古代史探訪

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弥生時代と長江文明(江南文明)

弥生時代
 江南人(長江流域の呉・越・楚の人々)が列島に渡来してきた。江南人は目が細く、鼻は低く、体毛は薄く、縄文人とは大きく違う。
 江南人の渡来により、本格的に水田稲作の農耕生活開始。江南の水田に生える雑草や昆虫も稲と一緒にやってきた。
 江南人は道教的な庶民宗教や思想を広めた。縄文人と江南人が交わり弥生人となって弥生時代の幕開け。

江南人
 中国春秋時代の呉・越・楚の人々。長江(揚子江)の中下流域に住んでいた。民族的・文化的に漢民族とは異なり、倭人と呼ばれていた。
 黄河流域の漢民族が麦の畑作と牧畜で、漢字を使っていたのに対し、江南人は水田稲作、養蚕、漁労、交易で、呉と越は文字をあまり使わなかった。
 1993年に楚文字で書かれた竹簡が大量に発見された。楚の貨幣は貝の形をした青銅貨で独自の文化・経済を形成していた。楚の埋葬は漢と違って頭を南向きに安置する。

 江南人の海洋民がインドネシア、マレー、沖縄、九州、吉備など各地に進出して交易を行っていた。日本には3、000年以上前から交易に来ていた。従って縄文時代末期には江南文化が徐々に広がり出しており、稲作も一部行われていた。

 呉は太湖や揚子江(長江)を挟んで越と対立し、抗争を繰り返していた。呉も越も大型船の建造と外洋航海に優れ、青銅器・鉄器を使用していた。呉王夫差がBC473年に越王勾践に敗北し、呉は滅亡した。越に滅ぼされた呉人は江南を追われ、北上して山東省徐州へ逃れる。

 越は浙江省紹興(会稽)に都を置き広大な版図をもった。良渚文化圏とほぼ重なり、河姆渡遺跡もこの中に含まれる。越は北に接する呉と抗争を繰り返し、これを破り揚子江(長江)下流域の覇者となったが、越王無彊はBC334年に中流域の大国・楚の威王熊商に敗れ、越人は滅亡した。
 越人は南下してベトナムや雲南に逃れ、北上したグループは山東省徐州の呉人を追い出す。呉人と一部の越人は朝鮮半島南部、九州、山陰などにやってきた。

 楚は大きな版図をもった広域国家で、稲作農業を中心に製銅・製鉄・漆器・紡績などが発達していたが、戦国末期に秦と死闘の末、BC223年に敗れた。
 楚人は各地に逃れ、一部の海洋民は日本列島にやってきた。楚の国姓は羋(び)で、王族は熊(ゆう)氏である。列島にやってきた楚人は地名・人名に「熊」や「隅」を使ったと考えられる。素戔嗚尊の「熊野」も楚人由来か。

 このように江南人はBC5世紀からBC2世紀の間に波状的に渡来し列島全土に広がっていったので、縄文時代から弥生時代に移っていく。
 江南人は高度の文化と有力な水軍を保有している。阿曇氏、海部氏、尾張氏、和邇氏、宗像氏などの水軍となって山陰方面や瀬戸内方面、朝鮮にも進出して交易をした。やがて畿内にもやってきて盛んに交易をしていた。
 海洋民は鉄を独占する事で農民を支配したので、交易路と製鉄技術を重視した。

 江南人にとって江南に似ている日本の気候は住み易く、急速に日本中に広がって行った。今は梅雨の時期ですが、天気図を見ると良く分かるように、梅雨前線が長江から日本列島に長く拡がり、前線下に水田稲作に適した気候をもたらしている。特に有明海から筑後川沿い、瀬戸内海沿いなどは江南人の好む気候・地形であった。
 そして江南人は水田稲作以外に、高床式住居、千木、鰹木、竹馬、下駄、歌垣、鵜飼等をもたらした。
 また、租税を取ると云う仕組みや、国家創設や政治を行うシステムをもたらし、弥生時代が始まった。

 江南人は銅剣と銅鏡の二種の神器による祭祀をしており、銅剣は幅広、銅鏡は大型であった。これに八尺瓊勾玉が加わり三種の神器として弥生時代後期から古墳時代に全国に拡がっていった。三種の神器は現代の皇室にまで連綿と引き継がれている。

 江南人だけでなく、秦始皇帝の過酷な税と労役に耐えられない漢族も朝鮮半島や日本列島に逃れてきた。
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 6月22日(月)は夏至です。2013年6月16日投稿の「太陽信仰における夏至」、
2014年6月14日投稿の「ヨーロッパの夏至祭と冬至祭」をご参照ください。
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by enki-eden | 2015-06-18 00:15