2015年 05月 24日
雲部車塚古墳(くもべくるまづかこふん、篠山市)
兵庫県篠山市東本荘車塚 駐車スペースあります。
5世紀初め築造の前方後円墳。東に前方部、西に後円部で、主軸はほぼ東西に向いている。南北に陪塚があり車の両輪のようになっているので車塚と云う。
被葬者は、彦坐王と息長水依比売の子で丹波道主命と云われ、宮内庁の陵墓参考地になっているが、丹波道主命は4世紀前半か中頃に亡くなっているので時代が合わない。
古墳の考古学的な築造年代判定について、例えば4世紀中頃から5世紀中頃というように幅をもたせれば被葬者は丹波道主命だと考えられますが、5世紀初めと判定すれば丹波道主命ではなく、その子孫が被葬者ではないかと考えてしまいます。
墳丘全長140m、後円部径80m、高さ12m、前方部幅89m、盾型の周濠を備え兵庫県で3位の大きさ。1位は神戸市垂水区の五色塚古墳(194m)、2位は姫路市御国野町の壇上山古墳(143m)。
北陪塚は径30mの円墳で、南陪塚(姫塚)は1辺25mの方墳。他にも陪塚が数基あったようですが今は消滅しています。
1896年の地元調査では竪穴式石室に長持形石棺、墳丘に葺石、埴輪があった。石室に入った青年が戻ってくると、朱で体中真っ赤に染まっていたそうです。
鎧(5領)、兜(4領)、刀剣(42本)、鉾(2本)、鉄鏃(107個)など多くの副葬品が出土した。この騒ぎで篠山警察署長が駆けつけ、元通りに埋め戻されたので石棺は開けられなかった。一部の出土品は京都大学博物館に保管されている。
1900年に陪塚と共に陵墓参考地に指定されたが被葬者については比定されていない。
被葬者は大和朝廷と密接に繋がった丹波篠山の国造(国の御奴)だと考えられ、10代崇神天皇(250年頃~318年頃)の四道将軍である丹波道主命が相応しい。丹波道主命は9代開化天皇の孫になるので出生は280年頃、死亡は340年頃でしょうか。
丹波道主命の娘の日葉酢媛が11代垂仁天皇(270年頃~330年頃)の皇后になったのを初めとして、多くの娘が垂仁天皇の妃となった。容姿が悪いと云って返された娘もいる。日葉酢媛は12代景行天皇(285年頃~350年頃)の母となる。
3世紀から皇室と丹波国は経済的・軍事的に重要な関係になり、丹波国から多くの天皇妃が出現した。同時に皇室は近江国の息長氏とも連携が深まっていく。
また丹波国は奈良や京都から山陰の因幡国・伯耆国・出雲国へ行く街道上にあり、立地的にも重要な位置を占めていた。
篠山市は標高200mほどで、東西16km、南北4kmの篠山盆地にあります。盆地の中央は湖だったが排水して湖はなくなった。篠山の民謡デカンショ節は色々な歌詞があるが、「丹波篠山山奥なれど、霧の降るときゃ海の底」と歌われる。
古墳の東にある小山に登ってみるが、急斜面の獣道で年寄りには大変だった。
しかし景色は良かった。古墳の前方部からの景色で、周濠の左に南陪塚が見える。
西の後円部、左に見えるのは北陪塚。
後円部側に篠山市教育委員会の説明板と宮内庁の看板が設置されている。
後円部南から前方部を望む
後円部北から前方部を望む
北陪塚(30mの円墳)を西から望む
北方から陪塚と主墳を望む
南方から後円部を望む
南陪塚(姫塚、1辺25mの方墳)
復元した雲部車塚古墳の石室・石棺と武人、兵庫県立考古博物館展示。朱で染まった石室の壁に武器が金具で固定され、石室の床には淡路産の白い小石が敷かれていた。
雲部車塚古墳の西に飯塚古墳(40mの円墳)があるが、竹林の小山で鬱蒼としている。
これも陪塚でしょうか。
***
先日、運転免許更新の前段階の「高齢者講習」を受けてきました。70才以上の人が免許更新するには前もって自動車学校で高齢者講習を受けておかなければなりません。
講習時間は3時間で運転適正検査や実車運転による指導もあります。講習手数料は5,600円でした。免許更新時には高齢者講習終了証明書を持参します。
75才以上になると更に認知機能を検査する「講習予備検査」を受け、その結果に基づいた「高齢者講習」を受けることになります。
高齢者の事故が多いですから、やむを得ない制度ですね。神社、古墳、博物館へ行くには車が便利ですので、安全運転で楽しくやっていきます。
5世紀初め築造の前方後円墳。東に前方部、西に後円部で、主軸はほぼ東西に向いている。南北に陪塚があり車の両輪のようになっているので車塚と云う。
被葬者は、彦坐王と息長水依比売の子で丹波道主命と云われ、宮内庁の陵墓参考地になっているが、丹波道主命は4世紀前半か中頃に亡くなっているので時代が合わない。
古墳の考古学的な築造年代判定について、例えば4世紀中頃から5世紀中頃というように幅をもたせれば被葬者は丹波道主命だと考えられますが、5世紀初めと判定すれば丹波道主命ではなく、その子孫が被葬者ではないかと考えてしまいます。
墳丘全長140m、後円部径80m、高さ12m、前方部幅89m、盾型の周濠を備え兵庫県で3位の大きさ。1位は神戸市垂水区の五色塚古墳(194m)、2位は姫路市御国野町の壇上山古墳(143m)。
北陪塚は径30mの円墳で、南陪塚(姫塚)は1辺25mの方墳。他にも陪塚が数基あったようですが今は消滅しています。
1896年の地元調査では竪穴式石室に長持形石棺、墳丘に葺石、埴輪があった。石室に入った青年が戻ってくると、朱で体中真っ赤に染まっていたそうです。
鎧(5領)、兜(4領)、刀剣(42本)、鉾(2本)、鉄鏃(107個)など多くの副葬品が出土した。この騒ぎで篠山警察署長が駆けつけ、元通りに埋め戻されたので石棺は開けられなかった。一部の出土品は京都大学博物館に保管されている。
1900年に陪塚と共に陵墓参考地に指定されたが被葬者については比定されていない。
被葬者は大和朝廷と密接に繋がった丹波篠山の国造(国の御奴)だと考えられ、10代崇神天皇(250年頃~318年頃)の四道将軍である丹波道主命が相応しい。丹波道主命は9代開化天皇の孫になるので出生は280年頃、死亡は340年頃でしょうか。
丹波道主命の娘の日葉酢媛が11代垂仁天皇(270年頃~330年頃)の皇后になったのを初めとして、多くの娘が垂仁天皇の妃となった。容姿が悪いと云って返された娘もいる。日葉酢媛は12代景行天皇(285年頃~350年頃)の母となる。
3世紀から皇室と丹波国は経済的・軍事的に重要な関係になり、丹波国から多くの天皇妃が出現した。同時に皇室は近江国の息長氏とも連携が深まっていく。
また丹波国は奈良や京都から山陰の因幡国・伯耆国・出雲国へ行く街道上にあり、立地的にも重要な位置を占めていた。
篠山市は標高200mほどで、東西16km、南北4kmの篠山盆地にあります。盆地の中央は湖だったが排水して湖はなくなった。篠山の民謡デカンショ節は色々な歌詞があるが、「丹波篠山山奥なれど、霧の降るときゃ海の底」と歌われる。
古墳の東にある小山に登ってみるが、急斜面の獣道で年寄りには大変だった。
しかし景色は良かった。古墳の前方部からの景色で、周濠の左に南陪塚が見える。
西の後円部、左に見えるのは北陪塚。
後円部側に篠山市教育委員会の説明板と宮内庁の看板が設置されている。
後円部南から前方部を望む
後円部北から前方部を望む
北陪塚(30mの円墳)を西から望む
北方から陪塚と主墳を望む
南方から後円部を望む
南陪塚(姫塚、1辺25mの方墳)
復元した雲部車塚古墳の石室・石棺と武人、兵庫県立考古博物館展示。朱で染まった石室の壁に武器が金具で固定され、石室の床には淡路産の白い小石が敷かれていた。
雲部車塚古墳の西に飯塚古墳(40mの円墳)があるが、竹林の小山で鬱蒼としている。
これも陪塚でしょうか。
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先日、運転免許更新の前段階の「高齢者講習」を受けてきました。70才以上の人が免許更新するには前もって自動車学校で高齢者講習を受けておかなければなりません。
講習時間は3時間で運転適正検査や実車運転による指導もあります。講習手数料は5,600円でした。免許更新時には高齢者講習終了証明書を持参します。
75才以上になると更に認知機能を検査する「講習予備検査」を受け、その結果に基づいた「高齢者講習」を受けることになります。
高齢者の事故が多いですから、やむを得ない制度ですね。神社、古墳、博物館へ行くには車が便利ですので、安全運転で楽しくやっていきます。
by enki-eden
| 2015-05-24 00:15