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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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藤原宮の南北線

 京都大学名誉教授であった故・岸俊男氏(1920年~1987年)は、藤原宮の中軸線の南延長線上に天武・持統天皇陵がぴったり収まると主張。岸氏は奈良県立橿原考古学研究所の所長も務めた。

 この説を受け、藤原宮と天武・持統天皇陵を結ぶ線は「聖なるライン」と呼ばれてきた。藤原宮の中心は東経135度48分25秒、北緯34度30分にある。この南北ラインに関係する古墳は北から順に、
 菖蒲池古墳、   東経135度48分28秒、北緯34度28分22秒、
 天武・持統天皇陵、東経135度48分27秒、北緯34度28分8秒、
 中尾山古墳、   東経135度48分21秒、
 高松塚古墳、   東経135度48分23秒、北緯34度27分44秒、
 文武天皇陵、   東経135度48分25秒、
 キトラ古墳、   東経135度48分18秒、北緯34度27分、
藤原宮の南北線_d0287413_932433.jpg


 これに、束明神古墳とマルコ山古墳を加える学者もいる。京都橘女子大学教授の猪熊兼勝氏は天武・持統天皇陵、中尾山古墳(文武天皇陵か)、高松塚古墳(弓削皇子か刑部皇子か)、文武天皇陵、キトラ古墳(高市皇子か)、束明神古墳(草壁皇子か)、マルコ山古墳の7陵墓を北斗七星の形に築造したと主張。
 無理をすれば北斗七星に見えないこともないが・・・
藤原宮の南北線_d0287413_9332236.jpg


 上記各古墳の被葬者は40代天武天皇の皇子や孫と見られる。菖蒲池古墳は築造が7世紀中頃で、694年の藤原宮よりも古いので、偶然この位置にあると考えられる。菖蒲池古墳は皇族ではなく蘇我氏系の墳墓か。
 藤原宮は天武天皇が計画・造営したが、完成を見る前の686年に崩御。天武天皇は藤原宮の真南に自身の陵墓築造を指定したと考えられる。皇后の41代持統天皇(702年崩御)は天武天皇陵に合葬された。

 そして、上記以外に藤原宮と東経がぴったり合う天皇陵がある。38代天智天皇陵である。天智天皇陵は京都市山科区御陵上御廟野町にあり、東経135度48分25秒、北緯34度60分。藤原宮の真北55kmほどである。
 天智天皇は671年崩御で、天武天皇は天智天皇陵の真南に藤原宮の築造を計画したと考えられる。7世紀の天文学と測地学の技術で55km離れた地の正確な位置取りができたのは、天文学的に精緻を誇るエジプト・ギザの大ピラミッドの方位誤差に匹敵する高精度になっている。
 正確に天智天皇陵の真南に藤原宮は築造された。

 天智天皇陵の真北にある「鏡の山」は標高220mで、山頂から南を望むと高い山が無いので大和盆地の南部まで見通すことができると云う。大和三山も見える、そのような立地に天智天皇陵を築いたのかもしれない。

額田王が天智天皇陵で詠んだ挽歌(万葉集2-155)
やすみしし わご大君の かしこきや 御陵(みはか)仕ふる 山科の 鏡の山に
夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと哭(ね)のみを 泣きつつありてや
百磯城(ももしき)の 大宮人は 去(ゆ)き別れなむ

   



 古代では陰陽五行説などによる「方位」が非常に重要視され、現代では考えられないくらいに緻密に計算して行動に移している。現代でも方位の考え方が少しは残っています。
 日本では中国式の南北方向よりも東西方向に関心が強い。

 箸墓古墳の東経は135度50分、北緯34度32分、三輪山は東経135度52分、北緯34度32分です。 この真東の伊勢国に天照大神を祀る斎宮が11代垂仁天皇の時代(4世紀前半)に始まる。
 この斎宮跡は三重県多気郡明和町にあり、東経136度37分、北緯34度32分で、箸墓古墳や三輪山の真東70kmに位置する。

 天武天皇の飛鳥浄御原宮は東経135度49分、北緯34度28分、藤原宮は東経135度48分、北緯34度29分で、持統天皇はこの真東85kmの伊勢神宮を整備拡張した。内宮は北緯34度27分、外宮は北緯34度29分です。
藤原宮の南北線_d0287413_9391771.jpg

藤原宮の南北線_d0287413_9393782.jpg


 日本の方位の関心事は太陽信仰による東西方向ですが、11代垂仁天皇の皇女倭姫が天照大神の御魂である八咫鏡を携え近畿地方を放浪して最後に伊勢に落ち着いたが、この放浪は八咫鏡による結界を張るための旅だったのでしょう。この結界を元伊勢結界といいます。

 東西軸だけではなく、天智天皇陵を通る南北の座標軸も重視されていた。都の設定や天皇陵などの立地はこのような座標軸に基づき築造されたようです。
 そして、太陽信仰による東西軸以外にも、重要な東西の座標軸があったようです。この南北、東西の座標軸により大和・河内・摂津・山城の広範囲における結界が張られていたと考えられます。

 縄文時代の環状列石は聖域の結界表現だと考えられます。
 弥生時代には結界に銅鐸、鉾、剣の埋納があります。
 古墳時代の崇神天皇陵(北緯34度33分27秒)、応神天皇陵(北緯34度33分45秒)、仁徳天皇陵(北緯34度33分50秒)を結ぶ東西座標軸は強力な結界を表しています。

 また、摂津国難波宮、生駒山(生駒大社)、垂仁天皇陵、奈良春日山(春日大社)を結ぶ東西線も強力で、これらの南北線と東西線を基に六芒星(カゴメ)や陰陽五行思想の五芒星が描かれたと考えられる。

 天武天皇は本格的に結界を取り入れて飛鳥浄御原宮を造営、次に藤原京を企画した。儒教の周礼に従って10坊10条の5.4km四方の藤原京を計画したと考えられる。周礼に従い、内裏は藤原京の北辺ではなく、ほぼ中央に位置する。中央の朱雀大路が天智天皇陵に繋がる。平城京も平安京も内裏は中央ではなく北辺に位置する。
藤原宮の南北線_d0287413_9405510.jpg

 藤原京を護る四神は、東の青龍、西の白虎、北の玄武、南の朱雀である。四神はキトラ古墳の壁画にも描かれている。
 5.4km四方の京域の中に収まる耳成山、天香具山、畝傍山の大和三山も重要な結界になる。そして天武天皇は陰陽寮、占星台を興し、陰陽師を育成した。
 その後、平城京、長岡京、平安京も結界により都を何重にも護る思想が取り入れられた。秦氏の影響も大きい。

 2013年12月20日投稿の「京都の結界」をご参照ください。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp

by enki-eden | 2015-10-10 00:29