古代史探訪

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2013年 11月 17日 ( 1 )

摂津の弥生時代

 大手前大学史学研究所主催 公開講座
 会場: 西宮市大学交流センター 大講義室 (ACTA西宮 東館 6階)
 平成25年10月27日(日) 140名ほどが受講しました。

 講演① 山の鐸、里の鐸  ―銅鐸埋納と摂津の青銅器文化―
      難波(なんば) 洋三氏(58才)
   (独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長)

 1世紀から3世紀頃の中国では、生口(奴隷)1人で青銅50kg~70kgと対価になる。西暦107年、後漢の安帝に朝貢した倭王帥升は160人の生口を出した。それより前の西暦57年に後漢の光武帝に朝貢した倭の奴国王も生口を出したと考えられる。
 239年に魏に朝貢した卑弥呼は生口を10人献じている。生口は倭国の交易品であった。奴隷が原料金属の代価となっていたことが充分考えられる。当時の倭国でも中国でも銅は鉄の価格の4倍である。

 今までに出土した銅鐸の数は全国で約500個、神戸市灘区桜ヶ丘の斜面からの出土数は14個です。同時に7本の銅戈も出土しています。14個の銅鐸の総重量は50kgなので、原料価格は鉄200kgと等価になる。
   桜ヶ丘出土の銅鐸14個
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   桜ヶ丘出土の国宝・6号銅鐸復元品(神戸市埋蔵文化財センター)
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 銅鐸の製作総数は最少で1,200個、最大で4,400個と計算できます。出土数は500個ですから、製作総数の11~42%が今までに出土している。

 小型で古い形式の「聞く銅鐸」の製作総数は830~3,000個と計算できます。銅鐸出土地は九州以外で31カ国(郡の総数は260)。1郡に平均3~11個が製作された。
 摂津国の郡数は13ですから、この地域に40~140個の「聞く銅鐸」が供給されていたと推定できる。
 弥生中期末に大規模集落の解体と高地性集落の消滅が連動して起こり、集落の再編成に伴って不必要になった古い段階の銅鐸が埋納された。広域で起こった大きな社会変化と原料金属の入手状況の改善により銅鐸が大型化し、小型の「聞く銅鐸」が埋納されたのであろう。

 講演②  稲作の伝播と西摂津の弥生社会  ―縄文人と弥生人との出会い―
   森岡 秀人氏(62才)
       (日本考古学協会理事・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員)
   
       弥生時代の摂津国の水田
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   海浜部の初期農耕集落(網部分は弥生時代の推定海岸線)
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 川西市の加茂遺跡(国の史跡)は縄文時代後期には小さな集落ができていましたが、弥生時代中期には近畿有数の大規模な集落となりました。高さ40mの台地に環濠で囲まれ、東部は竪穴住居区域、西部は墓地になっています。現在の住宅が遺跡の形に従って建てられており、遺跡の中央に鴨神社が鎮座、祭神は別雷神(わけいかづちのかみ)です。また、川西市役所と文化財資料館があり出土物を展示しています。
   加茂遺跡
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 遺跡は東西800m、南北400mの大きさがあり、最大人口は500人ほどであったと考えられます。崖の斜面にも斜面環濠が造られており、防御性が高かったようです。台地の下には水田跡があります。
 ここは周辺地域を統括する中心集落と考えられ、このような統括・支配などの現象が弥生中期に発生し、それぞれの村で個別に行われていた銅鐸祭祀が中心区域に纏められ、使われなくなった銅鐸が埋納されたのではないでしょうか。ですから弥生中期の小型銅鐸(聞く銅鐸)の埋納は全国一斉ではなくある程度の期間の幅があったのでしょう。
 しかし弥生後期になると、この防御性の高い大型の集落は他の集落と同じように、小規模になっていきます。弥生後期から古墳時代にかけて中央政権の出現により、環濠集落の必要性がなくなったと考えられます。そして大型の銅鐸(見る銅鐸)も弥生後期に埋納されていきます。
   加茂遺跡出土の大型銅鐸
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 尼崎市田能(たの)から伊丹市岩屋にまたがる田能遺跡(国の史跡)は弥生時代全期間にわたる大集落で、近畿地方で初めて木棺墓が見つかり、人骨と共に碧玉製管玉の首飾りや白銅製の腕輪なども出土しました。その他に木蓋土壙墓・甕棺墓・方形周溝墓など、17基のさまざまな種類の墓が同じ遺跡内に営まれていました。現在は住居や高床倉庫などを復元して史跡公園になっており、田能資料館が出土物を展示しています。


 神戸市東灘区本山遺跡(弥生中期の集落)では、関西地方最古の遠賀川式土器が出土、壷・甕・鉢などその後の弥生土器の基礎となる器種が最も古い形態で揃う。その製法が九州・四国から近畿に伝わった最初の弥生土器である。その他、銅鐸埋納坑・袈裟襷文銅鐸(復元すると21.8cmの小型)・磨製石器などが出土した。

 会下山(えげのやま)遺跡(国の史跡)は兵庫県芦屋市三条町にある高地性集落で、弥生時代中期から後期にかけての遺跡です。六甲山から南に張り出した見晴らしのよい、標高200mの山の上で発見されました。竪穴住居などを復元した遺跡公園となっています。
 竪穴式住居跡・祭祀場・倉庫跡・土壙墓・狼煙場などから弥生式土器・石器・銅鏃・鉄器などが出土しています。

 銅鐸の生産地、祭祀圏、埋納地はそれぞれ場所が離れている。鏡と銅鐸は200年間ほど重なって存在していた。
   右が難波洋三氏、左が森岡秀人氏
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 お二人の講演の後、対談形式のお話もありました。
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by enki-eden | 2013-11-17 00:10