古代史探訪

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2013年 11月 27日 ( 1 )

北部九州中心勢力の東遷②

 素戔嗚(140年頃出生)の第二子である五十猛(160年頃出生)が葛城・紀伊に東遷しました。素戔嗚の第五子である饒速日(165年頃出生)が185年頃に、多くの部族長を従えて大部隊で東遷して大和を支配する。これは邪馬台国と投馬国の飛び地のような状況だと思います。
 先代旧事本紀には饒速日東遷に従った人々の部族名と首長名が詳しく記されています。豪族44人の率いる25軍団、船長6人が率いる船方とあり、膨大な人数による大部隊であったことでしょう。これらの人々の出身地は遠賀川と筑後川の沿岸地域が多い。末慮国・伊都国・奴国からは出ていない。しかし、安曇・海部・尾張・対馬・壱岐の海人族は出ています。天香語山(155年頃出生)・天牟良雲・天鈿売(あめのうずめ)・天児屋根・天糠戸(あめのぬかと)、更に高皇産霊神の子と孫など多くのマレビトも従っています。これらの東遷と2世紀終わり頃の倭国乱とは関係があるのでしょうか。
 また、この時は南九州からも出ていないが、後に磐余彦(神武、180年頃出生)が南九州から出発して故郷の遠賀川に滞在、そして大和に向かい、211年頃に饒速日から大和橿原地域の王を任される。
 五十猛・饒速日・大国主・少彦名・磐余彦(神武)などの大規模で波状的な東遷は、北部九州の倭国のシステムが近畿の大和へと連続しており、拡大発展していって大和朝廷が成立したものと考えられます。大和へ東遷の中心勢力は素戔嗚系・出雲系です。

 奴国王兼倭王の臺與が266年に晋に使者を送りましたが、この時、臺與は「親晋倭王」の金印を受けられなかったようです。以降、倭からの使節は途絶えます。これは中国で戦乱状態が続き交易が困難になったことと、列島の中心地域が筑紫から大和に移ったことが原因でしょう。倭国の統一支配を列島全体に拡げるために、奴国王兼倭王一族も270年頃に大和に東遷した可能性が考えられます。
 私見ですが、臺與は同部族の御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ、10代祟神天皇、250年頃出生)と大部隊を伴って270年頃に大和へ東遷したのではないでしょうか。臺與は大和の中心勢力である物部氏と結託して御間城入彦を大和10代目の王(崇神天皇)としたのではないでしょうか。臺與が本当に大和に東遷したのであれば、卑弥呼の墓から骨を一部取り出して大和に運んだでしょう。
 臺與は295年頃に亡くなり、箸墓古墳(278m)に卑弥呼の遺骸と共に埋葬されたと考えられます。日本書紀には、箸墓古墳は7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓と記されています。倭迹迹日百襲姫も295年頃に亡くなったと考えられます。父の7代孝霊天皇崩御が276年頃です。臺與と倭迹迹日百襲姫は同一人物でしょうか。
 倭迹迹日百襲姫は奈良県桜井市茅原の神御前神社(大神神社の境外摂社)の祭神になっています。6月2日(日)投稿の「富士神社・厳島神社・神御前神社」をご覧ください。
 奈良県桜井市の纏向遺跡の大型神殿は倭迹迹日百襲姫の祈祷の場で、崇神天皇のために神託を取り次いだと考えられます。神殿は箸墓古墳と同じく夏至の日の出の方向を向いています。
    纏向居館
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 巨大で画期的な箸墓古墳が築造されたことにより、600年ほど続いた弥生時代が終わり、古墳時代へと入っていきます。宮内庁管轄の古墳が発掘できれば、詳しいことが判明するでしょう。しかし、発掘の可能性は当分の間ありません。古墳を宮内庁管轄から外せる政治家が出てこなければなりませんね。我々国民の強い意思表示も必要でしょう。
     箸墓古墳
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 大和朝廷が初代神武天皇から9代開化天皇までの80年間に9代かけて拡げた版図は、奈良盆地全体とその周辺地域(近畿)です。3世紀後半の10代祟神天皇から古墳時代に入り、積極的に版図を全国に拡大していきました。
 そして北部九州の海人族の「3種の神器」(鏡・剣・勾玉)が大和にも全国にも拡がっていきます。それまで祭器として使われた大型の銅鐸は3世紀に埋納されてしまいます。初期の小型の銅鐸は紀元前後に埋納されているので、これで全ての銅鐸が埋納されました。
 神器の変更は支配者の変更を意味するでしょう。つまり、素戔嗚系(素戔嗚・五十猛・饒速日・初代から9代までの大和政権)と出雲系から奴国王兼倭王系(伊弉諾・卑弥呼・臺與・10代祟神天皇などの一族)への政権交代です。

 私見ですが、400年間ほど続いた銅鐸祭祀を担っていたのは素戔嗚系・出雲系です。素戔嗚系の大和の物部氏は銅鐸が埋納されて、定型式前方後円墳を構築するに際し、銅鐸の形を古墳に残そうと考えたのではないでしょうか。前方部の形が銅鐸に見えませんか? この仮説に同調する人はいますが、ごく僅かですがね・・・

 また、初代神武天皇から9代開化天皇までは、宮中で高皇産霊神を祀っていましたが、10代祟神天皇からは天照大神を祀りました。これは祟神天皇が明らかに奴国王兼倭王の一族であり、筑紫から大和に東遷してきたことの証しではないでしょうか。宮中の祭神変更により、大和では地元の豪族との軋轢や反乱が起き、祟神天皇は譲歩することになります。
 古墳時代に入って、奈良県磯城郡田原本町で製作された大量の三角縁神獣鏡が全国に流布しますが、これは古墳の魔除けの副葬品として大量に使用されました。北部九州の弥生時代の埋葬文化が大和の古墳時代の文化に引き継がれ、吉備や東海など他地域の要素も取り入れながら発展していったものと考えられます。
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     連日の冷え込みで、黄色く映えるイチョウ並木。
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by enki-eden | 2013-11-27 00:02