古代史探訪

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肥前国風土記

 神八井耳(神武天皇の子)の子孫の志貴多奈彦(しきたなひこ)の子・遅男江(ちおえ)が10代崇神天皇に火国造(熊本県中部)に任じられた。
 健磐龍命(たけいわたつ、熊本県阿蘇市の阿蘇神社の祭神)を火国造の祖とする説もある。阿蘇神社では健磐龍を神八井耳の子としており、健磐龍は阿蘇国造の祖と考えられる。
 阿蘇神社(肥後国一宮、阿蘇治隆宮司)は2016年4月に頻発した熊本地震の横揺れで楼門が倒壊、拝殿が全壊、神殿が損壊した。現在復旧工事を進めており、奉賛(募金)も募っている。

 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、「阿蘇」の地名由来は「麻」で、「宇佐」の地名由来も「麻」となっている。
 古事記には火の国を筑紫島の四面の一つ、建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)としている。

 火の国の由来
 肥前国風土記と肥後国風土記逸文によると、益城郡(ましきぐん)の土蜘蛛(つちくも)が天皇に背いたので、10代崇神天皇が健緒組命(たけおくみのみこと)に討たせた。
 その後、健緒組が国内巡察して白髪山(しらかみやま、1,244m、球磨郡五木村)に着いたとき、夕暮れ空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告した。天皇は「火の下る国であるから火の国というべし」と云われ、健緒組に「火の君」の姓を賜った。
 健緒組は佐賀県武雄市の武雄神社(祭神:武内宿禰、武雄心命ほか)と繋がりがあるようだ。武雄神社の本来の祭神は健緒組命であったとも云うが、健緒組命は武雄心命(武内宿禰の父)であるとも云う。健緒組は年代的には武雄心の父の家主忍男かもしれない。
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 日本書紀によると、12代景行天皇が5月、葦北(あしきた、熊本県葦北郡)より船出して日暮れになった。その時、遠方に火の光を見つけて着岸した。そこは八代県の豊村であった。火の光の主を問うと、主は不明で人の火ではなかったので、その国の名を火の国と名付けた。
 肥後国風土記逸文にもこれに似た記事が載っている。

 火の国の地名由来としては阿蘇山(1,592m)の噴火、八代海の不知火(しらぬい、蜃気楼)、氷川町氷川(火川)、火打ち石の産地などの説もある。現代でも観測される隕石の火球かもしれない。
 また、八代郡肥伊郷(八代郡氷川流域)に古代の多氏の流れを汲む火君(ひのきみ)と呼ばれる有力豪族がいたことに由来するとも。

 私見ですが、火(肥)国の語源は羋(び)の国かもしれないと考えています。中国における春秋戦国時代の楚の国姓は羋(び)で、王の氏は熊(ゆう)です。紀元前221年に秦始皇帝が全国を統一、紀元前206年に秦が滅亡、楚は漢と覇権を争って楚漢戦争(項羽と劉邦、BC206年-BC202年)に敗れ滅亡。楚人の一部が列島に逃れた。
 私は逃れて来た楚人の羋国が火(肥)国になったのではないかと考えています。王の氏・熊(ゆう)が由来となって熊本、隈本、球磨川などの地名が発生したのでは? 
 肥後国は14世紀頃から「隈本(くまもと)」と呼ばれていたが、1607年に加藤清正が築城の際、「熊本」に変えた。
 3世紀には狗奴国として魏志倭人伝に記され、有明海の制海権や領土紛争などで邪馬台国と争った。狗奴国は魏ではなく呉と交易していたと考えられる。
 私は吉備国の「キ」は呉の姫(き)で、「び」は楚の羋(び)で両者合わせて「きび」になったとも考えています。有明海地方と吉備地方はどちらも楚人のDNAが多く認められます。

 人吉市や山鹿市の横穴式墳墓は揚子江(長江)沿いの江南人の墳墓に同じ。装飾文様にも特色がある。
 紀元前の江南地方の墓制に石棚墓があり、下には甕棺が埋葬されている。この石棚墓は江南人(倭人)により縄文時代末期から弥生時代前期にかけて九州北西部に伝わり、支石墓(しせきぼ、ドルメン)と呼ばれている。
 朝鮮半島にはテーブル式支石墓が遼東半島から伝わり、支石墓が爆発的に造られた。渡来経路は遼東半島からなので北部から南部へ広がっていった。朝鮮半島南西部は北部と違って支石の低い南方式(碁盤式)支石墓と呼ばれ九州と似た形になっている。
 2,500年ほど前から波状的に江南人(倭人)が北部九州にやって来たが、朝鮮半島南部海岸地域にもやって来て小国家群を建てた。


 肥の国はやがて、現在の佐賀県・長崎県(壱岐、対馬を除く)の地域をも含むようになるが、41代持統天皇の7世紀終わりごろに肥前国(佐賀県、長崎県)と肥後国(熊本県)に分けられた。
 肥前国府は佐賀郡大和町(現・佐賀市大和町)に置かれたが、肥前国庁跡の史跡公園として整備されている。肥前国庁跡の11km東には吉野ケ里遺跡があり、周辺地域は弥生時代からの中心地であった。
   赤のアイコンが肥前国庁跡の史跡公園


 肥前国一宮は佐賀市大和町の與止日女神社(よどひめじんじゃ、祭神は與止日女命)と三養基郡みやき町の千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう、祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后)で、両社の鳥居はどっしりとした肥前鳥居である。千栗を「ちりく」と読む。

 肥前国風土記の基肄郡(きいぐん、佐賀県鳥栖市)の姫社郷(ひめこそのさと、鳥栖市姫方町)条には、山道川(やまぢがわ、現・山下川)の西に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を殺していた。筑前国宗像郡の珂是古(かぜこ)が幡を投げて占うと、幡が筑後国御原郡(福岡県小郡市大崎)の姫社(ひめこそ)の社(媛社神社、通称七夕神社、祭神は媛社神と織姫神)に落ちて、祀りを求める神の居場所を示してから、また山道川に戻った。媛社神(岩舟大明神)は饒速日命の別名と云われる。
 珂是古はその夜、夢で神が女神であることを知り、社を建てて祀ったので人が殺されることがなくなった。
 鳥栖市姫方町には姫古曽神社(祭神は市杵島姫命、織女神)が鎮座。姫古曽神社の東3kmに七夕神社が鎮座。この繋がりから、饒速日と市杵島姫は夫婦ではないかと云う説がある。
 山下川沿いに姫古曽神社の北1.5kmには景行天皇が鎧を奉納した永世神社(ながよじんじゃ)が鎮座している。
 基肄の地名は魏志倭人伝記載の支惟(きい)国ではないでしょうか。

 肥前国風土記によると、神埼郡の三根村を本拠地とする海部直鳥が神埼郡を割いて三根郡を分立した。海部直鳥は筑後川から有明海の制海権・交易権と漁業権を統率していたと考えられる。
 三根郡物部郷(佐賀県三養基郡みやき町)には物部神社(経津主神)が鎮座。地名の三根は魏志倭人伝記載の弥奴国かもしれない。

 肥前国風土記は神埼郡の郡名起源として、景行天皇が荒ぶる神を鎮めたので神埼の郡と云う。神埼市神埼町神埼に鎮座の櫛田宮の略記には、『当地方に荒神があって人を害したが、景行天皇が櫛田宮を創建されてから人民は幸せになったので、神幸郡と名付けた。
 蒙古襲来の時は、本宮の神剣を博多櫛田神社に奉還して異族退散を祈り霊験あらたかであったので、厄除け開運の神と崇敬されるようになった。』とある。
 鳥居はどっしりとした肥前鳥居です。

 肥前国風土記の松浦郡褶振峯(ひれふりのみね)条には、28代宣化天皇の時代(537年)に大伴狭手彦連(大伴金村大連の三男)が船で任那へ向かった時、妻(地元豪族の娘)の弟日姫子(おとひひめこ)が褶振峯(鏡山、佐賀県唐津市、284m)に登り、褶を振って狭手彦の魂を呼んだことからその名が付いたと云う。
 この地名起源譚は万葉集に松浦佐用姫(さよひめ)の伝説として歌われている。
  松浦潟 佐用姫の児が 領巾(ひれ)振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ
                          5-868 山上憶良

 鏡山(褶振峯)に松浦佐用姫の黒い陶製像があるが、像の人気はもうひとつである。唐津市呼子町加部島(よぶこちょうかべしま)の天童岳(112m)にも唐津焼の佐用姫像があり、唐津市厳木町(きゅうらぎまち)の道の駅厳木(きゅうらぎ)にも白い大きな佐用姫像があって、像は回転するようになっている。
 加部島には田島神社が鎮座、祭神は宗像大社と同じ田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊。境内に佐與姫神社(祭神は佐用姫命)が鎮座。
 田島神社の鳥居の中に最古の肥前鳥居があり、肥前守源頼光(944年-1021年)が990年頃に寄進したので頼光鳥居とも云う。これが肥前鳥居の始まりか。

 江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町江田、国の史跡)
 5世紀末頃(21代雄略天皇の時代)に築造された全長62mの前方後円墳で、75文字の銀象嵌銘大刀や銅鏡など豊富な副葬品(国宝)が出土した。有明海に注ぐ菊池川沿いの古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置され、八女市の岩戸山古墳と同様の形式になっている。
 被葬者は筑紫君一族の配下にあった首長だと考えられており、5世紀後半、6世紀初め、6世紀前半の3名以上(ムリテほか)が埋葬されたと考えられている。従って副葬品が非常に多い。
 

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by enki-eden | 2017-04-19 00:26