古代史探訪

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ベンガラ(弁柄、紅柄)

 酸化鉄の1つであるベンガラは、天然には赤鉄鉱として産出する酸化鉄であり、ベンガラの名はインドのベンガル地方で産出したことに由来する。オランダ語でBengala、英語ではRed Iron Oxide。
 このベンガラは赤色顔料で、人類が最初に使った赤色の無機顔料である。フランス南西部のラスコー洞窟やスペイン北部のアルタミラ洞窟での赤色壁画は約17,000年前に描かれた。

 日本では縄文時代に土器などに施した赤色彩色が、ベンガラを使用している。9,500年前の鹿児島県上野原遺跡の土器、6,000年前の福井県三方町の鳥浜遺跡の弁柄櫛、5,500年前の青森県三内丸山遺跡の土器、3,000年前の青森県亀ヶ岡遺跡の土器などにベンガラが使われている。
 福井県鳥浜遺跡の弁柄櫛は、素戔嗚命(西暦140年頃-200年頃)の妻となった奇稲田姫も同じような櫛を使っていたと考えられる。「福井県のホームページ」をご覧ください。

 素戔嗚は奇稲田姫を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変えて髪に刺し、ヤマタノオロチを退治した。実際には奇稲田姫を櫛に変えたのではなく、奇稲田姫の使っていたベンガラ塗りの櫛を借りて髪に刺し、奇稲田姫の霊力・魔力・呪力をもらったと考えられる。
 伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)の「黄泉の国」の段でも湯津爪櫛が出てくる。当時は男性も「みづら」に櫛を刺していた。

 古墳時代には、北部九州に多い装飾古墳でベンガラの赤い壁画が見られる。赤色は当時「魔除け」、「厄除け」、「再生(血の色)」などと信じられていた。
 奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(7世紀末)では、石室の内壁面に漆喰を塗り、その上に描かれた人物像には極彩色が用いられている。2種類の赤色が使い分けられており、女人像の赤い上衣はベンガラで、帯の赤は朱(水銀朱,HgS)で彩色されている。
 これらは、天然の鉱物からの無機顔料であったために、変色することなく現在まで鮮やかな色を維持している。

 日本では江戸時代にベンガル地方の顔料を輸入したので「べんがら」と名付けられた。京都ではベンガラ格子(紅柄格子、べにがらごうし)などの建材塗料にベンガラが使われた。耐候性、耐久性があり、落着いた色あいの特徴を活している。ベンガラは空気中で最も安定な酸化状態なので化学変化が起こりにくく、耐候性・耐久性に優れた顔料と言える。

 酸化鉄(Fe2O3)を多く含んだ土壌は黄色から赤褐色をしており、これを焼くと鮮やかな赤になる。日本では丹土(につち)と呼ばれ、古くから赤色顔料として使われた。
 江戸末期には緑礬(りょくばん、硫酸第一鉄の含水塩)を焼成して顔料用酸化鉄を作った。岡山県高梁市(たかはしし)成羽町(なりわちょう)吹屋(ふきや)のものが好まれ、「吹屋弁柄」は日本中に供給された。九谷焼、伊万里焼、有田焼などの赤絵にも使われた。神社の赤色塗装は、鮮やかな赤は鉛丹(四酸化三鉛、Pb3O4)の橙赤色で、少し茶色っぽい赤がベンガラである。

 現在では、湿式法によって高純度ベンガラが化学的に大量生産されている。合成酸化鉄赤は鉄の赤さびと同じで、硫酸鉄を高温で熱し、苛性ソーダで中和する。
 近代になって、軍艦などの船底塗料が大量に必要になり、生産の追いつかない吹屋弁柄は廃れていった。

 有機顔料(絵具)を使って描かれた赤色は、化学的には不安定で、時間が経つと共に変色・褪色していく。レオナルド・ダヴィンチ(1452年-1519年)の「モナリザ」の頬と唇は、絵具の赤色が約500年後の現在色褪せてしまっている。
 ©2012 INNAMI KANKI
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# by enki-eden | 2018-01-16 09:57

本えびす

明石市の稲爪神社の「本えびす」に行ってきました。
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©2012 INNAMI KANKI

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# by enki-eden | 2018-01-10 12:10

岩岡神社(神戸市西区)

兵庫県神戸市西区岩岡町182   南の方から入ると境内に車を停められます。
明石郡岩岡村鎮座
祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと)、
   正建大神(松平若狭守直明公、まつだいらわかさのかみなおあきらこう)。



 1682年(天和2年)に神出神社から当地天ヶ岡に大岩を迎えて祀った。これが岩岡神社の前身である天ヶ岡神社の起こりと云う。
 神代の昔、素盞嗚尊(西暦140年頃出生)が当地に降臨したとの伝承があるので、1693年(元禄6年)に社殿を建立し、姫路の廣峯神社より牛頭天王(素盞嗚尊)を勧請した。
 素盞嗚尊は「五穀の守護神」で、五穀豊穣と当地の守護・発展に霊験は殊のほかあらたかである。

 1721年(享保6年)に、明石藩主で当地開拓の祖である松平直明公(1656年-1721年)が死去すると、当地の開拓民はその徳を慕い、「正建神霊」と書いた位牌を受け、天ヶ岡神社(当社の前身)に合祀した。その後、位牌を神出村の西光寺などに納めていたが、1851年(嘉永4年)に当社にお迎えし、正建大神(松平直明公)の大祭を行った。
 秋の大祭(10月10日)は威勢の良い「ふとん太鼓」などで大賑わいになる。 当社は氏子が当番で管理しており、明石市の柿本神社(人丸神社)の宮司が宮司職を兼務しているようだ。

    入口の石鳥居、参道は長い。
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 拝殿、西向きになっており、前に土俵がある。 春祭りでは相撲が奉納される。
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 幣殿と本殿、屋根瓦には素盞嗚尊の祇園木瓜紋と松平家の三つ葉葵紋がある。
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 「岩の神」、社務所の前に松の古木と共に一個の「れき岩」を祀ってある。
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 豊宮、「翁の面」で雨乞いをすると必ず雨が降ると云う。
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   豊宮の左に稲荷神社
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 松平直明は徳川家康の曾孫で、1678年に越前大野藩主となり、1682年に播磨明石藩主に転封となった。新田開発に力を入れ、兵学を重視した。墓所は明石市立天文科学館南の長寿院。
 松平直明公が岩岡一帯の開拓に尽くしたので、住民が正建大神として岩岡神社に合祀した。

 私事ですが、私の先祖は越前国大野藩の藩士でしたが、1682年に松平直明公が大野藩主から明石藩主に転封になったので、私の先祖も明石に移住し明石藩の藩士となりました。
©2012 Innami Kanki

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# by enki-eden | 2018-01-08 12:46

印南住吉神社(いんなみすみよしじんじゃ、加古郡稲美町)

兵庫県加古郡稲美町(いなみちょう)印南(いんなみ)1069   境内に車を停められます。
祭神 表筒男命(うわつつのおのみこと)、
   中筒男命(なかつつのおのみこと)、
   底筒男命(そこつつのおのみこと)、
   息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)。

 国安天満神社の宮司が兼務している。神社の南は灌漑用ため池の宮池がある。


 
 当地の開墾が始まり、1712年(正徳2年)に泉州住吉大神の分霊を勧請したとある。私見では、泉州(和泉国)ではなく、摂津国の住吉大社からの勧請だと考えていたが、当地の開墾にやって来た泉州堺の人が信仰していた住吉大神を祀ったのが始まりのようです。

 播磨国には住吉神社と大歳神社(大年神社)が多い。海人族の津守氏は住吉大社を本拠とし、各地に社領・荘園を持ち、造船用の木材確保をしていた。大歳神は降雨量の少ない瀬戸内海地方に灌漑用ため池や水路の築造を指導した。

   入口の鳥居
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   拝殿、西南西向きになっている。
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   幣殿と本殿
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   鹿島社、祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)か。
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   愛宕社(火伏せの神様)、立派な瓦。
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   鳥居の近くに印南行者堂。役行者(えんのぎょうじゃ、634年-706年)を祀る。
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©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-01-02 00:05

おめでとうございます

あけましておめでとうございます!
                    2018年元旦

   新幹線から写す。
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# by enki-eden | 2018-01-01 00:03

国安天満神社(加古郡稲美町)

丘の宮
兵庫県加古郡稲美町国安(くにやす)538  電079-492-0741  無料駐車場あります。
祭神 天満大神(菅原道真公、学問の神)、
   大年大神(池大明神)、
   市杵島姫命(辯財天女)。
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 神社沿革
 白雉4年(653年)、王子権現として創立。 寛平5年(893年)、隣接する天満大池の池大明神が御旅所の現宮地に遷った。
 菅原道真公(845年-903年)が左遷で、901年に太宰府へ向かう途中に当地で休憩したと云う伝承から、後に京都北野天満宮から道真公を勧請した。
 1390年に当社南に隣接する「天満大池」の島に弁財天が祀られたので、当社にも弁財天と同一とされる市杵島姫命を祀った。
 元禄14年(1701年)、現状のような造営となった。
 
 当社南の「天満大池」の築造が675年頃と見られ、ため池の多い播磨国でも「最も古い大規模ため池」になっている。大きさも兵庫県で2番目に大きい。兵庫県で最も大きいのは4kmほど北にある「加古大池」となっている。
 ため池の数は兵庫県に38,000個以上あり、全国で一番多い。兵庫県の中で多いのは、淡路市で13,000個以上ある。
 灌漑用ため池や水路は2世紀後半に大年神の指導により開発され、降雨量の少ない瀬戸内海気候の地で大量にため池が築造されてきた。灌漑用水は農業用地の開墾・開拓に役立ち生産性が上がったので、播磨国には大歳神社(大年神社)が多く、当社にも池大明神として大年大神が祀られている。
 天満大池の北東1.5kmにも大年神社が鎮座している。

   南の鳥居
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   西の鳥居
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 拝殿、南南西向きになっている。梅紋と神牛は天満宮の象徴。
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 西の鳥居横に菅原道真公が京を去る時に詠んだ歌、
   東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
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 京の梅が道真公を慕って飛んで来たという「飛び梅」伝説がある。「太宰府天満宮の飛梅ちぎり」をご参照ください。

 手水舎が「縁結社」になっており、「鯉を愛で 意をいただき 縁むすぶ」とある。
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   社殿(拝殿、幣殿、本殿)
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 拝殿前に茄子(なす、為す)。 
 出羽国米澤藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん、1751年-1822年)の格言
   為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
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 上杉鷹山の家訓「伝国の辞」を読むと名君ぶりが理解できる。
  ・国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我の私物ではない。
  ・領民は国(藩)に属しているものであり、我の私物ではない。
  ・国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、
   君主のために存在・行動する国・国民ではない。
   この三カ条を心に留め忘れることなきように。

 境内の西に「歴代天皇遥拝所」と「靖国社」
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 八幡神社(品多別命、ほむだわけのみこと)
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 手前から「大神社(天照大神)」、「多賀神社(伊邪那岐命)」、
 「琴平神社(大物主大神)」。
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 本殿後方に杉の神木が2本、既に枯れている。 稲美町史によると、
 「天正8年(1580年)の頃、豊臣秀吉(1537年-1598年)が三木の別所氏を攻めた時、播州一円の城砦・寺社を打ち壊し回った。当社を取り潰しにかかると、神木から大蛇が頭を出してきた。
 秀吉がこれを見て、捨て置けと言い付けたので取り潰しを免れた。」とある。
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 境内東に手前から、「愛宕神社(火産霊神、ほむすびのかみ)」、
「稲荷神社(保食神、うけもちのかみ)」、「八坂神社(須佐之男命)」、
「大将軍神社(磐長比売命、いわながひめのみこと)」。
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 神輿倉
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 大年神の生きた2世紀半ばから3世紀初めの弥生末期では、灌漑用ため池は小規模であったが、古墳時代に入ると土木技術の発展により古墳が大型化し、ため池や水路も大掛かりになっていった。
 大きなため池築造の難工事では「人柱(生贄・人身御供)」が立てられることもあった。当地稲美町のため池築造にも人柱が立てられた伝承が残っている。

 生贄(いけにえ)は極めて残虐な風習だが、世界中で行われていた。旧約聖書によると、4、000年前のアブラハムが神から「息子のイサクを燔祭として奉げよ」と云われ、エルサレム近くのモリヤ山に行き、イサクをナイフで刺そうとした時、神はアブラハムの篤い信仰を知り、イサクを殺す事を止めさせた記事がある。
 諏訪市の守屋山(1,651m)がモリヤ山と関係あると云う説や、物部守屋(587年没)も関係があると云う説も聴くが・・・

 日本の古墳時代では、11代垂仁天皇(4世紀前半)に野見宿禰が進言して殉葬がなくなったとされているが、その後も続けられている。中世では城郭築造にも人柱が立てられることがあった。
©2012 INNAMI KANKI
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# by enki-eden | 2017-12-27 10:09

三位一体(さんみいったい)の否定

 三位一体は英語ではtrinity(トリニティ)で、父(神)、子(イエス・キリスト)、聖霊が一体であるとする教理。これはキリスト教の根本的な教理で、殆どのキリスト教宗派が共有している。
 しかし一部のキリスト教宗派では三位一体を認めず、キリスト教以前のユダヤ教でも三位一体の概念はない。
 三位一体を認めない宗派は、「預言者」であるイエスが「神の子にして絶対神と同格」となったことに反対している。
 それが16世紀に始まったユニテリアン主義で、18世紀後半にアメリカ、イギリスのプロテスタント教会から発展していった。三位一体の教理を否定し、神の唯一性を強調している。

 キリスト教はユダヤ教から生まれた。イエスはユダヤ教のエッセネ派クムラン教団に属していた。神の国を宣教したイエスが磔刑で死ぬと、「イエスの復活」後にはじまった宗教活動は、イエスをメシア(キリスト、救世主)と信じ「神の子」として、神と同一視した。
 そしてイエス・キリストを信ずる者が、ユダヤ教の律法を守らなかったので両者の対立は決定的になり、1世紀後半にユダヤ教から完全に離反してキリスト教を広めていくことになる。
 西暦622年に預言者ムハンマド(571年-632年)によって始まったイスラム教は、ムハンマドをモーゼ、イエスに続く最高の「預言者」としている。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は厳しく対峙して、長期に亘って宗教戦争・民族戦争が頻発している。イスラム教徒同士の戦争やテロ活動も多い。

 そして、経営コンサルタントで歴史評論家の落合莞爾氏(1941年生)によれば、國體ワンワールドがユニテリアン主義に基づいて造った組織がフリーメーソンだと云う。
 落合氏は、ユニテリアン主義、クエーカー(キリスト友会)、三位一体を否定するキリスト教宗派などがフリーメーソンと繋がりが深いと云う。

 また、フリーメーソンは國體ワンワールドネットワークの一部なので、國體ワンワールドに属する人々は、フリーメーソンに属している。
 フリーメーソンは16世紀後半頃に設立された友愛結社で、全世界の会員数は600万人、日本人は300人程いる。
 明治維新の直前、フリーメーソンのスコットランド人であるトーマス・ブレーク・グラバー(1838年-1911年)に影響された岩崎弥太郎(1835年-1885年)、坂本龍馬(1836年-1867年)などがフリーメーソンになった。最近では小泉純一郎(1942年生)、高須克弥(1945年生)などがフリーメーソンになった。
 フリーメーソンのマッカーサー元帥(1880年-1964年)が昭和天皇(1901年-1989年)をフリーメーソンに導いたと云われる。

 GHQ総司令官でフリーメーソンのマッカーサー元帥やその副官でクエーカー教徒のボナー・フェラーズ(1896年-1973年)が、「天皇の戦争責任を不訴追」と「象徴天皇制」を打ち出して昭和天皇の存続に大きく貢献した。
 それ以前にアメリカ政府の政策として、日本を安全に占領するために「天皇を平和の象徴として利用する」方針があり、GHQに伝えられていた。
 また、クエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(ヴァイニング夫人、1902年-1999年)はGHQに呼ばれ、明仁親王(平成天皇)の家庭教師を務めた。
 そして、人間を神として認めないユニテリアン主義のフリーメーソンとクエーカー教徒は、天皇を神とした日本のシステムに反対し、天皇に「人間宣言」をさせることも重要な目的であったのではないか。

 イスラエルが建国されたのは1948年5月14日、その70年後の2018年にイスラエルの荒廃は終わり、ソロモン神殿が再建され、聖都エルサレムが再建されると云う。
 ソロモン神殿はBC10世紀にソロモン王が築造し、BC515年に再建された。BC20年にヘロデ王によって改築された。
 イエス・キリストはこの神殿が商人たちの金もうけの場になっているのを嘆き、商人たちを神殿から追い出した。

 紀元70年のユダヤ戦争でローマ帝国軍により神殿は破壊された。神殿の外壁は基礎部分が残されており、「西の壁」は高さ19m、幅57mで「嘆きの壁」と呼ばれ、壁の前が礼拝の場所となっている。
 そしてイスラエルでは神殿が破壊されて以来、再建計画がずっと続いている。
イスラエルの首都はテルアビブであるが、イスラエルはエルサレムを首都と主張している。国連では認められていない。アメリカのトランプ大統領は、イスラエルの首都をエルサレムと認め、アメリカ大使館をエルサレムに移すと宣言し、世界中から批判・反対されている。

 2018年にイスラエルの首都がテルアビブからエルサレムに遷都されると云う動きがあるので、それを実行すればイスラム教徒やキリスト教徒との戦争が起きる可能性が高い。その争いの後、地域が安定し、メシアが現れると云うが、それは日本人かもしれないと云う。
 メシアは二人現れ、一人は「アロンのメシア(モーゼの兄アロンの末裔)」で、もう一人は「イスラエルのメシア(イスラエルの末裔である日本人)」と云われる。

 平成天皇は2019年4月に退位の予定、戦後70年余りで新しい形の日本と世界が始まる。日本とイスラエルは連動しているように見える。
©2012 INNAMI KANKI

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# by enki-eden | 2017-12-19 08:59

「耜(スキ)」は「磯城(シキ)」か

 日本書紀に記載の味高彦根神( あじすきたかひこねのかみ)は、父・大国主神と母・田心姫命(古事記では多紀理毘売命)の子で、古事記では「阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)」等と記す。
 出雲国風土記には阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)と記され、大穴持命(大国主命)の子としている。

 「あじすき」の意味は「良く切れる鋤(すき)」と云う説があり、味耜高彦根神は農耕の守護神である「雷神」、「蛇」と考えられている。奈良県御所市鴨神1110の高鴨神社に祀られており、「迦毛之大御神」とも云う。
 味耜高彦根神は鴨氏の祖神で、鴨氏(賀茂氏)は御所市鴨神を本拠地として、金剛山麓の東持田に移住した一族が葛木御歳神社を祀り、葛城山麓の葛城川沿いに移住した一族が鴨都波神社を祀った。

 赤のアイコンが高鴨神社、黄が葛木御歳神社、青が鴨都波神社、
 紫が大神神社(おおみわじんじゃ)。

  
 大和国西部の「葛城」に住む鴨氏は、東部の「磯城」の三輪山(大神神社)に住む事代主神とも結びつき、摂津国北部(大阪府茨木市、高槻市)へ勢力を広める。更に山城国(京都市)へと勢力を拡げていく。
 事代主神も味耜高彦根神と同じく大国主神の子で、母は神屋楯比売(かむやたてひめ、勘注系図では湍津姫)である。奈良盆地の西と東に分かれているが同族であった。

 狭野尊(さののみこと、181年-248年)は筑紫から大和に東遷して、西暦211年に初代神武天皇として即位するが、東遷の途中に紀伊半島で難儀する。それを助けて大和に導いたのは八咫烏(やたがらす、味高彦根)で、磯城の地を治める兄磯城(えしき)を討って勝利した。
 兄磯城の弟の弟磯城(おとしき)は服従して磐余(いわれ)の地を奉ったので、狭野尊は磐余彦と云われた。弟磯城は後に磯城県主(しきのあがたぬし)に任じられ、磯城県主から代々の天皇に妃を出した。

 磯城は師木、志貴とも表記する。初瀬川(大和川)、寺川などが奈良盆地(当時は大和湖)に流れ込んで、扇状地を造った地域が磯城の地で、10代崇神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇、29代欽明天皇の宮が営まれた。
 磯城島(しきしま)に天皇の宮が多く置かれたこともあり、大和国の中心地だったので、大和国にかかる枕詞は「敷島の」になった。
  敷島の 大和の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ 真幸く(まさきく)ありこそ
                          万葉集 3254 柿本人麻呂

  原文は 「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」

 神武天皇の皇后になる媛踏鞴五十鈴媛(比売多多良伊須気余理比売)は事代主神の長女で、「須気」は「磯城」と同じと云う説があり、「須気余理比売」は「磯城依姫」だと云う。
 「あじすきたかひこね」は「あじしきたかひこね」とも云われるように、「すき」と「しき」は「磯城」が由来の名であると考えられる。
 2代綏靖天皇の皇后になる五十鈴依姫は事代主神の次女で、3代安寧天皇(磯城津彦玉手看、しきつひこたまてみ)が生まれる。
 4代懿徳天皇の和風諡号は大日本彦耜友(おおやまとひこすきとも)、弟は磯城津彦と云う。

 磯城(しき)の語源は「鋪、舗」で、「金属鉱山の坑道」であるから、磯城氏は鉱物の採掘、踏鞴製鉄を生業としていたと考えられる。大和国は水銀、銅、鉛などの鉱物資源が豊富で、踏鞴製鉄も盛んであった。
 神武天皇の東遷も「葦原の中つ国平定」の一環だったが、鉱物資源(特に水銀)の開発が大きな目的の一つだった。神武天皇は、「丹(水銀)を手に入れると、武器を使って戦わなくとも天下を取れる」と云った。
©2012 INNAMI KANKI
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# by enki-eden | 2017-12-13 00:23

布都御魂(ふつのみたま)

 素戔嗚(布都斯、ふつし)の父である布都(ふつ)が所持していた剣を霊剣(布都御魂)として祀っているのが物部氏の本拠地である奈良県天理市の「石上神宮(いそのかみじんぐう)」である。

 霊剣は85cmの鉄剣で、通常の刀と逆方向に反る「内反り」で、環頭が付いている。
 石上神宮は、素戔嗚の霊剣である天羽々斬(あめのははきり、布都斯魂剣)、布留御魂(饒速日の十種の神宝)もご神体として奉安されている。そして、国宝の七支刀も奉納されている。

 布都御魂は、本来は素戔嗚(140年頃-200年頃)の父の布都を祀ったものであるが、一般的には「布都の霊剣」として考えられている。伊勢神宮が祀っているのは天照大神であるが、八咫鏡(やたのかがみ)を天照大神として祀っているのと同じ考え方ではないか。八咫鏡は真経津鏡(まふつのかがみ)とも云われる。

 布都御魂の「フツ」は霊剣が物を切る音を表すとされ、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも云う。
 霊剣にも八咫鏡にも「フツ」が使われているので、フツは剣で物を切る音ではないと考えられ、フツは「神」と云う説がある。

 建御雷神(たけみかづちのかみ)は布都御魂剣を使って201年頃に「葦原の中つ国平定」を実行した。初代神武天皇(181年-248年)が熊野山中で危機にあった時(210年頃)、高倉下(たかくらじ)が布都御魂剣を神武天皇に献上して危機を鎮め、神武天皇は大和国に入り、211年に橿原宮で初代天皇として即位した。

 布都御魂剣は饒速日(にぎはやひ、165年頃出生)の子である宇摩志麻治(うまじまじ)が宮中で祀り、その後10代崇神天皇(251年-301年)の時に物部氏の伊香色雄(いかがしこお)が石上神宮に祀り、ご神体とした。
 ご神体は拝殿後方の禁足地に埋納されたが、明治7年(1874年)に大宮司の菅政友(すがまさとも、1824年-1897年)が発掘し、本殿内陣に祀られた。レプリカ2振が作刀され本殿中陣に奉安された。

 岡山県赤磐市石上(いしかみ)1448に「石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)」が鎮座、備前国の古一宮で現在は素戔嗚尊を祀る。明治以前までのご神体は、素戔嗚尊がヤマタノオロチを斬った布都御魂剣(十束剣)であった。この霊剣は10代崇神天皇の時代に大和国の石上神宮に移されたと云う。
 吉備国は出雲国と同じく素戔嗚の影が濃い。

 出雲国風土記には楯縫郡の郡司には物部臣(もののべのおみ、饒速日を祖とする氏族)が記されている。その関連か、出雲国楯縫郡鎮座の石上神社(いそのかみじんじゃ、いしがみじんじゃ、島根県出雲市塩津町279)の祭神は布都御魂(ふつのみたま)であり、元の祭神は海童(海津見神)であった。
 石上神社は日本海に面しており、本殿はなく、拝殿の後方にご神体の霊石を祀り、地元の人は「石上様」と呼んでいる。
 素戔嗚の父である布都が塩津港から上陸したと云われ、塩津町には「素戔嗚生誕の地」としての伝承がある。
 本来は「石神神社」と書いていたが、「石上神社」と改めた。大和国石上神宮(いそのかみじんぐう)に仮託して祭神を海津見神から布都御魂に改めた。これには郡司の物部臣が関わったかもしれない。

 石上神社は式内の宇美神社と伝わるが、6kmほど南東の出雲市平田町宮西町686-1に宇美神社が鎮座、祭神は布都御魂神(ふつのみたまのかみ、霊剣)となっている。出雲国風土記に「宇美社」、延喜式神名帳に「宇美神社」と記されている神社と云う。
 宇美神社が元は石上神社の地・塩津に鎮座していたが、現在地に遷座したと云う伝承がある。塩津は日本海に面していたので宇美(海)神社にしたと云う。素戔嗚が塩津から平田に移住してきたか。
 また、出雲国風土記沼田郷の地名伝承に、宇美神社の祭神は宇能遅比古命(うのぢひこ、海神)となっている。
 石上神社も宇美神社も本来の祭神は海神であったが、後に布都御魂神に改めたようだ。郡司の物部臣の影響か。

 出雲市塩津町も平田町も素戔嗚に所縁があるのだろう。平田町の南東20kmほどの所に須我神社が鎮座(島根県雲南市大東町須賀260)。素戔嗚と櫛稲田姫が新婚の住まいを設けた所である。
 素戔嗚と櫛稲田姫は須賀の地で第一子の八島士奴美を産んだのであろう。八島士奴美の神名は清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)と云う。

  赤のアイコンが石上神社、黄が宇美神社、青が須我神社。


 出雲国風土記には、「布都御魂神」と似た神名「布都怒志命、ふつぬし」が記されている。これは日本書紀に記された「経津主神、ふつぬし」と同じで、葦原の中つ国平定を実行したと云われる。
 私見ですが、出雲国風土記の布都怒志命は素戔嗚の父で、日本書紀の経津主神とは別神と見ています。時代も出自も別です。
 日本書紀の経津主神は、元々出雲系の神であったのを高天原系にすり替えられた可能性がある。これは藤原不比等(659年-720年)が記紀の記述に影響を与えたからと考えられる。
 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子に和加布都怒志命もいる。物部系の祖神、神社、祭祀(御魂振り)などは、藤原氏・中臣氏の勢力に取り込まれていくことになる。

 負芻(ふすう)
  熊負芻、中国戦国時代の楚の最後の王、BC223年頃没。
  姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は負芻(fuchu)。
  私見ですが、素戔嗚(布都斯、ふつし)の父、布都(ふつ)は楚の最後の王・熊負芻
 (ゆう ふすう)の名を使ったのだろうか。負芻(fuchu)が布都になったのかもしれない。
  素戔嗚は出雲国風土記に「野大神櫛御気野命」、「野加武呂命」と記されている。
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# by enki-eden | 2017-12-07 00:26

土井ヶ浜遺跡の縄文人骨(701号人骨)

 土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき)は山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期から中期の墓地遺跡である。


 発掘調査は昭和28年から32年までの間、5次にわたる発掘調査がおこなわれ、約200体もの弥生人骨が出土し、後の発掘調査により人骨は300体以上に増えた。
 (土井ヶ浜人類学ミュージアムより)
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 土井ケ浜・人類学ミュージアム名誉館長の松下孝幸氏(1950年生、長崎県)が昭和57年10月26日に土井ケ浜遺跡の第7次調査に参加された。土井ケ浜弥生人は、顔が長く、顔面は扁平(へんぺい)で、高身長である。
 その時に松下氏は、これまでに見つかった土井ケ浜弥生人の特徴ではなく、鼻根部が深くくぼんでいる縄文系の人骨を見てあっと驚いた。いわゆる彫りの深い「低・広顔」の容貌で、眉の上が隆起し、鼻骨も隆起しているので、鼻の付け根が陥凹(かんおう)している。
 身長は低く158・8cmの縄文系弥生人であった。松下氏の見た701号人骨は、これまで発掘されたものと、あまりにも顔つきが違う。

 701号人骨に寄り添うようにして埋葬されていた702号人骨は、土井ケ浜弥生人そのものだった。顔が長く、横幅が狭い「高・狭顔」だった。鼻は低く、鼻の付け根は扁平で、彫りが浅い。身長は165・9cmあった。どちらも男性だが、顔もプロポーションも対照的である。

 弥生人と縄文系弥生人が寄り添うように埋葬されているが、この2人はどのような関係なのか。
 弥生人は中国大陸の戦乱を避けて列島に逃亡してきた江南人(揚子江周辺の倭人)や漢族である。
 長崎県、熊本県の海沿いで出土する古代人骨は西北九州型と呼ばれ、縄文系弥生人である。土井ヶ浜遺跡の701号人骨は、その仲間かもしれない。

 遺跡出土の男性の腕輪は大型のゴホウラ貝である。この大きな巻貝は琉球列島のサンゴ礁域に生息している。
 土井ヶ浜の弥生人がゴホウラ貝を求めて九州の西海岸を南下し、西北九州型の縄文系弥生人が貝交易の役目を果たしていた。土井ケ浜遺跡の「701号人骨」もその一人だったかもしれない。

 平成17年に熊本大学文学部教授の木下尚子氏が講演で、「沖縄では先史時代以来、貝交易が連綿と続いていて,これが沖縄の古代史の大きな特徴となっている」と解説された。
 貝交易の対象はゴホウラやイモガイ、ヤコウガイなどサンゴ礁の海に生息する特徴的な大型巻貝で、サンゴ礁が現在のように島のまわりに完成するのは,二千数百年前の弥生時代の頃である。
 弥生時代の貝交易は,北部九州の弥生人が、ゴホウラやイモガイを用いて腕輪を作ろうとしたことに端を発している。
 交易に関わったのは①背が高くのっぺりとした顔つきの北部九州弥生人、②北西部九州沿岸部の縄文系弥生人、③小柄な南島人である。
 古人骨の研究成果から、3地域の人々はこのような身体的特徴をもっていることがわかってきた。

 北部九州弥生人は貝交易の発注者、北西部九州弥生人は北部九州弥生人に頼まれて海上を往来する運搬者、南島人は貝殻の提供者であった。
 南海産貝輪をはめる習俗は、弥生時代を通して流行したが、北部九州から西日本各地に広まり、現在のところ、南は鹿児島県、東は愛知県までの地域に同様の腕輪がみられる。
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# by enki-eden | 2017-12-01 00:12

纏向遺跡の墓所

 2世紀の大和国の中心地は唐古・鍵であったが、西暦185年頃に饒速日(西暦165年頃出生)が大部隊で筑紫国から大和国に東遷し、纏向を都にした。
 纏向は政治、祭祀、交易の都市で、運搬用の運河も掘られた。加えて、身分により大小の墳墓も多く築造された。
 弥生時代の終末期に纏向型前方後円墳が築造され、西暦180年頃築造の箸墓古墳が大型の定型的前方後円墳となって古墳時代に入っていく。
 纏向は初瀬川(大和川)が奈良盆地(当時は大和湖)に流れ込んで、三輪山の西側に扇状地を造った地域に位置している。

 箸墓古墳の北500mの桜井市大字太田に、3世紀後半築造の「メクリ1号墳」がある。
 纏向遺跡で確認されている唯一の前方後方墳である。全長28m、後方部19.5mと確認されているが、土は削り取られて、今は何もない平地になっている。幅4mの周濠からは多くの土器が出土した。

 桜井市教育委員会によると、そのメクリ1号墳の東側で、3世紀築造の方形周溝墓が新たに3基見つかった。過去の調査から少なくとも6基の墓が造られていた。
 調査をした桜井市纏向学研究センター(寺沢薫所長)によると、3基の周溝墓は3世紀前半から後半にかけて順番に築造されたと云う。一番大きいものは南北8.5m、東西9m。
 小規模の墳墓であるので、初期大和政権を支える中堅以下の人物が埋葬されたと考えられる。この辺りは纏向の小規模墓所であったが、現在は畑や野原になっている。
   赤のアイコンがメクリ1号墳


 メクリ1号墳の500m南西に「南飛塚古墳」がある。幅8.5m、深さ60cmの周濠が確認されているが、全体像は未確認。
 祭祀用の木造建物が倒壊したままの状態で出土しており、溝から3世紀後半の土器が出土した。現在は畑の状態になっている。

 南飛塚古墳の北西250mに「東田大塚古墳(ひがいだおおつかこふん)」がある。
 そのすぐ北に「纏向矢塚古墳」、「纏向石塚古墳」、「纏向勝山古墳」がある。何れも3世紀前半から中頃に築造の纏向型前方後円墳で周濠が確認されている。古墳時代に入る直前の墳墓群になっている。
 その古墳群の中に「桜井市纏向学研究センター」がある。
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# by enki-eden | 2017-11-24 00:16

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は五十猛命(いそたけるのみこと)か

 日本書紀によると、大日孁貴(おおひるめのむち、天照大神)の子の天忍穂耳尊と高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)の子が天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)になっている。
 西暦201年頃に「葦原の中つ国」が平定された後、天孫の瓊瓊杵尊が「筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)」に降臨した。浜辺で美人の木花開耶姫(このはなさくやひめ、大山祇神の娘)を見つけ妻とした。大山祇神は木花開耶姫と共に姉の磐長姫(いわながひめ)も妻として送ったが、磐長姫は醜いと云って返された。

 高千穂の所在地は、宮崎県・鹿児島県と云われており、関連の地名、伝承、陵墓参考地などが残っている。しかし、「筑紫」は現在の福岡県であり、私見ですが、「日向(ひむか)」は日向峠(ひなたとうげ、糸島市高祖)周辺、「高千穂」は高祖山(たかすやま、416m)、「槵触峯」は高祖山の東南の古名・クシフル山だと考えています。
 そして降臨した瓊瓊杵尊(180年頃出生)が出かけた「浜辺」は糸島半島の海岸です。現在の糸島市は半島とつながっているが、3世紀の当時は瑞梅寺川と泉川のあたりが細い海峡になっていた。糸島半島は島になっていたので志摩国(島国)で、魏志倭人伝記載の「斯馬国」であった。
 そして海峡の南が「伊都国」であった。伊都国の雷山(らいざん、955m)から北に流れる川の土砂による扇状地の拡大で海峡がなくなったと考えられる。海峡は川として部分的な形跡を今に残している。
 瓊瓊杵尊が木花開耶姫に会ったのはこの海峡付近だったかもしれない。雷山の中腹に鎮座する雷神社(いかづちじんじゃ)の主神は水火雷電神(すいからいでんしん)で瓊瓊杵尊のことである。
 大山祇神一族は伊都国と斯馬国に住んでいた。その後、愛媛県今治市の大三島に移ったか。


 2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。

 魏志倭人伝記載の3世紀の伊都国に置かれた一大率の長官名が「爾支(にき)」である。糸島半島の志摩の海岸線は、「幣(にぎ)の浜」、「幣の松原」である。瓊瓊杵尊の名と繋がりがありそうだ。

 佐賀県三養基郡(みやきぐん)基山町(きやまちょう)宮浦2050の荒穂神社の主祭神は瓊瓊杵尊で、五十猛命も祀られている。祭神は変遷したかもしれない。社伝によると、瓊瓊杵尊が基山(きざん、404m)に登り、国見をしたとある。
 福岡県筑紫野市武蔵694に鎮座する荒穂神社の祭神は五十猛命になっている。当社は三養基郡基山町の荒穂神社から勧請したと云う。祭神は瓊瓊杵尊とも云われるが、本来は五十猛命とされている。筑前国続風土記附録に「荒穂神社は五十猛命を祀る」とある。

 「荒穂の神」が瓊瓊杵尊(180年頃出生)なのか、五十猛命(160年頃-220年頃)なのか。五十猛命は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)と大矢女命(筑紫紀氏)の子で、素戔嗚尊に最もよく似ていたと云う。素戔嗚尊に北西部九州の統治を任され、対馬国・壱岐国・末盧国(佐賀県)・斯馬国(志摩国)・伊都国を統括する王であった。
 名前の五十猛(いそたける、いたける)も「いそ(磯)猛」で母の大矢女命(筑紫紀氏)は海人族であった。筑紫紀氏は須佐嗚尊(すさのお)を祖として、五十猛命に続く。海人族だから造船用の木材を必要とし、林業の神となった。部族名も紀(木)である。大和朝廷では一部の紀氏は公家になった。

 大国主命の統治する宗像国(宗像市)・刺国(福津市)は201年頃に天孫族によって国譲りをさせられたが、軍事力の強い五十猛命は国譲りしなかったであろう。
 それでも天孫族の瓊瓊杵尊の足跡が伊都国・斯馬国にあるのは降臨があったと云うことだ。その瓊瓊杵尊は五十猛命だと云う説がある。
 雷山中腹鎮座の雷神社の主神は水火雷電神で、瓊瓊杵尊となっているが、水火雷電神は五十猛命だと云う人もいる。瓊瓊杵尊と五十猛命は同一神なのか。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 五十猛命が伊都国・斯馬国(志摩国)の王で、大山祇神も当地の豪族で、大山祇神の4人の娘の嫁ぎ先は神大市姫が素戔嗚尊、木花開耶姫が瓊瓊杵尊、木花知流姫が素戔嗚尊の第1子八嶋野であるから、瓊瓊杵尊は五十猛命の可能性がある。

 しかし、瓊瓊杵尊は天津神(天神)、五十猛命は国津神(地祇)として区別されている。両者の母親も違うので、やはり別神と考えられる。
 本来、北西部九州で崇敬されていたのは五十猛命であるが、7世紀・8世紀には素戔嗚尊・五十猛命の評価が大きく低下、代わりに瓊瓊杵尊が崇敬された可能性が高い。
 素戔嗚尊の評価を見直したのは平安時代の52代嵯峨天皇(786年-842年)で、「素尊(素戔嗚尊)は則ち(すなわち)皇国の本主なり」と述べた。

 日本書紀は海幸彦と山幸彦の間に火明命を挿入しているのは、海幸彦と山幸彦は瓊瓊杵尊の子の世代(195年頃出生)ではなく、天火明命と同じ世代(140年頃出生)ですよと云う「筆法」になっている。
 天照大神と高皇産霊尊の系図に海部氏・安曇氏の系図をはめ込んで直列にし、天照大神を天皇家の祖神にしている。しかし、「事実はこうだ」と筆法によってきちんと事実を示している。
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# by enki-eden | 2017-11-23 00:07

天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)

 天地開闢のときに現れた五柱の神を別天津神(ことあまつかみ)と云う。天御中主尊、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)、可美葦芽彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)、天常立尊(あめのとこたちのみこと)の五柱の神である。
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 私見ですが、この五柱の神は紀元前1世紀に博多周辺の地域で代々首長を務めた。揚子江周辺の江南人(倭人)の中の呉人が博多に立ち上げた国で、西暦元年に奴国として建国、初代奴国王の国常立尊(くにのとこたちのみこと、西暦元年出生)が西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」となった。
 王の名は書(ふみ)によって少しずつ違っている。
 2代目が豊雲野尊、3代目が宇比地邇尊(ういじにのみこと)、4代目が角杙尊(つのくいのみこと)で西暦107年に後漢に朝貢して倭王帥升となり、政治の面でも交易の面でも北部九州の28ヵ国で成り立った倭国を統率した。
 5代目が意富斗能地尊(おおとのじのみこと)、6代目が淤母陀琉尊(おもだるのみこと)、7代目が伊弉諾尊(いざなぎのみこと、西暦125年頃-190年頃)と続く。
 この時代になると、出雲系の素戔嗚命や大国主命が現れ、日本列島の広範囲に政治的・交易的な協力関係が広まってくる。

 紀元前1世紀の別天津神のなかでも天御中主尊、高皇産霊尊、神皇産霊尊は造化三神と呼ばれ、特に天御中主尊は中心的な最高位の神として重要視されている。
 天御中主尊を祀る神社は、北極星・北斗七星信仰、妙見北辰信仰、水天宮信仰と結びつけて天御中主尊を信仰している。これらの信仰は中世の神仏習合思想と共に広まったと考えられる。

 兵庫県明石市上の丸1丁目17-18の日蓮宗本松寺の西北に妙見社が鎮座、妙見尊(天之御中主神)を祀る。明治の神仏分離令により本松寺と妙見社に分かれた。
 本松寺は立派な桜、妙見社は見事なツツジで有名。
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# by enki-eden | 2017-11-17 00:18

富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)

 奈良市丸山1丁目にある円墳の富雄丸山古墳は、円墳としては全国第1位の規模の径110mで、築造は4世紀後半頃。時期的には15代応神天皇(363年-403年)の時代である。
 墳丘表面には葺石と埴輪片があり、粘土槨の内部に6.9mの割竹形木棺と多数の副葬品が出土し、出土品は国の重要文化財に指定されている。墳丘北東部には短い造り出しがある。
 富雄丸山古墳の東側を富雄川が流れている。

  赤のアイコンが富雄丸山古墳、黄が垂仁天皇陵、青が神功皇后陵



 従来の発掘調査では2段築成の径86m、高さ10mとなっていたが、今年の奈良市教育委員会による上空からのレーザーによる三次元計測調査で、3段築成の径110m、高さ14.3mと確認され、全国で最大規模の円墳であることが分かった。これまで国内で最大とされた埼玉県行田市(ぎょうだし)の丸墓山古墳の径105mを上回った。
 出土品は石製品類、銅製品類、鉄製品類の他、三角縁画文帯五神四獣鏡、三角縁吾作銘四神四獣鏡、三角縁画像文帯盤龍鏡が出土、銅鏡は「国の重要美術品」になっている。
 被葬者は神功皇后(321年-389年)や応神天皇の大和政権と結びついた相当の有力者だったと考えられる。5.5km北東には神功皇后陵がある。
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# by enki-eden | 2017-11-16 11:19

弥生末期の人口

 3世紀(弥生末期)の列島人口は60万人ほどと考えられている。その中で、倭国(北部九州28ヶ国)の人口はどれくらいになるのか。
 列島総人口の25%が倭国に住んでいたとすれば、倭国の人口は15万人ほどになる。
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 同じ3世紀の大陸は、魏、呉、蜀の三国時代で、三国の人口は合計で約500万人であった。

 魏志倭人伝記載の各国戸数は、対馬国 1,000戸、一大国(壱岐)3,000戸、末盧国(佐賀県)4,000戸、伊都国(糸島市)1,000戸、奴国(福岡市)20,000戸、不弥国(福津市・宗像市)1,000戸、投馬国(福岡県東部・大分県)50,000戸、邪馬台国(筑後川周辺地域)70,000戸となっている。
 合計すると150,000戸になる。倭国の人口が150,000人とすれば、150,000戸は150,000人のことになる。

 倭国の中心国は、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の6ヵ国で、上記8ヶ国以外の20ヵ国は、中心国の属国か関係国で、その人口は6ヶ国の人口に含まれていると考えられる。
 私の過去の投稿で、倭国は29ヶ国と書いたが、今回は28ヵ国とした。それは魏志倭人伝に「奴国」が2度記されており、倭国の最も重要な国は「奴国」であることを示すために奴国を2度記したと考えられるからである。しかも2度目を29番目の最後に記すことで「奴国が最も重要な国」であると示唆する「筆法」だと考えられる。

 佐賀県、長崎県、福岡県、大分県の現在の人口は845万人ほどになっている。3世紀に比べると56倍にもなっている。日本全体の人口は3世紀の列島人口の208倍にもなっている。
 倭国の人口比率は、3世紀に総人口の25%、現在では7%、3世紀の列島の中心は北部九州にあった。列島の中心が4世紀には北部九州から近畿地方に移り、17世紀には関東に移り、19世紀の産業革命で人口が爆発的に増えていった。
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# by enki-eden | 2017-11-11 00:06

湊川神社(神戸市)

 久しぶりに湊川神社に参拝しましたが、七五三詣りで大賑わいでした。
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 入口の神門近くにオリーブの大きな古木。140年ほど前にヨーロッパから数本持ち帰った中の1本で日本最古のオリーブの木。
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 拝殿前に親子さざれ石
 10年ほど前に奉納されたさざれ石の二塊は、京都府舞鶴市岡田由里で採取された。まるで楠木正成公(大楠公)が「桜井の駅」(大阪府三島郡島本町桜井1丁目)で我が子・正行公(小楠公)を諭す姿に想われ、「親子さざれ石」と名付けられた。
 桜井の駅は楠公父子決別の場所として知られる。
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 2013年3月26日投稿の「湊川神社」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-11-06 09:46

倭の五王

 中国の5世紀から6世紀は南北朝時代で、北朝と南朝に分かれていたが、それぞれ短い期間に国が入れ替わっていった。
 北朝は北魏(386年-534年)から東魏(534年-550年)と西魏(534年-556年)に東西分裂する。
 更に北斉(550年-557年)と北周(556年-581年)に分かれる。
 南朝は宋(420年-479年)→斉(479年-501年)→梁(502年-556年)→
    陳(557年-589年)と移り変わる。建康(南京)を首都とする。

 北朝の北魏は、386年に鮮卑族の拓跋氏によって華北に建国された。北魏は五胡十六国時代(304年-439年)の戦乱を終焉させ、最終的には442年に華北を統一した。北魏は五胡十六国時代から遊牧民的習俗を改め、漢化政策に積極的であった。
 首都も洛陽に遷し、徹底的に漢化を進め、多くの仏教寺院・仏像を造った。胡族と漢族の通婚を奨励した。

 戦乱の五胡十六国時代には、大和王権は大陸と殆ど交易を行えなかったが、その間に国家形成を進めることができ、古墳時代に入って100年を経ると、神功皇后の新羅討伐(363年)をきっかけに朝鮮半島には頻繁に軍隊を派遣していた。

 北魏時代の日本の天皇は、15代応神天皇、16代仁徳天皇、17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇、20代安康天皇、21代雄略天皇、22代清寧天皇、23代顕宗天皇、24代仁賢天皇、25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇であるが、大和政権は華北の北魏との政治的・文化的な結びつきが強かったと考えられる。
 しかし、北魏書や北斉書には外国伝(倭国伝)は記されていないので、大和政権との関係は分からない。

 「倭の五王」による南朝の宋への朝貢は、先ず413年に倭王・讃が東晋(317年-420年、南京)に朝貢した。年代的には倭王・讃は仁徳天皇。東晋は420年に宋に禅譲させられ宋が成立。
 その後421年から478年までの倭王・讃、珍、済、興、武は南朝の宋に朝貢(宋書、夷蛮伝・倭国伝)した。421年と425年に倭王・讃が朝貢、年代的にはこれも仁徳天皇。
 430年に倭王が朝貢、倭王名が記されていないが、年代的には履中天皇。
 倭王・讃が没し、弟の珍(安東将軍倭国王)が438年に朝貢、年代的には反正天皇か允恭天皇。
 443年(安東将軍倭国王)と451年(安東大将軍)に倭王・済が朝貢、年代的には允恭天皇。
 460年に倭王が朝貢、年代的には雄略天皇。
 462年に済の子、倭王・興(安東将軍倭国王)が朝貢、年代的には雄略天皇。
 倭王・興が没し、477年に弟の倭王が朝貢、年代的には雄略天皇。
 478年に倭王・武(使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王)が朝貢、年代的には雄略天皇。
 宋の後を継いだ斉は479年に倭王・武を鎮東大将軍(斉書、倭国伝)に、年代的には雄略天皇。
 斉の後を継いだ梁は502年に倭王・武を征東大将軍(梁書、武帝紀)に進号、年代的には武烈天皇。

 倭の五王とは年代的に仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇・安康天皇・雄略天皇・武烈天皇の時代であるが、年代的に少し辻褄の合わない部分がある。
 そして、大和政権が華北の北朝と交易せず、江南の南朝だけと交易・朝貢したと考えるのは難しい。
 北魏と宋の地図、ウィキペディアより。
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 古事記・日本書紀の5世紀の記事には、朝鮮半島の百済・任那・新羅・高麗・呉(高麗の隣国か属国)との往来や戦争の記事は多いが、中国の記事は全くない。
 記紀成立の8世紀の日本は国家意識が非常に高く、「中国(中心の国)」とは日本のことであるとさえ言っている。そんな風潮の中で、皇室の先祖の卑弥呼、臺與、大和の天皇が中国に朝貢貿易をしていたなどと云う記事は書けなかったと考えられる。

 私見ですが、北魏書・北斉書に倭国伝はありませんが、大和政権は華北の北魏と交易していたのではないかと考えています。
 倭国が南朝の宋と交易したのは宋書夷蛮伝・倭国伝に記されているが、「倭の五王」を天皇に特定できにくい部分がある。実際に交易していたのは有力豪族なのではないか。

 当時の有力豪族に葛城氏がいるが、葛城円(かつらぎのつぶら)が456年に雄略天皇に殺される。大伴金村も540年頃に失脚、物部氏も海外にはあまり興味を示さない。
 葛城氏と同じく武内宿禰の子孫と云われる蘇我氏が朝廷の代行として南朝と交易し、富と軍備を蓄え、配下に東漢氏(やまとのあやうじ)を置き、物部氏を超える最有力豪族にのし上ったのではないか。当時南朝でも北朝でも仏教が盛んであったので、蘇我氏は大和で仏教を定着させた。
  武内宿禰-蘇我石川宿禰-蘇我満智-蘇我韓子-蘇我高麗(馬背)-
  蘇我稲目-蘇我馬子-蘇我蝦夷-蘇我入鹿

 
 5世紀の時代に蘇我満智は既に朝廷の財政を統括していた。地方からの税・貢物、海外使節の接待、朝鮮半島からの貢物、そして内外交易品の管理を統括し、勢力を伸ばした。
 蘇我氏は主要な海人族を統率し、朝廷の代表として自ら大陸、朝鮮と交易をしていたと考えられる。蘇我稲目の時代に各地に屯倉(みやけ)を設立、蘇我氏の発言権が更に大きく躍進した。
 蘇我馬子は587年に物部守屋を討つ。天皇家を凌ぐ勢いになった蘇我氏は、蘇我馬子(626年没)・蝦夷(645年没)・入鹿(645年没)の3代の横暴により滅ぼされ、勢力が弱まった。

 北魏後継の北周の楊堅(爵号は随、541年-604年)が589年に全国統一し、南北朝時代を終焉させた。楊堅の爵号「随」に似た「隋」を国名にして建国する(初代文帝)。
 2代皇帝・煬帝(569年-618年)の失政と外征失敗により謀反が起こり、煬帝は618年に殺される。聖徳太子(574年-622年)は遣隋使を数回派遣して隋を模範とした。遣隋使の小野妹子(蘇因高)が隋の裴世清を伴って帰国した。
 隋の4代皇帝・恭帝侗から禅譲を受けた李淵(566年-635年)が618年に唐を建国する。李氏は隋の鮮卑系貴族で、唐国公の爵位を与えられていたので、李淵(高祖)は国号を唐とした。
 隋も唐も鮮卑族の拓跋氏が支配層を形成した。

 日本は遣隋使、遣唐使を派遣して中国文化を積極的に取り入れることになるが、その前段階として北魏と交流していたのは間違いないと見ています。

 6世紀飛鳥時代の仏像は北魏様式と云う。弥勒菩薩半跏思惟像の穏やかな表情をアルカイック・スマイルと表現される。洛陽の北魏から長安の隋・唐に時代が変わっても、政治的・文化的・宗教的な基本は漢化した北魏の制度が引き継がれていった。
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# by enki-eden | 2017-11-03 00:16

伊奢沙別命(いざさわけのみこと)

 別名 氣比大神・笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神(みけつおおかみ)。
 「ケ」は食物、「ヒ」は霊を意味する。

 伊奢沙別命は越前国一宮の氣比神宮(北陸道総鎮守、福井県敦賀市曙町11-68)の主神。

 越前国二宮の剣神社(福井県丹生郡越前町織田113-1)の主神は素戔嗚大神であるが、氣比大神を配神として祀っている。剣神社の地名は織田とあるように織田信長の祖先発祥の地で、信長も氏神として崇敬していた。
  赤のアイコンが氣比神宮、黄が剣神社


 伊奢沙別命の神格は海の神(海人族系)・食物神で、ご神徳は衣食住・海上安全・農漁業。
 古代の越前国敦賀郡は御食国(みけつくに)で、皇室に海産物の贄(にえ)を貢納していた。
 敦賀(つるが)の古名は角鹿(つぬが)であったが、大宝律令により敦賀と改称された。

 敦賀の立地は嶺南と呼ばれ、福井県南部の若狭湾沿岸地域になっている。文化的・経済的には北方の嶺北よりも西方の若狭湾沿岸との関係が深く、すぐ南方には琵琶湖があり近江国や京都との関係も深い。言葉も嶺北は福井弁(北陸弁)であり、嶺南の敦賀は北陸弁の要素もあるが近畿弁に近い。

 琵琶湖周辺を拠点とする息長氏にとって、琵琶湖北端から20kmほどの敦賀湾は日本海交易や海外交易に必要な津(港)であった。大和や摂津、河内にも拠点を持つ息長氏は瀬戸内海航路を利用する場合は住吉津(すみのえのつ、大阪市住吉区)の津守氏と連携した。
 津守氏は天火明命系の海人族で、住吉大社の歴代宮司を勤めている。住吉大社については、2013年12月5日投稿の「住吉大社①」をご参照ください。

 氣比大神は天日槍(あめのひぼこ)と同神説がある。天日槍の子孫である神功皇后は氣比神宮が鎮座する敦賀と関係が深い。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 日本書紀によると神功皇后摂政13年、誉田別尊(15代応神天皇)が立太子の時、武内宿禰と越国(北陸)に行き、敦賀の氣比大神(伊奢沙別命)と名前を交換したとある。西暦375年のことである。
 これは、立太子や成人の時に、その地に因んで名前を変える習慣のことか。例えば、平安時代に石清水八幡宮で元服した八幡太郎義家、賀茂神社で元服した賀茂次郎義綱、新羅明神で元服した新羅三郎義光のように。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 氣比大神が天日槍であるならば、神功皇后の先祖の名前を応神天皇が交換して継ぐことにより、天日槍(氣比大神)の家督を引き継いだのかもしれない。
 日本書紀垂仁天皇3年紀に、天日槍の神宝に「胆狭浅(いささ)の太刀」が記されている。

 加古川市の日岡神社の主祭神は天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)である。神社の由緒によると、10代崇神天皇が「四道将軍」を派遣したが、西海将軍には7代孝霊天皇の皇子である彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命、桃太郎のモデル)と弟の若武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)を派遣した。この彦五十狭芹彦命が日岡神社の祭神の天伊佐佐比古命であると云う。
 日岡神社については、2013年3月3日投稿の「日岡神社」をご参照ください。

 天伊佐佐比古命(吉備津彦命)と伊奢沙別命は同一神と云う説があり、吉備と氣比の発音が似ているとも云う。
 先代旧事本紀の国造本紀のよると、「成務朝の御代に吉備の臣・若武彦命の孫の建功狭日命(たけいさひのみこと)を角鹿国造に定められた」とある。
 古事記の7代孝霊天皇の記事に、「孝霊天皇の皇子・日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)は高志(越)の利波臣(となみのおみ)、豊国の国前臣(くにさきのおみ)、五百原君(いおはらのきみ)、角鹿済直(つぬかのわたりのあたい)祖先」とある。
 7代孝霊天皇の皇子は吉備国と角鹿国に深く関わっている。
 伊奢沙別命は天日槍であり、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)であり、角鹿氏(角鹿直)はその子孫の海人族で角鹿国造と云われる。
 角鹿国造初代の建功狭日命から64代目の子孫が福井県丹生郡越前町氣比庄の氣比神社禰宜・角鹿尚文(つのがたかふみ)氏である。
 
 兵庫県豊岡市気比286に氣比神社が鎮座。祭神は五十茶狭沙別命(いささわきのみこと)、神功皇后、仲哀天皇で、神社の西に気比川が流れている。
 神功皇后が敦賀から穴門(山口県)へ航海する途中に立ち寄ったとみられる。
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# by enki-eden | 2017-10-27 00:13

天一神社(てんいちじんじゃ、神戸市西区押部谷町)

兵庫県神戸市西区押部谷町押部496   車は境内に停められます。
押部(おしべ)の氏神で「押部の天一さん」と呼ばれる。

祭神  事八十神(ことやそがみ、ことやそのかみ)、
    国常立命(くにのとこたちのみこと)、須勢利姫命(すせりひめ)、
    倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと)、
    天神(あまつかみ)、孤津姫命(つまつひめのみこと)、
    市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)。



 祭神は素戔嗚命(西暦140年頃-200年頃)の子が多い。国常立命(西暦元年生)は奴国の初代国王で、素戔嗚命はその子孫だと云う説もあるが根拠はなく、別系統だと考えられる。
 私見ですが、国常立命は江南人(呉人、越人、楚人)の呉系海人族、素戔嗚命は楚系製鉄族だと考えています。

 事八十神は先代旧事本紀によると、素戔嗚尊の子で大己貴神(西暦160年頃出生)の兄。兄弟は稲羽の八上姫(やがみひめ)に求婚して争ったが、大己貴神が勝った。
 八上姫は御井神(みいのかみ)を生んだが、大己貴神が素戔嗚の娘・須勢利姫を正妻にしたので、八上姫は恐れて御井神を木の俣に挟んで稲羽に帰ってしまった。それで御井神は木俣神(きのまたのかみ)とも云われる。

 「押部(おしべ)」の地名は当地支配者の忍海部(おしんべ)氏に由来するが、忍海部氏が102代後花園天皇の代(1449年11月13日)に当社を創建したと云う。

   拝殿
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 拝殿手前の手水鉢のふちに盃状穴(はいじょうけつ)が彫られている。 ヨーロッパではカップマークと呼ばれ、古代の原始信仰のなごり。
 日本では縄文時代から存在し、磐座に彫られ、子孫繁栄、病気平癒や魂の蘇生を願うとされる。
 寺社の灯篭、手水石、柱の礎石などに彫られることもある。
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  近くの稲荷神社を18世紀終わり頃に拝殿右に遷した。
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 拝殿左に天満宮と大歳神社。近くの天満宮を18世紀終わり頃に拝殿左横に遷し、大歳神社を1915年に天満宮の左に遷した。
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# by enki-eden | 2017-10-19 00:10

顕宗仁賢神社(けんそうにんけんじんじゃ、神戸市西区押部谷町)

兵庫県神戸市西区押部谷町(おしべだにちょう)木津(きづ)569
柴垣の宮、木津の宮。

祭神  顕宗天皇(23代)、
   仁賢天皇(24代)、
   大日孁命(おおひるめのみこと、天照大神)。

創建  5世紀末に仁賢天皇の勅により創建。

 第17代履中天皇(5世紀前半)の孫にあたる弘計(ヲケ、23代顕宗天皇)と億計(オケ、24代仁賢天皇)は、父の市辺押盤皇子(いちのべのおしわのみこ)が皇位継承の紛争に巻き込まれ、従弟の21代雄略天皇(432年-479年)に滅ぼされたので、避難のために播磨国赤石郡(明石郡)の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の館に、身分を隠して使用人となって匿われた。
 細目とか天目一箇(あめのまひとつ)などの名は、踏鞴製鉄、鍛冶を職業とする者の名である。また、押部谷(おしべだに)の地名由来は忍海部(おしんべ)だと云われている。

 三木市志染町窟屋(いわや)に「志染の石室(しじみのいわむろ)」と呼ばれる岩穴があり、二人の王子が隠れたと云う伝説がある。
 石室の湧水には「ひかり藻」が生息しているので、春にはひかり藻が繁殖し、光を反射して水が金色に光ることから「窟屋の金水(いわやのきんすい)」とも呼ばれていた。しかし、周囲の開発の影響や気候の変動でひかり藻が枯れることもある。

 志染川に沿って御坂神社(みさかじんじゃ)が鎮座、志染の氏神になっている。2015年1月16日投稿の「御坂神社」をご参照ください。
 赤のアイコンが顕宗仁賢神社、黄が志染の石屋、青が御坂神社。


 二人の王子は身分を悟られないように言葉の不自由なふりをして、使用人として働いた。やがて、479年に雄略天皇が崩御、皇太子が即位して22代清寧天皇となったが、清寧天皇には皇子がないため皇位継承者を探していた。
 播磨国の司(みこともち)山部連の遠祖・伊与来目部小楯(いよのくめべのおたて)が、新嘗の供物を整える為に細目の館に来たところ、新築祝いの祝宴をしていた。小楯は、この席で歌に託して身分を明らかにした二人の王子に驚き、仮宮を造り二王子の御殿とした。これが「柴垣の宮」である。
 小楯が清寧天皇に詳細を報告すると、天皇は大いに喜び、直ちに二王子を都の磐余(いわれ)に迎えた。

 清寧天皇が484年に崩御、485年に顕宗天皇が即位、488年に兄の仁賢天皇が即位した。この二王子ゆかりの「柴垣の宮」跡に当社が創建された。

 清寧天皇崩御の後、弘計(ヲケ、顕宗天皇)が弟だと云うことで直ぐには即位しなかったので、暫くの間、叔母の飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が職務を執ったので、飯豊天皇とも呼ばれる。
 飯豊青皇女は様々な呼び方があるが、忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)と云う呼び方があり、「忍海、おしぬみ」は葛城の中の製鉄・鍛冶の地名で、飯豊青皇女の本拠地である。忍海部(おしぬみべ)は飯豊青皇女の部民(べみん、私有民)であった。
 別の説では、飯豊青皇女の姪である飯豊女王(いいどよのひめみこ)と取り違えているとも云う。

 忍海部造細目は飯豊青皇女の配下にあって押部谷(神戸市西区)の部民を統率していたと考えられる。そして縮見屯倉首であるので、志染村(しじみむら、三木市)の屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)の管理人でもあった。神戸市西区押部谷町の北に三木市志染町がある。

 当社は細目氏が宮司を務めていたが、細目氏が明石川下流域まで、そして西へと顕宗仁賢神社を広めたようだ。神戸市西区や明石市には顕宗仁賢神社・宗賢神社が多く鎮座している。

 飯豊青皇女と細目の関係により、細目の家で二王子は匿われたと考えられ、「身分を隠して使用人として働いた」と云うのは「逃避行の苦労物語」を強調するために挿入したのかもしれない。

 社号標と石の鳥居、後ろはシブレ山で、東に六甲国際ゴルフ倶楽部がある。サントリーレディスオープンで有名、今年の6月は宮里藍選手が日本で最後の試合だと云うので大フィーバーになった。
諸見里しのぶ選手や上田桃子選手は六甲国際ゴルフ倶楽部の江連忠ゴルフアカデミーに所属していた。
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   階段の上に大きな檜(ヒノキ)が見える。市民の木として親しまれている。
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   拝殿
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   拝殿の絵馬、二王子の働く様子と、身分を明かして都へ戻る様子。
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   本殿
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   本殿右に天照皇大神社と厄神社
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  本殿背後に手前から権現神社、愛宕神社、若宮八幡社、大歳神社、
  三十八社大明神(子授けの神)、大山祇神社、稲荷神社。
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  本殿左に杵ノ宮神社
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 奈良県葛城市の「角刺神社」は飯豊女王の「角刺宮」跡と伝えられ境内に飯豊王女が鏡として使ったという池がある。
 2014年11月15日投稿の「飯豊天皇」、11月19日投稿の「角刺神社と飯豊天皇陵」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-10-10 00:13

忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の屋敷跡

 兵庫県神戸市西区押部谷町(おしべだにちょう)木幡(こばた)416
 車を停めるスペースあります。

 押部谷地域には、弘計(ヲケ、後の23代顕宗天皇)と億計(オケ、後の24代仁賢天皇)の二王子が、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の使用人として身を隠したという伝説がある。

 三木市に志染町(しじみちょう)細目(ほそめ)と云う地名があり、志染町の北を志染川が流れている。細目は在地の豪族で、志染村(三木市志染町)の屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)の管理を任されていた。
 また、明石川上流の押部谷村(神戸市西区)にある忍海部(おしんべ、大和葛城・忍海部女王の領地)の管理も任されていた。逃亡している二王子は忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)の甥なので当地に匿われたと考えられる。
 押部谷の地名は忍海部からきている。三木市志染町は神戸市西区押部谷町の北側にあり、細目は両地区の管理を任された在地の豪族であった。

 赤のアイコンが細目の屋敷跡、紫が明石川、黄が志染川、青が志染町細目


 忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)は17代履中天皇(400年頃-435年頃)と葛城黒姫の皇女で、大和国葛城の忍海(葛城市忍海、おしみ)を領有していた。忍海は葛城氏の鍛冶工房であった。
 忍海部女王の祖父は16代仁徳天皇(385年頃-429年頃)で祖母は磐之媛(葛城襲津彦の娘)である。
 忍海部女王は23代顕宗天皇(485年即位)と24代仁賢天皇(488年即位)の叔母になる。飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)とも呼ばれる。
 忍海地区には忍海部女王(飯豊青皇女)の忍海角刺宮(現・角刺神社)、近鉄電車忍海駅(おしみえき)、忍海(おしみ)小学校など忍海関連の名がある。

   奈良県葛城市忍海


  「史跡 忍海部造細目屋敷跡」の石碑、右に稲荷神社。巨木が多い。
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  細目の屋敷跡石碑の左に木幡若宮神社(こばたわかみやじんじゃ)が鎮座。
   祭神 応神天皇(15代)、
      顕宗天皇(けんそうてんのう、23代)、
      仁賢天皇(にんけんてんのう、24代)、
      厳島大神(いつくしまのおおかみ)。
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 後ろの山はシブレ山(275m)、山頂近くに天狗岩がある。
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# by enki-eden | 2017-10-04 00:23

新羅神社(姫路市四郷町)

 新羅大明神
 兵庫県姫路市四郷町明田(しごうちょう あけだ)706 駐車場はないが神社の前に停める。
 麻生八幡社の宮司が兼務している。

 祭神: 帯中津彦命(14代仲哀天皇)、
     品陀別命(15代応神天皇)、
     息長帯姫命(神功皇后)。



 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征の際、戦勝祈願のため福泊港から上陸して麻生山をめざして、この地まで来た時に天明に及んだので、この地を暁田(あけだ、後に明田村)と称した。
 当地は古くから開けており、中世には「緋田荘(あけだのしょう)」と云う摂関家領の荘園であった。江戸時代には当社が明田村の氏神になった。

 神功皇后は新羅遠征から帰還の途次(西暦363年)、当地に人質の新羅の王子を預けた。当社はその王子を祀ったので新羅神社(新羅大明神)と称した。
 日本書紀によると、「新羅王の波沙寝錦(はさむきん)は微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質として差し出し、貢物の金・銀・彩色・綾・羅・縑絹を船に乗せた。」とある。
 しかし神功皇后摂政5年(西暦367年)、新羅が朝貢してきた時に使者が微叱己知波珍干岐を連れて帰った。同行していた葛城襲津彦は微叱己知波珍干岐が逃亡したので、使者を焼き殺し、草羅城(慶尚南道梁山)を攻め落とした。この時、葛城襲津彦は鍛冶職人を捕虜として連れ帰り、地元・大和国葛城に住まわせた。

  拝殿、右の灯篭の奥は岩神社(素戔嗚命)、その奥に神明社(天照大神と豊受大神)。
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   本殿
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   金森稲荷神社(宇迦之御魂命)
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   大歳神社(大年神)
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 当地の西は白浜町と云うが、地名由来は「新羅浜(しんらはま)」と云われる。新羅からの渡来人や戦争捕虜が住み着いた。
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# by enki-eden | 2017-09-28 00:17

麻生八幡社(あさおはちまんしゃ、姫路市)

 通称: 麻生八幡宮
 兵庫県姫路市奥山563   電079-245-2536  神社東の池の横に車を停める。
 奥山を地元では「おっきゃま」と云うらしい。

 祭神 足仲彦命(たらしなかつひこのみこと、14代仲哀天皇)、
    品陀別命(ほんだわけのみこと、15代応神天皇)、
    氣長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)。



 麻生山(あそうさん、小富士山、172m)南麓に鎮座。麻生山には神功皇后(321年-389年)伝説が多い。麻生山の元の名は大己貴命(大国主命)に因み「醜男山(しこおさん)」と云っていたが、神功皇后の故事により麻生と改めた。

 神功皇后が新羅遠征に行く途中、市川の東にある麻生山に登り、戦勝を大国主命に祈願して弓で地面を叩くと麻が生えてきた。この麻で弓の弦を作ったと云う。
 その弓で矢を放ち、矢が落ちた所に稲岡神社、生矢神社(いくやじんじゃ)、行矢射楯兵主神社(いくやいだてひょうずじんじゃ)、破磐神社(はばんじんじゃ)を建てたと云う。

 中世には京都・石清水八幡宮の社領・継荘(つぎのしょう)の鎮守となった。石清水八幡宮については、2016年12月2日投稿の「石清水八幡宮」をご参照ください。

 麻生山は神仏習合の修験道の山で、山頂に45代聖武天皇(701年-756年)勅願の華厳寺があり、役小角(えんのおづぬ、634年-701年)が祀られている。
 華厳寺は明治以前の神仏習合時代には麻生八幡社の宮寺(奥の院)であった。

  石の鳥居、後ろの右の山が麻生山。
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  随神門と社号標、神門の神額は神仏習合の両部額になっている。
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   拝殿
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   本殿
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   金刀比羅宮(大物主命)
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   本殿左後ろに三島神社(大山祇命)
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   本殿右後ろに武内神社(武内宿禰)
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 当地播磨国の「奥山」を「おっきゃま」と発音するのは、吉備弁の影響だと思います。古代では加古川以東が針間国(播磨国)、加古川以西が吉備国で当地は古代の吉備国であった。
 2012年12月28日投稿の「いにしえの吉備の国の東の端は加古川」をご覧ください。
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# by enki-eden | 2017-09-22 00:16

松原八幡神社(姫路市)

 兵庫県姫路市白浜町甲399   電079-245-0413  無料駐車場あります。
 祭神 中殿、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、
    左殿(東殿)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、
    右殿(西殿)、比咩大神(ひめおおかみ、三女神)。

 妻鹿(めが)漁港の漁師・久津里が「八幡」と書かれた1尺(30cm)ほどの霊木を海中から網で拾い上げたので、霊木をお祀りし、763年に豊前・宇佐神宮から分霊を勧請、47代淳仁天皇(733年-765年)により当社が創建された。
 平安時代には松原荘が京都・石清水八幡宮の社領(荘園)となり、当社はその別宮・荘園鎮守となって松原荘を管理した。

 秋季例大祭(10月14日、15日)は勇壮な「灘のけんか祭り」として有名で、兵庫県と姫路市の重要無形民俗文化財に指定されており、テレビで放映される。

 飾磨郡誌によると、神社の東部の地名は、松原八幡宮の勧請先である宇佐八幡宮にちなんで白浜町宇佐崎と名付けられた。
 白浜町宇佐崎南1丁目の海沿いには763年に創建の蛭子神社(ひるこじんじゃ)が鎮座している。更に東南に行くと、的形町福泊(まとがたちょう ふくどまり)に子授け地蔵で有名な八家地蔵(やかじぞう)がある。私も昔、孫の願掛けにお参りしましたよ。

 白浜町の語源は新羅浜と云う。神功皇后が新羅遠征(363年)の帰路、多くの新羅の捕虜などを姫路に住まわせた。人質の新羅王子も姫路に住まわせたか、大和国まで連れて行ったかもしれない。
 新羅王子の名は微叱旱岐(みしこち)で、367年に新羅から使者が3人やって来て、王子を連れて帰る。葛城襲津彦が見張りとして同行したが、対馬で微叱旱岐に逃げられた。
 怒った葛城襲津彦は3人の使者を焼き殺し、新羅(慶尚南道)を攻撃、捕虜を連れ帰った。捕虜は葛城襲津彦の地元・大和国葛城に住まわせた。



  赤い大鳥居、昭和初期まではここが海岸線だった。
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  楼門(随神門、姫路市指定有形文化財、1679年造営)
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  社殿(1718年造営)と右に大きな神木(イチョウ)
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  手前に神木と奥に本殿
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  俱釣社、霊木を海中から拾い上げた漁師・久津里を祀る。
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  神明社
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  宮白稲荷神社
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  白躰社
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 右から恵美酒社(大国主命、蛭子命)、天満社、地神社、八坂社(素戔嗚命)、弁財天社。
 7月には八坂社の祇園祭が執り行われる。
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 右から高良社(武内宿禰)、日清・日露戦没慰霊堂、厳島社、春日社、若宮社。
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# by enki-eden | 2017-09-14 00:22

高御位神社(たかみくらじんじゃ、加古川市)

 高御位山(たかみくらやま、播磨富士)の山頂に鎮座。
 高御位山は兵庫県加古川市と高砂市の市境にある304mの神山。
 東の麓の加古川市志方町成井(しかたちょう なるい)に無料駐車場があります。

 祭神 高御位大神(大己貴命、少彦名命)。
    大己貴命は大国主命とも云う。少彦名命は淡嶋神とも云う。

 高御位山は縄文時代・弥生時代から山岳崇拝の聖地であったが、5代孝昭天皇の時(3世紀半ば)に天御中主神を祀ったと云う。



 中央の山が高御位山、左が小高御位山(こたかみくらやま、185m)、東の方(加古川市志方町成井)から写す。ハイキング登山として有名で、多くのハイカーで賑わっている。
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 大己貴命と少彦名命が天津神の命を受け、国造りのために降臨したので、高御位山と名付けられ、29代欽明天皇10年(548年)に山頂に高御位神社が創建された。高御位山全体を御神体としている。
 大己貴命(大国主命)に因んで地名が付けられたのか南東の麓には大国(おおぐに)と云う地名がある。

 成井登山口に階段で整備されたルートがあるが、私は「けもの道ルート」を選ぶ。これがいけなかった。細くて急な獣道は年寄りにとってあまりにも大変で、途中で何度も引き返そうと思った。
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 成井登山口近くに高御位神宮が鎮座、「高御位神宮神祇本庁、熊野修験道本庁」と記されている。
神仏習合の神宮。
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 登山道途中の磐座(いわくら)
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 少し登った所で休憩して東の方を眺める。
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 更に登って休憩、南の方の播磨灘を眺める。
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 何とか山頂に辿り着くと東南向きに社殿が鎮座。日の出方向を調べると、ピッタリ節分の日(立春)の日の出方向に社殿が向いている。
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 社殿南の岩を登って見ると播磨平野と播磨灘を見渡せる。
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 南の方を見ると、播磨灘の手前に竜山石で有名な竜山地区が見える。石の宝殿の生石神社については、2013年4月29日投稿の「生石神社」をご参照ください。
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 社殿横に祠(宇迦之御魂神、佐田彦神、大宮能売神)
 稲荷神社では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の配神として大宮能売神(おおみやのめのかみ)が祀られことが多い。朝廷でも重視されている女神。
 佐田彦神は猿田彦神の別名で、主祭神の宇迦之御魂神の配神となることが多い。
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# by enki-eden | 2017-09-06 00:07

臺與の東遷(とよのとうせん)

 日本書紀の神功皇后年に「200年を加えると卑弥呼と臺與の事績年」になり、「320年を加えると神功皇后の事績年」になる。
   図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 神功皇后47年(西暦367年=47+320)夏4月、百済と新羅の使いが来たが、14代仲哀天皇(313年頃-362年)が既に亡くなっていたので拝謁できなかったと日本書紀に記されている。
 この記事は仲哀天皇の崩御にかけて、卑弥呼(179年-247年)が247年(神功皇后47年、47+200)に亡くなったことを指摘するための「筆法」である。日本書紀には筆法が頻繁に使われている。

 神功皇后(321年-389年)は西暦363年の新羅遠征から大和に帰還する時、仲哀天皇を仮に埋葬していた穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、下関市長府宮の内町の忌宮神社)から天皇の遺骸をとり出し、大和に向かった。
 摂政2年(364年)、仲哀天皇を河内国の長野陵(大阪府藤井寺市藤井寺、岡ミサンザイ古墳)に葬った。

 神功皇后の上記の記事から次のことが判読できます。
 卑弥呼が247年に亡くなった後、魏が265年に滅び西晋となる。248年に女王になった台与(235年頃-295年頃)が266年に西晋に朝貢したが、大陸は内乱と北方異民族の侵入により動乱状態となる。
 大陸との交易ができなくなると九州に拠点を置く必要性が低くなり、臺與は270年頃に大和に東遷した。その際、臺與は九州の卑弥呼の墓から遺骸をとり出して大和に向かった。
 臺與は定型的前方後円墳の箸墓古墳を280年頃に完成し、卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬、古墳時代に入っていく。

 臺與は295年頃に亡くなり、箸墓古墳の前方部に葬られた。箸墓古墳の前方部も後方部も分厚い石積みが施されているので盗掘を免れていると考えられる。

 ミマキイリヒコも臺與と共に東遷し、10代祟神天皇(251年-301年)になった。臺與は記紀に倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)として記述されたのではないか。祟神天皇は物部氏と共に大和から全国支配を進めていく。
 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと、崇神天皇)の名は、伊都国の王で五十猛(160年頃出生、素戔嗚と筑紫紀氏の大矢女命の子)の子孫だと私は考えています。

 箸墓古墳は全長278m、神功皇后陵は275mで神功皇后陵は箸墓古墳を念頭に築造されたと考えられる。陵墓築造においても神功皇后を卑弥呼と臺與に結び付けたかったようだ。
 臺與と関係の深い祟神天皇陵(行燈山古墳)は242m、神功皇后の天皇・仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)も同じく242mで、仲哀天皇陵は崇神天皇陵を念頭にして築造したと考えられる。
 古墳の形や大きさにはそれぞれ理由があるのでしょう。
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# by enki-eden | 2017-08-30 00:08

投馬国(とうまこく)

 投馬国は三国志魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)において、倭国(北部九州29ヶ国)の中で7番目に記されている国の名である。
 投馬国の官は弥弥(みみ)、副官は弥弥那利(みみなり)と云い、50,000戸余りある。邪馬台国の70,000戸に次ぐ大国である。

 私見ですが、投馬国の版図は福岡県東部、大分県、山口県に及ぶ。素戔嗚(西暦140年頃出生)の第5子である饒速日(165年頃出生)が宇佐を本拠地にして統率していた出雲系の国である。

 博多の奴国は海人族・安曇氏の国で、後漢(西暦25年-220年)の時代から倭国を代表して大陸と交易をしてきた。
 西暦57年に後漢の光武帝(紀元前5年-西暦57年)が奴国からの使者に賜った漢委奴国王金印(国宝)が安曇氏の聖地・志賀島から出土した。
 西暦57年の奴国王は初代の国常立(くにのとこたち、西暦元年出生)と考えられ、光武帝とほぼ同じ時代に活躍した。奴国の始まりは偶然にも西暦元年になる。紀元前1世紀に国としての萌芽があった。

 北部九州の海岸地区は安曇氏・宗像氏・和邇氏・海部氏・尾張氏など海人族で占められていたが、全体を統率しているのは素戔嗚・大国主(160年頃出生)を中心とする出雲族であった。
 九州西北部は素戔嗚の第2子である五十猛(160年頃出生)が統率しており、その中には吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)がある。

 邪馬台国は筑後川周辺にある最大の国で、朝倉市が倭国の政治の中心であった。邪馬台国にも出雲族が多く、小石原川の東に平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)などがある。小石原川は高天原を流れる天安川(あめのやすかわ)と考えられる。
 投馬国と邪馬台国は隣同士の大国で、出雲族を通じて密接な関係にあった。列島全体の各豪族も何らかの形で素戔嗚の出雲族と主従関係・協力関係・同盟関係にあった。

 投馬国はその後、豊国(とよのくに、とよくに)と呼ばれる。倭国女王の臺與(とよ、235年頃-295年頃)の出身地だから豊国と呼ばれた。或いは、豊国の出身だから臺與と呼ばれたのか。

 豊国の遠賀川(おんががわ)周辺地域は出雲族の物部氏の本願地になっている。弦田(つるた)物部、二田物部、芹田(せりた)物部、鳥見(とみ)物部、横田物部、大豆(おおまめ)物部、肩野(かたの)物部、聞物部、嶋戸物部などがある。
 その他の地域では、宗像の赤間(あかま)物部、朝倉市秋月の相槻(あいつき)物部、当麻(たきま)物部、浮田物部、足田物部、久米物部、布都留(ふつる)物部などがある。
 これらの物部氏は西暦185年頃の「饒速日東遷」に従って大和国へ移住し、奈良県天理市や大和川周辺などに住み着いた。その後、各地にも拡散していった。

 記紀神話は出雲神話を多く取り入れているが、記紀の「出雲」は出雲国(島根県)ではなく、北部九州の出雲族支配地のことである。従って、記紀と出雲国風土記の内容はそれぞれ別地域の神話で共通性は少ない。
 西暦200年頃に素戔嗚が亡くなり、大国主が跡を継ぐと統率力・求心力が低下して海人族が権限を回復、201年に卑弥呼(179年-247年)が即位して「葦原の中つ国(北部九州の出雲族支配地)」を平定した。

 北部九州だけでなく列島各地も出雲族が移住・開拓し、大和国も大国主系・事代主系の出雲族が治めていた。その後、西暦185年頃に出雲族の饒速日が大部隊で大和国に東遷、纒向(まきむく、太田地区)を都にする。太田は出雲系の地名。人名では大田田根子(意富多多泥古)。

 素戔嗚が列島を統率し、皇室の基盤を創り上げた。私見ですが、素戔嗚の出自は「楚(現・徐州市)」だと考えています。楚は紀元前206年から紀元前202年の楚漢戦争(項羽と劉邦の戦い)に敗れた。一部の楚人が列島に逃れて来た。楚人は文化程度も高く、武力も強かった。

 西暦204年頃に初代神武(181年-248年)が九州から東遷を開始、211年に大和国で即位。出発地は出身地の岡水門(おかのみなと、遠賀川河口)で、投馬国にある。
 投馬国の首長はミミと呼ばれ、素戔嗚と宇佐の比売大神(天照大神)が誓約(うけい)をして生まれた長男はアメノオシホミミであった。
 神武天皇の実名はヒコホホデである。神武天皇と吾平津媛の間に生まれた皇子はタギシミミとキスミミがいる。神武天皇が大和国に東遷後に皇后にしたイスケヨリヒメとの間の皇子はヒコヤイミミ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミ(2代綏靖天皇)。
 3代安寧天皇の名もシキツヒコタマテである。

 大和朝廷は出雲族と海人族の協力・合体によって成り立った。やがて4世紀半ばの14代仲哀天皇・神功皇后(321年-389年)の頃には大和朝廷が全国制覇をほぼ成し遂げた結果、363年に神功皇后が新羅に軍事遠征するまでになった。弥生時代が終焉し、古墳時代が始まって100年ほど後のことである。
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# by enki-eden | 2017-08-24 00:01

経津主神(ふつぬしのかみ)

 日本書紀によれば、経津主神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)と共に「葦原の中つ国平定」(国譲り神話)を実行した神となっている。

 葦原の中つ国平定で大国主命(160年頃-220年頃)が譲ったのは出雲国ではなく、大国主命が素戔嗚尊(140年頃-200年頃)から引き継いで支配していた北部九州の地域を西暦201年頃に明け渡したと云うことです。

 10代崇神天皇(251年-301年)の時代になると、弥生時代から古墳時代に入り、大和国から全国を制覇し、大和朝廷が出現する。
 大和朝廷が安定すると、363年に神功皇后(321年-389年)が新羅に軍事遠征するまでになる。三輪山の麓に箸墓古墳が出現して古墳時代に入ってから100年も経っていない。

 伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神・軻遇突智(かぐつち)を生んだ時に火傷で亡くなったので、伊弉諾尊(いざなぎのみこと、125年頃出生)が軻遇突智を斬った。
 その剣からしたたる血が、天の安河(あめのやすかわ)のほとりに多くの岩群を造った。これが経津主神の先祖になった。経津主神の両親は磐筒男(いわつつのお)と磐筒女(いわつつのめ)となっている。
 先代旧事本紀には、磐裂神(いわさくのかみ)と根裂神(ねさくのかみ)の子が磐筒男と磐筒女で、その子が経津主神となっている。
 栃木県下都賀郡壬生町安塚1772-1に磐裂根裂神社が鎮座、磐裂神・根裂神を祀っている。

 天の安河は高天原を流れる川で、神々が集まって会議をするところ。また、素戔嗚尊と天照大神が誓約(うけい)をしたところ。誓約については2013年1月2日投稿の「盟酒、うけいざけ」をご参照ください。
 私見ですが、福岡県朝倉市の秋月地区(筑前の小京都)から安川地区・甘木地区を流れ、筑後川に注ぐ「小石原川」が「天の安河」だと見ています。
 小石原川周辺が高天原で、弥生時代末期の2世紀から3世紀の倭国の中心地だったと考えられる。小石原川と大分自動車道が交わる辺りに平塚川添遺跡(BC1世紀からAD4世紀)などの遺跡群がある。
 安本美典氏の説によると、甘木・朝倉地方が邪馬台国の中心地で、後に大和に移って大和朝廷ができたと云う。



 高天原については、2014年8月29日投稿の「高天原」をご参照ください。その中に掲載の神世の年表はその後、少し修正していますので修正年表を次に掲載します。
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 経津主神は香取神宮(下総国一宮、千葉県香取市)に、武甕槌神は鹿島神宮(常陸国一宮、茨城県鹿嶋市)に祀られている。
 そして、奈良市の春日大社には経津主神と武甕槌神が祀られている。

 素戔嗚尊(布都斯、ふつし)の父が布都(ふつ)で、天理市布留町の石上神宮(いそのかみじんぐう)の御神体は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ、布都の剣)になっている。
 先代旧事本紀には布都主神魂刀が布都御魂剣であるとしているので、素戔嗚尊の父である布都と布都主神(経津主神)が同じと云うことになる。
 布都は西暦125年頃出生であるが、葦原の中つ国平定の経津主神は西暦180年頃の出生になるので時代が合わない。私見ですが、布都と経津主神は出自も時代も違う別神でしょう。

 石上神宮の御神体は布都御魂剣(布都の剣)の他、布都斯御魂剣(素戔嗚の剣、天羽々斬剣、あめのははぎりのつるぎ)、布留御魂(饒速日の十種の神宝)がある。そして、国宝の七支刀も奉納されている。

 出雲国風土記に布都怒志命(ふつぬしのみこと)が登場し、布都斯(ふつし、素戔嗚尊)のことであると云う説もある。経津主神は元々出雲系の神であったのを高天原系にすり替えられた可能性がある。これは藤原不比等(659年-720年)が記紀の記述に影響を与えたからであろう。
 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子に和加布都怒志命もいる。物部系の祖神、神社、祭祀(御魂振り)も藤原氏・中臣氏の勢力に取り込まれていくことになる。
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# by enki-eden | 2017-08-18 00:08

天尾羽張神(あめのおはばりのかみ)

 古事記によると、伊邪那美神(いざなみのかみ)が迦具土神(かぐつちのかみ、火の神)を生んだ時の火傷で亡くなってしまったので、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が十束剣(とつかのつるぎ)で迦具土神を斬り殺した。
 この十束剣は「天尾羽張(あめのおはばり)」又は「伊都尾羽張(いつのおはばり)」と云う。
 その十束剣に付いた血から多くの神が生まれるが、その中に「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ、雷の神)」がいる。別名を建御雷神(たけみかづちのかみ)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、建布都神(たけふつのかみ)又は豊布都神(とよふつのかみ)と云う。

 高皇産霊神と天照大神が大国主命に「葦原の中つ国(北部九州の出雲族支配地)」の「国譲り」を迫る為、天穂日命(あめのほひ)を交渉に行かせるが、天穂日命は大国主命に味方して戻ってこない。次に派遣した天稚彦(あめのわかひこ)も帰ってこない。
 そこで、天安川(あめのやすかわ)の川上の岩屋にいる伊都尾羽張神(剣の神)に大国主命を説得するよう依頼したが、伊都尾羽張神は自分の子の建御雷神を派遣してくれと云う。それで建御雷神に天鳥船神を添えて「葦原の中つ国」に派遣することにした。
 天尾羽張神(伊都尾羽張神)の子が建御雷神(建布都神、豊布都神)である。

 奈良県御所市に曽我川が流れているが、曽我川が高天原を流れる天安川であるとの伝承があり、川沿いに天安川神社が三社も鎮座している。
 奈良県御所市重坂(へいさか)1005の天安川神社、祭神は市杵島姫命とも天尾羽張神とも云う。御所市樋野109の天安川神社、祭神は市杵島姫命。御所市新田の天安川神社、祭神は市杵島姫命。
 素戔嗚尊と天照大神が天安川を挟んで誓約(うけい)をして生まれたのが三女神なので、祭神が市杵島姫命になっている。天尾羽張神も祭神とされる。
 これは、九州の高天原から御所市に移住してきた人々が元の地名や川の名前を付けたのでしょう。元の高天原は福岡県だと考えられる。2014年8月29日投稿の「高天原」をご覧ください。これは3年前の投稿で、年代表についてはその後、少し修正しているので違う部分があります。

 天尾羽張神の子の建御雷神が国譲りを成功させ、大国主命は出雲国(島根県)へ帰っていった。大国主命の子の建御名方命(たけみなかた)は抵抗したが、建御雷神に敗れ、諏訪国(長野県西部)に逃亡した。
 剣に人の名前を付けることがある。素戔嗚命(布都斯、ふつし)の父・布都(ふつ)の名を付けた剣が布都御魂(ふつのみたま)と云われ、天理市の石上神宮の御神体になっている。
 建御雷神はこの剣を用いて「葦原の中つ国」を平定した。布都御魂の剣は素戔嗚命の父の布都が使っていた十束剣である。布都御魂剣は内反り(日本刀とは逆の方に反っている)の鉄剣で85cmほどの長さがある。
 素戔嗚命は布都御魂剣を孫の熊野高倉下(くまのたかくらじ)に授け、熊野高倉下が建御雷神に渡したと考えられる。

 天尾羽張の「尾羽張」は「切っ先が広がった剣」又は「諸刃の剣」の意味だと云う。
 私見では尾張氏の尾張は「矢羽に鳥の尾羽を付けた天羽々矢(あめのははや)」と見ているが、尾張氏の名前の由来も「尾羽張」かもしれない。国譲りを実行したのは尾張氏のようだ。
 尾張氏・海部氏の系図
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 建御雷神は熊野高倉下や天叢雲命(天村雲、あめのむらくも、170年頃出生)の世代になる。建御雷神が熊野高倉下から布都御魂剣を受け、200年頃に国譲りを成功させた。尾張氏は名前の前に「建」をよく使う。
 天叢雲命は素戔嗚命の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の時に出た銅剣(天叢雲剣)と同じ名前になっている。素戔嗚命は孫の天叢雲命に銅剣を授け、銅剣に天叢雲の名を付けたと考えられる。
 天叢雲剣は草薙剣とも云い、三種の神器の一つで名古屋の熱田神宮(尾張国三宮)のご神体になっている。
 熱田神宮は尾張国造の娘・宮簀媛(みやずひめ、日本武尊の妃、320年頃出生)が創建し、草薙剣を祀った。兄は建稲種命(たけいなだね)で天火明命の12世孫。

 素戔嗚命が草薙剣を得た時に用いた十束の剣は天羽々斬(あめのははきり、布都斯魂剣)で、長さ120cmの鉄剣で布都御魂剣と共に石上神宮に祀られている。

 平安時代末期、熱田神宮大宮司の尾張員職(かずもと)の娘・尾張職子は藤原季兼(すえかね、1044年-1101年)の妻となり、藤原季範(1090年-1155年)を生む。藤原季兼は尾張国の目代(もくだい、国司の私的代理人)であった。
 1114年、尾張員職は孫の藤原季範が尾張国目代になったのを機に大宮司職を譲り、その後は藤原氏が大宮司職を世襲する。尾張氏はそれ以降、権宮司に引き下がってしまう。
 尾張氏に嫡男があったにも拘わらず大宮司職を藤原氏に譲ったのは、「神のお告げ」と云うが、藤原氏に半ば強制されたのであろう。これにより、藤原氏が三種の神器の草薙剣を奉斎することになる。藤原氏は権力によるゴリ押しが多い。

 藤原季兼と尾張職子の孫・由良御前(1159年没)は源義朝(よしとも、1123年-1160年)の正室になり、熱田神宮の近くで源頼朝(よりとも、1147年-1199年)を生む。
 愛知県は優秀な人材、企業が多い。源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、最近ではフィギュアスケートの多くの選手、野球のイチロー選手、将棋の天才少年・藤井4段、企業ではトヨタ自動車など。

 藤原氏は鎌倉時代以降、家名を「近衛」、「鷹司」、「九条」、「二条」、「一条」、「三条」、「西園寺」、「中御門」などを名のり、貴族の頂点を極めた。
 熱田神宮の大宮司が尾張氏から藤原氏に替わったので、藤原氏の氏神である春日大社の祭神は第一殿に建甕槌命が祀られている。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮(常陸国一宮)から勧請されたと云う。
 第二殿には経津主命(ふつぬしのみこと)が祀られ、千葉県香取市の香取神宮(下総国一宮)から勧請されたと云う。
 熱田神宮、春日大社、鹿島神宮、香取神宮は藤原氏が奉斎しているが、権力と策略により藤原氏のものとなった。
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# by enki-eden | 2017-08-10 00:07

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

 愛知県清須市廻間(はさま)3丁目の廻間遺跡(はざまいせき)に墳丘墓が6基あるが、1基が「前方後方型墳丘墓」となっている。2世紀前半の築造で、発掘調査された後は道路になっている。
 愛知県には廻間(はさま、はざま)が付く地名が大変多く、200程あるのではないか。「廻間」は「谷間の地形」を意味する。
 「桶狭間の戦い」で有名な「桶狭間」も尾張国知多郡桶廻間村大字桶狭間である。

 方墳の周りに溝がある「方形周溝墓」に渡るための陸橋部が拡大して「前方後方型墳丘墓」となった。更に、前方部の長さが後方部の二分の一以上に拡大し、周濠も大規模になり、「前方後方墳」へと発展していく。
 
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 愛知県一宮市開明(かいめい)にある西上免遺跡(にしじょうめんいせき)の西上免古墳(墳長40.5m、周濠幅9m)が2世紀末か3世紀初めの築造で、最も古い前方後方墳と考えられている。東海地方で生まれた前方後方墳が東日本を中心として全国に広まっていった。

 「前方後円墳」は大和国で物部氏がリードしたが、「前方後方墳」は尾張国で尾張氏がリードした。埴輪が発見される前方後方墳は少ない。
 奈良県北葛城郡広陵町大塚の新山古墳(しんやまこふん)は前方後方墳であるが、多数の埴輪が出土している。墳丘長126mで宮内庁「大塚陵墓参考地」になっている。4世紀後半の築造で、25代武烈天皇陵とも云われるが、武烈天皇は506年頃の崩御なので時代が合わない。
 当地は馬見古墳群(うまみこふんぐん)の南群で、葛城氏の墓域と考えられる。葛城氏と尾張氏は密接な関係にある。

 愛知県一宮市の西上免古墳は前方後方墳ではなく前方後方型墳丘墓で、滋賀県東近江市の神郷亀塚古墳(じんごうかめづかこふん、墳長36.5m、3世紀前半)が最も古い前方後方墳であると云う説もある。それであれば、2世紀から3世紀にかけて但馬から近江へ、近江から尾張へと人や文化が流れていったと考えることができる。
 2世紀に尾張氏と海部氏が九州から日本海沿いに東進し、敦賀から近江(琵琶湖東部)へ入り、更に濃尾平野まで進出していったのか。
 西暦185年頃に「饒速日の東遷」に従って瀬戸内海経由で大和国高尾張に移住した尾張氏は、天香語山、天牟良雲、天背男などの一族であるが、その後波状的に東国の尾張国に移住していった。
 いづれにしても西上免古墳と神郷亀塚古墳の両古墳が前方後方墳の最古級と云うことでしょう。

 前方後方墳は全国に300基ほどあり、全長100m以上の大型前方後方墳は大和国に集中している。最長の前方後方墳は奈良県天理市の西山古墳(全長183m)である。西山古墳については、2013年7月19日投稿の「西山古墳」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-08-02 00:11