2013年 03月 15日
大和神社(おおやまとじんじゃ)
奈良県天理市新泉町306 電: 0743-66-0044 無料駐車場あります。
創建: 崇神天皇12年(3世紀終わり頃~4世紀初め頃)
春日造りの本殿
祭神: (中央) 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)
(向って右) 八千戈大神(やちほこのおおかみ)
(向って左) 御年大神(みとしのおおかみ)
神社の由緒によりますと、
日本大国魂大神は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命に倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。
奈良時代、朝廷の命により、唐の国へ渡って学ぶ遣唐使、その他使臣は、出発に際して、当社へ参詣し、交通安全を祈願された。
また、世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神とされた。同艦も、昭和20年4月7日、沖縄南方にて轟沈した。その英霊、第二艦隊司令長官伊藤整一命外、2,736柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。
大和朝廷の崇敬を受け、伊勢神宮に次ぐ広大な社領があったが、平安遷都などにより衰退し、中世には社領を全て失った。しかし、境内は深い森に包まれ、広くて大きな古社です。
日本大国魂大神は饒速日でしょうか。大歳神(饒速日)と伊怒比売(出雲)の子に大国御魂がいますが、これが日本大国魂大神であるという説もあります。八千戈大神は大国主、御年大神は大歳神(饒速日)と香用比売(かぐよひめ)の子です。
大和の国は素戔嗚系・出雲系の人で成り立っていました。10代祟神天皇が天照大神を祀ったので騒乱が起きたと考えられます。倭大国魂神は宮中から出て、市磯長尾市(いちしのながおち)が祀り、大和神社(おおやまとじんじゃ)になります。天照大神は宮中から出て、各地を遷座して11代垂仁天皇の時代に伊勢に落ち着き、伊勢神宮となります。
更に祟神天皇は倭迹迹日百襲姫の神託により、大田田根子に大物主神を祀らせ、大神神社(おおみわじんじゃ)となります。これで大和の騒乱・疫病などは治まりました。
当初、大和神社は東方の山麓に祀られていたようですが、後に現在の地に移されたとされています。また、当社の祭神の分霊が戦艦大和の艦内で祀られていました。
大和神社境内に星塚古墳があります。参道入り口の横にも馬口山古墳があります。大和神社の東南1kmの神社所有地内にも中山大塚古墳があり、そこに大和神社の境外末社「御座所坐神社」(別称:大和稚宮神社)が鎮座、大和神社の御旅所になっています。その横にある歯定神社(はじょうじんじゃ)も大和神社境外末社で御祭神は大己貴神と少彦名神です。
これらの古墳は倭大国魂神に関係ある豪族の墳墓でしょうか? いずれも禁足地にはなっていません。天理市は遺跡などの発掘が進んでいませんので、これから力を入れて欲しいです。纏向遺跡は桜井市にありますが、北隣りの天理市にまで続いている可能性が高いですから、尚更発掘を進めて欲しいですね。
天理市一帯は大和神社をはじめとして物部氏の一大拠点だったのでしょう。祟神天皇のときに物部氏の伊香色雄が「石上大神」として祀った石上神宮(いそのかみじんぐう)も天理市布留町384に鎮座します。
創建: 崇神天皇12年(3世紀終わり頃~4世紀初め頃)
春日造りの本殿
祭神: (中央) 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)
(向って右) 八千戈大神(やちほこのおおかみ)
(向って左) 御年大神(みとしのおおかみ)
神社の由緒によりますと、
日本大国魂大神は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命に倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。
奈良時代、朝廷の命により、唐の国へ渡って学ぶ遣唐使、その他使臣は、出発に際して、当社へ参詣し、交通安全を祈願された。
また、世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神とされた。同艦も、昭和20年4月7日、沖縄南方にて轟沈した。その英霊、第二艦隊司令長官伊藤整一命外、2,736柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。
大和朝廷の崇敬を受け、伊勢神宮に次ぐ広大な社領があったが、平安遷都などにより衰退し、中世には社領を全て失った。しかし、境内は深い森に包まれ、広くて大きな古社です。
日本大国魂大神は饒速日でしょうか。大歳神(饒速日)と伊怒比売(出雲)の子に大国御魂がいますが、これが日本大国魂大神であるという説もあります。八千戈大神は大国主、御年大神は大歳神(饒速日)と香用比売(かぐよひめ)の子です。
大和の国は素戔嗚系・出雲系の人で成り立っていました。10代祟神天皇が天照大神を祀ったので騒乱が起きたと考えられます。倭大国魂神は宮中から出て、市磯長尾市(いちしのながおち)が祀り、大和神社(おおやまとじんじゃ)になります。天照大神は宮中から出て、各地を遷座して11代垂仁天皇の時代に伊勢に落ち着き、伊勢神宮となります。
更に祟神天皇は倭迹迹日百襲姫の神託により、大田田根子に大物主神を祀らせ、大神神社(おおみわじんじゃ)となります。これで大和の騒乱・疫病などは治まりました。
当初、大和神社は東方の山麓に祀られていたようですが、後に現在の地に移されたとされています。また、当社の祭神の分霊が戦艦大和の艦内で祀られていました。
大和神社境内に星塚古墳があります。参道入り口の横にも馬口山古墳があります。大和神社の東南1kmの神社所有地内にも中山大塚古墳があり、そこに大和神社の境外末社「御座所坐神社」(別称:大和稚宮神社)が鎮座、大和神社の御旅所になっています。その横にある歯定神社(はじょうじんじゃ)も大和神社境外末社で御祭神は大己貴神と少彦名神です。
これらの古墳は倭大国魂神に関係ある豪族の墳墓でしょうか? いずれも禁足地にはなっていません。天理市は遺跡などの発掘が進んでいませんので、これから力を入れて欲しいです。纏向遺跡は桜井市にありますが、北隣りの天理市にまで続いている可能性が高いですから、尚更発掘を進めて欲しいですね。
天理市一帯は大和神社をはじめとして物部氏の一大拠点だったのでしょう。祟神天皇のときに物部氏の伊香色雄が「石上大神」として祀った石上神宮(いそのかみじんぐう)も天理市布留町384に鎮座します。
by enki-eden
| 2013-03-15 02:00