古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

北部九州中心勢力の東遷①

 早速、私見ですが、記紀の「天照大神」は魏志倭人伝の「卑弥呼と臺與」と考えられます。神話と歴史を混ぜるなと言われる皆様にはご容赦願いますね。
 考古学者の故・森 浩一先生は考古学と文献史料の接点を追求しておられました。著書「日本神話の考古学」の前文に「考古学では神話や伝説とは一線を画し、それについては言及しないことが科学的だという逃避的な現象を起こさせている。」と述べられています。それに続く著書「記紀の考古学」のあとがきには、「戦後、“科学的な歴史”という言葉が流行しだし、古事記や日本書紀を口にするだけでも、あいつは科学的ではないというレッテル貼りが行われるようになった。そのピークは昭和三十年代だったと記憶する。そのような環境の中で、僕は昭和34年に“古墳出土の鉄鋌”について発表し、考古学資料と文献史料を総合する成果を示した。僕の理想は考古学と文献学を綜合して考えることである。」と述べられています。
     故・森 浩一先生
d0287413_8471148.jpg

 私は昨年12月14日(金)の投稿「日本の古代史」の中で、戦後の歴史学は津田左右吉氏の反皇国史観の影響で記紀を無視するようになったが、古代史に関して歴史学・考古学・神社伝承学・記紀・倭人伝や年輪年代学などを多面的に総合的に研究しなければならないと申しました。

 記紀の天の岩戸事件は、西暦247年頃の「卑弥呼の死」と「臺與の登壇即位の礼」を表していると考えられます。天照大神が天の岩戸に隠れるまでが卑弥呼で、再び天の岩戸から出てきたのが臺與でしょう。臺與が卑弥呼の墓において「登壇即位の礼」をして卑弥呼を継ぐ女王に就きました。登壇即位の礼は、大和朝廷においても前天皇陵で行われていましたが、21代雄略天皇(425年頃出生)から宮中で即位式が行われるようになりました。

 卑弥呼と臺與は博多湾沿岸部の奴国王族で海人族です。奴国王族の出自は揚子江(長江)の呉で、紀元前4世紀に博多湾に逃亡してきて、奴国を建てたと考えられます。
 呉人の渡来経路は、江南(BC473年、呉王夫差が越王勾践に敗れる)→呉人は徐州へ逃亡→(BC334年、越が楚に敗れて一部が徐州に逃亡してきたため)呉人は朝鮮半島南部と北部九州へ避難したと考えられます。

 筑後川流域の邪馬台国と有明海周辺(熊本県・長崎県・佐賀県の一部)の狗奴国との戦いは、領土紛争と有明海の制海権争いと考えられます。邪馬台国の王族は素戔嗚系、投馬国(豊国、福岡県東部と大分県)の王族も素戔嗚系です。素戔嗚の先祖・楚人の渡来経路は、江南の楚(BC223年、楚は秦に滅ぼされる)→中国北部→秦の圧政により漢人・楚人の一部が新羅へ逃亡→九州北部や日本海沿岸へ渡来と考えられます。
 BC221年に秦の始皇帝が天下を統一し、苛酷な税・労役に漢人や楚人の一部が新羅に逃亡、更に列島に逃れてくる者もいました。紀元前2世紀頃でしょうか。
 男系の遺伝子であるY染色体の日本における分布は、黄河系(漢人)のO3が15%、江南の楚系のO1aが3%です。これに比べて呉系のO2bは30%以上もあります。越系のO2aは1%です。縄文人(Y染色体のCとD)は45%です。
 邪馬台国と狗奴国も江南からやって来た弥生人が中心ですが、どちらの国も上層部は楚人が中心だと考えられます。楚人同士で戦争になったのは、両国が隣接している事と、渡来時期と経路が違うと思います。楚人は人数が少ないですが文化程度も高く、武力も強かった。楚の国姓は羋(び)で、王の氏は熊(ゆう)です。熊は日本の人名・地名に多く使われていますが、楚由来のものが相当あると思います。
 奴国・伊都国など北部九州沿岸の海人族は呉人で、人数も多く弥生人の中心です。


 西暦107年に後漢に朝貢した奴国王が倭王帥升と認証され、奴国王と倭王を兼任し、対外交易において倭を代表することになります。
 倭王兼7代目奴国王の伊弉諾(いざなぎ)の時、西暦180年から185年頃に倭国乱により伊弉諾が淡路島に隠遁、後を継いだ男王も鎮圧に失敗し、西暦200年頃に奴国王族の天照大神(卑弥呼、175年頃出生)が即位して政権が安定します。
 卑弥呼は239年、魏に朝貢して親魏倭王となる。奴国王の都は博多湾沿岸、邪馬台国の都は朝倉か久留米と考えられます。卑弥呼は奴国と邪馬台国の宮を往来したことでしょう。対外窓口は伊都国に置きました。 卑弥呼が「親魏倭王」の金印を受けたので、代々受け継いできた「漢委奴国王」の金印は卑弥呼(奴国王族)の聖地である志賀島に埋納されました。
 奴国にも弥生墳丘墓はありますが貧弱で、奴国王の墳墓は伊都国に設けたのでしょう。247年頃に卑弥呼が亡くなり男王が即位すると、再び倭国乱となる。卑弥呼と同族で海人族の臺與(235年頃出生、2代目天照大神)が即位して乱は治まる。
 日本書紀の成立した8世紀初めは、国家意識・民族意識の異常に高揚した時代で、皇室の先祖が中国に朝貢したことは表現したくなかった。従って、卑弥呼と臺與については直接表記せずにヒントを示して記しました。日本書紀巻第九として14代仲哀天皇の皇后、神功皇后の巻を設けてヒントを示しています。神功皇后(330年頃出生)と卑弥呼・臺與は時代が違いますので、きちんと年代を入れることにより両者を区別しています。
 この中で、日本書紀の紀元元年は西暦元年と重なることです。従って、記紀の成立した8世紀には西暦が理解されていたという説もあります。私は7月10日(水)投稿の「神世」で、日本書紀の紀元元年は西暦元年であると記しました。これは偶然に同じであっただけで、当時はまだ西暦についての理解はなかったと思います。私見ですが、初代奴国王の国常立神(漢委奴国王)が西暦元年に生まれたと考えられます。
                              ***
 
 古代史とは関係ありませんが、11月16日(土)にホテルクラウンパレス神戸で投資ストラテジストの武者陵司氏の講演を聴きました。演題は「円高デフレの終焉と日本大復活」です。
 その中で印象的だったのは、『アベノミクスによる超円高・長期デフレからの脱却により、2014年には日経平均は2万円超に上昇し、さらにその先のインフレの定着と改革の進展により、2020年東京五輪の頃には4万円、史上最高値更新の展望が開けてくるだろう。
 リーマン・ショックもユーロ危機にも対岸の火であったはずの日本が、世界経済の中で一人負けするという納得がいかないことが起きた。それは欧米の中央銀行が新機軸の量的金融緩和を推し進めた中で、日本銀行だけが白川前総裁の下で消極的な金融政策を取ったため、極端な円の独歩高が進んだからである。急激な円高が一気に日本企業の競争力を低下させた。それがアベノミクスによって是正されつつある。
 バブル崩壊後23年間に及ぶ日本の長期停滞の根本的要因は、米国による“日本封じ込め策”である。日本の1990年までの繁栄、自動車やエレクトロニクスなど著しい産業競争力の向上は、米国発技術の導入改善と米国市場における顕著なシェア獲得によって可能となった。しかし日本のそうしたオーバープレゼンスは覇権国である米国の産業基盤を脅かし、米国国益を損なうものとなった。このためジャパン・バッシングが起きて叩かれた。貿易摩擦、超円高等々。それが今、反転しているのである。
 なぜなら、日本経済の復活がアメリカの国益にとって決定的に重要だから。これ以上、日本が弱くなったらアジア全域が中国の支配下に入ってしまう。強い日本経済こそがアジアにおいて中国を封じ込め、アメリカのプレゼンスを維持することができる。つまり、日本経済に対する地政学的な逆風が順風に変わったのである。』
[PR]
by enki-eden | 2013-11-24 08:54