古代史探訪

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松原八幡神社(姫路市)

 兵庫県姫路市白浜町甲399   電079-245-0413  無料駐車場あります。
 祭神 中殿、品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、
    左殿(東殿)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、
    右殿(西殿)、比咩大神(ひめおおかみ、三女神)。

 妻鹿(めが)漁港の漁師・久津里が「八幡」と書かれた1尺(30cm)ほどの霊木を海中から網で拾い上げたので、霊木をお祀りし、763年に豊前・宇佐神宮から分霊を勧請、47代淳仁天皇(733年-765年)により当社が創建された。
 平安時代には松原荘が京都・石清水八幡宮の社領(荘園)となり、当社はその別宮・荘園鎮守となって松原荘を管理した。

 秋季例大祭(10月14日、15日)は勇壮な「灘のけんか祭り」として有名で、兵庫県と姫路市の重要無形民俗文化財に指定されており、テレビで放映される。

 飾磨郡誌によると、神社の東部の地名は、松原八幡宮の勧請先である宇佐八幡宮にちなんで白浜町宇佐崎と名付けられた。
 白浜町宇佐崎南1丁目の海沿いには763年に創建の蛭子神社(ひるこじんじゃ)が鎮座している。更に東南に行くと、的形町福泊(まとがたちょう ふくどまり)に子授け地蔵で有名な八家地蔵(やかじぞう)がある。私も昔、孫の願掛けにお参りしましたよ。

 白浜町の語源は新羅浜と云う。神功皇后が新羅遠征(363年)の帰路、多くの新羅の捕虜などを姫路に住まわせた。人質の新羅王子も姫路に住まわせたか、大和国まで連れて行ったかもしれない。
 新羅王子の名は微叱旱岐(みしこち)で、367年に新羅から使者が3人やって来て、王子を連れて帰る。葛城襲津彦が見張りとして同行したが、対馬で微叱旱岐に逃げられた。
 怒った葛城襲津彦は3人の使者を焼き殺し、新羅(慶尚南道)を攻撃、捕虜を連れ帰った。捕虜は葛城襲津彦の地元・大和国葛城に住まわせた。



  赤い大鳥居、昭和初期まではここが海岸線だった。
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  楼門(随神門、姫路市指定有形文化財、1679年造営)
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  社殿(1718年造営)と右に大きな神木(イチョウ)
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  手前に神木と奥に本殿
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  俱釣社、霊木を海中から拾い上げた漁師・久津里を祀る。
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  神明社
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  宮白稲荷神社
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  白躰社
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 右から恵美酒社(大国主命、蛭子命)、天満社、地神社、八坂社(素戔嗚命)、弁財天社。
 7月には八坂社の祇園祭が執り行われる。
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 右から高良社(武内宿禰)、日清・日露戦没慰霊堂、厳島社、春日社、若宮社。
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# by enki-eden | 2017-09-14 00:22

高御位神社(たかみくらじんじゃ、加古川市)

 高御位山(たかみくらやま、播磨富士)の山頂に鎮座。
 高御位山は兵庫県加古川市と高砂市の市境にある304mの神山。
 東の麓の加古川市志方町成井(しかたちょう なるい)に無料駐車場があります。

 祭神 高御位大神(大己貴命、少彦名命)。
    大己貴命は大国主命とも云う。少彦名命は淡嶋神とも云う。

 高御位山は縄文時代・弥生時代から山岳崇拝の聖地であったが、5代孝昭天皇の時(3世紀半ば)に天御中主神を祀ったと云う。



 中央の山が高御位山、左が小高御位山(こたかみくらやま、185m)、東の方(加古川市志方町成井)から写す。ハイキング登山として有名で、多くのハイカーで賑わっている。
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 大己貴命と少彦名命が天津神の命を受け、国造りのために降臨したので、高御位山と名付けられ、29代欽明天皇10年(548年)に山頂に高御位神社が創建された。高御位山全体を御神体としている。
 大己貴命(大国主命)に因んで地名が付けられたのか南東の麓には大国(おおぐに)と云う地名がある。

 成井登山口に階段で整備されたルートがあるが、私は「けもの道ルート」を選ぶ。これがいけなかった。細くて急な獣道は年寄りにとってあまりにも大変で、途中で何度も引き返そうと思った。
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 成井登山口近くに高御位神宮が鎮座、「高御位神宮神祇本庁、熊野修験道本庁」と記されている。
神仏習合の神宮。
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 登山道途中の磐座(いわくら)
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 少し登った所で休憩して東の方を眺める。
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 更に登って休憩、南の方の播磨灘を眺める。
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 何とか山頂に辿り着くと東南向きに社殿が鎮座。日の出方向を調べると、ピッタリ節分の日(立春)の日の出方向に社殿が向いている。
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 社殿南の岩を登って見ると播磨平野と播磨灘を見渡せる。
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 南の方を見ると、播磨灘の手前に竜山石で有名な竜山地区が見える。石の宝殿の生石神社については、2013年4月29日投稿の「生石神社」をご参照ください。
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 社殿横に祠(宇迦之御魂神、佐田彦神、大宮能売神)
 稲荷神社では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の配神として大宮能売神(おおみやのめのかみ)が祀られことが多い。朝廷でも重視されている女神。
 佐田彦神は猿田彦神の別名で、主祭神の宇迦之御魂神の配神となることが多い。
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# by enki-eden | 2017-09-06 00:07

臺與の東遷(とよのとうせん)

 日本書紀の神功皇后年に「200年を加えると卑弥呼と臺與の事績年」になり、「320年を加えると神功皇后の事績年」になる。
   図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 神功皇后47年(西暦367年=47+320)夏4月、百済と新羅の使いが来たが、14代仲哀天皇(313年頃-362年)が既に亡くなっていたので拝謁できなかったと日本書紀に記されている。
 この記事は仲哀天皇の崩御にかけて、卑弥呼(179年-247年)が247年(神功皇后47年、47+200)に亡くなったことを指摘するための「筆法」である。日本書紀には筆法が頻繁に使われている。

 神功皇后(321年-389年)は西暦363年の新羅遠征から大和に帰還する時、仲哀天皇を仮に埋葬していた穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、下関市長府宮の内町の忌宮神社)から天皇の遺骸をとり出し、大和に向かった。
 摂政2年(364年)、仲哀天皇を河内国の長野陵(大阪府藤井寺市藤井寺、岡ミサンザイ古墳)に葬った。

 神功皇后の上記の記事から次のことが判読できます。
 卑弥呼が247年に亡くなった後、魏が265年に滅び西晋となる。248年に女王になった台与(235年頃-295年頃)が266年に西晋に朝貢したが、大陸は内乱と北方異民族の侵入により動乱状態となる。
 大陸との交易ができなくなると九州に拠点を置く必要性が低くなり、臺與は270年頃に大和に東遷した。その際、臺與は九州の卑弥呼の墓から遺骸をとり出して大和に向かった。
 臺與は定型的前方後円墳の箸墓古墳を280年頃に完成し、卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬、古墳時代に入っていく。

 臺與は295年頃に亡くなり、箸墓古墳の前方部に葬られた。箸墓古墳の前方部も後方部も分厚い石積みが施されているので盗掘を免れていると考えられる。

 ミマキイリヒコも臺與と共に東遷し、10代祟神天皇(251年-301年)になった。臺與は記紀に倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)として記述されたのではないか。祟神天皇は物部氏と共に大和から全国支配を進めていく。
 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと、崇神天皇)の名は、伊都国の王で五十猛(160年頃出生、素戔嗚と筑紫紀氏の大矢女命の子)の子孫だと私は考えています。

 箸墓古墳は全長278m、神功皇后陵は275mで神功皇后陵は箸墓古墳を念頭に築造されたと考えられる。陵墓築造においても神功皇后を卑弥呼と臺與に結び付けたかったようだ。
 臺與と関係の深い祟神天皇陵(行燈山古墳)は242m、神功皇后の天皇・仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)も同じく242mで、仲哀天皇陵は崇神天皇陵を念頭にして築造したと考えられる。
 古墳の形や大きさにはそれぞれ理由があるのでしょう。
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# by enki-eden | 2017-08-30 00:08

投馬国(とうまこく)

 投馬国は三国志魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)において、倭国(北部九州29ヶ国)の中で7番目に記されている国の名である。
 投馬国の官は弥弥(みみ)、副官は弥弥那利(みみなり)と云い、50,000戸余りある。邪馬台国の70,000戸に次ぐ大国である。

 私見ですが、投馬国の版図は福岡県東部、大分県、山口県に及ぶ。素戔嗚(西暦140年頃出生)の第5子である饒速日(165年頃出生)が宇佐を本拠地にして統率していた出雲系の国である。

 博多の奴国は海人族・安曇氏の国で、後漢(西暦25年-220年)の時代から倭国を代表して大陸と交易をしてきた。
 西暦57年に後漢の光武帝(紀元前5年-西暦57年)が奴国からの使者に賜った漢委奴国王金印(国宝)が安曇氏の聖地・志賀島から出土した。
 西暦57年の奴国王は初代の国常立(くにのとこたち、西暦元年出生)と考えられ、光武帝とほぼ同じ時代に活躍した。奴国の始まりは偶然にも西暦元年になる。紀元前1世紀に国としての萌芽があった。

 北部九州の海岸地区は安曇氏・宗像氏・和邇氏・海部氏・尾張氏など海人族で占められていたが、全体を統率しているのは素戔嗚・大国主(160年頃出生)を中心とする出雲族であった。
 九州西北部は素戔嗚の第2子である五十猛(160年頃出生)が統率しており、その中には吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)がある。

 邪馬台国は筑後川周辺にある最大の国で、朝倉市が倭国の政治の中心であった。邪馬台国にも出雲族が多く、小石原川の東に平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)などがある。小石原川は高天原を流れる天安川(あめのやすかわ)と考えられる。
 投馬国と邪馬台国は隣同士の大国で、出雲族を通じて密接な関係にあった。列島全体の各豪族も何らかの形で素戔嗚の出雲族と主従関係・協力関係・同盟関係にあった。

 投馬国はその後、豊国(とよのくに、とよくに)と呼ばれる。倭国女王の臺與(とよ、235年頃-295年頃)の出身地だから豊国と呼ばれた。或いは、豊国の出身だから臺與と呼ばれたのか。

 豊国の遠賀川(おんががわ)周辺地域は出雲族の物部氏の本願地になっている。弦田(つるた)物部、二田物部、芹田(せりた)物部、鳥見(とみ)物部、横田物部、大豆(おおまめ)物部、肩野(かたの)物部、聞物部、嶋戸物部などがある。
 その他の地域では、宗像の赤間(あかま)物部、朝倉市秋月の相槻(あいつき)物部、当麻(たきま)物部、浮田物部、足田物部、久米物部、布都留(ふつる)物部などがある。
 これらの物部氏は西暦185年頃の「饒速日東遷」に従って大和国へ移住し、奈良県天理市や大和川周辺などに住み着いた。その後、各地にも拡散していった。

 記紀神話は出雲神話を多く取り入れているが、記紀の「出雲」は出雲国(島根県)ではなく、北部九州の出雲族支配地のことである。従って、記紀と出雲国風土記の内容はそれぞれ別地域の神話で共通性は少ない。
 西暦200年頃に素戔嗚が亡くなり、大国主が跡を継ぐと統率力・求心力が低下して海人族が権限を回復、201年に卑弥呼(179年-247年)が即位して「葦原の中つ国(北部九州の出雲族支配地)」を平定した。

 北部九州だけでなく列島各地も出雲族が移住・開拓し、大和国も大国主系・事代主系の出雲族が治めていた。その後、西暦185年頃に出雲族の饒速日が大部隊で大和国に東遷、纒向(まきむく、太田地区)を都にする。太田は出雲系の地名。人名では大田田根子(意富多多泥古)。

 素戔嗚が列島を統率し、皇室の基盤を創り上げた。私見ですが、素戔嗚の出自は「楚(現・徐州市)」だと考えています。楚は紀元前206年から紀元前202年の楚漢戦争(項羽と劉邦の戦い)に敗れた。一部の楚人が列島に逃れて来た。楚人は文化程度も高く、武力も強かった。

 西暦204年頃に初代神武(181年-248年)が九州から東遷を開始、211年に大和国で即位。出発地は出身地の岡水門(おかのみなと、遠賀川河口)で、投馬国にある。
 投馬国の首長はミミと呼ばれ、素戔嗚と宇佐の比売大神(天照大神)が誓約(うけい)をして生まれた長男はアメノオシホミミであった。
 神武天皇の実名はヒコホホデである。神武天皇と吾平津媛の間に生まれた皇子はタギシミミとキスミミがいる。神武天皇が大和国に東遷後に皇后にしたイスケヨリヒメとの間の皇子はヒコヤイミミ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミ(2代綏靖天皇)。
 3代安寧天皇の名もシキツヒコタマテである。

 大和朝廷は出雲族と海人族の協力・合体によって成り立った。やがて4世紀半ばの14代仲哀天皇・神功皇后(321年-389年)の頃には大和朝廷が全国制覇をほぼ成し遂げた結果、363年に神功皇后が新羅に軍事遠征するまでになった。弥生時代が終焉し、古墳時代が始まって100年ほど後のことである。
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# by enki-eden | 2017-08-24 00:01

経津主神(ふつぬしのかみ)

 日本書紀によれば、経津主神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)と共に「葦原の中つ国平定」(国譲り神話)を実行した神となっている。

 葦原の中つ国平定で大国主命(160年頃-220年頃)が譲ったのは出雲国ではなく、大国主命が素戔嗚尊(140年頃-200年頃)から引き継いで支配していた北部九州の地域を西暦201年頃に明け渡したと云うことです。

 10代崇神天皇(251年-301年)の時代になると、弥生時代から古墳時代に入り、大和国から全国を制覇し、大和朝廷が出現する。
 大和朝廷が安定すると、363年に神功皇后(321年-389年)が新羅に軍事遠征するまでになる。三輪山の麓に箸墓古墳が出現して古墳時代に入ってから100年も経っていない。

 伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神・軻遇突智(かぐつち)を生んだ時に火傷で亡くなったので、伊弉諾尊(いざなぎのみこと、125年頃出生)が軻遇突智を斬った。
 その剣からしたたる血が、天の安河(あめのやすかわ)のほとりに多くの岩群を造った。これが経津主神の先祖になった。経津主神の両親は磐筒男(いわつつのお)と磐筒女(いわつつのめ)となっている。
 先代旧事本紀には、磐裂神(いわさくのかみ)と根裂神(ねさくのかみ)の子が磐筒男と磐筒女で、その子が経津主神となっている。
 栃木県下都賀郡壬生町安塚1772-1に磐裂根裂神社が鎮座、磐裂神・根裂神を祀っている。

 天の安河は高天原を流れる川で、神々が集まって会議をするところ。また、素戔嗚尊と天照大神が誓約(うけい)をしたところ。誓約については2013年1月2日投稿の「盟酒、うけいざけ」をご参照ください。
 私見ですが、福岡県朝倉市の秋月地区(筑前の小京都)から安川地区・甘木地区を流れ、筑後川に注ぐ「小石原川」が「天の安河」だと見ています。
 小石原川周辺が高天原で、弥生時代末期の2世紀から3世紀の倭国の中心地だったと考えられる。小石原川と大分自動車道が交わる辺りに平塚川添遺跡(BC1世紀からAD4世紀)などの遺跡群がある。
 安本美典氏の説によると、甘木・朝倉地方が邪馬台国の中心地で、後に大和に移って大和朝廷ができたと云う。



 高天原については、2014年8月29日投稿の「高天原」をご参照ください。その中に掲載の神世の年表はその後、少し修正していますので修正年表を次に掲載します。
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 経津主神は香取神宮(下総国一宮、千葉県香取市)に、武甕槌神は鹿島神宮(常陸国一宮、茨城県鹿嶋市)に祀られている。
 そして、奈良市の春日大社には経津主神と武甕槌神が祀られている。

 素戔嗚尊(布都斯、ふつし)の父が布都(ふつ)で、天理市布留町の石上神宮(いそのかみじんぐう)の御神体は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ、布都の剣)になっている。
 先代旧事本紀には布都主神魂刀が布都御魂剣であるとしているので、素戔嗚尊の父である布都と布都主神(経津主神)が同じと云うことになる。
 布都は西暦125年頃出生であるが、葦原の中つ国平定の経津主神は西暦180年頃の出生になるので時代が合わない。私見ですが、布都と経津主神は出自も時代も違う別神でしょう。

 石上神宮の御神体は布都御魂剣(布都の剣)の他、布都斯御魂剣(素戔嗚の剣、天羽々斬剣、あめのははぎりのつるぎ)、布留御魂(饒速日の十種の神宝)がある。そして、国宝の七支刀も奉納されている。

 出雲国風土記に布都怒志命(ふつぬしのみこと)が登場し、布都斯(ふつし、素戔嗚尊)のことであると云う説もある。経津主神は元々出雲系の神であったのを高天原系にすり替えられた可能性がある。これは藤原不比等(659年-720年)が記紀の記述に影響を与えたからであろう。
 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子に和加布都怒志命もいる。物部系の祖神、神社、祭祀(御魂振り)も藤原氏・中臣氏の勢力に取り込まれていくことになる。
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# by enki-eden | 2017-08-18 00:08

天尾羽張神(あめのおはばりのかみ)

 古事記によると、伊邪那美神(いざなみのかみ)が迦具土神(かぐつちのかみ、火の神)を生んだ時の火傷で亡くなってしまったので、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が十束剣(とつかのつるぎ)で迦具土神を斬り殺した。
 この十束剣は「天尾羽張(あめのおはばり)」又は「伊都尾羽張(いつのおはばり)」と云う。
 その十束剣に付いた血から多くの神が生まれるが、その中に「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ、雷の神)」がいる。別名を建御雷神(たけみかづちのかみ)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、建布都神(たけふつのかみ)又は豊布都神(とよふつのかみ)と云う。

 高皇産霊神と天照大神が大国主命に「葦原の中つ国(北部九州の出雲族支配地)」の「国譲り」を迫る為、天穂日命(あめのほひ)を交渉に行かせるが、天穂日命は大国主命に味方して戻ってこない。次に派遣した天稚彦(あめのわかひこ)も帰ってこない。
 そこで、天安川(あめのやすかわ)の川上の岩屋にいる伊都尾羽張神(剣の神)に大国主命を説得するよう依頼したが、伊都尾羽張神は自分の子の建御雷神を派遣してくれと云う。それで建御雷神に天鳥船神を添えて「葦原の中つ国」に派遣することにした。
 天尾羽張神(伊都尾羽張神)の子が建御雷神(建布都神、豊布都神)である。

 奈良県御所市に曽我川が流れているが、曽我川が高天原を流れる天安川であるとの伝承があり、川沿いに天安川神社が三社も鎮座している。
 奈良県御所市重坂(へいさか)1005の天安川神社、祭神は市杵島姫命とも天尾羽張神とも云う。御所市樋野109の天安川神社、祭神は市杵島姫命。御所市新田の天安川神社、祭神は市杵島姫命。
 素戔嗚尊と天照大神が天安川を挟んで誓約(うけい)をして生まれたのが三女神なので、祭神が市杵島姫命になっている。天尾羽張神も祭神とされる。
 これは、九州の高天原から御所市に移住してきた人々が元の地名や川の名前を付けたのでしょう。元の高天原は福岡県だと考えられる。2014年8月29日投稿の「高天原」をご覧ください。これは3年前の投稿で、年代表についてはその後、少し修正しているので違う部分があります。

 天尾羽張神の子の建御雷神が国譲りを成功させ、大国主命は出雲国(島根県)へ帰っていった。大国主命の子の建御名方命(たけみなかた)は抵抗したが、建御雷神に敗れ、諏訪国(長野県西部)に逃亡した。
 剣に人の名前を付けることがある。素戔嗚命(布都斯、ふつし)の父・布都(ふつ)の名を付けた剣が布都御魂(ふつのみたま)と云われ、天理市の石上神宮の御神体になっている。
 建御雷神はこの剣を用いて「葦原の中つ国」を平定した。布都御魂の剣は素戔嗚命の父の布都が使っていた十束剣である。布都御魂剣は内反り(日本刀とは逆の方に反っている)の鉄剣で85cmほどの長さがある。
 素戔嗚命は布都御魂剣を孫の熊野高倉下(くまのたかくらじ)に授け、熊野高倉下が建御雷神に渡したと考えられる。

 天尾羽張の「尾羽張」は「切っ先が広がった剣」又は「諸刃の剣」の意味だと云う。
 私見では尾張氏の尾張は「矢羽に鳥の尾羽を付けた天羽々矢(あめのははや)」と見ているが、尾張氏の名前の由来も「尾羽張」かもしれない。国譲りを実行したのは尾張氏のようだ。
 尾張氏・海部氏の系図
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 建御雷神は熊野高倉下や天叢雲命(天村雲、あめのむらくも、170年頃出生)の世代になる。建御雷神が熊野高倉下から布都御魂剣を受け、200年頃に国譲りを成功させた。尾張氏は名前の前に「建」をよく使う。
 天叢雲命は素戔嗚命の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の時に出た銅剣(天叢雲剣)と同じ名前になっている。素戔嗚命は孫の天叢雲命に銅剣を授け、銅剣に天叢雲の名を付けたと考えられる。
 天叢雲剣は草薙剣とも云い、三種の神器の一つで名古屋の熱田神宮(尾張国三宮)のご神体になっている。
 熱田神宮は尾張国造の娘・宮簀媛(みやずひめ、日本武尊の妃、320年頃出生)が創建し、草薙剣を祀った。兄は建稲種命(たけいなだね)で天火明命の12世孫。

 素戔嗚命が草薙剣を得た時に用いた十束の剣は天羽々斬(あめのははきり、布都斯魂剣)で、長さ120cmの鉄剣で布都御魂剣と共に石上神宮に祀られている。

 平安時代末期、熱田神宮大宮司の尾張員職(かずもと)の娘・尾張職子は藤原季兼(すえかね、1044年-1101年)の妻となり、藤原季範(1090年-1155年)を生む。藤原季兼は尾張国の目代(もくだい、国司の私的代理人)であった。
 1114年、尾張員職は孫の藤原季範が尾張国目代になったのを機に大宮司職を譲り、その後は藤原氏が大宮司職を世襲する。尾張氏はそれ以降、権宮司に引き下がってしまう。
 尾張氏に嫡男があったにも拘わらず大宮司職を藤原氏に譲ったのは、「神のお告げ」と云うが、藤原氏に半ば強制されたのであろう。これにより、藤原氏が三種の神器の草薙剣を奉斎することになる。藤原氏は権力によるゴリ押しが多い。

 藤原季兼と尾張職子の孫・由良御前(1159年没)は源義朝(よしとも、1123年-1160年)の正室になり、熱田神宮の近くで源頼朝(よりとも、1147年-1199年)を生む。
 愛知県は優秀な人材、企業が多い。源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、最近ではフィギュアスケートの多くの選手、野球のイチロー選手、将棋の天才少年・藤井4段、企業ではトヨタ自動車など。

 藤原氏は鎌倉時代以降、家名を「近衛」、「鷹司」、「九条」、「二条」、「一条」、「三条」、「西園寺」、「中御門」などを名のり、貴族の頂点を極めた。
 熱田神宮の大宮司が尾張氏から藤原氏に替わったので、藤原氏の氏神である春日大社の祭神は第一殿に建甕槌命が祀られている。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮(常陸国一宮)から勧請されたと云う。
 第二殿には経津主命(ふつぬしのみこと)が祀られ、千葉県香取市の香取神宮(下総国一宮)から勧請されたと云う。
 熱田神宮、春日大社、鹿島神宮、香取神宮は藤原氏が奉斎しているが、権力と策略により藤原氏のものとなった。
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# by enki-eden | 2017-08-10 00:07

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

 愛知県清須市廻間(はさま)3丁目の廻間遺跡(はざまいせき)に墳丘墓が6基あるが、1基が「前方後方型墳丘墓」となっている。2世紀前半の築造で、発掘調査された後は道路になっている。
 愛知県には廻間(はさま、はざま)が付く地名が大変多く、200程あるのではないか。「廻間」は「谷間の地形」を意味する。
 「桶狭間の戦い」で有名な「桶狭間」も尾張国知多郡桶廻間村大字桶狭間である。

 方墳の周りに溝がある「方形周溝墓」に渡るための陸橋部が拡大して「前方後方型墳丘墓」となった。更に、前方部の長さが後方部の二分の一以上に拡大し、周濠も大規模になり、「前方後方墳」へと発展していく。
 
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 愛知県一宮市開明(かいめい)にある西上免遺跡(にしじょうめんいせき)の西上免古墳(墳長40.5m、周濠幅9m)が2世紀末か3世紀初めの築造で、最も古い前方後方墳と考えられている。東海地方で生まれた前方後方墳が東日本を中心として全国に広まっていった。

 「前方後円墳」は大和国で物部氏がリードしたが、「前方後方墳」は尾張国で尾張氏がリードした。埴輪が発見される前方後方墳は少ない。
 奈良県北葛城郡広陵町大塚の新山古墳(しんやまこふん)は前方後方墳であるが、多数の埴輪が出土している。墳丘長126mで宮内庁「大塚陵墓参考地」になっている。4世紀後半の築造で、25代武烈天皇陵とも云われるが、武烈天皇は506年頃の崩御なので時代が合わない。
 当地は馬見古墳群(うまみこふんぐん)の南群で、葛城氏の墓域と考えられる。葛城氏と尾張氏は密接な関係にある。

 愛知県一宮市の西上免古墳は前方後方墳ではなく前方後方型墳丘墓で、滋賀県東近江市の神郷亀塚古墳(じんごうかめづかこふん、墳長36.5m、3世紀前半)が最も古い前方後方墳であると云う説もある。それであれば、2世紀から3世紀にかけて但馬から近江へ、近江から尾張へと人や文化が流れていったと考えることができる。
 2世紀に尾張氏と海部氏が九州から日本海沿いに東進し、敦賀から近江(琵琶湖東部)へ入り、更に濃尾平野まで進出していったのか。
 西暦185年頃に「饒速日の東遷」に従って瀬戸内海経由で大和国高尾張に移住した尾張氏は、天香語山、天牟良雲、天背男などの一族であるが、その後波状的に東国の尾張国に移住していった。
 いづれにしても西上免古墳と神郷亀塚古墳の両古墳が前方後方墳の最古級と云うことでしょう。

 前方後方墳は全国に300基ほどあり、全長100m以上の大型前方後方墳は大和国に集中している。最長の前方後方墳は奈良県天理市の西山古墳(全長183m)である。西山古墳については、2013年7月19日投稿の「西山古墳」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-08-02 00:11

岡本八幡神社(神戸市東灘区)

兵庫県神戸市東灘区岡本6丁目10-1  電078-452-0796  駐車スペースはあります。
祭神 応神天皇(誉田別尊)、神功皇后(氣長足姫尊)。
厄除け開運の厄神宮

 神戸市には神功皇后(321年-389年)由来の神社が多く、伝承は363年の新羅遠征関連が多い。
当社の創建ははっきりしないが、1192年に鎌倉幕府が開かれ、源氏の勢いにあやかろうと源氏の氏神である八幡神を村の高台に祀ったと云われる。



   石の鳥居
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   急な階段を登ると拝殿
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   本殿
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   絵馬は「しゃもじ」になっている。
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 当地岡本は古くから「梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波」と云われ梅の名所であったが、1938年の阪神大水害、1945年の神戸大空襲、戦後の高度成長期の住宅開発により、美しい梅林は失われてしまった。
 しかし、1982年に住民の要望に応えて神戸市が「岡本梅林公園」を整備した。その後も整備・拡充され、園内には紅梅、白梅、しだれ梅など200本の梅の木が植えられている。
 その中には太宰府天満宮から贈られた菅原道真公ゆかりの「飛び梅」もある。飛び梅については、2016年4月7日投稿の「太宰府天満宮の飛び梅ちぎり」をご参照ください。

 当社は阪急電鉄「岡本駅」の北500mほどにあり、周辺は六甲山の南麓地区で坂道の街になっているが、住宅地としての人気は非常に高く、豪邸も多い。
 すぐ東に天上川が流れており、春は梅の名所のようだ。
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# by enki-eden | 2017-07-25 00:15

魚崎八幡宮神社(うおざきはちまんぐうじんじゃ、神戸市)

兵庫県神戸市東灘区魚崎南町3丁目19-18  電078-411-1617
                    無料駐車場あります。

祭神 八幡大神(15代応神天皇)、
   春日大神、
   八衢比古神(やちまたひこのかみ、道路を守る神)、八衢比売神、
   天照皇大神(あまてらしますすめおおかみ)、
   久那戸大神(くなとのおおかみ、縁結び・安産の神)。

 当地の魚崎は酒造りの灘五郷の一つで、地名を元は五百崎(いおざき)と称していた。神功皇后(321年-389年)が新羅遠征の際、この浜に500艘の船を集結して船出したことにより地名を五百崎とした。それが魚崎と変化してきた。
 江戸時代の魚崎村は住吉村の本住吉神社を氏神としていたが、明治になって魚崎八幡宮神社を氏神とするようになった。
 本住吉神社については、2015年9月28日投稿の「本住吉神社」をご参照ください。
   赤のアイコンが魚崎八幡宮神社、黄が本住吉神社。


   
   西の赤い大鳥居
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   東の石の鳥居
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   入口は東西で、社殿は南向き。
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    本殿
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 拝殿前に白髭(しらひげ)稲荷神社、祭神は八柱の稲荷大明神。
 主神は白髭稲荷大明神で一願成就の霊験がある。
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 東の鳥居横に遺跡「神依松」の切り株がある。この松は新羅遠征から凱旋(363年)してきた神功皇后の船がこれより先に進むことができなくなったので、五百崎(魚崎)の浜の大松に船の鞆綱を繋いで神功皇后が占ったところ、船に祀っている神の御誨(お告げ)があった。

 神功皇后はその御誨に従って、天照大神の荒魂を広田(西宮市の廣田神社)に、稚日売神を生田(神戸市中央区の生田神社)に、事代主神を長田(神戸市長田区の長田神社)に、住吉神を渟名椋長岡(大阪市の住吉大社、又は神戸市東灘区の本住吉神社)に祀った。それで船は無事に航海を続けることができた。

 鞆綱を繋いだ松は人々が神功皇后の大御形見としていたがやがて枯れてしまった。この松を「神依りの松」と云う。神依りの松の傍らに神籬をたてて八幡大神を祀り、五百神社と称したのが当社の始まりと云う。
 その後、天照皇大神と春日大神を合祀したと云う。
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   松尾神社(大山咋神、酒造りの神)
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 当社の元の祭神は素戔嗚尊であったが八幡大神に替わったと云う説がある。八幡大神とは応神天皇であるが、八幡大神は元々は素戔嗚尊だったと云う説もある。
 宇佐八幡宮の祭神は比売大神・応神天皇・神功皇后であるが、元々は素戔嗚尊と比売大神だったのかもしれない。神社の祭神は入れ替わることがある。
 又、元々の八幡大神は天火明命であると云う説もある。
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# by enki-eden | 2017-07-17 00:15

宗像・沖ノ島、世界遺産に一括登録

 ユネスコの世界遺産委員会は7月8日(土)、福岡県宗像市の沖ノ島など8つの史跡全てを一括して世界文化遺産に登録することを決めた。

 「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は、福岡県宗像市の沖ノ島と3つの岩礁、本土の宗像大社、宗像市の西隣の福津市にある新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群など8つの国指定史跡で構成する。
 宗像大社は、沖ノ島を神体とする沖津宮、大島の中津宮、本土の辺津宮(へつのみや)からなる。沖ノ島は本土から60km離れており、周囲4kmの孤島である。



 沖ノ島については、2014年2月26日投稿の「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。
 福津市の新原・奴山古墳群は5世紀から6世紀にかけて築造され、宗像氏の墳墓と云われるが、異説もある。津屋崎古墳群の一角で、対馬見山(つしまみやま、243m)の北2kmにある。対馬見山からは大島(中津宮)が眼前に見渡せる。
 新原・奴山古墳群は前方後円墳が5基、方墳が1基、円墳が35基現存、開発により失われた古墳が18基あった。
 新原・奴山古墳群は古代の海岸沿いにあり、大島との繋がりを重視されて選ばれたようだ。

 宗像国(宗像市)は大国主命が九州の本拠地としていたところで、隣国の刺国(さしくに、福津市津屋崎)は大国主命の母・刺国若比売の国であった。両国を合わせて宗刺国・胸刺国(むなさしのくに)と云われ、つながりが深く、関東に移動して武蔵国(むさしのくに)と名付けられたと考えられる。

 沖ノ島などを事前審査をしたユネスコの諮問機関が5月に、本土側の宗像大社など4つを除外するよう求めたが、日本側の熱心な説得活動もあり、全てが一括登録となった。これで日本の世界遺産は文化遺産が17件、自然遺産が4件となる。
 
 沖ノ島は宗像と朝鮮半島の間にあり、4世紀から9世紀の外洋航路安全や交流成就を祈る国家的祭祀が行われた。
 女人禁制や入島制限が守られ、古代祭祀の変遷を示す遺跡がそのままの形で残っている。奉献品約8万点が出土し、「海の正倉院」と呼ばれている。

 考古学者の石野博信先生は、沖ノ島の国家的祭祀は戦勝祈願も重要だったのではないかと云われている。4世紀末から5世紀末にかけて倭・高句麗戦争があり、その後も日本は百済と同盟を結び、高句麗・新羅とは基本的に敵対関係にあった。
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# by enki-eden | 2017-07-11 14:23

鷺森八幡神社(さぎのもりはちまんじんじゃ、神戸市東灘区)

兵庫県神戸市東灘区本山北町6丁目2-28  電078-411-5135(保久良神社)
有料駐車場(北畑会館)があります。

鷺の宮、産宮とも云われ、安産の神様としても崇敬されている。
明治時代に保久良神社の御旅所(境外末社)になっている。

祭神  天照皇大神、八幡大神、春日大神。
    明治40年に熊野神社、古山神社、山神社、賽神社が合祀された。
    熊野大神、高倉下命(たかくらじのみこと)、
    稲田宮主命(いなだのみやぬしのみこと)、
    八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神、
    大山津見命(おおやまづみのみこと)、
    具莫戸神(くなどのかみ)。



 現在の神社周辺は住宅街になっているが、昔は「鷺の森」と呼ばれる森であった。宅地開発で森は切り開かれ、神社境内のケヤキ1本だけが残った。
 このケヤキは高さ16m、樹齢800年の大木で神戸市の天然記念物に指定されている。

   鳥居の横にケヤキの大木
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   拝殿
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   本殿
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   拝殿左に稲荷神社(玉崎稲荷と鷺玉稲荷)
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# by enki-eden | 2017-07-10 00:19

保久良神社(ほくらじんじゃ、神戸市東灘区)

兵庫県神戸市東灘区本山町北畑680  電078-451-9435  駐車場なし。
祭神 須佐之男命、
   大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)、
   大国主命、
   椎根津彦命。
ご神徳 水難除け、海上安全、厄災除け、病魔退散。

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 中世には「天王宮」とも称し、江戸時代には「牛頭天王社」と称した。
 六甲山系金鳥山(338m)中腹の保久良山(185m)に鎮座。椎根津彦命が須佐之男命・大歳御祖命・大国主命を祀ったと云う。
 椎根津彦の系図は、天火明→天香語山→天村雲→椎根津彦(倭宿禰・珍彦・大和国造)で、椎根津彦は西暦185年頃に生まれ、初代神武天皇(181年-248年)の東遷(204年開始)に大きく貢献し、大和国造の祖となった。

 根津彦命は保久良神社の南方にある神戸市東灘区の浜に青亀(おうぎ)の背に乗って漂着したという伝承があり、それが東灘区青木(おおぎ)の地名となった。青亀は青い舟のことか。
   赤のアイコンが保久良神社、黄が青木


 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征(363年)の戦利武器を当社に収めたと云われる。また、椎根津彦の子孫で769年に大和連を賜った倉人水守が当社の祭祀をしていた。

 「ほくら」の社名由来は神社の説明では、「神霊(ひ)を集めた場(倉、くら)」→「ひくら」→「ほくら」としている。また、椎根津彦は社頭にかがり火を焚いて村人に提供したり海上交通安全を図ったので、火種(ひだね)を保持する庫・倉が由来で火倉(ほくら)の社名になったとも云う。
 私見ですが、弥生時代の当地が高地性集落だったので、「烽火(のろし)の山=火倉(ほくら)」かもしれないと考えています。六甲山南麓の高地性集落については、2013年7月31日投稿の「摂津国の考古学」をご参照ください。

 曲がりくねった急な山坂をやっと登りきると、眼下に神戸の街と大阪湾が見渡せる。
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 鳥居と社号標、左には椎根津彦命が亀に乗った像が大阪湾を指さしている。
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 鳥居の前には灯篭があり、瀬戸内海から大阪湾を航行する船の航海安全を祈るご神灯を焚いており、「灘の一つ火」と云われている。
 現在では電灯の灯篭に変わっているが毎夜点灯されている。「灘の一つ火」は古謡にも歌われ航海安全の信仰が篤い。
     沖の舟人 たよりに思う 灘の一つ火 ありがたや
  
 鳥居を過ぎて振り返ると「灘の一つ火(灯篭)」が行き交う船に灯台の役目をしている。
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   拝殿
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   拝殿左手前に「立岩(たていわ)」
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   末社の祓御神社(天照皇大神と春日大神)
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   遥拝所(小さな磐座)
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   本殿裏の磐座
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   本殿裏の大きな岩座「神生岩(かみなりいわ)」
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 境内には「立岩(たていわ)」と云われる大きな岩がたくさんある。
 これは神様に祈るために立て起こした祈願岩で、「磐座(いわくら)」・「磐境(いわさか)」などと呼ばれる。渦巻き状に配置された磐座群の中心の岩は本殿北裏の岩になっている。
 古代人は大きな岩に常世(とこよ)の国より神様をお招きして、繁栄・安全を祈願した。この神聖な場所は「古代祭祀遺跡地」と呼ばれている。
 祭祀跡から出土した土器破片や石器により、紀元前3世紀の弥生時代から当地「ほくら」で磐座祭祀をしていたことが分かる。20cmの銅戈が出土しており、国の重要文化財に指定されている。
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   保久良梅林
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# by enki-eden | 2017-07-02 00:04

Y染色体ハプログループ

 女性の性染色体はXXで、男性はXYになっている。
 男性のY染色体は父親から息子に引き継がれ、Y染色体ハプログループは次の図のように分類されている。
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 Aはアフリカ系。分岐した全てのグループはAに遡るので人類の起源はアフリカになる。
 Bはアフリカのピグミーに多い。

 日本人のY染色体ハプログループはD、O、Cが中心。Y染色体ハプログループの分類が2015年11月に改訂された。私が過去に投稿したDNA関連の記事は旧分類で表示しています。

 DとEはDEから分岐した。
 D1a(旧・D1)はチベット人。アイヌ人・沖縄人と近いハプログループであるが、外見は違う。
 D1b(旧・D2)は日本人(中でも縄文人、アイヌ人、沖縄人は日本人平均より比率が高い)。
 彫りの深い顔、濃いひげ、二重まぶたの特徴で日本固有の系統。
 北海道と沖縄は稲作に適していないので、江南人(倭人)が定着せず縄文系が残った。
 日本人男性のハプログループの40%ほどを占める。
 D*はインドのアンダマン諸島で、D1aにもD1bにも属さない。一見すると黒人と変わらないので、出アフリカ時のままの外見を保っている。

 Eはアフリカに多い。
 Eの中でもE1b1bはエジプト、チュニジア、ユダヤ人、アラブ人、南欧人など地中海沿岸地域に存在する。
 日本のD1b(縄文系)はEに近い。ユダヤ人とは文化的・言語的に共通点が多い。古代のシュメール人もEかF(ドラヴィダ人)だったと考えられる。

 Cは北方(遊牧民)からサハリン経由で日本列島にやって来て、日本人男性のハプログループの5%ほどを占める。C1a1(日本固有)、C2a(日本固有)、C2cが日本に存在する。
 C2bはシベリア、北東アジア、北米先住民に多い。モンゴル人に53%、韓国人に13%。
 C1b2はオセアニア地域先住民に多い。Cは北と南に分かれている。

 Oは東アジア系で、日本人男性のハプログループの52%ほどを占める。
 Oの日本での内訳は、
 O1b2(旧・O2b1a)が江南人(倭人、揚子江)の呉系で、日本全体の33%ほどを占める。紀元前473年に呉は越に敗れ、北方(徐州)に逃亡した。朝鮮半島南部や中国北東部にも逃亡・定住した。

 O1b1(旧・O2a)が江南人の越系で、日本の1%ほどを占める。越は紀元前334年に楚に敗れ、ベトナム(越南)、マレーシア、バリ島、ボルネオ島、ジャワ島などに逃亡した。日本にも僅かにやって来た。越系は中国にも15%の比率で存在する。

 O1a(旧・O1)が江南人の楚系で、日本の3%ほどを占める。楚漢戦争で楚は紀元前202年に漢に敗れたが中国に残り、中国人には10%ほどの比率で存在する。一部は台湾・フィリピンに逃亡、日本にも少数が逃亡・定住した。

 O2(旧・O3)が黄河系で、日本の15%ほどを占める。中国に55%、朝鮮半島に44%、マレーシア、タイ、チベット、ベトナムなど東南アジアにも多い。

 O系統は縄文時代から弥生時代にかけて波状的に日本列島にやって来て、縄文人と交わり、弥生人になった。

 Fはドラヴィダ人に多く、南アジアから中央アジアに少し存在する。
 Gはコーカサス地方に多く、ヨーロッパに少し存在する。
 Hはドラヴィダ人に多い。

 Iはバルカン半島、北欧に多い。
 Jは中東に多い。
 Kはパプアニューギニアに多く、周辺地域にも少し存在する。
 Lはインド、パキスタンに多い。Kから分岐した。
 Tはインド、中東、東北アフリカに多く、Kから分岐した。
 MとSはパプアニューギニアに多い。
 Nは北欧からユーラシア北部に広く分布する。日本にもわずかに存在する。

 Pは東南アジアの島に多い。
 QとRはPから分岐した。Qはアメリカ先住民に多い。
 Rはヨーロッパとインドで、R1aは東欧、インド北部、中央アジアに多い。R1bは西欧に多い。

 出アフリカの時期は7万年前から5万年前と云われるが、14万年前にも気候変動による出アフリカがあったと考えられる。
 人類は出アフリカの後、北ルート、南ルート、西ルートに分かれて分岐拡散していった。アフリカに残ったA、B、Eはアフリカの黒人になった。
 出アフリカをした人類はネアンデルタール人と混血したと考えられる。2015年1月13日投稿の「人類とネアンデルタール人の混血」をご参照ください。
 北ルートに分散したのはアジア系のD、C1a1、C2、N、O、Qに分岐し、
 南ルートに分散したのはオーストラロイドで、C1b2、F、K、Hなどに分岐、
 西ルートに分散したのはヨーロッパ系のC1a2、I、J、G、Rに分岐した。
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# by enki-eden | 2017-06-25 00:13

瀬田遺跡の円形周溝墓(奈良県橿原市城殿町)

 瀬田遺跡は橿原市の畝傍山(うねびやま、標高199m)から東へ1kmほどの城殿町(きどのちょう)にある。



 2016年春に瀬田遺跡で、弥生時代の終わり頃(2世紀後半)に築造された円形周溝墓が見つかった。墳丘の南側に周溝を渡るための台形の土手があり、前方後円墳に先行する弥生墳丘墓になっている。
 全長は26m、直径は19mで、墳丘は後世に取り除かれているので高さは分からないが、周溝が残っているので墳丘の形と大きさが分かる。
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 7km北東の桜井市箸中には最初に築造された定型形前方後円墳の箸墓古墳(墳丘長278m、高さ30m、3世紀後半築造)がある。

 定型形前方後円墳より古い弥生墳丘墓である纏向型前方後円墳(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)がある。纒向石塚古墳、纒向矢塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳で、2世紀後半から3世紀前半に造られた。
 饒速日命が西暦185年頃に北部九州から大部隊を率いて大和に東遷し、纒向を都にした頃である。ホケノ山古墳については2012年12月21日投稿の「ホケノ山古墳」をご参照ください。

 この他、纒向と繋がりが深い全国の豪族も纏向型前方後円墳を造っている。神門古墳群(ごうどこふんぐん)の神門4号・5号墳(千葉県市原市、3世紀中頃築造)、津古生掛古墳(つこしょうがけこふん、福岡県小郡市、3世紀後半築造)などである。
 津古生掛古墳については「ひもろぎ逍遥」の「津古生掛古墳」をご覧ください。

 この纏向型前方後円墳より更に古いのが瀬田遺跡の円形周溝墓で、瀬戸内中部から近畿地方には円形周溝墓が多い。
 瀬田遺跡の円形周溝墓から纒向石塚古墳へ、更に箸墓古墳へと進化していった。

 その瀬田遺跡から全国初の台付き編み籠が出土した。(6月22日の神戸新聞)
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 2016年6月に箱形の台が付いたかごが見つかった。台とかごが一体で見つかったのは初めてで、専門家は、用途を知る上で貴重な発見だとしています。
 見つかったのは細く削ったササで編まれたすり鉢状のかごで、高さ15cm、直径30cmほどのかごで、半分ほどが残っていた。
 かごの底の部分には、「四方転びの箱(しほうころびのはこ)」と呼ばれる、木の板4枚を組み合わせた箱形の台が付いていた。出土した土器などから、弥生時代の終わり(2世紀後半)のものと考えられている。
 「四方転びの箱」と呼ばれる台は、これまで用途が分かっていなかったが、かごと一体で見つかったので、用途を知る上で貴重な発見である。次はイメージ図です。
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 私見ですが、この台とかごが一体になった器は祭祀の時に使うものだと考えています。これが進化して、現在使われている三方(さんぼう、神前に物を供える)になったと考えています。

 また、弥生時代後半の大規模集落遺跡で、弥生人の脳が出土した鳥取県青谷上寺地遺跡では、河川跡から四方転びの箱が出土している。
 青谷上寺地遺跡については、2013年1月20日投稿の「青谷上寺地遺跡展示館と因幡万葉歴史館」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2017-06-22 17:56

伊邪那岐神・伊邪那美神の国生み

伊邪那岐神・伊邪那美神の国生み
 大八島国
  ①淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけしま、淡路島)
  ②伊予之二名島(いよのふたなしま、四国)
     愛比売(えひめ、伊予の国)
     飯依比古(いいよりひこ、讃岐の国)
     大宜都比売(おおげつひめ、阿波の国)
     建依別(たけよりわけ、土佐の国)
  ③天之忍許呂別(あめのおしころわけ、隠岐の島)
  ④筑紫島(九州)
     白日別(しらひわけ、筑紫の国)
     豊日別(とよひわけ、豊国)
     建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ、肥の国)
     建日別(たけひわけ、熊曾の国)
  ⑤天比登都柱(あめのひとつばしら、壱岐の島)
  ⑥天之狭手依比売(あめのさてよりひめ、対馬)
  ⑦佐渡の島
  ⑧大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)、
    またの名を天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
 建日方別(たけひかたわけ、吉備の児島)
 大野手比売(おおのてひめ、小豆島)
 大多麻流別(おおたまるわけ、大島)
 天一根(あめのひとつね、女島)
 天之忍男(あめのおしを、知訶島)
 天両屋(あめのふたや、両児島)

伊邪那岐神・伊邪那美神の神生み
 大事忍男神(おおことおしをのかみ)、石土毘古神(いわつちひこのかみ)、
 石巣比売(いわすひめ)、大戸日別神(おおとひわけのかみ)、
 天之吹男神(あめのふきをのかみ)、大屋毘古神(おおやひこのかみ)、
 風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、
 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、
   この二柱の神の生んだ神は、沫那芸神(あわなぎのかみ)、沫那美神(あわなみのかみ)、
   頬那芸神(つらなぎのかみ)、頬那美神(つらなみのかみ)、
   天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)、
   天之久比奢母智神(あめのくいざもちのかみ)、
   国之久比奢母智神(くにのくいざもちのかみ)、
 志那都比古神(しなつひこのかみ)、久久能智神(くくのちのかみ)、
 大山津美神(おおやまづみのかみ)、鹿屋野比売神(かやのひめのかみ、野椎神)、
   大山津美と野椎の二柱の神が生んだ神は、天之狭土神(あめのさつちのかみ)、
   国之狭土神、天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、国之狭霧神、
   天之闇戸神(あめのくらとのかみ)、国之闇戸神、大戸或子神(おおとまとひこのかみ)、
   大戸或女神(おおとまとひめのかみ)、
 鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ、天鳥船)、大宜都比売、
 火之夜芸速男神(ほのやぎはやをのかみ、火之迦具土神)、
 ここで伊弉冉尊は火傷で病になるが、更に神が生まれた。
 金山毘古神(かなやまひこのかみ)、金山毘売神、波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)、
 波邇夜須毘売神、弥都波能売神(みつはのめのかみ)、和久産巣日神(わくむすひのかみ)、
 和久産巣日神の子神に豊宇氣毘売神がいる。
 ここで伊邪那美神は火の神を生んだ時の火傷がもとで亡くなり、出雲国と伯耆国の境にある比婆山に葬られた。

伊弉諾神宮
 兵庫県淡路市多賀740    電0799-80-5001
 2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。

本殿以下の諸殿群
 明治初年から20年にかけての官費による大造営で、最初に改築(新築)されたのが本殿で、明治9年に竣功した。この本殿の後背には、伊弉諾大神の神陵があり神代から禁足であった。
 明治12年に神陵の墳丘を覆うように二重に基壇を設け、真新しい本殿を神陵の真上に移築した。
 本殿の形式は、三間社流れ造向拝付で、屋根の桧皮葺き(ひわだふき)は前方の幣殿と連結して、一屋根になっている。
 本殿大床下には、神陵に築かれていた数十個の聖なる石が格納されている。明治の大造営では、本殿のほか、拝殿、幣殿、正門、中門、翼廊、渡廊、透塀、正門と祓殿や齋館が整備され、官幣大社としての体裁が整うことになった。

幽宮(かくりのみや)
 日本書紀神代巻に「是以構幽宮於淡路之洲」とあり、神功を果された伊弉諾大神が、御子神の天照皇大御神に国家統治の大業を委譲し、最初に生まれた淡路島に帰還、多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごした。
 この地で終焉の時を迎えた伊弉諾大神は、その住居の跡の神陵(現本殿の床下)にお祀りされ、これが最古の神社である伊弉諾神宮の創祀の起源だとされている。

 私見ですが、伊弉諾尊は西暦125年頃に淡路島で出生、160年頃に倭国王兼7代目奴国王に就任した。伊弉諾尊は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の力を借りて各地を統率(国生み)したが、185年頃に素戔嗚尊や伊弉冉尊と争って倭国乱が勃発。
 伊弉諾尊は失脚し淡路島に隠遁、190年頃に淡路島の幽宮で亡くなる。倭国は卑弥呼(179年-247年)が201年に倭国王として就任した。
 素戔嗚尊は200年頃に亡くなり、相続した大国主命(160年頃-220年頃)が後を継いだが、卑弥呼と高皇産霊尊は北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)の国譲りを強制、大国主命は出雲国に隠遁した。
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# by enki-eden | 2017-06-19 00:19

政教分離

 有名な本能寺は法華宗本門流大本山で、京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522(京都市役所南)にある。
 1532年(天文元年)、京都で勢力を強めた日蓮宗(法華宗)の信徒(法華衆)により、浄土真宗の本山である山科本願寺が焼き討ちにあって全焼した。翌年の天文2年に本願寺教団は石山本願寺(大坂本願寺)に本山(本寺)を移転した。

 1536年(天文5年)、法華衆は比叡山延暦寺(天台宗総本山)の僧侶との宗教問答で論破し、裁判でも勝利した。
 延暦寺の僧兵は大軍を率いて京都の日蓮宗寺院を全て焼き払い、多くの法華衆を殺害した。この「天文法華の乱」により本能寺も焼失、法華衆は敗北して堺の末寺に逃亡した。

 1542年(天文11年)に日蓮宗の京都帰還を許す勅許が下され、15ヶ寺が京都に再建された。本能寺は1545年(天文14年)に四条西洞院(にしのとういん)北方に広大な寺地を得て大伽藍を造営した。
 延暦寺と日蓮宗は1547年(天文16年)に和解した。

 本能寺の末寺が近畿、北陸、瀬戸内、種子島まで拡大し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。本門流は早くから種子島に布教していた事から鉄砲と火薬を手に入れ、戦国大名と深い関係にあった。強力な鉄砲隊を持つ織田信長(1534年-1582年)の京都での宿は本能寺であった。

 天台宗延暦寺は織田信長に対抗するために北陸の浅井・朝倉と連携したが、1571年(元亀2年)信長の全軍による総攻撃により比叡山を焼き討ちにされた。
 浄土真宗の石山本願寺は城郭のように石垣をめぐらせて要塞化したが、信長との長い戦争の結果、1580年に炎上した。

 当時は武家勢力だけではなく寺社も武装・独立し、地域を治めていた。信長の天下賦武に反抗・独立していた各地の寺社を信長は武力鎮圧し、武装解除して本来の宗教活動に戻させた。
 信長により多くの寺社が破壊され、多くの人々が殺されたが、寺社の武装と政治活動が禁止され、大きな犠牲の結果、宗教改革の一面にもなった。

 織田信長が明智光秀(1528年-1582年)に襲われた本能寺は現在地にあったのではなく、寺域の南北は蛸薬師通と三条通の間の270mほど、東西は西洞院通と油小路通の間の140mほどで、大寺院であった。
 現在は道路横に「此付近本能寺跡」の石碑などが立っている。
 赤のアイコンが現在の本能寺、黄が本能寺跡。


 織田信長は広大な城郭のような本能寺を京都での宿としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)明智光秀に包囲され自刃した。旧暦の6月1日は新月で真っ暗闇、その深夜の2日に襲撃された。

 現在の大阪城の地には、石山本願寺ができる前には古墳があったと云う。また、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)の境内もあり、太古から信仰の場であった。生國魂神社については2014年2月14日投稿の「生國魂神社①」をご参照ください。

 1583年に、豊臣秀吉(1537年-1598年)が天下統一の拠点として、炎上した石山本願寺跡地に難攻不落の大坂城の築城を開始した。

 生國魂神社は石山本願寺と共に焼失したが、秀吉が1585年に現在の天王寺区に生國魂神社の社殿を造営した。
 本能寺は1592年に豊臣秀吉の命にて現在地に再建した。

 織田信長の武力により、大きな犠牲と大きな損失の結果として日本の宗教改革が実現した面もあった。
 イスラム教国のトルコでは、1923年にトルコ共和国初代大統領になったケマル・アタテュルク(1881年-1938年)が1928年に憲法からイスラムを国教と定める条文を削除して、世俗主義・民族主義・共和主義などを理念とし、政治と宗教を分離した。

 しかし、他のイスラム教国ではイスラム教・政治・軍が一体的に統合されており、主にスンニ派とシーア派に分かれて紛争・テロ・戦争を繰り返している。
 一部のテロ集団が外国にまで執拗なテロ活動を展開している。世界はテロとの戦いに力を入れているが、イスラム圏の政教分離を実現しなければテロの根絶は難しいのではないか。
 イスラム圏の政教分離は不可能だと云う意見もあれば、政教分離してもテロはなくならないという意見もある。
 私はテロとの戦いを進めるのと同時に、イスラム圏の政教分離を実現しなければ、テロはいつまでも続くと考えています。
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# by enki-eden | 2017-06-13 00:02

皇統の維持

 96代後醍醐天皇(1288年-1339年)は鎌倉幕府を倒幕する運動を行う。皇子は護良親王(もりながしんのう、1308年-1335年)で大塔宮(おおとうのみや)とも云い、共に倒幕を進める。
 足利尊氏(1305年-1358年)や新田義貞(1301年-1338年)による鎌倉幕府倒幕後に、後醍醐天皇は独裁体制の建武新政を実施するが、足利尊氏と対立し吉野で南朝を樹立、南北朝に分かれる。
 足利尊氏は光明天皇(1322年-1380年)を擁立して室町幕府(1336年-1573年)を開き、幕府の初代征夷大将軍となる。

 1392年に南北朝が合一し、北朝の後小松天皇(1377年-1433年)が100代天皇となる。しかし、室町幕府の権力が強く、皇室は幕府に従うしかなかった。
 102代後花園天皇(1419年-1471年)の弟の貞常親王(1426年-1474年)が伏見宮家第4代当主として、1456年に勅許により伏見殿と称して世襲親王家の成立となった。

 世襲親王家は複数存在し、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮(かんいんのみや)である。世襲親王家は天皇直系に皇子が不在の場合に皇位継承候補者を出し、皇統の維持補完に寄与してきた。伏見宮墓地は京都市上京区の相国寺内(京都御所の少し北)にある。
 明治維新後には永世皇族制となり、世襲親王家の制度は廃止された。天皇に皇子がない場合や、昔のように複数の天皇妃が存在しない現代では皇統の維持が困難になってきている。

 閑院宮(かんいんのみや)は113代東山天皇(1675年-1710年)の第6皇子・閑院宮直仁親王(1704年-1753年)により1718年に創設された。閑院宮邸跡の一部は京都御苑内の西南角に残っている。
 118代後桃園天皇(1758年-1779年)に皇子はなかったので、天皇崩御により、閑院宮直仁親王の孫の祐宮(さちのみや、1771年-1840年)が践祚して119代光格天皇となった。
 後桃園天皇崩御の時の新天皇候補者は3人で、伏見宮貞敬親王・閑院宮美仁親王・閑院宮祐宮親王がいたが、閑院宮祐宮親王が選ばれ光格天皇になった。
 光格天皇は1817年に第6皇子の恵仁(あやひと)親王(1800年-1846年)に譲位し、120代仁孝天皇(1800年-1846年)とし、自らは上皇(太上天皇)となった。

 現在の125代平成天皇(1933年~)も、来年の在位30年を機に皇太子徳仁親王(なるひとしんのう、1960年~)に譲位を希望し、「陛下一代限りの特例法」制定が成立すれば、今上天皇は再来年に上皇になる見込みとなっている。

 現在の皇統は閑院宮系の光格天皇から続いており、122代明治天皇(1852年-1912年)は121代孝明天皇(1831年-1867年)の第2皇子・睦仁親王で、1868年に京都御所で即位礼、1871年に東京の皇居で践祚大嘗祭(だいじょうさい)を行った。

 孝明天皇は天然痘が原因で崩御したとされるが、ヒ素毒殺説もあり岩倉具視(1825年-1883年)などが疑われている。
 これには異説があり、孝明天皇は崩御(1867年)と称して京都堀川6条の堀川御所に入り、ウラ天皇になったと云う。更に明治天皇は孝明天皇の皇子ではなく、長州藩奇兵隊士で南朝後醍醐天皇の末裔である大室寅之祐に明治天皇は取り替えられたと落合莞爾氏(1941年~)が主張している。
 睦仁親王は大室寅之祐とすり替わり、孝明天皇と同じく堀川御所に入ったと云う。堀川御所は西本願寺の北にあったが現存せず、今は西本願寺の駐車場になっている。

 私見ですが、薩長土肥(薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩)と一部公家の倒幕運動に対して、孝明天皇と睦仁親王の公武合体論は相容れなかったことが事件と関係あるでしょう。
 落合莞爾氏の著書は多いですが、『明治維新の極秘計画「堀川政略」と「ウラ天皇」』の動画を見ました。動画は3回に分かれていて、1回分は1時間20分以上の長さでした。
 内容全部が正しいとは限りませんが、古代から現代に至るまでの詳しい解説があり参考になりました。既に動画サイトは閉鎖されています。

 戦後の1947年、GHQ(General Headquarters、総司令部)の指令により皇室財産が国庫に帰属されたため、昭和天皇の実弟である秩父宮(1995年断絶)、高松宮(2004年断絶)、三笠宮(男子不在)の3宮家を残し、他の11宮家の51名は皇籍離脱した。
 旧皇族の11宮家は伏見宮、閑院宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、久邇宮、賀陽宮、東伏見宮、
朝香宮、竹田宮、東久邇宮。

 皇室典範第1章第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とある。皇族が限定され、皇族数が減少した戦後の皇統を維持するのは困難になっているが、政府はその場しのぎの対策しか打ち出せない。
 国民には女性天皇を認める意見も多いが・・・
 皇室典範第2章12条では、皇族女子が皇族以外の者と婚姻すると皇族の身分を離れることになっているので、秋篠宮眞子内親王も結婚後に皇籍離脱になります。女性宮家の創設も検討事項として考えられているが・・・
 また13条では、男性皇族が皇籍離脱するときはその子孫も同時に離脱することになっている。
私見ですが、12条、13条は変更する必要があるのでは? 旧宮家の皇籍復帰も必要と考えています。
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# by enki-eden | 2017-06-07 00:17

東明八幡神社(とうみょうはちまんじんじゃ、神戸市)

兵庫県神戸市東灘区御影塚町2丁目9-2  電078-857-7562
境内に車を停められます。
祭神 応神天皇(363年-403年)

 当社の西隣に4世紀築造の処女塚古墳(おとめづかこふん、70mの前方後円墳)がある。被葬者は美しい乙女で、その乙女と結婚しようとした二人の若者の墓が2.1km西方にある西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)と1.6km東方にある東求女塚古墳だと云う。
 西求女塚古墳(神戸市灘区都通3-1)は3世紀後半築造の前方後円墳(98m)、東求女塚古墳(神戸市東灘区住吉宮町1丁目9)は4世紀後半築造の前方後円墳(80m)で、出土品からどちらの古墳も相当な勢力の首長の墳墓と考えられる。
 西求女塚古墳も東求女塚古墳も処女塚古墳の方を向いているので恋物語が作られ、「菟原処女の伝説」として万葉集、大和物語、謡曲(求塚)、森鴎外の「生田川」などに取り上げられている。
 赤のアイコンが東明八幡神社と処女塚古墳、黄が西求女塚古墳、青が東求女塚古墳。



 神社の由緒によると、神功皇后(321年-389年)が新羅へ遠征の時に、武内宿禰が皇后の健勝を祈って当地に植えた若松が、枝葉も繁りまたたく問に大木に育った。
 後年、当地を訪れた武内宿禰はこの瑞兆により、応神天皇の偉徳を称え、松の傍に祠を建て神霊を勧請して「正八幡宮」と称し、遠目郷(とおめのさと、東明村・現御影塚町)の鎮守とした。
 その後、貞観の代(9世紀後半)に宇佐八幡宮の御神霊を京都男山の石清水八幡宮へお遷しの時、鳳輦(ほうれん、金の鳳凰の飾りを付けた神輿)が当社で休息されたと伝えられており、古来より厄除、息災、願望成就の神として近郷より篤く崇敬されている。
 石清水八幡宮については、2016年12月2日投稿の「石清水八幡宮」をご参照ください。

 東明八幡神社の説明によると、「武内宿禰が当地に松を植えたのは1,700年前」になっている。私見では武内宿禰の生年は西暦310年頃と見ているので、ほぼ同じ見方だと思います。

   入口の鳥居
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   拝殿
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 武内宿禰が植えた松の木は、江戸時代になって幹周り5m以上の巨木となり、「武内松」 と呼ばれ摂津名所として知られた。
   立ち寄りて いざ言問わん この里の 社の松に 古き昔を
                       (大中臣為村)

 この松は明治の初めに枯れたので、その一部を保存し、横に2代目の松を植えている。 奥の祠の中に1代目の松があり、左に現在の2代目の松が植えられた。
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 浅香稲荷社(あさかいなりしゃ)、境外摂社であったが明治中期に境内に遷した。心身健全、芸能成就、商業繁栄の神。
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 高良宮(こうらぐう、祭神は武内宿禰)、厄除けの神。当社では1月18日と19日に厄除祭が執り行われる。
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# by enki-eden | 2017-05-31 00:17

櫨谷諏訪神社(はせたにすわじんじゃ、神戸市西区)

兵庫県神戸市西区櫨谷町(はせたにちょう)長谷(はせ)75   電078-991-1034
無料駐車場あります。

祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)、
   誉田別命(ほむたわけのみこと)、事代主命、天児屋根命、
   大日孁貴命(おおひるめのむちのみこと)、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)。

創建
 鎌倉時代の1264年に櫨谷城主の衣笠法眼為が信州諏訪大社より寺谷地区(櫨谷町東部)に勧請したが、毎夜のように長谷村の山の樹上に光り物が現れるようになり、神社の位置を現在地に移したところ光り物が現れなくなったと云う。

 櫨谷(はせたに)の地名由来は、櫨蝋(はぜろう)の生産が盛んであったと云われるが、由来は「櫨」ではなく、「長谷」だと考えられる。
 長谷(はせ)は、山間の細長い地域は長谷(はせ)と呼ばれることが多く、山の間を川が流れている。当地にも櫨谷川(はせたにがわ、はぜたにがわ)が流れており、明石川に合流している。



 祭神の建御名方命の父は大国主命、母は高志の沼名河比売命。建御名方命は出雲の国譲りに反対して抵抗したが、建御雷神(たけみかづちのかみ)に負けて信濃国諏訪に逃れた。
 后神の八坂刀売命の父は天八坂彦命で、西暦185年頃の饒速日尊東遷に従い、伊勢神麻続連(いせのかむおみのむらじ)の祖となる。
 八坂刀売命の父は綿津見神と云う説もある。

   鳥居から境内を望む。
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 拝殿は北向きになっている。
 当社の6km北方に建御名方命の父神・大国主命を祀る神出神社(かんでじんじゃ)が鎮座しているが、そちらを向いているのか? 諏訪大社も北向きと云うが正確には西北西を向いている。
 神出神社の祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命(大国主命)。神出神社については、2013年5月10日投稿の「神出神社」をご参照ください。
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   本殿
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   拝殿右に神明社(天照大御神)
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   天満宮(菅原道真公、学問の神様)
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   稲荷社(宇迦之御魂神、農商工業の神様)
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# by enki-eden | 2017-05-23 00:28

櫨谷神社(はぜたにじんじゃ、神戸市西区)

兵庫県神戸市西区櫨谷町福谷3-1  無料駐車場あります。
祭神:
 国常立命(くにのとこたちのみこと)、
  江戸時代元禄の頃に編纂された明石藩采邑(さいゆう)私記には天香香背男命(星神)と
  なっている。
 大日孁命(おおひるめのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
 建御名方命(たけみなかたのみこと)、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、
 吉備津彦命(きびつひこのみこと)、誉田別命(ほむたわけのみこと、15代応神天皇)。



創建:
 33代推古天皇11年(603年)9月9日に櫨谷庄の産土神として創建された。
 当社背後の杜は彗星(隕石)落下の謂れのある霊山で、当社は妙見宮と称していた。妙見信仰は神社とお寺が合体した形態だったので、明治の神仏分離令により櫨谷神社と改称した。
 明治以降の妙見神社は祭神を天御中主神(北極星)、国常立尊、北極星などとする。
 当社の彗星伝承により明石藩采邑私記には祭神に天香香背男命(星神)が記されたか。

 1989年より神戸市垂水区の海神社の兼務社として宮司・神職の奉仕を賜っている。海神社については2013年9月15日投稿の「海神社」をご参照ください。

 櫨谷の地名由来の一つに、当地は「櫨蝋(はぜろう)」の産地であったと云うものがあり、ハゼの木は450年ほど前に中国から九州に種子を輸入し栽培され始め、全国に広がった。
 縄文時代からあった漆(うるし)の木の樹液は漆器に塗る材料になったが、漆の実は絞って木蝋(もくろう、ワックス)として使われた。
 ウルシ科のハゼの実から蝋燭を作るようになったのは戦国時代末期からになる。「はせたに」の地名はそれよりずっと古いので、長谷(はせ)から櫨(はせ、はぜ)に変わったと考えられる。
 山間の細長い地域は長谷(はせ)と呼ばれることが多い。由来は奈良県桜井市の「長谷(ながたに)の初瀬(はせ、はつせ)」という枕詞から長谷(ながたに)を「はせ」と云うようになった。

   鳥居と社号標
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 階段を登ると社殿。左側の登山口から社殿背後の妙見山(168m)に登れる。
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   本殿
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   神紋は「丸に並び瓶子(ならびへいじ)」
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 源義経(1159年-1189年)が1184年の「ヒヨドリの逆落とし」の途上、一行100騎余りを当社(妙見宮)に駐屯させ本陣とした。義経が作戦を練るために腰掛けた「腰掛石」が境内にある。
   櫨谷の 杜(もり)に拝(まい)らば 神(み)を鎮(しづ)め
   みごと射止めよ 結願(けちがん)の的(まと)
 
 中央に歌碑と右に祈願石、左に腰掛石。
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 右の末社は四体末社(末社を合祀)
 右から天王大神(雨乞いの神)、
 稲荷大神(農業神・商業神・食物神・屋敷神・殖産興業神)、
 猿田彦大神(道祖神・天狗)、牛頭天王大神(疫病の神)。
 左の末社は妙見宮
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 身代わり不動
 この狛犬は1995年の阪神淡路大震災で損傷した。周辺も甚大な被害を受けたが、当社の被害は比較的少なかった。それで、損傷した狛犬さんがお守りくださったと云い伝えられ、現在は「身代わり不動」として拝殿の左側に移され鎮座している。
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 私見ですが、当社祭神の国常立命は西暦元年生まれの初代奴国王で、西暦57年に後漢に朝貢した漢委奴国王と見ています。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 国常立命については、2015年8月24日投稿の「日本書紀の神武天皇年」をご参照ください。  
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# by enki-eden | 2017-05-15 00:58

六甲八幡神社(ろっこうやはたじんじゃ、神戸市灘区)

神戸市灘区八幡町(なだく やはたちょう)3丁目6-5  電078-851-7602
有料駐車場がありますが参拝者は社務所で割引券をいただきます。
祭神: 八幡大神(15代応神天皇)、天照大神、春日大神。

「厄神さん」と呼ばれ、境内は広く森が深い。
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 1180年、平清盛(1118年-1181年)が福原遷都の時に京都・石清水八幡宮から勧請し、地名も八幡に改めたと云われる。石清水八幡宮については2016年12月2日投稿の「石清水八幡宮」をご参照ください。
 また、豊前の宇佐八幡宮から勧請したとも云われるが、宇佐神宮祭神の比売大神(宗像三女神)が当社では天照大神に代わった可能性がある。
 私見ですが、比売大神は元々は天照大神ではないかと見ています。下の系図にある「天照大神①」です。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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   石の鳥居と社号標
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   拝殿(右に社務所)
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   本殿は奈良・春日大社の旧社殿(安土桃山時代)を移築した。
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   手水舎の龍
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   摂社・厄神宮、県指定重要文化財。
   春日大社の社殿を移築するまではこの社が八幡社の本殿であった。
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   庚申社(こうしんしゃ、猿田彦神)
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   金比羅宮(大物主神)
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   稲荷宮
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 私は学生時代、当社の北に隣接する阪急電車神戸線の六甲駅で降りて大学へ通っていました。卒業して52年になりますので周辺の街並みも大きく変わっています。
 JR大阪駅の変貌ぶりは凄いですね。株式投資セミナーなどで時々大阪へ行きますが、行くたびに変わっています。
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# by enki-eden | 2017-05-09 00:19

熊野神社(神戸市兵庫区熊野町)

兵庫県神戸市兵庫区熊野町3丁目1-1 電078-511-2928 無料駐車場あります。
祭神:  伊弉諾命、伊弉冊命。
ご神徳: 縁結び、福徳延命、事業創設。

 「夢野の権現さん」と呼ばれる。
 当社南部が夢野町となっているが、旧・夢野村の範囲はもっと広い。古代では朝廷の禁猟地になっており、禁野(いみの)が夢野になったのではないかと云われる。
 現在の当地は住宅密集地になっているが、古代では六甲山系の麓の原野で鹿やイノシシなどが多かった。現在でも六甲山系の麓では時々イノシシが住宅街に現れることがある。
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 摂津国風土記逸文に、『昔、夢野(神戸市兵庫区)に夫婦の鹿がいて、牡鹿には淡路島の野島(のじま)に妾の鹿がいた。ある夜、牡鹿は背に雪が降り、すすきが生える夢を見た。
 妻の牝鹿は夢判断をして、矢で撃ち殺されて塩を塗られる前兆だと云って牡鹿が妾のもとに行くのを止めた。
 それでも、牡鹿は淡路島に泳いで行き、途中の海で船人に見つけられて射殺された。』とある。

 昔も今も、浮気の結果は悲惨なことになりますねぇ。ことわざにある「夢野の鹿」の意味は「悪い予感や心配事が、その通りになってしまうこと」。

 神社の由緒によると、平清盛(1118年-1181年)が福原遷都の際、皇城鎮護の神として、後白河法皇(1127年-1192年)のご崇敬の厚い紀州熊野権現を勧請し、東向きに奉鎮した。
 しかし、まもなく京都に還幸になったので地元夢野の住民が産土神として尊信するようになった。

  南向きの石の鳥居、後ろの山は六甲山系。
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  拝殿、東北東向きで「東向きの権現さん」とも云われる。
  熊野神社は一般的に「南東向き」が多いのではないでしょうか。
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  本殿、流れ造り、銅板葺。
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  社殿右手前に「力石」、石囲いと石碑の間に楕円形の力石が見える。
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  社殿右に大神宮社(天照皇大神)
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 大神宮社の隣に荒木稲荷神社(稲荷大神、商売繁栄)、
 京都伏見稲荷大社裏の稲荷山に鎮座する荒木神社(縁結び)から勧請された。
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 本殿後ろに金比羅神社(大物主神)。
 夢野村の山に祭祀されていたが、明治初期に当社に移築された。
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 祇園神社(素戔嗚神)、蛭子神社(蛭子神)、春日神社(天児屋根命)、
 八幡神社(応神天皇)、猿田彦神社(猿田彦大神)、地主神。
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  古殿神社(額田大中彦命、応神天皇の皇子)、大正時代に氷室町から移転。
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  牛神社(豊受姫大神)、昭和43年に熊野町5丁目から合併祭祀される。
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# by enki-eden | 2017-05-03 00:47

河内國魂神社(かわちのくにたまじんじゃ、神戸市)

兵庫県神戸市灘区国玉通3丁目6-5  078-861-0587  駐車場なし。
摂津国莵原郡(うばらぐん)鎮座
祭神 大己貴命、少彦名命(国土経営、民生安定、医薬、酒造、縁結びの神様)、
   菅原道真公(学問の神様)。

 当社は菅原道真(845年-903年)の没後、霊を勧請合祀して五毛天神と称した。

 古地名「五毛」は胡麻生(ごまう)の当て字として使われていたが、当地は水田がなく胡麻を栽培していたので胡麻生と云った。その地名由来で当社は五毛天神とも呼ばれる。
 また、当地は摩耶山(702m)の麓の傾斜地にあり、女人守護・女人高野と云われる摩耶山天上寺の寺領として胡麻を絞って灯火用油を作っていた。
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 祭神の大己貴命は大国主命と同神と考えられる。大己貴命は西暦160年頃に出雲国で出生、素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の末娘・須世理姫と結婚、素戔嗚尊が亡くなると大己貴命は素戔嗚尊の後継者となるが、高皇産霊尊に北部九州の出雲族支配地(葦原瑞穂国、葦原中国)を奪われ、高皇産霊尊の娘・三穂津姫と結婚して出雲国に戻る。

 大己貴命(大国主命)は八上姫、沼河姫、神屋楯姫、田心姫など多くの女性と結婚、181人の子ができたので、縁結びの神として信仰されている。
 また、大国主命は少彦名命と力を合わせて国土開発・病気治療を進めたが220年頃に亡くなる。

 河内国魂神社は河内国・和泉国・摂津国に勢力を有していた国造の凡河内氏(おおしこうちし)が奉斎していたが、当社の祭神は大己貴命と少彦名命で、凡河内氏祖神の天津彦根神や天御影命ではない。
 天津彦根命は素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)により生まれた男神5柱のうちの1柱で、子の天御影命は西暦185年頃の饒速日東遷に従って大和にやってきた。
   天津彦根命――天御影命――意富伊我都命――彦己曽根命(凡河内国造)
 凡河内氏は大和朝廷の港湾管理や海外との外交を担っていた。
 28代宣化天皇(6世紀前半)の妃に大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)があり、火焔皇子(ほのおのみこ)を生んだ。椎田君(しいだのきみ)の先祖となり、尼崎・伊丹地方を治めた。

 当社の創建時には摂津国造の凡河内忌寸(いみき)の祖・天御影命を祀っていたとも云われる。また、18世紀に奉行所から社名を五毛天神から河内國魂神社に代えるように強制されたと云う説もある。
 当社の東2.6kmの綱敷天満神社が河内国魂神社だと云う説もある。2014年10月12日投稿の「綱敷天満神社」をご参照ください。

   石の鳥居と社号標
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   手水舎の青銅唐獅子が面白い。
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   拝殿
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   奥に本殿
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   遥拝所、東の伊勢神宮に向いている。
   東隣りは曹洞宗の海蔵寺で五毛天神の神宮寺であった。
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 本殿左に厳島大神(市杵島姫命)と箕岡大神(みのおかおおかみ、伊弉冊命)が明治の終わり頃に当社へ移転・合祀された。
 手前は菅原道真公ゆかりの牛の石像。
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 本殿右に荒川稲荷神社、
 もとは箕岡神社(みのおかじんじゃ)の末社であったが箕岡大神と共に当社へ移転・合祀された。
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# by enki-eden | 2017-04-26 00:46

肥前国風土記

 神八井耳(神武天皇の子)の子孫の志貴多奈彦(しきたなひこ)の子・遅男江(ちおえ)が10代崇神天皇に火国造(熊本県中部)に任じられた。
 健磐龍命(たけいわたつ、熊本県阿蘇市の阿蘇神社の祭神)を火国造の祖とする説もある。阿蘇神社では健磐龍を神八井耳の子としており、健磐龍は阿蘇国造の祖と考えられる。
 阿蘇神社(肥後国一宮、阿蘇治隆宮司)は2016年4月に頻発した熊本地震の横揺れで楼門が倒壊、拝殿が全壊、神殿が損壊した。現在復旧工事を進めており、奉賛(募金)も募っている。

 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、「阿蘇」の地名由来は「麻」で、「宇佐」の地名由来も「麻」となっている。
 古事記には火の国を筑紫島の四面の一つ、建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)としている。

 火の国の由来
 肥前国風土記と肥後国風土記逸文によると、益城郡(ましきぐん)の土蜘蛛(つちくも)が天皇に背いたので、10代崇神天皇が健緒組命(たけおくみのみこと)に討たせた。
 その後、健緒組が国内巡察して白髪山(しらかみやま、1,244m、球磨郡五木村)に着いたとき、夕暮れ空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告した。天皇は「火の下る国であるから火の国というべし」と云われ、健緒組に「火の君」の姓を賜った。
 健緒組は佐賀県武雄市の武雄神社(祭神:武内宿禰、武雄心命ほか)と繋がりがあるようだ。武雄神社の本来の祭神は健緒組命であったとも云うが、健緒組命は武雄心命(武内宿禰の父)であるとも云う。健緒組は年代的には武雄心の父の家主忍男かもしれない。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 日本書紀によると、12代景行天皇が5月、葦北(あしきた、熊本県葦北郡)より船出して日暮れになった。その時、遠方に火の光を見つけて着岸した。そこは八代県の豊村であった。火の光の主を問うと、主は不明で人の火ではなかったので、その国の名を火の国と名付けた。
 肥後国風土記逸文にもこれに似た記事が載っている。

 火の国の地名由来としては阿蘇山(1,592m)の噴火、八代海の不知火(しらぬい、蜃気楼)、氷川町氷川(火川)、火打ち石の産地などの説もある。現代でも観測される隕石の火球かもしれない。
 また、八代郡肥伊郷(八代郡氷川流域)に古代の多氏の流れを汲む火君(ひのきみ)と呼ばれる有力豪族がいたことに由来するとも。

 私見ですが、火(肥)国の語源は羋(び)の国かもしれないと考えています。中国における春秋戦国時代の楚の国姓は羋(び)で、王の氏は熊(ゆう)です。紀元前221年に秦始皇帝が全国を統一、紀元前206年に秦が滅亡、楚は漢と覇権を争って楚漢戦争(項羽と劉邦、BC206年-BC202年)に敗れ滅亡。楚人の一部が列島に逃れた。
 私は逃れて来た楚人の羋国が火(肥)国になったのではないかと考えています。王の氏・熊(ゆう)が由来となって熊本、隈本、球磨川などの地名が発生したのでは? 
 肥後国は14世紀頃から「隈本(くまもと)」と呼ばれていたが、1607年に加藤清正が築城の際、「熊本」に変えた。
 3世紀には狗奴国として魏志倭人伝に記され、有明海の制海権や領土紛争などで邪馬台国と争った。狗奴国は魏ではなく呉と交易していたと考えられる。
 私は吉備国の「キ」は呉の姫(き)で、「び」は楚の羋(び)で両者合わせて「きび」になったとも考えています。有明海地方と吉備地方はどちらも楚人のDNAが多く認められます。

 人吉市や山鹿市の横穴式墳墓は揚子江(長江)沿いの江南人の墳墓に同じ。装飾文様にも特色がある。
 紀元前の江南地方の墓制に石棚墓があり、下には甕棺が埋葬されている。この石棚墓は江南人(倭人)により縄文時代末期から弥生時代前期にかけて九州北西部に伝わり、支石墓(しせきぼ、ドルメン)と呼ばれている。
 朝鮮半島にはテーブル式支石墓が遼東半島から伝わり、支石墓が爆発的に造られた。渡来経路は遼東半島からなので北部から南部へ広がっていった。朝鮮半島南西部は北部と違って支石の低い南方式(碁盤式)支石墓と呼ばれ九州と似た形になっている。
 2,500年ほど前から波状的に江南人(倭人)が北部九州にやって来たが、朝鮮半島南部海岸地域にもやって来て小国家群を建てた。


 肥の国はやがて、現在の佐賀県・長崎県(壱岐、対馬を除く)の地域をも含むようになるが、41代持統天皇の7世紀終わりごろに肥前国(佐賀県、長崎県)と肥後国(熊本県)に分けられた。
 肥前国府は佐賀郡大和町(現・佐賀市大和町)に置かれたが、肥前国庁跡の史跡公園として整備されている。肥前国庁跡の11km東には吉野ケ里遺跡があり、周辺地域は弥生時代からの中心地であった。
   赤のアイコンが肥前国庁跡の史跡公園


 肥前国一宮は佐賀市大和町の與止日女神社(よどひめじんじゃ、祭神は與止日女命)と三養基郡みやき町の千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう、祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后)で、両社の鳥居はどっしりとした肥前鳥居である。千栗を「ちりく」と読む。

 肥前国風土記の基肄郡(きいぐん、佐賀県鳥栖市)の姫社郷(ひめこそのさと、鳥栖市姫方町)条には、山道川(やまぢがわ、現・山下川)の西に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を殺していた。筑前国宗像郡の珂是古(かぜこ)が幡を投げて占うと、幡が筑後国御原郡(福岡県小郡市大崎)の姫社(ひめこそ)の社(媛社神社、通称七夕神社、祭神は媛社神と織姫神)に落ちて、祀りを求める神の居場所を示してから、また山道川に戻った。媛社神(岩舟大明神)は饒速日命の別名と云われる。
 珂是古はその夜、夢で神が女神であることを知り、社を建てて祀ったので人が殺されることがなくなった。
 鳥栖市姫方町には姫古曽神社(祭神は市杵島姫命、織女神)が鎮座。姫古曽神社の東3kmに七夕神社が鎮座。この繋がりから、饒速日と市杵島姫は夫婦ではないかと云う説がある。
 山下川沿いに姫古曽神社の北1.5kmには景行天皇が鎧を奉納した永世神社(ながよじんじゃ)が鎮座している。
 基肄の地名は魏志倭人伝記載の支惟(きい)国ではないでしょうか。

 肥前国風土記によると、神埼郡の三根村を本拠地とする海部直鳥が神埼郡を割いて三根郡を分立した。海部直鳥は筑後川から有明海の制海権・交易権と漁業権を統率していたと考えられる。
 三根郡物部郷(佐賀県三養基郡みやき町)には物部神社(経津主神)が鎮座。地名の三根は魏志倭人伝記載の弥奴国かもしれない。

 肥前国風土記は神埼郡の郡名起源として、景行天皇が荒ぶる神を鎮めたので神埼の郡と云う。神埼市神埼町神埼に鎮座の櫛田宮の略記には、『当地方に荒神があって人を害したが、景行天皇が櫛田宮を創建されてから人民は幸せになったので、神幸郡と名付けた。
 蒙古襲来の時は、本宮の神剣を博多櫛田神社に奉還して異族退散を祈り霊験あらたかであったので、厄除け開運の神と崇敬されるようになった。』とある。
 鳥居はどっしりとした肥前鳥居です。

 肥前国風土記の松浦郡褶振峯(ひれふりのみね)条には、28代宣化天皇の時代(537年)に大伴狭手彦連(大伴金村大連の三男)が船で任那へ向かった時、妻(地元豪族の娘)の弟日姫子(おとひひめこ)が褶振峯(鏡山、佐賀県唐津市、284m)に登り、褶を振って狭手彦の魂を呼んだことからその名が付いたと云う。
 この地名起源譚は万葉集に松浦佐用姫(さよひめ)の伝説として歌われている。
  松浦潟 佐用姫の児が 領巾(ひれ)振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ
                          5-868 山上憶良

 鏡山(褶振峯)に松浦佐用姫の黒い陶製像があるが、像の人気はもうひとつである。唐津市呼子町加部島(よぶこちょうかべしま)の天童岳(112m)にも唐津焼の佐用姫像があり、唐津市厳木町(きゅうらぎまち)の道の駅厳木(きゅうらぎ)にも白い大きな佐用姫像があって、像は回転するようになっている。
 加部島には田島神社が鎮座、祭神は宗像大社と同じ田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊。境内に佐與姫神社(祭神は佐用姫命)が鎮座。
 田島神社の鳥居の中に最古の肥前鳥居があり、肥前守源頼光(944年-1021年)が990年頃に寄進したので頼光鳥居とも云う。これが肥前鳥居の始まりか。

 江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町江田、国の史跡)
 5世紀末頃(21代雄略天皇の時代)に築造された全長62mの前方後円墳で、75文字の銀象嵌銘大刀や銅鏡など豊富な副葬品(国宝)が出土した。有明海に注ぐ菊池川沿いの古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置され、八女市の岩戸山古墳と同様の形式になっている。
 被葬者は筑紫君一族の配下にあった首長だと考えられており、5世紀後半、6世紀初め、6世紀前半の3名以上(ムリテほか)が埋葬されたと考えられている。従って副葬品が非常に多い。
 

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# by enki-eden | 2017-04-19 00:26

肥後国風土記逸文

 肥後国名の由来について13世紀後半完成の釈日本紀に、
 『肥後国風土記に曰く、肥後国は元、肥前国と合わせて一つの国であった。10代崇神天皇の時代に、益城郡(ましきぐん)の朝来名(あさくな)の峰(朝来山、あさこやま、465m)に打猿(うちさる)と頸猿(うなさる)と云う名の二人の土蜘蛛がいた。
 180人ほどの部下を率いて朝来名峰を拠点とし、朝廷に逆らって征伐できない。天皇の勅を受けて肥君の祖である健緒組(たけおくみ)命が賊を誅殺した。
 健緒組が国を巡察し、八代郡の白髭山に来ると日が暮れたので宿泊した。その夜、大空に火が出た。その火は自ら燃え、徐々に下って白髭山に落ちて消えた。健緒組は大いに驚き、事の次第を天皇に報告した。天皇は火の下りし国なれば、火の国と名づくべしと言われた。
 また、12代景行天皇が熊襲を誅殺された後、巡幸されたが海上で日が暮れてしまった。すると行く先に火の光が見え、その方向に舵を取ると岸に着くことができた。天皇は火の燃えるところはどこで、如何なる火なのかと聞かれた。土地の人が、ここは火の国八代郡の火の村ですと答えたが、何の火かは分からないと云った。
 天皇は、燃える火は人の火ではない、この火が火の国の地名由来だと分かったと言われた。』とある。

 私見ですが、魏志倭人伝記載の狗奴国は肥後国(熊本県)と考えています。女王国の南に狗奴国があり、女王国に属せず常に争っていた。首長は狗古智卑狗(菊池彦)で、菊池川が熊本県菊池市から玉名市に流れて有明海に注ぐ周辺地の出身か。



 肥後国の郡名は、玉名郡、飽田郡(あきたぐん)、山鹿郡(やまがぐん)、菊池郡、阿蘇郡、合志郡(ごうしぐん)、山本郡、託麻郡(たくまぐん)、益城郡、宇土郡、八代郡、葦北郡、球磨郡、天草郡。
 肥後国の中心地域は託麻郡と飽田郡(現在の熊本市)で国府や国分寺が置かれた。

 健緒組は熊本市東区健軍本町(けんぐんほんまち)の健軍神社(けんぐんじんじゃ)と繋がりがある。祭神は健軍大神(健緒組命)、健磐龍命(阿蘇山の神)。
 社殿は西向きで、神水(くわみず)1丁目交差点に石の鳥居があり、東へ550m行くと健軍交差点に加藤清正公銅像が目に付く。信号を渡ると「健軍神社参道」の標識があり、神社の神門まで750mもある。参道は一般道を兼ねているが参道の両側には灯篭が連なっている。神門前にも鳥居があるが、珍しい形で高さが低く幅が広い。
 地元では健軍神社を「たけみやさん」と呼ぶらしい。「たけみや」を昭和以降に「けんぐん」と音読みするようになった。

 釈日本紀は阿蘇山(閼宗岳、あそのたけ)について、「筑紫国風土記に曰く、肥後(ひのみちのしり)の国閼宗(あそ、阿蘇)の縣。縣の西南方向二十余里に禿山があり、閼宗の岳と云う。
 山頂に沼があり、時々水が満ち、南から溢れ出て白川に流れ込むと魚が死んでしまう。地元では苦水と云う。山の形はそびえ立って天に届き、諸々の川の源となり、徳は大きく高く真に人のようだ。奇しき形は天下に二つ無し。国の中心にあるので中岳と云う。いわゆる閼宗の神宮(かむつみや)、是なり。」とある。

 阿蘇文書に、「肥後国風土記に曰く、12代景行天皇が玉名郡の長渚の濱を出発し、阿蘇郡に行幸し、周囲を眺めたが原野が広いだけで人家が見当たらない。この国に人は居るのかと言われた。
 すると二柱の神が現れ、我らは阿蘇都彦と阿蘇都姫、我らが住んでますよと云って消えた。神名により当地を阿蘇郡と名付けた。二柱の神の社は阿蘇郡の東に鎮座している。」

 阿蘇宮由来記によれば、神武天皇の皇子・神八井耳命の子である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇に封じられ、阿蘇都彦と称して阿蘇に土着。その子・速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が阿蘇国造に任ぜられ阿蘇氏の姓を賜った。
 阿蘇氏は阿蘇国造や阿蘇郡司として当地を支配し、阿蘇神社の宮司を兼ねた。現在も大宮司は阿蘇氏である。
 阿蘇神社は熊本県阿蘇市一の宮町(阿蘇山北麓)に鎮座、肥後国一宮で祭神は健磐龍命(阿蘇都彦)と阿蘇都比咩命。全国に450社ある阿蘇神社の総本社となっている。
 残念ですが、阿蘇神社は2016年4月の熊本地震で楼門が倒壊、拝殿が全壊、神殿が損壊した。

 阿蘇山は火の国熊本のシンボルで、高岳(1,592m)を最高峰に、根子岳(1,433m)、中岳(1,506m、火口が有名)、烏帽子岳(1,337m)、杵島岳(1,321m)の阿蘇五岳とこれを取り囲む外輪山からなっている。
 阿蘇山から熊本市中心部へは白川と緑川が流れて有明海に注ぐ。

 阿蘇山は過去30万年の間に4度の大噴火を起こしている。その度に火砕流堆積物が積り、火山灰や軽石などが堆積した。阿蘇山に降った雨が地中の分厚い火砕流堆積物を通って36km西の熊本市中心部に湧水として湧き出てくる。
 このため、熊本市では水に関する地名が多い。熊本市中央区「神水(くわみず)」は健軍神社の西に在り、神水泉と称する湧水があったことによる。
 熊本市は地下水が豊富で水道水の全て(1日に22万㎥)を地下水で賄っている。健軍神社の南方には熊本市東区「水源」がある。水源1丁目1-1に健軍水源地があり、地下水で熊本市の使用量の四分の一を賄っている。
 このように阿蘇山の傾斜が熊本市中心部の平地にぶつかった所で湧水が発生し、井戸を掘ると豊富な地下水が湧いてくる。
 熊本地震で被害を受けた南阿蘇村でも湧き水が豊富で、断水した時の生活を支えている。しかし被災地では温泉の源泉が枯れたり、湧き水の名所で水が出なくなったりする異変が生じている。大きな地震が何度も相次いだことで地下水の流れに変化が起きた。水の名所として有名な「水前寺成趣園」(熊本市中央区)も一時、池の大部分が干上がった。

 熊本市は「森の都」とも云いますが「水の都」です。大阪市も水の都と云われますが、地下水ではなく川や運河による水運です。

 日本書紀に景行天皇が葦北の小島(八代市の球磨川河口)で休息して食事の時、水が無かったので小左と云う者が神に祈ったところ冷水が湧き出たので天皇に献上した。それでこの島を水嶋と呼ぶようになったとある。
 万葉集に水島を詠っているものが数首ある。
    聞きしごと まこと尊く 奇しくも 神さびをるか これの水嶋
           巻3-245 長田王(おさだのおおきみ、737年没)


 肥後葦北国造の三井根子命(みいねこのみこと)の子に刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)がおり、出雲国神門郡高岸郷(出雲市塩冶町)には式内社の阿利神社が鎮座し、味耜高彦根命が祀られている。
 葦北国造は出雲系と考えられる。西暦200年頃の出雲国譲りから150年ほど経った12代景行天皇や13代成務天皇の時代になると出雲系の国造が増えてくる。
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# by enki-eden | 2017-04-14 00:25

豊後国風土記

 豊国(とよのくに)は福岡県東部から大分県にまたがる。42代文武天皇の時(西暦700年前後)に豊国は豊前国(ぶぜんのくに)と豊後国(ぶんごのくに)に分けられた。



 豊後国風土記は、720年に完成した日本書紀を参考にしながら豊後の国司が地元の伝承を修正して記したと云う。
 現存する風土記の写本は出雲国風土記がほぼ完本、一部欠損するが残っているのは播磨国風土記、豊後国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記である。他の風土記については後世の書物による風土記逸文により部分的に内容を知ることができる場合がある。

 天平年間に災害や天然痘が多発し、741年(天平13年)に45代聖武天皇(701年-756年)が仏教による国家鎮護のため、「国分寺(国分僧寺と国分尼寺)建立の詔」を出したが、国司によっては国分寺造営に熱心ではなかった。しかし、豊後の国司は忠実に大規模な寺院を建立した。
 聖武天皇は743年には東大寺盧舎那仏建立の詔を出している。

 12代景行天皇(285年頃-350年頃、纏向の日代宮)は菟名手(うなで)に豊国直(とよくにのあたい)の姓(かばね)を与えて豊国を治めさせた。菟名手は国前(くにさき)氏・豊国氏の祖。
 菟名手は7代孝霊天皇(240年頃-286年頃)の皇子・吉備津彦の子孫であると云われ、吉備津彦の母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)、別名は紐某姉(はえいろね)である。

 豊後国風土記によると、菟名手が「仲津郡に白鳥が飛来し、まず餅に化し、次に芋草に化して茂った」と景行天皇に報告し、芋を献上したので、「天の瑞物、土の豊草なり」と喜び、この地を豊国と名付けたと云う。

 豊後国府が置かれたのは大分郡(大分市古国府、ふるごう)でJR大分駅の1.3km南とされるが遺跡は見つかっていない。
 その後、国府は大分駅の1km北の府内(大分市荷揚町)に移り、戦国時代末には府内城(大分城)が築かれた。
   赤のアイコンが古国府(ふるごう)、黄が府内。


 豊後国は現在の大分県で、豊後国一宮は大分市寒田(そうだ)の西寒多神社(ささむたじんじゃ)と大分市上八幡(かみやはた)の柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)の二社となっている。
 西寒多神社の祭神は西寒多大神(天照皇大御神)、月読尊、天忍穂耳尊。配祀は応神天皇、神功皇后、武内宿禰ほか。
 柞原八幡宮の祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后で宇佐八幡宮の別宮と云われる。

 豊前国府は仲津郡(福岡県京都郡、みやこぐん)にあった。
 豊前国の総社は惣社八幡神社(福岡県京都郡みやこ町)、
 一宮は宇佐神宮(大分県宇佐市、八幡総本宮)。
   赤のアイコンが豊前国府跡公園と惣社八幡神社


 古事記の国生みによると、豊国は筑紫島(九州)の4面の一つ、豊日別(とよひわけ)と云う。
 豊後国は8郡44郷があり、日田郡(日高郡)、球珠郡(玖珠郡)、直入郡(なおいりぐん)、大野郡、海部郡(あまべぐん)、大分郡、速見郡(はやみぐん)、国埼郡(くにさきぐん、国東郡)である。

 日本書紀によると、13代成務天皇(311年頃-355年頃)は天下を安定させるために国郡(くにこおり)に長(おさ)を置き、県邑(あがたむら)に首(おびと・かみ)を置いた。
 先代旧事本紀の国造本紀によると、成務朝の御代に伊甚国造(いじみのくにのみやつこ、上総国・千葉県)と同祖の宇那足尼(うなのすくね)を豊国造(とよのくにのみやつこ)に任じたとある。
 出雲郡建部郷(松江市宍道町伊志見)に伊甚神社(いじむじんじゃ、伊自美社)があり、伊甚国造一族の斎祀る神社である。祭神は大年神、倉稲魂命、武御名方命(たけみなかたのみこと)。
 宇佐市安心院町(あじむまち)の「あじむ」の地名由来は、「葦生(あじぶ)」であるとか、松本清張説や地元伝承によると「安曇(あづみ)」であるとの説があるが、「伊甚(いじむ)」が由来かもしれない。

 また、宇那足尼と菟名手は同一人物と云う説もあり、同一人物であれば12代景行天皇からは豊国直の姓を賜り、13代成務天皇からは豊国造に任じられたことになる。
 私見ですが、2世紀前半の尾張氏・海部氏・和珥氏などの海人族の本拠地は豊国(魏志倭人伝の投馬国)であったと考えています。これらの海人族はここから全国に拡大していった。
 尾張氏・海部氏の祖・彦火明命(140年頃出生)の6世孫の建田背命(たけたせのみこと、230年頃出生)は孝霊天皇に仕え、別名は大宇那比命・高天彦で、弟に建宇那比命、妹に宇那比姫命がいる。
 成務天皇が豊国造に任じた宇那足尼(うなのすくね)は建田背命より80年ほど後の人であるが、海人族の豊国と「宇那」のつながりで見ると、宇那足尼・菟名手は尾張氏・海部氏ではないかと考えています。

 豊後国は山に囲まれているが東側は豊後水道に面し伊予国とつながり、北は周防灘を挟んで周防国に近い。そして瀬戸内海を東進すると大和朝廷に結び付く。

豊後国の郡
 日田郡は主として日田市で、12代景行天皇が日田郡を巡幸した時に、久津媛(ひさつひめ)の神が人と化して迎えたので久津媛国と名付けたのが日田国と訛った。
 日田郡の五馬山(いつまやま)に土蜘蛛の五馬媛(いつまひめ)がいた。五馬媛は玉来神社(たまらいじんじゃ)に祀られており、境内に墳墓(元宮神社)もある。
 日田は北部九州を治めるためには軍事的に重要な位置にあるので、大和朝廷は早くからこの地を重要視した。

 玖珠郡には大きな樟(くす)の木があったので名付けられた。

 直入郡(なおりのこおり、なおいりぐん)は竹田市の大部分で、阿蘇山の東の山間部にあり、反逆する土蜘蛛が住んでいたので景行天皇が土蜘蛛退治に出かけた。
 速見郡の速見媛から土蜘蛛情報を得て、椿の槌で土蜘蛛を殺した。凄惨な戦いであった。

 大野郡は豊後大野市で、大部分が原野であったので名付けられた。

 海部郡(あまのこおり、あまべぐん)は大分県の東南部にある海沿いの郡で海人族が多く住んでいた。中心は穂門郷(ほとのさと)で向かいに保戸島があり、豊後海人族の本拠地である。豊後水道に位置し、航行・軍事上の重要な拠点であった。塩土老翁(しおつちのおじ、事勝国勝長狭神)の故郷か。

 先代旧事本紀の天孫本紀・尾張氏系譜によれば、彦火明命(140年頃出生)の6世孫の建田背命(たけたせのみこと、西暦230年頃出生)は神服連(かむはとりのむらじ)・海部直(あまべのあたい)・丹波国造・但馬国造らの祖であると記す。
 建田背命の弟の建弥阿久良命(たけみあくらのみこと)は高屋大分国造(たかやおおきたのくにのみやつこ)らの祖であると記す。

 大分郡(おおいたのこおり)は大分市と由布市の大部分と別府市の一部で、景行天皇が巡幸した際に、土地が広く大きいので碩田国(おおきたのくに)と名付けたのが訛った。

 速見郡(はやみのこおり)には別府温泉があり、景行天皇が到着すると速見郡の女王・速津媛(はやつひめ)が出迎え忠誠を示す。それで速見と名付けた。
 大分県由布市では宇奈岐日女神(うなきひめのかみ)が湯布院盆地を開拓し、宇奈岐日女神社に祀られていたが、現在の祭神は男神6柱に替わっている。
 別府湾岸部の海人族は大和朝廷と早くから提携して交易を進め、富を蓄え古墳が多く、前方後円墳もある。

 国埼郡は国東半島である。景行天皇が海路で巡幸した際に、「国の埼である」と云ったので名付けられた。元禄時代に国埼郡は豊後国の東部にあるので国東郡の字があてられた。
 畿内政権との結びつきを示す最も古い古墳は国東市安岐町の下原(しもばる)古墳で、3世紀後半の纏向型前方後円墳(全長約30m)である。
 古墳時代になると杵築市狩宿(きつきし かりしゅく)に全長116mの前方後円墳・小熊山古墳が4世紀初頭に築造される。
 国東郡が瀬戸内海西端に位置しているので、古墳時代前期には大和朝廷との連携が最も深かった。しかし、4世紀後半から5世紀にかけて海部郡の佐賀関半島に中心が移り、築山古墳(つきやまこふん、全長90mの前方後円墳)、亀塚古墳(全長120mの前方後円墳、大分県最大)が築造されることになる。
 亀塚古墳の被葬者は海部王(あまべのきみ)とされ、丹生川沿いの亀塚古墳公園として整備され、海部古墳資料館も建設された。
 古墳時代中期末になると中心は豊前国(京都郡)に移るが、古墳時代後期には速見郡の別府湾岸部が中心となる。

 景行天皇が周防国娑婆(さば、山口県防府市)に居留していた時、対岸の国東半島・伊美(国東半島の北端、国東市国見町伊美)を毎日見ていた。一度伊美へ行ってみたいと思い、わざわざやって来た。そして国見をすると素晴らしい国であったので、遠隔地の国をやっと見ることができたと感動した。
 伊美郷の地名由来は景行天皇の「国見」が訛って「伊美」となったと云う。天皇に見出された国として豊後の国は位置づけられた。
 伊美の郷のある国埼郡は国前臣(くにさきのおみ)の本拠地である。国前臣の祖は菟名手であるが、先代旧事本紀・国造本紀によると、国前国造は13代成務天皇の時に吉備臣と同祖である吉備都命の6世孫の午佐自命(うまさじのみこと)を国造に定められたとある。
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# by enki-eden | 2017-04-06 00:07

比多国造(ひたのくにのみやつこ)

 比多国造は比多国(豊後国日田郡、大分県日田市周辺)の国造で、先代旧事本紀の国造本紀によると、
 『葛城国造(大和国西部)は神武朝の御世(初代神武天皇、3世紀初め)に剣根命(つるぎねのみこと、高皇産霊尊の5世孫)をはじめて葛城国造とした』、
 『比多国造は成務朝の御世(13代成務天皇、4世紀前半)に、葛城国造と同祖の止波足尼(とはのすくね)を国造に定められた。』とある。

 神武天皇紀にも剣根命を葛城国造にしたと書かれており、比多国造になった止波足尼は高皇産霊尊(高魂命)の子孫であり、葛城国造となった剣根命の子孫でもある。
 豊後日田(比多、日高)も高皇産霊尊を表す地名になっている。日田市は大分県だが筑後川の水運により福岡県・佐賀県・熊本県とのつながりも深い。



 日田には日下部(くさかべ)氏の本拠地があり、日下部氏が比多国造となったか。日下部氏は阿蘇の氏族、高良大社の社家、肥前佐用姫の氏族、隼人と同族の氏族ほか九州に散見されるが、9代開化天皇系で但馬国造の但馬日下部氏、吉備の日下部、播磨の氏族、皇族の御名代部(みなしろべ)の氏族など全国に広がっている。
 日向日下部氏は日向国司を務め、宮崎県西都市の都萬神社(つまじんじゃ、木花咲耶姫、日向国総社)の神官でもあった。近くに西都原古墳群もある。

金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡
(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう、国の重要文化財)
 この鉄鏡は1933年に地主の渡辺氏が発見し、日田市立三芳小学校に寄贈した。しかし、戦時中に盗難に遭い奈良の古美術商に渡る。これを考古学者の梅原末治氏(1893年-1983年)が購入。
 1964年に国の重要文化財に指定され、東京国立博物館の所有となる。

 梅原末治氏は1962年に発見者渡辺氏の案内で「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」が出土したと云う跡地を調査した。そして翌年の雑誌に「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が出土したのは大分県日田市日高町(ひだかまち)の通称ダンワラと云われる地にあった古墳の石室であった」と発表した。
 そのダンワラ古墳は30mほどの円墳だったと考えられるが、1933年の線路工事により破壊されていた。周辺には5世紀から6世紀頃の横穴墓も多数ある。付近から金錯鉄帯鉤 (きんさくてったいこう)も出土している。
 豊後三芳駅の200m東には伊勢神宮が鎮座、出土した鉄鏡などと関係ありそうだ。

 ウィキペディアによると、『1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で線路の盛土を採集している際、石棺が出土し、その中から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡などが発見された。その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。』とある。
 古墳からは鉄刀・轡も出土し、もう一つの石室からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。

 金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は、直径21.1cm、厚さ2.5mmの反りのない鏡で、漢代の書体で「長宜(子)孫」の4文字が金で刻まれている。龍には銀の象嵌、赤や緑の玉が嵌入されている。東京国立博物館の所有であるが、太宰府市の九州国立博物館で保管されている。
 銅鏡に比べ鉄鏡は腐食が激しいが、再現復元品は非常に美しい。天領日田資料館(日田市豆田町)で展示されているようだ。

 鉄鏡は後漢時代(1世紀から3世紀)の製作で、後漢や魏では皇帝のみが鉄鏡を使用したと言われている。魏の武帝・曹操(155年-220年)も金錯鉄鏡を持っていた。曹操の墓から副葬品として大型の鉄鏡(21cm)が出土している。
 238年に魏に使節を派遣した卑弥呼(179年-247年)は親魏倭王の金印や銅鏡100枚を受けたが、243年の朝貢時に曹操の副葬品の金錯鉄鏡に似た鏡を受けたかもしれない。金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡も曹操の金錯鉄鏡と同じ大きさである。同笵鏡か似た鉄鏡かもしれない。

 しかし、この金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は豊後日田で造られたと云う説もある。国産であれば卑弥呼が魏から受けたかもしれない金錯鉄鏡を真似たか?

 日田には久津媛(比佐津媛、ひさつひめ)伝承があり豊後国風土記にも記されているが、久津媛がこの鉄鏡を神事に使ったものかもしれない。久津媛は会所山(よそやま、国見岳、164m)山頂の久津媛神社と麓の会所神社(よそじんじゃ)に祀られている。
 12代景行天皇が熊襲征伐の帰路、豊後国日田郡に来た時に久津媛の神が現れて迎えたことにより、久(ひさ)が地名の日田になったとも云われる。

 私見ですが、素戔嗚尊と宇佐の比売大神を思い浮かべ、宇佐の比売大神(宇佐津比売、うさつひめ)→久津媛(ひさつひめ)ではないかなと・・・
 糸島市の日向(ひなた)と同じように日田市も古代には日向(ひむか)と呼ばれ、鏡による太陽信仰の神事が行われていたようだ。

 豊後三芳駅の5kmほど北西には小迫辻原遺跡(おざこつじばるいせき、国の史跡)があって、古墳時代初期の日本最古の豪族居館跡がある。

 私の息子が日田の麦焼酎「百助(ももすけ)」をくれましたよ。
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# by enki-eden | 2017-03-30 00:47

インダス川から縄文時代の日本列島に

 インダス文明(ハラッパー文明)は4,600年前から3,500年前にインドとパキスタンを流れるインダス川流域に栄えた都市文明である。インダス川上流や支流のアフガニスタンにも遺跡が残っている。
 インダスとメソポタミア(現在のイラク)の間にあるイラン高原にはエラム人が住んでいて東西交易を担っていたので、インダスとメソポタミアは盛んに交易をしていた。
 メソポタミアのシュメール文明は古く、5,500年前から4,000年前に栄えた。私見ですが、インダス文明もシュメール人が築いたと考えています。インダスとシュメールがエラム人を通さずに直接交易する場合は海上航路を利用した。シュメールにとってインダスが「エデンの園」だったのではないでしょうか。

 そのインダス文明はドラヴィダ人(Dravidian)が興した文明ではないかと考えられているので、私見ではシュメール人とドラヴィダ人は同じ種族になります。
 ドラヴィダ語とシュメール語は共通性があると云わているので、シュメール人がインダスに来てドラヴィダ人になったのではないか。或いはドラヴィダ人がメソポタミアに移住してシュメール人になったのかもしれない。

 3,500年ほど前にアーリア人がパキスタンとインドに侵入したことにより、ドラヴィダ人はアーリア人に支配されたが、インド南部のドラヴィダ人は古くからの文化を保っている。

 ドラヴィダ人は古くからインドに定住した民族で、現代では南インドを中心としてインド全土に居住し、スリランカ、バングラデシュ、マレーシア、シンガポール、モルディブ、そしてアフリカ寄りのマダガスカル島、セーシェル諸島などにも居住している。イギリスの植民地時代に労働力として移住させられた人も多いでしょう。
 ドラヴィダ人の特徴は二重の丸い大きな目、彫の深い顔、肌が黒く、身長は低いが手足が長く、体毛は濃く、髪の毛はカールしたり縮れている。この特徴は肌の黒さ以外は縄文人、沖縄人、アイヌ人に似ている。

 そのドラヴィダ人が3,500年ほど前の縄文時代後期に日本列島へやって来たと云う説がある。渡来数は少ないが、ドラヴィダ人が鉄や青銅を持ち込み、焼畑農業を行ったと云う。ただし、DNA分析ではドラヴィダ人と日本人は近い部分はあっても一致する部分はない。

 天皇を大和言葉ではスメラミコトと云うが、スメラ(皇)はシュメール(スメル)ではないかと云う説もある。
 天皇家の菊花紋はシュメールを含む中近東の王族の紋と同じ。2014年9月19日投稿の「菊花紋」をご参照ください。
 このブログのURLはhttp://enkieden.exblog.jp/ですが、「enki」はシュメールの神名で、「eden」はエデンの園から取っています。私が一番好きなのはgilgameshですけどね。

 やがて2,500年前になると、揚子江(長江)周辺の江南人(倭人)が数百年に亘って波状的に日本列島に逃れて来て、列島は縄文時代から弥生時代に移行していく。

 ドラヴィダ語の一種のタミル語と日本語は似ているようで、生活習慣や文化も似ているようだ。ドラヴィダ人は戦争も少なく、平和な商人中心の文化だったようだが、その点も縄文人と共通性がある。
 紀元前334年に越が楚に敗れ、越人(倭人)の多くがインドや東南アジアに逃れて、その地に言葉・文化を残しているので、ドラヴィダ人の生活地域にも倭人語や甕棺墓が残された。この倭人繋がりで日本とドラヴィダの共通性も考えられる。
 また、海の民のドラヴィダ人が沿岸部に港町を造り、交易を行い、縄文時代の日本列島までやって来たのではないでしょうか。
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# by enki-eden | 2017-03-22 00:31

伊和志津神社(いわしづじんじゃ、伊和志豆神社、宝塚市)

兵庫県宝塚市伊孑志(いそし)1丁目4-3  電0797-72-3265
無料駐車場あります。
祭神 須佐之男命(和歌の祖神、厄除けの神、縁結びの神、開発の神)

延喜式内官幣大社、摂津国武庫郡伊孑志村に鎮座。宝塚の総鎮守。
神紋は素戔嗚の木瓜紋、境内の広さは3,000坪で宝塚市保存樹林になっている。
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 武庫川が流れる伊孑志周辺は、大和朝廷と結びついていた伊蘇志臣(いそしのおみ)が8世紀後半から本拠地とし、当社を創建。伊孑志の地名にもなった。創建時の祭神は伊蘇志臣の祖・天道根命であったかもしれない。

 新撰姓氏禄によると、「大和国 神別 天孫 伊蘇志臣 滋野(しげの)宿禰同祖 天道根命之後也」とあり、天道根命は神魂神の5世の孫で紀伊国造家。川瀬造(かわせのみやつこ)、名草氏、伊蘇氏(伊蘇志)、楢原氏、滋野氏などの祖。
 天道根命は西暦185年頃の饒速日命東遷に従って大和国へやって来た。神武天皇により初代紀伊国造に任じられた。

 天道根命は天日槍命であると云う説があるが、活躍の地域も時代も違います。
 紀氏の伝承によると、素戔嗚命が筑紫紀氏の大矢女命を娶り、五十猛命が生まれたとある。私見ですが、五十猛は160年頃出生、対馬・壱岐・松浦・志摩・伊都・基肆(きい)など九州北西部を治めていた。天道根は伊都国の重臣であったと考えられる。

 素戔嗚は北部九州の西側(長崎県・佐賀県)を五十猛に統治させ、東側(福岡県東部・大分県など)を饒速日に統治させたと考えられる。物部氏の出自地域は遠賀川と筑後川周辺が多く、五十猛の統治地域や奴国(福岡市)には物部氏の出自地域が殆どない。

 日本書紀によると、
 『14代仲哀天皇(320年頃-362年)が穴門(あなと、長門国)から筑紫に入ったとき、筑紫の伊都県主(いとのあがたぬし)の先祖、五十迹手(いとて)がやって来て歓待したので、天皇は五十迹手を誉め、「伊蘇志(いそし)」と云われた。
 人々は五十迹手の国を名付けて伊蘇国(いそのくに)と云った。いま伊都国(いとのくに)というのは訛ったものである。』とある。

 50代桓武天皇の798年(延暦17年)に伊蘇志臣は滋野宿禰を賜った。伊蘇志臣の祖・天道根命は伊都国(福岡県糸島市、旧・怡土郡)出身だと考えられる。紀伊国(和歌山県)にも伊都郡がある。

 伊都国は2世紀以前に既に存在していたので、その国名が4世紀の五十迹手由来というのは後付けです。地名由来ではこの手法がよく使われる。

 先代旧事本紀によると、天道根命は天孫瓊瓊杵の降臨に従って高千穂峰(伊都国)に天下ったとあるので、その後、饒速日命に従って東遷したか。

 西宮市の廣田神社にも摂社・伊和志豆神社がある。2013年5月18日投稿の「廣田神社」をご参照ください。
 
 当社の北東1kmに宝塚大劇場があるので、宝塚歌劇団の男役の方が一人で参拝に来られていました。名前を聞けばよかったと後悔。女性の参拝者も多い。

   鳥居と社号標
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   参道
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   拝殿
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  本殿覆屋、中に本殿(宝塚市指定文化財)が鎮座、拝殿奥に見える。
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  遥拝所(八幡宮、春日大明神、天照皇大神宮、山神社、大将軍社)
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   愛宕社(迦具土神、かぐつちのかみ)、火の守り神。
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 宝塚水天宮(天御中主神、81代安徳天皇)、安産の神、水の神、商売の神。
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 水天宮(すいてんぐう)の総本宮は久留米市瀬下町265-1の「水天宮」になっており、筑後川沿いに鎮座しているが、「筑紫次郎」の筑後川は古名を千歳川(ちとせがわ)と云い、久留米水天宮の鳥居横に「軍艦千歳慰霊碑」がある。
 軍艦千歳は筑後川の古名とって命名され、艦内に水天宮を奉斎する空母であったが、昭和19年10月にフィリッピンのレイテ沖海戦で撃沈した。
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# by enki-eden | 2017-03-14 00:19

宝塚神社

兵庫県宝塚市社町(やしろちょう)4-8  電0797-72-6329
無料駐車場あります。
祭神 大山祇神(金運・商売繁盛、安産祈願)
   素戔嗚神(農耕・厄除け・縁結び)

 創立は6世紀後半と伝えられ、同時期に隣接する武庫山平林寺が建立された。
 神社の由緒によると、明治以前は山王権現としていたが、明治の神仏分離により日吉神社と称した。1966年に素戔嗚神社(宝塚市小林、当社の600m東)を合祀し、宝塚神社に改称した。素戔嗚神社の末社・恵比須社(宝塚えびす)も当社の末社として遷された。
 大山祇神については2016年9月5日投稿の「大山祇神」をご参照下さい。

     楽しいご朱印(えべっさんが鯛を釣り上げました)
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 標高58mの境内から宝塚の街並みが見える。
 夏至の頃の日の出は大阪と奈良の境にある生駒山(642m)から昇る。
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   鳥居の奥に拝殿、神紋は素戔嗚の木瓜紋。
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   本殿、東向き。
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   天満神社(菅原道真公)、学問の神、諸芸守護。
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 恵比須社(蛭子大神)、宝塚えびすは商売繁盛の神。この社殿は清荒神清澄寺の三宝大荒神が祀られていたのを改築の際に旧社殿を譲り受けた。
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   右は八幡社(誉田別神)、厄除けの神、災難除守護、
   左は塞神社(八衢之神、やちまたのかみ)、道の神、交通安全守護。
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   塞神社の左に夫婦和合・子授けの石(男石と女石)。
   元素戔嗚神社の南面三差路に塞の神とこの珍石が奉斎されていた。
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   三社(住吉神社、伊勢神宮、春日神社)
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   右は愛宕社(火迦具土神)、火の神、鎮火守護、
   左は大神社(天照大神)、五穀豊穣守護。
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 私見ですが、天照大神は三柱の神を一柱の神にまとめて祀られていると考えています。先ず、2世紀後半に天の真名井で素戔嗚と誓約をした天照大神(大日霊貴、宇佐の比売大神)、次に238年と243年に魏に朝貢した卑弥呼(親魏倭王)、そして266年に西晋に朝貢し、270年頃に大和国へ東遷した臺與の三柱の神です。
 一柱の神を三柱の神に分けて祀ることがありますが、天照大神は三柱の神を一柱の神にまとめて祀っていると私は考えています。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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# by enki-eden | 2017-03-08 00:13