「ほっ」と。キャンペーン

古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

猪名野神社(いなのじんじゃ、伊丹市)

兵庫県伊丹市宮ノ前3丁目6-4  電072-782-2704  無料駐車場あります。
祭神 猪名野坐大神(建速須佐之男命)

    誉田別尊(15代応神天皇)


当社の元宮は、7世紀半ばに猪名寺村(尼崎市)の猪名寺境内に建立されたが、60代醍醐天皇(885年-930年)の904年に猪名寺の元宮から当地に遷座した。

織田信長(1534年-1582年)の軍勢が、1578年に信長に対して反旗を翻した荒木摂津守村重(1535年-1586年)の有岡城(伊丹城)攻撃時に猪名寺は焼失したと考えられる。荒木村重は逃亡し、最後には出家して茶人となったが52才で亡くなった。

猪名寺は廃寺となったので法園寺(尼崎市猪名寺1丁目31-45)が継承している。猪名野神社の元宮は法園寺本堂右に現存しており、御旅所となっている。


赤のアイコンが猪名野神社、黄が法園寺


当社は神仏習合時には野ノ宮(天王ノ宮)と称したが、明治の神仏分離令により仏教関係を130m南の金剛院に移した。そして野ノ宮を猪名野神社と改称し伊丹郷町の氏神となった。

猪名野神社と同名の神社が伊丹市寺本2-81にもあるが、祭神は高皇産霊尊になっている。

伊丹は摂津国猪名川上流にあり、戦国時代には荒木村重の城下町となった。当社の立地は有岡城惣構(そうがまえ、東西800m、南北1700m)の北端に位置しており、「岸の砦」があった。境内に岸の砦の土塁跡と堀跡が今でも残っている。

伊丹の清酒の製法(鴻池流)は三段仕込みで効率がよく、大量生産できるので全国に製法が普及した。それで伊丹では「伊丹が清酒の発祥地」とみなしている。

鴻池村で清酒の醸造を始めた鴻池家は大坂に進出して醸造業を営み、海運業や両替商に転じ、江戸時代最大の財閥になった。

鴻池家は明治以降には第十三国立銀行を設立したが、普通銀行に転換し鴻池銀行となる。後に合併で三和銀行となった。現在は三菱東京UFJ銀行となっている。

   鳥居と社号標、神額は美しい両部額になっている。

d0287413_13364548.jpg

   拝殿、伊丹市は「清酒発祥の地」とされ、酒樽奉納が多い。

d0287413_13372900.jpg

d0287413_13380341.jpg

d0287413_13382850.jpg

   本殿、工事中。

d0287413_13390112.jpg

   大地主神社(大国主神)、恵比須。

d0287413_13393148.jpg

   稲荷神社(宇迦能御魂神)

d0287413_13395986.jpg



   神明神社(天照皇大神)

d0287413_13405829.jpg

相殿社(貴布弥神社、塞神社、祓戸神社、熊野神社、五桂皇子神社、
      立田神社)

d0287413_13414197.jpg

   愛宕神社(火之迦具土神)

d0287413_13420597.jpg

   佐田彦神社(大山祇命、佐田彦命、宮比売)

d0287413_13422855.jpg

 厳島神社(佐依毘売命、市杵島姫尊、多紀理毘売命、金山彦命、
         多紀都毘売命)

 市杵島姫尊だけ「命」ではなく「尊」の敬称を使っているのは意味がありそう・・・

d0287413_13431299.jpg

   天満神社(菅原道真公)

d0287413_13434174.jpg

   新宮神社(天児屋根命、大山咋命、三筒男之命)

d0287413_13440803.jpg

有岡城(伊丹城)惣構北端の「岸の砦跡」

d0287413_13443334.jpg


[PR]
# by enki-eden | 2017-02-24 00:20

川西市文化財資料館

兵庫県川西市南花屋敷2丁目13-10  電072-757-8624  
無料駐車場あります。
鴨神社の250m西南にあり、入場無料です。


 当資料館は1993年に加茂遺跡内に開館した。川西市の遺跡から出土した文化財を整理、収蔵、展示をしている。展示品には、栄根遺跡(さかねいせき)出土の栄根銅鐸レプリカと奈良時代の墨壺、勝福寺古墳出土の画文帯同向式神獣鏡などがある。



資料館の説明によると、

『加茂遺跡は、川西市南部の加茂1丁目、南花屋敷2丁目・3丁目に広がる旧石器時代から平安時代にかけての遺跡です。

大正4年(1915年)、笠井新也氏によって多量の弥生土器・石器が発見されて以来有名になり、昭和11年(1936年)には採集資料を展示した宮川石器館が地元に開館しました。

その後の発掘調査では、およそ2千年前の弥生時代中期に近畿地方を代表する約20ヘクタールもの大規模集落に発展することがわかり、平成12年(2000年)には集落中心部が国の史跡に指定されました。また、居住区・墓地等の集落構造、防御のための環濠、集落を束ねる首長の住居と思われる大型建物等も明らかになってきています。』

栄根遺跡航空写真

d0287413_19463289.jpg

縄文時代の土器

d0287413_19473993.jpg

加茂遺跡出土の石器。縄文時代晩期の石冠(せっかん)で、呪術・儀式に使ったか。出土分布の最も西にあたる。形から判断すると性に関する儀式のようだ。

d0287413_19481272.jpg

  加茂遺跡出土の弥生時代初期・中期の土器

d0287413_19483677.jpg

加茂遺跡の西部には方形周溝墓群があり、環濠の外に造られている。環濠の中に墓が1基あり、他よりも大きいので、ムラの首長の墓と考えられる。埋葬される様子をイメージした模型。

d0287413_19490159.jpg

 弥生時代中期の加茂遺跡の銅鐸祭祀をイメージした模型。

d0287413_19501361.jpg

2世紀から3世紀の弥生時代後期になると、川西では加茂遺跡の大集落が急に小さくなり、かわって栄根・下加茂(したかも)・小戸(おおべ)遺跡などの集落が続き、北部に新たな集落が現れ、社会が大きく変化していった。

1800年前の栄根銅鐸(レプリカ)、原品は東京国立博物館所蔵になっている。高さ114cm、明治44年(1911年)加茂遺跡の東側崖下(加茂1丁目)で出土した。

弥生時代末期には銅鐸が巨大化し、栄根銅鐸は全国でも5、6番目の大きさとなる。

d0287413_19505328.jpg

6世紀初めの勝福寺古墳(しょうふくじこふん)築造時のイメージ模型。全長40mの前方後円墳で後円部に横穴式石室が2基、前方部に木棺が2基設けられていた。

墳丘上には円筒埴輪や形象埴輪が並び、川西南部を治めた首長と親族の古墳。

d0287413_19511633.jpg

後円部の第1石室は、玄室幅2.3m、全長9mの右片袖式横穴式で画文帯神獣鏡・六鈴鏡・銀象嵌竜文刀・馬具などの副葬品が出土した。

2石室は玄室幅1.4m、現存長2.5mの横穴式で、多数の須恵器などが出土した。

d0287413_19514001.jpg

d0287413_19520106.jpg

d0287413_19522328.jpg

d0287413_19524281.jpg

d0287413_19530979.jpg

展示室の中央に木舟。栄根遺跡の古墳時代河川跡から出土、針葉樹の幹を刳り貫いた幅50cm、長さ4.3mの木舟で、運搬用に使用していたが、6世紀の洪水で埋没したと考えられる。

d0287413_19534264.jpg


[PR]
# by enki-eden | 2017-02-17 00:28

鴨神社(川西市)

兵庫県川西市加茂1丁目4-2  電072-759-4206  無料駐車場あります。
祭神 別雷神(わけいかづちのみこと)
    別雷神は加茂地区に住む鴨族の祖神で、
    京都上賀茂神社の賀茂別雷神と同じ神様。

摂津国川辺郡(かわべぐん)の式内社。
厄除け(やくよけ)、災難除け、方除け(かたよけ)、家内安全、心願成就、
商売繁盛など。

d0287413_17133117.jpg

猪名川西岸台地(標高20m~45m)にある弥生時代から平安時代までの加茂遺跡の中に当社は鎮座(標高42m)。当社境内からも住居跡が4棟発掘された。猪名川周辺には古墳も多い。

1911年に加茂遺跡の東の斜面に埋納されていた大型の銅鐸(114cm)は栄根銅鐸(さかねどうたく)と名づけられた。当社と猪名川の間にある地名は川西市栄根(さかね)という。

鳥居から参道へ、境内は4,000坪と広い。春は桜の名所となる。

d0287413_17182899.jpg

参道途中の左に磐座の修祓所

d0287413_17191794.jpg

拝殿、阪神淡路大震災で被災し、社殿はコンクリート造りに替わった。参拝した日は七五三詣りで賑わっていた。菊の花が美しい。神紋は立三葉葵。

d0287413_17195638.jpg

d0287413_17203834.jpg

d0287413_17211013.jpg

本殿、

右に春日神社(手力雄命)・天照皇大神社(日若宮尊)・
    愛宕神社(天香具土神)。

その奥に多賀神社(大国主神)・荒神社(天香具土神)・
    熊野神社(伊弉諾尊)。

d0287413_17241608.jpg

本殿左に稲荷神社(大月姫命)・八幡神社(応神天皇)・松尾神社(八十神)。

d0287413_17244862.jpg

その左に延寿社(えんじゅしゃ、伊邪那岐命・伊邪那美命)。

d0287413_17251441.jpg

鳥居の奥に加茂遺跡(国の史跡)の石碑

d0287413_17253869.jpg

d0287413_17260168.jpg

加茂遺跡は標高40mほどの台地にあり、鴨神社を中心に200m四方に存在、旧石器時代から平安時代に至る長期間の集落跡。

弥生時代中期(2000年前)には大規模集落(東西800m、南北400m)が営まれていた。500人ほどが住んでいたと考えられている。

明治44年(1911年)に大型の栄根銅鐸(さかねどうたく)が出土し、大正から昭和にかけて多数の弥生式土器と石器が出土した。

1992年に鴨神社の裏手より古代首長の館跡、防護用土塁・柵跡が発掘され、2000年に加茂遺跡として国の史跡に指定された。

鴨神社は加茂遺跡の中心に位置し、ここは古代の地域集落の安全や五穀豊穣を願う祈りの場であったと考えられる。

次回の投稿は出土した大型の銅鐸や遺物を展示している川西文化財資料館をご案内します。

 鴨神社に参拝した後、近くの有名な手打ちうどん・そば処「てん川」でカレーうどんを頂きました。おいしかったですよ!

従業員のきびきびとした動きにも感心しました。


[PR]
# by enki-eden | 2017-02-09 00:02

松尾神社(宝塚市)

兵庫県宝塚市山本東1丁目9-1  電0797-89-8725  無料駐車場あります。
祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)、
   坂上田村麻呂公(さかのうえのたむらまろこう)。
旧・川辺郡山本村の産土神で、開運厄除・産業発展・醸造・治山治水の神として崇敬されている。



 坂上田村麻呂(758年-811年)を祖とする坂上党武家団の頭梁・坂上頼次(7代目)は、清和源氏の源満仲(912年-997年)により、当地の山本郷守護に任じられ、摂津源氏の体制造りに加わった。坂上氏は摂津源氏の家臣となった。
 摂津源氏から河内源氏が派生し、河内源氏は源頼朝(1147年-1199年)の鎌倉幕府へと発展していく。

 坂上頼次が坂上季長と坂上季猛(すえたけ、950年頃-1022年頃)親子を山本に呼び寄せ、摂津源氏家臣団に武術の指導をさせた。坂上季猛は渡辺綱(953年-1025年)、坂田金時(金太郎、956年-1012年)、碓井貞光(954年頃-1021年)と共に源頼光に仕え、源氏四天王と呼ばれた。

 969年頃に坂上季猛は当地に先祖の征夷大将軍・坂上田村麻呂公の遺品を奉納し当社を創建、山本郷の産土社とし天下平治を祈願した。当社の神紋は坂上氏と同じ「抱き柏」である。

 渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)の祖・阿智王から8代目の坂上苅田麻呂(かりたまろ、728年-786年)が山城国松尾大社に祈り得た子が坂上田村麻呂なので、幼名を松尾丸と名付けた。それで、当社の創建時には将軍宮、松尾丸社と称した。
 続日本紀によると、坂上苅田麻呂が「後漢霊帝(156年-187年)の曾孫・阿智王の子孫である」と上表している。

 坂上氏は新撰姓氏録によると、
 「右京 諸藩 漢 坂上 大宿禰 出自後漢霊帝男延王也」、
 「摂津国 諸藩 漢 石占 忌寸 坂上大宿禰同祖 阿智王之後也」とある。

 当社は将軍家の祖神として崇敬されが、源頼朝の信仰が特に篤く、将軍交代時には守護弓として新製弓を献上した。1177年に山本庄が松尾大社に寄進されたので松尾大社の大山咋命を勧請した。松尾大社については、2014年1月13日投稿の「松尾大社①」をご覧ください。

 塩川伯耆守国満が織田信長(1534年-1582年)の配下に入り、天正年間(1573年~1593年)に山本郷を襲い、当社をはじめ村は炎上、坂上氏は武装放棄させられた。戦国時代には多くの寺社が被害を受けている。
 坂上氏は16世紀中頃から山本氏を名乗り、先祖の時代から植木を栽培していたので、武装放棄させられてからは園芸を本業とした。
 当地周辺では造園業・園芸業が盛んになり現在まで続いている。大坂城、聚楽第、伏見桃山城などの庭園は山本の園芸職人が多く作庭した。
 坂上氏の中には、武士として復任し豊臣家旗本になった者も僅かにいる。

 当社は17世紀初めに現在地に復活し、松尾神社と称した。当社(東の宮さん)と600m西の天満神社(西の宮さん)は関係が深い。

  神社入り口と右手に薬師堂(薬師如来)。
  境内の「田村の森」は自然環境保全地区に指定されている。
d0287413_19454197.jpg

  階段を登ると赤い両部鳥居、奥に拝殿。
d0287413_19455810.jpg

  拝殿、1988年に改築された。
d0287413_19461652.jpg

d0287413_19462564.jpg

 1988年に改築された覆殿、この中に1671年に再興された本殿(宝塚市の指定文化財)が鎮座。
d0287413_19464268.jpg

  拝殿横に神輿
d0287413_19465553.jpg

  末社の猿田彦神社(猿田彦命)
d0287413_19471461.jpg

[PR]
# by enki-eden | 2017-02-02 00:37

舟木遺跡の鉄器工房跡(淡路市)

 兵庫県淡路市舟木(旧・津名郡北淡町)にある「舟木遺跡」は弥生後期の高地集落遺跡で、淡路島北部中央部の標高160mほどの山間にある。1世紀中頃に突然出現したので、海岸部から移住してきたのでしょうか。
 弥生時代末期(2世紀中頃~3世紀初め)に存在したとみられ、1966年に発見された。面積は東西500m、南北800mの約40万㎡(12万坪)。

 淡路市の教育委員会が舟木遺跡を発掘調査し、新たに鉄器生産工房跡から鉄器57点などが発見され、手工業品生産工房跡も見つかったと1月25日に発表された。
 舟木遺跡は過去に淡路市黒谷で見つかった近畿最大の鉄器生産工房「五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)」を上回る国内最大規模の鉄器工房跡の可能性があり、今後も発掘調査が続けられる。
 五斗長垣内遺跡(標高200m)は1世紀中頃に突然出現した高地集落であるが、舟木遺跡も2世紀中頃に突然出現した。

 西暦180年頃に勃発した北部九州の「倭国乱」により、倭国から淡路国へ隠遁した伊弉諾尊の幽宮(かくりのみや、伊弉諾神宮)は両遺跡に近く、関係があると私は考えています。その頃(2世紀末)に両遺跡は最盛期を迎える。伊弉諾神宮については2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。
 赤が舟木遺跡、黄が五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)、紫が伊弉諾神宮


 五斗長垣内遺跡の鉄器生産が終わった後も、舟木遺跡では少し鉄器生産が続き、やがて終了する。高地集落は大和国(天皇家)が強大になり近畿地方を中央集権的に支配するようになると消滅していった。弥生時代の一つの特徴である銅鐸祭祀も消滅し、古墳時代に突入していく。

 淡路市教育委員会は「淡路市国生み研究プロジェクト」を立ち上げて、昨年と一昨年に舟木遺跡などを調査し、国生み神話との関係を掘り下げる取り組みをした。
 出土した土器の年代から、工房があったのは2世紀後半とみられる。4棟の大型竪穴建物跡のうち、3棟は敷地が円形で直径が10mを超える大型で、うち1棟から4基の炉の跡が確認された。柱が外側に寄り中央部が広いことから、作業をする空間だったと考えられる。
 また4棟から鉄器製作に使った石器が多数出土、鉄器は計57点あった。鍛冶関連のほかに小型工具も出土した。

 2009年に工房12棟と鉄器127点が出土した五斗長垣内遺跡では、鉄鏃(てつぞく、矢じり)などの武器類が多く出土したが、舟木遺跡では武器以外の鉄製品が出土した。両遺跡は6km離れており、ほぼ同じ時期の工房なので、製造する品種を分けていたのかもしれない。

 古事記の国生み神話によると、伊邪那岐命と伊邪那美命が最初に生んだのが淡道之穂之狭別島(あわぢのほのさわけのしま)とあるが、その意味は「粟の穂の穀霊の島」と云う説がある。「淡(あわ)」は「海の泡」とも云われるが、私見では「淡(あわ)」は鳴門海峡の渦、「穂」は踏鞴製鉄の「火」と考えています。淡路島は海人の国であると同時に製鉄の島だった。
 淡路国の考古学については、2013年9月3日投稿の「淡路国の考古学」をご参照ください。
[PR]
# by enki-eden | 2017-01-27 09:58

磯城氏

兄磯城(えしき)
 奈良県桜井市にある三輪山西部地域の磯城の首長で弟磯城(おとしき)の兄。西暦209年頃、神武東遷軍が熊野から大和へ侵入するのを防ごうとしたが、弟磯城が神武側に援護したので兄磯城は敗れた。

弟磯城
 弟磯城の名は黒速(くろはや)、戦功により神武天皇が弟磯城を磯城県主(しきのあがたぬし)に任命する。弟磯城の娘の川派媛(かわまたひめ)が2代綏靖天皇の皇后になる。
 三輪山に狭井神社(さいじんじゃ)が鎮座、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を主神として祀り、近くを狭井川が流れている。古事記によると、神武天皇は狭井川のほとりに住む伊須氣余理比売(いすけよりひめ)を妻とした。伊須氣余理比売は三輪山に住んでいるので磯城氏の娘でしょう。磯城(シキ)→イソキ→イスケに転訛して伊須氣余理比売になったのか・・・
 伊須氣余理比売は日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命を生み、神沼河耳命が2代綏靖天皇になる。
 狭井神社については2013年6月17日投稿の「狭井神社」をご参照ください。

 3代安寧天皇の和風諡号は磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)と云う。弟磯城の多くの子孫が天皇家に后妃として嫁ぐことになる。
 磯城県主大目は製鉄族で十市県主の祖になるが、大目の娘・細媛(ほそひめ、くわしひめ)が7代孝霊天皇の皇后になる。

 シキは鋪、坑で鉱山の坑道(採掘跡)のことである。磯城、志紀、志貴、師木、式、敷などとも書く。磯城氏は金属採掘、踏鞴製鉄の部族であったと考えられる。奈良盆地は踏鞴製鉄に適した絶好の場所であった。

 「大和の国」の枕詞は「敷島の」であるから、磯城は大和の中心地であった。
 三輪山(467m)の西麓、大神神社(おおみわじんじゃ)の南400mに志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)が鎮座、祭神は大己貴神(大国主命)とも天津饒速日命とも云われる。境内に「崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)趾」石碑がある。



 磯城氏は饒速日の後裔とされるが、磯城氏の本拠地が三輪山麓西であるので、祖神は大物主神と云う説もある。大物主は一般的には大国主となっている。
 祖神は父系、母系によって違うが、いづれにしても磯城氏は神武東遷以前から三輪山の西麓を本拠地にして奈良盆地の東側を治めていた豪族で、神武東遷以降は天皇家を支えた。
 磯城県主からは後に春日県主(かすがのあがたぬし)、そして十市県主(といちのあがたぬし、橿原市十市、十市御県坐神社、豊受大神)が派生する。

 河内国志紀郡に河内国総社の志紀県主神社が鎮座(大阪府藤井寺市惣社1丁目6-23)、主祭神は神八井耳命(神武天皇と伊須氣余理比売の皇子)となっているが、「河内名所図会」(1801年出版)には主祭神は磯城県主黒速となっている。
 当地は大和川の南にあり、奈良時代の朝廷直轄地で、神八井耳命を祖神とする志貴県主、志紀首(しきのおびと)が管理していた。志紀県主神社の200m南には19代允恭天皇陵(市野山古墳、230m)があり、更に1km南西には15代応神天皇陵(誉田御廟山古墳、425m)がある。
 新撰姓氏録には、
 「大和国 神別 天神 志貴連 神饒速日命孫日子湯支命之後也」、
 「和泉国 神別 天神 志貴県主 饒速日命七世孫大売布命之後也」、
 「和泉国 皇別 志紀県主 雀部臣同祖 神八井耳命之後也」、
 「河内国 皇別 志紀県主 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」、
 「右京 皇別 志紀首 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」とあり、
 饒速日系、神八井系が記されている。

 磯城氏は3世紀後半の10代崇神天皇の頃には衰退し、物部氏が急速に勢力拡大する。磯城氏の女性が物部氏の妻となり、磯城氏は物部氏の同族として取り込まれてしまった。
 先代旧事本紀巻第五天孫本紀によると、9代開化天皇と10代崇神天皇に仕えた伊香色雄(いかがしこお)は倭志紀彦(志紀県主)の娘・真鳥姫を妾として一男を生んだ。それが建新川(たけにいかわ)だと考えられる。
 物部氏の建新川は11代垂仁天皇に仕え、母系の志紀県主らの祖となった。
素戔嗚―饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄

 天皇家の系図は初代神武天皇から17代履中天皇まで親子関係で記されているが、天皇家に仕えた物部氏や磯城氏などの豪族系図と比較対照すると、兄弟従弟で天皇職を継いでいることが分かる。
 私見ですが初期天皇家の世代は次のように考えています。
 初代神武――2代綏靖
       3代安寧――5代孝昭
       4代懿徳  6代孝安――7代孝霊
                   8代孝元――9代開化
                        10代崇神
[PR]
# by enki-eden | 2017-01-26 00:19

アヂスキタカヒコネ

 日本書紀では味耜高彦根神と記され、大己貴神(大国主神)の子。大己貴神は大和の三輪山(三諸山)に住み、その子孫は賀茂君、大三輪君である。
 奈良県御所市鴨神の高鴨神社の主祭神は阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)、2013年3月12日投稿の「高鴨神社」をご参照ください。

d0287413_14281473.jpg

 古事記では大国主神と多紀理毘売命の子が阿遅鉏高日子根神(阿遅志貴高日子根神)と記され、大国主神と神屋楯比売命の子が事代主神(八重事代主神)、大国主神と沼河姫の子が建御名方神。海部氏の勘注系図によると、神屋楯比売は湍津姫とある。
 奈良県御所市宮前町の鴨都波神社には積羽八重事代主命(事代主命)と下照姫命を祀っている。2012年12月19日投稿の「鴨都波神社」をご参照ください。

 三島溝咋の娘の勢夜陀多良比売に三輪の大物主神(大国主神)が一目ぼれして結婚して生んだ子を比売多多良伊須氣余理比売と云う。伊須氣余理比売は三輪山の狭井川のほとりに住んでいたが、神武天皇の皇后になった。生まれた子は日子八井命(4代懿徳天皇?)、神八井耳命(3代安寧天皇?)、神沼河耳命(2代綏靖天皇)である。

 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子で、阿遅須枳高日子命と記す。

 先代旧事本紀によると、大国主神の子が味耜高彦根神と下照姫で、天津国玉神の子の天稚彦は下照姫を妻とする。味耜高彦根神と天稚彦は親友で姿形が似ていた。
 大己貴神の子は全部で181人いる。
 大己貴神は大和の三輪山に住み、茅渟の活玉依姫を妻として通った。また、大己貴神の別名は葦原色許男・顕見国玉神・大国主神・大物主神・大国玉神・八千矛神・大三輪大神で、素戔嗚尊の娘の須勢理姫命と結婚した。また、稲羽の八上姫を妻とし、木俣神(御井神)が生まれた。
 大己貴神は宗像の田心姫命を妻とし、味鉏高彦根神と下照姫命が生まれた。辺津宮の高津姫神を娶って、都味歯八重事代主神と高照光姫大神が生まれた。高津姫神は湍津姫(神屋楯比売)のことと考えられる。
 大己貴神は越の沼河姫を妻とし、建御名方神が生まれ、信濃国諏方郡の諏方神社に鎮座。
 都味歯八重事代主神は熊鰐となって三嶋溝杭の娘・活玉依姫に通い、天日方奇日方命と姫踏鞴五十鈴姫命、五十鈴依姫命が生まれた。大国主も事代主も活玉依姫に通ったことになるが・・・
 姫踏鞴五十鈴姫命は神武天皇の皇后になり、神渟河耳天皇(2代綏靖天皇)と彦八井耳命を生んだ。
五十鈴依姫命は綏靖天皇の皇后になり。磯城津彦玉手看天皇(3代安寧天皇)を生んだ。

 賀茂氏は系統が複雑だ。
 ①大和葛城(奈良盆地西南)を拠点とし、味鋤高彦根命を始祖とする賀茂族の系統。
 ②大和葛城で事代主命を始祖とする賀茂君の系統。
 ③大国主神を始祖とする賀茂朝臣・大神朝臣の系統。①②③は同族で時代が違う。
  新撰姓氏録に「大和国 神別 地祇 賀茂朝臣(大神朝臣) 大国主神之後也」とある。
 ④賀茂建角身命(八咫烏)を始祖とする天神系の賀茂県主(鴨県主)の系統。
  新撰姓氏録に「山城国 神別 天神 賀茂県主 鴨建津之身命之後也」とある。

 味鋤高彦根命=賀茂建角身命であれば、大和国葛城の賀茂氏が山城国へ移動したと考えられるが、別系統だと云う説もある。
 神武天皇東遷を助けた八咫烏(賀茂建角身)は、葛城を経由せずに大和国から直接山城国へ移動したと云われる。

 先代旧事本紀によると、饒速日命は十種の神宝をもち、32人の防衛、五部人、五部造、天物部等25部人、船長という多数の随伴者を従えて筑紫から大和に天降ったとある。
 その随伴者の中に天櫛玉命があり、鴨県主等祖と記されている。また、天神魂命も随伴しており、葛野鴨県主等祖と記されている。
 「古代豪族系図収覧」によると、神皇産霊尊――天神玉命――天櫛玉命――鴨建角身命とある。
 私見ですが、味鋤高彦根系と賀茂建角身(八咫烏)系は同じ鴨族を名乗るが別系統ではないか。
[PR]
# by enki-eden | 2017-01-20 14:23

弥生時代の交易

北部九州の弥生人骨分布
 山口県、福岡県、佐賀県の水田稲作地域から出土する弥生時代の人骨は渡来系の弥生人である。佐賀県西部、長崎県、熊本県天草諸島の山間部や海岸地域から出土する人骨は縄文人である。
 従って、縄文人と弥生人は住む地域が分かれていた。縄文人は追い出されたのか、縄文人と渡来系弥生人の交流は北部九州では盛んではなかったのでしょう。

 列島が縄文社会から弥生社会へ移行したのは、江南地域(長江流域)から渡来した呉人、越人、楚人と中原(黄河流域)から渡来した漢人による。
 3,000年以上前の縄文時代にも大陸から列島へ交易に来た人々もあり、そのまま列島に住み着いた人々もいる。中国の春秋時代は紀元前8世紀から紀元前5世紀までで、その時代の列島への渡来数は多くなかったでしょう。それ以前だともっと少ないでしょう。
 縄文時代にも稲作や養蚕があり、遺跡も残っているが、稲作社会が列島中に広がることもなく、縄文社会がなくなることもなく、渡来人数も限られている。
 弥生時代の始まりを500年から800年古くする説が増えてきたが、その期間は縄文時代の中の弥生的萌芽であって、列島全体として社会が大きく変わり縄文時代から弥生時代に移ったと見るのは紀元前5世紀から4世紀だと私は考えている。

 紀元前5世紀から紀元前3世紀までの大陸は戦国時代になり、戦乱が大規模で激しく、更に北方遊牧民の侵入も加わった。
 その結果、長期に亘って波状的に列島へ逃亡する人々が増えて累積渡来数が増大。縄文人の出産率の低さと渡来人の出産率の高さによって、渡来人の人口は急速に増えた。山間部に逃げる縄文人も多かったが、徐々に渡来人との交流が進み弥生時代に移っていく。

 福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡(くま・にしおだいせき)は規模、遺構、出土物などにおいて佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡に匹敵する遺跡である。この遺跡の住人は弥生人の特徴が非常に際だった集団であった。
 隈・西小田遺跡の甕棺墓群の中央にあった弥生中期後半の23号甕棺墓からは、35才くらいの男性人骨と鉄戈、鉄剣、前漢鏡、青銅武器、玉、ゴホウラ貝製腕輪41個(右腕に21個、左腕に20個)などの副葬品が出土している。この地の首長墓と考えられ、貝製腕輪は南西諸島との交易によるものである。
 祭祀遺構からは中細形銅戈23口が一括埋納されていた。「筑紫野市歴史博物館」のサイトをご覧ください。

弥生時代の交易
 弥生時代中期の中頃~後半になると列島内や大陸との交易が益々拡大していく。
 紀元前108年に前漢が朝鮮半島に楽浪郡を設置すると、北部九州の墳墓の副葬品に前漢鏡や武器などの青銅器が見られるようになる。
 また、奄美大島や沖縄の珊瑚礁に生息するゴホウラやイモガイという大型の巻貝を加工した貝製腕輪や、新潟県糸魚川産のヒスイなども近畿や北部九州などの遺跡で発見されている。
 これらは村の首長や祭司長の装飾品や副葬品であり、対内・対外交易が盛んになったためである。
 弥生時代の南西諸島との貝交易については、熊本大学の木下尚子教授の「貝交易の語る琉球史」に非常に詳しく解説されている。以前は講演内容をインターネットで見ることができましたが、今では閉鎖されたようです。
 
 記紀によると、神武天皇は大和国に東遷する前は日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし手研耳(たぎしみみ)などが生まれたとある。これは神武が北部九州から日向国に派遣され、南西諸島との貝交易に携わっていたと私は考えています。
 神武は高皇産霊に呼び戻されて大和国に東遷し、国を治めるための資源として水銀朱を開発独占した。貝よりも朱の方がはるかに価値が高かった。

 弥生時代には銅器や鉄器の使用も本格化し、弥生時代中期から後期にかけて内外の広範囲にわたる交易ルートが確立された。弥生時代を通じて交易・交流のノウハウが蓄積されていった。
 大陸と交易するためには列島各地の豪族が役人を楽浪郡に派遣して、漢字や言語の使用、制度などを理解する者を養成していた。

 後漢末になると公孫氏が楽浪郡・帯方郡を支配したので倭国は公孫氏と交易をしたが、西暦220年に後漢から魏に移ると238年に公孫氏が滅ぼされ、倭国(北部九州)は西暦239年から魏と直接交易をするようになる。
 新撰姓氏録には「右京 諸藩 漢 常世連(とこよのむらじ) 燕国王公孫淵之後也」、「河内国 諸藩漢 常世連 燕国王公孫淵之後也」とある。公孫氏又はその部下は列島に逃亡し、常世連を称した。
 常世氏が奉斎する神社は大阪府八尾市神宮寺の常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ、八王子神社)で、常世氏は当地を本拠地とした。常世氏の本姓は赤染氏で、赤染氏は茜染めを職としていた。

 三国志には公孫氏一族は滅亡したとあるが、列島に逃れて来た公孫氏がいたのか、それとも王族ではなく家来なのか。公孫恭は魏の将軍・司馬懿(179年-251年)に助命されたが性的不能で子はいなかったとある。
 司馬懿は卑弥呼(西暦179年-247年)と同年生まれで、卑弥呼の死後4年に亡くなっている。
[PR]
# by enki-eden | 2017-01-14 00:23

紀伊路(きいじ)

 古くは紀路(きじ)とも云う。
 紀伊路は弥生時代から使われていたが、5世紀半ばから6世紀の天皇の宮は長谷や磐余(いわれ)など奈良盆地南部に設けられ、「大和の宮」と「紀の川」を結ぶ官道となった。途中に巨勢谷を通るので巨勢路(こせじ)とも云われた。

 畝傍山の東を南北に走る「下ツ道」を南に進むと丸山古墳(畝傍山・橿原神宮の方を向いた前方後円墳)、次に欽明天皇陵(東西向きの前方後円墳)、次に岩屋山古墳(方墳か)の傍を通る。そこから徐々に南西方向に向かうが、近くを近鉄吉野線が並走する。
 吉野口駅あたりからはJR和歌山線が並走するようになる。奈良県五條市で吉野川(紀の川中流)に至る。JRの駅名は「五條」ではなく「五条」になっている。当地は古代の大和国宇智郡で宇智神社(宇智大神)が鎮座。宇智大神は武内宿禰と云う説がある。ここからは水路で紀の川を下って大阪湾から瀬戸内海方面に出る。
 「紀の川」は奈良県域では「吉野川」と呼ばれ、中央構造線に沿って和歌山県を西に流れて紀伊水道に注ぐ。地図には「紀ノ川」と記されることがある。古代には、紀の川は紀氏が葛城氏と共に管理していた。
 奈良盆地西部に本拠を置く葛城氏が紀の川へ行くには、葛城山・金剛山麓の道路を通り、途中から紀路に入った。
  和歌山県伊都郡かつらぎ町の「道の駅・紀の川万葉の里」から紀の川を望む。
d0287413_9192171.jpg

 紀路は7世紀の飛鳥時代にも飛鳥から紀の川へ行く官道で、8世紀の奈良時代には南海道として利用された。
 古代の紀の川は和歌浦に注いでいたが、1400年代の地震と津波で川筋が変わり、紀伊水道に注ぐようになった。和歌浦に注いでいた川の部分も残っており、和歌川となっている。昔は暴れ川だったようです。紀路(黄色い線)と和歌浦に注ぐ古代の紀の川(赤い線)を示します。
d0287413_919437.jpg


 古代の和歌浦河口の港は紀伊水門(きのみなと)と呼ばれていた。紀伊水門は6世紀までは紀氏が管理し大和朝廷が直轄する重要な外港であった。紀伊水門には国内外の交易品が集中していたので鳴滝倉庫群があった。上の地図にあるピンクの丸印が鳴滝倉庫群(和歌山市善明寺)です。
 高床式倉庫群が5世紀前半に造られ、20坪前後の倉庫が7棟で、総面積は140坪ほどです。交易品や食料・武器などが保管され、交易航行時には武器・兵器は必須携行品でした。
 和歌山市ホームページの鳴滝倉庫群。 現在は埋め戻され近畿大学付属高校のテニスコートになっている。
d0287413_920647.jpg

 紀伊国名草郡の紀伊国造家の本拠地は日前宮です。2013年2月1日投稿の「日前宮」をご参照ください。
 紀氏は大和政権と密接に結びつき、政権のための水運・軍事・政治に貢献した。紀の川と瀬戸内海から海外への水運を統括し、国内外の交易を掌握していた。5世紀には大和の平群谷と山背南部の紀伊郡にも同族を配置した。平群谷の紀氏は紀朝臣となり貴族化していった。
 葛城氏、物部氏、蘇我氏など有力豪族が次々と天皇家によって弱体化される中で、紀氏は最後まで勢力を保つことができた。

 5世紀後半になると大阪湾の難波津の港(大阪市中央区法円坂町)が拡充され難波倉庫群が完成。16棟以上の高床式倉庫群で、全棟で425坪ほどもあり、鳴滝倉庫群の3倍の大きな規模となる。
 大和川は物部氏が支配していたが、当時の大和川は淀川と共に大阪湾に注がずに河内湖に注いでいた。5世紀末頃に大和政権は「難波の堀江(水路)」を掘削して河内湖の水を大阪湾に導いた。その開発によって難波地域の都市計画が進んだ。
 河内湖は川からの堆積物で徐々に縮小していったが、江戸時代の1704年に、北上して河内湖に注ぐ大和川を西方向に流れを替え、堺の海に放流することにより河内湖は消滅し河内平野になった。

 7世紀には大和から瀬戸内海方面・海外への航路は紀の川から大和川に移っていった。航路の変更は物部守屋が587年に滅ぼされ物部氏の勢力が弱くなったことと関係があるでしょう。大和川の水運と難波津の管理は大和政権が直轄するようになり、海外交易の拡大、遣隋使・遣唐使の派遣などに利用された。

 難波倉庫群の法円坂遺跡に1棟の倉庫が復元されている。左(西側)に10棟、右(東側)に6棟の倉庫跡が見える。赤丸は復元された1棟の倉庫。復元倉庫の北隣りが大阪歴史博物館、その西隣りがNHK大阪放送局。
d0287413_9223345.jpg


 この他の大型倉庫群は大阪府豊中市の蛍池東遺跡、奈良県御所市の南郷遺跡群(葛城氏)、奈良県天理市の布留遺跡(物部氏)にある。これらは5世紀の古墳時代の遺跡である。
 古墳時代に入って100年が経過した4世紀半ばに大和政権が国内統治をほぼ達成し、海外との交易に力を注ぎ、海外派兵も頻繁に行われるようになった。
 それを進める為に5世紀の大和政権は交易品・食料・兵站用の倉庫群を重要拠点に建設した。また河内国には応神天皇陵や仁徳天皇陵など巨大な前方後円墳が築造された。
 大和政権の海外進出に呼応するように玄界灘の沖ノ島では、4世紀後半から大和政権が国家的な祭祀を行うようになった。祭祀は航海安全、交易の成功、戦勝祈願などである。特に戦勝祈願は切実であった。沖ノ島の祭祀については、2014年2月26日投稿の「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。

 4世紀から5世紀にかけての時代は、大陸では八王の乱(300年-306年)、五胡十六国の乱立(304年-439年)、西晋の滅亡(316年)、東晋滅亡(420年)などで戦乱が続いた。戦乱を避けて多くの漢人などが列島に逃れて来た。
[PR]
# by enki-eden | 2017-01-08 00:16

日本人とフェニキア人

d0287413_17153979.jpg


 作家の有吉佐和子(1931年-1984年)はフェニキア人の日本渡来説を主張している。紀伊の語源は紀州と伊勢の組み合わせという説があるが、有吉は紀伊の「キ」は古代フェニキアの「キ」で、フェニキア人は船ではるばる日本までやってきたと云う。

 有吉の父は長州人で、母は紀州人。母の旧姓は木本で、和歌山市の庄屋の長女であった。和歌山市西庄の木本八幡宮の山本宮司家とは縁続きで、古代の紀氏とつながっていた。木本というのは木の根本で、紀州こそ日本人のルーツであると有吉は云った。有吉の代表作「紀ノ川」はその家系をモデルにしている。

 フェニキア人のY染色体DNAハプログループはE1b1b1a3、一般のユダヤ人はJ2aが多いがフェニキア人との交配でE系統も多い。日本にはJ系統もE系統も見当たらないが、日本に多いD系統(縄文人)はE系統と同系で、分派してDとEに分かれた。

 ユダヤ人言語学者のヨセフ・アイデルバーグ(1916年-1985年)によると、日本語とヘブル語の類似した単語が3,000語を超えると紹介している。
 ユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤー(ニューヨーク在住、1936年出生)は、京都の祇園祭を見たユダヤ人はイスラエルの祭りを連想すると云っている。トケイヤーは1967年に東京広尾の「日本ユダヤ教団」の初代ラビで、早稲田大学で古代ヘブライ文化を教えたこともある。
 トケイヤーは「ユダヤ人は長い歴史の中で何回も敗北を味わってきたのに、自らの歴史に誇りを持って生きてきた。それに対して日本の民族はたった一回の敗戦によって、自国の歴史に誇りを亡くしてしまった。」と述べている。

 これを聴いて私は戦後史学を早く修正しなければならないと痛感しています。戦前の皇国史観に戻ろうとしているのでは決してありませんよ。古代史を正しく理解することです。ナショナリズムになってもいけません。日本の周辺国では歴史をナショナリズムによって大きく歪曲して国是としています。これに関わってもいけません。

 日本人のmtDNA(ミトコンドリアDNA)の約67%はアジア系と言われる「M」系列、約33%は西欧系と言われるmtDNA「N」系列です。ミトコンドリアDNAは母親から引き継ぎます。
 人類の出アフリカにより、アジア系と言われるmtDNA「M」(母親由来)は、縄文系のY-DNA(父親由来)の「D」と「C」と共に、紅海、アラビア海からインド洋沿岸部を航海して日本列島にやってきた。
 mtDNA「M」系列の中で最も古い「M」が日本列島で見つかっているので、出アフリカ後のmtDNA「L3」が中東でネアンデルタール人と交配して分化した「M」と「N」の最も古い亜型がそのまま日本列島に移動してきたことになる。2015年1月13日投稿の「ネアンデルタール人との混血」をご参照ください。

  人類の出アフリカは10万年前から6万年前ぐらいですが、フェニキアがローマとの3回にわたるポエニ戦争に敗れ、紀元前146年に壊滅したので、戦争に敗れて列島に来た人がいるのなら紀元前2世紀頃になるでしょう。それともフェニキアが活躍していた紀元前4世紀頃に列島まで航海して来たのか・・・
 2016年2月7日投稿の「貝紫色(フェニキアの紫)」をご参照ください。

 紀元前4世紀から紀元前3世紀頃にフェニキア人とユダヤ人が航海により、日本列島まで来た可能性はあります。2015年4月27日投稿の「ユダヤ人のY遺伝子」をご参照ください。

 日本人とチベット人に多いY染色体D系統は出アフリカ間もない時期のDNAをそのままチベットと日本に移動しています。他のDNAからの変化を受けていない希少な例です。D系統は日本、チベット、中東にしか存在しません。

 D遺伝子を持つ縄文人の言葉(縄文語)の文法がS(subject、主語)・O(object、目的語)・V(verb、動詞)の順のSOV型になっています。
 縄文人の後に列島に渡来した江南人(揚子江周辺の倭人)の文法はSVO型ですから、江南人は先住民の縄文人の言葉に同化し、交配し、弥生人になったと考えられます。
 古い型の遺伝子を持つ縄文人の文法がSOV型であることは、人類の初期の文法がSOV型であったことを物語ります。その後の人類の分岐・拡散によりSVO型が派生したと考えられます。

 同じ文章をSOV型とSVO型に置き換えて話してみてください。SOV型の方が優しく曖昧な感じがしませんか? SVO型はきつく聞こえませんか?
 縄文人は優しいのです。国内で縄文系の比率の高い人々はアイヌと沖縄で、次に関東と東北が高いのです。
 古代の日本の中心であった奈良と京都の人々のDNAはどんな形だったのでしょうか。両地区のDNAのサンプルが少なすぎて判断できません。天皇家のDNAも分かりません。
[PR]
# by enki-eden | 2017-01-01 00:14

言霊(ことだま、言魂)

 言霊を辞書で調べると、「古代人が言葉に宿っていると信じた不思議な霊力」とあり、言霊信仰では、言霊により言葉通りの事象がもたらされると信じられていた。
 古代の日本は言霊の力で幸福がもたらされる「言霊の幸(さき)わう国」と云われていた。
   磯城島の 大和の国は 言霊の 幸はう国ぞ 真幸(まさき)くありこそ
                            柿本人麻呂歌集

 古代では良い言葉を出すと良いことが起き、逆に悪い言葉を出すと悪いことが起きると考えられた。現代では言霊信仰は薄らいだものの、現代人の心にも一部は残っている。
 「お前があんなことを言ったから、こんな結果になってしまったじゃないか!」
 受験生がいるところで、落ちる、滑る、などの言葉は禁句。
 結婚式のあいさつで、別れる、切れる、などと言ってはいけない。

 現代人は合理的、科学的になったが、悪い言葉が世の中に氾濫し、心が暗くなるような事件が毎日起きている。マスコミがこれを助長する側面もある。
 国会での勢力争いも目に余るものがあり、国・県・市レベルで議会が行政の足を引っ張っている。

 言葉の霊力を信じたのは古代日本人だけでなく、紀元前6世紀のギリシャの哲学者ヘラクレイトスがロゴス(言語、法則、真理)の概念を打ち出している。やがてLogos(ロゴス)からLogic(論理学)が生まれた。
 2000年前のユダヤ人キリスト教徒はロゴス(神の言葉)を信じ、ロゴスはキリストを意味するようになった。

 人間の認識できる次元は4次元ですが、やがて異次元(5次元)が物理学的に検証されようとしています。5次元は神の世界だと私は考えていますので、霊次元(0次元)と表現しています。
 数年前に私は「ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く」(リサ・ランドール博士著)という題名の分厚い難しい本を読みましたが、理論物理学者のリサ・ランドール博士は「異次元は存在する」という本も著しています。
 言霊はその異次元宇宙とつながっていると云う説があります。人間の心底からの思考・言葉・魂は異次元に通ずるのでしょう。

 一方、言霊に否定的な意見もあり、例えば作家の井沢元彦氏です。
 『言葉に霊力があるとされる言霊は、憲法9条を唱えて平和国家、平和国家と言えば外国から侵略されないという考え方に繋がる。
 外国の侵略者は日本の憲法を守る義務はないにもかかわらず、憲法さえ守れば平和になるという人が日本にいる。それは言霊の影響である
 良い言挙げ(ことあげ、言葉に出す)ならいいが、悪い言挙げは許されない。それゆえ、言葉を自由に使うことができなくなるばかりか、他人が使う言葉の自由まで侵害する連中が出てくることになる。』と主張しています。
 
 井沢氏の主張のように護憲主義者は言霊を利用しているかもしれませんが、憲法9条とアメリカの占領政策を利用して護憲主義と反日左翼イデオロギーを展開したグループにマスコミが同調して、マスコミが一般の国民に広めていったのです。

 護憲主義を支持している一般国民は反日でもなく、左翼イデオロギーでもありません。普通の生活者です。
 世論調査によると、マスコミ報道を信用している人は、アメリカ人では22%、日本人では75%です。マスコミは偏った報道をするので、アメリカの報道では記事の最後に政治的・社会的立場を記しており、その立場での主張であることが分かります。
 日本の報道では立場を明確にせず、公平性・正当性を装っており、そのまま信じ込む日本の読者が75%いると云う現実があります。
 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策の呪縛から脱却するのも大事、占領政策の一環として戦後史学によって歪められた古代史を正していくのも大事、また、戦前の皇国史観に戻らないことも大事です。
[PR]
# by enki-eden | 2016-12-25 00:01

日本の安全保障政策

 古代史とは関係ありませんが、国際関係アナリストの北野幸伯氏によると、『ロシアのプーチン大統領が12月15日・16日に来日した。安倍総理との会談で、北方領土問題について具体的な進展がなかったことから、失望の声も聞かれる。
 しかし、もっと大局的視点から見れば、会談はロシアだけでなく、日本にとっても成功だったと言える。』

 私見ですが、ロシアが北方領土を日本に返還したと仮定すると、日米安保条約により米軍が駐留する可能性が極めて高くなります。駐留しなくても米軍による対ロ軍事活動は必ず発生します。
 米ロは厳しく対立しているので、ロシアが軍事的に圧倒的に不利になる北方領土返還に応ずることは決してありません。プーチン大統領は記者会見で、歯舞・色丹を返還する条約は結ばれているが、どのような形で返還するかは記されてないと発言しています。これは日本とアメリカは特別の関係にあり、歯舞・色丹に日米安保条約が適用されるのであれば返還は実行できないと云う意味です。
 日本は4島一括返還で統治権も日本に属することを主張していますが、これでは日露の立場が噛み合うことはありません。今後相当長期に亘り領土問題の進展はないでしょう。

 領土問題は重要ですが、いま日本にもっと重要なのは、日本を狙っている中国に対抗するためにアメリカとロシアを日本に引き付けておかなくてはなりません。とりわけロシアが中国一辺倒にならないように日露関係を政治的にも経済的にも軍事的にも深い関係に進めていく必要があります。
 今回はこの目的に進むスタートができたと考えられます。幸い、安倍首相は今後、プーチン大統領ともトランプ次期大統領とも親友として付き合っていける可能性は充分にあります。
[PR]
# by enki-eden | 2016-12-19 12:04

角宮神社(すみのみやじんじゃ、長岡京市)

京都府長岡京市井ノ内南内畑35   車は鳥居前の公民館に停める。
祭神: 火雷神(ほのいかづちのかみ)、
    玉依姫命、
    建角身命、
    活目入彦五十狭茅尊(11代垂仁天皇)、
    春日神。

 式内名神大社「山城国乙訓郡(やましろのくにおとくにぐん) 乙訓坐火雷神社」の論社。
 山城国風土記逸文によると、賀茂建角身命の娘の玉依姫命が「瀬見の小川」で遊んでいると、火雷神が丹塗矢に化身して流れ寄り、玉依姫命が妊娠、賀茂別雷命が生まれた。
 丹塗矢はマレビトが姫に通うときの姿として表現されることがある。
 大山咋命と鴨玉依姫の子が賀茂別雷命であるので、火雷神は大山咋命のことか。
  素戔嗚命―大歳命(饒速日)―大山咋命―賀茂別雷命

 当社の6km北に松尾大社が鎮座、秦氏が大山咋命を祀っている。 2014年1月13日投稿の「松尾大社①」「松尾大社②」をご参照ください。

 松尾大社の社殿は夏至の日の出方向を向いている。その延長線上に比叡山(848m、青丸)があり、途中に下鴨神社(賀茂御祖神社、祭神は玉依姫命・賀茂建角身命、赤丸)が鎮座している。
d0287413_19374647.jpg


 26代継体天皇(531年崩御)が512年に当社を建立し火雷神を祀る。
 続日本紀の42代文武天皇(683年-707年)、大宝2年(702年)7月8日、「山背国乙訓郡にある火雷神は、雨乞いをする度に霊験がある。大幣(おおぬさ)と月次祭(つきなみさい)の幣帛(みてぐら)を奉ることにせよ。」とある。
 50代桓武天皇(737年-806年)が784年に長岡京を造り、玉依姫命、建角身命、活目入彦五十狭茅尊を合わせ祀り、角宮乙訓大明神とした。

 当社は向日山に「下ノ社」として鎮座していたが1221年の承久の乱で焼失し、1275年に向日神社(上ノ社)に合祀された。1484年に現在地に角宮神社として復興した。
 向日神社に預けられていた御神体は1883年に角宮神社に遷された。現在は長岡天満宮の宮司が角宮神社を兼務している。

  赤のアイコンが角宮神社、黄が向日神社、青が長岡天満宮。


   鳥居と社号標
d0287413_19491930.jpg

   長岡天満宮から遷された舞殿と、その前の磐座。
d0287413_19493714.jpg

   本殿、右に境内社の八幡宮(応神天皇)。
d0287413_19494983.jpg

  境内社、右から向日神社(鵜草葺不合尊)、稲荷社(倉稲魂命)、
  大神宮(天照皇太神)。
d0287413_195051.jpg

[PR]
# by enki-eden | 2016-12-18 00:34

向日神社(むこうじんじゃ、向日市)

京都府向日市向日町北山65  電075-921-0217  駐車場あります。
祭神: 向日神(むかひのかみ、御歳神、五穀豊穣の神様、718年に遷座)、
    火雷神(ほのいかづちのかみ、祈雨・鎮火の神様、1275年に合祀)、
    玉依姫命(火雷神の妃神、718年に祀る)、
    神武天皇⦅皇后は御歳神(伊須氣依姫)、718年に祀る⦆。

d0287413_14322819.jpg

 5世紀中頃に賀茂氏と秦氏が当地にやって来た。両氏は26代継体天皇(531年崩御)に協力し、天皇は518年に当地に乙訓宮(おとくにのみや)を造った。
 火雷神と玉依姫命は上賀茂神社の祭神・別雷神(わけいかづちのかみ)の親神で、当地で火雷神を祀っていた賀茂氏が山城国上賀茂に移り住んだと考えられている。
   赤のアイコンが向日神社、黄が上賀茂神社。


 山城国風土記逸文によると、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の娘・玉依比売(たまよりひめ)が瀬見の小川(鴨川に注ぐ支流)で遊んでいると、川上から丹塗りの矢が流れてきたので持って帰ると妊娠して男の子が生まれた。名を賀茂別雷神と云う。
 賀茂建角身命が多くの豪族を集めて宴会をし、孫の賀茂別雷神に「あなたの父にお酒をあげなさい。」と云ったところ、賀茂別雷神は酒を持って屋根を突き抜け天まで昇った。それで賀茂別雷神の父は火雷神(ほのいかづちのかみ)だと分かった。火雷神が当社の主祭神です。
 2013年1月2日投稿の「盟酒(うけいざけ・父親を占いで探す)」をご参照ください。
 当社の鎮座する向日山は古代には長岡と呼ばれ、長岡の東に50代桓武天皇(737年-806年)が784年に長岡京を造った。当社の450m東に長岡宮跡(大極殿公園)や長岡京跡がある。

 向日山(山城国乙訓郡、おとくにぐん)には、向神社(上ノ社、向日神)と火雷神社(ほのいかづちじんじゃ、下ノ社、火雷神・玉依姫命・神武天皇)が鎮座していたが、1275年に向神社が火雷神社を合祀し、向日神社と改称した。

 向日神社宮司の六人部(むとべ)氏は秦氏の出身で現在95代目と云われるが、新撰姓氏録によると「山城国 神別 天孫 六人部 連 火明命之後也」とあるので海部氏・尾張氏の出身。その後、賀茂氏や秦氏と交わったのか。

 天皇に仕えていた当社宮司家の90代六人部是香(むとべよしか、1798年-1864年)は、121代孝明天皇(1831年-1867年)に国学者として進講し王政復古に力を注いだ。六人部家には坂本龍馬など勤王の志士が出入りしていた。

 火雷神は大和国葛城でも祀られている。2014年10月30投稿の「葛城坐火雷神社」をご参照ください。
 上賀茂神社については、2014年1月4日投稿の「上賀茂神社①」をご参照ください。
 向日神は500m北にある五塚原古墳(いつかはらこふん)に祀られていたが、718年に当地に遷座した。五塚原古墳は箸墓古墳の三分の一の形で、3世紀中頃から後半に築造された最古級の前方後円墳(92m)。
 くびれ部から前方部先端に向けて高さが増していく「斜路状平坦面」を持つのは全国の古墳の中でも箸墓古墳と五塚原古墳の2基だけ。
 両古墳は同じ頃に築造されたと考えられているが、五塚原古墳の方が少し前に築造されたかもしれないので、今後の調査結果が楽しみです。
 五塚原古墳の被葬者は向日神(御歳神、190年頃出生、饒速日の娘)でしょうか。それであれば、両古墳とも被葬者は女性になるが・・・

 鳥居から拝殿前まで来て後ろを振り返る。 春には「桜のトンネル」と呼ばれている。
d0287413_14373074.jpg

   勝山稲荷神社(倉稲魂命、商売繁盛)
d0287413_14375177.jpg

d0287413_1438647.jpg

   元稲荷社
d0287413_14382698.jpg

d0287413_14384217.jpg

   天満宮社(菅原道真公、大歳神、屋船神)
d0287413_1439138.jpg

   舞楽殿
d0287413_14391653.jpg

   拝殿
d0287413_14393542.jpg

 本殿、1418年に建造。室町時代の三間社流れ造りの代表として国の重要文化財に指定された。明治神宮の本殿は当本殿を参考にして1.5倍の大きさに造られた。
d0287413_14395195.jpg

d0287413_1440716.jpg

   五社神社(大己貴神、武雷神、別雷神、磐裂神、事代主神)
d0287413_14402658.jpg

   春日神社(武甕槌神、斎主神、天津児屋根尊、姫大神)
d0287413_1440444.jpg

   御霊神社(伊邪那岐尊、伊邪那美尊)
d0287413_1441588.jpg

 当社に隣接する勝山公園には箸墓古墳と同じ時期の3世紀後半に元稲荷古墳(94mの前方後方墳)が造られた。 桂川周辺を束ねた豪族の古墳と考えられる。
 後方部は3段の50m四方の正方形、前方部は2段のハの字形、川石で覆われていた。
d0287413_14412230.jpg

d0287413_14413542.jpg

 当社の3km南には乙訓郡最大規模の恵解山古墳(いげのやまこふん、墳丘長128m、全長180mの前方後円墳)が5世紀前半に築造された。
[PR]
# by enki-eden | 2016-12-12 00:28

長岡天満宮(長岡京市)

京都府長岡京市天神2丁目15-13  電075-951-1025  有料駐車場あります。
祭神: 菅原道真公
「見返り天神」とも呼ばれる。 学業成就、家内安全、交通安全、書道上達。



 延暦3年(784年)、50代桓武天皇(737年-806年)が平城京から山城国乙訓郡(おとくにぐん)長岡に遷都し、長岡京を造営した。宮殿は難波宮を移築した。
 平城京で勢力を強める仏教界を遠ざけることと、皇統が天武系から天智系に移ったことを強調する狙いがあった。
 しかし、長岡において川の氾濫で大きな被害が出て、和気清麻呂(733年-799年)などの勧めにより延暦13年(794年)に平安京に遷都した。

 神社の由緒によると、長岡は菅原道真(845年-903年)が在原業平(825年-880年)らと共に、 しばしば詩歌管弦を楽しんだ縁深い地である。 周辺地は菅原家の所領であった。
 菅原道真が901年に太宰府へ左遷された時、この地に立ち寄り、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ縁故によって、道真公自作の木像を死後にお祀りしたのが当社の創立である。

 現在の社殿(本殿、祝詞舎、透塀)は1941年に京都の平安神宮の社殿を拝領移築したもので、正面朱塗りの拝殿は既存の拝殿を増改築し、1998年に竣工した。
 境内のキリシマツツジが咲く4月の「春の観光まつり」には観光客が多く訪れる。

 正面大鳥居(御影石製、高さ9.75m、重量50トン)、立派な両部額、社号標。
d0287413_17311870.jpg

  八条ヶ池と水上橋、1638年に八条宮智仁親王が築造。


  山上の鳥居
d0287413_17361895.jpg

d0287413_17363858.jpg

 手水舎と奥に撫で牛と神牛像。
 菅原道真が太宰府に左遷の時、途中で刺客に襲われたが、荒れ狂った白牛が駆けつけて刺客から守った。
 官公が太宰府で亡くなった時、遺骸を乗せた車を曳いていた牛が途中でひれ伏して動かなくなったので、そこを墓所として、その地に太宰府天満宮が建てられた。
 このような事跡で牛が官公の神使いとなっている。
d0287413_1737584.jpg

   拝殿
d0287413_17372479.jpg

d0287413_17374326.jpg

d0287413_1738660.jpg

   拝殿前の牛の石像
d0287413_17385997.jpg

   拝殿前の筆塚
d0287413_17391351.jpg

   本殿(三間社流れ造り)
d0287413_17392558.jpg

 境内社
 右が八幡宮社(応神天皇、比売大神、息長帯比売命)
 左が春日神社(武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神)
d0287413_17394184.jpg

 右は山神社(大山祇神)、左は龍神社(松尾竜神・菅竜神)
d0287413_17395385.jpg

 稲荷神社(倉稲魂神、猿田彦命、大宮女神)
d0287413_1740828.jpg

[PR]
# by enki-eden | 2016-12-07 00:24

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、京都府八幡市)

やわたのはちまんさん、旧称は男山八幡宮。
京都府八幡(やわた)市八幡高坊(やわたたかぼう)30  電075-981-3001
山裾(下院)と山上(上院)に駐車場があります。
電車を利用すると、京阪電車の八幡市駅前から男山ケーブルで山上まで行けます。

祭神は八幡大神(はちまんおおかみ)で、
中御前に応神天皇(誉田別尊、ほんだわけのみこと)、
東御前に神功皇后(息長帯比売命、おきながたらしひめのみこと)、
西御前に比咩大神(ひめおおかみ、宗像三女神)、
(多紀理毘売命、たぎりひめのみこと)、
(市寸島姫命、いちきしまひめのみこと)、
(多岐津毘売命、たぎつひめのみこと)。
d0287413_13524838.jpg



 創建は860年、56代清和天皇(850年-881年、清和源氏の祖)の命によって八幡造りの社殿が造営され、八幡宮総本社の宇佐神宮から勧請された。
 清和天皇は第四皇子であったが、母が太政大臣藤原良房の娘・明子で、藤原氏の権力により生後8か月で立太子、9才で即位した。しかし27才になると皇子の陽成天皇(9才)に譲位、その後仏門に入る。子沢山だったので臣籍降下により清和源氏が派生し、300年後の鎌倉幕府へとつながっていく。

 石清水八幡宮は創建以来、平安京の裏鬼門(西南)を守護する王城鎮護の神で、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として皇室に崇敬され、武運長久の神として清和源氏をはじめ全国の武士に信仰されてきた。宇佐神宮、筥崎宮とともに日本三大八幡宮とされる。

 また、元日の朝、宮中の四方拝において、天皇が遥拝される天皇陵や神社など12ヵ所の中に石清水八幡宮が入っている。

 13世紀の元寇の時、当社境内から打たれた矢が元軍に襲いかかり撃退したので、「国家鎮護・厄除け開運」の神様として信仰されている。その他、必勝、交通安全、安産、病気平癒、商売繁盛。

 当社の鎮座する男山(143m)は都からみて裏鬼門に位置し、鬼門に位置する比叡山延暦寺と共に都の守護、国家鎮護の社として崇敬を受けてきた。
 56代清和天皇の嫡流である源氏は八幡大神を氏神として尊崇し、源頼義(998年-1082年)は宇佐神宮から勧請して壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)を河内源氏の氏神とした。
 頼義の子の源義家(1038年-1106年)は石清水八幡宮で元服し「八幡太郎義家」と名乗った。
 源義朝(1123年-1160年)は都から東国に下向し、子の頼朝(1147年-1199年)と鶴岡八幡宮を鎌倉に造営、更に全国に八幡大神を勧請していった。

 石清水八幡宮の現社殿は1634年に3代将軍・徳川家光(1604年-1651年)の修造によるもので、境内16棟が国の重要文化財に指定された。その内、本社10棟が国宝に指定された。

   三の鳥居
d0287413_13564219.jpg

 一ツ石、かつては競馬の出発地点であり、「勝負石」とも呼ばれる勝運の石。現在はお百度参りの地点ともされる。
d0287413_1357338.jpg

   参道の灯篭
d0287413_1357169.jpg

   手前から、手水舎、供御所、南総門。
d0287413_13572759.jpg

d0287413_13573745.jpg

 供御所に末社の竈神殿(そうじんでん)が鎮座。祭神は迦具土神、彌都波能売神(みづはのめのかみ)、奥津日子神、奥津比売神、ご神徳は台所守護。
d0287413_13575011.jpg

d0287413_13575971.jpg

   拝殿
d0287413_13583615.jpg

   神鳩が向き合って八幡の八を象っている。
d0287413_13584892.jpg

   拝殿内
d0287413_1359668.jpg

   本殿昇殿口
d0287413_13591789.jpg

 鬼門封じ。
 鬼門の方角(東北)を封じるために、社殿の東北の石垣を斜めに切り取った造りになっている。
d0287413_13592952.jpg

 信長塀。
 織田信長(1534年-1582年)が1580年に寄進した塀で、瓦と土を幾重にも重ね、耐火性、耐久性に優れており、本殿を囲むように築かれている。
d0287413_13594185.jpg

  摂社の水若宮社(祭神は宇治稚郎子命、良縁成就)と
  左には末社の氣比社(祭神は氣比大神、必勝)。
d0287413_1401246.jpg

 摂社の若宮殿社(祭神は応神天皇の皇女で女性の守護神、心身健康・祈願成就)
d0287413_1402532.jpg

 摂社の若宮社(祭神は16代仁徳天皇で男性の守護神、祈願成就・学業成就)
d0287413_1403869.jpg

 右に末社の貴船社(高龗神、たかおかみのかみ、雨乞水乞)と
 左に龍田社(級津彦命・級津媛命、航海安全・五穀豊穣)、その左は北総門。
d0287413_1405184.jpg

 右が末社の一童社(磯良命、漁業安全繁栄)と
 左が摂社の住吉社(底筒男命、中筒男命、表筒男命、海上安全・交通安全)、
 後方に校倉(あぜくら)。
d0287413_141580.jpg

 右に末社の廣田社(天照大御神、勝運)、
 中央に生田社(稚日女命、心身健康・長寿)、
 左に長田社(事代主命、商売繁盛)、後方に西総門。
d0287413_1411670.jpg

 楠正成公(1294年-1336年)が1334年に必勝祈願の際に奉納した2本の楠木で樹齢700年の神木。京都府指定天然記念物。
d0287413_1415154.jpg

d0287413_142526.jpg

  末社の三女神社(宗像三女神、ご神徳は運輸・流通の安全)
d0287413_1421765.jpg

 エジソン記念碑(エジソンと男山の竹、記念碑の後方にも竹林が見える)
d0287413_1423011.jpg

 エジソンが発明した白熱灯のフィラメントに石清水八幡宮境内の真竹を使った。この竹を使用した電球は平均1,000時間以上も輝き続けた。その後セルローズによるフィラメントが発明され日本の竹は使われなくなってしまうが、それまでの十数年間、日本の竹がはるかアメリカの家庭や職場、街頭を明るく照らしていた。
 エジソンと日本、そして男山との深い縁を踏まえ、1934年に石清水八幡宮隣接地に「エジソン記念碑」が建立された。そして1958年には当宮境内に記念碑が移転され、さらに記念碑建立50年に当たる1984年に、デザインを一新し建て替えられた。
 エジソンの令嬢スローン夫人は昭和39年に当宮を訪れ、「これほど立派な記念碑はアメリカでも見たことがない」と感激された。
 当宮では、世界の発明王の遺徳を偲び、毎年エジソンの誕生日である2月11日にエジソン生誕祭、命日である10月18日にエジソン碑前祭を斎行し、記念碑前に日米両国の国歌を奉奏し、国旗を掲揚している。
 受験合格祈願の学生に人気がある。

 男山の麓(下院)には一の鳥居、頓宮殿、高良社、二の鳥居などがある。
[PR]
# by enki-eden | 2016-12-02 00:46

小野篁(おののたかむら)の冥土通い

 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595)は山号が大椿山で、臨済宗建仁寺派に属する。通称は六道さんで、本尊は薬師瑠璃光如来。
 六道珍皇寺の付近は、平安京の火葬地であった鳥辺野(とりべの、鴨川の東側一帯)の入口にあたり、現世と冥界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。



 「六道」とは地獄道(じごく)・餓鬼道(がき)・畜生道(ちくしょう)・修羅道(しゅら)・人道(人間)・天道(天人)の六種の冥界で、人は因果応報により死後はこの六道を輪廻転生(生死を繰返しながら流転)するという。
 この世とあの世の境(さかい)の辻が、当寺の境内あたりであると云われ、当寺は「冥界への入口」とも信じられてきた。

 人々がこのように考えたのは、平安京の東の墓所であった鳥辺野に行く道中に当寺があり、この地が「人の世の無常とはかなさを痛感する場所」であったことと、小野篁(おののたかむら、802年-853年)が夜になると冥土通いのため、当寺の本堂裏庭にある井戸をその入口に使っていたことによるものである。この地は中世以来、「冥土への通路」として世に知られていた。

 六道珍皇寺では毎年8月7日から10日まで「六道詣り」が行われるが、お寺の説明によると、
『京都では、8月13日から始まり16日の五山の送り火に終る盂蘭盆(うらぼん)には、各家において先祖の霊を祀る報恩供養が行われるが、その前の8月7日から10日までの4日間に精霊(御魂、みたま)を迎えるために当寺に参詣する風習があります。これを「六道まいり」あるいは「お精霊(しょうらい)さん迎え」とも言います。

 精霊を迎えるために「迎え鐘」を撞きます。普通の鐘は撞木で撞きますが、迎え鐘は鐘楼の中にあり見えず、壁の穴から外に出ている綱を引っ張って撞きます。
 この鐘は、古来よりその音響が十萬億土の冥土にまで届くと信じられ、亡者はその響きに応じてこの世に呼びよせられると云われています。
 お盆の期間中には終日、地の底へ響くような音色で、多くの精霊たちを冥土より晩夏の都へと迎え入れるのです。

 これは、平安時代にはこの辺りが俗に「六道の辻」と呼ばれ、京の東の葬送地であったこと、冥界への入口であり、お盆には冥土から帰ってくる精霊たちは、必ずここを通るものと信じられた事に由来しています。
 都人の厚き信仰により千年の時空を越えて受け継がれ、京洛の夏の風物詩ともなっています。』とある。

 六道まいりの期間のご朱印は「薬師如来」、「小野篁卿」、「閻魔大王」、「月光菩薩」があり人気のようです。境内には閻魔堂があり、小野篁作の閻魔大王木像と小野篁の木像が並んでいる。

 52代嵯峨天皇(786年-842年)など数代に仕えた平安時代初期の公卿・小野篁(おののたかむら、802年-853年)は、飛鳥時代の遣隋使・小野妹子の子孫である。
 小野篁は小野道風(894年-966年)の祖父と云われており、小野小町も同族である。
  花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
               百人一首(古今集 113)  小野小町
 

 小野篁は身長188cmの大男で文武に秀でていたが奇行が多く、遣唐使拒否問題で嵯峨上皇の激怒により一時隠岐島に流されたが2年ほどで帰還し、参議左大弁従三位など要職を歴任した。
 小野篁は詩人・歌人としても優れており、書道も天下一品であったと云う。
   わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
                       百人一首  参議篁

 小野篁は昼は朝廷の役人、夜は井戸を通って冥界で閻魔大王のもとで裁判の副官を務めていたと云う。六道珍皇寺は小野篁旧跡となっており、冥土通いの井戸(死の六道、入口)は本堂の裏に現存し、冥土から帰ってくる「黄泉がえりの井(生の六道、出口)」は隣接する旧境内で2011年に発見された。
 もう一つ「帰り道の井戸」が嵯峨の招金山福正寺にあったが、明治時代に廃寺となって井戸もなくなってしまった。当地は現在、嵯峨・薬師寺となっており、「生の六道・小野篁公遺跡」の石碑が立てられている。
 当時の人は、井戸はあの世に繋がっていると信じていた。

 六道珍皇寺を東へ750m行くと、山裾に京都霊山護国神社(りょうぜんごこくじんじゃ)が鎮座。坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎、高杉晋作など明治維新の志士の墓がある。隣には霊山歴史館もあり、維新の史料が展示されている。
 地名も東山区清閑寺(せいかんじ)霊山町(りょうざんちょう)となっており、周辺には寺院や墓地が多い。

 京都市北区紫野西御所田町(島津製作所の工場の一角、下鴨神社の西北2.5km)に小野篁の墓と紫式部(10世紀後半から11世紀初め)の墓が隣接している。
 堀川北大路交差点を100m南に行くと、工場の壁が途切れ、入口に「小野篁卿墓」と「紫式部墓所」の石碑が見えて奥に入ることができる。紫式部目当ての外国人もよく訪れるようだ。
 紫式部が源氏物語で愛欲・煩悩の世界を描いたことで地獄に落とされたが、小野篁が閻魔大王に懸け合って助けたという伝説がある。
 実際には、紫式部が亡くなって地獄に堕ちたと人々が噂したので、紫式部の関係者が墓の隣に小野篁の墓を造り、閻魔大王の裁きから助けてもらおうとしたのではないでしょうか?
   めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
                      百人一首  紫式部

 小野篁は紫式部のほかにも多くの人を地獄から救ったと云われている。

 多くの伝説が生まれた背景には、小野篁が直情径行ではあったが、私腹を肥やすことなく清貧で母親孝行、給与も身近な人に与えていたという人柄とその高い政務能力からであった。
 母親孝行の小野篁は亡くなった母親に会うために冥土に通い始めたと考えられている。

 滋賀県大津市小野1961には小野神社が鎮座、小野一族の氏神で遣隋使の小野妹子の出生地と云われる。境内社に小野篁神社が鎮座、500m南の鏡外社に小野道風神社が鎮座。
 更に700m南には小野妹子の墓(唐臼山古墳、からうすやまこふん)があり、墳丘上には小野妹子神社が鎮座。



 近くには和邇川が琵琶湖に注ぎ、地名も和邇が多い。小野氏は海人族の和珥氏(和邇氏)の一族である。
 小野妹子の墓は大阪府南河内郡太子町にもある。太子町は王家の谷で、聖徳太子御廟所、30代敏達天皇陵、31代用明天皇陵、33代推古天皇陵、36代孝徳天皇陵などがある。
[PR]
# by enki-eden | 2016-11-26 00:25

加邇米雷王(かにめいかづちのみこ)

 加邇米雷王の祖父は日子坐王(ひこいますのきみ)、父は山代大筒城真稚王(おおつつきまわかのみこ)、母は丹波能阿治佐波媛(たにわのあじさわひめ)。
 加邇米雷王は西暦290年頃の出生と考えられる。

 加邇米雷王は朱智王とも云われ、朱智神社(京都府京田辺市天王高ヶ峯、旧・山城国綴喜郡、つづきぐん)の主祭神になっている。
 加邇米雷王は息長氏の祖神で、神功皇后(321年-389年)の祖父。山城国綴喜郡は近江国坂田郡を本拠地とする息長氏の領地であった。綴喜郡を治めた加邇米雷王の子孫は朱智(すち)姓を名乗った。
  図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_13592281.jpg

 加邇米雷王の「加邇」は「(き)、かんはた」で、麗(きれい)な綾織の絹織物のことである。山城国綴喜郡では渡来人の秦氏が金属製品製造や養蚕・絹織物などに従事していた。和邇氏と息長氏はこれらを配下に置いていた。
 京都府木津川市山城町田(かばた)に原神社(かんばらじんじゃ)が鎮座、秦氏の祖と云われる(かば)氏が創建。同じ田(かばた)の満寺(かにまんじ)も秦氏の創建。

 弓月君が15代応神天皇(363年-403年)の頃に渡来したとされ、弓月君は秦氏と云われている。2014年6月29日投稿の「応神天皇の時、秦氏一族が渡来」をご参照ください。

 しかし、日本書紀によると、11代垂仁天皇(270年頃-330年頃)の妃に秦氏の戸辺(かにはたとべ)がいる。山背大国不遅(やましろおおくにのふち)の娘で山城の美女であった。その前に垂仁天皇は戸辺の姉の幡戸辺(かりはたとべ)を妃にしている。
 垂仁天皇の宮は大和国の纏向(まきむく)珠城宮(たまきのみや)であるが、山城国久世郡にも宮を造ったと云われている。垂仁天皇陵は大和国の北部にあり、山城国(山背国)に近い。
 垂仁天皇陵については、2013年2月18日投稿の「垂仁天皇陵」をご参照ください。

 11代垂仁天皇から16代仁徳天皇(380年頃-427年頃)の頃にかけて、数次にわたって渡来した民を秦氏と呼んだと考えられる。秦氏のほとんどは秦始皇帝(BC259年-BC210年)の後裔だと主張している。
 秦氏を配下に置く和邇氏と息長氏は多くの女性を天皇家に嫁がせ、「和邇腹」・「息長腹」として重要視された。

 京都府京田辺市普賢寺下大門にある観音寺(普賢寺)は息長山(そくちょうざん)観音寺と云う。
 京都府木津川市山城町の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)は3世紀末に築造の山城地方最大の前方後円墳(全長175m)である。
 9代開化天皇の皇子・彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、母は海部氏)の墳墓と云われるが、年代が少し合わない。

 加邇米雷王の「米(め)」は「目」だと考えられる。「目」は「かしら、人の上に立つ者」で、「頭目」などとして使われる。古代人の名前にも「目」が付く例がある。十市県主大目、物部目連(めのむらじ)、尾張連草香女の目子媛(めのこひめ)、蘇我稲目など。

 加邇米雷王の「雷」も例が多い。火雷神(ほのいかづちのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、賀茂別雷神など、踏鞴製鉄との関係が考えられる。加邇米雷王は金属と深く関わった。
 外国の神話にも雷の神は多く、轟くような勢力の大きさを云うのでしょうか。

 息長系の26代継体天皇(450年頃-531年)は、大伴金村・物部麁鹿火(もののべのあらかい、536年没)・巨勢男人(こせのおひと、529年没)らが推挙して507年に即位。
 当初の宮は河内国樟葉(くずは、交野天神社)であったが、511年頃に山背国綴喜(つづき、筒城)に宮を置いた。518年頃には山背国乙訓(おとくに)に、そして526年に大和国磐余(いわれ)に宮を定めることができた。
 翌年の527年(継体21年)にヤマト朝廷と筑紫君磐井が争い、528年に物部麁鹿火が故地に出兵して鎮圧した。(磐井の乱)
[PR]
# by enki-eden | 2016-11-20 00:56

大歳神(おおとしのかみ)

 大歳神は出雲国風土記に神須佐乃烏命(素戔嗚、140年頃-200年頃)の子として登場する。
 大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)、大歳御祖皇大神(おおとしみおやすめおおかみ)として祀る神社もある。大歳神の母・神大市比売を大歳御祖神とする場合がある。
 古事記・先代旧事本紀では「大年神」と表記。
 図をクリックしプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_20341624.jpg

 大歳神と饒速日命(にぎはやひのみこと、165年頃-225年頃)は同一神と考えられるが、記紀や先代旧事本紀では別神になっている。
 先代旧事本紀では大歳神は素戔嗚と神大市姫の子としており、饒速日尊は天照大神の長男・天押穂耳尊と高皇産霊尊の娘・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)の子としている。(上記系図の下段)
 系図の下段に示したように、先代旧事本紀では饒速日(天神)を海部氏・尾張氏の祖である天火明(あめのほあかり、天孫)と同じにしている。天火明は素戔嗚や高皇産霊と同じ頃、140年頃に出生しており、饒速日とは別神で系図も混乱している。

 先代旧事本紀では饒速日命の正式名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表している。
 天火明(140年頃出生、海部氏・尾張氏の祖)と饒速日(165年頃出生、物部氏の祖)の名を一つに繋いで両者を同じ神としているが、天火明の子孫の尾張氏は饒速日を祖神とは見ていない。
 物部氏は祖神の饒速日を天孫の天火明と同じ神と主張し、物部氏も天神ではなく天孫だと主張したかった。

 記紀と同様に、815年に52代嵯峨天皇(786年-842年)によって編纂を命じられた新撰姓氏録にも、饒速日の後裔は天神になっている。
 新撰姓氏録と同じ9世紀初め頃に編纂された先代旧事本紀は、饒速日の子孫である物部氏によって編纂されたと考えられ、新撰姓氏録と連動している。

 記紀には素戔嗚が高天原から追放され、天つ神(天神)から国つ神(地祇)になってしまった。物部氏の祖神である饒速日は素戔嗚の子であるが、物部氏が軍事・祭祀を司る有力氏族であり、饒速日が神武天皇(181年-248年)より先に185年頃に東遷して大和国を治めているなど、その重大すぎる存在は無視できず、記紀には饒速日は天照大神の子孫に取り込まれてしまい、物部氏は天神になっている。

 587年に物部守屋が蘇我氏に滅ぼされたが、饒速日の子孫の物部系氏族は新撰姓氏録に記されている神別氏族404氏の内で105氏ほどもある大豪族になっている。例えば、「左京 神別 天神 石上 朝臣 神饒速日命之後也」、「左京 神別 天神 穂積 朝臣 石上同祖 神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也」などです。
 2015年7月23日投稿の「饒速日命」をご参照ください。

 天火明を氏祖とする海部氏・尾張氏・石作氏・笛吹氏などは天孫氏族で55氏族以上ある。例えば、「左京 神別 尾張 連 尾張宿禰同祖 火明命之男天賀吾山命之後也」で、尾張氏と物部氏は同盟関係にあっても明らかに別系統です。
 先代旧事本紀には大歳神はそのまま素戔嗚の子であるとした。系図は時代背景による思惑や、誓約による記載変更のほか、間違いも多いので注意が必要。

 大歳神(大年神)は農業神、穀物神で、雨量の少ない瀬戸内海気候の地域に灌漑用の池や水路の建設を勧め、農産物の生産量を増大させた。兵庫県では400社近い大歳神社(大年神社)が鎮座しており、大歳神の神徳の大きさが窺われる。

 忌部氏は平安時代前期(803年)に「斎部氏」に改めて、斎部広成が807年に「古語拾遺」を表して一族の主張をしたが状況は変わらず、中臣氏の勢力に押され存在感が無くなった。忌部氏については、2014年8月20日投稿の「忌部氏」をご参照ください。
[PR]
# by enki-eden | 2016-11-15 00:32

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

 日本書紀では市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)、別名・瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)、古事記では市寸島比売命、別名・狭依毘売命(さよりひめのみこと)と記され、「水の神・海の神」である。

 素戔嗚(140年頃~200年頃)と天照大神が高天原の天真名井(あめのまない)で誓約(うけい)をしたところ、素戔嗚の十握の剣を天照大神が噛み砕き、噴き出すと三女神が生まれた。天照大神の御統(みすまる、首飾り)を素戔嗚が噛み砕き、噴き出すと五男神が生まれた。

 三女神は日本書紀によると、田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫、五男神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと)である。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_1744477.jpg

 市杵島姫の別名・狭依毘売は、天火明の妃・佐手依姫(対馬)に似ている。古事記の伊弉諾・伊弉冉の国生みで、対馬の亦の名を天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)と云っている。
 市杵島姫は海部氏・尾張氏の祖の天火明と結婚した。市杵島姫・狭依毘売・佐手依姫は同じと考えられる。

 海部氏の勘注系図によると、市杵嶋姫命の亦名は佐手依姫命、息津嶋姫命、日子郎女(ひこいらつめ)神とある。市杵島姫は天火明と共に、海部氏と凡海(おおしあま)氏の祖神になっている。

 五男神は天照大神が引き取り、三女神は素戔嗚が引き取った。三女神は大分県宇佐市の宇佐神宮で比売大神(多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命)として二之御殿(中央)に祀られている。

 また、三女神は大国主(160年頃出生)に嫁いで、宗像大社(福岡県宗像市田島)に宗像三女神として祀られている。湍津姫の別名は神屋楯姫と云う説があり、事代主を産んだ。
 宗像大社の沖津宮(宗像市沖ノ島)に田心姫神、中津宮(宗像市大島)に湍津姫神、辺津宮(宗像市田島)に市杵島姫神が祀られているが、神名から受ける感じでは、沖津宮と辺津宮の祭神が入れ替わった方が自然だと私は考えています。
 2014年2月26日投稿の宗像大社「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。
 
 三女神は広島県廿日市市の厳島神社(いつくしまじんじゃ、安芸国一宮)にも祀られている。神社名の厳島は斎き島(いつきしま)と云う意味である。
 市杵島姫は神仏習合では弁才天(弁財天、弁天さん)と同一視された。弁才天は七福神の中で唯一の女神で、芸能の神である。2015年6月24日投稿の四宮神社をご参照ください。

 また、瀬織津姫(祓戸四神の一柱)も弁才天として祀られることがあるので、市杵島姫と瀬織津姫は同一視されることがある。

 市杵島姫は京都市西京区の松尾大社に大山咋神と共に祀られている。2014年1月13日投稿の松尾大社①をご参照ください。

 市杵島姫は和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比売神社(紀伊国一宮)にも祀られている。2013年2月9日投稿の丹生都比売神社をご参照ください。
 この他、全国の市杵島神社などで祀られている。
[PR]
# by enki-eden | 2016-11-07 00:02

日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥三陵

 日本武尊(305年頃-335年頃)は12代景行天皇(285年頃-350年頃)の皇子で、14代仲哀天皇(320年頃-362年)の父である。
 日本武尊の母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)、后は11代垂仁天皇(265年頃-330年頃)の皇女・両道入姫(ふたじいりひめ)ほか。
 日本武尊の幼名はヲウス(小碓)、あるいは日本童男(やまとおぐな)で、熊襲建(くまそたける)を成敗した時に「ヤマトタケル」の名を贈られた。

 日本武尊は熊襲征討から帰還すると、景行天皇の要請により征夷将軍として東国征討に出発した。景行天皇は日本武尊のことを「身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電のようで、攻めれば必ず勝つ。形はわが子だが、本当は神人(かみ)である。天下も位もお前のもの同然である。」と褒められた。

 東国遠征中の相模で海が荒れて遭難しそうになった。同行していた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が船から海に飛び込み、犠牲となって一行は難を逃れた。
 弟橘媛は穂積忍山宿禰(ほづみのおしやまのすくね)の娘で、物部系。船団の運営は穂積氏が担ったのでしょう。日本武尊の従者として吉備武彦と大伴武日連が付き添った。

 日本武尊一行は神奈川県の三浦半島東部(横須賀市走水、はしりみず)から対岸の千葉県の細長い富津岬(富津市富津公園)に渡海しようとして嵐に遭った。富津は「ふっつ」と読む。市名の由来は日本武尊伝説により、海に投身した弟橘媛の袖や腰巻が海岸に流れ着いたことに由来する。
 布が流れてきた津→布流津(ふるつ)→富津(ふっつ)になったと云う。
 袖ヶ浦市と習志野市袖ヶ浦も弟橘媛の由来による地名です。木更津市(きさらずし)も日本武尊が弟橘媛を偲んでしばらく留まったことによる地名と云われる。君去らず→木更津。



 日本武尊一行の遭難とは時代も状況も違いますが、1910年に逗子開成中学校のボートを海に出した12人の生徒らが七里ガ浜沖で遭難、全員が死亡した事件を私は思い浮かべます。場所は三浦半島西部で、日本武尊の遭難場所の20kmほど西です。
 この旧制中学生遭難の鎮魂歌としてアメリカのインガルス作曲の讃美歌に日本語の歌詞をつけて作られたのが「真白き富士の嶺(七里ガ浜の哀歌)」です。You Tubeでお聴きください。

 常陸国風土記には日本武尊は倭武天皇(倭建天皇)と記されている。
 日本武尊は東国征討の帰りに尾張国に入り、宮簀媛(みやずひめ、尾張氏)と結婚したが、日本武尊は草薙剣を携えずに伊吹山の荒ぶる神を討ちに行く。
 この時、日本武尊は病気になり能褒野(のぼの、三重県亀山市)で亡くなった。32才だったと云う。 草薙剣は「三種の神器」の一つとして熱田神宮に祀られている。
 日本武尊は戦後史学により架空の存在とされ、古代史が歪曲・否定されているので、古代史を正しく復元することが重要です。

 日本書紀の12代景行天皇紀に、「皇子の日本武尊が伊勢国の能褒野(のぼの)で病没したので、景行天皇は官人に命じて能褒野の陵に葬られた。」とある。
 そのとき日本武尊は白鳥(しらとり)となって、陵から出て大和国を指して飛んで行った。従臣が柩を開けると衣だけが残っていた。そこで白鳥を追って行くと大和国の琴弾原(ことびきのはら、御所市富田)に留まった。それでそこに陵を造った。
 白鳥はまた飛んで河内国に行き、古市邑(ふるいちむら、大阪府羽曳野市軽里、はびきのしかるさと)に留まった。またそこに陵を造った。それからついに高く飛んで天に昇られたので、衣冠だけを葬った。天皇は建部(たけべ)を日本武尊の御名代(みなしろ、王族の功績を後世に伝えるために置かれた部民)とした。
 人々はこの三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼んだ。

①能褒野大塚古墳、三重県亀山市田村町1409、前方後円墳で4世紀末築造。
 墳丘長90m、後円部径54m、高さ8.5m、
 前方部が南東方向の伊勢湾を向いている。
 明治28年、古墳の傍に能褒野神社が創建された。
②日本武尊白鳥陵(しらとりのみささぎ)、
 奈良県御所市富田、28m×45mの長方丘。
③軽里大塚古墳(前の山古墳)、大阪府羽曳野市軽里、190mの前方後円墳、
 5世紀後半築造。羽曳野市の地名由来は、
 「白鳥がくように飛び立った」と云う。
  ①が赤のアイコン、②黄、③紫


 2014年7月2日投稿の「建部大社①」をご参照ください。

 日本武尊が能褒野で詠んだ望郷の歌
 やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるはし
[PR]
# by enki-eden | 2016-11-01 00:38

水尾神社(みおじんじゃ、姫路市山野井町)

兵庫県姫路市山野井町1-3  電079-291-1550  駐車場あります。
祭神 大己貴命
神徳 創業・開業・病気平癒・国造り(政治を志す人)

 姫路城西北500mの男山(57.5m)の麓に鎮座。姫路城下13町の氏神社である。
 当社は元、伊和大神を祀っていたが、29代欽明天皇26年(565年)に伊和大神を総社に移し、村民が跡地に祠を建て大己貴命を奉斎。従って播磨国総社の元宮とも云われる。
 1619年、本多忠政が姫路城築城の時、神守岡より岡大歳社を遷し社殿を造営し尊崇した。明治の神仏分離令により大歳社歳徳大明神を分離し水尾神社と改めた。

 男山中腹には千姫天満宮、頂上近くには男山八幡宮が鎮座。頂上には配水池公園があり、眺めが素晴らしい。正月に山頂に上ると姫路城から昇る初日の出を拝むことができる。



   入口の注連柱
d0287413_9354135.jpg

   日露戦捷紀念樹と砲弾
d0287413_936296.jpg

   境内社、右から市杵嶋社(市杵島姫命)、荒神社(奥津彦命・奥津姫命)、
   大将軍社(経津主命)、武大神社(素戔嗚命・稲田姫命)。
d0287413_9362086.jpg

   拝殿
d0287413_9363933.jpg

d0287413_9365728.jpg

d0287413_9371138.jpg

[PR]
# by enki-eden | 2016-10-26 00:31

千姫天満宮(姫路市)

兵庫県姫路市山野井町433  男山の中腹に鎮座、車は麓の水尾神社横に止める。
祭神 天満大自在天神(菅原道真公)

学業成就・武道上達・恋愛成就の御利益



 千姫(1597年-1666年)は2代将軍徳川秀忠と江(ごう、織田信長の妹・お市の方の娘)の長女として山城国伏見城内の徳川屋敷で生れる。
 1603年に7才で豊臣秀頼(1593年-1615年)に嫁いで大坂城に入る。1615年の「大坂夏の陣」の後、1616年に桑名藩の本多忠刻(ただとき、1596年-1626年)に嫁ぐ。翌年本多家が播磨姫路に移封になり姫路城に入城した。千姫は播磨姫君と呼ばれるようになる。

 千姫は天神(菅原道真公)を信仰していたので、姫路城に移った後には本多家の繁栄を願い1623年に姫路城の西北500mにある男山に天満宮を建立し6枚の羽子板を奉納した。千姫は西の丸長局(ながつぼね)の廊下から朝夕この天満宮を遥拝していた。

 千姫は姫路で10年を過ごし、本多忠刻との間には勝姫と幸千代が生れたが、幸千代は3才で早世、忠刻は31才で結核のため亡くなり、姑・熊姫、母・江が次々と亡くなり、千姫は勝姫と共に江戸城に移り余生を過ごした。勝姫(1618年-1678年)は1628年に池田光政(1609年-1682年、鳥取藩主、岡山藩主)に嫁いだ。

   水尾神社の左から男山の階段を上る。
d0287413_21302452.jpg

   男山中腹に千姫天満宮が鎮座。
d0287413_21303855.jpg

d0287413_21305085.jpg

d0287413_2131323.jpg

d0287413_21311786.jpg

d0287413_21313093.jpg

   東南方向に姫路城が見える。
d0287413_21314075.jpg

[PR]
# by enki-eden | 2016-10-20 00:26

男山八幡宮(姫路市)

兵庫県姫路市山野井町1-3 電079-291-1550 車は男山麓の水尾神社に止める。
姫路城北西500mの播州男山鎮座の厄神さん。
祭神 応神天皇、
   息長帯姫尊(神功皇后)、
   比売大神(多岐津姫尊、市杵島姫尊、多紀理姫尊)。
御神徳 厄除開運、武運長久、安産祈願。
2月18日~19日に厄神祭が執り行われる。



 大己貴命(おほなむち)は男山に鎮座。少彦名命(すくなひこな)は姫路城のある姫山に鎮座。この二柱の神が二つの山(妹背山)を造られた。
 おほなむち すくな御神(みかみ)の つくられし 妹背の山を 見るぞ嬉しき
                               柿本人麻呂

 冬至や正月の頃に標高57.5mの男山(雄徳山)山頂に立つと、日の出が姫路城付近から昇る。山頂は男山配水池公園になっており、姫路城がよく見える。
d0287413_10552029.jpg

 7代孝霊天皇(240年頃-285年頃)と絙某弟(はえいろど)との間に生まれた皇子・若彦建命(稚武彦命、吉備氏の遠祖)が姫路城のある姫山に居館し、周囲を治めた。
 その子・長彦男命は10代崇神天皇(250年頃-318年頃)の皇女・国方姫を娶り男山に居館。この地で没す。祠を建て長彦社と称し、この山を長彦山とも云う。麓の船場川を妹背川と云った。
d0287413_1055482.jpg


 当社は1345年に赤松貞範が姫山に姫路城を築く際に、京都の石清水八幡宮から勧請され、男山に祀られた。姫路城の鎮守社として歴代城主に信仰された。
 1617年に城主の池田光政が鳥取城に移り、本多忠政が姫路城主になる。本多城主は三の丸、西の丸などを増築する。
 1716年には姫路城主・榊原政邦が当社に新社殿を寄進し、御神鏡も奉納した。現社殿は1990年に再建された。
 昔から、姫路城の姫山に対して夫婦山である男山に当社が鎮座していることから、崇敬者は城主から庶民まで「男山厄神さん」と親しまれている。

   参道にある「幸運の蛙、三福かえる」
d0287413_10562015.jpg

   石の鳥居、姫路城主の榊原政邦が1716年に寄進。
d0287413_10563426.jpg

   鳥居の左右に飛躍神馬一対(阿吽になっている)。
d0287413_10565951.jpg

   拝殿
d0287413_10571283.jpg

d0287413_10572457.jpg

   本殿と境内社(白龍神)
d0287413_1057371.jpg

   境内から500m南東の姫路城を望む。
d0287413_1057484.jpg

   山頂の配水池公園から階段で一直線に降りる。
d0287413_10575885.jpg

[PR]
# by enki-eden | 2016-10-15 00:50

武大神社(ぶだいじんじゃ、姫路市川西)

兵庫県姫路市川西231   駐車スペース2台分あります。
祭神 須佐之男命
夢前川(ゆめさきがわ)と菅生川(すごうがわ)の合流点、神奈備山の麓に鎮座。



 祭神を5.5km北東に鎮座の廣峯神社から勧請。江戸時代には牛頭天王社とも称した。
 廣峯神社については2015年3月1日投稿の「廣峯神社①」と5日投稿の「廣峯神社②」をご参照ください。
 現在の社殿は1822年に再建、境内の広さは225坪。

   鳥居と社号標
d0287413_16141291.jpg

   拝殿
d0287413_1614294.jpg

   拝殿左に境内社
d0287413_16144188.jpg

   稲荷神社
d0287413_16145591.jpg


 当地周辺は素戔嗚系神社が多い。850m北西の飾西大年神社の祭神は大年神。そのすぐ北にある田守神社の祭神は素戔嗚命。
 当社から1km北の簔尾神社の祭神は大年神、大山咋神、倉稲魂神。850m東の安室神社の祭神は蛭子命(恵比寿)。

 当地に限らず、全国の神社の祭神は素戔嗚命(西暦140年頃-200年頃)とその血統・系統が多くを占める。それは素戔嗚が全国を治め、皇室の基礎を造ったからです。各地の豪族や庶民も素戔嗚を崇敬していた。
 ところが、記紀の完成した50年位前に「白村江の戦い」が勃発、日本は唐と新羅の連合軍に大敗した。4万人が出兵して1万人が戦死した。
 新羅と縁が深いと考えられた素戔嗚の印象は極端に悪くなり、記紀には大悪人として描かれることになる。しかし、白村江の戦いから160年過ぎた52代嵯峨天皇(786年-842年)の時代になると、間違えた感情論も消え、嵯峨天皇は「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり」と称えた。
 私見ですが、素戔嗚は江南人(倭人)の中の楚系であると考えています。列島には楚人の人口比率は低いですが、文化程度も高く武力も強かった。その最有力子孫が物部氏です。
[PR]
# by enki-eden | 2016-10-10 00:10

飾西大年神社(しきさいおおとしじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市飾西(しきさい)730-1   駐車場あります。
祭神 大年神(食物の豊かな稔りを守護し、家を守護する神)

 古代の飾磨郡(しかまぐん)が東西に分かれ、当地は飾西郡(しきさいぐん)と呼ばれた。

 当社は夢前川(ゆめさきがわ)と菅生川(すごうがわ)に挟まれた神奈備山の麓に鎮座。菅生川はすぐ南で夢前川に注ぎ合流する。当地域には2世紀頃からの遺跡があることから、東方の神奈備山を敬い祭祀を行ったのが当社の創祀と考えられる。
 素戔嗚と神大市姫の子である大歳(饒速日)は165年頃に出生、185年頃に大和へ東遷した。兵庫県には大歳神社(大年神社)が多く、400社近く祀られている。

 飾西には山陽道から分岐した出雲街道(美作街道)が通る。当社は飾西の氏神であるが、1905年に焼失。翌年再建され、2000年には全面改修された。
 当社の北側には飾西宿本陣の庄屋・中山助太夫が開いた顕正院妙見堂がある。



   鳥居と社号標
d0287413_162595.jpg

   拝殿
d0287413_1631179.jpg

d0287413_1632416.jpg

d0287413_1633487.jpg

   本殿
d0287413_1634577.jpg

   拝殿右横に境内社の祓戸社。
d0287413_1635886.jpg

   その右横に境内社の金毘羅宮・天満宮・伯楽神社の三社。
d0287413_164918.jpg

 神社の北に見信山妙見宮(妙見大菩薩)。1820年頃に飾西本陣の中山助太夫が開く。裏は代々の墓地となっている。入口にある「為悦衆生故 現無量神力」の意味は、「仏が衆生を悦ばしめようとして、計り知れない神通力を現した。」  
 額(妙見大菩薩)は両部額になっている。
d0287413_1642511.jpg

d0287413_1643447.jpg

d0287413_1644656.jpg

[PR]
# by enki-eden | 2016-10-05 00:58

破磐神社(はばんじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市西脇1598  電079-269-0572  駐車場あります。
祭神  息長帯日売命(神功皇后)、
    帯中日子命(たらしなかつひこのみこと、14代仲哀天皇)、
    品陀和気命(ほむだわけのみこと、15代応神天皇)、
    須佐之男命(明治40年に合祀)。

 神社の由緒によると、息長帯日売命(神功皇后)が三韓を討征し凱旋された時、忍熊王(おしくまのみこ)の難があったので船を妻鹿の湊(姫路市白浜町)に寄せられ、三野の荘・麻生山(あそうさん、172m、播磨小富士山)で天神地祇に朝敵退治を祈られたところ、大己貴命の神託により一夜のうちに麻が生じ、その麻を弦として三本の矢を試射された。
 第一の矢は印南郡的形(まとがた)に虚矢となって落ち、第二の矢は飾磨郡安室辻井に、第三の矢は太市郷西脇山中の大磐石に当たって磐を三つに割った。
 神功皇后はこれを吉兆としてこの地に矢を祀られ、後に仲哀天皇・応神天皇の二柱を崇め奉り破磐三神として奉った。
 この磐は当神社の西南1.7kmの地にあって現在宮ヶ谷(みやがだに)と呼ばれている。大磐石は高さ6.5m、巾5.5m~6m、奥行き7.5mある。この山地は狭隘で祭事に煩があるので、当社は17世紀に現在地に遷座した。
 神仏混淆の時代には三所大権現と称したが、明治の神仏分離令の布告により、破磐神社に復した。明治40年(1907年)に建速神社(須佐之男命)を合祀した。
 
  赤が破磐神社、黄が「われ岩」


 この破磐神社の起源について、
   神のさち 吹風弓の かふら矢と いかで岩をも 通ささらめや
 と詠まれている。

 神社の1.7kmほど南西の地が神社起源の地で、神功皇后(321年-389年)由来の「われ岩」がある。小高い丘になっており、周りは鬱蒼とした竹林だ。
 近くに墓地があるので、そこに車を停めて歩く。
d0287413_852739.jpg

d0287413_8522068.jpg

  われ岩から1.7km北東に鎮座の神社入口の鳥居(二の鳥居)と社号標、
  神額は両部額になっている。
d0287413_8523483.jpg

   拝殿
d0287413_8524519.jpg

   本殿
d0287413_8525628.jpg

 拝殿右に手前から招魂社、稲荷神社(保食命、うけもちのみこと)、
 天満神社(菅原道真公)。
 天満神社の社は当地に遷座した時に本殿として建築されたもの。
d0287413_8533725.jpg

   境内
d0287413_85405.jpg

 神社の創建は神功皇后が新羅遠征からの帰途であるので、西暦363年頃と考えられる。神功皇后は遠征前の事始めとしても麻生山で弓を放つ神事を行っている。2015年3月12日投稿の「生矢神社」をご参照ください。

 破磐神社の中田宮司は人情味溢れる方だと聞いていますので、お会いしたかったですが残念ながら私の参拝した時にはご不在でした。
[PR]
# by enki-eden | 2016-09-29 00:43

饒速日命の墳墓

 先代旧事本紀によると、
 ニギハヤヒの名は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」、または「饒速日命」と云う。亦の名を「胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)」と云う。
 饒速日命は天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。更に、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわやま)へ遷った。
 天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)を駆け巡り、この地を巡り見て天降られ、「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と云われるのは、このことである。
 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天に昇っていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」。
 速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰り昇って復命した。「神の御子は、既に亡くなっています」。
 高皇産霊尊は哀れと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天に昇らせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれ、天上で葬った。
 饒速日尊の妻の御炊屋姫は「天の羽羽弓・羽羽矢、神衣(かんみそ)・帯・手貫(たまき)」を登美の白庭邑に埋葬して、これを饒速日命の墓とした。

 福岡県宮若市磯光(いそみつ)266に天照神社(あまてるじんじゃ、てんしょうじんじゃ、主祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)が鎮座している。旧地名は福岡県鞍手郡宮田町磯光で、宗像大社の神領だったので地名が「宮田」となった。
 天照神社は笠置山(425m)山頂にあった饒速日の神霊を1308年に遷座したと云う。戦国時代には宗像氏が山頂に築城し、その後は秋月氏に移ったと伝えられ、豊臣秀吉の九州平定により廃城となった。現在では笠木城址として案内板が立てられている。

 天照神社は笠置山の北東5.5km、六ケ岳の南2.5km、遠賀川(おんががわ)支流の犬鳴川(いぬなきがわ)南岸に鎮座している。
 赤のアイコンが天照神社、黄が笠置山、青が貝島炭鉱跡。


 饒速日命(165年頃-225年頃)が最初に降臨したのが笠置(笠木)山であった。天照神社は東向きだが少し北に振っており、霊山・福智山(英彦山六峰のひとつ、901m)の方に向いている。主祭神は饒速日尊だが、水平切りの千木と6本の鰹木は女神仕様になっている。

 大和国で亡くなった饒速日の遺体が天上に埋葬されたので、妻の御炊屋姫(みかしきやひめ)が饒速日の遺品を鳥見の白庭山に埋葬して墓とした。鳥見の弓塚とも云う。

 奈良県生駒市上町4447の伊弉諾神社は長弓寺の鎮守として創建されたが、1km東の丘に長弓寺の飛び地境内があり、「真弓塚」がある。饒速日の遺品を納めたのが真弓塚だと云う説がある。
 もう一つの候補は富雄川を挟んで真弓塚の2.2km西の山中にあり、山伏塚(檜の窪山、標高230mほど、奈良県生駒市白庭台5丁目)と呼ばれていた。周辺一帯は長髄彦(ながすねひこ)の本拠地だ。
 山伏を山主の転訛と見て、饒速日の墳墓と考えた地元の有志により、大正時代の初め頃に整備され、「饒速日命墳墓」の石碑が建てられた。

 「饒速日命墳墓」の石碑から4km北北西に磐船神社が鎮座、東遷してきた饒速日が磐船に乗って降臨したところである。
 赤のアイコンが饒速日命墳墓、青が真弓塚、黄が磐船神社


 2013年1月14日投稿の「磐船神社」をご参照ください。

 また饒速日尊と可美真手命を祀る石切剣箭神社(東大阪市)については2013年1月16日投稿の「石切剣箭神社」をご参照ください。
 神社の北方は日下町(くさかちょう)で、神武東遷軍が長髄彦と戦って負けた孔舎衛坂(くさえのさか)です。

 私見ですが、饒速日の墳墓は奈良県桜井市三輪山山頂(標高467m)の奥津磐座ではないかと考えています。或いは、纏向を都とした饒速日が毎日拝んでいた斎槻岳(穴師山)でしょうか。斎槻岳は崇神天皇陵、箸墓古墳、纏向遺跡の大型建物跡の軸線が交わる所にあります。2015年4月18日投稿の「斎槻岳」をご参照ください。

 2世紀後半の北部九州では、素戔嗚(140年頃-200年頃)、饒速日の出雲族は主に遠賀川周辺、筑後川周辺、宇佐などの周防灘沿岸地域を治めていたが、西暦185年頃に饒速日が大部隊で大和へ東遷、200年頃に素戔嗚が亡くなると宗像を治めていた大国主(160年頃-220年頃)が素戔嗚の後継者となった。
 そこを狙って高皇産霊(140年頃出生)が武力により大国主に国譲りを強制した。北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)は天孫族に奪われてしまった。そして、卑弥呼(天照大神、179年-247年)が201年に邪馬台国(倭国、北部九州の29ヶ国)の女王に就任。

 それから300年以上経った26代継体天皇(531年崩御)の時に、北部九州で筑紫国造の磐井の乱が勃発、物部麁鹿火(もののべのあらかい、536年没)が528年に大将軍となって故地の筑紫に出兵、鎮圧した。物部麁鹿火は饒速日の15世孫である。
  饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄―
  十市根―物部胆咋―物部五十琴―物部伊莒弗―物部布都久留―木連子―
  麻佐良―物部麁鹿火

 天照神社の立地は筑豊炭田地区で、前を流れる犬鳴川を利用して、底が平らな「川ひらた舟」で石炭を運んでいたが、明治時代半ばには鉄道輸送に変わる。石炭は若松、八幡方面などに輸送された。
 当社の1.7km南西の貝島炭鉱が筑豊炭田最後のヤマとして1976年に閉山になり、各抗で祀られていた山の神(山神社)を当社境内横に遷したのが貝島炭鉱鎮守・大之浦神社で、祭神は大山積神である。貝島炭鉱の5抗の山神社が当地にまとめられた。大山積神については、9月5日投稿の「大山祇神」をご参照ください。

 貝島炭鉱跡に宮若市石炭記念館があり、道路横には貝島炭鉱で使用されたアメリカン・ロコモティブ社製(American Locomotive Company、通称ALCO)のアルコ23号蒸気機関車(愛称:弁当箱)とロト39号貨車が保存されている。1920年に輸入され、1976年までの56年間活躍した。
 石炭記念館内に「増産報国」と書いた額が展示されているように、石炭産業は国策事業であった。記念館の北には貝島炭鉱露天掘り跡がある。
 日本の石炭は品質が低く、日露戦争の戦艦用石炭は輸入していた。炭鉱事故で多くの犠牲者が出たことや労働争議もあり、炭鉱は閉鎖され、現在の日本では安価で高品質の外国産の石炭を年間2億トン近く輸入している。

 宇佐神宮参道脇には宇佐参宮線26号蒸気機関車(大分県指定有形文化財)が保存されている。駐車場沿いの参道を進み、入口の赤鳥居を過ぎると直ぐ左手にあります。
 九州鉄道が1894年にドイツのクラウス社から購入し、博多~久留米間の花形機関車として活躍した。1948年に大分交通に譲渡され、豊後高田駅-封戸駅-宇佐駅-橋津駅-宇佐高校前駅-宇佐八幡駅までの宇佐参宮線に1965年まで使われた。この蒸気機関車は71年間も活躍した。
 話が饒速日から離れてしまったが、饒速日は185年頃に宇佐から大部隊で大和へ東遷していった。
[PR]
# by enki-eden | 2016-09-25 00:57

 日本は太平洋戦争に負けて占領されたが、GHQ(General Headquarters、連合国最高司令官総司令部)は日本語に込められている意味を懸念して、ある漢字の一か所を変え、日本人のエネルギーを封印しようとした。
 その変えられた漢字は「氣」で、「気」に変えられました。GHQが漢字を変えて日本人の言霊(ことだま)を制御したかったのは、言霊には大きなパワーが込められているからです。

 私がこの件を知ったのは「占導師の幸輝さん」と量子力学コーチの「高橋宏和さん」からの情報ですが、「量子論と脳科学をベースにした引き寄せ理論」を提供しているインセティック代表の小森圭太さんの「量子論をベースにした引き寄せメソッド」のサイトをご覧ください。

 日本人を弱体化することを狙った漢字の「気」を無意識に使うよりも、字画数は増えますが、私はこれから「氣」を使うようにしたいと思います。

 GHQの占領政策については7月9日投稿の「戦後日本の反日思想」をご覧ください。

 話は変わりますが、11月8日に行われるアメリカの大統領選挙はクリントン氏とトランプ氏のどちらになるのでしょうか。
 クリントン氏は重病で体調が相当悪いようで、辞退すれば民主党は別の候補者を選ぶことになる。共和党のトランプ氏はオバマ大統領や共和党の中からも反対者が多いが、ポピュリストとして大衆の人気は高い。

 アメリカの国家安全保障に関して「大統領令第51号」があります。オバマ大統領が国家非常事態を収束するために戒厳令を宣言、すべての選挙を停止、オバマ大統領が職務を続ける、と云うシナリオがないとは言えません。

 アメリカ大統領選がどのような結果になっても、世界の秩序は不安定な多極化で群雄割拠の混乱になると思いますが、安倍首相には次期アメリカ大統領やプーチン大統領とうまく渡り合って国益を守ってほしいです。「氣」を発揮してほしいです。
 日本は明治以来、一貫して外交音痴で、今は正念場だと思います。政府の責任も大きいですが、弱体化した戦後日本の状態から国民が目覚めることも重要だと考えています。
 私は首相や国会議員にメールか手紙で意見を伝えていますが、最近は少し怠っています。
[PR]
# by enki-eden | 2016-09-21 00:08

阿波国(あわのくに)

 阿波国は現在の徳島県全域で、もとは北部の粟国(あわのくに)を粟国造(粟凡直、あわのおおしのあたい、粟忌部氏)が支配し、南部の長国(ながのくに)を長国造(事代主系の長直)が治めていた。
 律令制により粟国と長国が統一され粟国となり、8世紀初めに好字令が出され「阿波国」に変更、南海道に属し8郡47郷が置かれた。

 古事記によると、阿波国の別名は大宜都比売(おおげつひめ)、伊予国(愛媛県)は愛比売、讃岐国(香川県)は飯依比古(いいよりひこ)、土佐国(高知県)は建依別(たけよりわけ)と云う。
 17世紀の徳島藩蜂須賀氏の時代に、淡路島(淡路国)は阿波国の管轄となったが、1876年に淡路島は兵庫県に編入された。

 阿波国の北部は粟の産地だったから国名が粟になったと云う。天日鷲命(あめのひわしのみこと)が阿波国を開拓して木綿・麻を育て、製糸・紡績を営み、阿波忌部氏の祖となった。
 阿波忌部氏は代々朝廷に木綿・麻布を貢進。荒妙御衣(あらたえのみそ)を貢進して大嘗祭(践祚の儀)に供されたので、麻植郡(おえぐん)という地名になった。
 伊勢神宮でも荒妙(あらたえ、麻織物)、和妙(にぎたえ、絹織物)は織られているが、大嘗祭に使用される荒妙御衣は現代でも古代のしきたり通りに阿波忌部氏、現在は直系子孫の徳島県美馬市木屋平(みましこやだいら)の三木氏が貢進している。

 天太玉命(あめのふとたまのみこと、高皇産霊神の子)の孫の天富命(あめのとみのみこと)が神武東遷(西暦204年出発、211年に即位)に従い、大和国で橿原の宮を造った後、阿波国を開拓した。
 天富命は更に阿波忌部氏の一部を率いて房総半島南端の布良(めら)に上陸、安房国(あわのくに、千葉県南部)を開拓、麻を栽培した。また、安房神社(あわじんじゃ、安房国一宮)を創建、祖神の天太玉命を祀った。
 布良は普通に読むと「ふら」だと思うが、「めら」と読む。北九州市の門司に和布刈神社(めかりじんじゃ)が鎮座、和布刈神事では海岸の「わかめ」を刈って神前に供える。
 布良と和布刈は繋がりがありそうに思うが・・・
 天富命の移動した奈良、徳島、千葉は水銀朱の産地としても知られる。
 当時の朱は金と同等の価値があった。日本書紀によると、神武天皇(181年-248年)が宇田川の朝原で、「飴(水銀)ができれば武器を使わずに天下を居ながらに平げるだろう」と云ったほどである。

 徳島県の銅鐸出土数は大変多く50個近く発見されている。徳島市国府町矢野にある矢野遺跡の集落内で発見された高さ98cm、重さ17.5kgの大型銅鐸(国指定重要文化財)は木製容器に納めて埋められたと考えられている。そして、その上に屋根をかけていた跡(柱穴)が残っている。
 矢野銅鐸(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

 徳島県は雨量の少ない瀬戸内海気候のために塩田が盛んであった。木綿の染料である藍の生産も多く、塩と藍は徳島藩の専売品になっていた。

 阿波国の神社を調べてみよう。
 阿波国一宮は天石門別八倉比売神社であったが、論社は複数ある。
 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ、徳島県鳴門市大麻町板東広塚13)、祭神は大麻比古神で、天太玉命(あめのふとたまのみこと、忌部氏の祖神)の別名と云う。徳島県の総鎮守となっている。

 上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ、徳島県名西郡神山町神領字西上角330)、祭神は大宜都比売命(おおげつひめ)、亦の名を天石門別八倉比売命(あめのいわとわけやくらひめのみこと)と云う。
 社伝によると、大宜都比売命が伊勢国丹生の郷(三重県多気郡多気町丹生)から阿波国に来て、粟を広め栽培したと云う。伊勢国も阿波国も水銀朱の産地であった。

 国府の近くに上一宮大粟神社が分祀されて、一宮神社(徳島市一宮町西丁237)が創建された。大宮司家の一宮氏は粟国造の後裔と云う。

 八倉比売神社(やくらひめじんじゃ、徳島市国府町矢野531)が杉尾山に鎮座、一宮を称している。祭神は八倉比売命で、天照大神の別名としている。社殿裏の円墳上に石積みの五角形の祭壇があり、郷土史家は卑弥呼の墓であると云う。

 他にも忌部氏に関わる神社が多い。
 忌部神社(徳島市二軒屋町2-48)、祭神は天日鷲命。

 忌部神社(徳島県吉野川市山川町忌部山14-8)、祭神は天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと、天日鷲命)で江戸時代には天日鷲神社と称した。后神(妃)は言筥女命(いいらめのみこと)。
 神社後方に6世紀頃の忌部山古墳群がある。

 高越神社(徳島県吉野川市山川町木綿麻山4)、祭神は天日鷲命。

 御所神社(徳島県美馬郡つるぎ町貞光)、徳島市二軒屋町の忌部神社境外摂社で祭神は天日鷲命。
 各神社には今後参拝していこうと考えています。

 阿波国風土記
 阿波国風土記写本は明治5年まで徳島藩に保管されていたが、徳島藩は明治5年に廃藩になり、その後は行方知れずになった。
 筑波大学附属図書館に「阿波国風土記」全五冊がある。明治になって徳島藩では阿波国風土記編輯御用掛が組織され、阿波国の地誌の編纂を始めたが、明治5年の廃藩により解散した。

 淡路国風土記逸文は「萬葉集註釈」に見ることができる。天台宗の学問僧で万葉集を註釈した仙覚律師(1203年に常陸国生れ)著であるので「仙覚抄」とも云い、1269年に完成。
 仙覚は万葉集のほか散逸した風土記を引用しているので、風土記逸文の資料としても参考になる。

 萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記に曰はく、奈佐の浦。奈佐と云ふ由は、その浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。」
 (奴国の奴も波のことでしょうかね。奈良の奈も・・・)
 奈佐の場所は徳島県海部郡海部町鞆浦の那佐湾か。播磨国風土記に、17代履中天皇が阿波国の和那散(わなさ)へ行った時にシジミを食べたとある。
 島根県松江市宍道町上来待和名佐に和奈佐神社(祭神は阿波枳閇和奈佐比古命、あわきへわなさひこのみこと)が鎮座しているが、海部氏関連で出雲と阿波は繋がっているようだ。

 萬葉集註釈 巻第七 「阿波国風土記に曰はく、勝間井の冷水(しみず)。此より出づ。勝間井と名づくる故は、昔、倭健(やまとたける)の天皇命(すめらみこと)、乃ち(すなはち)、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れまたひしに依りて、勝間と云ふ。粟人は櫛笥(櫛箱)をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。
 今でも徳島市国府町観音寺に「勝間の井」があり、義経伝説では「舌洗いの池」と云われる。

 萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記の如くは、天(そら)より降り下りたる山の大きなるは、阿波国に降り下りたるを、アマノモト山と云ふ、その山の砕けて大和国に降りつきたるを、天香具山と云ふ。
 これにより郷土史家は阿波国が大和国の本(もと)の国だと主張している。
[PR]
# by enki-eden | 2016-09-15 00:47