古代史探訪

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肥後国風土記逸文

 肥後国名の由来について13世紀後半完成の釈日本紀に、
 『肥後国風土記に曰く、肥後国は元、肥前国と合わせて一つの国であった。10代崇神天皇の時代に、益城郡(ましきぐん)の朝来名(あさくな)の峰(朝来山、あさこやま、465m)に打猿(うちさる)と頸猿(うなさる)と云う名の二人の土蜘蛛がいた。
 180人ほどの部下を率いて朝来名峰を拠点とし、朝廷に逆らって征伐できない。天皇の勅を受けて肥君の祖である健緒組(たけおくみ)命が賊を誅殺した。
 健緒組が国を巡察し、八代郡の白髭山に来ると日が暮れたので宿泊した。その夜、大空に火が出た。その火は自ら燃え、徐々に下って白髭山に落ちて消えた。健緒組は大いに驚き、事の次第を天皇に報告した。天皇は火の下りし国なれば、火の国と名づくべしと言われた。
 また、12代景行天皇が熊襲を誅殺された後、巡幸されたが海上で日が暮れてしまった。すると行く先に火の光が見え、その方向に舵を取ると岸に着くことができた。天皇は火の燃えるところはどこで、如何なる火なのかと聞かれた。土地の人が、ここは火の国八代郡の火の村ですと答えたが、何の火かは分からないと云った。
 天皇は、燃える火は人の火ではない、この火が火の国の地名由来だと分かったと言われた。』とある。

 私見ですが、魏志倭人伝記載の狗奴国は肥後国(熊本県)と考えています。女王国の南に狗奴国があり、女王国に属せず常に争っていた。首長は狗古智卑狗(菊池彦)で、菊池川が熊本県菊池市から玉名市に流れて有明海に注ぐ周辺地の出身か。



 肥後国の郡名は、玉名郡、飽田郡(あきたぐん)、山鹿郡(やまがぐん)、菊池郡、阿蘇郡、合志郡(ごうしぐん)、山本郡、託麻郡(たくまぐん)、益城郡、宇土郡、八代郡、葦北郡、球磨郡、天草郡。
 肥後国の中心地域は託麻郡と飽田郡(現在の熊本市)で国府や国分寺が置かれた。

 健緒組は熊本市東区健軍本町(けんぐんほんまち)の健軍神社(けんぐんじんじゃ)と繋がりがある。祭神は健軍大神(健緒組命)、健磐龍命(阿蘇山の神)。
 社殿は西向きで、神水(くわみず)1丁目交差点に石の鳥居があり、東へ550m行くと健軍交差点に加藤清正公銅像が目に付く。信号を渡ると「健軍神社参道」の標識があり、神社の神門まで750mもある。参道は一般道を兼ねているが参道の両側には灯篭が連なっている。神門前にも鳥居があるが、珍しい形で高さが低く幅が広い。
 地元では健軍神社を「たけみやさん」と呼ぶらしい。「たけみや」を昭和以降に「けんぐん」と音読みするようになった。

 釈日本紀は阿蘇山(閼宗岳、あそのたけ)について、「筑紫国風土記に曰く、肥後(ひのみちのしり)の国閼宗(あそ、阿蘇)の縣。縣の西南方向二十余里に禿山があり、閼宗の岳と云う。
 山頂に沼があり、時々水が満ち、南から溢れ出て白川に流れ込むと魚が死んでしまう。地元では苦水と云う。山の形はそびえ立って天に届き、諸々の川の源となり、徳は大きく高く真に人のようだ。奇しき形は天下に二つ無し。国の中心にあるので中岳と云う。いわゆる閼宗の神宮(かむつみや)、是なり。」とある。

 阿蘇文書に、「肥後国風土記に曰く、12代景行天皇が玉名郡の長渚の濱を出発し、阿蘇郡に行幸し、周囲を眺めたが原野が広いだけで人家が見当たらない。この国に人は居るのかと言われた。
 すると二柱の神が現れ、我らは阿蘇都彦と阿蘇都姫、我らが住んでますよと云って消えた。神名により当地を阿蘇郡と名付けた。二柱の神の社は阿蘇郡の東に鎮座している。」

 阿蘇宮由来記によれば、神武天皇の皇子・神八井耳命の子である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇に封じられ、阿蘇都彦と称して阿蘇に土着。その子・速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が阿蘇国造に任ぜられ阿蘇氏の姓を賜った。
 阿蘇氏は阿蘇国造や阿蘇郡司として当地を支配し、阿蘇神社の宮司を兼ねた。現在も大宮司は阿蘇氏である。
 阿蘇神社は熊本県阿蘇市一の宮町(阿蘇山北麓)に鎮座、肥後国一宮で祭神は健磐龍命(阿蘇都彦)と阿蘇都比咩命。全国に450社ある阿蘇神社の総本社となっている。
 残念ですが、阿蘇神社は2016年4月の熊本地震で楼門が倒壊、拝殿が全壊、神殿が損壊した。

 阿蘇山は火の国熊本のシンボルで、高岳(1,592m)を最高峰に、根子岳(1,433m)、中岳(1,506m、火口が有名)、烏帽子岳(1,337m)、杵島岳(1,321m)の阿蘇五岳とこれを取り囲む外輪山からなっている。
 阿蘇山から熊本市中心部へは白川と緑川が流れて有明海に注ぐ。

 阿蘇山は過去30万年の間に4度の大噴火を起こしている。その度に火砕流堆積物が積り、火山灰や軽石などが堆積した。阿蘇山に降った雨が地中の分厚い火砕流堆積物を通って36km西の熊本市中心部に湧水として湧き出てくる。
 このため、熊本市では水に関する地名が多い。熊本市中央区「神水(くわみず)」は健軍神社の西に在り、神水泉と称する湧水があったことによる。
 熊本市は地下水が豊富で水道水の全て(1日に22万㎥)を地下水で賄っている。健軍神社の南方には熊本市東区「水源」がある。水源1丁目1-1に健軍水源地があり、地下水で熊本市の使用量の四分の一を賄っている。
 このように阿蘇山の傾斜が熊本市中心部の平地にぶつかった所で湧水が発生し、井戸を掘ると豊富な地下水が湧いてくる。
 熊本地震で被害を受けた南阿蘇村でも湧き水が豊富で、断水した時の生活を支えている。しかし被災地では温泉の源泉が枯れたり、湧き水の名所で水が出なくなったりする異変が生じている。大きな地震が何度も相次いだことで地下水の流れに変化が起きた。水の名所として有名な「水前寺成趣園」(熊本市中央区)も一時、池の大部分が干上がった。

 熊本市は「森の都」とも云いますが「水の都」です。大阪市も水の都と云われますが、地下水ではなく川や運河による水運です。

 日本書紀に景行天皇が葦北の小島(八代市の球磨川河口)で休息して食事の時、水が無かったので小左と云う者が神に祈ったところ冷水が湧き出たので天皇に献上した。それでこの島を水嶋と呼ぶようになったとある。
 万葉集に水島を詠っているものが数首ある。
    聞きしごと まこと尊く 奇しくも 神さびをるか これの水嶋
           巻3-245 長田王(おさだのおおきみ、737年没)


 肥後葦北国造の三井根子命(みいねこのみこと)の子に刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)がおり、出雲国神門郡高岸郷(出雲市塩冶町)には式内社の阿利神社が鎮座し、味耜高彦根命が祀られている。
 葦北国造は出雲系と考えられる。西暦200年頃の出雲国譲りから150年ほど経った12代景行天皇や13代成務天皇の時代になると出雲系の国造が増えてくる。
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by enki-eden | 2017-04-14 00:25