2014年 09月 13日
惣社神社(伊川谷惣社 いかわだにそうしゃ、神戸市西区)
兵庫県神戸市西区池上5丁目16-2 電 078-974-9677 無料駐車場あります。
以前の地名は神戸市西区伊川谷町上脇。
祭神 大己貴尊、素戔嗚尊、経津主尊、武甕槌尊
創建 神功皇后の時代(4世紀半ば)
社伝によると、神功皇后が新羅遠征からの帰途(西暦363年)、当地に大己貴尊を祀ったのが始まり。一時衰退したが1071年(平安時代中期)に再建された。
瀬戸内海一帯には神功皇后由来の神社が多く、創建理由がよく似ている。
延喜式神名帳の播磨国明石郡の物部神社に比定される。
当社は1995年の阪神淡路大震災により被害を受けたが、2004年に再建改修された。
一般的に惣社(総社)は国府のある所に鎮座するが、当社は伊川谷町の総氏神になっている。
15代応神天皇の時(4世紀末)に都弥自足尼(つみじのすくね)が明石国(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡)の国造(くにのみやつこ)になったが、645年の大化改新以降に明石国・針間国(加古川以西)・針間鴨国(加古川の上流・中流域)の三ヶ国が播磨国として再編されたので、明石国は明石郡となった。その後も明石国造家が明石郡司をつとめた。
現在でも播磨(播州、ばんしゅう)を東播(とうばん、明石国)、西播(せいばん、針間国)、北播(ほくばん、針間鴨国)という区切りを使うことがある。
兵庫県最大の前方後円墳の五色塚古墳(4世紀末から5世紀頃)は明石国造の墳墓と考えられる。2013年3月6日投稿の「五色塚古墳」をご参照ください。
26代継体天皇の時代(6世紀前半)に物部系の明石国造が明石国の神々を当社に集めて祀った。それで、後に当社は惣社と呼ばれるようになった。
現存する播磨国風土記写本には「総説」、「明石郡」、「賀古郡の一部」、「赤穂郡」を欠いている。
当社の東には宮ノ谷古墳群、西には鬼神山古墳群(4世紀)があった。当地伊川谷は早くから開墾され、紀元前3世紀頃から水田稲作が始まった。
また播磨国には大歳神社が密集しており、地図を広げると大歳神社の多さに驚きます。兵庫県全体では大歳神社が400社近くあるそうです。饒速日(大歳)が西暦185年頃に北部九州の遠賀川から大部隊で東遷し、大和まで行く途中に播磨国に滞在した時の徳が大きかったのでしょう。
饒速日東遷の結果、列島の中心地は筑紫から大和に遷り、やがて大和朝廷が出現しました。現代の私でも饒速日の大ファンです。
入り口の鳥居
西の方にゴルフ練習場が見えます。
すぐ西隣には伊川谷中学校があります。
手水舎
惣社復興事業記念碑
拝殿と社務所、境内中央には土俵があり、奉納相撲が行われるようです。
拝殿
狛犬
本殿
境内社には拝殿左の階段を登ります。
本殿左の境内社、左から山神社、歳徳社、稲荷社。
本殿背後の虎の彫刻、背後からも参拝します。
本殿右の境内社、左から稲荷社、猿田彦社、荒神社、八幡社。
境内社から拝殿と本殿を望む
忠魂碑、陸軍大将男爵田中義一書。垣が大砲の弾を模っています。伊川谷町から出征し、日清戦争・日露戦争・日華事変・第二次世界大戦での戦没者の忠魂碑です。
境内の東は鬱蒼とした竹林です。
境内の道向かいに女神・淡嶋大明神。
遥か南方に明石海峡大橋がうっすらと見えます。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp
以前の地名は神戸市西区伊川谷町上脇。
祭神 大己貴尊、素戔嗚尊、経津主尊、武甕槌尊
創建 神功皇后の時代(4世紀半ば)
社伝によると、神功皇后が新羅遠征からの帰途(西暦363年)、当地に大己貴尊を祀ったのが始まり。一時衰退したが1071年(平安時代中期)に再建された。
瀬戸内海一帯には神功皇后由来の神社が多く、創建理由がよく似ている。
延喜式神名帳の播磨国明石郡の物部神社に比定される。
当社は1995年の阪神淡路大震災により被害を受けたが、2004年に再建改修された。
一般的に惣社(総社)は国府のある所に鎮座するが、当社は伊川谷町の総氏神になっている。
15代応神天皇の時(4世紀末)に都弥自足尼(つみじのすくね)が明石国(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡)の国造(くにのみやつこ)になったが、645年の大化改新以降に明石国・針間国(加古川以西)・針間鴨国(加古川の上流・中流域)の三ヶ国が播磨国として再編されたので、明石国は明石郡となった。その後も明石国造家が明石郡司をつとめた。
現在でも播磨(播州、ばんしゅう)を東播(とうばん、明石国)、西播(せいばん、針間国)、北播(ほくばん、針間鴨国)という区切りを使うことがある。
兵庫県最大の前方後円墳の五色塚古墳(4世紀末から5世紀頃)は明石国造の墳墓と考えられる。2013年3月6日投稿の「五色塚古墳」をご参照ください。
26代継体天皇の時代(6世紀前半)に物部系の明石国造が明石国の神々を当社に集めて祀った。それで、後に当社は惣社と呼ばれるようになった。
現存する播磨国風土記写本には「総説」、「明石郡」、「賀古郡の一部」、「赤穂郡」を欠いている。
当社の東には宮ノ谷古墳群、西には鬼神山古墳群(4世紀)があった。当地伊川谷は早くから開墾され、紀元前3世紀頃から水田稲作が始まった。
また播磨国には大歳神社が密集しており、地図を広げると大歳神社の多さに驚きます。兵庫県全体では大歳神社が400社近くあるそうです。饒速日(大歳)が西暦185年頃に北部九州の遠賀川から大部隊で東遷し、大和まで行く途中に播磨国に滞在した時の徳が大きかったのでしょう。
饒速日東遷の結果、列島の中心地は筑紫から大和に遷り、やがて大和朝廷が出現しました。現代の私でも饒速日の大ファンです。
入り口の鳥居
西の方にゴルフ練習場が見えます。
すぐ西隣には伊川谷中学校があります。
手水舎
惣社復興事業記念碑
拝殿と社務所、境内中央には土俵があり、奉納相撲が行われるようです。
拝殿
狛犬
本殿
境内社には拝殿左の階段を登ります。
本殿左の境内社、左から山神社、歳徳社、稲荷社。
本殿背後の虎の彫刻、背後からも参拝します。
本殿右の境内社、左から稲荷社、猿田彦社、荒神社、八幡社。
境内社から拝殿と本殿を望む
忠魂碑、陸軍大将男爵田中義一書。垣が大砲の弾を模っています。伊川谷町から出征し、日清戦争・日露戦争・日華事変・第二次世界大戦での戦没者の忠魂碑です。
境内の東は鬱蒼とした竹林です。
境内の道向かいに女神・淡嶋大明神。
遥か南方に明石海峡大橋がうっすらと見えます。
by enki-eden
| 2014-09-13 00:16