古代史探訪

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伊都国を掘る

 昨年の10月13日に兵庫県立考古博物館で講演会があり、福岡県糸島市教育委員会文化課の角(すみ)浩行氏が「伊都国を掘る」という題で講演されました。

 伊都国の範囲は糸島市と福岡市西区の一部で、伊都国には代々王が存在しました。
 伊都国は帯方郡使が常駐した所で、対外交流の拠点。中国製や朝鮮半島製の遺物が大量に出土しています。また、一大率(いちだいそつ)が置かれていました。
 弥生時代後期から古墳時代前期の伊都国の都は三雲・井原(いわら)地区で、住居跡・墓地・王墓・館などが存在しました。
 玉造工場は潤地頭給遺跡(うるうじとうきゅういせき)にあり、九州最大規模の工房だった。また、2世紀末の井戸枠に転用された準構造船の部材が発見されました。準構造船は外交・交易用に必要でした。

① 三雲南小路(みくもみなみしょうじ)王墓
 前原市(現糸島市)が発掘調査、規模は1辺約30mの方形墳丘墓で周りに溝がめぐる。中央付近より甕棺2基を発見。出土品は前漢鏡57面以上、ガラス璧、金銅四葉座飾金具、銅剣、勾玉など。時代は約2,000年前の弥生時代中期後半。

②井原鑓溝(いわらやりみぞ)王墓
 江戸時代の発掘記録によると、出土品は後漢鏡20面以上、 巴形銅器、刀剣、甲冑のようなもの。(全て現存しない。)

③平原(ひらばる)王墓
 1965年に発見され、原田大六氏・大神邦博氏により発掘調査が行われた。1988年からは前原市(現糸島市)教育委員会により発掘調査が行われた。
 1号墳(王墓)は14×12mの長方形の墳丘墓で周りに溝がめぐる。中央付近より木棺1基を発見。出土品は最大の銅鏡5面を含め40面、素環頭大刀、ガラス勾玉、ガラス管玉、ガラス耳璫(みみだま)など。時代は約1,800年前の弥生時代後期後半。1982年に国の史跡になり、出土品は2006年に国宝に指定される。

 伊都国の港は御床松原遺跡(赤のアイコン)と深江井牟田遺跡(黄のアイコン)
 平原遺跡(青のアイコン)、日向峠(ひなたとうげ、緑のアイコン)、 
 細石神社(紫のアイコン)、潤地頭給遺跡(黒のアイコン)
 糸島市は地形がドラゴンに似ているので、糸島市のイメージキャラクターは
 「いとゴン」になったと角氏の説明がありました。

              いとゴン
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         平原遺跡の発掘図(ちょっと見にくいですね)
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 平原遺跡(ひらばるいせき)は福岡県糸島市(旧前原市 まえばる)有田にある平原歴史公園内の遺跡で、弥生時代後期の遺跡です。1965年1月、地元の農家がミカンの木の作業中に、多数の銅鏡の破片を発見しました。報告を受けた福岡県は、原田大六氏(1917年~1985年、考古学者)を調査主任として遺跡の調査、発掘が行われました。途中から原田大六氏の私費による発掘調査となります。
 遺跡は方形周溝墓3基と、円形周溝墓2基で構成され曽根遺跡群に属しています。原田大六氏は出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を「八咫の鏡」と判断、伊勢神宮の八咫鏡も同型の鏡ではないかとしています。
 その他の副葬品は勾玉や管玉などの装飾品で武器類が少ないため、埋葬者は女性だそうです。この墓は魏志倭人伝に記された伊都国王(女王)の墓ではないかとみられています。原田大六氏はこの主を「玉依姫」とし、「大日孁貴(天照大神)」としています。著書「実在した神話 発掘された平原弥生古墳」の中で5面の内行花文鏡は八咫鏡であると言っています。
 これには異論があって、「歴史や考古学と神話を混同してはいけない、卑弥呼は天照大神ではない、神は墓を持たない、神話と考古学の混同は皇国史観に回帰する道である。」などと言われますが、そうでしょうかねぇ?
 私は様々な分野の研究を総合的に判断する事が大切であると考えています。戦後は皇国史観を拒絶するあまり歴史の真実から乖離してしまった津田左右吉氏(1873~1961年)の影響が大きいのです。考古学と神話の接点を研究すれば、真実に近づくことはあっても皇国史観が復活する事はありません。津田氏のファンの皆様、ご容赦くださいね!
 平原遺跡の1号墓出土品は2006年、全て国宝に指定されており、伊都国歴史博物館に保管されています。2号墓は周囲に溝を巡らせた円形墓で、1号墓と接するように造られており、周溝の一部を共有しています。内部には割竹形木棺が東西方向に埋葬されていました。弥生時代末から古墳時代初めに造られたものだそうです。前漢鏡2枚と破片が出土しています。
 大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)5面は仿製鏡で、直径46.5cm、重さ8kgの超大型鏡です。女王が毎朝、日向峠(ひなたとうげ)から昇る日の出を拝み、大型鏡で太陽を反射して太陽神を崇めていたのでしょう。女王没後は西枕にして埋葬し、脚を少し開いて日の出の方に向け、太陽神との交わりをイメージしたのでしょう。森浩一先生によりますと、内行花文は花ではなく太陽を象徴していると言われています。
 私は皇室の16弁菊花紋も菊ではなく太陽の紋であると考えています。中近東の王族の紋は太陽を象徴しており、形は16弁菊花紋と同じだからです。この紋の列島への招来者は素戔嗚か秦氏か分かりませんが、西アジアからきた紋だと思います。
 平原歴史公園の1.5km南東に細石神社(さざれいしじんじゃ)があります。漢委奴国王の金印は元々細石神社にあったという伝承があり、瑞梅寺川の周辺です。金印と王墓は繋がりがありそうですね。
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by enki-eden | 2013-03-20 01:30