古代史探訪

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弥生人のルーツ

 揚子江(長江)内陸部の中流域に「黄河文明」より早く「長江文明」が出現した。彭頭山(ほうとうざん)遺跡や城背渓文化が9,000年前から8,000年前にかけて出現、発達した稲作文化の環濠集落であった。
 その後、大渓(たいけい)文化(6,500年前~5,300年前)が出現、住居地を長江沿いから平野部に移し、灌漑農法による大規模農業を実施。手工業・交易・軍事などに従事する人々が表れた。
 大渓文化を引き継いだ長江中流域の屈家嶺(くつかれい)文化(5,500年前から4,500年前)では分業化が進み、町・都市・城壁都市・国家が成立。玉類、絹織物などが生産された。

 長江下流域には河姆渡(かぼと)文化が7,500年前から5,300年前まで存在した。河姆渡で水田稲作をし、海や長江で魚を捕る稲作・漁労民であった。
 動物の飼育や狩猟、養蚕、機織、漆、土器生産なども行っていた。食人習慣があったようだ。母系社会で高床式住居、倉などを建てた。

 6,000年前には河姆渡の南に馬家浜(ばかほう)文化が出現し、河姆渡文化を発展させて灌漑工事を進め、5,000年前まで続いた。
 馬家浜文化の後継として良渚(りょうしょ)文化が5,400年前に出現、父系社会で都市国家を造った。自然崇拝、太陽信仰、祖先信仰で政教一致。遺跡からは玉器や絹の出土がある。4,200年前に滅んだのは長江の洪水が原因か、または気候寒冷化による北方民の南下か。

 長江文明の民(江南人)のY染色体ハプログループはO2が中心で、黄河文明の民(漢人)のO3とは文化的、民族的に異なる。

 4,200年前に起こった気候の寒冷化によって、北方の黄河流域から漢族が南下してきた。彼らは畑作・牧畜民であり、長江中流域の民を雲南省や貴州省の山岳地帯やインドシナ半島にまで追いやった。これは現代のチワン族や苗(ミャオ)族など少数民族の先祖である。

 長江文明より遅れて発生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作・牧畜の階級社会で、近隣地域を侵略して支配地を拡げていった。
 一方、長江の稲作・漁労民は自然の恵みの中で争いの少ない文明を築いていたので、侵略に長けた北方民に対して長江の民は敗れ、奥地に逃亡した。

 漢族の南下によって雲南省・貴州省などの奥地に逃亡した長江中流域の民の子孫と見られる苗(みゃお) 族の村は日本の弥生時代とよく似た風俗である。苗族は味噌、醤油、なれ寿司などを作り、漆や絹を使っている。川魚を捕り、鵜飼いも行なわれている。
 長江中流域の民はインドシナ半島にまで逃れる人々もあった。下流域の民はベトナムや台湾、日本に逃れてきた人々もある。

 江南人の列島への渡来で最も古いのは6,000年ほど前の縄文時代で、岡山県の朝寝鼻貝塚(あさねばなかいづか)や彦崎貝塚に稲のプラントオパールが大量に見つかっており、稲作が行われていたことが分かる。
 有明海周辺や吉備には4,000年前から3,000年前に江南人が住み着いたと考えられる。
 佐賀県唐津市の菜畑遺跡の水田跡は2,600年前である。彼らは稲作と太陽信仰の民であった。

 縄文遺跡の水田遺構、プラントオパール分析、縄文土器の米粒圧痕、炭化米などにより、縄文時代から稲作が行われていたことが分かる。
 やはり、縄文時代の稲作関連遺跡は九州と岡山県に多いが、大阪府、兵庫県、山梨県、新潟県、青森県にも存在する。縄文時代でも海岸や川沿いに舟で移動し、列島広範囲に交易が行われていた。

 長江流域の民は江南人、或いは倭人とも呼ばれ、後に呉(BC585年~BC473年)と越(BC600年頃~BC334年)を下流域に建国する。中流域には楚(?~BC223年)が建国される。
 江南人(倭人)は稲作や青銅器で栄えたが、春秋戦国時代に呉越の戦争(BC473年)、楚越の戦争(BC334年)、秦の統一(BC221年)、楚漢戦争(BC206年~BC202年)などの結果により、BC5世紀からBC2世紀に渡って波状的に呉人、越人、楚人、漢人が日本列島に逃亡してきたので、縄文時代が終わり弥生時代が始まる。江南人(倭人)と縄文人が混じって弥生人となった。
 江南人(倭人)が列島に多くの国を造ったので倭国と呼び、住民を倭人と云う。稲は江南から列島に直接もたらされたことが稲のプラントオパール分析で分かっている。

 長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が多く、開口部を上にして埋められた。
 長江中流域から出現した「楚」はこの風習をもっている。山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だったことがある。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。

 日本の銅鐸は弥生時代のBC3世紀から紀元3世紀まで祭祀に使用され、弥生時代末期に消滅した。銅鐸は丘の傾斜地の浅い所に埋納されている。
 この銅鐸と銅鐃の共通性から判断すると、弥生人の中でも楚人が銅鐸を全国に広めて祭祀に使った可能性が高い。楚人の代表は素戔嗚(西暦140年頃~200年頃)系・出雲系で、銅鐸祭祀の末期に活躍した。

 銅鐸祭祀が消えたのは、西暦200年頃の「素戔嗚の死」と「出雲の国譲り」が関係していると考えられる。楚人は強くて文化程度も高かったが、Y染色体ハプログループの分析によると、列島での楚人(O1a)の人口比は3%強で人数が少なかった。越人(O2a)は1%強で最も少なく、呉人(O2b)は33%ほどもあり大勢力であった。呉人は奴国の中心勢力だと考えられる。晋書、梁書などに「倭は自ら呉の太伯の後という」とある。
 黄河系の漢人(O3)は15%と意外に多い。秦の始皇帝の圧制を避け、列島に来た漢人は存在するが、江南人のY染色体ハプログループに含まれるO3もある。
 3世紀後半になると、銅鐸に替わって三種の神器が祭祀に使われ、弥生時代から古墳時代に突入、三種の神器は現代の皇室にまで連綿と継承されている。
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by enki-eden | 2015-06-14 00:19