古代史探訪

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鴨都波神社

奈良県御所市宮前町513番地   大和葛城 鴨大明神
 主祭神: 積羽八重事代主命(つみはやえことしろぬしのみこと)
       下照比売命(したてるひめのみこと)
  配神: 建御名方命(たけみなかたのみこと)
       大物主櫛甕玉命(おおものぬしくしみかたまのみこと)

 祭神の事代主命は神を祀り、神託を伝える「かんなぎ」であったと思われる。大国主命が天孫族から国譲りを迫られたときに、子の事代主命の神託によって国譲りの最終判断をしたものと思われる。
 下照比売命は大国主命と多紀理比売の娘で、阿治志貴高日子根の妹。天稚彦と結婚する。大国主命と神屋楯姫の子が事代主命と高照姫。祭神の下照比売は、高照姫と名前が似ているために混同されたとする説もある。本来の祭神は事代主命の妹の高照姫であったかもしれない。

 神社は24号線に接していますが、進入口の道路は狭く曲がりくねっており、参拝に行かれる方はお気をつけください。

 神社由緒によると、10代崇神天皇のとき、大国主命第11世太田田根子の孫、大賀茂都美命の勅を奉りて葛城邑加茂の地に奉斎されたのが始めとされている。葛城加茂社、下津加茂社とも称され全国の加茂(鴨)社の根源である。
 事代主神は元来「鴨族」が信仰していた神であり、大神神社(奈良県桜井市)に祀られる大国主命の子であることから、鴨都波神社は「大神神社の別宮」とも称される。当地が葛城川と柳田川の合流地点で水に恵まれていたことから、もともと「水の神」を祀っていたものとする説もある。
 また、神社の一帯は「鴨都波遺跡」という弥生中期の遺跡で、鴨族がこの地で農耕生活を営んでいたことがわかる。当初、鴨族は「高鴨神社」付近を本拠としていたが、農耕に適した現在地に本拠を移し、大きな集落を形成した。彼らは優れた能力を発揮して朝廷から厚遇された。一般的には「えべっさん」「えびす神」という呼称で、商売繁盛の神様としても有名です。

 多くの歴史学者・研究家が「神話と歴史を混ぜてはいけない。神話は神話として研究するのは良いが、歴史とは切り離して研究しなければいけない。」と言われますが、本当にそうなんでしょうか? 私は神話を歴史にまで引き上げて、考古学・神社伝承学・各地の伝承・古墳などと検証しながら真実に迫ろうとする姿勢は、それほど荒唐無稽な事ではないと思うのですがねぇ…
 大国主の国譲りが歴史的事実だと仮定して、それはいつごろの事だと皆さんは考えられますか? 私は今の所、紀元200年頃と推定しています。多くの資料から類推して大国主は160年頃出生、220年頃に亡くなった人物で、その偉業により神にまで昇華され日本中の神社に祀られていると思っています。
 大国主は国譲りのあと出雲に隠遁し、大和に住み着いていた出雲族が三輪山に大国主(大穴持)を祀ったのではないでしょうか。その後大和にやってきた神武天皇によって三種の神器による祭祀が行われ、それまで出雲族が行っていた銅鐸による祭祀は滅んでいったのでしょう。銅鐸は紀元前200年頃から紀元200年頃まで全国で祭祀に使われていたと思われます。銅鐸の埋納も国譲りの一環でしょうか。
 大和に東征した神武天皇の橿原における即位は記紀に辛酉年とありますから、それであれば紀元174年か234年の事かと思いますが、記紀の史官が辛卯を辛酉と誤認したとすれば211年になります。私は神武即位は211年頃と考えています。
 大和朝廷が奈良盆地全体を掌握し各地に遠征するまでになるのには、9代開化天皇までを要し、10代祟神天皇が大々的に各地を支配するようになりました。祟神天皇の在位は294年頃から318年頃と推定しています。それまでの天皇(大王)は高皇産霊神を祀っていましたが、祟神天皇は天照大神を祀りました。これは王族の入れ替え、あるいは皇室への入り婿があった可能性が考えられます。
 祟神天皇が新しく天照大神を祀ったために諸豪族の大きな反発を受けて、結局天照大神は宮殿の外に出て、各地を遍歴した後に伊勢の海人族に受け入れられたのでしょうか。
 大和で銅鐸を製造し使用していたのは饒速日一族や出雲族、海人族が中心だったと思われますが、銅鐸使用をやめて前方後円墳が出現する古墳時代になると、これも中心勢力の物部氏が古墳の形に銅鐸の形を密かに滑り込ませたのではないでしょうか。私には前方後円墳の前方部が銅鐸に見えますが、この賛同者は極めて少数です。私は壷、子宮(再生)の可能性も考えています。
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by enki-eden | 2012-12-19 10:27