古代史探訪

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平城宮跡のニュース

 今日(3月30日)の朝刊に平城宮跡のニュースが出ていました。
 49代光仁天皇(在位770年~781年、38代天智天皇の孫、50代桓武天皇の父)の離宮を囲む回廊と見られる建物跡が見つかりました。平城宮跡の内裏に匹敵する規模です。
 奈良時代に天皇の宮殿などが置かれた奈良市の平城宮跡の東院地区で、回廊と見られる幅約6mの建物跡が見つかり、奈良文化財研究所が28日に発表しました。
 光仁天皇の離宮「楊梅宮 ようばいきゅう」があったとされる場所で、以前に中枢施設とみられる2棟の大型建物跡が見つかっています。
 奈良文化財研究所は「幅6mは内裏に匹敵する異例の規模で、楊梅宮を区画していた可能性が高い。宮の範囲特定にもつながる発見」としています。
 楊梅宮は、続日本紀に773年に完成したと記され、蓮の花が咲く池があったほか、貴族や蝦夷(えみし)を招いた宴会も催されました。
 見つかったのは回廊の北西角部分とみられ、東西約18m分、南北約15m分。柱を直接地面に埋める掘っ立て柱式で、18の柱穴を確認した。
 以前に見つかった同様の建物跡ともつながり、南北の長さは約54mになる。これまでの発掘成果から、宮の範囲は東西約96m、南北約86m以上に及ぶ可能性があるという。
 調査を担当した小田裕樹研究員は「文献でしか知られていなかった楊梅宮の関連した遺構が見つかったことは大きな成果だ」としています。
     青いアイコンの位置です。

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by enki-eden | 2013-03-30 22:41

明日香村

 奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村(あすかむら)は奈良県中央部の村で、中央集権律令国家誕生の地です。飛鳥時代の宮殿や史跡が発掘されており、明日香村の説明では「古代文化の香り豊かな郷」と紹介されています。人口は5,900人ほどですが、遺跡・景観保全のため厳しい開発規制があります。
 陵墓は29代欽明天皇陵と吉備姫王墓、40代天武天皇・41代持統天皇陵、42代文武天皇陵があります。古墳は石舞台古墳、キトラ古墳、高松塚古墳、マルコ山古墳、牽牛子塚古墳などがあります。
 宮跡は豊浦宮(とゆらのみや)・小墾田宮(おはりだのみや)(33代推古天皇)、飛鳥岡本宮・田中宮(34代舒明天皇)、飛鳥板蓋宮跡(いたぶきのみや、35代皇極天皇)、飛鳥川原宮・岡本宮(37代斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(40代天武天皇・41代持統天皇)などがあります。
 石神遺跡の石造物も有名で花崗岩でつくられた物が多いようです。
 1972年に高松塚古墳から彩色壁画が発見されました。

     天武・持統天皇陵
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     高松塚古墳
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 さて、飛鳥と書いて「あすか」と読むのはなぜでしょう? それは、和歌では明日香を「飛ぶ鳥の明日香」と枕詞を付けて表現されていたからです。当時の明日香は湿地帯が多かったですから水鳥が飛び交っていたのです。「飛ぶ鳥」と言えば明日香のことですから、明日香を飛鳥と書くようになりました。
 これ以外にもあります。草香邑は生駒山からの日の出の下にありますから、「日下(ひのもと)の草香(くさか)」から日下(くさか)となりました。「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」から春日(かすが)となりました。他の用例もご存知の方がおられましたら、お教えいただけるとありがたいです。メールのフォームが右端の「メールはこちらへ」にございます。

 奈良文化財研究所飛鳥資料館
    奈良県高市郡明日香村奥山601    電: 0744‐54‐3561

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 明日香村では発掘が継続して行われており、新しい出土物が増えていきます。飛鳥資料館ではこうした発掘資料を中心に展示しています。前庭には猿石、橋を渡ると須弥山石、酒船石、石人像などをレプリカで屋内外で展示しています。キトラ古墳や高松塚古墳の実物大石室の模型展示もあり、壁画も描かれています。
 飛鳥時代は32代祟峻天皇の592年から43代元明天皇の710年までの118年の期間しかありませんし、大激動の時代でしたが、現代の我々にとっては、ここは心和む空間です。夢とロマン溢れる奥深いイメージの一面もありますね。私は額田王に惹かれます。
 694年に41代持統天皇が藤原宮に遷都、710年に43代元明天皇が平城京に遷都しました。
       飛鳥資料館の飛鳥浄御原宮模型
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       亀石の複製
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       石人像(石神遺跡出土実物、道祖神、噴水になっている。)
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       石人像複製
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       須弥山石(しゅみせんせき、石神遺跡出土実物、噴水になっている。)
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       須弥山石複製
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by enki-eden | 2013-03-29 01:00

湊川神社(みなとがわじんじゃ)

 神戸市中央区多聞通3-1-1   電:078‐371‐0001
 祭神: 楠木正成(くすのきまさしげ、大楠公)
 神紋は菊水。境内には、楠公にゆかりのあるものを納めた宝物殿があります。
 兵庫県内の神社の事務を管轄する兵庫県神社庁の事務所もあります。


       神社正面
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       宝物殿
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 社殿は、戦災によって焼失したので昭和27年に新築されました。様式は八棟造り(はちむねづくり)、鉄筋コンクリートで建てられており、戦後の新しい神社建築様式となっています。
 少し長くなりますが神社の由緒を要約しますと、楠木正成公は1294年、河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)で生まれました。この地の豪族の出身だと伝えられています。
 鎌倉幕府を倒して天皇自らが政治をとり、よりよい国をつくろうとした96代後醍醐天皇(1288年~1339年)のお召しにより、1331年正成公は天皇の許に馳せ参じました。鎌倉幕府打倒に立ち上がる武士は少なくありませんでしたが、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐島(おきのしま)に配流になります。
 しかし、その後も正成公の目覚ましい戦いぶりにより、諸国の武士は勤王軍へ加勢しました。北条氏率いる幕府軍を打倒するために各地で蜂起が相次ぎ、やがて幕府軍が敗退し、1192年から続いた鎌倉幕府は遂に1333年に滅亡してしまいます。
 京都に戻った後醍醐天皇は、幕府の統治を改め、理想の治国を実現しようとしました。これを「建武の中興(けんむのちゅうこう)」といいます。しかし新しい体制に不満を持つ者も出てきました。鎌倉幕府打倒に力を尽くした足利尊氏もそのひとりで、尊氏の謀叛によって各地で戦乱が始まりました。
 そして尊氏は、鎌倉で武家の政権を復活しようとしました。朝廷は尊氏を反逆者とみなし、新田義貞に討伐を命じます。約一年間は足利と新田の戦いが続きます。1335年、足利軍が京都を占領しますが、わずか半月ほどで正成公などの朝廷軍に破れ、尊氏は九州に落ち延びました。
 九州で西国武士を集めた尊氏は、ほどなく大軍を従えて京都に向かいます。その足利軍を防ごうと朝廷方は、新田義貞と正成公に尊氏の大軍を迎え討つことを命じました。正成公は、決死の覚悟で兵庫へ向かう途中、桜井(大阪府三島郡島本町桜井)で、子の正行(小楠公)に後事を託して別れます。
     私は子どもの頃に「唱歌 桜井の訣別」をよく歌ったことを思い出します。
       青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ
       木(こ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと
       忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か
 そして正成公は手兵700で会下山(えげやま)に陣の間を置きました。主力の新田軍は和田岬に陣を敷いて足利方の海上軍に備えました。
 正成公は足利尊氏の大軍と16度にわたる激しい合戦を交えますが、善戦虚しく味方はわずか73人にまでになってしまいます。もはやこれまでと覚悟した正成公は1336年5月25日に自害しました。
 明治元年、勤皇志士の強い要望もあり、明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するようお命じになり、千両という大金を下されました。御墓所・殉節地を含む7,232坪(現在7,666坪)を境内地と定められ、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建されたのです。
       大楠公御墓所(正門入って右手にあります)
        頼山陽・吉田松陰・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・
        木戸孝允・伊藤博文など、この墓前に至誠を誓ったそうです。
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       鳥居
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       境内社の楠本稲荷神社(くすもといなりじんじゃ)
       祭神:倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命
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       満開の桜
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       拝殿
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       拝殿内天井
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       絵馬
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     殉節地(じゅんせつち、正成公の戦没地。境内の西北隅にあります。)
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   階段を上ると、殉節地です。
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   殉節地、盛土があり、注連縄が張られています。
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 この日は3月24日日曜日で、結婚式が7組もあり、お宮参りの方も次々と訪れ、大変賑わっていました。丁度結婚式を終え、人力車に乗って神社の周りを巡るカップルを見つけました。
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by enki-eden | 2013-03-26 01:30

聖武天皇(しょうむてんのう)

 701年~756年6月4日、在位は724年3月3日~749年8月19日。
 元号は神亀(じんき)、天平(てんぴょう)、天平感宝(てんぴょうかんぽう)。
 奈良時代の第45代天皇で即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。
 諡号を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、
勝宝感神聖武天皇(しょうほうかんじんしょうむてんのう)。
 42代文武天皇の第一皇子、母は藤原不比等の長女・宮子(?~754年)、皇后は藤原光明子(不比等の三女で宮子の異母妹、701年~760年)。
 聖武天皇の陵墓は奈良市法蓮町の佐保山南陵。光明皇后は佐保山東陵。

 聖武天皇の初期は皇親勢力を代表する長屋王(684年~729年、40代天武天皇の孫)が左大臣であった。藤原不比等は長女の宮子を文武天皇夫人から大夫人に格上げしたが、それを長屋王が糾弾したので藤原氏と関係が悪くなっていた。更に不比等は光明子を聖武天皇夫人から皇后に格上げしようとしたが、長屋王はそれに強く反対した。長屋王の妃の一人に藤原長娥子(ながこ)がおり、長娥子は不比等の次女で宮子の同母妹です。
 不比等が720年に亡くなった頃から、藤原武智麻呂(むちまろ、680年~737年)・房前(ふささき、681年~737年)・宇合(うまかい、694年~737年)・麻呂(まろ、695年~737年)の藤原四兄弟と、中央政界に対する藤原氏の影響力を排除しようとする長屋王との間で、対立が先鋭化していきます。
 光明子は727年に皇子・基(もとい)王を生むが1才で亡くなってしまう。729年に長屋王の変が起き長屋王は自殺、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて皇后になりました。光明皇后は730年に施薬院を設置し一般人民を救済、悲田院を設置して孤児たちを助けています。天平文化は聖武天皇と光明皇后によって花開いていきました。
 長屋王の変は、長屋王を排除して光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んで長屋王一族を自害させたといわれています。但し、不比等の次女で長屋王妃の長娥子とその子は許されています。
 なお、聖武天皇の後宮には他に4人の夫人がいますが、光明皇后を含めた5人全員が藤原氏です。
 しかし、737年に天然痘が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡し、740年には藤原広嗣(藤原宇合の長男)の乱が起き討伐されました。
 橘諸兄(たちばなのもろえ)、玄昉(げんぼう)、吉備真備(きびのまきび)といった反藤原派が台頭し、聖武天皇も彼らに支えられていきます。しかし、光明皇后は藤原氏を担う人物として藤原仲麻呂(706年~764年、左大臣藤原武智麻呂の次男で後に藤原恵美押勝と改姓)を起用して藤原氏の影響力を保とうとします。
 天平年間は災害や疫病(天然痘)、米の不作、飢饉、地震などが多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、741年には国分寺建立の詔を、743年には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出します。そして、何度も遷都を行って災いから脱却しようとしましたが、強い反発を受け、平城京に復帰しました。
 皇族や豪族に華厳経(けごんきょう)を説いていた良弁(689年~774年)が、国分寺の総本山として東大寺と大仏の建立を進言していました。聖武天皇が平城京復帰により、東大寺が建立され、本尊として大仏が造られる事になりました。良弁は東大寺初代別当となります。行基(668年~749年)が全国をまわって大仏建立の必要性を説き、資材や人手を集めました。寄付と労務提供による建立計画です。
 藤原氏は高市皇子(天武天皇の皇子で長屋王の父、696年没)、大津皇子(天武天皇の皇子、686年没)、長屋王、安積親王(あさかしんのう、聖武天皇の皇子、744年没)などを次々に暗殺してきました。これ以外にもまだ4人以上いると思われます。
 聖武天皇が藤原権力の犠牲者の怨念を鎮め、その祟りから逃れるために仏の力に頼ったのでしょう。長屋王などの祟りに怯(おび)え、怨霊を鎮めるために国分寺・国分尼寺・東大寺建立を進めていったのでしょう。聖武天皇は行基を抜擢し、745年に大僧正として引き上げます。
 聖武天皇は749年、娘の阿倍内親王に譲位して、46代孝謙天皇(718年~770年)が即位。752年5月30日、東大寺大仏の開眼法要を行う。754年には唐僧・鑑真が来日、東大寺に戒壇院を設け、僧侶の国家的な育成にあたる。
 756年に聖武天皇が崩御、光明皇后の希望で東大寺に聖武天皇の遺品が納められ、その一部は正倉院に現存しています。光明皇后は孝謙天皇と藤原仲麻呂に後事の全てを託して760年に崩御。

 聖武天皇を支えた藤原氏と中臣氏は、神道祭祀に深くかかわってきた氏族であるのに、聖武天皇が深く仏教に帰依してしまった仏教重視政策は何を意味するのでしょうか。
 奈良時代の中臣神道(藤原神道)は、国を支える重要な役割を担っていました。聖武天皇は藤原系の天皇ですが、後半の聖武天皇は藤原氏の傲慢振りに辟易としています。100年前の蘇我氏と同じく、藤原氏も天皇家と姻戚関係になって権力を欲しいままにし、邪魔者は消す。聖武天皇はそれを嫌ったのでしょう。
 藤原氏を始め、当時の各豪族には氏寺もありましたが、重要な国家行事・祭事は藤原神道によって行われました。天皇は藤原氏の傀儡になっていましたので、聖武天皇はこれに反抗して仏教を国教とし、天皇による祭政(皇親政治)に変えたかったのでしょう。
 聖武天皇は大仏建立に際し、宇佐神宮を頼りにしています。大仏を作るために使われた金属は、銅499トン、錫8.5トン、金0.4トン、水銀2.5トンです。宇佐神宮から全面的な協力が得られました。宇佐神宮の銅精錬技術は高く、長門の長登銅山の銅が多く使われました。宇佐神宮は東大寺の建立を成功させると約束し、実行します。大仏に塗る金が不足すると金は必ず国内より出るという託宣を出し、やがて陸奥国から金が献上されてきました。
 749年4月、敬福(きょうふく、697年~766年)が黄金900両を献上します。敬福とは、日本に人質として滞在していた百済の王子善光(禅広601年~687年)のひ孫です。善光は日本と百済が663年に白村江の戦いで敗戦したためにそのまま日本に永住し、朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜りました。ひ孫の敬福は陸奥守になっていました。在任中に宮城県遠田郡涌谷町で黄金が発見されたのです。百済王は大阪府枚方市中宮西之町1-68にある百済王神社(くだらおうじんじゃ)に祀られています。神社の東側の百済寺跡が公園になっています。
 大仏建立の協力に対して、朝廷から宇佐八幡神へ封戸800戸と位田60町がおくられ、東大寺の守護神として、東大寺の東に手向山(たむけやま)八幡が分霊(ぶんれい)として祀られました。
   菅原道真の旅立ち前の歌
      このたびは 幣もとりあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに

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by enki-eden | 2013-03-23 01:30

宇宙の年齢

 今日は古代史とは関係のない宇宙のニュースです。宇宙の始まりは137億年前と言われていましたが、今日の朝刊に「定説より1億年長かった」と出ていました。欧州宇宙機関(ESA、European Space Agency)が21日、宇宙の年齢はこれまでの定説より約1億年長く、138億歳とする最新の研究結果を発表しました。
 宇宙誕生のビッグバンから間もない時期に放たれた「最古の光」は、現在の地球にあらゆる方向からマイクロ波として届き、「宇宙背景放射」と呼ばれています。その宇宙初期の光を分析して、宇宙を構成する物質の組成やビッグバンの時期などを知ることができるようです。
 ESAは2009年に打ち上げた宇宙望遠鏡プランク(Planck)で15ヶ月間にわたり全方向からのマイクロ波を調べ、最も初期の宇宙図を作成しました。宇宙図にはマイクロ波を温度で表したときに見られるごくわずかなむらがあり、むらの分布から理論的に宇宙の年齢などを算出しました。
 プランクは宇宙背景放射を観測するための高感度・高分解能の観測装置を備えた人工衛星で、宇宙創世の解明を担っています。
 現在、人類が認識できる宇宙の物質の質量は、実際に存在しているはずの質量の4.9%しかありません。残り95%以上の質量の物質は見ることができませんので、暗黒物質(ダークマター)やダークエネルギーと呼ばれています。これらの物質についても今後の研究で判明していく事でしょう。
 宇宙の年齢に比べますと、我々が古代史と呼んでいる時代は、ほんの最近の出来事になってしまいますがねぇ。もっと古代史を真剣に、詳細に、正確に研究していく必要がありますね。

 私は古代史の他、「神」も研究しています。親類の人に話をすると「変わってるな!」と言われますがね。
 若い頃から「神とは何だろう?」という疑問を常に考えていました。学生の時にはキリスト教の教会に行ったり、旧約聖書と新約聖書を読んでいました。社会人になると仏教やイスラム教、古代のゾロアスター教、シュメールの神話などを調べました。しかし、宗教的な観点から神を理解するのは、神の存在のごく一部分だけだなと考えながら何十年が経過していきました。
 ところが、15年ほど前にアメリカ人のニール・ドナルド・ウォルシュの記した「神との対話」(宇宙をみつける、自分をみつける)という本に出会いました。更に「神との友情」も読みました。これで目の前がパッと開けました。今までの疑問の幾つかが解決しました。
 しかし、それでもまだ不十分だなと感じていたのです。12年前に物理学と天文学で神を理解できないかと考えました。ヨーロッパの宗教改革、ルネサンス、科学の発達は、より神に近づきたいという人たちの願望から発する運動なのかなと思いました。
 やはり、欧米人の理論物理学者のなかに、科学的に偉大な存在を理解しようとする人がいるのを知りました。日本では、そう考える学者は非常に少ないのですが、おられます。池内了(いけうちさとる)教授です。それから天外伺朗(てんげしろう)氏。ご両人とも兵庫県出身で年齢も私ぐらいです。日本ではごく少数派になります。
 桜井邦朋教授も「宇宙の意志」について述べておられます。茂木健一郎氏も脳科学で脳と心を研究しておられます。
 理学博士の増田正美教授は2006年に亡くなられましたが、私は10年ほど前に株式投資を通じて先生と知り合いました。そこで増田先生に私の「神と物理学」に関する意見を述べたところ、先生のご返事は「プロの物理学者はそのような考え方をしません。」というものでした。これは日本の学者の一般的な当然の立場です。数年後、先生の訃報に接した時は「もっと真剣にお話をしておけば良かったのに…」と悔やまれました。
 私は物理学的に神を理解する事が可能だと考えています。人間の認識できる次元は4次元だけですが、5次元・6次元があるかもしれません。スイスのジュネーヴ郊外の欧州原子核研究機構(CERN)は世界最大規模の素粒子物理学の研究所です。日本とアメリカも参加して研究を続けていますが、異次元の証明は近いうちにできそうです。
 宇宙の質量のなかで、人類の見ることのできない物質は異次元にあるのかもしれません。それがビッグバンにより人類に見える次元の物質に変移したのかもしれませんね。理論物理学と天文学で神の一端を見たいものです。
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by enki-eden | 2013-03-22 14:24

伊都国を掘る

 昨年の10月13日に兵庫県立考古博物館で講演会があり、福岡県糸島市教育委員会文化課の角(すみ)浩行氏が「伊都国を掘る」という題で講演されました。

 伊都国の範囲は糸島市と福岡市西区の一部で、伊都国には代々王が存在しました。
 伊都国は帯方郡使が常駐した所で、対外交流の拠点。中国製や朝鮮半島製の遺物が大量に出土しています。また、一大率(いちだいそつ)が置かれていました。
 弥生時代後期から古墳時代前期の伊都国の都は三雲・井原(いわら)地区で、住居跡・墓地・王墓・館などが存在しました。
 玉造工場は潤地頭給遺跡(うるうじとうきゅういせき)にあり、九州最大規模の工房だった。また、2世紀末の井戸枠に転用された準構造船の部材が発見されました。準構造船は外交・交易用に必要でした。

① 三雲南小路(みくもみなみしょうじ)王墓
 前原市(現糸島市)が発掘調査、規模は1辺約30mの方形墳丘墓で周りに溝がめぐる。中央付近より甕棺2基を発見。出土品は前漢鏡57面以上、ガラス璧、金銅四葉座飾金具、銅剣、勾玉など。時代は約2,000年前の弥生時代中期後半。

②井原鑓溝(いわらやりみぞ)王墓
 江戸時代の発掘記録によると、出土品は後漢鏡20面以上、 巴形銅器、刀剣、甲冑のようなもの。(全て現存しない。)

③平原(ひらばる)王墓
 1965年に発見され、原田大六氏・大神邦博氏により発掘調査が行われた。1988年からは前原市(現糸島市)教育委員会により発掘調査が行われた。
 1号墳(王墓)は14×12mの長方形の墳丘墓で周りに溝がめぐる。中央付近より木棺1基を発見。出土品は最大の銅鏡5面を含め40面、素環頭大刀、ガラス勾玉、ガラス管玉、ガラス耳璫(みみだま)など。時代は約1,800年前の弥生時代後期後半。1982年に国の史跡になり、出土品は2006年に国宝に指定される。

 伊都国の港は御床松原遺跡(赤のアイコン)と深江井牟田遺跡(黄のアイコン)
 平原遺跡(青のアイコン)、日向峠(ひなたとうげ、緑のアイコン)、 
 細石神社(紫のアイコン)、潤地頭給遺跡(黒のアイコン)
 糸島市は地形がドラゴンに似ているので、糸島市のイメージキャラクターは
 「いとゴン」になったと角氏の説明がありました。

              いとゴン
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         平原遺跡の発掘図(ちょっと見にくいですね)
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 平原遺跡(ひらばるいせき)は福岡県糸島市(旧前原市 まえばる)有田にある平原歴史公園内の遺跡で、弥生時代後期の遺跡です。1965年1月、地元の農家がミカンの木の作業中に、多数の銅鏡の破片を発見しました。報告を受けた福岡県は、原田大六氏(1917年~1985年、考古学者)を調査主任として遺跡の調査、発掘が行われました。途中から原田大六氏の私費による発掘調査となります。
 遺跡は方形周溝墓3基と、円形周溝墓2基で構成され曽根遺跡群に属しています。原田大六氏は出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を「八咫の鏡」と判断、伊勢神宮の八咫鏡も同型の鏡ではないかとしています。
 その他の副葬品は勾玉や管玉などの装飾品で武器類が少ないため、埋葬者は女性だそうです。この墓は魏志倭人伝に記された伊都国王(女王)の墓ではないかとみられています。原田大六氏はこの主を「玉依姫」とし、「大日孁貴(天照大神)」としています。著書「実在した神話 発掘された平原弥生古墳」の中で5面の内行花文鏡は八咫鏡であると言っています。
 これには異論があって、「歴史や考古学と神話を混同してはいけない、卑弥呼は天照大神ではない、神は墓を持たない、神話と考古学の混同は皇国史観に回帰する道である。」などと言われますが、そうでしょうかねぇ?
 私は様々な分野の研究を総合的に判断する事が大切であると考えています。戦後は皇国史観を拒絶するあまり歴史の真実から乖離してしまった津田左右吉氏(1873~1961年)の影響が大きいのです。考古学と神話の接点を研究すれば、真実に近づくことはあっても皇国史観が復活する事はありません。津田氏のファンの皆様、ご容赦くださいね!
 平原遺跡の1号墓出土品は2006年、全て国宝に指定されており、伊都国歴史博物館に保管されています。2号墓は周囲に溝を巡らせた円形墓で、1号墓と接するように造られており、周溝の一部を共有しています。内部には割竹形木棺が東西方向に埋葬されていました。弥生時代末から古墳時代初めに造られたものだそうです。前漢鏡2枚と破片が出土しています。
 大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)5面は仿製鏡で、直径46.5cm、重さ8kgの超大型鏡です。女王が毎朝、日向峠(ひなたとうげ)から昇る日の出を拝み、大型鏡で太陽を反射して太陽神を崇めていたのでしょう。女王没後は西枕にして埋葬し、脚を少し開いて日の出の方に向け、太陽神との交わりをイメージしたのでしょう。森浩一先生によりますと、内行花文は花ではなく太陽を象徴していると言われています。
 私は皇室の16弁菊花紋も菊ではなく太陽の紋であると考えています。中近東の王族の紋は太陽を象徴しており、形は16弁菊花紋と同じだからです。この紋の列島への招来者は素戔嗚か秦氏か分かりませんが、西アジアからきた紋だと思います。
 平原歴史公園の1.5km南東に細石神社(さざれいしじんじゃ)があります。漢委奴国王の金印は元々細石神社にあったという伝承があり、瑞梅寺川の周辺です。金印と王墓は繋がりがありそうですね。
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by enki-eden | 2013-03-20 01:30

神道

 1月30日に「大祓え」のお話をしましたが、今日も神道について考えてみたいと思います。
日本の伝統的な自然信仰を基に、神を敬い祈る信仰形態が古代豪族によって政治体制に組み込まれ、祭政一致の支配体制が確立されていきます。
 大和朝廷では物部氏が中心となって祭祀と軍事を司りました。古神道、あるいは物部神道と言ってもいいと思います。天神地祇、祖神、祖霊を祀り、収穫を感謝し、祭事を重要視しました。十種神宝(とくさのかんだから)や、「ひふみよいむなやこたり、ふるべ、ゆらゆらとふるべ」の呪文などにより、魂を奮い起こすことによって活力を生み出す神道だったのでしょう。587年に物部守屋が蘇我氏に滅ぼされて、一般には知られなくなりました。
 6世紀には蘇我氏や聖徳太子を中心に仏教が取り入れられ、7世紀には物部氏に代わって藤原氏・中臣氏の「穢れと祓え」の大祓え神道が中心となりました。
 8世紀には45代聖武天皇が仏教による国家鎮護の政策を重要視し、徐々に神仏習合の宗教体制が確立されていきました。千年以上も神仏習合の体制が続きましたが、明治政府により神仏分離令が出され、天皇を頂点とする国家神道が構築されました。
 それは復古神道の精神を基礎に皇祖を祀り、祭政一致的な要素を含む国家神道です。神社から仏教色を排し、皇祖とされる天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の最高位に位置付け、既存の神社を統廃合し、祭神もある程度変更させ、日本を神国であるとしました。
 戦後は政教分離により皇室の祭事は天皇家の私事として扱われています。これには異論もありますが、皇室の祭事は国家とは分離されています。我々国民は神社神道による祭祀儀礼の信仰を続けております。初詣、お宮参り、七五三、祈願祈祷、春と秋のお祭り、神前結婚などです。そのような環境のなか、私は由緒ある古い神社を巡ることで古代の歴史、社会を研究しています。

 宮中祭祀は主として吹上御苑の東南に南面して建っている宮中三殿で行われます。祭り主(宮司・神主)は天皇陛下で、宮中三殿の中央に天照大神を祀る賢所(かしこどころ)があり、古代から奉斎されています。八咫鏡は伊勢神宮で奉斎されていますが、賢所では分身としての鏡が御神境となっています。賢所は東京遷都により、京都の御所から東京の皇居へ遷座となりました。
 賢所の向かって左に皇霊殿があり、初代神武天皇から124代昭和天皇までの天皇と皇族の御霊をお祀りしています。向かって右には神殿があり、八神・天神地祇・八百万神をお祀りしています。皇霊殿と神殿は明治政府によって新たに整えられました。
     宮中三殿(真ん中が賢所、左が皇霊殿、右が神殿)中心マークの上です。


 記紀には、10代祟神天皇は9代開化天皇の子となっており、新たに九州などからやって来たとは記されていませんが、3世紀後半の祟神天皇の時代に古墳時代が突然始まり、箸墓古墳を画期として埋葬システムが全国的に統制されました。定形型前方後円墳は、外形的には出雲や吉備などの影響を受けながらも、副葬品は北部九州と同じで、大量の武器と銅鏡ですので、このときに新しい支配者が北部九州から大和へ来たと考えるのが妥当でしょう。そして、この頃に400年間ほど祭事に使われていた銅鐸が完全に消滅していきます。祭祀の方法も変わっていきました。
 祭祀については、初代神武天皇から9代開化天皇までの80年間ほどは高皇産霊神を宮中で祀っていましたが、10代祟神天皇からは天照大神を祀る様になりました。これが大和での騒乱のもとになり、宮中の倭大国魂神と天照大神は宮中から外部に出される事になります。
 そして副葬品のなかの銅鏡ですが、この頃から三角縁神獣鏡が大量に使われるようになります。この鏡は舶載鏡ではなく大和の鏡造りの製作品だと思います。奈良県磯城郡田原本町八尾816に鏡作坐天照御魂神社がありますが、4世紀から5世紀にかけて鏡作部がこのあたりに住んでいたようです。卑弥呼が魏に朝貢した景初3年銘のある三角縁神獣鏡も出土する事から、祟神天皇は卑弥呼(天照大神)を意識していたのは間違いないと思います。
 つまり、私は祟神天皇と臺與が北部九州から大和の纏向(まきむく)にやって来たと推測しています。纏向については1月27日の「奴国王」を御覧ください。祟神と臺與は、西暦185年頃に大和にやって来た饒速日の子孫の物部氏と手を組みました。その時期は270年から290年頃だと思います。私は、臺與は倭迹迹日百襲姫として記紀に記されていると推測しています。
 大和騒乱や疫病を鎮めるために、祟神天皇は市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祀らせ、大和神社(おおやまとじんじゃ)の祭主としました。大田田根子に大物主神を祀らせ、大神神社(おおみわじんじゃ)の祭主としました。倭迹迹日百襲姫は大物主神と結婚しますが、相手は神で時代も違いますから、実際に結婚した相手は大物主の子孫の大田田根子だったのでしょう。
 また、祟神天皇は大和盆地の東の奈良県宇陀市に赤い盾と矛をもって墨坂大神を祀り、墨坂神社としました。西の奈良県香芝市穴虫に黒い盾と矛をもって大坂の神を祀り、大坂山口神社としました。
 祟神天皇が祀ったこれらの神々は素戔嗚系・出雲系の神様です。祟神天皇は大和で素戔嗚系の神を疎かにしたために、即ち先住の出雲の人たちを疎かにしたために、祟りと反撃を受けたのだと思います。
 つまり、祟神天皇の出自は素戔嗚系・出雲系ではなく、卑弥呼・臺與の奴国・豊国系の海人族であったことの証明になるのではないでしょうか。大和は素戔嗚系・出雲系の人たちで成り立っていたのです。
 そして、天照大神(ご神体の八咫鏡)は各地を遷座して、11代垂仁天皇の時代に伊勢に落ち着きました。4世紀はじめの頃です。
 やがて4世紀後半になると祟神系の王朝は、葛城系・息長系に取って代わられるのです。
 時代は下って7世紀終わり頃、41代持統天皇は伊勢神宮にこだわります。自分が女性であるために天照大神を強く意識したのでしょうか。持統天皇の諡号は高天原広野姫天皇となっています。皇祖は素戔嗚ではなく天照大神であることが確実視されるようになり、それが現在の宮中三殿の形にも影響していると思います。
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by enki-eden | 2013-03-17 02:00

大和神社(おおやまとじんじゃ)

 奈良県天理市新泉町306  電: 0743-66-0044   無料駐車場あります。
 創建: 崇神天皇12年(3世紀終わり頃~4世紀初め頃)
 春日造りの本殿
 祭神: (中央)   日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ) 
     (向って右) 八千戈大神(やちほこのおおかみ) 
     (向って左) 御年大神(みとしのおおかみ) 
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 神社の由緒によりますと、
 日本大国魂大神は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命に倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。
 奈良時代、朝廷の命により、唐の国へ渡って学ぶ遣唐使、その他使臣は、出発に際して、当社へ参詣し、交通安全を祈願された。
 また、世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神とされた。同艦も、昭和20年4月7日、沖縄南方にて轟沈した。その英霊、第二艦隊司令長官伊藤整一命外、2,736柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。
 
 大和朝廷の崇敬を受け、伊勢神宮に次ぐ広大な社領があったが、平安遷都などにより衰退し、中世には社領を全て失った。しかし、境内は深い森に包まれ、広くて大きな古社です。
 日本大国魂大神は饒速日でしょうか。大歳神(饒速日)と伊怒比売(出雲)の子に大国御魂がいますが、これが日本大国魂大神であるという説もあります。八千戈大神は大国主、御年大神は大歳神(饒速日)と香用比売(かぐよひめ)の子です。
 大和の国は素戔嗚系・出雲系の人で成り立っていました。10代祟神天皇が天照大神を祀ったので騒乱が起きたと考えられます。倭大国魂神は宮中から出て、市磯長尾市(いちしのながおち)が祀り、大和神社(おおやまとじんじゃ)になります。天照大神は宮中から出て、各地を遷座して11代垂仁天皇の時代に伊勢に落ち着き、伊勢神宮となります。
 更に祟神天皇は倭迹迹日百襲姫の神託により、大田田根子に大物主神を祀らせ、大神神社(おおみわじんじゃ)となります。これで大和の騒乱・疫病などは治まりました。
 当初、大和神社は東方の山麓に祀られていたようですが、後に現在の地に移されたとされています。また、当社の祭神の分霊が戦艦大和の艦内で祀られていました。
 大和神社境内に星塚古墳があります。参道入り口の横にも馬口山古墳があります。大和神社の東南1kmの神社所有地内にも中山大塚古墳があり、そこに大和神社の境外末社「御座所坐神社」(別称:大和稚宮神社)が鎮座、大和神社の御旅所になっています。その横にある歯定神社(はじょうじんじゃ)も大和神社境外末社で御祭神は大己貴神と少彦名神です。
 これらの古墳は倭大国魂神に関係ある豪族の墳墓でしょうか? いずれも禁足地にはなっていません。天理市は遺跡などの発掘が進んでいませんので、これから力を入れて欲しいです。纏向遺跡は桜井市にありますが、北隣りの天理市にまで続いている可能性が高いですから、尚更発掘を進めて欲しいですね。
 天理市一帯は大和神社をはじめとして物部氏の一大拠点だったのでしょう。祟神天皇のときに物部氏の伊香色雄が「石上大神」として祀った石上神宮(いそのかみじんぐう)も天理市布留町384に鎮座します。
   黄色のアイコンが大和神社、赤が中山大塚古墳(御旅所)

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by enki-eden | 2013-03-15 02:00

高鴨神社(たかがもじんじゃ)

 金剛山東山麓に迦毛大神を訪ねる。
 奈良県御所市鴨神1110   電: 0745-66-0609  無料駐車場あります。
 祭神:阿治須岐高日子根(あじすきたかひこね、迦毛之大御神)
    事代主命(ことしろぬしのみこと)
    阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと)
    下照姫命(したてるひめのみこと)・天稚彦命(あめわかひこのみこと)

 神社の解説では、『全国鴨(加茂)社の総本宮で、弥生中期前より祭祀を行う日本最古の神社の一つです。カモはカミと同源でありカモすという言葉から派生し、気が放出しているさまを表しております。当神社の神域は鉱脈の上にあることも重なり、多くの神気が出ていることでも有名です 夏場に参拝されますと涼しく感じられるのもその為です。』とあります。
 由緒では、『この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で、本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社の一つであります。弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社を祀って水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。
このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。
 日本書紀によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の主長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。』とあります。


 出雲国風土記によりますと、大穴持命(大国主)の子が阿遅須枳高日子命とありますので、これが阿治須岐高日子根のことでしょう。同じく祭神の事代主も大国主の子ですが、出雲国風土記には事代主の名はありません。
 鴨氏や賀茂氏は葛城氏と密接に繋がって、葛城氏はやがて9代開化天皇の子孫の息長氏とも繋がっていきました。211年頃に神武天皇から始まって、284年頃に9代開化天皇で終わった70年間ほどの葛城王朝が後に神功皇后により復活します。
 高鴨神社の向かって左側境内に大きな池があり、「鴨」が泳いでいます。境内社も多く、左奥には西神社、右奥には東神社があります。また、日本さくら草が2千株以上も栽培されています。
 西隣に葛城の道歴史文化館があって、小さいですがくつろげます。
       文化館でもらったパンフレットの左半分
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       高鴨神社入り口の赤い鳥居
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       石の鳥居の向こうに石段があり、登ると拝殿です。
       この鳥居の右に大きな神杉があります。
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       本殿(国の重要文化財、三間社流造、檜皮葺)
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 神世の年代と場所を大まかですが仮説として表にしました。クリックするとはっきり見えます。新しい情報があり次第訂正を加えていきます。
 神話と歴史を混ぜるなとおっしゃる皆様にはご容赦願いますね!
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by enki-eden | 2013-03-12 02:00

(大和)葛城山

 奈良県御所市の西部には金剛山地が南北に連なっています。中でも有名なのが葛城山と金剛山です。北側の標高959.2mの葛城山は登山家に人気があります。5月には一面にツツジが咲き、秋には高原のススキが美しいところです。冬には樹氷や霧氷を見ることができるようです。
 登山口から近鉄の葛城ロープウエイに乗ると、山頂付近にはキャンプ場や葛城高原ロッジ、バンガローがあり、宿泊もできるようになっています。葛城山の北には二上山(にじょうざん、ふたかみやま)があり、石材(石器のサヌカイト)が産出します。南には、かつては高間山・高天山(たかまやま)と呼ばれた金剛山(1,125m)があり一帯を葛城高原ともいいます。金剛山は修験道の開祖役小角(えんのおづぬ)が1,300年前に修行した山として知られています。
 私は登山口に車を停めて葛城ロープウェイに乗り、山頂まで行きました。山頂からは大和盆地が一望でき、大和三山もかすんで見えます。
     ロープウェイのチケット
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 葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ) 
 奈良県御所市森脇字角田432   電0745-66-0178  無料駐車場があります。
 拝殿前に樹齢1,200年の大銀杏のご神木があり、高さは25mです。
 大和葛城山の東南麓(葛城古道)にあり、東向きに鎮座しています。祭神の一言主神は「悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神」であるという託宣の神です。願い事を一言のみ叶えてくれると信じられ「いちごんさん」と呼ばれています。
 大泊瀬幼武尊(21代雄略天皇)を合祀しています。雄略天皇が葛城山麓で狩をしている時に一言主神に出合い、恐れ拝復して着ているものを差し上げた故事からきているのでしょう。拝殿裏の神体山に一言主神が現れたようです。
     鳥居(ここは葛城氏の本拠地)
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     拝殿(本殿はあまり見えません)
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     ご神木の銀杏(子授けのご利益があります)
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 宮山古墳(室の大墓) 
 御所市室字宮山109、全長238m、後円部径105m、高さ25m。
 高さは25mですが、急斜面で登るのは大変でした。全国で第18位の大きさの前方後円墳で竪穴式石室の長持形石棺を見学することができます。
 古墳時代中期に宮山古墳(室大墓)が築造されたことを契機として終末期に至るまで、奈良県御所市(ごせし)の巨勢山丘陵に約700基の巨勢山古墳群が築かれました。
    宮山古墳出土の埴輪(橿原考古学研究所付属博物館展示)
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 宮山古墳(赤のアイコン)、葛城一言主神社(青)、葛城山(黄)

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by enki-eden | 2013-03-09 10:29