古代史探訪

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古代史とDNA

DNA(ディオキシリボ核酸)は核酸の一種で、生物の細胞分裂の際の母細胞から娘細胞への遺伝情報の受け渡しはDNAの複製によって行われる。DNAが親から子へ伝わるときに変異が起こり、新しい形質が付加されることがある。

DNA鑑定
細胞核にある性染色体にはY染色体とX染色体が存在し、男性にはY染色体とX染色体があるが、女性にはX染色体しか存在しない。このY染色体特定領域の繰り返し回数の違いを調べる。
最近では考古学への応用が行われ、DNAによって日本人のルーツを調べることができるようになりました。DNAに「性染色体」が一対あり、男性の場合だと「XY」、女性の場合は「XX」という組み合わせになっています。Y染色体のDNAは父から息子へと遺伝していく。これに対してミトコンドリアのDNAは母親から子(男女両方)へと受け継がれていきます。

縄文人と弥生人
縄文系のDNAは都市部では全体の約25%程度を占める。しかし本州や四国の山間部では5割を占めている。弥生人に追われて山に逃げた縄文人という説に合致する。
日本人の男性は1万4千年以上前から日本列島に住んでいた縄文人と、縄文時代後期及び弥生時代に江南地方(揚子江沿岸)から移住してきた弥生人にルーツを持っている。両者のDNA比率はほぼ半々で、弥生系がやや多い。
Y 染色体はほとんど組換えを起こさず、父親から息子にそのまま伝わるため,男性の系譜の研究に役立てる事ができる。日本人のY 染色体は主として縄文系と弥生系からできており、この2 集団のY 染色体の違いは黒人と白人の差くらいに大きい。
日本人のY染色体は、旧石器時代から縄文時代に流入してきたC系統(4%)とD系統(40%)、縄文後期から弥生時代以降に流入してきたO系統(O1a 3%、O2a 1%、O2b 36%、O3 14%)とその他で構成されている。
C系統は南洋方面とシベリア方面、D系統は日本とチベットに分布し縄文人の主系統、O系統はO1aが長江中流域(楚)、 O2a(越)とO2b(呉)が長江下流域、O3が黄河流域(漢)やアジア各方面、その他が2%ほどを占めている。弥生期に流入したものはO2bが多い。O2bは江南から大勢が逃亡し、九州北部と朝鮮南部に定着した。
東北アジア系騎馬民族(C3c)は日本列島には入ってきていませんので、DNAで判断する限り江上波夫先生の騎馬民族列島征服説は成り立たちません。
また地方別に見ますと吉備(中国地方)に特徴があります。D系統(縄文系)が19%と低く、その分O1a(楚系)が19%と非常に高く、O3(漢系)も31%と非常に高くなっています。O2b(呉系)は平均より少し低くて31%です。これは縄文時代に江南人などが有明海と吉備に大勢やってきて住みついたという説の証明になると私は考えています。有明海周辺のDNAについては目下調査中ですが、吉備と似た結果が分かれば面白いと思います。有明海や瀬戸内の吉備の自然環境が揚子江(長江)と良く似ていたから定着したのでしょうか。
縄文時代と違って弥生時代の江南人が列島へ移住してきた原因は、戦国時代における戦争の結果でしょう。紀元前473年に呉王夫差は越王勾践に破れ、呉が滅亡します。呉人は北方にある山東半島の南(徐州)方面に逃れます。
越は紀元前334年に楚に滅ぼされます。越人は南方のベトナムや台湾方面に逃げるものと、北方の徐州方面に逃げるものに分かれます。越人に押された呉人は九州北部と朝鮮半島南部に逃れます。
楚は紀元前223年に秦によって滅ぼされます。秦の支配は厳しく、税や労役に耐えられなくなった越人は朝鮮半島西部に逃れます。楚人や漢人までもが朝鮮半島に逃れ、東部に住みつきます。その越人、楚人、漢人たちもやがて列島にも移住してきます。長江流域の楚人、呉人、越人は人種的には同類で黄河流域の漢人とは異なります。文化的にも大きく異なり、移動手段も南船北馬です。
全国制覇した秦も内紛と内乱で紀元前206年に滅亡。その後、楚漢戦争(そかんせんそう)が紀元前206年から紀元前202年の約5年間にわたり、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で全面戦争となりました。またしても楚の敗北となり、前漢が成立。この時も楚人の一部が列島に逃れてきた事でしょう。
 このように江南人の列島への渡来は数百年かけて波状的にやってきました。列島内では、それぞれが争いにならないように住み分けていったと考えられます。列島の次に逃れていくところがないという環境の中で、争いは極力避けられたのでしょう。大陸での戦国時代に比べると、かなり戦いは減ったことでしょう。
 列島全体として縄文人も弥生人を受け入れ共生しましたが、縄文人の一部は殺されたり山間地方に逃亡したと考えられます。言葉は縄文語を基本として弥生語の単語も取り入れて大和言葉(日本語)となったのでしょう。
 DNAによると列島における楚人の比率は3%くらいと低いのですが、やはり支配力や文化程度は高く、影響力は大きかったのではないでしょうか。楚王の姓は羋(び)で氏は熊(ゆう)です。そこで、倭国における楚の影響について見ると、熊、隈、球磨、熊本、熊野、熊野神社、羽白熊鷲などの「くま」は楚の後裔が名付けたのではないでしょうか。それであれば、素戔嗚は楚系ということになるのですが…阿蘇、蘇我、熊襲、葛城襲津彦、倭迹迹日百襲姫などの「そ」は楚ではないでしょうか。
 後漢に朝貢した奴国の倭人は自ら「呉の太伯の子孫」と言っています。奴国(博多)は呉人が中心の国だったのでしょう。
 吉備は縄文時代から住みついた江南人と、その後にやってきた呉人(姓は姫・き)や楚人(姓は羋・び)が多く住んでいるところです。吉備の名は姫羋(きび)からとったのかもしれませんね。穀物の黍(きび)という説もありますが、まだ学説は定まっていません。
 土井ヶ浜遺跡は山口県下関市の響灘に面する西海岸沿いにある弥生時代の埋葬跡です。約2,100年前ごろからこの付近に移住してきた弥生人たちはこの丘陵地を墓地とするようになりました。そこから保存良好な弥生人骨が300体以上も装身具や土器を伴って出土しました。土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム館長で形質人類学者・医学博士の松下孝幸氏は「日本人と弥生人」の著書で次のように記述しています。
 土井ヶ浜弥生人の出土する人骨は、男性も女性も顔が細長く、鼻根部が扁平で、身長が高い。縄文人とは異なる容貌をしている。
 つまり渡来系の特徴であって、縄文の女性と混血した可能性は低い。これは吉野ヶ里でも認められる。従って彼等は男だけでやって来たのではなく、家族と一緒に列島に来て住み着いたと考えられるのです。
 長崎大学の「土井ヶ浜遺跡より発掘された弥生時代人骨のミトコンドリアDNA超多変領域の解析」によりますと「土井ヶ浜弥生人は2,500年前の中国山東省の古集団に類似した結果を示した。北部九州弥生人が現代日本人の集団形成に多くの遺伝的寄与をしていたのに対して、土井ヶ浜弥生人はそれほど多くの寄与をしなかった可能性が示唆され、明瞭な地域差の存在が明らかになった。」と報告されています。土井ヶ浜人は他の部族と交わらない閉鎖社会をつくっていたのでしょうか。
 皆様もDNAについて詳しく調べられますと面白いと思いますがいかがですか?…
 更にDNAに加えて稲作伝播時期やルート、江南型土器の分布状況などを調べるともっと正確に把握できると思うのですが…
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by enki-eden | 2012-12-31 09:14

大避神社 坂越の船まつり

大避神社(おおさけじんじゃ)
 住所: 兵庫県赤穂市坂越(さこし)1297番地    電0791-48-8136
 祭神: 大避大神(秦河勝)、天照皇大神、春日大神

 「大避神社坂越の船祭り」は「大阪天満宮天神祭」、「安芸厳島神社管絃祭」と並び瀬戸内海三大船祭りの一つになっています。今年(2012年)の春に重要無形民俗文化財に指定されました。私が行ったのは2010年11月21日と2011年10月9日(日)です。昨年の10月9日は船祭りを見に行きました。
 聖徳太子の側近である秦河勝は京都最古の寺とされる広隆寺を建立。広隆寺近隣には大酒神社がありますが、広隆寺境内から遷座したようです。坂越の大避神社の名も大酒神社から取ったと思われますが、「酒」を「避」に変えたのは、聖徳太子一家を抹殺した蘇我入鹿を「避ける」意味がありそうです。
 秦河勝は蘇我入鹿を避けて坂越に移り住み、千種川流域の開拓を進めた後、大化3年(647年)に死去。地元の民がその霊を祀ったのが当神社です。秦河勝は大避神社前の生島(いきしま・国の天然記念物)に葬られ、禁足地になっています。雅楽で有名な東儀秀樹氏は河勝の子孫と言われています。

  宝珠山の麓に鎮座 2010.11.21
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  鳥居
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  神門
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  拝殿
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  船渡御に使用された船
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  秦河勝後裔の岡正雄氏寄贈の絵馬、蘭陵王(らんりょうおう)
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  拝殿前の井戸で、中は12角形になっている。
  12という数字は祭神の秦河勝がペルシャ系との説がある。2011年10月9日(日)
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  手前に生島、その向こうは坂越の街、その向こうに千種川が流れている。
  生島に聖徳太子の側近の秦河勝(647年没)の墓がある。
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  2艘の櫂伝馬船が沖合いから浜にやってくる。
  櫂伝馬は左右5人づつの漕ぎ手、一人のリーダー、二人の舵取り、
  一人の太鼓、二人の音頭取りからなっている。皆元気で勇ましい。
  扇のようなものを持って両腕を上下に動かし音頭を取っている姿が鳥が飛ぶ姿に似て
  いるので「鳥飛び」で倭迹迹日百襲姫の「トトヒ」の名になっているという説がある。
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  神輿船に掛ける7枚の「バタ板」によるパフォーマンス。
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  櫂伝馬2艘で引っ張って生島の御旅所へ船渡御が始まる。
  一番・二番の櫂伝馬、三番の獅子船、四番から八番までの頭人船、九番の楽船、
  十番の御神輿船、十一番の警護船、十二番の歌船からなる和船12隻が船行列を
  組み、獅子舞や御船歌、雅楽が奏でられる中をお旅所のある生島までを往復する。
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  御旅所
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  夜になって多くのかがり火が照らす浜に御旅所から12艘の船が戻ってきた。
  神社へ宮入で祭りは終了する。感動的な船祭りでした!
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by enki-eden | 2012-12-29 15:09

いにしえの吉備の国の東の端は加古川

 大和朝廷が本格的に吉備の国に勢力を拡大したのは、10代祟神天皇が7代孝霊天皇の皇子の彦五十狭芹彦(吉備津彦・西海将軍)と稚武彦(若日子建吉備津日子)に遠征させたことによる。この話が桃太郎伝説となっています。私見では孝霊天皇の生没年は230年頃~276年頃、祟神天皇は250年頃~318年頃と見ています。
 また、12代景行天皇伝説があり、「景行天皇は西国(吉備)征伐のため、軍を進めて印南野氷の河(いなみのひのかわ・現在の兵庫県加古川)の畔に大本営を置く。この地に丘があり氷の丘(ひのおか)という、天皇はこの丘より四方を眺め、河の下流に鹿の子(かのこ)のような形をした洲があり、今後この地を鹿児(かこ)と呼ぶべし。故に河の名前も鹿児河(かこがわ)と云うに至った。氷の丘を改めて日岡山(ひおかやま)と云う。」とあります。景行天皇の生没年は私見では、285年頃~350年頃と見ています。景行天皇の皇后は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)で日本武尊の母です。日岡山の頂上に60mの円墳、日岡山古墳があり、皇后陵であるといわれています。

 加古川の呼び方の移り変わり
  氷川(ひかわ)→印南川(いんなみがわ)→加古川(かこがわ)
 加古川東岸に日岡山があり、古代には氷丘といっていました。日岡山の南西に現在、氷丘小学校と氷丘中学校、氷丘南小学校があります。
 加古川上流の地名に氷上(ひかみ)があります(丹波市氷上町)。氷川の上流という意味でしょう。
 私は氷川の元になる川は出雲の斐伊川だと考えています。播磨にも出雲族が多く住んでいたのでしょう。播磨の国風土記には大国主命、火明命の話が出てきます。
 そして大国主命が即位した山である高御位山(304m)があり、頂上には磐座と高御位神社が鎮座しています。祭神は大己貴命と少彦名命で、国造りのために大己貴命と少彦名命が降臨した所といわれています。そして、大国(おおぐに)という地名もあります。私見では大国主の生没年は160年頃~220年頃と見ています。国譲りは200年頃でしょうか。
 兵庫県高砂市の宝殿山山腹の生石神社(おうしこじんじゃ)は石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体とし、祭神は大穴牟遅命と少毘古那命です。付近では古代の石棺の材料として有名な竜山石(宝殿石)が採掘されています。今でも石材が切り出されています。
 私のブログ名の印南はここから取りました。加古川以西は、私が子どもの頃に兵庫県印南郡と呼んでいました。1,700年前には吉備の国だったんですね。景行天皇や皇子日本武尊の勢力拡大で播州赤穂まで播磨の国が広がりました。
 従って本来の吉備の国は、東は加古川から西は広島県の尾道市・三原市(備後の国)までの広大な強国でした。製鉄も盛んで、吉備の枕詞は「まがねふく」です。大和朝廷は吉備を弱体化するために、吉備の東部を播磨の国に編入し、その他を備前、備中、備後に分けました。それでも足りずに備前の北部を美作(みまさか)に分けました。
 JR岡山駅の西方5kmの田園地帯に小高い岡(170m)の「吉備の中山}があります。磐座が多く原始信仰の名残をとどめています。縄文・弥生時代から吉備の聖地だったのでしょう。
 吉備の中山には吉備津彦神社、吉備津神社、中山茶臼山古墳(吉備津彦陵)、黒住教本部などがあります。麓には古代吉備文化財センターがあります。
  吉備の中山

  吉備津彦神社
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  吉備津彦陵
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  古代吉備文化財センターの大刀、大和の大君から配布された。
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  黒住教本部
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 2012年11月10日に兵庫県立考古博物館で館長の石野博信氏の講演会がありました。テーマは「卑弥呼・臺與の時代、ひょうご五カ国の対外交流」でした。何と、館長は弥生時代の服を着て、開口一番「邪馬台国から来ました石野です。」と挨拶されたのです。会場は超満員でした。篠山市、豊岡市、神戸市、淡路市、姫路市、加古川市、たつの市、朝来市、宝塚市などの古墳出土物についての楽しい講演でした。
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by enki-eden | 2012-12-28 10:07

臺與と倭迹迹日百襲姫

 263年に蜀を滅ぼした魏が265年に晋に替わったのを受け、臺與は、266年に晋に朝貢した。しかし晋は内乱と北方異民族の侵入により国内動揺が続き、倭国は晋と交易できる状態になかった。280年に呉は晋にくだって滅亡したが内乱は収まらなかった。
 2012年4月28日に大阪で森浩一先生の特別講演があり、出席しました。「倭人伝を丁寧に読むことから」という題でしたが、その中で、「当時は倭国でも漢字が取り入れられ、倭人の人名は倭人が漢字で書いて渡した。247年、狗奴国と女王国が戦を始める。帯方郡は張政を倭国に派遣し詔書と黄幢を難升米にあたえる。張政は難升米に檄をあたえ告喩、その結果卑弥呼の死。“以死”の意味は自死か。伊都国に滞在していた魏の帯方郡の武官で塞曹掾史の張政は19年間ほど倭国で過ごしたが、266年に帰国した。帰国後の張政は張撫夷という名で帯方郡の太守となったか。」と発言されました。
 私は、臺與は266年に朝貢しても晋から「親晋倭王」の金印も受けられなかったと思われるし、大陸の内乱で交易できなければ筑紫で本拠を構える利点もなくなり、列島支配のため列島中心の大和に東遷したのではないかと考えています。大和で10代祟神天皇に政治を行なわせ、自身は祭祀を司ったのではないないでしょうか。東遷したのであれば270年から280年前後と思われます。しかし、記紀にはそのような記録はありませんので、考古学的発掘で新発見がなければいけません。
 臺與が東遷したのであれば、臺與は247年頃に亡くなった卑弥呼の遺骸を取り出し大和まで運んだと思われます。そして箸墓古墳に埋葬したのか。臺與自身も300年頃に亡くなり、共に埋葬されたのか。記紀では、臺與は倭迹迹日百襲姫に仮託して記されたのかもしれません。
 「迹迹日」の名前は、霊魂が体から離れて「鳥のように飛んで」下界を眺める巫女で、神を祀り神託を伝える巫女と考えられます。また別の説では、古代船を操る時に、音頭を取る役目の人が鳥の羽ばたきのように両手を動かすしぐさが「ととひ・鳥飛び」になったといいます。これについては播州赤穂にある大避神社の船祭りで撮影した写真がありますので後日ご紹介したいと思っています。
 あるいは、「迹日・とひ」は「神意を問う」、つまり神託のことなのでしょうか。
 なお且つ、記紀は卑弥呼と臺與を天照大神に集約して記述しているように私には考えられます。祟神天皇はその天照大神を祀りました。それまでの大君は高皇産霊神を祀っていたのにです。祟神天皇から時代は大きく画期的に変革し、古墳時代へと突入することになります。
 卑弥呼が「親魏倭王」印を受けたときに、奴国王伝来の宝物「漢委奴国王」印は志賀島の聖地に埋納されました。臺與が卑弥呼から引き継いだ「親魏倭王」印も同じく志賀島に埋納されたのか、臺與の本拠地の聖地に埋納されたのか。東遷時に大和まで持って行ったのであれば纏向の聖地・三輪山に埋納したと思われます。
 纏向遺跡で大型建物跡が発見されましたが、2012年12月2日に兵庫県立考古博物館で講演がありました。纏向遺跡を発掘されている桜井市教育委員会の橋本輝彦氏です。190年頃から250年頃の庄内式期では遺構の範囲は直径1kmくらい、250年頃から320年頃にかけての布留式期では拡大されて東西2km、南北1.5kmぐらいだそうです。4棟の建物がほぼ東西に中心軸をそろえて一直線に並び、一番東にある大型の建物の南に土坑があって、ここから2,765個の桃の種が出てきています。
 遺跡は生活の場ではなく、大きな運河跡があり、各地の土器が出土、祭祀や交易を中心にした公の都市空間だったようです。
 私見では、饒速日東征を185年頃と見ていますので、庄内式期の遺構は物部氏によるもの、布留式期の拡大された遺構はそれを引き継いだ大和朝廷によるものではないかと考えています。10代祟神天皇崩御が318年頃とすれば、それを期に遺構が終了したのかもしれません。
 桃の種につては、鳥取県の青谷上寺地遺跡では弥生人の脳が良好な状態で発見されたことで有名ですが、この遺跡の楕円形の祭祀跡から桃の種23個が動物の骨とともに見つかっています。桃は中国の神仙思想と繋がっており、桃を横穴式石室の入り口に置いた古墳もあるようです。
 桃は邪鬼を払う意味があって、伊弉諾命が伊弉冉命の殯から逃げ出す時に桃を投げて鬼を退ける場面がありました。そして倭迹迹日百襲姫の弟・吉備津彦の桃太郎伝説などがあります。
 纏向遺跡のたくさんの桃の種も祭祀に使われたのでしょう。それを使って神を祀っていたのは倭迹迹日百襲姫でしょう。百襲姫の「モモ」はもしかして桃かもしれないと私は密かに考えています。
 銅鐸が禁止され、10代祟神天皇の時代に三種の神器による祭祀に変更されたのは、九州の邪馬台国勢が大和に東遷して祭祀の仕方を変えさせたからでしょう。その祭祀を司っていたのが倭迹迹日百襲姫ですから、それが臺與で大和では倭迹迹日百襲姫と名乗ったのでしょうか? とにかく記紀には卑弥呼や臺與の名は隠されています。
 筑紫の中心地は奴国でしたので、彼らは東遷して大和に奴(奈)良と名付けたのではないしょうか。 奈良の地名の由来は平らにするという「ならす」で、緩やかな傾斜の平らな土地という意味もあります。


  纏向遺跡周辺

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by enki-eden | 2012-12-27 13:14

日本書紀の筆法

 日本書紀の神武天皇の巻に、
 「天孫が降臨されてから、179万2470余年になる。塩土老翁の話では東の方に良い土地があり、青い山に取り巻かれている。そこへ天の磐舟に乗って降ってきた者があると。そこは、天下を治めるのによい所であろう。この国の中心地だろう。その降ってきた者は、饒速日という者であろう。そこに行って都をつくろう。」
と決心して神武天皇が北部九州から大和に東征します。
 その中の「179万2470余年」は誰が見ても間違いだと分かります。そのような箇所は筆法で真実を暗示している場合が多いと思います。つまり、皇祖の天照大神(卑弥呼)は西暦
179年に生まれ、247年過ぎに69才で亡くなったと暗示しているのではないかと考えるのです。卑弥呼は魏に朝貢しましたから、皇祖では具合が悪い、皇祖は天照大神ですよと言いながら暗に事実を示唆するという筆法です。他にも筆法はたくさんありますからその観点で日本書紀読んでみると面白いですよ!
 私見では卑弥呼の生没年は175年頃~247年頃、臺與は235年頃~295年頃と見ていました。日本書紀の編集者(史官)はこの二人を中心にして、三名くらいの女王クラスの人を集約して天照大神として記したと私は考えています。
 記紀の編纂される前の7世紀にはユダヤ系・ペルシャ系の人が大和に来て、医学・聖書・西暦などを伝えていました。聖徳太子の本名は厩戸(うまやど)であり、キリストのように厩戸の前で出生したことによるとの出生談があります。聖徳太子の側近の秦河勝はペルシャ系で原始基督教(景教)の信者だった可能性があります。8世紀の光明皇后の顧問医は李密医(りみつい)というペルシャ人(波斯人・はしひと)でした。
 記紀の編纂された8世紀は日本を唐と対等あるいはそれ以上に考える情勢にありました。従って皇祖の卑弥呼が魏に朝貢した事は許せないので、事実を隠し天照大神という神名に変えたと思います。
 しかし事実は後世に伝えないといけませんので、示唆する暗号として記紀の随所にはめ込まれたようにみえます。
 神功皇后39年(己未・つちのとひつじ)は西暦359年ですが、倭の女王が魏に朝貢した記事を載せています。それは120年前(暦で二周り)の239年のことです。神功皇后69年(己丑)西暦389年に神功皇后は亡くなっています。神功皇后の摂政元年が辛巳(かのとみ)で西暦321年ですが、これは出生年でしょう。それであれば神功皇后も卑弥呼と同じ69才で亡くなったことになりますが…
 私見では神功皇后の生没年は、330年頃~389年頃(59才)と見ていました。夫の14代仲哀天皇の生没年は320年頃~362年頃(42才)と見ています。子の15代応神天皇の生没年は350年頃~394年頃(44才)と見ています。
 神武天皇の生没年は180年頃~245年頃と考えていますので、卑弥呼と殆ど同世代だと思います。大和での神武即位は211年頃と見ています。
   神武天皇陵、2012年4月24日撮影
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  橿原神宮、後ろは畝傍山 2008年10月21日撮影
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by enki-eden | 2012-12-27 09:24

黒塚古墳

黒塚古墳展示館  天理市柳本町1118-2   TEL 0743-67-3210
 休館日 毎週月曜日 入館料無料
 祟神天皇陵の西向かい方面にありますが、道が細くて駐車場が分かりにくい。やっと見つけて車を止める。
 赤いアイコンが黒塚古墳、青が祟神天皇陵、
 黄が天神山古墳と伊射奈岐神社

 全長約130m、後円部径約72m、後円部高さ約11m、前方部高さ約6mの前方後円墳。3世紀後半から4世紀前半の築造と考えられている。10代祟神天皇の時代に側近として活躍した豪族の墓だと思います。大量の鉄製刀剣類や、U字形の鉄製品とともに、34枚の鏡(三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面)が出土した。この頃から国産の三角縁神獣鏡が大量に埋葬されます。私は鏡作坐天照御魂神社(磯城郡田原本町八尾816)一帯に居住していた鏡作部(石凝姥や 天糠戸の子孫)の作品だと考えています。後漢鏡は被葬者の頭の辺りに1枚だけ置かれますが、三角縁神獣鏡は棺内か棺外にたくさん置かれています。魔除けの意味がありそうですね。
 後円部中央に、墳丘主軸に直行して竪穴式石室が造られています。石室は古墳の規模に比べると大きな石室になっています。
 埴輪、葺き石などはないが、周濠あとの大きな池が現存しています。付近には崇神天皇陵・景行天皇陵のほか23面の鏡が見つかっている天神山古墳などがあります。天神山古墳は伊射奈岐神社境内古墳で遺体を埋納した形跡はなく、すぐ東隣の崇神天皇陵の遺物を埋納した陪塚のようです。約2km南には箸墓古墳があります。
 黒塚古墳は、盗難をまぬがれ、ほぼ完全な状態で残っています。国内最多の三角縁神獣鏡33枚が出土。鏡に「師出洛陽」銘がありますが、私は国産だと思います。
 吉備地方と石室工法が似ており、小さな板石を上に行くに従って内側にせり出すように積み上げて三角天井の石室になっています。展示館に石室が実物大で再現されているので良く分かります。
 (黒塚古墳展示館発表の展示室写真)
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 甲冑の小札が絹布に包まれて出土しており、被葬者は武人に間違いないと思います。 U字形鉄製品と呼ばれる用途不明の鉄製用具が出土していますが、これは魏の張政が247年に伊都国で難升米に檄を飛ばしたときに渡した黄幢の部品ではないかと言う説があります。その説が正しければ、被葬者は難升米になりますし、倭国(邪馬台国)の中心人物が筑紫から大和に東遷してきた事の証明になりますがねぇ… 黒塚古墳は祟神天皇陵の直ぐ近くにありますので、被葬者だけではなく祟神天皇自身も臺與に連れられて東遷してきた可能性だって考えられます。
 女王の臺與が270年か280年頃に大和へ東遷した可能性があると言う意見は、私だけではなくかなりの人が言っておられますので、新しい発掘証拠品が出ればいいのですが…
 皆様、荒唐無稽な意見だと怒らないでくださいね。
 今年の春、「倭人伝を丁寧に読むことから」という題で森浩一先生の講演を聞きましたが、森先生も臺與のときにヤマトへ東遷完了したと推理されていました。266年に帰国した張政は張撫夷と名を変え、帯方郡の太守になったかとも推理されています。(張撫夷の墓発見記事による)
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by enki-eden | 2012-12-25 10:05

祟神天皇陵と景行天皇陵

10代祟神天皇(みまきいりひこいにえ)
 御間城入彦五十瓊殖天皇、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
 皇居: 磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)
 陵所: 山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ・行燈山古墳) 
     4世紀前半築造、奈良県天理市柳本町、全長242m。
 私見では祟神天皇は250年頃出生、294年頃即位、318年頃崩御。享年68才位。
 崇神天皇は、磯城(磯城郡)の水垣宮を都にした。桜井市金屋896に、志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ、祭神:饒速日命)があり、その境内に「瑞籬宮址」石碑が立つ。三輪山の麓の目立たない場所にある。南には海柘榴市(つばいち)があり、重要な産物が交易された。近くを流れる初瀬川が大和川になり河内に繋がっていた。そして大和から初瀬・東国へ向かう重要な位置でもあった。
   赤いアイコンが志貴御県坐神社で天理教の後になる。

 祟神天皇は倭大国魂神と天照大神を宮中で祀った。それまでの大君は高皇産霊神を祀っていた。ところが、国内に疫病・反乱が多発し制御が困難になったので二神を宮中から出したが、それでも混乱は続き、倭迹迹日百襲姫の神託により大田田根子に大物主神を祀らせると国内は鎮まった。
 大和朝廷は初代神武から9代開化までの70年ほどで奈良盆地と周辺地域を掌握すると、10代崇神天皇は3世紀末に四道将軍を派遣し、北陸将軍に大彦(桜井茶臼山古墳)、東海将軍に武沼河別(メスリ山古墳)、丹波将軍に丹波道主(京丹後市の黒部銚子山古墳)、西海将軍に吉備津彦(吉備の中山茶臼山古墳)を任命した。
 10代崇神天皇と11代垂仁天皇の2代で東北・北陸から吉備・出雲まで勢力を拡大した。12代景行天皇は日本武尊に九州・東国を制圧させ、自らも熊襲退治に九州へ出兵した。14代仲哀天皇皇后の神功皇后が朝鮮半島にまで遠征し、15代応神天皇が畿内で安定政権を確立する。10代崇神天皇から15代応神天皇までの約100年間は大和朝廷の全国制圧戦の歴史です。
 倭迹迹日百襲姫を最初の定形型前方後円墳の箸墓古墳に埋葬する。私見では西暦300年頃と思われる。これをもって弥生時代の終焉、古墳時代の始まりとなる。箸墓古墳については、250年頃と見る向きが増えてきて、卑弥呼の墓説が出ていますが、卑弥呼は筑紫で亡くなったのではないでしょうか。臺與が270年から280年頃に大和に東遷した可能性はあると思いますが、それであれば、記紀には倭迹迹日百襲姫と記されている人が臺與に仮託されているのかもしれません。ただし、記紀にはそのような東遷記録がありませんので、考古学的な発掘で新発見を期待しています。

12代景行天皇 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
 皇居: 纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
 陵所: 山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ・渋谷向山古墳) 
      4世紀後半築造、奈良県天理市渋谷町
 全長約300mで奈良県では見瀬丸山古墳についで第二位の大きさ。全国では第七位。
 景行天皇の母は日葉洲媛(丹波道主の娘)、皇子は日本武尊。
 私見では景行天皇は285年頃出生、350年頃崩御。
 景行天皇が熊襲や土蜘蛛を退治したあと三毛(みけ・福岡県三池)に行った時、倒れた樹木があった。長さ九百七十丈、天皇はこれは何の木かと尋ねた。老人が「これはクヌギです。倒れていなかった時は朝日に照らされて杵島山を隠すほどでした。夕日に照らされると阿蘇山を隠すほどでした。」といった。
 日本書紀には、直接的に書きにくい事を比喩で暗示する筆法を用いている事が多い。記紀成立の8世紀では大和朝廷は中国と対等意識が強く、3世紀に卑弥呼や臺與が魏に朝貢した事は認められないことであった。従って筆法が用いられた。三毛の樹木は970丈で、こんな長い木はないが、あり得ないことを書いて暗示をする。九(く)百七(な)十丈は狗奴国のこと。木の名前がクヌギでこれも狗奴国の事。木が立っていた時の影響範囲は佐賀県の杵島山から熊本県の阿蘇山まで、つまり狗奴国の領域は佐賀県南部、長崎県、熊本県ということになります。こんな筆法が日本書紀の随所に表れています。
   赤いアイコンが祟神天皇陵、青いアイコンが景行天皇陵


 景行天皇陵から三輪山(標高467m)の全体を見ることができます。三輪山は古代から三輪明神(大神神社)の御神体として崇拝されています。また、38代天智天皇が667年
3月、飛鳥から近江の大津へ遷都の時、額田王が「山の辺の道」のこの辺りで振り返って詠まれた歌が万葉集にあり、その歌碑がこの辺りに建っています。
   三輪山を しかも隠すか 雲だにも 
   心あらなも 隠さふべしや

 天気のいい日に古墳の周りを歩いて散策しますと、奈良時代に戻ったような
すがすがしい気持ちになります。
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by enki-eden | 2012-12-24 17:11

和邇氏と東大寺山古墳

 和邇氏は和珥、和迩、丸邇などとも称する古代豪族で、5代孝昭天皇の長男・天足彦国押人を始祖とする皇別氏族である。本拠地は奈良盆地東部の天理市和爾町である。四道将軍、遣隋使、遣唐使を多く輩出している海人系の氏族である。
 阿曇氏と共に綿津見豊玉彦系の海人族であるが、九州における本拠地は遠賀川の河口付近の岡の水門で、遠賀川、関門海峡や洞海湾を根城にしていたと考えられる。宗像と近いので宗像氏(大国主・事代主系)とも関係が深い。その他、各地に鰐、鰐浦、和仁、王仁などの地名を残している。
 和邇氏は神武東征に加わったが、饒速日東征の大部隊の中に和邇氏の名前が見えない。和邇氏は同じ素戔嗚系の饒速日ではなく五十猛の配下にあったのかもしれない。
 天理市の和爾下神社は祭神として素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命を祀る。和邇氏の氏神であった。和爾下神社古墳の後円部の上に建つ神社で社家は櫟井氏。北東1kmほどに、和爾坐赤阪比古神社が鎮座する。
 和邇氏は29代欽明天皇時代から春日姓に改姓し、神武天皇時代から天皇家に妃を出す氏族であった。4世紀後半から6世紀後半までが最盛期である。神功皇后時代に活躍した難波根子建振熊が記紀に記されている。神功皇后新羅遠征(363年)の時に丹波・但馬・若狭の海人300人を率いて従軍した。建振熊は和邇氏であるが丹波・但馬・若狭の長となった。従って海部氏の系図にも組み込まれている。
 和邇氏の系列子孫に柿本人麿、小野妹子、小野小町、小野道風、山上憶良などがおり、息長氏とも近い関係にあった。
 日本書紀に「豊玉姫が子を生む時に八尋鰐に変わっていた」とあり、彦波瀲武鸕鶿草葺不合を産む。豊玉姫は海人の鰐族である。彦波瀲武鸕鶿草葺不合の妃は豊玉姫の妹の玉依姫(鰐)で、神武天皇を産む。つまり神武天皇も鰐族である。神武が東遷するときの出発点は和邇氏の本拠地の岡水門である。
 日本書紀に「事代主神が八尋の熊鰐になって三島溝橛耳神(みしまみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛との間に媛蹈鞴五十鈴媛が生まれた。神武天皇は媛蹈鞴五十鈴媛を正妃とした。」とある。つまり事代主は熊鰐であり、その子の媛蹈鞴五十鈴媛も熊鰐である。神武天皇も鰐族である。事代主神は現在でも宮中神殿に祀られている。皇室創設に大きな貢献があったためである。
 対馬では今でも、大型の舟を「ワニ」、小型の舟を「カモ」と言い、「ワニ・和邇氏」というのは大きな船を持って遠洋航海できる氏族という意味なのか。それに対して「カモ・鴨氏」は小さな舟で沿海や川を利用していたか。

東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)
 奈良県天理市に所在する古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃に築造された前方後円墳である。副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ長さ110cmの鉄刀があった。「中平」の年号は184年から190年であり倭国乱の時期に含まれる。後漢では184年に起きた黄巾の乱をきっかけに、魏・呉・蜀の三国時代に突入する直前である。「中平」の頃、楽浪郡を支配していたのは公孫氏であるから、この鉄刀は和邇氏が公孫氏に朝貢して下賜された刀であろう。東大寺山古墳は和邇氏の領域にあり、4世紀後半築造を考えると埋葬者は建振熊の可能性が高い。
 この刀を発掘調査した天理大学名誉教授の金関恕氏(かなせきひろし・84才)は、鉄刀に刻まれた銘文の字体は、後漢の官営工房の字体とは異なる。後漢の官営工房の字体は様式化が進み整った隷書体である。この刀に刻まれた字体は稚拙ではないが、様式化が進んでいない。したがって銘文が刻まれたのは、後漢の官営工房以外の地ではないかと推理する。
 2世紀後半になると、後漢は衰退する。184年遼東太守となった公孫氏は、後に独立し燕王を自称する。西暦190年には後漢の都・洛陽が炎上し廃墟となった。修復できずに長安に遷都した。漢委奴国王を継いでいる女王卑弥呼は後漢と交易できる状態になく、公孫氏と交易したと考えられる。


地図の赤いアイコンが東大寺山古墳、黄色いアイコンが和爾下神社、緑のアイコンが
和爾坐赤阪比古神社です。

 
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by enki-eden | 2012-12-23 12:08

蛇信仰

蛇の古語
 カカ    カガチ、イカガシコオ (伊香色雄)
 ハハ   ハハキリ(天羽々斬)の剣
      日本書紀の一書には天蝿斫剣とある。「蝿」が「ハハ」と読むなら、7代孝霊天
      皇妃の蝿伊呂泥(はえいろね・古事記)、蠅伊呂杼(はえいろど)も「ハハ・蛇」
      かもしれない。
 ヌカ   ヌカヒメ (蛇巫、田王)、ヌカト (天の糠戸)鏡作部の祖  
 ナガ・ナギ
 鏡は蛇の目(カカメ)→鏡(カガミ)、額田王の父は鏡王。

 インド神話でのインドコブラの蛇神ナーガ(雄)・ナーギ(雌)からナガ・ナギ(蛇)は来ていると言う説があります。「長い」という言葉も「ナガ」が語源か。イザナギナガスネヒコ、オキナガタラシヒメ(神功皇后)。うなぎもこの中に入るのか?
 「ナガ」「ナギ」から「ニギ」に変化したともいわれる。 ニギハヤヒ、ニニギ
 そして八俣大蛇、三輪山の蛇信仰、神社の注連縄などはインドの蛇神話につながっているかもしれない。ヒンドゥー教では蛇神が重要な役割を果たしてきた。インドのみならず、かつては蛇神が世界中で信仰されていたが、今日では細々としたものになってしまった。
 奈良県桜井市の大神神社の境内手前に「巳の神杉」があるように、日本では蛇信仰が残っている。
   東大阪市の石切剣箭神社の注連縄(2009年9月24日撮影)
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 あるいは、注連縄は蛇ではなくて、「出雲」の雲と言う説もあります。注連縄が雲で、大きな鈴が雷、紙垂(しで)が稲妻という説も捨てがたいと思います。
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by enki-eden | 2012-12-22 14:34

ホケノ山古墳

 奈良県桜井市の169号線を東に入り、箸墓古墳の南側を東進し、更に細い道路をくねくねと進むとホケノ山古墳に着きます。箸墓からは200mほどですが最後の曲がり角が非常に狭く右は川、左は民家の塀で車が曲がるのにギリギリです。やっと曲がると駐車場にたどり着きます。

 細い道路から直ぐに前方部に繋がっており、苦労もなく墳頂に登れます。御所市室の宮山古墳に登った時は大きくて大変だったことを思い出しました。
 ホケノ山古墳は全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mの、前方部を三輪山に向けてつくられた前方後円墳です。墳頂からすぐ西に箸墓古墳が見えます。直ぐ麓にも小さな古墳が見えます。
 墳丘の表面には葺石があり、周濠を巡らしていますが、現在では南方に池があるだけです。前方部裾には、葺石を一部破壊して設けられた埋葬施設があります。
 後円部には石囲いの中に木槨を造った二重構造の槨があり、木槨内に高野槇製のくり抜き木棺があったと推定されています。魏志倭人伝に「倭国の墓には棺あって槨なし」と記されていますが、卑弥呼が亡くなった頃にホケノ山古墳が造られたと考えられる事から、倭国・邪馬台国は大和ではなく北部九州であった証拠の一つになるのでは? 
 邪馬台国近畿説の皆様には少し不利かな?
 2010年11月16日撮影
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 遺物は後漢鏡とみられる画文帯神獣鏡1枚(直径19cm)と破片、内行花文鏡の破片、素環頭大刀を含む鉄剣類約10本、庄内式土器約20個と大量の銅鏃、鉄鏃など。棺内に大量の水銀朱も残っていた。壷は石壇の上に一定間隔で並べられていたとみられる。
 大きなな木棺、画文帯神獣鏡や水銀朱など、箸墓古墳以降の前方後円墳につながる要素もあり、調査委は「弥生墳墓と前期前方後円墳の中間的なもの」と結論づけた。銅鏡は鋳上がりがよく文様もはっきりしているため、後漢末に作られたとみられる。
 画文帯神獣鏡が後漢末に作られ、日本にもたらされ副葬されたとみられることと、出土土器がすべて弥生時代後期に属することなどから、築造年代を3世紀半ば(卑弥呼が亡くなった頃)とされている。当時は筑紫、出雲、吉備、但馬、播磨、河内、大和、東国などに国があり、集落があり、市があり、列島レベルで交易がなされていたと考えられます。
 その中で1世紀の北部九州30カ国ほどを取りまとめる代表の奴国が「漢委奴国王」として交易のリーダーであったのでしょう。その後、2世紀には奴国王は倭王として認められるまでに成長し、奴国王族の卑弥呼が女王となり魏に朝貢して親魏倭王印を授かった。そのために卑弥呼は先祖伝来の宝物・漢委奴国王印を聖地・志賀島に埋納したと私は考えています。
 親魏倭王印は二代目女王臺與が引き継いで、魏が滅んだ時(265年)に臺與の本拠地の聖地に埋納したことでしょう。しかし、臺與が266年に晋に朝貢しましたが、満足の行く待遇ではなかったと私は考えています。金印授与もなかったことでしょう。やがて大陸では内乱が続き、交易できる状態ではなくなりました。列島支配を進めるためには筑紫よりも大和が適地であったので、臺與は大和に東遷した可能性もあると私は考えています。記紀にはそんな話はありませんから、これからの考古学的発掘に頼るしかありませんけどね… 
 臺與が仮に東遷したのであれば、宝物の金印を埋納すべき大和の聖地は、三輪山になるでしょうね。大神神社に記録がありませんかねぇ。
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by enki-eden | 2012-12-21 13:50