古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

呉王夫差の銅矛と越王勾践の銅剣

呉王夫差の銅矛(武漢市湖北省博物館蔵)
 「呉王夫差 自作用矛」と刻字されている。春秋時代末、長さ29.5cm、幅5.7cm、1983年湖北省江陵県馬山5号墓出土。錆(さび)ていない。

 刻字の書体は鳥書体で、随所に鳥の頭を図案化した装飾を施している。中原志向の強い夫差(BC473年没)の意向に従っている。夫差は王としての資質に欠けると見られていたが、長兄の太子が亡くなり王となった。
 銅矛には越王勾践の剣によく似た文様があり、呉人と越人は江南(長江流域)の同じ人種(倭人)で文化も同じ。
 この銅矛以外にも「夫差」の銘のある剣が4本発見されており、1本は蘇州博物館に収蔵されている。

 日本の古代氏族名鑑である新撰姓氏録(815年)に「右京 諸藩 漢 松野連(まつののむらじ) 呉王夫差之後也」と記されており、松野連は呉王夫差の後裔を称している。
 BC473年の呉越戦争で呉王夫差は越王勾践に敗れ自決、王族や呉人の一部は九州北部に逃亡した。姓は姫(き)であったので、倭国では姫、木、紀などを使ったが、7世紀に「松野」に替えた。

越王勾践の銅剣(武漢市湖北省博物館)ウィキペディア
 「越王鳩浅(勾践)自作用剣」、春秋時代末、長さ55.7cm、幅4.6cm、1965年湖北省江陵県望山1号墓出土。呉王夫差の銅矛と同じく錆(さび)ていない。
 越王勾践(BC465年没)が自ら用いるために8本の剣を保有していたうちの1本で、呉王夫差の銅矛と共に精巧な造りになっている。
 保存状態は非常に良くて鋭利、鍔(つば)にはトルコ石とガラス玉が嵌められ、全体に菱形文様が刻まれている。
 銘文の書体は春秋戦国時代に好まれた「鳥書体」で、随所に鳥の頭を図案化した装飾を施している。その後、文字の書体は秦始皇帝によって小篆(しょうてん)書体に統一された。
 小篆は現在の日本でもパスポートの表紙に使われており、書道、印鑑、碑文などに使われることがある。
d0287413_2357579.jpg

 呉王夫差の銅矛と越王勾践の銅剣が1955年と65年に楚の都(徐州市)の同じ場所から発見された。BC473年に越が呉に戦勝して呉王夫差の矛や剣などを戦利品とし、BC334年に楚が越に戦勝して呉王夫差の矛と越王勾践の剣などを戦利品としたのでしょう。
 秦始皇帝がBC221年に全国を統一した時は、楚が宝物を地中に隠し略奪を免れた。

秦の始皇帝(BC259年-BC210年)の銅剣
秦の青銅長剣戦国時代
 長さ91cm、幅3.3cm、1975年峽西省始皇帝陵東側1号兵馬俑出土(峡西省博物館蔵)
 儀杖用長剣で長く、細いので東洋の剣とは異なり西アジア製か。今でも鋭利で、18枚重ねた紙が一度に切り裂けたと云う。防錆のクロームメッキのような仕上げになっており、錆びていない。

 始皇帝は古い思想、しきたり、制度に強く反対し、焚書を命じた。その結果、新たに記す文字を小篆(しょうてん)書体に統一することもできた。

 国立国際美術館(大阪市北区中之島)にて「始皇帝と大兵馬俑」が7月5日から10月2日まで展示されています。重要な文物の展示で入場料は1,500円です。

 新撰姓氏録に「左京 諸藩 漢 太秦公宿禰 秦始皇帝三世孫孝武王之後也」と記されており、秦氏は秦始皇帝の子孫だと称した。
[PR]
by enki-eden | 2016-07-14 07:50