古代史探訪

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2016年 07月 21日 ( 1 )

銅鐃(どうにょう)と銅鐸

 2015年6月14日投稿の「弥生人のルーツ」に記しましたが、長江流域の民は江南人、或いは倭人とも呼ばれ、後に呉(BC585年~BC473年)と越(BC600年頃~BC334年)を下流域に建国する。中流域には楚(?~BC223年)が建国される。
 江南人(倭人)は稲作や青銅器で栄えたが、春秋戦国時代に呉越の戦争(BC473年)、楚越の戦争(BC334年)、秦の統一(BC221年)、楚漢戦争(BC206年~BC202年)などの結果により、紀元前5世紀から紀元前2世紀に渡って波状的に呉人、越人、楚人、漢人が日本列島に逃亡してきたので、縄文時代が終わり、弥生時代が始まる。江南人(倭人)と縄文人が混じって弥生人となった。
 江南人(倭人)が列島に多くの国を造ったので倭国と呼び、住民を倭人と云う。稲は江南から列島に直接もたらされたことが稲のプラントオパール分析で分かっている。

 長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が中心で、開口部を上にして埋められた。戦時に銅鐃の取っ手を持って槌(鎚)で叩き、味方を鼓舞し敵を威嚇したのでしょう。
https://bronzeschinois.wordpress.com/musique-%e6%a8%82%e5%99%a8/nao-%e9%90%83/
 長江中流域から出現した「楚」はこの青銅器を埋納する風習をもっている。山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だった。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。

 大きさの違う青銅製の楽器をたくさん並べて音楽を奏でる「編鐘(へんしょう)」が湖北省随州市の曾侯乙墓から出土している。紀元前5世紀、楚の恵王が曾侯乙に贈ったもの。(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%A8%E9%90%98
 この編鐘の中の下段中央に釣鐘状の青銅製楽器「鎛(はく)」が置かれており、重要な儀式で使われていた。この鎛が銅鐸の祖形でしょうか。日本の銅鐸は墓からは出土しませんがね。
https://bronzeschinois.wordpress.com/musique-%e6%a8%82%e5%99%a8/bo-%e9%8e%9b/
 奈良国立博物館の青銅器館に中国古代青銅器が多数展示されており、鎛(はく)は1個収蔵されている。紀元前7世紀のもので、渦紋で高さ32.5cm。博物館にメールで質問してみると、鎛(はく)は青銅器館に常設展示していると返信がありました。鎛(はく)の写真、奈良国立博物館。
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 日本の銅鐸は弥生時代の紀元前3世紀から紀元3世紀までの間に祭祀で使用され、弥生時代末期に消滅した。銅鐸は丘の傾斜地の浅い所に埋納されている。
 この銅鐸と銅鐃の共通性から判断すると、弥生人の中でも楚人が銅鐸を全国に広めて祭祀に使った可能性が高い。楚人の代表は素戔嗚(西暦140年頃~200年頃)系・出雲系で、素戔嗚は銅鐸祭祀の末期に活躍した。

 銅鐸祭祀が消えたのは、西暦200年頃の「素戔嗚の死」と「出雲の国譲り」が関係していると考えられる。楚人は強くて文化程度も高かったが、Y染色体ハプログループの分析によると、列島での楚人(O1a)の人口比は3%強で人口が少なかった。越人(O2a)は1%強で最も少なく、呉人(O2b)は33%ほどもあり大勢力であった。呉人は奴国の中心勢力だと考えられる。晋書、梁書などに「倭は自ら呉の太伯の後という」とある。
 黄河系の漢人(O3)は15%と意外に多い。秦の始皇帝の圧制を避け、列島に来た漢人は存在するが、江南人のY染色体ハプログループに含まれるO3もある。江南人も漢人と混じっていたか。
 3世紀後半になると、銅鐸に替わって三種の神器が祭祀に使われ、弥生時代から古墳時代に突入、三種の神器は現代の皇室にまで連綿と継承されている。

 楚は揚子江(長江)流域を本拠として、湖南省・湖北省・河南省・山東省の南部など広域を版図とした大国で、中原(ちゅうげん、黄河流域)をも狙っていた。国姓は羋(び)、王族の氏は熊(ゆう)。
 中原の国とは民族も文化も違うので蛮族扱いであったが、文明度も高く、楚文字を使い、武力も強かった。
 荘王(そうおう、BC591年没)は楚の6代目の王で、春秋五覇(しゅんじゅうごは)の一人として中原を窺った。荘王は長江下流域の呉と同盟を結んだが呉王の夫差はBC473年に越王の勾践に滅ばされた。
 呉の国姓は姫(き)で、楚は羋(び)です。列島に亡命しても両者は連携し、吉備国はY-DNAによると楚人(O1a)の人口比は19%と非常に高い。呉の姫(き)と楚の羋(び)で国名が吉備(きび)になったのではないかと私は考えています。
 越王の無彊はBC334年に楚王の威王に滅ぼされた。楚は戦国七雄の一つとなったがBC221年に秦始皇帝が全国を統一した。
 秦も長続きせず206年に滅びると、項羽が西楚(徐州市)を建国し、漢王の劉邦と楚漢戦争(BC206年からBC202年)が勃発し覇権を争った。その結果、楚が敗北し前漢時代となる。

 このような春秋戦国時代の長期間の戦乱続きにより、呉・越・楚・漢の避難民が列島に波状的に逃亡して、弥生時代が始まる。人口的には呉人が圧倒的に多く、江南人(倭人)はシャーマニズムの要素が強かった。
 楚辞によると太陽神が巫女に憑く場面があるが、これは記紀の天照大神や神功皇后の憑依(ひょうい)・憑霊(ひょうれい)状態と同じだと考えられる。

 楚のトーテムは蛇・牛・熊・橘の木などと多いが、楚王は聖なる「神亀」を祀っていた。3,000年も生きた長寿の亀が死んだので、箱に入れて王の先祖と共に祀っていた。出雲系神社の神紋は「亀甲紋」であるが、この神亀に由来するのか。
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by enki-eden | 2016-07-21 00:11