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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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春分と秋分の太陽信仰

 現在でも日の出を拝む方が多いと思いますが、数年前に淡路島の洲本温泉のホテルに宿泊した早朝、東の海のかなたから太陽が上がってくるのが見えて感動したことを覚えています。太陽信仰は世界中で見られますが、とりわけ日本ではその傾向が強いと思います。国旗は「日の丸」ですし、皇室の16弁菊花紋は菊ではなく太陽だという説があります。中近東の王族の紋も同じですから、これは中近東から伝来の太陽紋でしょうか。

 2013年の秋分の日は9月23日(月)、2014年の春分の日は3月21日(金)です。
 春分と秋分は太陽がほぼ真東から出て真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じということで、非常に重要な節目になっています。春分と秋分は、太陽信仰における聖なる東西軸(太陽の道)が年間で最も際立つ日で、日本では古代から「先祖を祀る行事」が春分と秋分に行われてきました。
 21代雄略天皇(425年頃-479年頃)の前までは、春秋暦が使われていたと考えられます。春分と秋分をそれぞれ1年の始めにしていたのです。つまり、1年の期間は現在の半分になっていたと考えられます。魏志倭人伝に「倭人の寿命長く、百年、あるいは八、九十年である」、「卑弥呼は年長大」とありますが、このことを言っているのだと私は考えています。雄略天皇からは通常の1年の期間になりますが、全国に徹底するには26代継体天皇(460年頃-531年頃)の時代までかかったようです。
 当時の正月は冬至の次の日だったかもしれません。冬至の次の日から日照時間が長くなっていきますから、一年の始まりには相応しいですね。今年の冬至は12月22日(日)です。

 皇室では、天皇が春分と秋分に皇室の祖先の霊をお祀りになります。それが「皇霊祭」です。この日、天皇は歴代天皇・皇族の霊をお祀りし、日本国と日本国民の無病息災を祈られます。戦前は春と秋の皇霊祭が祭日となっていましたが、戦後は「春分の日」と「秋分の日」の祝日に変わりました。
 こうした春分と秋分の行事の背景には、神道の太陽信仰と祖霊信仰(祖先崇拝)があります。皇室の祖先神は天照大神になっており、天照大神は太陽神とされますから、皇室では太陽信仰と祖霊崇拝は一体のものになっているのです。
 
 春分と秋分を農業の観点から眺めると、春分は種まきの時期、秋分は刈り取りの時期にあたります。作物を育ててくれる「太陽」と自分たちを守ってくれる「祖先神」への信仰が、先祖の霊に豊作を願う行事などと結びついていったようです。
 そして、この習俗は仏教にも取り入れられて「彼岸」の行事になっていきました。皆様もお彼岸にはご先祖のお墓参りに行かれると思います。

 古代人には、昼は人間の世界(この世)、夜は神の世界(あの世、常世)という考え方があったと考えられます。中国の墓は地下に掘りますから、掘ると黄土の黄色い地下水が出てきます。だから死後の世界を黄泉と言うようです。日本では黄泉を「よみ」と読みます。墓の中は真っ暗闇ですから、「闇」→「よみ」となったようです。
 このような考え方のなかで、春分・秋分の日は昼と夜の長さがほぼ同じというのは大変重要な日になります。この世とあの世が接する、通じると言うような感覚でしょうか。この日にご先祖様を特に丁重にお祀りする信仰習慣になっています。

 「常世(とこよ)」に関して、新撰姓氏録に「常世連出自燕王公孫淵」とあります。公孫淵は238年に魏の司馬懿に敗れ滅亡しました。
 2世紀後半から3世紀始めにかけて、公孫氏が山東半島・遼東半島から朝鮮半島北西部を支配していたために、奴国王兼倭王の卑弥呼が220年成立の魏と交易できず、公孫氏と交易せざるを得なかったようです。しかし、238年に公孫滅亡により、卑弥呼は早速239年に魏へ使者を送り「親魏倭王」となりました。
 常世連(とこよのむらじ)は公孫氏の逃亡者の子孫でしょうか。

 私はここで、日本書紀の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)を思い浮かべます。「大物主の神は昼は来ないで、夜だけやってきた。」 そして、倭迹迹日百襲姫が亡くなると、「その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。」とあります。昼は人の「この世」、夜は神の「あの世」という考え方があったようです。

 倭姫(やまとひめ、第11代垂仁天皇の第4皇女、母は皇后日葉酢媛命)が伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女、後の斎王となりました。第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命の跡を継いだ倭姫は天照大神の御杖代として大和国の檜原神社を出て、伊賀・近江・美濃・尾張を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮を創建しました。
 その斎宮跡が北緯34度32分にあり、三輪山の元伊勢・檜原神社、西の二上山などと同じ北緯となっています。太陽信仰による春分秋分のラインが檜原神社の真東にある伊勢の地を選んだのでしょう。

     太陽の道
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     伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図
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 2020年のオリンピックが東京に決まって嬉しいと思います。外国のメディアが「日本人がこんなに喜ぶ姿を始めて見た。」と言っていました。
 そして私事ですが、先日70才の誕生日にお酒のプレゼントをいただきました。ありがたいことです!
春分と秋分の太陽信仰_d0287413_23123389.jpg

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp



by enki-eden | 2013-09-12 00:07