古代史探訪

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高天原(たかまのはら、たかまがはら)

 「高天原」は、古事記、日本書紀、神道の祝詞(のりと)の中に、天津神(あまつかみ)が住む聖なる場所として記されている。
 高天原に住む天津神は、別天津神(ことあまつかみ)、神世7代、天照大神、素戔嗚などである。その他にも瓊瓊杵神、天火明神、大山祇神、高龗神(たかおかみのかみ)、武御雷神、住吉三神、宗像三女神、豊玉姫神など多くの神々が記されている。

 高天原に対して、人間世界は「葦原中国、あしはらのなかつくに」、死後の世界は「常世、黄泉の国、根の国、底の国」などと記されている。
 天津神(天神、てんじん)に対して、人間世界の神は国津神(地祇、ちぎ)として記されている。天津神は高天原から人間世界(葦原中国)に天降ってきて、世の中を治める。

禊祓詞(みそぎはらえのことば)
 高天原に神留まり坐す(かむづまります) 神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の
 命(みこと)以(も)ちて 皇御祖(すめみおや)神伊邪那岐命(かむいざなぎのみこと)
 筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に
 御禊祓へ(みそぎはらえ)給ふ時に 生坐せる(あれませる)祓戸(はらえど)の
 大神等(おおかみたち) 諸の(もろもろの)枉事(まがごと) 罪穢れ(つみけがれ)を
 祓へ給へ清め給へと申(まを)す事の由(よし)を 天つ神 国つ神 八百萬神等共に
 (やおよろづのかみたちともに) 天の班馬(あめのふちこま)の耳(みみ)振り立てて
 聞し食せ(きこしめせ)と 恐み恐み(かしこみかしこみ) 白す(まをす)


 次の表は私見による神世の一覧表である。赤い字の出雲の神は国津神である。表をクリックしてからプラスマークをクリックすると拡大します。
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 記紀においては、素戔嗚は高天原から追放されて根の国(出雲)に追いやられ国津神となった。これは記紀の成立した8世紀の大和朝廷の都合によるものでしょう。全国の神社の多くは素戔嗚とその子孫を祀っており、当時の朝廷の思惑通りにはなっていない。
 しかも皇室の創始者は素戔嗚尊なのです。9世紀になると52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり」と讃えた。

 葦原中国(列島の多くの地域)を治めていた国津神の大国主は、西暦200年頃に天津神に国譲りを強制され出雲に隠れた。400年ほど続いた銅鐸による祭祀は無くなり、西暦200年頃から250年頃に銅鐸は埋納された。銅鐸の出土数は約500個だから、製作総数は4,000個前後あるかもしれない。
 3世紀になると、銅鐸による祭祀に代わって、倭国(北部九州の約29ヶ国)で行われていた三種の神器による祭祀が広まることになる。

 大和国には全国から人々が集まり、多様な文化が融合していた。弥生墳丘墓は各地の特色を取り入れ、様々な形態をしていた。
 やがて吉備の大型墳丘墓や特殊器台と特殊壷、出雲の四隅突出型方墳の葺き石、筑紫の豪華な副葬品、各地の土器などの影響を受けて、纏向型前方後円墳が大和国に出現するようになる。大和国を中心にして東北から九州までの地域が習合されてきた。
 3世紀後半になると大和朝廷の成立、纏向型から定形型前方後円墳に発展して箸墓古墳(280m)が築造され、古墳時代へと入っていく。

 高天原は神話の天上の世界であるとか、具体的な地上の世界であるとか云われるが、どこにあったのでしょうか。地上説では各地に候補地が挙げられている。
 私見ですが、天照大神(卑弥呼と臺與)は奴国王兼倭国王で、高天原は奴国王の宮と倭国王の宮の両方にあったと見ています。
 奴国王の宮は博多湾に近い山沿い地域(福岡市東区)ではないでしょうか。倭国王の宮は福岡県朝倉郡筑前町から朝倉市の山沿いではないでしょうか。小石原川が「天の安川(夜須川)」でしょう。
 小石原川と佐田川の間には国史跡の平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)があり、紀元前1世紀(弥生時代中期)から4世紀(古墳時代)の集落跡です。私は筑後川流域の筑紫平野が魏志倭人伝の云う邪馬台国だと考えています。

 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、「筑紫(つくし、ちくし)」の語源は「美しい」とあります。そして筑後川流域にある久留米市の「くるめ」は、「クルマ(車)の訛。筑後川が曲がりくねって車の半輪のごとき地形になっている。」とあります。

 筑後川は半輪のように曲がりながら流れているが、地図をよく見ると筑後川に注ぐ支流の川が円形に流れているところが数ヶ所ある。あまりにきれいな円形なので人工的なものでしょうか。
 筑後川流域にはクリーク(灌漑用の人口水路)が張り巡らされている。阿蘇山北側平野部も良く似た状態になっている。クリークは碁盤の目のように直線的だから、筑後川支流の川の円形は自然な形でしょうかねぇ。 それとも人工の堀川でしょうか。下の写真地図には「古川」と記されている。環濠集落跡かもしれない。8.5km西には吉野ヶ里遺跡があります。
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 下の写真地図は吉野ヶ里遺跡から7.5km南の田手川です。
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 しかし、環濠集落跡という予測は外れました。筑後川は暴れ川、筑紫次郎、一夜川というぐらいだから、氾濫が多かった。江戸時代末に筑後川直線化工事(ショートカット)で改修され、大きく蛇行する流域は工事で整備された。上の写真地図の古川は元の筑後川だったのでしょう。
 円形地域の長門石町は元々は筑後川の南側にあったので所属は佐賀県(肥前国)ではなく、福岡県久留米市(筑後国)になっている。久留米市側から見ると川向こうになってしまった。逆に佐賀県三養基郡みやき町が久留米市に入り込んでいる地域は2ヶ所ある。

 久留米市には豊比咩を祀る神社が4社あります。豊比咩は女王臺與のことでしょうか。神功皇后の妹という説もあり、高良玉垂命の妃とも云われます。
 豊姫神社、久留米市北野町大城(おおき)、豊玉姫と伝わる。
 赤司八幡宮(元・止誉比咩神社)、久留米市北野町赤司(あかじ)。
 豊比咩神社、久留米市上津(かみつ)町の天満宮の境内社。
 豊比咩神社、久留米市御井町の高良山内に鎮座していたが、高良大社の本殿と共に焼失。現在は高良大社に豊比咩大神として合祀されている。

 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、「高良玉垂神は筑後川の支流によって造られた川原を開拓した川原神。カハハラ→カハラ→カラ→カウラとなり、カウラに高良の字をあてた。玉垂は魂垂で、高い丘の上にあるから。」とあります。

 福岡県田川郡香春町の香春神社(かわらじんじゃ)の香春も川原でしょうか。祭神は辛国息長大姫大目命、忍骨命と共に豊比売命も祀られています。

 葛城氏の祖神は高皇産霊神で、九州での本拠地は佐賀県鳥栖市周辺。葛城氏は大和に東遷して初代神武天皇から9代開化天皇までの葛城王朝を鴨氏、尾張氏と共に支えた。神武天皇は大和で高皇産霊神を祀った。
 10代崇神天皇は天照大神を祀り、物部氏と結託する。その後、葛城氏は一時衰えるが、4世紀に武内宿禰が葛城氏を再興する。「宿禰」の語源は「神名の語源辞典」によると、「大兄(おおえ)に対して少兄(すくなえ)がつまったもの」とあります。

 奈良県御所市高天の高天彦(たかまひこ)神社の祭神は高皇産霊尊です。高天彦の名の由来は高天原の主神ということでしょうか。神社のある台地は高天原(たかまがはら)と呼ばれていた。大和にも高天原が存在する。背後の金剛山は高天山(たかまやま)と呼ばれていた。

 高皇産霊神には子が1,500人いたそうですが、これは話が大きすぎるでしょう。多くの女性が自分の子の父親は高皇産霊神だと主張したと思います。それだけ高皇産霊神の権力と財力が偉大であったということでしょう。
 大国主命の子が108人というのは妥当な話だと思います。現代でも一夫多妻制の国で100人以上の子がいる豪族が現存しますからね。
 2013年1月2日投稿の「うけい酒・父親を占いで探す」をご参照ください。
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by enki-eden | 2014-08-29 00:16