古代史探訪

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国安天満神社(加古郡稲美町)

丘の宮
兵庫県加古郡稲美町国安(くにやす)538  電079-492-0741  無料駐車場あります。
祭神 天満大神(菅原道真公、学問の神)、
   大年大神(池大明神)、
   市杵島姫命(辯財天女)。
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 神社沿革
 白雉4年(653年)、王子権現として創立。 寛平5年(893年)、隣接する天満大池の池大明神が御旅所の現宮地に遷った。
 菅原道真公(845年-903年)が左遷で、901年に太宰府へ向かう途中に当地で休憩したと云う伝承から、後に京都北野天満宮から道真公を勧請した。
 1390年に当社南に隣接する「天満大池」の島に弁財天が祀られたので、当社にも弁財天と同一とされる市杵島姫命を祀った。
 元禄14年(1701年)、現状のような造営となった。
 
 当社南の「天満大池」の築造が675年頃と見られ、ため池の多い播磨国でも「最も古い大規模ため池」になっている。大きさも兵庫県で2番目に大きい。兵庫県で最も大きいのは4kmほど北にある「加古大池」となっている。
 ため池の数は兵庫県に38,000個以上あり、全国で一番多い。兵庫県の中で多いのは、淡路市で13,000個以上ある。
 灌漑用ため池や水路は2世紀後半に大年神の指導により開発され、降雨量の少ない瀬戸内海気候の地で大量にため池が築造されてきた。灌漑用水は農業用地の開墾・開拓に役立ち生産性が上がったので、播磨国には大歳神社(大年神社)が多く、当社にも池大明神として大年大神が祀られている。
 天満大池の北東1.5kmにも大年神社が鎮座している。

   南の鳥居
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   西の鳥居
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 拝殿、南南西向きになっている。梅紋と神牛は天満宮の象徴。
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 西の鳥居横に菅原道真公が京を去る時に詠んだ歌、
   東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
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 京の梅が道真公を慕って飛んで来たという「飛び梅」伝説がある。「太宰府天満宮の飛梅ちぎり」をご参照ください。

 手水舎が「縁結社」になっており、「鯉を愛で 意をいただき 縁むすぶ」とある。
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   社殿(拝殿、幣殿、本殿)
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 拝殿前に茄子(なす、為す)。 
 出羽国米澤藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん、1751年-1822年)の格言
   為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
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 上杉鷹山の家訓「伝国の辞」を読むと名君ぶりが理解できる。
  ・国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我の私物ではない。
  ・領民は国(藩)に属しているものであり、我の私物ではない。
  ・国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、
   君主のために存在・行動する国・国民ではない。
   この三カ条を心に留め忘れることなきように。

 境内の西に「歴代天皇遥拝所」と「靖国社」
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 八幡神社(品多別命、ほむだわけのみこと)
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 手前から「大神社(天照大神)」、「多賀神社(伊邪那岐命)」、
 「琴平神社(大物主大神)」。
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 本殿後方に杉の神木が2本、既に枯れている。 稲美町史によると、
 「天正8年(1580年)の頃、豊臣秀吉(1537年-1598年)が三木の別所氏を攻めた時、播州一円の城砦・寺社を打ち壊し回った。当社を取り潰しにかかると、神木から大蛇が頭を出してきた。
 秀吉がこれを見て、捨て置けと言い付けたので取り潰しを免れた。」とある。
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 境内東に手前から、「愛宕神社(火産霊神、ほむすびのかみ)」、
「稲荷神社(保食神、うけもちのかみ)」、「八坂神社(須佐之男命)」、
「大将軍神社(磐長比売命、いわながひめのみこと)」。
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 神輿倉
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 大年神の生きた2世紀半ばから3世紀初めの弥生末期では、灌漑用ため池は小規模であったが、古墳時代に入ると土木技術の発展により古墳が大型化し、ため池や水路も大掛かりになっていった。
 大きなため池築造の難工事では「人柱(生贄・人身御供)」が立てられることもあった。当地稲美町のため池築造にも人柱が立てられた伝承が残っている。

 生贄(いけにえ)は極めて残虐な風習だが、世界中で行われていた。旧約聖書によると、4、000年前のアブラハムが神から「息子のイサクを燔祭として奉げよ」と云われ、エルサレム近くのモリヤ山に行き、イサクをナイフで刺そうとした時、神はアブラハムの篤い信仰を知り、イサクを殺す事を止めさせた記事がある。
 諏訪市の守屋山(1,651m)がモリヤ山と関係あると云う説や、物部守屋(587年没)も関係があると云う説も聴くが・・・

 日本の古墳時代では、11代垂仁天皇(4世紀前半)に野見宿禰が進言して殉葬がなくなったとされているが、その後も続けられている。中世では城郭築造にも人柱が立てられることがあった。
©2012 INNAMI KANKI
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by enki-eden | 2017-12-27 10:09