古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

沖ノ島の祭祀

 テレビで沖ノ島の祭祀についての報道がありましたので、興味を持って調べてみました。宗像大社は福岡県宗像市田島に辺津宮(三女、市杵島姫神)、大島に中津宮(次女、湍津姫神)、沖ノ島に沖津宮(長女、田心姫神)が鎮座しています。宗像神社、厳島神社ほか宗像三女神(宗像大神)を祀る神社の総本社です。弁財天・弁才天・弁天も市杵島姫神に同じとされているので関係が深い。
   赤のアイコンが辺津宮、黄が中津宮、緑が沖津宮


     宗像大社(福岡県のパンフレットから)
d0287413_1145270.jpg

 宗像大社・福岡県・宗像市・福津市などの資料によりますと、沖ノ島の祭祀は時代が進むにつれて次のように形態が変わっていきました。

1.岩上祭祀(がんじょうさいし)、4世紀後半から5世紀(古墳時代前期から中期)
  宗像から60km沖合いにある沖ノ島で、大和政権による祭祀は岩の上で行われました。大きな磐座は神が降臨し、神が宿ると考えられ、岩の上に小石を敷いて奉献品を置き、祈りました。奉献品は舶載鏡、国産鏡、石釧(いしくしろ)、武器、工具などで、古墳時代前期から中期の古墳の副葬品と似ています。
  祭祀者は東方に向かって礼拝していたようですから太陽信仰だと考えられます。

2.岩陰祭祀(いわかげさいし)、5世紀後半から7世紀(古墳時代中期から飛鳥時代)
  祭祀は岩陰で行われ、岩陰になっている土の上に奉献品を並べました。奉献品は銅鏡、装身具、武器、武具、工具、須恵器・土師器などで、古墳時代中期から後期の古墳の副葬品と似ています。中には、新羅製の金の指輪、馬具、鉄斧、ペルシャ製のカットグラスなど交易で得た品もあります。奉献品が豪華になってきました。

3.半岩陰・半露天祭祀(はんいわかげ・はんろてんさいし)
  7世紀後半から8世紀前半(飛鳥時代から奈良時代)
  祭祀場が岩陰とその前の露天にまで広がっていきます。奉献品は玉類、武器、工具、土器、金属性雛形祭祀品などで、岩陰とその前の露天に置かれました。舶載品は新羅系から中国系に変わります。これは660年に新羅が百済を滅ぼしたことと関係があるでしょう。
  古墳時代が終わったので、奉献品は宮廷祭祀の祭祀品・神宝などと共通してきます。

4.露天祭祀(ろてんさいし)、8世紀から10世紀初期(奈良時代中期から平安時代初期)
  これまでの祭祀はその都度場所を変えていましたが、ここからは同じ露天の場所に大型の祭壇を設けました。奉献品は国産品で、土器、人形、馬形、舟形、銭、八稜鏡などがあります。
  遣唐使は菅原道真の進言で894年に廃止されますので、国家の祭祀は終焉し、胸形氏(宗像氏、宗形氏)の祭祀に替わります。

 宗像氏の墓域は桜京古墳(宗像市、装飾のある前方後円墳)、東郷高塚古墳(宗像市、前方後円墳)、津屋崎古墳群(福津市)だと考えられています。しかし、宗像の「評」、その後の「郡」以前の古墳については宗像氏と断定はできないようです。
   桜京古墳、東郷高塚古墳、津屋崎古墳群(福岡県のパンフレットから)
d0287413_1148214.jpg

d0287413_1148381.jpg

 宗像氏の祖神は大国主命で、大国主命と越の沼河姫の子に建御名方神(たけみなかたのかみ、諏訪大社の祭神)がいます。ムナカタとミナカタは深い関係があります。建御名方神は「宗像の神」という意味でしょうか。宗像(胸形)の語源は宗像の海人族が胸に刺青をしていたから胸形だという説があります。あるいは船に乗って宗像沖から宗像を見ると女性の胸の形をしているからという説も聞いたことがあります。
 志賀剛著「神名の語源辞典」によりますと、宗像(むなかた)の語源は水ナ潟(みなかた)で、玄界灘の海水が引いて平野となったからとあります。
 宗像大社東の釣川の奥深くまで入り江か潟だったのが、気候の変化で海水が引き、釣川が運んできた土砂が溜まり、小平野になったのかもしれませんね。

 大国主命と神屋楯姫の間に事代主命がいますが、事代主命の子孫は初期天皇家と密接に繋がっています。
 宗像氏の祖神が大国主命であるなら、宗像大社の祭神は大国主命のはずですが、実際には宗像三女神となっています。三女神のうちの多紀理毘売(田心姫、奥津島比売)は大国主命の妃になっており、子は阿治志貴高日子根と下照姫がいます。
 宗像大社辺津宮の本殿の千木(垂直切り)と鰹木(5本)は男神を表していますので、元々は大国主命が祭神だったかもしれません。本殿後方の第二宮(沖津宮の分霊)と第三宮(中津宮の分霊)は伊勢神宮から古殿の下付を受けたもので、千木が水平切りで鰹木は6本になっています。沖津宮と中津宮は千木が水平切りで鰹木は2本の女神形です。

 後漢書に記載の倭面土国が宗像周辺だという説があります。素戔嗚が王で、後継者が大国主だという説ですが、私は素戔嗚一族の領域は宗像を含め列島レベルの広範囲で、素戔嗚一族が皇室の基礎を築いたと考えています。

 沖ノ島の祭祀は大和朝廷の国家的な航海祭祀で、23の遺跡の神宝は8万点以上もあり、全て国宝になっています。ですから「海の正倉院」とも呼ばれており、神宝は宗像大社が所蔵しています。
 沖ノ島は島自体がご神体になっているので、通常は上陸できませんが、上陸するには宗像大社の承認が必要です。
 テレビ放送でも上陸前に全裸になって海に入り、禊(みそぎ)をしていました。伊弉諾尊が黄泉の国から帰って、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で禊をしたのもこんな光景だったのでしょう。
 沖津宮では宗像大社の神職1人が10日毎に交代で常駐してご奉仕されています。そして、沖ノ島では今でも女人禁制が守られています。また、かつては沖ノ島で見たことは話してはならないとも言われていました(お言わずさん)。
 今ではテレビ放送もされ、年に一度の沖津宮現地大祭では参拝の許可が出ています。但し、何万人もの申込者の中から250人ほどが選ばれますので、当選する確立は低いですね。上陸すれば沖ノ島の船着場の浜で禊をしますが、全裸でない人が数名いるようですよ。
 禊のあと、山の中腹にある沖津宮まで急な階段を400段ほども登って行くので、登山ですね。

 神功皇后の新羅遠征(西暦363年)には「松浦の君」と「胸肩の君」が軍団の長となっていますので、松浦の君が唐津から、胸肩の君が津屋崎か神湊から、両方の進軍があったと考えられます。
 神功皇后の新羅遠征に神威を示した宗像大神が、300年後の663年に百済救援のために出征した大和朝廷の水軍に神威を示していません。大和朝廷軍は白村江にて1万名の兵を失って、唐・新羅軍に大敗してしまいます。649年頃に宗像郡が建てられ、神郡(かみのこおり、しんぐん)として宗像社に寄進されていましたので、宗像神の祭祀は朝廷から特別に重視されていました。
 しかし、宗像大神に西海鎮護・航海守護の神徳がありながら、新羅出兵に沈黙しているのは中大兄皇子が宗像大神に祈願しなかったのでしょうか。中大兄皇子は宗像から沖ノ島経由ではなく、唐津から壱岐島経由で進軍したのでしょうか。水軍の指揮官は安曇比羅夫ですから、壱岐島経由で進軍したことでしょう。比羅夫は白村江で戦死しています。
 中大兄皇子(38代天智天皇)と違い、大海人皇子(おおあまのみこ、40代天武天皇)は宗像に関係があります。大海人皇子の妃に胸形君徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)がおり、高市皇子(たけちのみこ)を生んでいます。高市皇子は672年の「壬申の乱」の将軍です。

 兵庫県立考古博物館の館長、石野博信先生は「沖ノ島の祭祀は、単なる航海安全祈願ではなく、実態としては戦勝祈願ではなかったかと思われる。 日本で大きな古墳を造り始めてからたかだか百年しか経っていない、そういう時に朝鮮半島に軍隊を仕立てて出かけて行くという勢いを持ってきた。」と言われています。そう言えば、沖津宮現地大祭の参拝の時に神職が、日露戦争の日本海海戦の紹介をされるようですよ。

 4世紀の軍の派兵について、神功皇后、武内宿禰、葛城襲津彦などが関わった事が日本書紀に記されています。4世紀は中国の内乱で西晋が滅び、東晋が建国、北方には北魏が建国、5世紀には南北朝時代となっていきます。朝鮮半島では4世紀に高句麗が楽浪郡を滅ぼし南下、広開土王碑文には西暦391年に倭が高句麗に攻めてきたとあります。
 このように4世紀の東アジアは極めて緊張した情勢でしたので、宗像大社だけではなく宮地獄神社など北部九州の神社において航海守護に加え、戦勝祈願が行われたと考えられます。

宗像大社の「みあれ祭」、神の御生れ(みあれ)
 毎年10月1日の海上神幸「みあれ祭」は、辺津宮に宗像三女神が一堂に会して大祭を行います。辺津宮の市杵島姫神が沖ノ島沖津宮の田心姫神と筑前大島中津宮の湍津姫神を乗せた2隻の御座船をお出迎えする祭りです。
 数百隻のお供の船団と筑前大島港を出港し、神湊(こうのみなと)をめざして約15kmを1時間かけて海上パレードを行います。
     宗像大社のパンフレットから
d0287413_11514220.jpg

[PR]
by enki-eden | 2014-02-26 00:05