2013年 05月 28日
茅原大墓(ちはらおおはか)古墳
奈良県桜井市茅原(ちわら)722
4世紀末から5世紀初めに築造された帆立貝式前方後円墳で、全長86m、高さ8m、後円部は径72mの3段、前方部は2段になっています。1982年に国史跡に指定されました。
2011年2月、桜井市教育委員会は茅原大墓古墳から国内最古の人物埴輪が出土したと発表しました。2012年2月には、前方部の角で墳丘と外堤を結ぶ渡り堤が確認されたと発表しました。
地元では倭佐保姫陵として伝えられています。被葬者は三輪山麓の豪族か、箸墓古墳の倭迹迹日百襲姫の子孫かもしれません。
ここには駐車場がありませんし道路が狭いですから、ホケノ山古墳の駐車場に車を停めて歩いて行きました。約550mの徒歩です。
北側に前方部の張り出し、東側は民家が一部食い込んでいます。
北側から撮影(画面右に大神神社の大鳥居が見えます。)
桜井市教育委員会の説明板
墳頂に登り、東に三輪山を望む。
西南に耳成山と畝傍山を望む。その向こうは葛城山と金剛山。
斜面には葺石があり、壷形埴輪、円筒埴輪列、盾持人埴輪(たてもちびとはにわ、古墳を守る武人、高さ67cm以上、幅50cm)、水鳥形埴輪、埴輪棺(前方部で出土)などが出土しています。盾持人埴輪は、墳丘東側のくびれ部付近で出土しました。
桜井市教育委員会によると、『茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部で3世紀代から続く大型古墳の系列の最後に位置付けられます。この地域では、それ以前は200m以上の巨大前方後円墳が築造されてきましたが、4世紀後半以降になるとそうした巨大古墳は築造されなくなり、かわって奈良盆地北部や河内地域において集中して築造されるようになります。
これは当時の政権内における勢力変動を反映しているとされており、この時期になると奈良盆地東南部の勢力は衰退し、盆地北部や河内地域を根拠とする勢力がより強大になったと考えることができます。
帆立貝式古墳とよばれる古墳の形態は、茅原大墓古墳と同じ4世紀末頃より多く見られるようになりますが、これは前方後円墳を築造することが規制された結果、創出されたものという考え方があります。』と説明しています。
纒向古墳群では3世紀前半に帆立貝式前方後円墳が出現しましたが、その後も各地で造り続けられています。3世紀後半、10代祟神天皇の時代に大型の定形式前方後円墳が築造され古墳時代に入っていきますが、それ以前に大和に定着していた地元の豪族が帆立貝式に固執したのか、或いは身分規制により大型の前方後円墳を造れなかったのかもしれません。
古墳から350mほど南へ行くと道路の西側に富士神社・厳島神社が鎮座、道路の東側に神御前神社(かみのごぜんじんじゃ)が鎮座しています。
4世紀末から5世紀初めに築造された帆立貝式前方後円墳で、全長86m、高さ8m、後円部は径72mの3段、前方部は2段になっています。1982年に国史跡に指定されました。
2011年2月、桜井市教育委員会は茅原大墓古墳から国内最古の人物埴輪が出土したと発表しました。2012年2月には、前方部の角で墳丘と外堤を結ぶ渡り堤が確認されたと発表しました。
地元では倭佐保姫陵として伝えられています。被葬者は三輪山麓の豪族か、箸墓古墳の倭迹迹日百襲姫の子孫かもしれません。
ここには駐車場がありませんし道路が狭いですから、ホケノ山古墳の駐車場に車を停めて歩いて行きました。約550mの徒歩です。
北側に前方部の張り出し、東側は民家が一部食い込んでいます。
北側から撮影(画面右に大神神社の大鳥居が見えます。)
桜井市教育委員会の説明板
墳頂に登り、東に三輪山を望む。
西南に耳成山と畝傍山を望む。その向こうは葛城山と金剛山。
斜面には葺石があり、壷形埴輪、円筒埴輪列、盾持人埴輪(たてもちびとはにわ、古墳を守る武人、高さ67cm以上、幅50cm)、水鳥形埴輪、埴輪棺(前方部で出土)などが出土しています。盾持人埴輪は、墳丘東側のくびれ部付近で出土しました。
桜井市教育委員会によると、『茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部で3世紀代から続く大型古墳の系列の最後に位置付けられます。この地域では、それ以前は200m以上の巨大前方後円墳が築造されてきましたが、4世紀後半以降になるとそうした巨大古墳は築造されなくなり、かわって奈良盆地北部や河内地域において集中して築造されるようになります。
これは当時の政権内における勢力変動を反映しているとされており、この時期になると奈良盆地東南部の勢力は衰退し、盆地北部や河内地域を根拠とする勢力がより強大になったと考えることができます。
帆立貝式古墳とよばれる古墳の形態は、茅原大墓古墳と同じ4世紀末頃より多く見られるようになりますが、これは前方後円墳を築造することが規制された結果、創出されたものという考え方があります。』と説明しています。
纒向古墳群では3世紀前半に帆立貝式前方後円墳が出現しましたが、その後も各地で造り続けられています。3世紀後半、10代祟神天皇の時代に大型の定形式前方後円墳が築造され古墳時代に入っていきますが、それ以前に大和に定着していた地元の豪族が帆立貝式に固執したのか、或いは身分規制により大型の前方後円墳を造れなかったのかもしれません。
古墳から350mほど南へ行くと道路の西側に富士神社・厳島神社が鎮座、道路の東側に神御前神社(かみのごぜんじんじゃ)が鎮座しています。
by enki-eden
| 2013-05-28 13:41