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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)

 4月5日付けの「平城京内の古墳と埴輪」で、710年に平城京造営の際、数基の古墳を平らに均(なら)したと記しましたが、奈良市佐紀町及び周辺は4世紀から5世紀の王家の墓地だったようです。
 「奈良」の語源に定説はありませんが、古墳を均(なら)したというのも一説かもしれません。もっと広い範囲で見ると、古代の大和湖の水が引いて平らに均(なら)された盆地になったというのも一説にあります。他にもありますが、いずれも根拠のある説ではないと思います。
  青丹(あおに)よし 寧樂(なら)の都は 咲く花の 薫(にお)うがごとく いま盛りなり
                     小野老(おののおゆ、738年頃没) 万葉集

 佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)は、奈良市北西部の佐紀町及びその周辺にあり、古墳時代初期には曾布県主(そふのあがたぬし)が治め、朝廷の直轄地でした。古墳時代の大和朝廷の王墓を多く含む古墳群になっています。各古墳の周濠の形が盾の形をしており、ずらっとたくさん並んでいることから盾列(たてなみ)と呼ばれました。西の神功皇后陵から東のウワナベ古墳までです。
 五社神古墳(ごさしこふん、神功皇后陵、276m)、佐紀石塚山古墳(13代成務天皇陵、220m)、佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん、11代垂仁天皇皇后日葉酢媛陵、210m)、佐紀高塚古墳(48代称徳天皇陵、127m)、佐紀瓢箪山古墳(96m)、市庭古墳(51代平城天皇陵、250m)、ヒシアゲ古墳(16代仁徳天皇皇后磐之媛陵、218m)、
塩塚古墳(105m)、コナベ古墳(204m)、ウワナベ古墳(265m)などがあります。
   
 

    神功皇后陵遥拝所(狭城楯列池上陵、五社神古墳)
神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)_d0287413_1204355.jpg

     神功皇后陵の東の濠から望む
神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)_d0287413_121891.jpg

     神功皇后陵の南に山陵八幡神社が鎮座、拝殿に祭神名が掲げられています。
神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)_d0287413_12129100.jpg

     鳥居
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     拝殿
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     本殿
神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)_d0287413_1221951.jpg

     本殿横の遥拝所
神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)_d0287413_1223288.jpg

     八幡神社の東隣にお稲荷さんの福松神社が鎮座
神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)_d0287413_1224459.jpg

     13代成務天皇陵(狭城盾列池後陵、佐紀石塚山古墳)
神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)_d0287413_123452.jpg

     11代垂仁天皇皇后日葉酢媛陵(ウグイスが元気な声で鳴いていました)
神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)_d0287413_1231834.jpg

     48代称徳天皇陵(佐紀高塚古墳)
      (46代孝謙天皇が重祚、45代聖武天皇の皇女、718年~770年)
神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)_d0287413_1233438.jpg

 神功皇后は14代仲哀天皇の皇后で、日本書紀には気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、古事記には息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)と記されています。
 神功皇后の父は息長宿禰王、母は葛城高額媛です。系図は父方が9代開化天皇-
彦坐王-山代之大筒木眞若王-迦邇米雷王-息長宿禰王です。
 母方が、天日矛-多遅摩母呂須玖-多遅摩斐泥―多遅摩比那良岐―多遅摩比多訶-葛城高額媛です。
 大臣は武内宿禰、将軍は難波根子建振熊(和珥氏)で、私見ですが仲哀天皇は362年頃に筑紫香椎宮で崩御、神功皇后は363年頃に新羅遠征、帰国後に神功皇后は筑紫で皇子を出産(15代応神天皇)、大和に戻って仲哀天皇妃の大仲津姫の皇子である香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)と戦争になり神功皇后軍の勝利となりました。
 神功皇后の宮は大和磐余(いわれ)の稚桜宮(わかざくらのみや)です。また、気長足姫は住吉大社と密接な関係にあります。祭神の底筒男命、中筒男命、表筒男命は合わせて住吉三神と呼ばれていますが、それに神功皇后を合わせて住吉大神と総称されています。住吉大神は河内王朝の守護神であり海の神です。応神天皇の八幡神は陸の神です。
 日本書紀の神功皇后39年から43年の条に、魏志倭人伝の倭王(卑弥呼)について触れています。これは、神功皇后が卑弥呼だと言っているのではなく、3世紀の卑弥呼の伝承は抹殺して4世紀の神功皇后伝承のなかに組み入れましたよという暗示だと思います。
 聖徳太子が607年に隋に国書を送って以来、日本は中国と対等の関係を主張してきましたが、記紀が成立した頃の8世紀の大和朝廷は国家意識がすこぶる高揚し、魏に朝貢した卑弥呼が天皇家の先祖であることは隠したかったのでしょう。
 それで、卑弥呼は大和朝廷とは関係ないことにし、しかし事実は後世に伝えなければいけませんから神功皇后伝承に包含し、記紀には神世の天照大神として残したのだと私は考えています。
 卑弥呼は200年頃に女王となり、247年頃に亡くなりましたので、非常に長期間ですから伝承は多いはずです。しかし伝承が多いのは神功皇后ですから、4世紀の伝承は神功皇后、3世紀の伝承と思われるものは卑弥呼のものだと私は考えています。
 私見ですが、卑弥呼の生没年は175年~247年頃、臺與は235年~295年頃、神功皇后は330年~389年頃と見ています。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2013-04-08 12:11