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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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万葉集「防人(さきもり)の歌」

 663年、「白村江の戦い」で唐・新羅軍に大敗し1万人の兵を失った大和朝廷が、侵略されるのを防ぐために九州などに防人を置き、都を飛鳥から近江に遷した。
 日本書紀の38代天智天皇3年(664年、実際に天皇職に就いたのは668年)に、「対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽(すすみ、烽火台)をおいた。また筑紫に大堤(おおつつみ)を築いて水を貯えた。これを水城(みずき)と名づけた。」とあります。
 水城は大宰府を守る関門で、福岡県大野城市から太宰府市にかけて現在でも存在している。真っ直ぐの水濠と土塁で長さは1.2kmあった。道路建設のため一部欠けているが、水城跡として特別史跡になっている。現在の地名も太宰府市水城である。
     青の矢印が水城、赤が大宰府跡、黄が太宰府天満宮
万葉集「防人(さきもり)の歌」_d0287413_946059.jpg

 大和朝廷は665年には北九州から瀬戸内にかけて山城を築かせた。667年に都を近江に遷し、翌年に中大兄皇子は即位して38代天智天皇となった。

 東国から徴兵した防人が船で大宰府に送られ、防人司(さきもりのつかさ)の管轄下に入りました。防人は各地の砦に配置され、軍事訓練と耕作に従事しました。東国各地から集められた防人の人数は約2,300人ほどで、年季は3年以上です。8世紀中頃には地元の九州で徴兵されますが、10世紀頃になると防人は消滅していきます
 防人が遠方の東国から集められたのは、西日本の兵が白村江で1万人も戦死したことと、大和朝廷が武力の強い東国の勢力を弱めようという狙いがあったと考えられます。しかし、これぐらいのことでは東国の力は衰えなかったのではないでしょうか。優秀な人材は温存されたのかもしれません。東国の武力は後代の関東武士に引き継がれていますからね。後々明治維新まで続く関東と関西の長い勢力争いにも繋がっていくのでしょう。

 日本書記・古事記など正史とされるものは、大和朝廷側に立った歴史です。万葉集の防人歌は、出征による別れを悲しむ歌が中心ですから、徴兵した朝廷を恨む気持ちが背景にあるでしょう。
 万葉集は全20巻、4,516首の歌集です。その中で防人歌は13、14、20巻にあります。防人歌は大伴家持(やかもち、718年頃~785年)が兵部少輔だった755年に防人の歌を集め、84首を万葉集に選びました。
 家持の長歌・短歌などは473首が万葉集に収められており、全体の一割を超えています。万葉集18巻の大伴家持の長歌から一部を採った「海行かば」は戦前に軍歌の歌詞として採用され、第二国歌とも言われました。
   海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)  山行かば 草生(くさむ)す屍
   大君の 辺(へ)にこそ死なめ  かへりみはせじ
 これは、大伴氏と佐伯氏の間に伝わっていた戦闘歌謡でした。大伴氏の伝統を背負った家持の氏族意識の一端が伺えますね。

 大伴氏は神武天皇の時代から皇室に仕えましたが、大伴金村(5世紀から6世紀半ば)の外交失策から勢力が衰え始め、蘇我氏の台頭もあり、蘇我氏の後の藤原氏の時代(8世紀)になると大伴氏は政治の中心から外れてしまいます。それはちょうど大伴家持が生きた時代です。家持は朝廷に仕えながらも、敗者の心が分かる立場でした。
 藤原不比等(659年~720年)が中心となり正史の古事記(712年)、日本書紀(720年)を編纂させたのに対して、大伴家持は敗者の側の歴史をそれとなく残せないかという思いもあって、万葉集に歴史をからめ、歌集の編纂作業をしたのではないでしょうか。防人の歌の採用にはそのような配慮があると考えます。ですから万葉集の歌の文学的な理解に加え、歴史的な背景を見るのが必要ではないかと思います。

 防人の歌は出征する防人が妻・子ども・恋人・父母などを歌ったものです。
   立ち鴨の 立ちの騒きに 相見てし 妹が心は 忘れせぬかも (4354)
    あわただしく出征させられて、急いで別れた彼女の心が忘れられない。

   ひな曇り 碓日の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも (4407)
    まだ碓氷峠を越えたばかりなのに、彼女が恋しい。

   韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして (4401)
    母親もいない子なのに、取り付いて泣く子を置いてきてしまった。

   家にして 恋ひつつあらずは 汝が佩ける 大刀になりても 斎ひてしかも (4347)
    父親が出征する息子の刀になって守ってやりたいと願っている。
    見送る父が歌ったもの。

   海原に 霞たなびき 鶴が音の 悲しき宵は 国辺し思ほゆ (4399)
    大伴家持も防人の気持ちになって歌いました。
    鶴の鳴き声が悲しく聞こえる夜は、とりわけ故郷が思い出されることだ。

 2013年6月9日(日)投稿の「古事記・日本書紀・万葉集」も併せてご参照くださいませ。

 梅原 猛氏が「日本の詩人の伝統は、政治的敗残者と、愛の実行者ですね。在原業平(ありわらのなりひら、825年~880年)もやっぱり政治的敗残者で、追放されて関東をさまよう。」と云っています。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2014-06-06 00:06