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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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古事記・日本書紀・万葉集

 古事記(712年)と日本書紀(720年)は大和朝廷側の歴史書・伝承であり、朝廷側に不利な事や都合の悪い事はなるべく避けて記されています。あるいは粉飾して都合の良いように書かれています。
 万葉集は最終的には大伴家持(715?~785年)により759年頃に完成した和歌集です。

古事記
 40代天武天皇(?~686年)の命令で、稗田阿礼(ひえだのあれい)が旧事を研究し、太安万侶(おおのやすまろ、?~723年)が記録しました。上中下3巻に万葉仮名で書かれています。
 天皇と皇族が読む為に作られた皇室の歴史・伝承です。712年に43代元明天皇(女帝661~721年)に献上されました。元明天皇は713年、諸国に「風土記」の編纂を命じています。
 奈良県大和郡山市に稗田町があり、賣太神社(めたじんじゃ)が鎮座、祭神は稗田阿礼です。稗田阿礼は女性の名ですが、藤原不比等(659~720年)のペンネームではないかという梅原猛氏の説があります。山上憶良(660~733年?)だと云う説もあります。
 古事記は布留(ふる、饒速日)=物部=した書で、物部氏が勢いのあった時代の書であるから33代推古天皇(554年~628年)で終わっているのではないかという説があります。
 大海人皇子(おおあまのみこ、後の40代天武天皇)は、38代天智天皇(626~671年)の皇子・大友皇子(648~672年)と皇位継承をかけて672年に「壬申の乱、じんしんのらん」を起こし、大友皇子の死で勝利します。そして天皇の地位を有力豪族よりも格段に高くし、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を定めて国家統一の基盤としました。673年に天武天皇となり、自らを正当化する為に記紀の編纂を命じました。
 また、各豪族がそれぞれの祖先神を祀っていますが、皇室の祖先神を格段に高く国家の中心に据える事にしました。その為には出雲系の三輪山信仰より上位の神殿を必要とし、東国支配の根拠地でもあり、壬申の乱の時に天武天皇に味方した伊勢に最高の神殿を整えました。それが皇大神宮としての伊勢神宮です。
 これは国家神道・皇室神道への宗教改革となりますが、天武天皇亡き後も41代持統天皇(女帝645~702年)がこれを忠実に引き継ぎました。
 この新しい国家神道を祀る中臣氏・藤原氏がやがて一人勝ちしていく事になります。

日本書紀
 40代天武天皇の命令で、舎人親王(とねりしんのう、676~735年)と太安万侶(?~723年)が30巻の漢文体で編纂しました。720年に44代元正天皇(女帝680~748年)に献上しました。外国や官吏・地方豪族に向けた日本の歴史書で、古事記や各地の伝承、異伝も取り入れています。

万葉集
 万葉集の撰者は太安万侶(?~723年)で、約4,500首の歌が収められています。つまり、太安万侶は古事記、日本書紀、万葉集全部に関わっているのです。最終的に万葉集の校正・修正・整理をしたのは大伴家持(715?~785年)で759年頃に完成しました。
 歌は雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌(ばんか)の三種に分けられ、暗号・倒語が含まれています。
 5世紀初頭から8世紀半ばの歌が集められ、代表的歌人は額田王(ぬかたのおおきみ、635~715年)、柿本人麻呂(645?~709年?)、高市黒人(7世紀後半~8世紀)、山部赤人(8世紀)、山上憶良(660~733年?)、高橋虫麻呂(8世紀)、大伴旅人(665~731年)、大伴家持(718~785年)などです。
 古代天皇の代表として21代雄略天皇(在位456年-479年)の歌を巻頭に選んでいるので、奈良時代の人々においても雄略天皇は特別な天皇として意識されていたようです。しかも大伴家持の大伴家が盛んだったのは5世紀ですから、雄略天皇の歌が万葉集の最初の歌に選ばれたのかもしれません。

 雄略天皇の歌(万葉集 巻1、1番)
   籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち
   この岡に 菜摘(つ)ます子 家告(の)らせ 名告(の)らさね
   そらみつ大和の国は おしなべて 我れこそ居(お)れ 
   しきなべて 我れこそ座(ま)せ
   我れこそは 告らめ 家をも名をも

 日本書紀の暦法が雄略天皇以後とそれ以前で異なること、万葉集や日本霊異記の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、8世紀の朝廷人は雄略天皇を重要視していたと思われます。日本書紀の雄略天皇は在位23年の全ての年が記録されています。
 万葉集の配列には重要な意味が隠されており、記紀に記されていない歴史的事実を歌集を使って暗示しているようにみえます。また、敗北し抹殺された側の立場が歌を通してそれとなく暗示されているのです。
 万葉集は歌集として広まっていますが、歌集と歴史書を兼ねているのではないでしょうか。しかも歴史が「主」で歌が「従」の構造になっているように感じます。それが太安万侶や大伴家持の狙いだったのでしょうか。
 従って記紀と共に万葉集を合わせて読む事で、より真実に近づけるのではないでしょうか。万葉集は歌を文学的に理解すると同時に、その言葉の時代背景や歌の配列の仕方を歴史的な大きな事件とリンクさせて読み解けば面白いと思います。

 持統天皇の歌(万葉集 巻1 28番)
    春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 
     はるすぎて なつきたるらし しろたえの ころもほしたり あめのかぐやま

   藤原宮から天香具山を望む
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 三輪山は蛇神(龍)ですから、季節はです。アマテラスの日の神です。春(三輪山信仰)が終わって、夏(天照大神の皇室神道)がやってきた。藤原宮の東にある天香具山から太陽(日の神)が上がってくる、伊勢の方から日の神が上がってくる。
 「白妙の衣」を天女の羽衣と見立て、この天女の羽衣を奪い取ってしまえば、つまり物部の祭祀権を奪い、出雲系の神々を出雲に封印してしまえば、祭政一致で政治的にも宗教的にも天皇家の独裁が実現するわね!!!
 持統天皇は石上神宮と大神神社の古文書を没収しました。古文書には皇室の創始者は素戔嗚(すさのお)・饒速日(にぎはやひ)であると書いてあったからです。

   海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)    山行かば 草生(くさむ)す屍
   大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ   かへりみはせじ
       大伴家持

 大伴家持が越中国の国守に赴任していたときの749年、家持が詠んだ長歌「陸奥国より金を出せる詔書を賀(は)ける歌」の一節です。万葉集 巻18 4094番

梅澤恵美子著「額田王の謎」
 
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 万葉集・古文書などから独自の古代史像を構築されている梅澤恵美子氏の著書です。
 日本書紀は額田王の存在をまるで無視している。一方、万葉集における額田王はこの時代の中心人物であるかのように宮廷に深くかかわった姿が鮮やかに描かれている。この大きな食い違いは何を物語るのか。
 彼女を取り巻いた多くの人たちが怪死や暗殺などの不可解な死を遂げている。有間皇子、大津皇子、高市皇子、弓削皇子、柿本人麻呂、十市皇女などがおり、その家族や家臣まで同様の死を遂げている。
 額田王は歴史を変えるほどの魅力を持っていたと思われる。この当時は天智系と天武系の皇位継承問題を中心として豪族たちを巻き込んだ動乱の時代であった。
 この対立する両者の間を行き来した額田王を万葉歌人としてだけ捉えるよりも、政治に深くかかわり、秘密を握っていた人物として見直すと万葉集の作成意図が鮮明に浮かび上がってくる。
 持統天皇は藤原不比等と手を組んで朝廷の頂点に君臨する事に成功した。しかもそこに至るまでの手口は、父・天智天皇譲りの凶暴で陰湿なものであった。反対勢力を容赦なく弾圧し、強引に権力を私有化していく。
 万葉集では、ある事件にかかわる人物たちが一群となって配列され、前後の歌と呼応し反応しあってその人物に何が起きたかを知らせる仕組みになっている。
 また万葉集には体制側で活躍する人物の歌は少なく、反体制側にいて非業の死によって人生を終えた者が主役となっているのである。
 額田王は柿本人麻呂と同様に激動の時代の目撃者です。旧事本紀に額田の祖がニギハヤヒ大和入りの従者として記録されている。額田は物部系である。額田の本拠地は平群郡額田郷(大和郡山市額田部)である。
 天智と天武が額田王を取り合ったのは物部の女を手に入れることで立場を強くする必要があった。 587年に物部守屋が滅んだが、彼は物部の本流ではなく物部はまだ大きな力を発揮していた。
 元明天皇の710年に都を藤原京から平城京に移した。左大臣の石上朝臣麻呂(物部麻呂)は藤原京の留守役として置き去りにされる。大三輪の神と物部氏はこうして軽んじられ、祭祀権は中臣氏・藤原氏が獲得する。

額田王(635年頃~715年頃)
 額田王は鏡王と山背姫王の次女で鏡女王の妹。物部氏の出身で36代孝徳天皇(596年~654年)に仕える女官であった。
 額田王は大海人皇子(後の40代天武天皇)との間に十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけたが、668年に38代天智天皇が額田王を奪って妃とした。
 十市皇女は大友皇子(後の39代弘文天皇)の妃となり、葛野王(かどのおう)をもうける。大友皇子は壬申の乱で自決、十市皇女はその後急死する。おそらく自殺であろう。
 額田王の墳墓は野口植山城(のぐちうえやまじょう)の植山古墳という伝説があります。奈良県高市郡明日香村野口(天武・持統天皇陵の東)にあり、南北24m、東西46mの墳墓です。葛野王がここに額田王を埋葬したと言う地元の伝説があります。

 額田王の墳墓とされる山。天武持統天皇陵から東を見て撮影しました。
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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2013-06-09 00:42