古代史探訪

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倭の五王

 中国の5世紀から6世紀は南北朝時代で、北朝と南朝に分かれていたが、それぞれ短い期間に国が入れ替わっていった。
 北朝は北魏(386年-534年)から東魏(534年-550年)と西魏(534年-556年)に東西分裂する。
 更に北斉(550年-557年)と北周(556年-581年)に分かれる。
 南朝は宋(420年-479年)→斉(479年-501年)→梁(502年-556年)→
    陳(557年-589年)と移り変わる。建康(南京)を首都とする。

 北朝の北魏は、386年に鮮卑族の拓跋氏によって華北に建国された。北魏は五胡十六国時代(304年-439年)の戦乱を終焉させ、最終的には442年に華北を統一した。北魏は五胡十六国時代から遊牧民的習俗を改め、漢化政策に積極的であった。
 首都も洛陽に遷し、徹底的に漢化を進め、多くの仏教寺院・仏像を造った。胡族と漢族の通婚を奨励した。

 戦乱の五胡十六国時代には、大和王権は大陸と殆ど交易を行えなかったが、その間に国家形成を進めることができ、古墳時代に入って100年を経ると、神功皇后の新羅討伐(363年)をきっかけに朝鮮半島には頻繁に軍隊を派遣していた。

 北魏時代の日本の天皇は、15代応神天皇、16代仁徳天皇、17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇、20代安康天皇、21代雄略天皇、22代清寧天皇、23代顕宗天皇、24代仁賢天皇、25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇であるが、大和政権は華北の北魏との政治的・文化的な結びつきが強かったと考えられる。
 しかし、北魏書や北斉書には外国伝(倭国伝)は記されていないので、大和政権との関係は分からない。

 「倭の五王」による南朝の宋への朝貢は、先ず413年に倭王・讃が東晋(317年-420年、南京)に朝貢した。年代的には倭王・讃は仁徳天皇。東晋は420年に宋に禅譲させられ宋が成立。
 その後421年から478年までの倭王・讃、珍、済、興、武は南朝の宋に朝貢(宋書、夷蛮伝・倭国伝)した。421年と425年に倭王・讃が朝貢、年代的にはこれも仁徳天皇。
 430年に倭王が朝貢、倭王名が記されていないが、年代的には履中天皇。
 倭王・讃が没し、弟の珍(安東将軍倭国王)が438年に朝貢、年代的には反正天皇か允恭天皇。
 443年(安東将軍倭国王)と451年(安東大将軍)に倭王・済が朝貢、年代的には允恭天皇。
 460年に倭王が朝貢、年代的には雄略天皇。
 462年に済の子、倭王・興(安東将軍倭国王)が朝貢、年代的には雄略天皇。
 倭王・興が没し、477年に弟の倭王が朝貢、年代的には雄略天皇。
 478年に倭王・武(使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王)が朝貢、年代的には雄略天皇。
 宋の後を継いだ斉は479年に倭王・武を鎮東大将軍(斉書、倭国伝)に、年代的には雄略天皇。
 斉の後を継いだ梁は502年に倭王・武を征東大将軍(梁書、武帝紀)に進号、年代的には武烈天皇。

 倭の五王とは年代的に仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇・安康天皇・雄略天皇・武烈天皇の時代であるが、年代的に少し辻褄の合わない部分がある。
 そして、大和政権が華北の北朝と交易せず、江南の南朝だけと交易・朝貢したと考えるのは難しい。
 北魏と宋の地図、ウィキペディアより。
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 古事記・日本書紀の5世紀の記事には、朝鮮半島の百済・任那・新羅・高麗・呉(高麗の隣国か属国)との往来や戦争の記事は多いが、中国の記事は全くない。
 記紀成立の8世紀の日本は国家意識が非常に高く、「中国(中心の国)」とは日本のことであるとさえ言っている。そんな風潮の中で、皇室の先祖の卑弥呼、臺與、大和の天皇が中国に朝貢貿易をしていたなどと云う記事は書けなかったと考えられる。

 私見ですが、北魏書・北斉書に倭国伝はありませんが、大和政権は華北の北魏と交易していたのではないかと考えています。
 倭国が南朝の宋と交易したのは宋書夷蛮伝・倭国伝に記されているが、「倭の五王」を天皇に特定できにくい部分がある。実際に交易していたのは有力豪族なのではないか。

 当時の有力豪族に葛城氏がいるが、葛城円(かつらぎのつぶら)が456年に雄略天皇に殺される。大伴金村も540年頃に失脚、物部氏も海外にはあまり興味を示さない。
 葛城氏と同じく武内宿禰の子孫と云われる蘇我氏が朝廷の代行として南朝と交易し、富と軍備を蓄え、配下に東漢氏(やまとのあやうじ)を置き、物部氏を超える最有力豪族にのし上ったのではないか。当時南朝でも北朝でも仏教が盛んであったので、蘇我氏は大和で仏教を定着させた。
  武内宿禰-蘇我石川宿禰-蘇我満智-蘇我韓子-蘇我高麗(馬背)-
  蘇我稲目-蘇我馬子-蘇我蝦夷-蘇我入鹿

 
 5世紀の時代に蘇我満智は既に朝廷の財政を統括していた。地方からの税・貢物、海外使節の接待、朝鮮半島からの貢物、そして内外交易品の管理を統括し、勢力を伸ばした。
 蘇我氏は主要な海人族を統率し、朝廷の代表として自ら大陸、朝鮮と交易をしていたと考えられる。蘇我稲目の時代に各地に屯倉(みやけ)を設立、蘇我氏の発言権が更に大きく躍進した。
 蘇我馬子は587年に物部守屋を討つ。天皇家を凌ぐ勢いになった蘇我氏は、蘇我馬子(626年没)・蝦夷(645年没)・入鹿(645年没)の3代の横暴により滅ぼされ、勢力が弱まった。

 北魏後継の北周の楊堅(爵号は随、541年-604年)が589年に全国統一し、南北朝時代を終焉させた。楊堅の爵号「随」に似た「隋」を国名にして建国する(初代文帝)。
 2代皇帝・煬帝(569年-618年)の失政と外征失敗により謀反が起こり、煬帝は618年に殺される。聖徳太子(574年-622年)は遣隋使を数回派遣して隋を模範とした。遣隋使の小野妹子(蘇因高)が隋の裴世清を伴って帰国した。
 隋の4代皇帝・恭帝侗から禅譲を受けた李淵(566年-635年)が618年に唐を建国する。李氏は隋の鮮卑系貴族で、唐国公の爵位を与えられていたので、李淵(高祖)は国号を唐とした。
 隋も唐も鮮卑族の拓跋氏が支配層を形成した。

 日本は遣隋使、遣唐使を派遣して中国文化を積極的に取り入れることになるが、その前段階として北魏と交流していたのは間違いないと見ています。

 6世紀飛鳥時代の仏像は北魏様式と云う。弥勒菩薩半跏思惟像の穏やかな表情をアルカイック・スマイルと表現される。洛陽の北魏から長安の隋・唐に時代が変わっても、政治的・文化的・宗教的な基本は漢化した北魏の制度が引き継がれていった。
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by enki-eden | 2017-11-03 00:16