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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥三陵

 日本武尊(305年頃-335年頃)は12代景行天皇(285年頃-350年頃)の皇子で、14代仲哀天皇(320年頃-362年)の父である。
 日本武尊の母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)、后は11代垂仁天皇(265年頃-330年頃)の皇女・両道入姫(ふたじいりひめ)ほか。
 日本武尊の幼名はヲウス(小碓)、あるいは日本童男(やまとおぐな)で、熊襲建(くまそたける)を成敗した時に「ヤマトタケル」の名を贈られた。

 日本武尊は熊襲征討から帰還すると、景行天皇の要請により征夷将軍として東国征討に出発した。景行天皇は日本武尊のことを「身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電のようで、攻めれば必ず勝つ。形はわが子だが、本当は神人(かみ)である。天下も位もお前のもの同然である。」と褒められた。

 東国遠征中の相模で海が荒れて遭難しそうになった。同行していた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が船から海に飛び込み、犠牲となって一行は難を逃れた。
 弟橘媛は穂積忍山宿禰(ほづみのおしやまのすくね)の娘で、物部系。船団の運営は穂積氏が担ったのでしょう。日本武尊の従者として吉備武彦と大伴武日連が付き添った。

 日本武尊一行は神奈川県の三浦半島東部(横須賀市走水、はしりみず)から対岸の千葉県の細長い富津岬(富津市富津公園)に渡海しようとして嵐に遭った。富津は「ふっつ」と読む。市名の由来は日本武尊伝説により、海に投身した弟橘媛の袖や腰巻が海岸に流れ着いたことに由来する。
 布が流れてきた津→布流津(ふるつ)→富津(ふっつ)になったと云う。
 袖ヶ浦市と習志野市袖ヶ浦も弟橘媛の由来による地名です。木更津市(きさらずし)も日本武尊が弟橘媛を偲んでしばらく留まったことによる地名と云われる。君去らず→木更津。





 日本武尊一行の遭難とは時代も状況も違いますが、1910年に逗子開成中学校のボートを海に出した12人の生徒らが七里ガ浜沖で遭難、全員が死亡した事件を私は思い浮かべます。場所は三浦半島西部で、日本武尊の遭難場所の20kmほど西です。
 この旧制中学生遭難の鎮魂歌としてアメリカのインガルス作曲の讃美歌に日本語の歌詞をつけて作られたのが「七里ヶ浜の哀歌」です。
 常陸国風土記には日本武尊は倭武天皇(倭建天皇)と記されている。
 日本武尊は東国征討の帰りに尾張国に入り、宮簀媛(みやずひめ、尾張氏)と結婚したが、日本武尊は草薙剣を携えずに伊吹山の荒ぶる神を討ちに行く。
 この時、日本武尊は病気になり能褒野(のぼの、三重県亀山市)で亡くなった。32才だったと云う。 草薙剣は「三種の神器」の一つとして熱田神宮に祀られている。
 日本武尊は戦後史学により架空の存在とされ、古代史が歪曲・否定されているので、古代史を正しく復元することが重要です。

 日本書紀の12代景行天皇紀に、「皇子の日本武尊が伊勢国の能褒野(のぼの)で病没したので、景行天皇は官人に命じて能褒野の陵に葬られた。」とある。
 そのとき日本武尊は白鳥(しらとり)となって、陵から出て大和国を指して飛んで行った。従臣が柩を開けると衣だけが残っていた。そこで白鳥を追って行くと大和国の琴弾原(ことびきのはら、御所市富田)に留まった。それでそこに陵を造った。
 白鳥はまた飛んで河内国に行き、古市邑(ふるいちむら、大阪府羽曳野市軽里、はびきのしかるさと)に留まった。またそこに陵を造った。それからついに高く飛んで天に昇られたので、衣冠だけを葬った。天皇は建部(たけべ)を日本武尊の御名代(みなしろ、王族の功績を後世に伝えるために置かれた部民)とした。
 人々はこの三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼んだ。

①能褒野大塚古墳、三重県亀山市田村町1409、前方後円墳で4世紀末築造。
 墳丘長90m、後円部径54m、高さ8.5m、
 前方部が南東方向の伊勢湾を向いている。
 明治28年、古墳の傍に能褒野神社が創建された。
②日本武尊白鳥陵(しらとりのみささぎ)、
 奈良県御所市富田、28m×45mの長方丘。
③軽里大塚古墳(前の山古墳)、大阪府羽曳野市軽里、190mの前方後円墳、
 5世紀後半築造。羽曳野市の地名由来は、
 「白鳥がくように飛び立った」と云う。
  


 2014年7月2日投稿の「建部大社①」をご参照ください。

 日本武尊が能褒野で詠んだ望郷の歌
 やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるはし

七里ヶ浜の哀歌



印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp

by enki-eden | 2016-11-01 00:38