古代史探訪

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日本書紀の神武天皇年

 神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇、実名は彦火火出見(ひこほほでみ)という。
 15才で立太子、これは成人式か。吾平津媛(あひらつひめ)を娶って、手研耳(たぎしみみ)を生んだ。

 「天孫が降臨してから179万2470余年になる」と日本書紀は記す。 記紀を編纂した8世紀の大和朝廷(41代持統天皇と藤原不比等)は天照大神を皇祖としているので、ここに云う天孫とは天照大神のことで、生年が179年で没年が247年だと云っている。
 これは間違いなく卑弥呼のことです。歴史と神話を混ぜるなとおっしゃる方々にはご容赦願いますね。
 奴国王族の紀元と西暦は偶然に一致している。初代の奴国王は国常立(くにのとこたち)で、奴国元年(=西暦元年、辛酉年)生まれ、漢委奴国王だと考えられる。
 私見ですが、漢委奴国王の意味は「漢と委(倭)が交易するに際し、倭の代表、窓口は奴国王が務める」という意味です。奴国王は、そのための金印を西暦57年に後漢の光武帝から授かった。
 その後、西暦107年に後漢に朝貢した奴国王・角杙(つぬぐい)は、倭王帥升として政治的にも倭の代表となった。

 磐余彦(初代神武天皇)は45才の時、甲寅年(174年か234年)に筑紫から大和へ東征を始めた。神武紀の年令は春秋年採用で、春と秋に年をとるので45才は23才の時と考えられる。甲寅年も春秋年採用の当時では174年と234年の中間の204年(甲申)だと考えられる。
 従って、磐余彦の生年は204年から23年を引いて西暦181年(辛酉)になる。素戔嗚(すさのお)が200年頃に亡くなって大国主が後継者になると、高皇産霊(たかみむすひ)が北部九州の出雲族支配地を明け渡せと「出雲の国譲り」を強制した。
 これを全国に広げるのが高皇産霊の戦略で、204年に磐余彦を大和国に差し向けた。全国制覇がほぼ完了するのが14代仲哀天皇の頃で、神功皇后が362年に新羅へ軍を進めるまでになる。

 暦については、持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である「儀鳳暦」を試用するため、それまでの「元嘉暦」との並用を始め、5年後の文武天皇元年(697年)から元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなった。
 697年は記紀の編纂真っ最中で、記事の年代特定に混乱があったと考えられる。

 磐余彦は23才の時(204年)に「東の方に良い土地(大和国)があり、饒速日が天下った。大和国はこの国の中心地だから、私もそこに行って都をつくることにする。」と云って東征を始めた。
 私見では、饒速日(165年頃出生)の筑紫から大和への東遷は西暦185年頃で、纏向(まきむく)に都を置いた。

 磐余彦は204年に先ず筑紫の岡水門(おかのみなと、遠賀川河口、磐余彦の出生地)に行く。次に安芸(広島県安芸郡)へ行く。
 翌年の乙卯(175年か235年)に吉備(岡山県児島郡)へ行く。春秋年採用の当時では乙卯は175年と235年の中間の205年(乙酉)です。
 しばらく吉備に留まり、戊午年(178年か238年)に吉備から東に向かう。西暦208年(戊子)のことです。

 河内国日下村(くさかむら)に着いたが長髄彦(ながすねひこ)に阻まれ、兄の五瀬(いつせ)が負傷して亡くなる。熊野灘の方に遠回りし、兄の稲飯(いなひ)と三毛入野(みけいりの)の二人が怒りのため海に入って亡くなる。これは東征達成のための人身御供(ひとみごくう、神への生贄)でしょうか。
 磐余彦と手研耳の軍(大伴や久米)は熊野経由で大和に入って勝利する。

 翌年己未(179年か239年)に大和国橿原に都を造る。209年(己丑)のことです。
 翌年庚申(180年か240年)、事代主の娘・媛踏鞴五十鈴媛を正妃とする。210年(庚寅)のことです。
 翌年辛酉(181年か241年)、磐余彦(神武)は橿原で即位する。皇子・神八井と神渟名川耳が生まれた。211年(辛卯)のことです。神武天皇30才(数え年では31才)。

 31年(神武天皇30才の時)、国見をする。即位した211年のことです。ここの神武天皇年だけは春秋年ではなく、数え年の31才と一致している。
 甲子(184年か244年)、神武天皇は高皇産霊を鳥見山に祀る。214年(甲午)のことです。
 42年(神武天皇41才の時)、皇子・神渟名川耳が11才で立太子。222年のことです。
 76年(神武天皇在位37年、西暦248年)、神武天皇崩御。享年67才。崩御年は年令ではなく、在位年の76年(実際には37年)で記している。
 日本書紀には享年127才、古事記には137才と記されている。

 卑弥呼の生没年は179年~247年、初代神武天皇は181年~248年で二人は同じ時代を生きた。三国志の魏の武将・司馬懿(しばい)は179年~251年。
 三国志の著者である陳寿は233年~297年で、卑弥呼の後継者・臺與(とよ、235年頃~295年頃)と同じ時代を生きた。

 戦前の皇国史観では神武天皇即位を紀元前660年(辛酉年)とした。1940年に歴史学者の津田左右吉(1873年~1961年)が皇国史観に反対し、記紀神話を批判した。
 戦後の多くの歴史学者は津田左右吉に同調し、日本書紀・古事記は虚偽とする戦後史学が中心となった。日本の古代史は戦後史学により抹殺された。
 神村律子さんのホームページも参考になりますよ。 神村律子のホームページ

 このような時代背景の中で、考古学者の故・森浩一先生(1928年~2013年)は考古学資料と文献史料を総合することの重要さを成果として示した。考古学と文献学を総合して考えることは歴史研究の姿勢というべきだと主張。
 その頃の日本は(特に昭和30年代)、津田左右吉の影響で歴史を科学的に研究すべきということで、記紀神話を読むのは科学者として失格という風潮が生まれていた。
 そんな風潮の中で森先生は古墳の出土品を解明するために、日本書紀の記述が重要だと考えた。
 (森浩一著、日本神話の考古学、記紀の考古学)

 古代史の研究は、考古学・歴史学・記紀などの文献史料・神社の伝承・地域の伝承などを総合的に研究して解明すべきものと私は考えています。皇国史観にも戦後史学にもそれがありません。大きく偏った非常に不完全なものになっています。

 私見ですが、神功皇后年の分析は次の図をご覧ください。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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by enki-eden | 2015-08-24 00:24