古代史探訪

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2016年 07月 27日 ( 1 )

項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)

 秦の始皇帝が中国を統一する前の春秋戦国時代(BC770年~BC221年)において、揚子江(長江)一帯には呉、越、楚が覇権を争っていた。彼らは北方の漢族とは異種の江南人(倭人)で独特の文化をもっていた。
 BC473年に呉王夫差が越王勾践に敗れ呉が滅亡。BC334年に越王無彊は楚の威王熊商に敗れ越は滅亡。楚も戦国末期のBC223年に秦に敗れた。更に楚漢戦争でBC202年に楚が滅亡した。
 このような春秋戦国時代の戦乱の結果、江南人はBC5世紀からBC2世紀の間に各地に逃亡・離散し、列島にも長期に亘って波状的に渡来した。列島の社会は縄文時代から弥生時代へと激変していく。
 2015年6月14日投稿の「弥生人のルーツ」と6月18日投稿の「弥生時代と長江文明」をご参照ください

 中国の戦国時代に秦王の嬴政(えんせい、BC259年~BC210年)がBC221年に全国制覇を初めて成し遂げ「始皇帝」と称した。始皇帝は都を咸陽(陝西省)におき、封建制から郡県制へ変革した。

 始皇帝は中央集権政治を徹底し、貨幣・度量衡の統一、経済制度の統一、交易の拡大、焚書坑儒、万里長城や運河など大規模工事を行った。
 漢字の書体も統一し、地域ごとの違いをなくした。自らの墓(寿陵)も築造、秦始皇帝陵とした。陵の周囲には兵馬俑(へいばよう)を造り、兵馬俑坑には戦車を100台以上埋め、等身大の武士俑が8,000体も東向きに埋められた。

 秦の課税・労役は厳しく、過酷な刑罰で人民は困窮し、多くの人が離散した。BC210年に始皇帝が亡くなると各地で秦に対する造反が始まり、楚の武将・項羽(BC232年~BC202年)が反秦軍を統率した。項氏は代々楚の将軍を務めていたが、項羽は大男で若く、非常に強かった。
 反秦軍に参加した沛公(はいこう、沛県の亭長)の劉邦(BC256年~BC195年)がBC206年に項羽よりも先に咸陽に入り、咸陽を陥落させ秦を滅ぼしてしまった。沛県は現在の江蘇省徐州市にあり、沛公となる前の劉邦は侠客として人気が高かった。
 沛県は楚の領土だったので、沛県出身の劉邦も楚人だったのでしょう。

 楚の武将・項羽よりも先に咸陽に入り戦ったことで、劉邦は項羽から叱責を受けたので項羽を鴻門(こうもん、咸陽郊外)に訪ね謝罪した。項羽は劉邦を咸陽南西250kmの漢中(かんちゅう、陝西省漢中市)に左遷し漢中王とした。劉邦は漢王(漢中王)を名乗り、支配地の国号を漢とした。

 項羽は楚の彭城(ほうじょう、徐州市)に都を定め、「西楚の覇王」と称し、BC206年に楚の義帝(懐王)を暗殺した。将軍が王を殺したので、これが劉邦に項羽討伐の大義名分を与えることになる。
 義帝は西楚の君主で反秦軍の盟主であり、姓は羋(び)、名は熊心(ゆうしん)であった。楚王は代々熊(ゆう)氏である。
 項羽は反秦軍の戦功に対する褒章が不公平であったなど人望も悪かった。

 大義名分を得た劉邦は、漢軍や諸民族を束ねた連合軍の大軍で東進し楚漢戦争が勃発。劉邦はBC202年に垓下(がいか、徐州市の115km南)で項羽の楚軍を包囲、劉邦の配下には楚の兵も多くいたので楚の歌を歌わせた(四面楚歌)。
 敗戦を悟った項羽は次の詩を読み、愛人の虞美人と別れ、敵陣に突撃した後に自刃して楚軍は敗北した。
   力抜山兮 気蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
   時不利兮 騅不逝 (時に利あらず 騅逝かず)
   騅不逝兮 可奈何 (騅の逝かざるを 奈何すべき)
   虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)

 2014年4月18日投稿の「楚辞」をご参照ください。 
 劉邦は咸陽南郊の長安(西安)を都として前漢(BC206年~AD8年)を建て高祖となった。劉邦は郡県制と封建制を併用し、法制を緩めて民心を得た。
 項羽は劉邦よりも年令が24年ほど若く強かったが、感情的で、残虐で、嫌われる場面が多かった。それに比べると劉邦は沛公になる前は周囲の人から好かれる任侠で、酒宴が大好きで、人心掌握術に長けていた。これが楚漢戦争の戦果に影響したか。

 倭国・倭人については前漢時代のBC2世紀頃から漢書などに記されるようになる。倭人は楽浪郡を通じて定期的に前漢に朝貢し、倭国は100余国に別れていた。
 西暦57年に奴国が後漢(25年~220年)に朝貢し、光武帝から金印「漢委奴国王」を受けた。この金印は奴国の聖地・志賀島から出土した。奴国は「交易面において」倭国を代表していた。
 私見ですが、初代奴国王は西暦元年に生まれたと見ています。

 西暦107年には倭王帥升が後漢に朝貢し、交易品は生口(奴隷)160人であった。この時から奴国王は倭国王を兼任するようになった。奴国は「交易面と政治面の両面において」倭国を代表するようになった。倭国は北部九州の30ヶ国ほどで構成されており、奴国と伊都国はほぼ一体であった。
 倭国の交易品は生口・真珠・ヒスイ・水銀・倭錦などであった。

 後漢末期の西暦184年に黄巾の乱が勃発、群雄割拠して後漢は衰退した。それに乗じて後漢の遼東太守の公孫度が遼東・楽浪郡を占拠・独立した。列島でも倭国大乱が勃発し混迷が続くが、3世紀初頭に卑弥呼(西暦179年~247年)が共立された。卑弥呼は公孫氏と交易していたと考えられる。
 後漢の後を継いだ魏(220年~265年)が238年に公孫氏を討伐し滅ぼすと、卑弥呼は魏に朝貢、「親魏倭王」金印などを受けた。
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by enki-eden | 2016-07-27 00:09