古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

政教分離

 有名な本能寺は法華宗本門流大本山で、京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522(京都市役所南)にある。
 1532年(天文元年)、京都で勢力を強めた日蓮宗(法華宗)の信徒(法華衆)により、浄土真宗の本山である山科本願寺が焼き討ちにあって全焼した。翌年の天文2年に本願寺教団は石山本願寺(大坂本願寺)に本山(本寺)を移転した。

 1536年(天文5年)、法華衆は比叡山延暦寺(天台宗総本山)の僧侶との宗教問答で論破し、裁判でも勝利した。
 延暦寺の僧兵は大軍を率いて京都の日蓮宗寺院を全て焼き払い、多くの法華衆を殺害した。この「天文法華の乱」により本能寺も焼失、法華衆は敗北して堺の末寺に逃亡した。

 1542年(天文11年)に日蓮宗の京都帰還を許す勅許が下され、15ヶ寺が京都に再建された。本能寺は1545年(天文14年)に四条西洞院(にしのとういん)北方に広大な寺地を得て大伽藍を造営した。
 延暦寺と日蓮宗は1547年(天文16年)に和解した。

 本能寺の末寺が近畿、北陸、瀬戸内、種子島まで拡大し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。本門流は早くから種子島に布教していた事から鉄砲と火薬を手に入れ、戦国大名と深い関係にあった。強力な鉄砲隊を持つ織田信長(1534年-1582年)の京都での宿は本能寺であった。

 天台宗延暦寺は織田信長に対抗するために北陸の浅井・朝倉と連携したが、1571年(元亀2年)信長の全軍による総攻撃により比叡山を焼き討ちにされた。
 浄土真宗の石山本願寺は城郭のように石垣をめぐらせて要塞化したが、信長との長い戦争の結果、1580年に炎上した。

 当時は武家勢力だけではなく寺社も武装・独立し、地域を治めていた。信長の天下賦武に反抗・独立していた各地の寺社を信長は武力鎮圧し、武装解除して本来の宗教活動に戻させた。
 信長により多くの寺社が破壊され、多くの人々が殺されたが、寺社の武装と政治活動が禁止され、大きな犠牲の結果、宗教改革の一面にもなった。

 織田信長が明智光秀(1528年-1582年)に襲われた本能寺は現在地にあったのではなく、寺域の南北は蛸薬師通と三条通の間の270mほど、東西は西洞院通と油小路通の間の140mほどで、大寺院であった。
 現在は道路横に「此付近本能寺跡」の石碑などが立っている。
 赤のアイコンが現在の本能寺、黄が本能寺跡。


 織田信長は広大な城郭のような本能寺を京都での宿としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)明智光秀に包囲され自刃した。旧暦の6月1日は新月で真っ暗闇、その深夜の2日に襲撃された。

 現在の大阪城の地には、石山本願寺ができる前には古墳があったと云う。また、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)の境内もあり、太古から信仰の場であった。生國魂神社については2014年2月14日投稿の「生國魂神社①」をご参照ください。

 1583年に、豊臣秀吉(1537年-1598年)が天下統一の拠点として、炎上した石山本願寺跡地に難攻不落の大坂城の築城を開始した。

 生國魂神社は石山本願寺と共に焼失したが、秀吉が1585年に現在の天王寺区に生國魂神社の社殿を造営した。
 本能寺は1592年に豊臣秀吉の命にて現在地に再建した。

 織田信長の武力により、大きな犠牲と大きな損失の結果として日本の宗教改革が実現した面もあった。
 イスラム教国のトルコでは、1923年にトルコ共和国初代大統領になったケマル・アタテュルク(1881年-1938年)が1928年に憲法からイスラムを国教と定める条文を削除して、世俗主義・民族主義・共和主義などを理念とし、政治と宗教を分離した。

 しかし、他のイスラム教国ではイスラム教・政治・軍が一体的に統合されており、主にスンニ派とシーア派に分かれて紛争・テロ・戦争を繰り返している。
 一部のテロ集団が外国にまで執拗なテロ活動を展開している。世界はテロとの戦いに力を入れているが、イスラム圏の政教分離を実現しなければテロの根絶は難しいのではないか。
 イスラム圏の政教分離は不可能だと云う意見もあれば、政教分離してもテロはなくならないという意見もある。
 私はテロとの戦いを進めるのと同時に、イスラム圏の政教分離を実現しなければ、テロはいつまでも続くと考えています。
[PR]
by enki-eden | 2017-06-13 00:02