古代史探訪

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楚辞

 詩の様式としての楚辞は六言ないし七言で謡われ、元は民謡であり、その源流は巫の歌にあると言われている。中国北方の文学に対して非常に感情が強く出ており、音律を整えるためのものである兮(ケイ)の字が入ることが特徴。「ケイ」は文章としての意味は無い。(ウィキペディアより)

 楚辞は南方にある揚子江(長江)流域の楚国の韻文を代表する詩情に富んだ詩です。
 楚漢戦争(BC206年-BC202年、項羽と劉邦の戦い)において、漢王の劉邦により垓下に追い詰められ、自らの破滅を悟った楚王の項羽は愛人の虞美人に詩を詠みました。
   力拔山兮(ケイ)氣蓋世 (力は山を抜き、気は世を覆う)
   時不利兮(ケイ)騅不逝 (時利あらずして馬逝かず)
   騅不逝兮(ケイ)可奈何 (馬逝かざるを如何せん)
   虞兮(ケイ)虞兮(ケイ)奈若何 (虞や虞や汝を如何せん)

 揚子江(長江)周辺から日本列島に逃れてきた江南人(弥生人)は、渡来した順番では呉人、越人、楚人だと考えています。人数的には呉人が圧倒的に多く、越人と楚人は少数です。呉人と越人は文字をほとんど使いませんが、楚人は漢字に似た楚文字を使います。湖北省荊門市郭店村にある楚の墳墓(BC3世紀からBC4世紀頃)から竹の板に楚文字で書かれた竹簡(郭店楚簡)が大量に出土しています。
 楚文字は丸みのある右上がりの文字で、日本でもこの楚簡を研究している機関があります。東京大学、早稲田大学、大阪大学、大東文化大学などです。書道ジャーナル研究所や多くの機関も研究を発表しています。また、楚では青銅製の貨幣も使われていました。

 呉・越・楚などの江南人は、北方黄河流域(中原)の漢族とは人種も文化も違います。移動手段も違い南船北馬です。
 呉王夫差はBC473年に越王勾践に敗れ自決、呉は滅亡し、呉人は山東半島南の徐州方面に逃亡。楚の威王熊商はBC334年に越王無彊を破り、越を滅ぼす。越人は主に南方インドシナ半島に逃亡するが、北方の徐州方面に逃亡してきた越人が呉人を追いやり、呉人は満州、朝鮮半島南部、九州、中国、四国に逃走しました。
 楚はBC223年に秦に敗れ、BC221年に秦始皇帝が全国を統一。秦の租税や役務が厳しすぎて越人の一部は朝鮮半島西部、九州、四国に逃亡。漢人や楚人の一部もインドシナ半島、台湾、朝鮮半島東部、九州、中国、四国に逃亡。BC206年に秦王朝が滅びると、楚王の項羽と漢王の劉邦が争い、楚漢戦争が始まる。劉邦が勝利し前漢時代となる。
 江南人どうしの戦争と、漢族からの攻撃を受けて、江南人は大陸南方やインドシナ半島、台湾、日本列島、朝鮮半島などに逃亡しました。黄河系の漢族も戦乱から逃れて日本列島にも来ています。
 このようにBC4世紀からBC2世紀にかけて、江南人や漢人が波状的に日本列島にやってきて弥生時代が始まります。BC4世紀に弥生時代が始まりますが、縄文時代のBC5世紀には北部九州や吉備など一部の地域で稲作が始まり、江南人が交易のために来たり、住み着いたりしています。この時代を早期弥生時代という説があります。
 そして、弥生人により列島の広範囲に小国家が分立するのはBC2世紀からBC1世紀頃です。これが大きく纏まっていくのは弥生後期の2世紀になります。3世紀になると中央集権体制が成立し、3世紀後半に古墳時代へと入っていきます。

 日本列島でのY-DNAによる分布は、楚系(O1a)が1.6%、越系(O2a)が1.4%、呉系(O2b)が28.5%、黄河系(O3)が19%で全体の半分を占めます。縄文系(D)は40%、その他の北方系と南方系(C)などが10%弱です。

 日本列島では人数の少ない楚人ですが、中国地方(吉備・出雲)には多いのです。そして楚人は文化程度も高く、武力も強い。従って周辺地域への影響力は大きいものがあります。楚の国姓は羋(び)で、王の氏は熊(ゆう)です。私は吉備のキは呉の国姓・姫(き)、ビは楚の国姓・羋(び)ではないかと見ています。各地にある熊野・熊・球磨・隅などの地名由来は楚王名の熊ではないかと考えています。人名でも出雲風土記に記された素戔嗚命の名が、伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命となっています。
 島根県松江市八雲町熊野熊野大社(出雲国一宮)の祭神は伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(素戔嗚命)です。拝殿や随神門の注連縄は通常とは逆で、向かって左が元になっています。神体山の熊野山(天狗山)に素戔嗚命が埋葬されたという伝承があります。2012年12月17日(月)投稿の「注連縄の向きが逆の神社」をご参照ください。

 楚辞の兮(ケイ)が日本語の中に入っているのではないでしょうか。文語体に兮(ケイ)と思われるものがあります。文章の最後の「けり」です。「けりをつける」という「けり」です。「けり」は「兮(ケイ)」が語源ではないでしょうか。
 奈良時代、平安時代の歌の最後に「けり」がよく使われましたが、日本書紀にもあります。豊玉姫と彦火火出見尊の贈答歌(挙歌、あげうた)の一首に「けり」が使われています。
  阿軻娜磨廼 比訶利播阿利登 比鄧播伊珮耐 企弭我譽贈比志 多輔妬勾阿利計利
     赤玉の 光はありと 人は言えど 君が装いし 貴くありけり

 口語体はどうでしょうか。語尾に「~けん」、「~けー」、「~け」というのが兮(ケイ)ではないかと思います。方言として使われているのは西日本の中国・山陰、四国、九州です。
 「~けん」、「~けー」、「~け」のどれを使うかは地域によって違いますし、イントネーションも少し違う気がします。土佐弁では「~けん」より「~き」が多いですね。「~き」も「~けん」の変形でしょう。「~き」は強く耳に響きます。意志の強さというのでしょうか。土佐の人にはそんな意識はないでしょうけどね。私は坂本龍馬が好きですから土佐弁も好きです。日本酒も土佐鶴を飲んだりしています。

 但し、この兮(ケイ)の説は私が言っているだけで同調者はいません。しかし面白い見方ではないかと思いブログに載せてしまいました。更に推測を膨らませると、楚人の大元は素戔嗚ではないでしょうか。素戔嗚の子の饒速日が出羽の鳥海山に降臨したという伝承があります。
 鳥海山は山形県と秋田県にある2,236mの火山で、出羽富士・秋田富士・鳥見山ともいいます。秋田物部氏が存在し、東北のY-DNAは楚人(O1a)の比率が全国平均よりも多いのです。
 秋田県大仙市(旧・仙北郡協和町)に唐松神社が鎮座、饒速日の肖像画が有名です。境内の天日宮に饒速日命が祀られています。物部守屋が587年に蘇我氏に滅ぼされると、守屋の子の那加世が秋田に逃げて唐松神社の神官になり、その子孫は現在まで宮司家となっています。那加世が持参した物部文書が神社に所蔵されています。当社は神功皇后とも深い関係があり、祭神は軻具突命、息気長足姫命、豊宇気姫命、高皇霊命、神皇霊命です。
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 素戔嗚、素戔嗚の第2子・五十猛、第5子・饒速日の後裔物部氏の血を引いている武内宿禰の系図です。図をクリックして、+を押すと大きく表示されます。
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by enki-eden | 2014-04-18 00:10