古代史探訪

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ホケノ山古墳

 奈良県桜井市の169号線を東に入り、箸墓古墳の南側を東進し、更に細い道路をくねくねと進むとホケノ山古墳に着きます。箸墓からは200mほどですが最後の曲がり角が非常に狭く右は川、左は民家の塀で車が曲がるのにギリギリです。やっと曲がると駐車場にたどり着きます。

 細い道路から直ぐに前方部に繋がっており、苦労もなく墳頂に登れます。御所市室の宮山古墳に登った時は大きくて大変だったことを思い出しました。
 ホケノ山古墳は全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mの、前方部を三輪山に向けてつくられた前方後円墳です。墳頂からすぐ西に箸墓古墳が見えます。直ぐ麓にも小さな古墳が見えます。
 墳丘の表面には葺石があり、周濠を巡らしていますが、現在では南方に池があるだけです。前方部裾には、葺石を一部破壊して設けられた埋葬施設があります。
 後円部には石囲いの中に木槨を造った二重構造の槨があり、木槨内に高野槇製のくり抜き木棺があったと推定されています。魏志倭人伝に「倭国の墓には棺あって槨なし」と記されていますが、卑弥呼が亡くなった頃にホケノ山古墳が造られたと考えられる事から、倭国・邪馬台国は大和ではなく北部九州であった証拠の一つになるのでは? 
 邪馬台国近畿説の皆様には少し不利かな?
 2010年11月16日撮影
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 遺物は後漢鏡とみられる画文帯神獣鏡1枚(直径19cm)と破片、内行花文鏡の破片、素環頭大刀を含む鉄剣類約10本、庄内式土器約20個と大量の銅鏃、鉄鏃など。棺内に大量の水銀朱も残っていた。壷は石壇の上に一定間隔で並べられていたとみられる。
 大きなな木棺、画文帯神獣鏡や水銀朱など、箸墓古墳以降の前方後円墳につながる要素もあり、調査委は「弥生墳墓と前期前方後円墳の中間的なもの」と結論づけた。銅鏡は鋳上がりがよく文様もはっきりしているため、後漢末に作られたとみられる。
 画文帯神獣鏡が後漢末に作られ、日本にもたらされ副葬されたとみられることと、出土土器がすべて弥生時代後期に属することなどから、築造年代を3世紀半ば(卑弥呼が亡くなった頃)とされている。当時は筑紫、出雲、吉備、但馬、播磨、河内、大和、東国などに国があり、集落があり、市があり、列島レベルで交易がなされていたと考えられます。
 その中で1世紀の北部九州30カ国ほどを取りまとめる代表の奴国が「漢委奴国王」として交易のリーダーであったのでしょう。その後、2世紀には奴国王は倭王として認められるまでに成長し、奴国王族の卑弥呼が女王となり魏に朝貢して親魏倭王印を授かった。そのために卑弥呼は先祖伝来の宝物・漢委奴国王印を聖地・志賀島に埋納したと私は考えています。
 親魏倭王印は二代目女王臺與が引き継いで、魏が滅んだ時(265年)に臺與の本拠地の聖地に埋納したことでしょう。しかし、臺與が266年に晋に朝貢しましたが、満足の行く待遇ではなかったと私は考えています。金印授与もなかったことでしょう。やがて大陸では内乱が続き、交易できる状態ではなくなりました。列島支配を進めるためには筑紫よりも大和が適地であったので、臺與は大和に東遷した可能性もあると私は考えています。記紀にはそんな話はありませんから、これからの考古学的発掘に頼るしかありませんけどね… 
 臺與が仮に東遷したのであれば、宝物の金印を埋納すべき大和の聖地は、三輪山になるでしょうね。大神神社に記録がありませんかねぇ。
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by enki-eden | 2012-12-21 13:50