があるかもしれない・・・

「伊豆卜部氏」と「壱岐卜部氏」は、「対馬卜部氏」から派生した一族だと考えられる。

古代、対馬卜部氏は「日の神(阿麻氐留神社)」を祀り、壱岐卜部氏は「月の神(月讀神社)」を祀り、卜占(ぼくせん)で吉凶・方位を占っていた。

「日の神」も「月の神」も祖神は高皇産霊神(たかみむすひのかみ)だと云う。

京都府与謝郡伊根町の浦嶋神社(宇良神社)の祭神は浦嶋子(浦嶋太郎)で、筒川大明神と云う。月読命の子孫(壱岐卜部氏)として丹後国与謝郡筒川の庄の領主であった。

「対馬卜部氏」、「壱岐卜部氏」、「伊豆卜部氏」が大和国や山城国に来て、卜占(ぼくせん)による吉凶・方位占いで宮中に仕える神祇官になった。

京都市左京区吉田神楽岡町の吉田神社の神職を務めていた卜部兼煕(かねひろ、1348年‐1402年)が吉田姓に変更。

吉田兼俱(かねとも、1435年‐1511年)が唯一神道(吉田神道)を創始、神道界に大きな権勢を持った。兼俱は吉田神社の境内に葬られ、神龍大明神として祀られている。

傍系に徒然草の吉田(卜部)兼好(1283年頃‐1352年頃)がいる。

吉田神社末社神龍社地図



天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ、奈良県橿原市)の祭神は、櫛真智命(くしまちのみこと)で太占(ふとまに)を司る神。卜部氏である。

櫛真智命は天児屋根命と同一と云う説がある。  

真智命(くしまちのみこと)の「まち」は、私見ですが「まじない」のことで、饒速日命(にぎはやひのみこと)と三炊屋姫(みかしきやひめ)の子・宇摩志麻治(うましまぢ、うましまち)も「まじない」が得意であった。

天照大神が岩屋に籠られたた時、八十万の神(やそよろずのかみ)たちが天の安河のほとりに集まって祈祷をしたり、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が踊ったり、中臣氏などの先祖である天児屋根命が天照大神を称える「ひふみの祝詞(のりと)」を奏上した。

祝詞は「ひふみよいむなやこと」で始まる呪文であった。天照大神が岩屋の外に出て、世界が再び明るくなった。

天照大神①(大日霊貴、140年頃生)が岩屋に籠ったのは、西暦158713日の皆既日食か西暦1681217日の金環日食のどちらかだと考えられる。

天照大神②(卑弥呼、179年‐247年)が亡くなったのは、西暦247324日の皆既日食であったと考えられる。

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この祝詞をイスラエル人のヨセフ・アイデルバーグ氏(1916年‐1985年)がヘブライ語で解釈し、「誰がその美しい方(女神)を出すのでしょう。彼女に出ていただくために、いかなる言葉をかけたらいいのでしょう。」と訳した。

海人族安曇氏の祖神である「安曇磯良(あずみのいそら)」は、ヘブライ語で「強いイスラエル」と云う意味になる。

志賀島(しかのしま)で綿津見三神を祀る志賀海神社(しかうみじんじゃ)は安曇磯良の子孫が宮司、神職を務めてきた。

天津神(天孫族)や海人族は西アジアのシュメール、フェニキア、ユダヤなどの影響を受けていると考えられる。


印南神吉   メールはこちらへどうぞ   nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2024-03-07 00:05

 旧約聖書の預言者イザヤ(BC8世紀)によるイザヤ書2415節に、「東で主をあがめ、海沿いの国々でイスラエルの神、主の名をあがめよ。われわれは地の果てから賛美の歌を聞いた。栄光は正しい者にあると。」

 「東の海沿いの国々」は日本列島かもしれない。

縄文時代の後期に西アジアのウバイド、シュメール、ユダヤ、フェニキアなどから日本列島に波状的に渡来した民が縄文人と交わり、天津神(天孫族)を構成したと考えられる。

伊勢神宮内宮の参道灯篭にイスラエルの紋「ダビデの星」が刻まれていたが、2018年のバス事故で灯篭が壊れ、死亡者が出たので520基の灯篭が全部撤去された。

 伊勢神宮内宮の別宮(べつぐう)である伊雑宮(いざわのみや、志摩国一宮)は、旧約聖書の「預言者イザヤ」の宮と云う説がある。(三重県志摩市磯部町上之郷374

 祭神は天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)。


 

 大日霊貴(おおひるめのむち、天照大神①)が、「豊葦原(とよあしはら)の中国(なかつくに)は我が御子正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が統治する国として委任する」と宣言した。

 素戔嗚尊(すさのおのみこと、140年頃‐200年)が亡くなり、大国主命(160年頃‐220年頃)が葦原の中つ国を継承すると、西暦201年に卑弥呼(天照大神②、179年‐247年)が倭国王に即位、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が大国主命に国譲りを強制した。

 大日霊貴(おおひるめのむち、天照大神①)の孫で、天忍穂耳尊の子である天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)が葦原の中つ国に降臨した。

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 日本列島の多くの地域は出雲神族の大国主命や出雲族の素盞嗚尊が国造りをして開拓した地で、「豊葦原の中国(なかつくに)」と云われていた。

 「豊葦原の中国」の統治権を天津神(天孫族)に譲り渡しなさいと云う主張は、ユダヤ教徒の選民思想に近いかもしれない。

 天津神(天孫族)には選民意識があったように見える。   

「天皇家のY遺伝子」をご参照ください。

   

霊能者の望月彩楓(もちづきあやか、1980年生)さんが、出雲大社で大国主命と交信したユーチューブを出しているので興味のある方はご覧くだい。(47分)




選民思想はユダヤ教徒の特殊な思想ではなく、時代や民族の状況により、或いは首長個人の価値観・考え方により発生する事がある。

近代では、民族の優越性を妄想して他民族を圧迫することが度々あった。ナチスのユダヤ人抹殺計画、欧米人のキリスト教及び白人至上主義、中国人の中華思想、明治維新の尊王攘夷、大東亜共栄圏の八紘一宇など極度な民族主義によって、他民族を支配するための大きな戦争に結びつくことにもなった。

更に第二次大戦後では、アメリカの覇権主義、イスラエルのシオニズム、習近平主席の中国の夢、プーチン大統領のロシア帝国復興などが今でも堂々と進行中である。

このようなイデオロギーに基づく侵略に対して、政治的に軍事的にイデオロギー的に対抗するために、長い年月の努力が今後とも必要だが、時代の流れは確実にそのように変化している。

それには日本人の覚醒、覚悟、実行力も必要となるでしょう。縄文人由来の遺伝子パワーを世界に向けて発揮する時代が来ているが、まだ氣づいていない日本人が多い・・・

キリスト教の教会で結婚式を挙げ、正月は神社に初詣、法事・葬式は仏式で行い、日本人は八百万の神々を受け入れ、「助け合う和合の社会」を築いてきた。

日本人は謙遜でシャイな人が多いが、世界に向けて力を発揮する時代になってきたと思う。

ウクライナ人のボグダンさん(38才)が5年ぶりに日本にやって来て、日本の支援に感謝の集会をしておられた。


印南神吉   メールはこちらへどうぞ   nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2024-03-02 00:07

九鬼文書(くかみもんじょ)は、和歌山県田辺市本宮町本宮の熊野本宮大社(主祭神・家都美御子大神、けつみみこのおおかみ)の九鬼家(くかみけ、くきけ)に伝わる文書。

九鬼家は熊野本宮大社の神官を代々務めてきており、現在も九鬼家隆氏(昭和31年生)が宮司を務めている。

主祭神の家都美御子大神は素戔嗚尊(すさのおのみこと、西暦140年頃‐200年)の事で、證誠大権現(しょうせいだいごんげん)とも云う。



九鬼家は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の末裔で、先代旧事本紀によると天児屋根命は西暦185年頃の饒速日(にぎはやひ)東遷に従って倭国(北部九州)から大和国(奈良県)に東遷、中臣氏・藤原氏・卜部氏などの祖となった。

九鬼家は操船が得意で熊野水軍を統括、北牟婁郡(きたむろぐん)九鬼村九木浦(現在の三重県尾鷲市九鬼町)に移り、九鬼水軍発祥の地となった。



更に志摩国を北上して勢力を伸ばし、志摩水軍・鳥羽水軍を率いて織田信長(1534年‐1582年)に仕え、志摩国を領有、強力な織田家水軍となった。

1574年の長島一向一揆では、織田勢による鎮圧に九鬼水軍が加勢し勝利した。

その後の大坂石山本願寺との海戦でも、九鬼水軍は毛利水軍・村上水軍に勝利、石山本願寺は10年間の石山合戦に耐えたが、天正8年(1580年)に織田信長に降伏し宗教一揆は衰退していった。

織田信長亡き後は、九鬼氏は豊臣秀吉(1537年‐1598年)に仕え、水軍総大将になった。


江戸時代に九鬼家は海賊大名と云われたが、丹波国綾部藩主と摂津国三田藩主となり水軍ではなくなった。明治時代になると子爵家に列した。

「九鬼文書(くかみもんじょ)」は、「上記(うえつふみ)」や「竹内文書(たけうちもんじょ)」と同じで、神代文字で記されていたが、藤原不比等(659年‐720年)が漢字で書き写したと云う。

「九鬼文書」に別名があり、「大中臣文書」と云う。

記紀と同じく、九鬼文書には伊弉諾尊(いざなぎのみこと、125年頃‐190年頃)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の三貴子として天照大神、月読命、素戔嗚尊が記されている。

また、上記(うえつふみ)・竹内文書・宮下文書・神伝上代天皇紀などの古史古伝には、鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)王朝の73代目を神武天皇(181年‐248年)としている。

鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)王朝は、縄文時代から続く飛騨族に関係があるかもしれない。飛騨族は出雲族に匹敵する勢力により相互交流、婚姻関係をもっていたと考えられる。

古事記編纂の稗田阿礼(ひえだのあれい)は飛騨出身と云う。


出雲神族は4000年程前にインドのクナ国から日本列島に渡来、縄文人と交わり、東北・北陸・山陰・東海・近畿・から九州までを開拓していった。

出雲神族初代王の即位が縄文時代の紀元前660年(辛酉)であったと云う。

私見による神武天皇即位年は弥生時代末期の西暦211年(辛卯)であるが、明治政府により出雲神族初代王即位年と同じ西暦紀元前660年とされた。

この決定は、私見による「西暦201年」の「出雲の国譲り」がはっきりと投影され、明治政府によって出雲国の歴史の上に倭国・大和国の歴史が覆い被さることになった。

出雲国や飛騨国の歴史は、偽書とされる古史古伝に辛うじて残されている。

記紀が記す「天照大神」は、大日孁貴神(おおひるめのむち)、卑弥呼(ひみこ)、臺與(とよ)の「三柱の神」を一柱の神として表現していると私は考えている。

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九鬼文書でも「天照大神」を三柱の神として表現し、太陽神・自然神の「天照日大神」、素戔嗚天皇と並ぶ女帝の「天照座天皇」、皇祖神の「天照大日靈天皇」の三柱の神としている。

皇祖神の天照大日靈天皇は、素戔嗚天皇の皇女で天皇家の祖神になったと云う。

物部氏の物部文書、天児屋根(2世紀)後裔の九鬼文書、平群真鳥(5世紀)の竹内文書、徐福(BC3世紀)の宮下文書、ヲシテ文字で記された三輪氏の秀真伝(ほつまつたえ)、宇佐家伝承、東北の東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)などの古史古伝は偽書とされるが、記紀と同じく重要な歴史書ではないかとする説に世間の人気が集まり始めている。


九鬼文書では、

天地の始まりは母止津和太良世(もとつわたらせ)大神で、私見では紀元前2世紀。

初代天皇は天御中主(あめのみなかぬし)天皇、私見では紀元前1世紀。

12代目が伊弉諾(いざなぎ)天皇、私見では西暦125年頃生、190年頃崩御。

伊弉諾天皇が白人根国(エジプト、中東)に降臨、伊駄国(イタリア)を造った。

月夜見(つくよみ)天皇の子孫が黒人根国(インド)で栄え、釈迦(しゃか)になった。

素戔嗚(すさのお)天皇の子孫が白人根国で栄え、野安押別(のあのおしわけ、ノア)命になり、母宇世(モーセ)と伊恵斯(イエス)が出た。

大国主(おおくにぬし)天皇(出雲天皇)が白人根国で生誕、黒人根国を経由して日本列島に帰還したとある。

九鬼家の九鬼文書とは別に、中臣家の「天津蹈鞴秘文遍(あまつたたらひぶんへん)」があり、神々との交霊により超能力や霊能力を発揮できるとされる。

神武東征(204年‐209年)に従った天種子命(あめのたねこのみこと)は天児屋根命の孫・中臣連の祖で、天津蹈鞴秘文の神通力を駆使して天下統一に資したと云う。

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現代の社会は、戦争、勢力争い、ネガティブな思考、暗い事件などが溢れているが、縄文人からDNAを受け継いで八百万の神を受け入れてきた我々日本人が、世界を「助け合う和合の社会」へと導くことに目覚めるならば、世界の未来は素晴らしいことになるでしょう。

五色神面①をご参照ください。

   

印南神吉   メールはこちらへどうぞ   nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2024-02-25 09:22