古代史探訪

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欽明天皇

 29代欽明天皇(在位539年~571年、あめのくにおしはらきひろにわのみこと)
 26代継体天皇の嫡子。母は手白香皇后(24代仁賢天皇の皇女)。
 大連(おおむらじ)は大伴金村と物部尾輿(おこし)、大臣(おおおみ)は蘇我稲目として、京都伏見の深草の秦大津父(はたのおおつち)を大蔵の司(つかさ)に任じる。
 皇后は石姫(28代宣化天皇の皇女)で30代敏達天皇の母。
 海石榴市(つばいち)の南の磯城島に宮を設け、磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、桜井市外山)とした。欽明天皇の妃に堅塩媛(きたしひめ、蘇我稲目の娘)がいますが、その皇子が31代用明天皇になり、皇女が33代推古天皇となります。稲目の嫡子・蘇我馬子の時に蘇我氏の最盛期を迎えます。そして大伴金村が失脚し、物部と蘇我の2極時代になります。
 百済の聖明王が538年頃に、大和へ仏像・経典などを伝え、蘇我稲目がこれを取り入れました。以後、蘇我氏は仏教を広めていきます。それがやがて物部・蘇我の争いの一端となっていきます。
 この時代、朝鮮半島では新羅が百済と任那(伽耶)に攻勢をかけて戦乱が続き、新羅は560年頃に任那を滅ぼし、日本が任那を失うことになります。任那は半島では伽耶という名称で、中国では任那、伽耶と併記されていました。任那は半島南部の小国家群で、安羅(日本府のあった所)・加羅・多羅など10ヵ国で構成されていました。この半島戦乱時に多くの百済人や任那人が列島に亡命してきますが、それらを統括したのが秦氏と漢(あや)氏です。中には新羅や高麗からも逃亡してくる者がいました。更に100年後に新羅は百済を滅ぼすことになります。
 欽明天皇は任那を取り返そうと強い意志を持っていましたが適わず、571年に崩御、檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬られました。後に612年に堅塩媛が改葬されています。奈良県高市郡明日香村平田の梅山古墳(前方後円墳、全長138m、後円部径73m、前方部幅108m、三段築成)に治定されています。駐車場もあります。

     西側の前方部から
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     遥拝所
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     隣接する吉備姫王墓に猿石とよばれる石造物が4体置かれています。
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 欽明天皇陵は橿原市の見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳、全長310m)とする説もありますが、葺き石もなく周濠もありません。私は、見瀬丸山古墳は大きいですが570年に亡くなった蘇我稲目の墓と見ています。当時絶頂期の蘇我馬子が父のために天皇を上回る大きさの墓を築造したのでしょう。馬子は甥の32代祟峻天皇を592年に殺害しているほど大きな実権を握っていました。見瀬丸山古墳の後円部の下に広い駐車場があります。道路と駐車場の間にある溝の蓋が頼りない気がしました。
     丸山古墳地図(赤が見瀬丸山古墳、黄が欽明天皇陵と吉備姫王墓)


 私は橿原考古学研究所付属博物館によく行きますが、この日も立ち寄りました。写真は博物館入り口に展示している大型円筒埴輪の復元です。奈良芸術短期大学により2005年に製作されました。桜井市のメスリ山古墳の出土物で、高さ2.4m、径1.3mで最大のものです。
     
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     メスリ山古墳の大型埴輪(橿原考古学研究所付属博物館常設展示室)
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 私見ですが、メスリ山古墳は安倍氏の祖・武渟川別(たけぬなかわわけ、東海将軍)の前方後円墳だと見ています。メスリ山に一度登ったことがありますが、現地に行くのにかなり迷いました。直ぐ近くに見えるのですが入り口が見つからず、ぐるぐる回ってなかなか行き着けませんでした。メスリ山古墳の全長は230m、高さ21mですが、登ってみると大変急な傾斜で、登るのは苦労します。栗の木がたくさんあって、販売用ですから実を取らないでくださいと看板がありました。古墳にも入会権(いりあいけん)があるようです。
     メスリ山古墳
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     奈良県教育委員会の看板
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by enki-eden | 2013-02-28 10:02

箸墓古墳の石積み

 兵庫県立考古博物館からのメール情報が届きました。石野館長のお話です。
 箸墓古墳の円丘部と方丘部に厚さ2mの石積みがあるという情報です。
 全長が280mの古墳の円丘部の一番上の段の大きさは径40mほどあります。径40mの円丘部の一部を掘っている写真によると、板石の上に山礫が一面に積もっております。川の礫では無くて山の礫、山の石です。大きさは握り拳から頭の大きさの半分くらいの石ぐらいの山礫がうずたかく積まれている。その下に板状の石がちらりと見える。これを掘ったのは宮内庁の人です。宮内庁の人が1971年から76年にかけて掘ったようです。
 円丘部に径40mの円壇、方丘部に一辺60mの方形壇があります。そして、円丘部には特殊器台と呼ばれている埴輪のルーツになる土器があり、方丘部上からは大型の特殊壺が出ています。
 円丘部の径40mの円壇と、前方部の60mぐらいの方形壇が山から取ってきた礫で2mぐらい積まれていたことは驚きです。普通は古墳の斜面とかに葺石を葺くのは珍しくないんですけれども、円丘部のてっぺんとか方丘部のてっぺんに高さが2mもあるような石積みの段を造っている例はないんですね。
 宮内庁では陵墓に入って修理した記録をきちんと情報公開法により報告しています。昨年の9月9日の朝日新聞に短い報道がされています。
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by enki-eden | 2013-02-25 05:00

仁徳天皇(大鷦鷯天皇、おおさざきのすめらみこと)

 皇居は難波高津宮、大阪城の2km南西にあります。
 866年、宮跡に神社・高津宮(こうづぐう 大阪市中央区高津1-1-29 電06-6762-1122)が建てられ、遷都した16代仁徳天皇を主祭神とし、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇を左座に、葦姫皇后(資料が不明ですが、磐之姫でしょうか)と長子の履中天皇を右座に祀る。56代清和天皇の勅命により難波高津宮の遺跡の地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。
 また、明治32年(1899年)、大阪府が仁徳天皇1500年大祭を高津宮と難波神社で行った際に建立した高津宮址石碑が大阪府立高津高等学校(大阪市天王寺区餌差町10-47 )の校内にあります。その他にも高津宮の候補地がありますが、いずれも大阪城の南方面です。

     黄のアイコンが高津宮、赤が高津高校

 仁徳天皇は応神天皇の第4皇子。母は品陀真若王の女・仲姫命(なかつひめのみこと)。皇后は葛城襲津彦の女・磐之媛命。皇子は17代履中天皇・住吉仲皇子・18代反正天皇・19代允恭天皇。
 皇后の磐之媛は嫉妬深く、天皇が妃をおくことを拒み、難波宮から出て筒城宮(つづきのみや・京都府京田辺市)に住み、そこで亡くなりました。陵は佐紀盾列古墳群に属するヒシアゲ古墳(奈良市佐紀町、平城宮跡の北、全長219mの前方後円墳、赤いアイコン)。


 仁徳天皇は日向の髪長媛、異母妹矢田(八田)皇女、吉備の黒比売などを妃としました。磐之媛亡き後は八田皇女を皇后としました。
 秦氏を使って茨田(まむた、大阪府寝屋川市)に堤と三宅を造り、丸邇の池・依羅の池、難波の堀江などを造成しました。また墨江(住吉)の港を定めました。大掛かりな土木工事をして水害を防ぎ、農作物の潅がいを進めました。
 西暦413年、東晋の安帝に朝貢した倭王讃、また430年に貢献した倭王を仁徳天皇と見る説がありますが、私は仁徳天皇の生年は380年頃、没年は427年頃と見ています。
 陵は百舌鳥耳原中陵(大阪府堺市堺区大仙町7‐1)、全長486m、前方部は幅305m、後円部は直径245m、高さ35mで全国1位の前方後円墳、世界最大の墳墓です。百舌(もず)は大阪府の鳥になっています。
 飛行機が伊丹空港に着陸する前に、仁徳天皇陵が眼下にくっきりと見えますが、現地に行きますと、あまりの巨大さに全体イメージが湧いてきません。陪塚は15基あります。
 駐車場は遥拝所道向かいの有料の大仙公園駐車場があります。公園内には堺市博物館もあり、仁徳天皇陵に関する展示場もあります。ボランティアの方が説明してくださいます。

     赤が仁徳天皇陵、青が履仲天皇陵、黄がニサンザイ古墳

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by enki-eden | 2013-02-24 05:00

ニサンザイ古墳

 大阪府堺市百舌鳥西之町3丁、土師(はぜ)ニサンザイ古墳とも御陵山古墳ともいう。駐車場がないので路上駐車となります。堺市博物館に出土品などを展示しています。
 百舌鳥古墳群南東端にある全長約290m、後円部径約156m、高さ約24.6m、前方部幅約224m、高さ約25.9mの全国8番目の大型前方後円墳。前方部が大きく広がった形は百舌鳥古墳群で最も美しい。名称のニサンザイは「陵 みささぎ」が語源と考えられ、ミサンザイ古墳(伝17代履中天皇陵)もそうでしょう。
 3段に築かれた墳丘の最下段は全周約1kmで、約2,800本の円筒埴輪が並んでいたとみられる。埴輪などの分析から5世紀後半築造と考えられます。墳丘は宮内庁が18代反正天皇の空墓として、陵墓参考地に指定し管理しています。周濠は堺市が所有しています。前方部を西に向けており、くびれ部の両側に造出しがあります。
 国内最大の仁徳天皇陵(堺市堺区、全長486m)の次に築造されたと考えられており、仁徳天皇陵の南東2kmにあります。     
     赤いアイコンが仁徳陵、青がニサンザイ、黄がミサンザイ

 主体部の構造や副葬品は不明ですが、葺石と埴輪のあることが確認されています。現在は一重の盾形周濠がめぐっていますが、昭和51年(1976年)に周囲の発掘調査で外濠のあることがわかりました。(二重濠)
 2012年11月に墳丘裾の護岸工事の際に行われた調査では、現在の墳丘の端から5m外側の濠の底から本来の裾部分が見つかっており、全長が300mを超えていた可能性があります。築造時には全長300mの渋谷向山古墳(奈良県天理市、12代景行天皇陵)を抜き、国内第7位の大きさだったかもしれません。 百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も築造時期が新しいものです。
 当古墳は以前に長谷山(はせやま)と呼ばれており、その発音が反正山(はせやま)に似ているため、18代反正天皇の陵であったとされています。古墳の南側は土師町(はぜちょう)があり、土師氏(はじし)は埴輪制作集団であるとともに、古墳造営の指揮や大王の葬送儀礼に従事する集団でもありました。築造時に土師氏が住み着いたのでしょう。
 堺市が21日(木)に「百舌鳥(もず)古墳群に含まれるニサンザイ古墳の後円部付近で、周濠を渡るための橋の跡とみられる柱穴が見つかった。」と発表しました。
 後円部の裾と対岸の堤を真っすぐ結んだ長さ約40mの橋があったと推定され、他の古墳では例のない遺構という。専門家は「被葬者の棺を運ぶために造られた橋ではないかとみています。
 堺市文化財課によると、柱穴は後円部の裾で25個、周濠で4個を発見。古墳の中心線に沿って整然と並び、柱とみられるクヌギ材(直径約20cm)も一部残っていた。同課は周辺の堆積物や地層から古墳築造時のものと判断。周濠に木製の橋が架かっていたとみている。勿論陵が完成すれば橋は取り除かれたでしょう。
 前方部が広くどっしりと安定感のある古墳で、反正天皇陵古墳(田出井山古墳)のほぼ4倍の大きさです。また築造時期もほぼ同じことから、これを反正天皇陵とする説もあります。
     右端の黄色く塗った部分に木製の橋があったようです。
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箸墓古墳の前方部も4段の可能性
 奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(全長約280m、3世紀後半)と天理市の西殿塚古墳(約230m、3世紀後半)で20日、日本考古学協会など15学協会の研究者16人が立ち入り調査を行った。今回は、墳丘の最下段を歩くだけで発掘や採取はできなかった。
 箸墓古墳の前方部は、3段構成の可能性が高いとされていたが、岸本直文・大阪市立大准教授は立ち入り調査後、「実際の様子や後円部との関係から、前方部も4段だった可能性が高い。中で目視できたのが大きかった。周囲を歩くと石が累々としており、古墳全体が石で覆われていた可能性が高い。」と話した。

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by enki-eden | 2013-02-23 10:43

応神天皇(誉田天皇 ほむたのすめらみこと)

 14代仲哀天皇の第4子、母は気長足姫尊(神功皇后)で神功皇后が新羅を討った年に筑紫の蚊田で生まれました。神功皇后が389年頃に崩御、翌390年頃に15代応神天皇として即位。
 応神天皇の出生状況が普通でない事や、住吉大社の住吉大神(宮司の津守氏)と神功皇后の密通記録により、応神天皇の父親については諸説あり、武内宿祢という説もあります。大和王権奪取にも策略が張り巡らされました。
 応神天皇の皇后は尾張系の仲姫(なかつひめ)で、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、16代仁徳天皇)を生む。仲姫の姉も妹も応神天皇の妃となります。宮は軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや 橿原市大軽町)と大隈宮(おおすみのみや、大阪市東淀川区大隅)。
 応神天皇の宮跡に鎮座する春日神社(橿原市大軽町374)境内の右側に「伝説地 応神天皇軽島豊明宮趾」石碑があります。



 大隅島に離宮を営んでおられた応神天皇の大隅宮址に神社を建立したのが大隈神社です。(大阪市東淀川区大桐5丁目14-81)



 私見ですが、応神天皇の生没年は363年頃~404年頃と見ています。この頃に大陸・朝鮮半島と繋がりが深くなり、東国との交易も増えました。大和朝廷の発展が推進された時期で、古墳も巨大化していきます。「宋書」の倭王讃を応神天皇にあてる説もあります。
 弓月君がやって来て、「国の120県の人民(数千人)を率いていますが、新羅人に邪魔されて大和に来れませんので、加羅国に留まっています。」と言いました。天皇は軍隊を送り、弓月の民を大和と山城(太秦、伏見)に引き入れました。これが秦氏となり、鉄生産、養蚕、織物、土木工事、薬品などの分野で活躍します。弓月君の出身地は西アジアと考えられます。
 また、阿知使主(あちのおみ)が17県の民を率いてやってきた。この時代に半島から多くの人がやって来ています。
 陵は誉田御廟山古墳(前方後円墳、大阪府羽曳野市誉田6丁目)で全長425m、後円部高さ36m、仁徳天皇陵に次いで2番目の大きさで、あまりの巨大さに圧倒されてしまいます。羽曳野市から藤井寺市に広がる古市古墳群にあり、近辺には仲姫陵をはじめ多くの墳墓があります。4世紀末から6世紀にかけての古墳群の中にあります。
 私は車で行きましたが駐車場が見つからず、近くの店舗に停めました。後で気がつきましたが遥拝所の道向かいにも古墳があり、数台停められる空き地がありました。私が訪れた時に5名の団体さんが来られていましたのでお聞ききしますと、東京からの古代史ファンでした。私も日帰りで行ける所ばかりでなく、九州の神社・古墳・遺跡・博物館などにも行きたいと思いました。
     青いアイコンが応神天皇陵、赤が仲津姫陵

     応神天皇の系図(クリックするとはっきり見えます)
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 応神天皇は神功皇后と共に宇佐八幡宮や八幡神社に祀られています。石清水八幡宮と鶴岡八幡宮は清和源氏の信仰が篤く、武神としての側面があります。

 武内宿祢は第13代成務天皇と同年同日の生まれと記されています。私見ですが、成務天皇の生年は310年頃と見ています。異母弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)がおり、葛城襲津彦は武内宿祢の子です。
 武内宿祢は12代景行天皇・13代成務天皇・14代仲哀天皇・15代応神天皇・16代仁徳天皇に仕えたとありますが、後半の記事は子の葛城襲津彦やその兄弟だと思います。ここにも記紀の筆法があるように思いますが、私には分かりません。子孫は波多氏・巨勢氏・蘇我氏・平群氏・紀氏など多数に及んでいます。子孫が大和朝廷の大臣職を引き継いで「武内宿祢」と称したのかもしれませんね。
 墓は奈良県御所市室の宮山古墳(前方後円墳で全長238m、室大墓ともいわれる)という伝承がありますが、子の葛城襲津彦の墓とも言われています。宮山古墳より少し前に造られた巣山古墳が武内宿祢の墓という説もあります。

 一円紙幣の武内宿祢。私が生まれる年まで主力一円札として流通していました。
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 宮山古墳に登りましたが急斜面で大変でした。駐車場はありませんので、
 ゲートボールをしている人の了解を得て、空き地に停めました。
 その人たちはどなたも宮山に登ったことはないと言われていました。

 巣山古墳(奈良県北葛城郡広陵町)、全長220m 4世紀末から5世紀初。
 馬見古墳群の中心古墳です。

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by enki-eden | 2013-02-21 09:49

垂仁天皇陵(すいにんてんのうりょう、菅原伏見東陵)

奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳で全長227m、周濠を含めると330m)
近鉄橿原線尼ヶ辻駅からすぐ。専用駐車場はありませんが、空き地があって1台停められます。
生駒山(642m)の真東9.5km、春日山(春日大社の神山、498m)の真西6.5kmの所にあります。北部奈良盆地の真ん中あたりです。



垂仁天皇陵、周濠の南東に田道間守(たじまもり、天日槍の5代目)の墓とされる小島が見えます。

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天皇陵の前に車を止めると、近所の農家の方がナンバープレートを見て「遠方から来られましたね。直ぐ前に見えているのが唐招提寺と薬師寺です。ぜひ薬師寺にも行ってくださいね。向こうの方に見える屋根が東大寺ですよ。」と人懐っこく教えてくれ、持っておられた枝豆を頂きました。もう夕方でしたから、薬師寺と唐招提寺の駐車場だけ確認して、また今度来ることにしました。家に帰って美味しい枝豆をさかなにビールを飲みました。ビールを少し飲んで次は焼酎です。銘柄は久留米市田主丸の「ごま祥酎 紅乙女」です。地名に「丸」がついていますね。筑後川の南ですから船は関係あるでしょうね。
人の名前にも「丸」がついている場合があります。長崎でお会いした「田中丸」さんです。ご先祖が水軍だったそうですから、やはり船は必須ですねぇ。古代水軍豪族の和珥氏は丸邇とも云って丸がついています。丸の起源は安曇の磯良丸のようですから、磯良丸→磯丸→石丸となって石丸さんも関係あるでしょうね。
焼酎の次は日本酒を飲みます。灘の「剣菱」です。京都伏見の「黄桜」も好きです。お酒は好きですが健康のために量は少ないですよ。やっぱり長生きしたいですからね。



11代垂仁天皇は10代祟神天皇の第三子で、母は御間城姫です。私見ですが、垂仁天皇の生没年は270年頃~330年頃と見ています。
日本書紀に活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)
古事記には伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)
常陸国風土記には伊久米天皇とあります。「いくめ、活目、伊久米」と「いこま、生駒」は繋がりがありそうです。また、邪馬台国の官名の伊支馬(いきま)とも関係ありそうです。
更に、宮崎市大字跡江にある丘陵上に築かれた生目(いきめ)古墳群は、古墳時代前期から中期(4世紀から6世紀)の古墳群ですが、生目古墳の始まりは垂仁天皇の時代になります。地名や神社名にも生目があります。
垂仁天皇は纏向(まきむく)の珠城宮(たまきのみや、奈良県桜井市)を都にしました。2人の皇后と5人の妃の間に、13人の皇子と3人の皇女を儲けました。
  垂仁天皇・纏向珠城宮(青い丸)と景行天皇・纏向日代宮(ピンクの丸)

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垂仁天皇の次の12代景行天皇も纏向を都にしましたが、纏向遺跡はこの頃に廃れていきます。私見では景行天皇の生没年は285年頃~350年頃と見ていますが、桜井市教育委員会の発掘成果によりますと纏向遺跡の終了は4世紀中頃とありますので、ほぼ私見の年代と合っているのかなと考えています。

垂仁天皇は彦坐王(ひこいますのきみ)の子・狭穂姫を皇后に立て、誉津別命(ほむつわけのみこと)が生まれました。皇后の兄の狭穂彦王が謀反を企てますが失敗し、皇后も焼死しました。
次に丹波道主(たんばのみちぬし、彦坐王の子で丹波将軍)の子の日葉酢媛命を皇后にします。皇子と皇女は五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)、大足彦忍代別命(おおたらしひこおしろわけのみこと、12代景行天皇)、大中姫命、倭姫命(初代斎宮 いつきのみや)、稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)です。
垂仁天皇は日葉酢媛の妹4人も妃にします。ただし末娘の竹野媛は醜いといって返され、死んでしまいます。当時は皇室や大豪族には姉妹揃って嫁いでいったんですねぇ。
   日葉酢媛命陵、奈良市山陵(みささぎ)町字御陵前、206mの前方後円墳



それまでの慣例では、皇族が亡くなると使われていた人々を生きたままで、陵墓の周りに埋め立てていました。埋められた人々が昼夜泣きうめきました。野見宿祢が埴輪を以って生きた人に替え、陵墓に立てましょうと提案し、垂仁天皇が決断、日葉酢媛命からは殉死が禁止されました。

祟神天皇の時に天照大神が宮中から外に出ましたが、垂仁天皇の時に各地を遷座して最後に伊勢に鎮座されました。そして倭姫命が五十鈴川のほとりで天照大神を祀り、伊勢神宮の元を創りました。
天日槍の5代目の田道間守(たじまもり)が、常世国(とこよのくに)から非時(ときじく)の実を垂仁天皇に持って帰ってきましたが、既に天皇は崩御されていました。田道間守の墓は天皇陵の周濠の中にあります。そして三宅連(みやけのむらじ)の祖となりました。政治評論家の三宅久之氏が昨年の11月に亡くなられましたが、三宅は天日槍の子孫だと言っておられました。
兵庫県豊岡市三宅(円山川の東)に中嶋神社があります。祭神は田道間守命です。地名が豊岡市の「三宅」ですし、田道間守の墓が垂仁天皇陵の「中島」になっていることが中嶋神社の名になっているようです。
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by enki-eden | 2013-02-18 06:00

神武天皇(神日本磐余彦天皇 かむやまといわれひこのすめらみこと)

幼少期は狭野(さの)、実名は彦火火出見(ひこほほでみ)、大和では磐余彦(いわれひこ)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第4子
母は玉依姫(たまよりひめ)で海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)の次女
日向国(ひむかのくに)の吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を妃とした。第一子は手研耳命(たぎしみみのみこと)、第二子は岐須美美命(きすみみのみこと、古事記のみに記載)が生まれた。
神武は「天孫が光臨されてから、179万2,470余年になる。」と言いました。私は、ここでいう「天孫」は初代奴国王の国常立神のことだ考えています。国常立神は西暦57年に後漢に朝貢した漢委奴国王と見ています。漢委奴国王の生年は西暦元年頃でしょう。「179万2,470余年」は、記紀編纂者が皇祖と考えている天照大神の生没年ではないかと私は見ています。つまり天照大神の生没年は西暦179年~247年頃と示唆しているのではないでしょうか。これが記紀の筆法です。他にも随所に筆法が出てきます。
神話と歴史を混ぜるなとおっしゃる皆様、ご容赦くださいね! 天照大神は神だから生没年や墓はないとおっしゃる皆様もご容赦願いますね!
私は、神話は科学的知識のない古代人が自分たちの表現方法で記した歴史だと考えていますので、そのように読んでいます。考古学の発掘事実と文献資料との比較を試みておられる考古学者は力強い味方です。
さて、西暦179年~247年頃の人生を歩んだマレビト(稀人)は誰でしょうか。それは卑弥呼です。つまり天照大神は卑弥呼だと私は考えているのです。卑弥呼の次の臺與も天照大神の事績として記されています。反対意見も多いですがねぇ。
日本書紀の神功皇后の巻に魏志倭人伝の記事が出てきます。それは神功皇后が卑弥呼だと言っているのではなく、神功皇后の言動の一部に卑弥呼の事績を記していますよと言っているのです。九州に神功皇后の伝承が非常にたくさんありますが、その中で神功皇后と時代の合わない伝承があります。2世紀の時代と考えられる伝承です。神功皇后より120年ほど古い伝承です。それが卑弥呼の事績だと思います。大和朝廷が卑弥呼の伝承を神功皇后の伝承に変えさせたのでしょう。日本を中国と対等の国と位置付けた8世紀の大和朝廷にとって、皇祖が漢や魏に朝貢した古代の倭人では具合が悪いのです。皇祖は天(高天原)から降臨した天神であると説明しています。
神武天皇に戻りますが、同族の饒速日(にぎはやひ)が大和に東遷したので自分たちも大和に行って国を造ろうと決断します。南九州の出張所から本拠地である遠賀川の岡水門(おかのみなと)に戻って準備をし、東遷を開始します。遠賀川を含めて福岡県東部と南部・大分県・佐賀県東部は素戔嗚・五十猛・饒速日・大国主などの出雲族の領地でした。神武もその一族と海人の鰐族(後の和珥氏)の出自です。
神武が南九州に滞在していた理由は、私は琉球との貝交易だったと考えています。貝の需要が減ったのでしょう、新しい交易品の辰砂を求めて東遷を決意したと思います。
古代の貝交易の詳しい状況をお知りになりたい方は熊本大学の木下尚子教授の講演「貝交易の語る琉球史」を御覧ください。
神武は岡水門を出発し、安芸、吉備に寄りながら進軍の準備を進め、河内の草香村(くさかむら)の白肩津に着いた。生駒山の麓から大和に入ろうとしたところで長髄彦(ながすねひこ)に攻撃され、兄の五瀬命が負傷、紀ノ川まで逃げたが五瀬命は亡くなった。竈山(かまやま)に埋葬。名草戸畔(なぐさとべ)と丹敷戸畔(にしきとべ)の女酋を討って進軍。八咫烏(やたがらす、賀茂建角身命)の先導で大伴と来目(久米)が宇陀へ進軍、宇陀を配下とする。進軍した土地はどれも辰砂の採れる所です。辰砂(丹、水銀)を確保すれば戦わずして勝てると言われるほど、辰砂は貴重な鉱物でした。宇陀と伊勢に大きな鉱脈があったようです。
神武軍は大和に入って長髄彦と戦います。そこで来目歌が歌われます。
   みつみつし くめのこらが かきもとに うえしはじかみ くちびひく 
   われはわすれず うちてしやまむ
     大君の威光を受けた来目(久米)の軍勢が、垣の元に植えた山椒を食べると
ヒリヒリするが、そのように手厳しい敵の攻撃を忘れていない。
今度は必ず討ち取るのだ。
こうして長髄彦に勝ち、饒速日も神武に大和盆地南部を与え、神武は橿原に宮を設けました。

神武天皇社
所在地;御所市柏原246
祭神;神倭伊波禮毘古命(神武天皇)
境外摂社;嗛間神社(ほほまじんじゃ・祭神:アヒラツヒメ) アヒラツヒメが住んでいた場所と言われる。
神武の妃である吾平津姫(あひらつひめ)は東遷せず、油津の地に残って神武東遷の成功と安全を祈っていたと私は思っていましたが、大和へ一緒にやって来たという説があるようです。
御所市(ごせし)は橿原神宮の南西にあります。そこに「柏原」という町があります。
神武天皇が即位したのは橿原市ではなく御所市の柏原だとする説があります。神武天皇など初期王権の宮の多くがこの地にあったので御所市になったのか? それとも巨勢(こせ)氏の領地だったからか? 御所市では、「市内を流れる葛城川に5つの瀬があったとする説や、5代孝昭天皇の御諸(みむろ)が「御所」に変わったとする説があります。」と解説しています。
神武天皇社の北に143mの本馬山がありますが、神武天皇が腋上(わきがみ)の嗛間(ほほま)丘に登って、国見をしたと伝わっているのがこの山でしょうか。本馬山に燕神社「嗛間丘神社」がありますが、祭神は神倭磐余彦命、豊受大御神、武甕槌命です。
本居宣長は明和九年(1772)の「菅笠日記」に、畝傍山のすぐ近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記しています。
古代の葛城族は現在の御所市柏原の地を領地としました。そして鴨族と姻戚関係になって葛城山・金剛山麓に部族国家を形成しました。その支持を受けた神武天皇が橿原宮で即位したというのも、この柏原の地なのでしょうか。
赤いアイコンが畝傍山、青が橿原神宮、黄が御所柏原の神武天皇社、黒が本馬山

辛酉年正月に神武天皇は畝傍の橿原宮で即位。事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を皇后としました。皇子は神八井命(かむやいのみこと)と神渟名川耳命(かむぬなかわみみのみこと、2代綏靖天皇 すいぜいてんのう)です。
神武天皇が祀ったのは高皇産霊尊です。天皇は腋上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘に登り国見をしました。大和は伊弉諾、大己貴大神、饒速日などに良い国だと誉められ発展し、神武天皇が引き継いでいきました。
神武天皇は橿原宮で崩御、畝傍山の東北の陵に葬られました。現在の橿原神宮と神武天皇陵は明治政府によって築造されたものです。
私は神武天皇の父である彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は五十猛ではないかと考えています。そして神武天皇が橿原で即位して祀った高皇産霊尊(高木神)も五十猛ではないかと考えています。神武天皇の母の玉依姫は鰐族、皇后の媛蹈鞴五十鈴媛も鰐族です。(事代主神が八尋鰐と化し玉櫛媛のもとに通い、生まれたのが媛蹈鞴五十鈴媛命)
神武天皇以降も皇后や妃は和珥氏から多く嫁いでいきます。大和朝廷が奈良盆地や近畿地区を治めるようになるのには初代神武天皇から9代開化天皇までを要します。
私見ですが、神武天皇が東遷を開始したのが204年頃、橿原で即位したのが211年頃、9代開化天皇崩御が293年頃と見ていますので、9代で80年以上をかけて近畿の支配地を広げていきます。
そして10代祟神天皇から全国に飛躍していく事になり、古墳時代へと突入していきます。
       橿原神宮とその後ろに畝傍山
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       神武天皇陵
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       神武天皇陵北隣りの第二代綏靖天皇陵
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 神武天皇陵の近くにある橿原考古学研究所付属博物館へ行き、展示の銅鏡や壷を観賞しました。
        橿原考古学研究所付属博物館
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by enki-eden | 2013-02-15 10:18

春日大社(かすがたいしゃ)

奈良市春日野町160     電0742‐22‐7788    有料駐車場あります。
祭神: 第一殿、武甕槌(たけみかづち)命を鹿島神宮(常陸国一宮)から勧請。
     第二殿、経津主(ふつぬし)命を香取神宮(下総国一宮)から勧請。
     第三殿、天児屋根命と
     第四殿、比売神を枚岡神社(河内国一宮)から勧請。
       比売神は天児屋根の妻か娘でしょう。
       (比売神は天児屋根の妻で、武甕槌の娘という説もあります。)
天児屋根の子である天押雲根(あめのおしくもね)命を摂社の若宮に祀り、境内には3,000に近い灯篭があります。本宮の例祭は申祭(さるまつり)で3月13日、若宮の例祭はおん祭で12月17日に執行されます。
世界遺産に登録されており、名木「砂ずりの藤」(樹齢700年ほど)があります。南門を入ってすぐ左手にあります。また境内の神苑にも約200本の藤があります。見ごろは4月、5月頃でしょうか。神紋は「下がり藤」です。
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奈良国立博物館で正倉院展を見てから春日大社に参拝しました。博物館の隣が春日大社ですが、一の鳥居からの参道は大変長く、南門まで1.3kmほどもあります。途中の森で鹿に出会いますが、大きな角のある鹿はちょっと風格があります。春日大社の駐車場からは近いです。
森の深い大きな神社で、本殿前の拝殿(中門)に入るのは有料です。春日造りの本殿は国宝で4社あります。本殿・社殿は朱の柱、白い壁、檜皮葺きの屋根で、広大な境内の中に多くの摂社があります。全国に約1,000社ある春日神社の総本社です。
本殿前には御神木となっている「社頭の大杉」(高さ25m、樹齢800年ほど)がありますが、すぐそばのイブキの大木は重要文化財の直会殿(なおらいでん)の庇を貫いています。
春日大社は社伝によると768年、48代称徳天皇(女帝で46代孝謙天皇が重祚)の勅命により平城京守護の為に左大臣藤原永手(ふじわらのながて)が創建しました。藤原氏の氏神になっています。春日大社の西向かいには藤原氏の氏寺である興福寺があります。興福寺も国宝で、世界遺産に登録されています。
境内二の鳥居横に祓戸神社があり、祭神は瀬織津姫です。伊太祁曽神社と同じく伊勢神宮遥拝所があります。
春日の地は春日氏(和珥氏の一族、阿倍氏、小野氏、巨勢氏)の領地でしたが、藤原不比等に別の土地と交換させられたようです。春日氏(和珥氏)の祀っていた神は境内摂社の榎本神社(えのもとじんじゃ)になっています。榎本神社は元々春日神社と称し、地元神の春日の神が祀られていました。中世の祭神は巨勢姫明神となっていますが、現在の祭神は猿田彦大神です。昔の参拝者は先に榎本神社に参ってから春日大社にお参りしたそうです。
     楼門(南門)
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     幣殿・舞殿(神拝所、後ろの大木は社頭の大杉)、ここは無料。
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     中門(ちゅうもん・拝殿)と御廊(おろう)、ここは有料。
     中門の後ろに本殿が4棟あります。
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by enki-eden | 2013-02-12 09:36

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)

紀伊国一之宮
和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230   電 0736‐26‐0102  無料駐車場あります
祭神 
 第一殿 丹生都比売大神(丹生明神)
 第二殿 高野御子大神(狩場明神)
 第三殿 大食都比売大神(気比明神)
 第四殿 市杵島比売大神(厳島明神)
 本殿左の「若宮」に行勝上人が祀られています。
 本殿左の境内に佐波神社(さわじんじゃ)があります。明治政府の神社合祀政策により
 上天野地区の諸社を合祀しています。
 
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赤のアイコンが紀ノ川万葉の里、青が丹生都比売神社です。

鳥居(向こうに赤い太鼓橋が見えます。丹の神様ですから建物は朱色に塗られています。)
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     拝殿(楼門)
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     本殿
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     社紋(三つ巴)
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 2004年7月に登録されたユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」には
丹生都比売神社の本殿と境内が含まれます。
神門(楼門)を兼ねた形の拝殿があり、本殿は一間社春日造、檜皮葺(ひわだぶき)の4棟の建物です。千木と鰹木は男神の形になっています。
当社は天道根命を祖とする天野祝(あまののはふり)が奉祭していましたが、日前宮の宮司家である紀伊国造家と同族で、共に紀伊国一宮を名乗っています。
神武東遷の時、神武は紀伊の名草戸畔を誅殺して紀伊半島を南下し、熊野灘で丹敷戸畔(にしきとべ)を誅殺して北進し、大和まで攻めて行ったと記紀に記されています。
しかし、私は神武が熊野灘へは行かず、紀ノ川河口の名草で名草戸畔を討って紀ノ川を上り、丹敷戸畔(にうとべ=丹生戸畔)を討って辰砂の権利を奪い、宇陀に行きここでも辰砂の権利を奪った。 そして大和に進入して行ったと見ています。地元では神武が紀ノ川を上って、吉野川に出たという伝えがあります。神武の目的は辰砂だったと思います。辰砂は当時貴重な交易品でした。
この地方は丹生都比売を祀る神社が多く、丹生川上神社(奈良県吉野郡東吉野村大字小968)の社伝に因れば、鎮座地は神武天皇が天神の教示によって天神地祇を祀り、戦勝を占ったとあります。神武は丹敷戸畔(丹生戸畔)を祀り、祟りを封じたのでしょうか。

神社までの私の行程ですが、まず紀ノ川北岸にある「道の駅・紀の川万葉の里」(和歌山県伊都郡かつらぎ町窪)ですばらしい景色を見ながら昼ごはんを食べました。食堂で親子丼を食べましたが、おいしかったですよ。売店で桃と枝豆を買いました。
紀伊に「伊都郡」「かつらぎ町」「葛城山」などがあるのは五十猛、大屋津姫、爪津姫との関係でしょうね。
  道の駅から紀ノ川を望む
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昼食を済ませると紀ノ川を南へ渡り、細い吉野の山道をくねくねと走って、やっと丹生都比売神社に到着しました。
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by enki-eden | 2013-02-09 10:03

竈山神社(かまやまじんじゃ)

 和歌山市和田438     電 073‐471‐1457     無料駐車場があります
    日前宮の南3km
 主祭神: 彦五瀬命(ひこいつせのみこと、初代神武天皇の兄)
 本殿の後ろに彦五瀬命の陵墓があります。
 東征の途中、彦五瀬命は難波の白肩津で長髄彦との戦闘で負傷し、紀伊半島に南下しましたが紀伊国で亡くなりました。竈山に陵墓を造り、その前に社が建てられました。


    鳥居
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    神門
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    拝殿
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    本殿
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    境内社(左から合祀社、結社、子安社)
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by enki-eden | 2013-02-06 00:23