2013年 02月 03日
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)
紀伊国一之宮
和歌山市伊太祈曽558 073-478-0006 無料駐車場あります
祭神: 五十猛命(いたけるのみこと、いそたけるのみこと)
配祀: 大屋都比売神、都麻都比売神
伊太祁曽神社が現在の社地に鎮座する前には、日前宮(にちぜんぐう)の社地にお祀りされていました。 日前宮が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したと社伝にあります。
「寛永記」には「伊太祁曽明神ハ和銅六年十月初亥ノ日当所に遷リ給フ」と記されていますので、現在の社地への鎮座は和銅6年(西暦713年)のようです。秋月に祀られていた伊太祁曽神社は日前宮の遷座によって山東(さんどう)に遷り、社殿を造営して和銅6年に現在の地にご鎮座となりました。
日本書紀の一書(第五)によりますと、素戔嗚尊が杉と樟は船、檜は宮、槙は棺を造るのに良いとしました。素戔嗚の子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売の三人が木種を播いて林業を発展させたので、五十猛神は「紀伊に坐す大神」と賞賛されています。
日本書紀の中に、素戔嗚が「わが子(五十猛命)の治める(倭)国」とあります。素戔嗚の後を継いだ第二子・五十猛が倭国の王であるという伝承が7世紀末から8世紀初めの日本書紀編纂時にあったわけです。北部九州の「漢委奴国王 57年」、「倭王帥升 107年」、「親魏倭王 239年」は筑紫の王ですが、素戔嗚とそれに続く五十猛は列島の広範囲の地域を纏める王です。
筑前国志摩郡には五十猛神を祀る神社がたくさんあります。五十猛は若い頃には北部九州の西半分を治めていたと考えられます。名前にもイソ(磯)がついていますね。当時は志摩国と伊都国の間は細い海(磯)だったようです。伊都の語源も磯の可能性が高いです。現在は志摩と伊都の両方併せて糸島市になっています。
紀伊国は木の国であり、海人の国でした。船の材料としての木材の集散地であった紀ノ川河口の近くに秋月(現在の日前宮の地)があります。当初はそこに伊太祈曽神社が祀られていました。
兵器、造船、耕地の開拓や治水の道具に鉄を使いますので、製鉄のための木が必要です。このため木の栽培に適している湿潤な紀伊が選ばれました。和歌山の木炭生産は戦前まで盛んでした。紀州備長炭は和歌山県の田辺市やみなべ町、日高川町を中心として年間約1700トンが生産されています。五十猛は木(紀伊)の神であり、素戔嗚も木の神、鉄の神です。
鳥居
社務所
少し高いところに大きな門
拝殿は中央に五十猛、左脇宮拝殿(向かって右)に大屋津比売、右脇宮拝殿に
都麻津比売、三人とも素戔嗚の子で、紀伊に樹木の種を播いたので木の神として
信仰されています。神社の神紋は「丸に太」です。
本殿には十六弁菊花紋がついています。
伊勢神宮遥拝所
東方向に伊勢神宮があります。私もここからお伊勢さんを拝みました。
その右にある神木「梛の木(なぎのき)」。葉の丈夫さから「家内安全・夫婦円満」、
「魔除け」の霊力があるといわれます。その名が「凪(なぎ)」に通じるので船乗りの
信仰も篤い樹木です。イザナギもこの木と関係あるのでしょうか。
多くの神に追われて木の国に逃れた大国主神は大屋毘古神(五十猛)の助言により
木俣をくぐり、難を逃れます。
この神話に基づき、多くの参拝者がくぐって行くようになりました。私もくぐりました。
拝殿横の猿の顔のような「霊石おさる石」は首より上の病に霊験があると言われて
います。私は12年前にクモ膜下出血で手術をしましたので、手を当てて脳卒中に
ならないようにお願いしました。
境内の祇園神社(主祭神は五十猛の父・素戔嗚)
境内の御井社。祭神は御井神、彌都波能売神(みずはのめのかみ)
境内山中より湧く水は、いのちの水と呼ばれています。今でも遠方より汲みに
来られます。
御井社は素戔嗚・五十猛・久留米の御井と繋がるのでは?
伊太祁曽神社の鳥居前にときわ山古墳があります。
直径16mの円墳で奈良時代初期の横穴式石室があります。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp
和歌山市伊太祈曽558 073-478-0006 無料駐車場あります
祭神: 五十猛命(いたけるのみこと、いそたけるのみこと)
配祀: 大屋都比売神、都麻都比売神
伊太祁曽神社が現在の社地に鎮座する前には、日前宮(にちぜんぐう)の社地にお祀りされていました。 日前宮が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したと社伝にあります。
「寛永記」には「伊太祁曽明神ハ和銅六年十月初亥ノ日当所に遷リ給フ」と記されていますので、現在の社地への鎮座は和銅6年(西暦713年)のようです。秋月に祀られていた伊太祁曽神社は日前宮の遷座によって山東(さんどう)に遷り、社殿を造営して和銅6年に現在の地にご鎮座となりました。
日本書紀の一書(第五)によりますと、素戔嗚尊が杉と樟は船、檜は宮、槙は棺を造るのに良いとしました。素戔嗚の子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売の三人が木種を播いて林業を発展させたので、五十猛神は「紀伊に坐す大神」と賞賛されています。
日本書紀の中に、素戔嗚が「わが子(五十猛命)の治める(倭)国」とあります。素戔嗚の後を継いだ第二子・五十猛が倭国の王であるという伝承が7世紀末から8世紀初めの日本書紀編纂時にあったわけです。北部九州の「漢委奴国王 57年」、「倭王帥升 107年」、「親魏倭王 239年」は筑紫の王ですが、素戔嗚とそれに続く五十猛は列島の広範囲の地域を纏める王です。
筑前国志摩郡には五十猛神を祀る神社がたくさんあります。五十猛は若い頃には北部九州の西半分を治めていたと考えられます。名前にもイソ(磯)がついていますね。当時は志摩国と伊都国の間は細い海(磯)だったようです。伊都の語源も磯の可能性が高いです。現在は志摩と伊都の両方併せて糸島市になっています。
紀伊国は木の国であり、海人の国でした。船の材料としての木材の集散地であった紀ノ川河口の近くに秋月(現在の日前宮の地)があります。当初はそこに伊太祈曽神社が祀られていました。
兵器、造船、耕地の開拓や治水の道具に鉄を使いますので、製鉄のための木が必要です。このため木の栽培に適している湿潤な紀伊が選ばれました。和歌山の木炭生産は戦前まで盛んでした。紀州備長炭は和歌山県の田辺市やみなべ町、日高川町を中心として年間約1700トンが生産されています。五十猛は木(紀伊)の神であり、素戔嗚も木の神、鉄の神です。
鳥居
社務所
少し高いところに大きな門
拝殿は中央に五十猛、左脇宮拝殿(向かって右)に大屋津比売、右脇宮拝殿に
都麻津比売、三人とも素戔嗚の子で、紀伊に樹木の種を播いたので木の神として
信仰されています。神社の神紋は「丸に太」です。
本殿には十六弁菊花紋がついています。
伊勢神宮遥拝所
東方向に伊勢神宮があります。私もここからお伊勢さんを拝みました。
その右にある神木「梛の木(なぎのき)」。葉の丈夫さから「家内安全・夫婦円満」、
「魔除け」の霊力があるといわれます。その名が「凪(なぎ)」に通じるので船乗りの
信仰も篤い樹木です。イザナギもこの木と関係あるのでしょうか。
多くの神に追われて木の国に逃れた大国主神は大屋毘古神(五十猛)の助言により
木俣をくぐり、難を逃れます。
この神話に基づき、多くの参拝者がくぐって行くようになりました。私もくぐりました。
拝殿横の猿の顔のような「霊石おさる石」は首より上の病に霊験があると言われて
います。私は12年前にクモ膜下出血で手術をしましたので、手を当てて脳卒中に
ならないようにお願いしました。
境内の祇園神社(主祭神は五十猛の父・素戔嗚)
境内の御井社。祭神は御井神、彌都波能売神(みずはのめのかみ)
境内山中より湧く水は、いのちの水と呼ばれています。今でも遠方より汲みに
来られます。
御井社は素戔嗚・五十猛・久留米の御井と繋がるのでは?
伊太祁曽神社の鳥居前にときわ山古墳があります。
直径16mの円墳で奈良時代初期の横穴式石室があります。
by enki-eden
| 2013-02-03 11:37