古代史探訪

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大祓い(おおはらい)

 お祓いは大和の国で行われていた民間のまじないです。どこかの家で何か悪い事があったと聞きつけると「拝み屋」が現れ、お祓いをして穢れを取り除きましょうとやって来ます。
 これはボランティアではなく商売ですから、お祓いが終わると何がしかの代償を支払います。お祓いを断ってもいいのですが、そうすると拝み屋は「穢れを放っておくと大変な事になりますよ!」と脅しますから、断りにくいのです。多くの人は、お祓いが早く終わって帰ってくれないかと我慢していたのでしょう。
 中大兄皇子(後の38代天智天皇、626年~671年)と中臣鎌足(614年~669年)が645年から646年にかけて大化の改新を進め、お祓いは禁止されました。
 40代天武天皇(631年?~686年)の時に国家神道が確立され、伊勢神宮の天照大神を頂点として日本の隅々にまで神社を系統付けました。また母の37代斉明天皇(594年~661年)の影響なのか、道教に関心を示しました。そのような情勢の中で、禁止されていたお祓いが祓除(はらえ)として国家行事にまで昇華していきました。
 42代文武天皇(683年~707年)の時、701年に大宝律令が完成しました。勿論、藤原不比等(659年~720年)が制定の中心人物だったと思います。6月と12月の晦日に朱雀門前の広場に皇子・大臣・官僚などが集まり、中臣氏が取り仕切る中臣神道として大祓えが始まりました。6月の大祓えを夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓えを年越の祓(としこしのはらえ)といいます。この呼び方は明治政府によって一時禁止されていました。宮中では今でも行事が残っているようです。
    平城宮跡の朱雀門を大極殿から望む。手前をちょうど近鉄電車が走っています。
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 日本中の地方の国々の罪・穢れを取り除くための国家行事・神事ですから、罪を許していただいた代償を各地方国が中央国家に支払う事になります。これは中央国家にとっては6月と12月の臨時収入となり、宮廷内の人々のボーナスにもなります。その仕組みが現代でも続いており、官庁・企業で年2回のボーナスが支給されています。

 禊祓(みそぎはらえ)を詠んだ歌は多いですが、その一部を見ましょう。
   小倉百人一首 98番藤原家隆(1158年~1237年)
   風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
     「ならの小川」は、京都市北区の上賀茂神社の境内を流れている御手洗川
     (みたらしがわ)です。「なら」は神社の森の楢の木です。
     「みそぎ」は「6月の祓え」のことで、川の水などで身を清め、穢れを落とします。

   拾遺和歌集  134番     藤原長能(ふじわらのながよし、949年~1009年)
   さばへなす 荒ぶる神も おしなべて 今日は名越の 祓なりけり

   拾遺和歌集  292番     よみびとしらず
   水無月の 名越しの祓へ する人は 千歳の命 延ぶといふなり

   後撰和歌集  215番     よみびとしらず
   加茂川の みなそこすみて 照月を ゆきて見んとや 夏ばらへする

 私の家は神道ですので子どもの頃から祝詞(のりと)を聞き慣れています。祝詞の最後の部分を書き写しました。

大祓詞(おおはらえのことば)最後の部分
遺(のこ)る罪は在(あ)らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山(ひきやま)の末
より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川(はやかわ)の瀬に坐(ま)す瀬織津比売
(せおりつひめ)と言ふ 神 大海原に持ち出でなむ 
此く持ち出で往(い)なば 荒潮の潮の八百道(やおじ)の八潮道(やしおじ)の
潮の八百会(やおあい)に坐す速開都比売(はやあきつひめ)と言ふ神 
持ち加加呑みてむ 
此く加加呑みてば 気吹戸(いぶきど)に坐(ま)す気吹戸主(いぶきどぬし)と言ふ神 
根国底国(ねのくにそこのくに)に気吹き放ちてむ 
此く気吹き放ちてば 根国底国に坐す速佐須良比売(はやさすらひめ)と言ふ神 
持ち佐須良(さすら)ひ失ひてむ
此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 
天つ神 国つ神 八百萬神等(やおよろずのかみたち)共に 聞こし食(め)せと白(もう)す

罪・穢れを祓う祓戸大神(はらえどおおかみ)
 瀬織津比売(川で禊をした穢れを海に流す)
 速開都比売(川から海へ流れてきた穢れを渦潮に巻き込ませる)
 気吹戸主(この世とあの世の境にいる息吹戸主が根国底国に穢れを吹き飛ばす)
 速佐須良比売(根の国底の国で穢れを消し去る)
 
神社の境内に祓戸大神を祀っていることがあります。
往馬大社の祓戸社・瀬織津比売神
女神の千木は水平切りで、鰹木は偶数ですが、ここの千木は垂直切りで、鰹木は三つで
男神の形になっています。例外はたくさんあります。
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  夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われます。
  また神社では、人形(ひとがた)に氏名・生年月日・年令などを記入して、お祓いをして
もらい、我が身の罪穢れを託す方法もあります。
 このほか、吉田神道を中心として、役の行者(えんのぎょうじゃ)などの山岳密教と関係のある
六根清浄(ろっこんしょうじょう)の大祓」もあります。
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by enki-eden | 2013-01-30 11:40

       奴国王

 
 魏志倭人伝に記されている奴国は、伊都国(糸島市)の東南にあり、博多湾に面した福岡平野にあったと一般的に考えられています。魏書や晋書などによると1世紀から少なくとも3世紀の後半までは存在していたようです。

 連合国である邪馬台国の女王卑弥呼は奴国の王族と考えられますから、宮殿を邪馬台国(筑後川の両岸域と考えられる)に設けましたが、奴国にも宮殿を設けていたのではないでしょうか。連合国の女王は奴国王を兼任していたと私は考えています。倭人伝は伊都国の王については述べていますが、中心的な大国の奴国の王については述べていません。邪馬台国の女王が兼任しているからなのでしょう。
 奴国の大きな遺跡は須玖岡本遺跡で、周辺一帯は「奴国の丘歴史公園」として整備されており、奴国の丘歴史資料館(福岡県春日市岡本3-57)もあります。ここは奴国の中心地だったのでしょう。
 伊都国には一大率を置き、魏などの郡使が常に滞在するのも伊都国でした。伊都国の大きな遺跡は平原遺跡(ひらばる)、三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじ)と井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞ)です。出土する副葬品や装身具は伊都国が奴国を圧倒していますので、伊都国に奴国王墓が築かれたのでしょうか。奴国と伊都国は密接に繋がっており、元々同一国だったのではないかと思えるほどです。どちらも同じ甕棺墓地域で、弥生人としての民族・出自も同じなのでしょう。
 漢に朝貢してきた倭人(奴国人)が自ら呉の太伯の子孫と言っていますから、奴国人は呉人の子孫です。呉の領土は揚子江(長江)河口域で、現在の江蘇省南部や浙江省北部を支配していました。
 呉は紀元前473年に越に滅ぼされ、呉人は北部の徐州に逃亡しました。その越も紀元前334年に楚に滅ぼされ南北に逃亡しますが、北部に逃亡してきた越人に呉人は押し出され、朝鮮半島南部と九州北部にやって来ます。私見ですが、紀元前4世紀か3世紀頃に北部九州にやって来た呉人が中心になって奴国や伊都国、それから対馬国や壱岐国などの基盤ができたと考えています。
 呉の道教では画紋帯神獣鏡と剣の二種の神器で祭祀を行っていました。これが、呉人の渡来と共に倭国に伝来し、それを会得・継承した卑弥呼の鬼道となりました。邪馬台国の主力勢が大和に東遷し、二種の神器に勾玉が加わって三種になり、やがて古墳時代の大和朝廷に発展していったと考えられます。
 漢の銅鏡は方格規矩四神鏡や内行花文鏡が主で、日本で出土するこれらの鏡は前漢・後漢に朝貢して手に入れたものです。勿論、倭製鏡も大量に出土します。
 福岡市埋蔵文化財調査課の常松幹雄氏は、「漢帝国による認知を王墓の条件とする研究者は、漢代の文物を集中副葬する須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡を王墓の出現とする考えを支持する。この前提では、前漢への朝貢以前の倭人社会に王墓は存在しない事になる。」と言われています。常松氏は大変話し上手で、面白く講演を聞く事ができます。やはり講演者のプレゼン能力が大きく会場の雰囲気を変えますね。
 西暦57年、倭の奴国が後漢に朝貢し、光武帝は印綬を授けます。江戸時代に博多湾の志賀島で発見された国宝の漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は後漢書倭伝の印綬に該当します。それまでの倭人も前漢・後漢に朝貢していましたが、「西暦57年の金印下賜は漢皇帝を頂点とする秩序に組み入れられたという点で画期である。奴国と伊都国が合体してはじめて国として機能したと考えられる。」と常松幹雄氏は言われます。
 委奴国を「わのなこく」と読まず、「いとこく」や「いどこく」「いぬこく」などとする説もありますが…
 その50年後の西暦107年、倭王帥升等が後漢に朝貢し、生口(せいこう)160人を献ずる。2世紀は九州から各地に交易品が運ばれました。海外向け、国内向けの交易が盛んだったことになります。そして2世紀の終わりごろになると倭国乱の時期になります。
 糸島市の細石神社(さざれいしじんじゃ)には、漢委奴国王の金印が宝物として伝わっていたが、江戸時代に流出したという伝承があります。細石神社の祭神は磐長姫と木花開耶姫の姉妹二柱です。神社の近くには1世紀の井原鑓溝王墓がありました。この王墓は天明年間(1781年~1789年)に発掘されました。
     細石神社

 江戸時代に志賀島で発見された金印は福岡藩主黒田家が所有していました。明治維新により黒田家が東京へ移住、東京国立博物館に寄託されました。その後、福岡市に寄贈され、1979年から福岡市美術館、1990年から福岡市博物館で保管・展示されています。金印の所在地問題に関しても奴国と伊都国は繋がっているように見えますねぇ。
 ここで私見ですが、古事記と魏志倭人伝を基に奴国王について考えてみたいと思います。古事記や日本書紀は神話で、魏書は歴史書だから一緒にして論じてはいけないという説が多いのは承知していますが、私は両方を検討し、考古学の成果も勘案しなければいけないという立場ですので、ご容赦ください。一つの部門だけの結論ではなく、多方面の学者が一つの問題を共通に論じて発表して欲しいと思います。考古学者が文献資料について考古学との接点を探られているのは結構な事だと思います。
 さて、古事記の天地の始まりにおいて、最初に現れたのが天之御中主神(あめのみなかぬし)、高御産巣日神(たかみむすひ)、神産巣日神(かみむすひ)の三神で造化三神といいます。観念的な神様なのか、まだ奴国が初期の段階での首長を神として昇華させたのかは分かりません。その次に現れた宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじ)と天之常立神(あまのとこたち)を加えた五柱の神を別天神(ことあまつかみ)と言います。(諸説あり)
 その次に神世7代=奴国王の出現です。(これも諸説あり)
1.国之常立神(くにのとこたち、西暦57年に後漢に朝貢して金印を授けられた奴国王か)
2.豊雲野神(とよくむの、豊国主)
3.宇比地邇神(ういじに)と須比智邇神(すいじに)
4.角杙神(つぬぐい、西暦107年に後漢に朝貢した倭王帥升か)と活杙神(いくぐい)
5.意富斗能地神(おおとのじ)と大斗乃辨神(おおとのべ)
6.淤母陀琉神(おもだる)と阿夜訶志古泥神(あやかしこね)
7.伊耶那岐神(いざなぎ)と伊耶那美神(いざなみ)

 倭王帥升(107年に後漢に朝貢)から70~80年の間、男王が立ち(私見では4代から7代までの4人の神・王)、185年頃に倭国大乱。それは第7代倭王の伊耶那岐(伊弉諾)の頃か? 伊弉諾は失脚して淡路の伊弉諾神宮の地に隠遁した後に死去して、その地に葬られました。伊弉諾と伊弉冉(いざなみ)の争いが記紀に記されています。これは鉄の争いかもしれません。伊弉冉は産鉄の女王だったようですし、伊弉諾の淡路に大規模な鉄工房が発見されています。(私見では伊弉諾の生没年は125年頃~185年頃です。初代の国之常立神の生年は西暦元年頃と見ています。)
 伊弉諾の後に第8代の奴国の男王が立ち、倭王を称しますが乱は治まりません。その男王は伊弉諾の子とされる綿津見豊玉彦(綿津見神)かもしれませんね。
そこで奴国王族で巫女の卑弥呼が筑紫29カ国連合の倭国女王となり、第9代奴国王を兼任したと考えられます。
 卑弥呼は239年に魏に使いを送り、親魏倭王に任ぜられました。そして卑弥呼は領土拡大を図りました(出雲に国譲りを迫る)。ここでいう出雲は宗像と豊国のことかもしれません。それは200年頃から210年頃のことだと思います。
 その後、邪馬台国の南の狗奴国と領土の争い、有明海の制海権の争いなどで戦争になり、247年に帯方郡の郡使張政が来て、卑弥呼は殺害され(?)または自害し、臺與が女王に立てられました。(卑弥呼と臺與が天照大神であるとの説が多いですが、あり得ないという説もあります。)
     有明海

 265年に魏を継いだ晋が成立すると、臺與は266年に晋に朝貢、この時張政を帯方郡に送りました。張政は倭国に19年間ほどいたことになります。ただし、もう少し前に帰ったという説もあります。263年に魏に朝貢した記録があるからです。それだと滞在期間は16年ぐらいです。いずれにしても張政は倭国に長期間滞在し、行政指導や軍事指導、情報収集していたことでしょう。狗奴国との休戦交渉が長引いたのかもしれません。伊都国を拠点にしていた張政には子供もできたでしょうねぇ、間違いなく…
 卑弥呼の後を継いだ臺與は、晋に内乱が続き交易が難しくなったので、筑紫に本拠を置くよりも、270年過ぎに列島中心部の大和へ東遷し、祟神を大王として全国を制覇させたのではないでしょうか。これについては、どの文献にも載っていませんので私の仮説です。
 大和の纏向遺跡の大型建物跡は倭迹迹日百襲姫が神懸りして神託を受けた神殿でしょうか? 倭迹迹日百襲姫は私には臺與に見えてしょうがないのですが… ですから、臺與の東遷を考えてしまうのですがねぇ…
 纏向遺跡(紺の範囲は190年頃から250年頃の遺構で饒速日の政治・祭祀の拠点か、
      赤の範囲は250年頃から320年頃で終了、祟神天皇の政治・祭祀の拠点か)
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 親魏倭王印は卑弥呼から臺與に引き継がれたはずです。臺與が九州北部で亡くなったのであれば、金印は臺與の本拠地の聖地に埋納されたでしょうし、東遷したのであれば大和の聖地・三輪山の磐座に埋納されたでしょう。
 臺與が晋に朝貢したのが266年、それから60年ほど経った4世紀になって、大和朝廷の12代景行天皇、皇子日本武尊が熊襲退治に九州へやって来ます。14代仲哀天皇と神功皇后も九州へ熊襲退治に行きますが、伊都国・奴国・投馬国(豊国)などは恭順、協力しています。歓迎方法も皆同じ三種の神器を船の舳先に付けて迎えていますので、大和朝廷と同じ儀礼になっています。
 臺與が東遷したかどうかはともかく、北部九州の中心勢力が東遷して大和朝廷に発展していったと考えられるのではないでしょうか。饒速日東遷(185年頃)、神武天皇東遷(204年頃)などを含めて、列島内の多くの勢力が波状的に何度も大和に移住してきた事でしょう。大和の祭祀方法も大きく変わっていき、3世紀後半の古墳時代へと突入していきました。
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by enki-eden | 2013-01-27 10:18

籠神社(このじんじゃ)

丹後国一の宮、元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)
 所在地: 京都府宮津市字大垣430     電 0772-27-0006
 主祭神: 彦火明命(ひこほあかりのみこと)、亦の名、天照国照彦天火明命
 相殿(あいどの)に豊受大神 (とようけおおかみ)、天照大神 (あまてらすおおみかみ)、
   海神 (わたつみのかみ)、天水分神 (あめのみくまりのかみ)が祀られています。
          鳥居
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          神門
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 社殿は唯一神明造という独特の建築様式で、他に伊勢神宮以外では見られないものです。主祭神は男神ですが、本殿の千木は内そぎ、鰹木は10本で女神の造りになっています。本殿には五色の座玉(すえだま)と呼ばれる宝玉が飾られていますが、これも伊勢神宮に似ています。本殿横の境内には細石(さざれいし)があり禁足になっていました。
   拝殿
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   細石
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 葵祭が4月24日に行われます。籠神社と縁の深い京都の上賀茂神社・下鴨神社の葵祭では葵の葉を付けるのに対し、籠神社では豊受大神ゆかりの藤の花を挿します。3世紀の頃に始まり、29代欽明天皇以前は藤祭と呼ばれていたそうです。
 伊弉諾尊が天に登るための梯子が倒れて天橋立になったという伝承がありますが、ケーブルカーで文殊山上の天橋立ビューランドに昇り、すばらしい日本三景の天橋立を楽しみました。全長は3.6kmもあるそうです。
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   緑のアイコンが籠神社

 天橋立と陸地の間に運河があり、船を通すための廻旋橋(回転橋)を見学しました。その回転橋を渡って天橋立の海岸に出ると、30kmほど離れた舞鶴から来た海上自衛隊員が数名いました。話をすると若くて初々しくて好感をもてました。礼儀作法と身のこなしがキチットしていましたよ。
 車で阿蘇海沿いの道をぐるっと廻って天橋立の反対側に行きました。籠神社です。駐車場は有料です。天橋立の北の端から500mの所にあります。籠神社の北東450mほどの所に奥宮の眞名井神社がありますが、途中でちょっと迷いました。真名井神社は「天の羽衣伝説」の伝承地です。
   真名井神社(後方の神体山に天御中主神など磐座が多い。)
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 真名井という名は、「真名井の水」という神水が涌き出ることによるのですが、近くに住む人が水を汲みに来ていました。一時地下水が枯れたので深く掘って再度湧いているようです。
   真名井神社後方の神体山表示
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   神体山(天香語山)の塩土老翁石碑(大綿津見神、亦名住吉同体、亦名豊受大神)
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 四柱の神が同体ということは、これも子孫の姻戚により祖神を同体として纏め、同族意識を高めた結果なのでしょうか。それとも言葉通り同一神なのでしょうか。
 私見ですが、安曇氏の祖である大綿津見神の生年は135年頃と見ています。
 社家の海部氏は彦火明命を始祖とし、籠神社の創建以来、代々宮司を務め、現在の海部光彦氏は82代目です。4代目の倭宿禰命は神武東征の際に大和国へ先導しました。私見ですが、彦火明命の生年は140年頃と見ています。4代目の倭宿禰命は185年頃と見ています。
   籠神社境内の倭宿禰命像
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 神社伝来の海部氏系図(籠名神社祝部氏係図)は1976年に国宝に指定されています。
 海部氏系図を写しました(一部分)。私は系図を写すのが好きで、天皇家や古代豪族の系図も写しています。もちろん我が家の系図も写しており、最近新しい名前を追加しましたよ。
 神名の横に書いている三桁の数字は、私が推定する生年です。
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 海部直伝世鏡は息津鏡(後漢鏡)と辺津鏡(前漢鏡)があり、息津鏡は直径175mm、辺津鏡は直径95mm。出土品でない伝世鏡では日本最古だそうです。
 天火明命(あめのほあかりのみこと)は播磨国風土記・飾磨の郡に、大汝(おおなむち)命の子として登場しますが、他の文献にはこの説はないと思います。私見ですが、伊弉諾尊の子だと考えています。
 籠神社の絵馬にカゴメ紋がついています。真名井神社の神紋はカゴメ紋でした。カゴメ紋(籠目紋)がユダヤの紋・ダビデの星(六芒星)と同じ形である為に、日ユ同祖論の注目を受け、おそらく神社に問い合わせが殺到して困った神社が三つ巴紋に変えたのかもしれません。石碑の紋を比べてください。左が元々のカゴメ紋です。右が付け替えられた三つ巴紋です。
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 カゴメのマークは食品メーカーも使っていますので、日本では通常のマークだと思います。海人族と籠は関係が深く、籠目紋は海人族の紋で、彦火明命が乗っていた籠のマークでしょう。豊受大神の神紋が籠目紋ですから、豊受大神が遷られた伊勢神宮では参道の灯篭に菊花紋と籠目紋がついています。しかし、カゴメ紋とダビデの星には密接な繋がりがありそうですね。わらべ歌の「かごめかごめ」にも深い意味がありそうです。
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by enki-eden | 2013-01-24 10:11

出石神社(いずしじんじゃ)

但馬の小京都 出石(いずし)散策
豊岡市立出石明治館。出石郡役所として明治20年建造、昭和元年に郡役所が廃止されるまで利用されました。豊岡市出石町魚屋50   電 0796-52-2353
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郡役所長の机と椅子でしょうか。
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 明治館に展示されている加藤弘之氏(1836年~1916年)の肖像。出石藩士の家に生まれ、幕府改革を唱える。佐久間象山に洋式兵法を学ぶ。明治に入ると東大の初代綜理、男爵となる。
 佐久間象山といえば、NHKのドラマ「八重の桜」の中で奥田瑛二の演技が光りますね。
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出石城跡。昭和43年、本丸跡に隅櫓が復元され、その後登城門や登城橋が建設されました。
豊岡市出石町内町
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 辰鼓楼。明治4年に旧三の丸大手門脇の櫓台に建設されました。明治14年に医師・池口忠恕氏が大時計を寄贈してからは時計台として親しまれ、今では3代目の時計だそうです。
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 辰鼓楼の前にある「大門」で出石手打ち皿そばを食べました。 おいしかったです! 有名人も来るらしい。店の兄ちゃんのおしゃべりが面白かったですよ。兄ちゃんの妹が阪神タイガースの能見篤史投手と同級生で「能見クン」と言っていました。能見投手は出石出身だから背番号が14(いずし)だそうです。

出石神社
所在地: 兵庫県豊岡市出石町宮内99     電 0796-52-2440  駐車場あります
祭神: 天日槍命(あめのひぼこのみこと、新羅の王子)
      伊豆志八前大神(いずしやまえのおおかみ、八種の宝)
神門を通ると正面に拝殿、後ろに垣に囲まれた本殿があります。本殿には外切りの千木と鰹木が5つあります。但馬国一宮ですから、地元では「いっきゅさん」と親しまれています。
天日槍の系図は異説も種々ありますが、
  天之日矛-多遅摩母呂須玖-多遅摩斐泥-多遅摩比那良岐-多遅摩比多訶
  -葛城高額媛-神功皇后と見れば、天日槍の生年は西暦230年頃と考えられます。
 7代孝霊天皇の生年もその頃と私は見ています。
 歴史と神話を混ぜるなとおっしゃる皆様方、ご容赦願いますね。私は神話を「科学的な知識のない古代人が自分たちの表現方法で歴史を述べたもの」と考えていますので、神話を現代人風に翻訳すれば歴史になると思っています。ハインリヒ・シュリーマンのトロイ遺跡発掘の例がありますよね。神話、歴史、考古学、科学的調査などが同じ問題に共同で取り組めば、事実はより鮮明になるのでは?
 天日槍は鉄・須恵器・土木工事の技術者を率いていたと考えられています。播磨国風土記では天日槍神が播磨に来て、大国主神(伊和大神 いわおおかみ・葦原志許乎命 あしはらしこおのみこと)と土地争いをしたとあります。日槍は次に近江に移住、若狭から但馬の出石に落ち着きました。
 社伝によれば、天日槍命は泥海であった但馬を円山川河口の岩石を切り開くことによって泥水を日本海に流し、現在の肥沃な但馬平野を現出、円山川の治水、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めています。
出石神社の祭事の中に、5月5日の節句祭があります。 幟まわしと呼ばれ、若者(中学生など)が太い竹に付けた大きなのぼりを立てて回す行事ですが、初節句を迎える家々を回り、家の前で5本の幟を持ち歌を歌って祝います。テレビの報道番組で見て感動しました。立派な大人になる事でしょう!
拝殿(お寺のように向拝=ひさし があります。八坂神社にも向拝があります。)
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本殿(三間社流造り)
但馬国一の宮として但馬開発の祖神・天日槍と八種の宝が祀られています。
古事記・日本書紀にも名を連ねる但馬有数の大社です。
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 禁足地。本殿の右にご神木があり、その奥に禁足地があります。天日槍の墳墓でしょう。低い盛土の周りを石の柵で囲っています。古代より草木は自然のままで、中に入ると祟りがあると言われています。
 文献で古代史を研究したり出土物を見学するのは大事ですが、神社や古墳・遺跡など現地に行くことによって古代人の霊気を感ずることができますよね。身近になった親しみも湧いてきます。家内を連れて行っても「そんなことは感じない。」と言うのですがねぇ…
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by enki-eden | 2013-01-22 01:01

青谷上寺地遺跡展示館(あおやかみじちいせき)と因幡万葉歴史館

青谷上寺地遺跡展示館(あおやかみじちいせき)
 住所: 鳥取市青谷町青谷4064   電話:0857-85-0841
 鳥取市内のレストランで昼食、スープ・鳥の炒め物・コーヒー付で680円、大変おいしかったです。
 昼食後、日本海沿いに国道9号を西進、鳥取空港の前を通り、美しい白兎海岸を右に眺め、左へ少し入っていけば白兎神社(鳥取市白兎603)があります。大国主命が八上比売に求婚するための旅の途中で、白兎(稲葉の白うさぎ)に出会って助けたお話が古事記にあります。そして大国主命は八上比売と結婚し木俣神(御井神)が生まれます。八上比売を祀る神社は売沼神社(めぬまじんじゃ、鳥取市河原町曳田字上土居169)です。   
 鳥取市内から国道9号を20kmほど西へ進むと青谷上寺地遺跡展示館に着きます。
 2,200年前から1,700年前まで栄えた弥生集落の遺跡です。殺傷痕跡のある人骨など100体分の人骨や、日本で初めて1800年前の弥生人の脳が含まれた頭骨も三つ発見されました。人骨からはDNAが抽出されましたが、脳からは量が少なくて抽出できなかったようです。抜歯の風習もありました。身長も縄文人より高く、渡来の弥生人です。
 調査されたのは鳥取大学医学部教授の井上貴央氏と鳥取県教育委員会です。
     窓格子状の木製品 
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     壷
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     壷と甕、貝塚から出土した貝殻
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     畿内・美作・備後製の土器、
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因幡万葉歴史館
 鳥取市国府町町屋726   TEL 0857-26-1780
 万葉歌人大伴家持(718年~785年)が758年に因幡国の守となり、759年1月に因幡国庁で詠んだ歌が万葉集の最後を飾っています。
 新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
                                     
 国府町には奈良・平安時代に因幡国庁が置かれていました。因幡国庁は稲葉山(標高249m)の南西麓で、因幡万葉歴史館の北東800mのところに国庁跡があります。

 在原行平(ありはらのゆきひら・818年~893年、在原業平の異母兄)は855年に因幡国の守となりました。その赴任前の惜別の歌です。
  たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む

 因幡万葉歴史館では万葉衣装の試着体験ができます。また、因幡の古代、因幡国という歴史的視野にたって、国府町に残る古墳や石堂などの古代遺跡を模型で再現しています。
   因幡国庁模型
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 伊福吉部徳足比売(いふきべのとこたりひめ・708年病没)等身大徳足比売像
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 伊福部氏の女性として藤原京の女官(采女)として仕えましたが病没、当時から少しづつ始まり出した火葬にふされました。遺骨を収めた骨蔵器に銘文・墓誌が刻まれており、重要な資料となっています。墓跡は因幡万葉歴史館の北1km(稲葉山中腹)にあります。
   
   赤:万葉歴史館、緑:国庁跡、青:伊福吉部徳足比売墓跡

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by enki-eden | 2013-01-20 11:05

往馬大社(いこまたいしゃ) 

(往馬坐伊古麻都比古神社・いこまにますいこまつひこじんじゃ)
所在地: 奈良県生駒市壱分町1527-1   電0743-77-8001    駐車場あり
神社名: 現在は往馬大社と往馬坐伊古麻都比古神社の二通りに称しているが、
      古くは、往馬大社、往馬坐伊古麻都比古神社、胆駒社(いこましゃ)、
      生馬大明神、生馬八幡宮、行馬社、生馬神社、生駒大宮などと
      称していた。
御祭神: 伊古麻都比古神(産土大神)、伊古麻都比賣神(産土大神)、
      気長足比賣尊(神功皇后)、足仲津都比古神(仲哀天皇)、
      譽田別尊(応神天皇)、葛城高額姫尊 (神功皇后の母君)、
      気長宿称王尊(神功皇后の父君)。
      境内に摂社14社、境外に摂社6社が合せ祀られています。

神社の由緒
 当社は本来は生駒山を神体山として祀られた日本で最も古い形態の神社でありますので、この生駒谷に人々が住み始めた太古の頃から生駒地方の守り神としてこの地に存在いたしました。
 歴史書物の中で最も古いものは、総国風土記の中の「伊古麻都比古神社、雄略3年(458年)」とあるものです。また、正倉院文書の大倭國正税帳(730年)や新抄格勅符抄(806年)にもその記載が見られ、延喜式(927年)には「往馬坐伊古麻都比古神社二座 并大月次新嘗」とあって、当時の日本全国の官社(2,861社)の中でも最高位の官幣大社に列せられていました。当社の御祭神は本来、伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神の二柱でございましたが、その後鎌倉時代の八幡信仰の隆盛に伴い五柱の神を合祀して七柱となりました。

火燧木(ヒキリギ)の神
 平安朝の書物である北山抄や元要記、亀相記等には「火燧木神」の記載が見られ、伊古麻都比古神、伊古麻都比賣神は古くから「火の神」としても尊ばれていました。歴代天皇の御即位の踐祚大嘗祭に用いられる火燧木は代々往馬大社より献上したもので、昭和・平成の大嘗祭にも当社の火燧木  (上溝桜・うわみずざくら、バラ科サクラ属)が使用されました。
 古代では亀甲で占う時、ウワミズザクラの材の上面に溝を彫って使ったところから上溝桜というらしいです。古代から現代まで神事と関係のある木なんですねぇ。

 私見ですが、邪馬台国の官・伊支馬(いきま)は生駒かもしれませんね。当社の往馬の名の由来も生駒でしょうか。地名は生駒市になっています。当社は生駒山(642m)の東の裾野にあります。
 邪馬台国の女王臺與が270年か280年頃に九州から大和に東遷したと仮定すれば、重職の伊支馬も大和に来て生駒を領地としたのでしょう。10代祟神天皇の時代に世の中が大きく変遷していったことにも臺與の東遷が影響した可能性があるのではないでしょうか。
 これも私見ですが、臺與の生年は235年頃、東遷は270年から280年頃、祟神天皇の生年は250年頃、崩御は318年頃と見ています。
 私は九州と大和の両方が邪馬台国だと考えています。邪馬台国は北部九州で始まり、その主力勢が大和に移ってきて大和朝廷に発展していったと考えています。
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   杉の木の神木
   落雷が2度あって燃えたが、今も枝から青々とした葉が伸びて、災いに負けない強い
   生命力の神木として信仰を受けています。
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     本殿(春日造・檜皮葺き)
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by enki-eden | 2013-01-18 10:00

石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

 石切大明神
 大阪府東大阪市東石切町1丁目1-1  電話:072-982-3621
   神道石切教の神社、駐車場は有料です。
 祭神:饒速日尊、可美真手命

 神社の由緒によりますと、饒速日は布都御魂の剣を持ち、日の御子の証である天羽羽矢を携えて天磐船に乗り、大部隊で筑紫の遠賀川から東遷してきました。瀬戸内海を通って大和に向かい、神武東遷に先立って大和建国の任務を受けて天磐船に乗り、哮ヶ峰(生駒山)に着きました。
 そのころ、大和にはすでに勢力を拡大している先住の長髄彦がいました。饒速日は長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚し、可美真手が生まれました。その後、神武天皇の東遷で饒速日は大和の支配権を神武天皇に譲りました。(私見ですが、饒速日東遷は185年頃で初期の纏向遺跡、神武東遷は204年頃と見ています。)
 可美真手命は大和の治政に協力し、物部一族を率いて武力と祭祀で貢献しました。当神社の祭祀は代々、木積氏が司ってきましたが木積氏は物部氏の最有力氏族のひとつ「穂積(ほづみ)」から転じたものです。木積氏は本来は穂積氏で、物部氏の伊香色雄(いかがしこお)が穂積姓を名のり、9代開化天皇と10代祟神天皇に仕えました。このころ物部氏の勢力が増大してゆきました。その物部氏の祖先である饒速日尊と可美真手命を石切の地に祭神として祀りました。木積家は代々神職として朝夕、皇室の安泰、国家の興隆、崇敬者の無事繁栄を祈祷し、加護をお願いしています。
   絵馬殿の屋根の上に剣が天を指し、矢が六本据えられています。
   向こうに正面鳥居が見えます。
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   正面鳥居(石の鳥居)
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   正面鳥居の裏側に「106代神主 木積一仁」と彫られています。
   饒速日から106代神主までは1,810年程経っていますから、
   1代平均17年の年齢差になります。
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   本殿、左の楠は神木(樹齢は500年弱らしい)。本殿に千木と鰹木はありません。
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 当神社も中世の神仏習合の影響が色濃く残っています。八坂神社のように拝殿と本殿が一体型になっています。本殿の後ろには仏教施設が残っています。
 また、当社は古くから「いしきりさん」「でんぼの神さん」として知られ、昭和時代からは腫れ物などを治して下さる神様としても有名ですが、 この「でんぼ」(関西の言葉で腫れ物)は、本来「伝法」であると言われております。「伝法」とはすなわち、 古より社家である木積家に伝わる禁厭の秘法をさしており、これもまた当社の境内から人の絶えることのない理由であります。
 本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りの人がたくさんおられ、庶民信仰の深い神社だなと実感します。
 境内に神武社があり、祭神は神倭磐余彦尊(初代神武天皇)です。
               * **
 私事ですが、今月初めに私の3人目の孫が生まれました。
 「こいつぁ春から縁起がいいわぇ!」


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by enki-eden | 2013-01-16 00:19

磐船神社

 所在地: 大阪府交野市(かたのし)私市(きさいち)9-19-1  
        電話 072-891-2125    駐車場あり
 祭神: 饒速日命
 神社は交野市の南端、天野川沿いにあり天の磐船(あめのいわふね)とよばれる舟形巨岩(磐座)を御神体としています。磐船は天野川を跨いで横たわり、高さ約12メートル、長さ約12メートルの巨岩です。 神社には本殿がなく、ご神体の巨岩の前に小さな拝殿があり、本来の神社形式になっています。
 神社の起源は櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)が大部隊で九州から東遷し、天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨したという伝承に基づいています。それが当地です。この地に留まった人々が肩野物部氏です。
 磐船神社は交野に勢力を保っていた肩野物部氏の氏神であり、一族が深く関わっていた神社ですが、中世以降は他の寺社と同じく境内に神仏習合の影響が色濃く残されています。
 饒速日は交野から大和へ行き大和盆地を見て、虚空見日本国(そらみつやまとのくに)と言ったという伝承があります。それから数十年経ち、そこへ初代神武天皇となる人が九州から大和にやって来て、饒速日の部下の長髄彦と戦争になり、神武側は負けて敗退します。神武の兄の彦五瀬は戦争の傷がもとで亡くなり、竈山神社(かまやまじんじゃ・和歌山市和田438)に葬られます。
 神武は紀伊半島から大和を目指し、途中和歌山で女酋名草戸畔(なぐさとべ)を誅殺、熊野地方で女酋丹敷戸畔(にしきとべ)を誅殺しました。これは神武東遷の大きな目的の一つが辰砂の確保であったと見られることから、辰砂鉱脈を保持している女酋を攻撃したと思われます。辰砂を扱う仕事は水銀毒に犯され、体を壊してしまいます。ですから、辰砂を扱う豪族は自分の息子に仕事を継がせずに、娘に養子をもらい養子に仕事をさせます。こうする事により、仕事も継続でき、子孫もでき、自分の子どもの体が守れるからです。主体は養子ではなく娘になります。だから女酋なのです。その女酋を討つと辰砂鉱脈を奪えるわけです。神武は辰砂の採れる宇陀にも行っています。
 私見ですが、神武一族は沖縄とのゴホウラ貝交易のために九州南部を拠点にしていたと思います。ゴホウラ貝は豪族やシャーマンの腕輪になる貴重なものです。神武はゴホウラ貝を扱っていたがあまり需要が増えず、妙味がなくなってきました。そこで九州北部に居る父の命令で遠賀川に戻り、部隊を率いて東遷し、新しい交易品の辰砂を確保、そして本来の目的の大和征圧及び全国制覇の基礎をつくるのが目的です。これを完成するのは10代祟神天皇まで10代を要することになります。
 私は饒速日東遷は185年頃、その後の神武東遷は204年頃と見ています。戦前の皇国史観では、1940年(昭和15年)が神武天皇即位皇紀2,600年とされていますが、私は神武即位を211年頃と見ていますので、現在は皇紀1,800年位になるのではないでしょうか。
 神武が紀伊半島を回り大和進軍を果たすと、饒速日命は長髄彦を誅殺し神武天皇に従って武力と祭祀を担当し物部氏の祖となりました。しかし、29代欽明天皇の時代に、587年の物部と蘇我の争いで物部守屋が滅ぼされ、蘇我氏の増長、前方後円墳の廃止と方墳築造、仏教信仰と大きく世の中は変わっていきました。
 肩野物部氏の弱体により磐船神社は衰退を余儀なくされました。この神社の立地は巨石が多く、道幅が狭いので防衛面でも要所であったようです。大坂城築城の際、加藤清正が磐船を大坂まで運ぼうとしたが果たせず、磐船に名前を刻んであきらめたといいます。
   拝殿
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   ご神体の磐船
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   天野川(磐船の下を流れている。10kmほどで淀川に注ぐ。)
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by enki-eden | 2013-01-14 11:10

神功皇后伝承と古代遺跡

 今日(1月12日)兵庫県立考古博物館で、館長の石野博信先生の講演がありました。演題はタイトルにある通りです。古事記(岩波文庫)と考古学との接点を探るお話でしたので、その一部をご報告いたします。

 1.その大后息長帯比売命は、その神を帰(よ)せたまひき。故、天皇筑紫の加訶志比宮に坐しまして、熊曾国を撃たむとしたまひし時、天皇御琴を控かして、建内宿祢大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。(神功皇后の新羅征討)
    神託を伺う時には琴を弾いた。考古学的に琴らしき楽器は縄文時代からあった。
    弥生時代になると、かなり精巧なものになる。琴を弾く巫女の埴輪も出土して
    いる。
 2.すなはち火を挙げてみれば、天皇既に崩(かむあが)りたまひぬ。
    「火を挙げて見る」ということは、神託は夜に行われていたことになる。
 3.ここにその御杖を、新羅の国主の門に衝きたてて、すなはち墨江大神の荒御魂を、国守ります神として祭り鎮めて還り渡りたまひき。
    御杖は古墳から出る鹿角型儀杖であろう。
 4.ここに息長帯比売命、倭に還り上ります時、人の心疑はしきによりて、喪船を一つ具へて、御子をその喪船に載せて、まづ「御子は既に崩りましぬ。」と言ひ漏らさしめたまひき。(忍熊王の反逆)
    古代では遺体を埋葬する時に船に乗せて運び、残った船や備品は持って帰らず
    に、周濠に捨てた。そのような喪船の遺物が巣山古墳から出土した。
 5.速須佐之男命は勝ち誇った勢いで、天照大御神の作っていた田の畔を切り崩し、溝を埋めてしまった。また大御神が大嘗を召し上がる殿に、糞をしてまき散らした。
    世界中の神話にウンチを撒き散らす話がある。糞撒き儀礼ともいうべきか。日本の
    古代では浄水を貯めて木の樋で流す儀式があった。奈良県南郷大東遺跡の聖水
    をつくる導水施設で、清らかな水を流した後の地面から糞塊が出土した。
    石野先生はこれを見て、「上(かみ)と下(しも)はカミ一重」とつぶやいた。
    浄水の場所とトイレが隣り合わせだったのです。これも清らかな場所に糞を撒く儀
    式か。

 日本書紀の史官は西暦を知っていた可能性がある。神功皇后39年は西暦239年で、卑弥呼が魏に朝貢した年である。
 神社の境内社に本来の祭神が祀られ、本殿に後から来た神が祀られている事がよくある。これは本殿の乗っ取りであろう。

 他にもたくさんのお話がありまして、楽しい有意義なセミナーでした。
     石野先生
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     兵庫県立考古博物館
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     弥生住居復元
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     高野槇(こうやまき)高さ30 m以上、直径1 mに達するものがある。
     古代の船形木棺に使用された。
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by enki-eden | 2013-01-12 17:44

今城塚古墳、太田茶臼山古墳

今城塚古代歴史館
 住所: 大阪府高槻市郡家新町48番8号     電話: 072-682-0820
 高槻市の今城塚古墳が整備され、古墳の東に今城塚古代歴史館が2011年4月1日にオープンし、「いましろ大王の杜」として開園しました。今城塚古墳は26代継体天皇陵と考えられていますが、宮内庁は茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵と治定しています。
 今城塚古墳は二重の周濠があり、墳丘長約190m、総長約350m、総幅約340m。6世紀前半の築造で学説では継体天皇陵(531年崩御)となっています。
 25代武烈天皇に後嗣ぎがなく、大伴、物部、許勢の各氏が推挙して応神天皇5代目の男大迹王(をほどのおおきみ・継体天皇)が樟葉に宮を設けました。父親は彦主人王(ひこうしのおおきみ・近江高島)、母親は振媛(ふるひめ・越前三国)です。
 継体天皇は応神天皇と同じく父親が若くして亡くなり、強い母に育てられました。百済と交易していた継体天皇は、新羅と交易していた筑紫の磐井の君と528年に筑紫三井郡で戦争になりました。磐井の敗北で決着しました。
   いましろ大王の杜   2011年4月12日撮影
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   大王の石棺(阿蘇ピンク石)
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   石棺内部の埋葬者再現と石積みの様子
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   古墳島田(こふんしまだ)   後世の島田髷(しまだまげ)に少し似ているので
   島田と呼ばれています。古墳の女性埴輪にこの髪形が見えます。
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   千木と鰹木のある建物埴輪
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太田茶臼山古墳
 大阪府茨木市太田三丁目にある5世紀中頃築造の前方後円墳。
 駐車場を探すのに何度も古墳の周りを廻って苦心しました。
 継体天皇三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)となっていますが、私見では18代反正天皇陵ではないしょうか。反正天皇妃が丸邇の木事臣(こごとおみ)の娘・津野媛ですから、摂津が本拠地だったのではないでしょうか。 墳長はおよそ230mで、後円部の径は約140m、前方部の幅は約150m。馬蹄形の周濠が巡っています。藍は、三島が島上郡と島下郡に分かれる前の広範囲の地名で、古墳の北西には安威(あい)という地名があり、安威川が流れています。周囲には陪冢と考えられる小古墳も点在しています。
 円筒埴輪の他、馬形埴輪、甲冑形埴輪、水鳥形埴輪、須恵器片などが出土しています。宮内庁管理区域外では大阪府教育委員会や茨木市教育委員会によって発掘調査が行われています。
 出土埴輪の特徴は5世紀中頃のもので、考古学的にも継体天皇の陵ではないという意見が大勢です
 これに対し、東へ1.5kmに所在する今城塚古墳は、所在地および考古学的に推定される築造年代が文献に記される継体天皇陵としての条件に合い、当時の古墳の中では最大規模で、こちらが継体天皇陵と考えられています。
 当古墳出土埴輪の殆どは高槻市にある新池遺跡で製作されたものです。


疣水磯良神社(いぼみずいそらじんじゃ)
 大阪府茨木市三島丘1-4-29  駐車場あり
 祭神 磯良大神
 由緒: 新屋坐天照御魂神社(西河原)の境内社でしたが、今や独立して、立派な神社として繁盛しています。これは「玉の井」(疣水)の効用です。「疣、黒痣を洗えば、忽ちにして抜け落ちる」とされています。
 磯良大神は古代の海人族である安曇氏の祖神として知られ、その顔に蠣などが取りついている海の中に住む精霊です。新屋坐天照御魂神社と播磨国揖保郡(龍野)の粒坐天照神社とは繋がりがあり、新屋社の摂社となっている疣水神社とも関係があります。
 対馬の和多都美神社(豊玉町仁位)の原初の御神体が「磯良エビス」と呼ばれる霊石です。霊石は三角形の鳥居で囲まれています。安曇氏は博多湾で金印の出土した聖地・志賀島を拠点としていました。
 対馬の多久頭魂神社の摂社松崎神社の祭神は「安曇磯武良」と表現されています。磯武良をイソノタケル(五十猛)と読むことができ、日高日子波限建鵜葺草葺不合尊のナギサタケの渚は磯であり、イソノタケル(五十猛)と読むことができ、3神は同一神と考える事もできるのではないでしょうか。3神とも海と深い関係があります。
 つまり、私は神武天皇の父の日高日子波限建鵜葺草葺不合尊は五十猛と考えています。五十猛の子の神武が大和に東遷してきたので、五十猛の弟である饒速日が大和の支配権をいとも簡単に譲ったのではないでしょうか。

   大阪府茨木市三島丘に鎮座する疣水磯良神社鳥居前。
   磯良大神は海人族安曇氏の祖神です。
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   拝殿前、桜が満開でした。右奥に桜姫稲荷神社がかすかに見えます。
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   拝殿の額
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   境内社の祭神は住吉大神と神功皇后
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緑のアイコンが疣水磯良神社、赤のアイコンが新屋坐天照御魂神社です。

新屋坐天照御魂神社
 所在地  大阪府茨木市西河原3-1-2 (171号線 西河原交差点北) 
  駐車場はありませんが、疣水磯良神社に車を止めて徒歩ですぐです。
 主祭神は天照国照彦火明命で、 天児屋根命と建御名方命の2柱を相殿に祀る。
 創建: 伝崇神天皇朝、
 本殿の様式: 三間社流造

 社伝によれば、崇神天皇の御代に創祀されて以降、広大な神域を領する神社であったが、兵乱や太閤検地のために社領を失い、次第に衰微したようです。
 かつては磯良疣水神社の地に鎮座していたが、寛文9年(1669年)西北の現在地に遷座されたようです。なお、磯良神社は当社の境内社でしたが、同社の玉の井(疣水)が痣取りに霊験があるとして信仰を集めるようになり、ついに社地を譲り独立させたものです。分家が母屋を凌ぐというのはよくある話ですね。
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by enki-eden | 2013-01-10 11:36