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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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平群神社(へぐりじんじゃ、奈良県生駒郡)

大和国平群郡に鎮座
奈良県生駒郡平群町西宮617  無料駐車場あります。
祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ)
創建 神功皇后の時代(4世紀半ば)

 平群氏の祖・武内宿禰が神功皇后とともに新羅出征前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる。その後、平群氏が祖神の武内宿禰と平群木菟宿禰(つくのすくね)を祀ったのであろう。
 五穀豊穣と、武運長久、家内安全の守護神として信仰を集め今日に至る。

 この地は弥生時代の集落遺跡があった丘陵地帯で、平群氏の本拠地であった。平群の谷は、西は生駒山、東は矢田丘陵に囲まれた山間の小平野で、竜田川が南へ流れて大和川に注ぐ。
 平群の地名は、池田末則著「古代地名紀行」によると、『平群は古代大和西北部の郡名。ヘグリの「ヘ」は「辺」または「方」を意味し、一定の場所・処ではなくて、中心から離れた端に近い処を指した。平群の「群」は「郡」すなわちクニ(国)の意でもある。平群は隅の郡(くに)を表した古代地名である。』とあります。
 志賀剛著「神名の語源辞典」には、「平群の谷は長い丸太をへぎ取った丸木舟に似ている。へぎる→へぐり。」とあります。





    平群氏の本拠地
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    平群神社由緒
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 葛城円(かつらぎのつぶら)大臣が456年に21代雄略天皇に滅ぼされてからは、平群木菟宿禰の子の平群真鳥(まとり)が大臣となり全盛期を迎えた。
    武内宿禰―葛城襲津彦―玉田宿禰―葛城円

 西暦498年に24代仁賢天皇が崩御すると、平群真鳥大臣や子の鮪(しび)が国政を専横したので大伴金村連に討たれ、平群氏は衰退する。大伴金村連は25代武烈天皇を擁立して大連となる。
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 平群氏系図
   武内宿禰―平群木菟宿禰(征新羅将軍)―平群真鳥(まとり、498年没)―
   平群鮪(しび、498年没)―根咋―(  )―神手―宇志―子首(こびと)―
   豊麻呂(讃岐守、753年没)―広成(遣唐使、武蔵守、753年没)

 大伴金村大連は25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇、28代宣化天皇、29代欽明天皇に仕えたが、欽明天皇の時(540年)に失脚、大伴氏は衰退する。

 536年に28代宣化天皇が蘇我稲目を大臣にして蘇我氏が強大になっていく。蘇我稲目大臣の子の蘇我馬子大臣が587年に丁未の乱(ていびのらん)で物部守屋大連を滅ぼし、蘇我氏の全盛期を築く。その蘇我氏も645年の乙巳の変(いっしのへん)で蘇我蝦夷・入鹿の親子が滅び藤原氏の時代に移っていく。
   武内宿禰6代目の蘇我稲目―蘇我馬子―蘇我蝦夷―蘇我入鹿

 このように天皇家を支えた古代の有力豪族は200年程の間に次々と弱体化され、天皇家と藤原氏による独裁政治が続くことになる。41代持統天皇と藤原不比等は皇室の祖を豪族たちの祖とは違う天照大神に求め、皇室の孤高を強調。公地公民制により豪族の領地・領民を奪い、国造を廃止し郡司とした。701年に大宝律令を制定、天皇家の一極集中は完成した。
 持統天皇の次の歌(万葉集)は勝利宣言である。
   春すぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山

 福岡市香椎宮の社家武内家の系図に武内宿禰が壱岐直真根子の娘・豊子媛と結ばれて子をなしたと記されているようです。壱岐真根子は武内宿禰によく似た姿で、武内宿禰の身代わりになって自刃したと日本書紀に記されている。
 自刃した壱岐直真根子は佐賀県武雄市若木町川古(かわご)に埋葬されたという。そこには真根子を祀る伏尺神社(ふしじんじゃ)が創建された。壱岐直真根子は天児屋根命の12代目だという。

 香椎宮社家の武内家は平群木菟宿禰の12代目・大膳紀宿禰(おおかしわできのすくね)が初代になっている。
 大膳紀宿禰の6代目武内武宣が、武内宿禰の旧屋敷跡一角に大膳紀宿禰を祀る高倍神社(こうべじんじゃ)を建立し、現在香椎宮の末社になっている。近くには「不老水」の湧水があり、名の通りこの水を飲むと長生きできるようです。武内家はこの不老水のお蔭で長生きし、初代以降100才以上の長寿者が6名もおられるそうです。

 平群氏の大和での本拠地は大和国の中心部から離れ、山間の狭いところです。大和にやってくる前の平群氏の本拠地は、伊都国の東端か奴国の西端にある狭い場所でした。室見川が早良平野(さわらへいや)を南から北へ流れる中流域の山に挟まれた地域で、筑前国早良郡の南西部です。
 3世紀の伊都国と奴国の境界線がはっきりしないが、早良平野は伊都国の一大率が置かれた所という説もある。それだと室見川か樋井川が境界線になるのでしょうかね。

 新撰姓氏録によると、「河内国 皇別 早良臣 平群朝臣同祖 武内宿禰男平群都久宿禰之後也」とある。

 和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう、10世紀前半)によると、「筑前国早良郡」には毘伊(ひい)、能解(のけ)、額田(ぬかだ)、早良(さわら)、平群(へぐり、福岡市西区羽根戸から金武付近)、田部(たべ)、曽我(蘇我)の7郷があったと記されている。

 ここでも平群氏などは大山祇神を祀っていたのでしょうか。現在でも付近に大山祇神社が二社鎮座している。飯盛山の飯盛神社は早良郡総社だったようです。高皇産霊神の子・天太玉命が伊弉冊尊を祀った。中宮には五十猛神が祀られている。

 五十猛神は白日別神(筑紫の神)、筑紫の国魂といわれている。白木神社(西浦、草場、糸島市王丸)、潤(うるう)神社(糸島市潤)、五十猛神社(金武)などに祀られている。紀の国(和歌山県)一宮の伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)にも祀られている。和歌山県には地名に伊都郡がある。五十猛尊(160年頃-220年頃)は伊都国王だったのでしょう。配下に魏志倭人伝に記載の一大率も置いた。

 大和の平群神社は近世には興福寺の影響下に入り、「春日大明神」と呼ばれていた。また現在の社務所の位置に神宮寺として西宮蜜寺があったが、明治政府の神仏分離令により西隣に移り来迎寺となっている。

   鳥居と社号標、階段の上に割拝殿。
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   社務所
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   拝殿
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   拝殿から下を望む、江戸時代製の燈篭が多い。
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   本殿
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   本殿の左に境内社(天照大神)
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   拝殿に掲げられた昔の平群村(へぐりむら)の写真。
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   現在の平群町を望む。
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   神社の西へ歩いて直ぐの西宮古墳(平群谷を代表する古墳)
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   西宮古墳の横に平群中央公園があり、イチョウの木が少し黄色くなってきた。
   この日は9月12日です。
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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2014-11-03 00:15