古代史探訪

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摂津国の考古学

 「兵庫五国の考古学」の2回目は「摂津国の考古学」で、7月27日(土)に兵庫県立考古博物館で講演が行われました。講師は芦屋市教育委員会の竹村忠洋氏でした。
   兵庫県立考古博物館は大中遺跡公園の中にあります。
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   兵庫五国
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  写真は講演会場のスライド映像を写しましたので大変見にくいですがご勘弁を!
  摂津国とは「難波津を治めている国」という意味です。摂津国は兵庫県の
  東の端にあり、大阪府の一部(難波津)を含みます。
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   弥生時代の土器は特長により前期・中期・後期に分けられます。
   前期の土器は突帯文(粘土の紐を巻いている)やヘラ描沈線文(ヘラで
   線を1本づつ引いている)がある。
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   中期の土器は櫛のような道具で直線や波状の櫛描文を入れたり、
   凹線文を入れている。(1度に何本もの線を描ける)
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   後期の土器は全体的に無文化し、羽子板のような形の道具で「タタキ」を
   入れて粘土を硬く締めている。
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   弥生時代前期の集落は環濠に囲まれ、墓地は環濠の外にある。
   神戸市兵庫区の大開遺跡(環濠が巡っている)
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   3ヵ所の大きな集落がそれぞれ5kmづつ離れた位置にある。当時の海岸線は
   太い線で描かれているが、海岸線や川に沿って小さな集落(小さい丸)がある。
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   尼崎市田能遺跡の方形周溝墓
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   田能遺跡の人骨の腕にゴホウラ貝を模した白銅製の釧(腕輪)。
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   田能遺跡、左は穴を掘って死者を葬り、上に板をかぶせていた。
   右は子どもの土器棺墓。
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  川西市の加茂遺跡(現在の家屋も環濠に沿って丸く弧を描いている)
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  加茂遺跡の集落構成。右の円形環濠の中に大型建物と集落がある。
  大型建物は板塀で囲まれている。
  左の大きな外濠の中にも集落と方形周溝墓がある。
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   加茂遺跡復元図
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   尼崎市の武庫庄遺跡で大型建物(右下)が発掘された。
   ここも「夏至の日の出」方向に軸線が向いている。
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   纏向遺跡大型建物の「夏至の日の出」方向。
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   六甲山南麓の銅鐸出土地
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   神戸市灘区の桜ヶ丘出土の国宝・銅鐸と銅戈
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   銅鐸を使う巫女の祈り(2013年4月、兵庫県立考古博物館展示)
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竹村氏の銅鐸埋納に関する考え方
 『初期銅鐸は小型で音を聴く銅鐸、後期銅鐸は大型で見る銅鐸。初期の銅鐸と後期の銅鐸が同じ場所から出土することはないので、初期の銅鐸埋納と後期の銅鐸埋納の二期に分かれて埋納されたのではないか。弥生時代中期から後期に高地性集落がなくなると、初期の銅鐸が埋納された。必ず鰭を上下にして埋めるというルールがあった。
 銅鐸が出土する所の地名には「神」が付くことが多い。桜ヶ丘は通称、神岡(かみか)と言われている。出雲の神庭荒神谷遺跡など。』

 
 銅鐸は国・村にある神の聖地や国境にある傾斜地に埋納したのでしょう。私は銅鐸の埋納は古墳時代出現の前、3世紀中頃から後半頃に発生したと考えていましたので、竹村氏の複数時期埋納説に驚くと同時になるほどと思いました。紀元前後に初期の銅鐸(聴く銅鐸)が埋納されたというのです。調べると、多数の人が複数時期埋納を主張しています。
 祭器・神器などの大事なものを埋納する場所は聖地です。卑弥呼が西暦239年に親魏倭王金印を受けたので、西暦57年に奴国王が受けた漢委奴国王金印が聖地である志賀島に埋納されました。265年に魏が滅びると2代目女王の臺與は親魏倭王金印を臺與の聖地に埋納したでしょう。その聖地は関門海峡周辺(北九州市か下関市)ではないでしょうか。

   近畿の竪穴住居は2~3世紀に円形から方形(九州系)に変わる。
   九州勢(饒速日・神武など)が東遷してきた結果でしょう。近畿の弥生時代の竪穴住居
   は円形でしたが、大中遺跡には方形もありました。
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   大中遺跡公園の説明板
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by enki-eden | 2013-07-31 00:16