古代史探訪

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布都御魂(ふつのみたま)

 素戔嗚(布都斯、ふつし)の父である布都(ふつ)が所持していた剣を霊剣(布都御魂)として祀っているのが物部氏の本拠地である奈良県天理市の「石上神宮(いそのかみじんぐう)」である。

 霊剣は85cmの鉄剣で、通常の刀と逆方向に反る「内反り」で、環頭が付いている。
 石上神宮は、素戔嗚の霊剣である天羽々斬(あめのははきり、布都斯魂剣)、布留御魂(饒速日の十種の神宝)もご神体として奉安されている。そして、国宝の七支刀も奉納されている。

 布都御魂は、本来は素戔嗚(140年頃-200年頃)の父の布都を祀ったものであるが、一般的には「布都の霊剣」として考えられている。伊勢神宮が祀っているのは天照大神であるが、八咫鏡(やたのかがみ)を天照大神として祀っているのと同じ考え方ではないか。八咫鏡は真経津鏡(まふつのかがみ)とも云われる。

 布都御魂の「フツ」は霊剣が物を切る音を表すとされ、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも云う。
 霊剣にも八咫鏡にも「フツ」が使われているので、フツは剣で物を切る音ではないと考えられ、フツは「神」と云う説がある。

 建御雷神(たけみかづちのかみ)は布都御魂剣を使って201年頃に「葦原の中つ国平定」を実行した。初代神武天皇(181年-248年)が熊野山中で危機にあった時(210年頃)、高倉下(たかくらじ)が布都御魂剣を神武天皇に献上して危機を鎮め、神武天皇は大和国に入り、211年に橿原宮で初代天皇として即位した。

 布都御魂剣は饒速日(にぎはやひ、165年頃出生)の子である宇摩志麻治(うまじまじ)が宮中で祀り、その後10代崇神天皇(251年-301年)の時に物部氏の伊香色雄(いかがしこお)が石上神宮に祀り、ご神体とした。
 ご神体は拝殿後方の禁足地に埋納されたが、明治7年(1874年)に大宮司の菅政友(すがまさとも、1824年-1897年)が発掘し、本殿内陣に祀られた。レプリカ2振が作刀され本殿中陣に奉安された。

 岡山県赤磐市石上(いしかみ)1448に「石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)」が鎮座、備前国の古一宮で現在は素戔嗚尊を祀る。明治以前までのご神体は、素戔嗚尊がヤマタノオロチを斬った布都御魂剣(十束剣)であった。この霊剣は10代崇神天皇の時代に大和国の石上神宮に移されたと云う。
 吉備国は出雲国と同じく素戔嗚の影が濃い。

 出雲国風土記には楯縫郡の郡司には物部臣(もののべのおみ、饒速日を祖とする氏族)が記されている。その関連か、出雲国楯縫郡鎮座の石上神社(いそのかみじんじゃ、いしがみじんじゃ、島根県出雲市塩津町279)の祭神は布都御魂(ふつのみたま)であり、元の祭神は海童(海津見神)であった。
 石上神社は日本海に面しており、本殿はなく、拝殿の後方にご神体の霊石を祀り、地元の人は「石上様」と呼んでいる。
 素戔嗚の父である布都が塩津港から上陸したと云われ、塩津町には「素戔嗚生誕の地」としての伝承がある。
 本来は「石神神社」と書いていたが、「石上神社」と改めた。大和国石上神宮(いそのかみじんぐう)に仮託して祭神を海津見神から布都御魂に改めた。これには郡司の物部臣が関わったかもしれない。

 石上神社は式内の宇美神社と伝わるが、6kmほど南東の出雲市平田町宮西町686-1に宇美神社が鎮座、祭神は布都御魂神(ふつのみたまのかみ、霊剣)となっている。出雲国風土記に「宇美社」、延喜式神名帳に「宇美神社」と記されている神社と云う。
 宇美神社が元は石上神社の地・塩津に鎮座していたが、現在地に遷座したと云う伝承がある。塩津は日本海に面していたので宇美(海)神社にしたと云う。素戔嗚が塩津から平田に移住してきたか。
 また、出雲国風土記沼田郷の地名伝承に、宇美神社の祭神は宇能遅比古命(うのぢひこ、海神)となっている。
 石上神社も宇美神社も本来の祭神は海神であったが、後に布都御魂神に改めたようだ。郡司の物部臣の影響か。

 出雲市塩津町も平田町も素戔嗚に所縁があるのだろう。平田町の南東20kmほどの所に須我神社が鎮座(島根県雲南市大東町須賀260)。素戔嗚と櫛稲田姫が新婚の住まいを設けた所である。
 素戔嗚と櫛稲田姫は須賀の地で第一子の八島士奴美を産んだのであろう。八島士奴美の神名は清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)と云う。

  赤のアイコンが石上神社、黄が宇美神社、青が須我神社。


 出雲国風土記には、「布都御魂神」と似た神名「布都怒志命、ふつぬし」が記されている。これは日本書紀に記された「経津主神、ふつぬし」と同じで、葦原の中つ国平定を実行したと云われる。
 私見ですが、出雲国風土記の布都怒志命は素戔嗚の父で、日本書紀の経津主神とは別神と見ています。時代も出自も別です。
 日本書紀の経津主神は、元々出雲系の神であったのを高天原系にすり替えられた可能性がある。これは藤原不比等(659年-720年)が記紀の記述に影響を与えたからと考えられる。
 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子に和加布都怒志命もいる。物部系の祖神、神社、祭祀(御魂振り)などは、藤原氏・中臣氏の勢力に取り込まれていくことになる。

 負芻(ふすう)
  熊負芻、中国戦国時代の楚の最後の王、BC223年頃没。
  姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は負芻(fuchu)。
  私見ですが、素戔嗚(布都斯、ふつし)の父、布都(ふつ)は楚の最後の王・熊負芻
 (ゆう ふすう)の名を使ったのだろうか。負芻(fuchu)が布都になったのかもしれない。
  素戔嗚は出雲国風土記に「野大神櫛御気野命」、「野加武呂命」と記されている。
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by enki-eden | 2017-12-07 00:26