古代史探訪

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「耜(スキ)」は「磯城(シキ)」か

 日本書紀に記載の味高彦根神( あじすきたかひこねのかみ)は、父・大国主神と母・田心姫命(古事記では多紀理毘売命)の子で、古事記では「阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)」等と記す。
 出雲国風土記には阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)と記され、大穴持命(大国主命)の子としている。

 「あじすき」の意味は「良く切れる鋤(すき)」と云う説があり、味耜高彦根神は農耕の守護神である「雷神」、「蛇」と考えられている。奈良県御所市鴨神1110の高鴨神社に祀られており、「迦毛之大御神」とも云う。
 味耜高彦根神は鴨氏の祖神で、鴨氏(賀茂氏)は御所市鴨神を本拠地として、金剛山麓の東持田に移住した一族が葛木御歳神社を祀り、葛城山麓の葛城川沿いに移住した一族が鴨都波神社を祀った。

 赤のアイコンが高鴨神社、黄が葛木御歳神社、青が鴨都波神社、
 紫が大神神社(おおみわじんじゃ)。

  
 大和国西部の「葛城」に住む鴨氏は、東部の「磯城」の三輪山(大神神社)に住む事代主神とも結びつき、摂津国北部(大阪府茨木市、高槻市)へ勢力を広める。更に山城国(京都市)へと勢力を拡げていく。
 事代主神も味耜高彦根神と同じく大国主神の子で、母は神屋楯比売(かむやたてひめ、勘注系図では湍津姫)である。奈良盆地の西と東に分かれているが同族であった。

 狭野尊(さののみこと、181年-248年)は筑紫から大和に東遷して、西暦211年に初代神武天皇として即位するが、東遷の途中に紀伊半島で難儀する。それを助けて大和に導いたのは八咫烏(やたがらす、味高彦根)で、磯城の地を治める兄磯城(えしき)を討って勝利した。
 兄磯城の弟の弟磯城(おとしき)は服従して磐余(いわれ)の地を奉ったので、狭野尊は磐余彦と云われた。弟磯城は後に磯城県主(しきのあがたぬし)に任じられ、磯城県主から代々の天皇に妃を出した。

 磯城は師木、志貴とも表記する。初瀬川(大和川)、寺川などが奈良盆地(当時は大和湖)に流れ込んで、扇状地を造った地域が磯城の地で、10代崇神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇、29代欽明天皇の宮が営まれた。
 磯城島(しきしま)に天皇の宮が多く置かれたこともあり、大和国の中心地だったので、大和国にかかる枕詞は「敷島の」になった。
  敷島の 大和の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ 真幸く(まさきく)ありこそ
                          万葉集 3254 柿本人麻呂

  原文は 「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」

 神武天皇の皇后になる媛踏鞴五十鈴媛(比売多多良伊須気余理比売)は事代主神の長女で、「須気」は「磯城」と同じと云う説があり、「須気余理比売」は「磯城依姫」だと云う。
 「あじすきたかひこね」は「あじしきたかひこね」とも云われるように、「すき」と「しき」は「磯城」が由来の名であると考えられる。
 2代綏靖天皇の皇后になる五十鈴依姫は事代主神の次女で、3代安寧天皇(磯城津彦玉手看、しきつひこたまてみ)が生まれる。
 4代懿徳天皇の和風諡号は大日本彦耜友(おおやまとひこすきとも)、弟は磯城津彦と云う。

 磯城(しき)の語源は「鋪、舗」で、「金属鉱山の坑道」であるから、磯城氏は鉱物の採掘、踏鞴製鉄を生業としていたと考えられる。大和国は水銀、銅、鉛などの鉱物資源が豊富で、踏鞴製鉄も盛んであった。
 神武天皇の東遷も「葦原の中つ国平定」の一環だったが、鉱物資源(特に水銀)の開発が大きな目的の一つだった。神武天皇は、「丹(水銀)を手に入れると、武器を使って戦わなくとも天下を取れる」と云った。
©2012 INNAMI KANKI
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by enki-eden | 2017-12-13 00:23