古代史探訪

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生石神社(おうしこじんじゃ)

 兵庫県高砂市阿弥陀町生石171  電話:079‐447‐1006 東久祠(ひがしひさし)宮司
 祭神: 大穴牟遅命(おおあなむち)、少毘古那命(すくなひこな)

 神体は「石の宝殿」と呼ばれる巨大な石造物です。日本三奇の一つで、高砂市生石神社の石の宝殿(石)、宮城県塩竈(しおがま)市鹽竈神社の神竈(鐡)、宮崎県西諸県郡高原(たかはる)町霧島東神社の天の逆鉾(銅)をいう。日本三奇の縁で三市町の長が交流を深めています。
 生石神社は10代崇神天皇治世(3世紀後半)に創始、凝灰岩の竜山石(宝殿石)でできた宝殿山の山腹にあります。
 神社の由来によりますと、「日本三奇石乃宝殿・鎮の石室(いわや)は大穴牟遅命と少毘古那命の二神が天津神の命を受け、国土経営のため出雲の国よりこの地に座したまいし時、二神相謀り国土を鎮めるに相応しい石の宝殿を造営せんとして一夜のうちに工事を進められるも、工事半ばなる時、阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り神々を集め、この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなりこの宮殿を正面に起こす事ができなかった。未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明された。」とあります。
 13代成務天皇の時に、羽後国飽海郡平田村生石(山形県酒田市生石字十二ノ木176)に当社の分社・生石神社(おいしじんじゃ)が創建されました。
 また、和歌山県有田郡の五名生石神社(ごみょうしょうせきじんじゃ)にも分霊されたようです。
    生石神社(青のアイコン)、高御位山(たかみくらやま、304m、黄)、加古川(赤)

      
       生石神社略記
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 「石の宝殿」は、高さ5.7m、横6.4m、奥行7.2m、重量約500トンの巨大な石造物で、池に取り囲まれているので水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれています。
 私が子どもの頃に、叔母が「向こうに見える山の中に大きな石の宝殿があって、池に浮かんでいるのよ。」と教えてもらったことがあります。
       正面の鳥居(2013年4月15日参拝)
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    拝殿(割拝殿)、 拝殿の奥に神体の石宝殿が鎮座。
      正面鳥居から拝殿までは非常に急な階段で階段数も多く、途中で二回休み
      ました。2010年に参拝した時は駐車場横の鳥居から入りましたので、楽でした。
     
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  石の宝殿(周囲を一周できます)、2010年に参拝した時の写真。
   今日4月15日は遥拝所の工事中でしたから、出来上がると新しいものになります。
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     石の宝殿、北側の出っ張り(2013年4月15日撮影)
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     霊岩(石の宝殿の分岩)、2010年に参拝した時の写真。
      力を込めて岩を押すと神様の力を授かり、願い事がかなう。
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     山上公園登口(2013年4月15日撮影)
      拝殿横から岩山の階段を登っていくと、石の宝殿を上から眺める事ができます。
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     北に高御座山を望む(大国主神と少彦名神の降臨地)
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     南西に石切り場
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     石の宝殿の南東に高砂市の町並みを望む
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     駐車場横の鳥居と扁額(ここからだと急な階段を登らなくても済みます。)
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 高御位山は播磨富士と呼ばれています。「高御位」は4月7日(日)に投稿しました「平常宮大極殿」で述べましたように、天皇の「玉座」のことです。
 「石の宝殿」は大穴牟遅命と少毘古那命の播磨国建国即位の玉座として造られたものであり、高御位山は降臨の山です。
 私見ですが、大穴牟遅命(大国主神)の生没年は160年頃~220年頃で、神武天皇の180年頃~245年頃と近いですから、大和朝廷ができる前に大国主の即位が播磨国で行われたと考えています。

 竜山石(たつやまいし)は兵庫県高砂市伊保町竜山に産する流紋岩質凝灰岩で、軟質・耐火性があることから古くより石材に利用され、古墳時代の長持形石棺の材料としては奈良県二上山の凝灰岩とともに竜山石がよく使われています。姫路城の石垣や京都御所、皇居吹上御苑、国会議事堂なども竜山石を使用しています。
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by enki-eden | 2013-04-29 00:21

伊和神社(いわじんじゃ)

 伊和坐大名持御魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ、延喜式神名帳)
 兵庫県宍粟(しそう)市一宮町須行名(すぎょうめ)407    電:0790-72-0075
 主祭神: 大己貴神(大名持御霊神、大国主神、又は伊和大神とも申し上げる)
      配祀: 少彦名神と下照姫神
 播磨国一宮、創建は13代成務天皇の頃(350年頃)


 祭神の大己貴神は播磨国開発の神で伊和大神(いわのおおかみ)とされる。播磨国風土記では、伊和大神と葦原醜男(大己貴神、大国主)を同神とみています。
 出雲からやって来た伊和大神は播磨国風土記に登場する伊和君(いわのきみ)一族が祀る神です。播磨国風土記の讃用(佐用)郡(さようぐん、宍粟郡の西隣)の項で、伊和大神は賛用比賣命(さよひめのみこと)との国占めに負けて、宍粟郡へ行きます。
 また、伊和大神と天日槍の争いは、非常に激しいものだったと記されています。宍粟は林業と蹈鞴製鉄の盛んな土地でしたから、鉄資源の争いだったのでしょう。製鉄遺跡は100ヶ所以上もあったそうです。私見ですが、大国主は160年頃の出生、天日槍は神功皇后(330年頃出生)の6代前の先祖ですから240年頃の出生になりますので、二人が戦争をすることは無いと思います。天日槍と戦争をしたのは伊和大神の5代ほど後の子孫ではないでしょうか。
 伊和神社の16,000坪の境内には杉の大木などが1,650本以上もあり、太さ3m以上の大杉は84本もあるそうです。神社の西には揖保川が流れています。揖保川沿いは遺跡の多いところです。
 播磨国風土記の宍禾郡(しさわのこおり、宍粟郡)の雲箇(うるか)の里(現在は宍粟市一宮町閏賀 うるか)には、伊和大神の妻・許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ)が記されています。許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ)は、その容姿が美麗しかったから宇留加(うるか=うるわしい)という。
 日本書紀の木花開耶姫命は瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻ですから、瓊々杵尊と伊和大神(大汝・大国主・葦原醜男)は同一神なのでしょうか。それとも木花開耶姫は瓊々杵尊と伊和大神の両方の妻だったのでしょうか。日本書紀では木花開耶姫は瓊々杵尊と一夜で妊娠したので、瓊々杵尊がそれはわが子ではないだろうと疑います。
 母親が自分の子の父親が誰かを盟酒(うけいざけ)で占うという記事を1月2日に投稿しました。播磨国風土記託賀の郡荒田村の項に道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父親の分からない子を生んだので盟酒により天目一神が父親であると判明しました。このように古代では子の父親はなかなか正確には分からない場合が多いのです。
 伊和大神には多くの妻子がいますが、播磨国風土記託賀郡の袁布山では、宗形の奥津嶋比売命(多紀理毘売命)が伊和大神の御子を生んだとあります。
 宮崎県西都市妻1の都万(つま)神社には木花開耶姫が祀られています。当社の記録が「続日本後紀」巻六、承和四年(837年)条にあって、「承和四年、官社に列し、延喜式に載す。蓋(けだ)し都農(つの)神の妻神なり」とあります。都農神とは日向国一の宮都農神社(宮崎県児湯郡都農町川北13294)の祭神大己貴命(おおなむち、大国主)であって、木花開耶姫と大己貴命が夫婦であったと記されています。
 日本書紀の少彦名命は播磨国風土記では、少日子根、小比古尼と表記されています。

 伊和神社西の山腹から明治41年に銅鐸一個が出土し、磐座もあって三輪山の祭祀に近いようですので、伊和神社は出雲系の神社になります。縄文遺跡・弥生遺跡も境内や周辺にあり、古代からの祭祀場であったのでしょう。当地は周りを山に囲まれた盆地で、古代から磐座信仰や山岳信仰が行われていたようです。
 61年に一度行われる三つ山祭では、揖保川の河原にある御旅所で、白倉山(東)・高畑山(西)・花咲山(北)の伊和三山の磐座を祀る神事を執り行います。そして20年に一度行われる宮山(みやま、東北)の一つ山祭は、宮山近くの御旅所で山頂の祠を遥拝します。これらは古代の磐座信仰を今に伝える神事になっています。
 伊和神社の駐車場は国道沿いの道の駅「播磨いちのみや」になっています。神社に参拝した後、この道の駅で昼食をいただきました。道の駅は何かと便利でいいですね。国道は29号線で、山陽地方と山陰地方を連絡する路線になっており、古くから播磨(兵庫県)と因幡(鳥取県)の交通を担ってきました。兵庫県では因幡街道と呼ばれ、鳥取県では若桜街道(わかさかいどう)とか播州街道と呼ばれています。道の駅播磨いちのみやは国道の東沿いにあり、国道を渡って西側の神社に入ります。少し西向きに進み、鳥居と神門を過ぎると、左(南)に曲がります。すると拝殿が北向きに鎮座しているのが見えてきます。
    駐車場の「道の駅播磨いちのみや」は元々伊和神社の参拝者用でした。
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     神社石碑
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     神社入り口
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     鳥居の扁額には「正一位伊和大明神」とあります。
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     社務所横にある神木の大杉
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     拝殿(お祓いの祈祷待ちの車が止まっている。)
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     拝殿内
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     本殿(入母屋造桧皮葺、元々は大社造りだったそうです。)
     千木は垂直切りで鰹木は5本、16弁菊花紋がついています。
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     本殿裏に鶴石がありました。二羽の大きな鶴が、北向きに眠っていたのでそこに
     北向きの社殿を建てたという。鶴石は、その鶴が居た石であるという。
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     夫婦杉
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 この後、宍粟市歴史資料館(宍粟市一宮町三方町字家原633)へ行きました。
       宍粟市歴史資料館
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 宍粟は古来より播磨地方と但馬・因幡地方を結ぶ交通の要衝として歴史的に重要な役割を果たしてきました。町内には播磨国一宮伊和神社や国指定重要文化財の本殿を持つ御形神社をはじめ多くの歴史遺産を伝えています。また前方後円墳を含む伊和中山古墳群や大規模な複合集落跡である家原遺跡などが発掘されました。
       ***

古代史・播磨国風土記に関する特別講演会が予定されています。
 兵庫県立考古博物館にて、5月11日(土)13:30~15:00、
 「伊和大神と天日槍」と題して、上田正昭京都大学名誉教授が講演されます。
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by enki-eden | 2013-04-27 00:25

神功皇后と卑弥呼・臺與

 日本書紀は卑弥呼と臺與について、神功皇后の記事の中で述べています。神功皇后紀は神功皇后39年のところで魏志倭人伝の記事を挿入しています。この年(西暦239年)に卑弥呼が魏に朝貢しました。従って、神功皇后摂政元年は西暦201年になりますので、これは卑弥呼の女王就任が201年で、魏への朝貢が239年と述べているのです。
 卑弥呼が247年頃に亡くなり、臺與が248年頃に女王となります。臺與は266年に西晋に朝貢しますが、日本書紀の神功皇后66年(西暦266年)に倭の女王の朝貢が記されています。神功皇后は摂政69年(西暦269年)に崩御したと記されています。つまり、臺與は269年に倭の女王ではなくなったということです。
 臺與が269年に女王でなくなったのは、死亡したのではなく筑紫から大和に東遷したからではないでしょうか。大和の10代祟神天皇(私見では250年頃出生、318年頃崩御)は臺與の子か甥の世代です。臺與と祟神が269年頃に筑紫を出発して、大和で294年頃に王権を奪取したと私は考えています。
 神功皇后が筑紫では誉田別尊(後の15代応神天皇)を出産し、大和へ向けて進軍、香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)を打ち破り、自らが摂政となり応神天皇に繋げていきます。これは臺與が祟神を連れて大和にやって来て王権を得ることの暗示ではないでしょうか。臺與の墳墓は倭迹迹日百襲姫の箸墓古墳かもしれません。
 朝鮮の百済は346年に建国、660年に新羅に滅ぼされました。日本書紀の神功皇后55年(西暦255年)に百済の肖古王が亡くなったと記されています。実際に亡くなったのは375年です。従って、神功皇后の暦年は干支を二周り(120年)古くして、卑弥呼と臺與の事績を述べているのです。 これが日本書紀の筆法です。そして卑弥呼と臺與の二人を集約して天照大神と表現、神代の記事として記したと考えられます。
 私見ですが、実際の神功皇后は330年頃に出生、崩御は389年頃と見ています。7世紀の聖徳太子が隋の煬帝に対等関係の国書を送り、その後の日本の大王は天皇と名乗り、日本書紀の記された8世紀の日本は東アジアの中心国家としての意識が非常に高揚した時代でした。ですから皇室の先祖の卑弥呼と臺與が中国に朝貢した事など認められませんでした。
 従って4世紀の神功皇后の記事に卑弥呼と臺與を干支二周り前に(120年前に)記したのです。日本書紀に神功皇后崩御は己丑(つちのとうし)と記されていますが、己丑は389年(干支二周り前は269年)です。
 日本書紀は天皇になった順番通りに天皇紀を記しています。ただ一人、神功皇后だけが天皇ではないのに14代仲哀天皇と15代応神天皇の間に神功皇后紀として記されているのです。これは卑弥呼と臺與の事績を暗号を用いた筆法で記すための方便だと思います。卑弥呼と臺與の記事を天皇の記事の中で記すのは都合が悪いので、同じ女性で120年後の神功皇后に仮託して記したのです。従って、日本書紀の神功皇后紀には3世紀の卑弥呼・臺與と4世紀の神功皇后の3人分の女王の記事が上手な方法で載せられているのです。
 中国では孔子の春秋の筆法以来、このような方法で歴史を暗に記しています。魏志倭人伝にも筆法が使われています。魏書を記した西晋の陳寿は筆法のし方が王家に無礼だということで失脚してしまいます。日本書紀を読んでいて、誰が見てもこれは変だなと思うような内容の記事は筆法の可能性が高い部分です。
 日本書紀と同じように、卑弥呼と臺與の伝承も神功皇后に仮託されているのではないでしょうか。

北部九州の神功皇后伝承
 神功皇后は14代仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により363年頃、妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めました。日本書紀によると、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したとあります。
 出兵の時は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされます。月延石は3つあり、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されました。
 その帰路、筑紫の宇瀰(福岡県糟屋郡宇美町)で応神天皇を出産し、志免でおしめを代えたと伝えられています。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の神功皇后伝承が残っています。
 神功皇后の伝承は北部九州に大変多いですが、全部神功皇后伝承でしょうか。卑弥呼と臺與が70年間ほど邪馬台国の女王でいたのですから、九州の神功皇后伝承の多くは卑弥呼と臺與の伝承ではないでしょうか。邪馬台国畿内説の皆様にはご容赦願いますね!
 3世紀の卑弥呼と臺與の伝承は大和朝廷によって神功皇后伝承に変更させられたのではないでしょうか。神功皇后は4世紀に活躍し、14代仲哀天皇(320年頃出生、362年頃崩御)の皇后で、15代応神天皇(363年頃出生、394年頃崩御)の母です。応神天皇の父親については諸説あります。
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by enki-eden | 2013-04-24 00:30

播磨国風土記 -神・人・山・海-

 4月20日(土)に兵庫県立考古博物館へ行ってきました。
 兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1  電:079-437-5589
     考古博物館
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 博物館前の池の葦
 ちょうど、葦の芽が出始めていました。葦の芽は勢いよく伸びてくるので、勢いの良さ・生命力を表現することがあります。別天津神(ことあまつかみ)の宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の名前の由来は、その生命力を称えているのでしょう。
 湿地帯の奈良明日香(あすか)の由来も「あしか」で、葦からきているのでしょう。飛鳥の字は明日香の枕詞で「飛ぶ鳥の」明日香からきています。
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     風土記案内図
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『播磨国風土記』を読み解きながら、考古資料や文献史料を駆使し、1,300年前の人々が今に伝えてくれた播磨地域の歴史、豊かな自然と産物、人々の暮らしを明らかにします。
 主催:兵庫県立考古博物館、 読売新聞社
 開催期間 2013年04月20日(土)~2013年06月23日(日)
 会場 兵庫県立考古博物館 特別展示室
 主な展示品
 『続日本紀』(名古屋市蓬左文庫蔵 重要文化財)
 『播磨国風土記』(複製 姫路文学館蔵 原品国宝)
 平城京・藤原京出土播磨国内郡郷里名木簡(奈良文化財研究所蔵)
 伝渋谷向山古墳出土石枕(関西大学博物館蔵 重要文化財)
 応神天皇陵出土家形埴輪(宮内庁蔵)
 仁徳天皇陵陪塚塚廻古墳出土玉類、鏡など(宮内庁蔵)
 玉丘古墳・クワンス塚古墳出土埴輪(加西市教育委員会蔵)
 津堂城山古墳出土巴形銅器、玉類等(宮内庁蔵)
 聖稜山古墳出土銅鏃(円長寺蔵)
 『大智度論』(神戸市立博物館蔵)
 伊和中山1号墳出土品(宍粟市教育委員会蔵)
 伊和遺跡出土品(宍粟市教育委員会蔵)
 河高上ノ池遺跡出土土製模造品(加東市教育委員会蔵 県指定)
 市之郷遺跡出土韓式系土器(考古博蔵 県指定)
 宮山古墳出土品(姫路市教育委員会蔵 重要文化財)
 西宮山古墳出土品(京都国立博物館蔵)
 石板(秦益人刻書石)(山口市小郡文化資料館蔵)
 投松窯跡群出土品(考古博蔵)
 浮彫五尊仏像(乎疑原神社蔵)
 高廻り2号墳出土船形埴輪(文化庁蔵 重要文化財) など

 以上の第一展示室の写真撮影はできませんので、ここには載せられません。
 第二展示室はフラッシュなしであれば撮影できました。
     武力を示す古墳時代の王
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     王の石棺(竜山石)レプリカ
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     銅鐸を持って、巫女の祈り(鳥の羽と鹿の角をつけ、顔に赤い色を塗っています。)
     
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 この他にも多くの展示物があり、力の入っている雰囲気・意気込みを感じました。
 私が展示場に入りますと、ちょうど館長の石野博信先生がおられましたので、ご挨拶をしてしばらくお話を聴くことができました。

     博物館から淡路島を望む
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     西のほうに高御位山を望む
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by enki-eden | 2013-04-21 00:30

三宮神社(さんのみやじんじゃ)

 神戸市中央区三宮町2丁目4‐4   電話:078-331-2873   駐車場はありません。
 祭神: 湍津姫命(たきつひめのみこと)

 神戸市には一宮神社から八宮神社までの神社があります。これらの神社は生田神社を囲むように鎮座しており、八社には天照大神と素盞鳴尊が誓約した時に生まれた男神五柱と女神三柱がそれぞれに祀られています。この三宮神社には湍津姫命が祀られています。
 三宮神社は小さいですが境内に河原霊社や稲荷神社があります。
 1868年に三宮神社前において、備前藩が隊列を組んで進んでいるところを外国の水兵数人が横切ったことが発端となって備前藩兵と外国兵の衝突が発生しました。これが明治政府初の外交事件となり、神戸事件あるいは、備前事件と呼ばれています。境内左に「史蹟 神戸事件発生地」の石碑と当時使われていた大砲が置かれています。


        入り口の鳥居
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     拝殿(後に見える尖塔のある建物は結婚式場の神戸セントモルガン教会です。)
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     本殿(裏から、一間社流造銅板葺。千木と鰹木は女神の造りです。)
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     神戸事件石碑
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     大砲
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     稲荷神社
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     稲荷神社扁額
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     神戸大丸(大丸の北向かいに三宮神社が鎮座)
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 神功皇后が朝鮮遠征の帰りに神戸に上陸して祀った祠を、順番に社名に冠したという伝説が残されています。
 祭神は天照大神と素戔嗚尊の誓約による八王子とは少し違うところがあるようです。七宮神社の大己貴命が活津日子根尊と入れ替わっています。
 一宮神社 神戸市中央区山本通 1-3-5   祭神:田心姫命(たごりひめ)
 二宮神社 神戸市中央区二宮町 3-1-12  祭神:天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)
 三宮神社 神戸市中央区三宮町 2-4-4   祭神:湍津姫命(たきつひめ)
 四宮神社 神戸市中央区中山手通 5-2-13 祭神:市杵島姫命(いちきしまひめ)
 五宮神社 神戸市兵庫区五宮町 22-10   祭神:天穂日命(あめのほひ)
 六宮神社 移転により八宮神社に合祀   祭神:天津彦根命(あまつひこね)
 七宮神社 神戸市兵庫区七宮町 2-3-21  祭神:大己貴命(おおなむち)
 八宮神社 神戸市中央区楠町 3-4-13   祭神:熊野杼樟日命(くまのくすひ)
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by enki-eden | 2013-04-20 00:30

生田神社(いくたじんじゃ)

 神戸市中央区下山手通1‐2‐1   電話: 078-321-3851  有料駐車場があります。
 祭神: 稚日女尊(わかひるめのみこと、天照大神の和魂または妹)
 神紋は八重桜

 現在の神戸市中央区一帯が社領であったので、神戸(かんべ→こうべ)という地名になりました。
 神社の由緒によりますと、神功皇后が新羅遠征の帰途、今の神戸港にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れ、「私は活田長狭国(いくたながおのくに)に居りたい」と言われたので、海上五十狭茅(うなかみのいそさち)という者を神主として祀られたのが生田神社の始まりです。同じくこの時に、天照大神の荒魂(あらみたま)が西宮市の広田神社に、事代主神が神戸市長田区の長田神社にお祀りされたと伝えられています。
 生田神社の創建当初は布引山(ぬのびきやま)に祀られていましたが、799年の大洪水により布引山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、現在の生田の森に移転したと伝えられています。
 宮司の加藤隆久氏が「生田神社」と題して本を出版されています。
     
     一の鳥居
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     入り口の鳥居(露天が出ていました)
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     境内の鳥居(鳥居の左右に、境内社の大海神社と松尾神社が鎮座)
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     楼門
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     拝殿
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     拝殿から本殿を拝む
      本殿の左右には日吉神社、諏訪神社、八幡神社、住吉神社が並んでいる。
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     本殿(春日造り)
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     境内案内図
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     境内奥の稲荷神社
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 境内の右手には塞神社(道反神)・雷大臣神社(雷大臣命)・人丸神社(柿本人丸)。
 社殿の後方には、戸隠神社、蛭子神社が並び、境内左手の池に弁天社(市杵島神社)が鎮座。その後ろは生田の森があり、枕草子、平家物語、源平の合戦など歴史の舞台となってきました。
 生田神社を取り囲むように、八社の神社が神戸市に鎮座しています。生田神社の祭神は稚日女尊で、天照大神だと考えられます。八社は天照大神と素戔嗚尊の誓約により生まれた八人の御子をそれぞれ一柱祀っています。
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by enki-eden | 2013-04-17 00:30

多神社(多坐弥志理都比古神社 おおにますみしりつひこじんじゃ)

 奈良県磯城郡田原本町多569   電:0744-33-2155
 多は、太安万侶らをはじめとする古代氏族多氏の根拠地とみられます。神社の祭神は初代神武天皇・神八井耳命・神渟名川耳命(2代綏靖天皇)・姫御神(玉依姫・神武天皇の母)の四柱で、このうち神八井耳命が多氏の祖とされています。
 「弥志理都比古」が本来の祭神で、これが神八井耳命のことです。神武天皇の長子・神八井耳命は、弟である神沼河耳命(綏靖天皇)に皇位を譲ったので、身を退かれたという意味で、「みしりつひこ」といいます。
 当神社は奈良盆地の中央、北緯34度32分の「太陽の道」上にありますので、三輪山から登る朝日の遙拝所でもあり、太陽信仰の重要な神社です。飛鳥川の東、県道50号線の南にあって、境内は広くて美しく、四棟並んだ本殿も美しい。本殿後方に神武塚という小丘があり、祭祀遺跡か祖神の墳墓だと考えられています。
 多神社本殿は、東西に1間社が並ぶ四殿配置の形式をとっています。東の第一殿が神武天皇、第二殿が神八井耳命、第三殿が神淳名川耳命、第四殿が姫御神をそれぞれ祀っています。四社とも南面した一間社春日造で、第一・二殿が1735年、第三・四殿が18世紀中頃の建造です。古事記を編纂した太安万侶も祀られています。宮司は今も多氏で太安万侶から51代目らしいです。
 本殿は、昭和52年に檜皮葺から銅板葺に改められた以外は当初形式をよく残しています。また、春日造社殿としては類例の少ない手法もみられ、近世中頃の本殿建築としては注目されています。

 私は近鉄八木駅近くの「かごの屋」で食事をし、多神社へ向かいましたが、神社の標識が見つからず、入り口が分かりにくかった。 鳥居の扁額は「多大明神」とある。



       多神社二の鳥居と拝殿
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       鳥居の扁額
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       拝殿
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       本殿
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by enki-eden | 2013-04-14 00:30

鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)

 奈良県磯城郡田原本町八尾816     電:0744-32-2965
 祭神、中央: 天照国照日子火明命(海部氏・尾張氏の祖神)
       右: 鏡作伊多神(石凝姥命 いしこりどめ)
       左: 鏡作麻気神(天糠戸命 あめのぬかと、石凝姥命の父)

 3世紀から5世紀にかけて、銅鏡の製作を専業としていた鏡作部が、このあたり一帯に住んでいました。10代祟神天皇の頃(3世紀後半)に神鏡と遠祖を祀る神社(八尾の氏神)をこの地に建立しました。神社の正面には鮮やかな朱色の鳥居があります。
 田原本町(たわらもとちょう)は人口33,000人ほどの町ですが、昔の村名は「俵本」で、一帯は稲作の盛んな土地であったと思われます。
 天照大神が天岩戸に籠った時(247年頃)、石凝姥命が八咫鏡を作りました。石凝姥命の父・天糠戸命は185年頃(私見です)、饒速日に従って北部九州から大和に東遷してきました。そして、鏡作連等祖(かがみつくりのむらじたちのおや)となります。
 2km北東の唐古鍵遺跡からは石製の銅鐸鋳型の破片などが出土しています。銅鐸作成の職人は銅鐸の需要がなくなった3世紀後半には銅鏡の製作に従事したものと思われます。
     
     銅鐸の鋳型見本(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館蔵)
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     銅鐸の鋳造方法( 〃 )
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 当神社の1.5km北の磯城郡三宅町石見(いわみ)に鏡作神社(石見の氏神)が鎮座、祭神は同じく石凝姥命です。鏡作坐天照御魂神社は海部・尾張系ですが、鏡作神社は物部系でしょう。この三氏族は密接に繋がっています。更に、鏡作麻気(まけ)神社(祭神:天糠戸命、磯城郡田原本町小坂)、鏡作伊多神社(祭神:石凝姥命、磯城郡田原本町保津と宮古の2ヵ所)も鎮座しています。
 大和朝廷の初代神武天皇から6代孝安天皇までの宮の立地は橿原市・御所市に集中していますが、7代孝霊天皇は奈良盆地中央の黒田に宮を置いています。鏡作部を配下に治めたからと考えられます。そして、孝霊天皇陵は大和川の南まで北上しています。これは大和朝廷の支配領域が奈良盆地全体に及んだ結果と考えられます。10代祟神天皇になると列島規模にまで支配領域を広げていきます。
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     神社入り口の標識
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     鳥居
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     鳥居の扁額(鏡作大明神)
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     拝殿
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     拝殿の扁額(鏡作大明神)
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     本殿
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by enki-eden | 2013-04-11 00:30

神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)

 4月5日付けの「平城京内の古墳と埴輪」で、710年に平城京造営の際、数基の古墳を平らに均(なら)したと記しましたが、奈良市佐紀町及び周辺は4世紀から5世紀の王家の墓地だったようです。
 「奈良」の語源に定説はありませんが、古墳を均(なら)したというのも一説かもしれません。もっと広い範囲で見ると、古代の大和湖の水が引いて平らに均(なら)された盆地になったというのも一説にあります。他にもありますが、いずれも根拠のある説ではないと思います。
  青丹(あおに)よし 寧樂(なら)の都は 咲く花の 薫(にお)うがごとく いま盛りなり
                     小野老(おののおゆ、738年頃没) 万葉集

 佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)は、奈良市北西部の佐紀町及びその周辺にあり、古墳時代初期には曾布県主(そふのあがたぬし)が治め、朝廷の直轄地でした。古墳時代の大和朝廷の王墓を多く含む古墳群になっています。各古墳の周濠の形が盾の形をしており、ずらっとたくさん並んでいることから盾列(たてなみ)と呼ばれました。西の神功皇后陵から東のウワナベ古墳までです。
 五社神古墳(ごさしこふん、神功皇后陵、276m)、佐紀石塚山古墳(13代成務天皇陵、220m)、佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん、11代垂仁天皇皇后日葉酢媛陵、210m)、佐紀高塚古墳(48代称徳天皇陵、127m)、佐紀瓢箪山古墳(96m)、市庭古墳(51代平城天皇陵、250m)、ヒシアゲ古墳(16代仁徳天皇皇后磐之媛陵、218m)、
塩塚古墳(105m)、コナベ古墳(204m)、ウワナベ古墳(265m)などがあります。
   赤のアイコンが神功皇后陵、黄が八幡神社、青が福松神社、
   紫が成務天皇陵、黒が日葉酢媛陵、一番下に隠れている桜マークが称徳天皇陵


     神功皇后陵遥拝所(狭城楯列池上陵、五社神古墳)
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     神功皇后陵の東の濠から望む
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     神功皇后陵の南に山陵八幡神社が鎮座、拝殿に祭神名が掲げられています。
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     鳥居
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     拝殿
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     本殿
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     本殿横の遥拝所
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     八幡神社の東隣にお稲荷さんの福松神社が鎮座
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     13代成務天皇陵(狭城盾列池後陵、佐紀石塚山古墳)
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     11代垂仁天皇皇后日葉酢媛陵(ウグイスが元気な声で鳴いていました)
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     48代称徳天皇陵(佐紀高塚古墳)
      (46代孝謙天皇が重祚、45代聖武天皇の皇女、718年~770年)
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 神功皇后は14代仲哀天皇の皇后で、日本書紀には気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、古事記には息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)と記されています。
 神功皇后の父は息長宿禰王、母は葛城高額媛です。系図は父方が9代開化天皇-
彦坐王-山代之大筒木眞若王-迦邇米雷王-息長宿禰王です。
 母方が、天日矛-多遅摩母呂須玖-多遅摩斐泥―多遅摩比那良岐―多遅摩比多訶-葛城高額媛です。
 大臣は武内宿禰、将軍は難波根子建振熊(和珥氏)で、私見ですが仲哀天皇は362年頃に筑紫香椎宮で崩御、神功皇后は363年頃に新羅遠征、帰国後に神功皇后は筑紫で皇子を出産(15代応神天皇)、大和に戻って仲哀天皇妃の大仲津姫の皇子である香坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)と戦争になり神功皇后軍の勝利となりました。
 神功皇后の宮は大和磐余(いわれ)の稚桜宮(わかざくらのみや)です。また、気長足姫は住吉大社と密接な関係にあります。祭神の底筒男命、中筒男命、表筒男命は合わせて住吉三神と呼ばれていますが、それに神功皇后を合わせて住吉大神と総称されています。住吉大神は河内王朝の守護神であり海の神です。応神天皇の八幡神は陸の神です。
 日本書紀の神功皇后39年から43年の条に、魏志倭人伝の倭王(卑弥呼)について触れています。これは、神功皇后が卑弥呼だと言っているのではなく、3世紀の卑弥呼の伝承は抹殺して4世紀の神功皇后伝承のなかに組み入れましたよという暗示だと思います。
 聖徳太子が607年に隋に国書を送って以来、日本は中国と対等の関係を主張してきましたが、記紀が成立した頃の8世紀の大和朝廷は国家意識がすこぶる高揚し、魏に朝貢した卑弥呼が天皇家の先祖であることは隠したかったのでしょう。
 それで、卑弥呼は大和朝廷とは関係ないことにし、しかし事実は後世に伝えなければいけませんから神功皇后伝承に包含し、記紀には神世の天照大神として残したのだと私は考えています。
 卑弥呼は200年頃に女王となり、247年頃に亡くなりましたので、非常に長期間ですから伝承は多いはずです。しかし伝承が多いのは神功皇后ですから、4世紀の伝承は神功皇后、3世紀の伝承と思われるものは卑弥呼のものだと私は考えています。
 私見ですが、卑弥呼の生没年は175年~247年頃、臺與は235年~295年頃、神功皇后は330年~389年頃と見ています。
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by enki-eden | 2013-04-08 12:11

平城宮大極殿

 所在地は奈良市佐紀町。平城宮跡第一次大極殿は、奈良時代に43代元明天皇が都を藤原京から平城京へ遷都した際に建てられた平城宮の中心建物です。和銅3年(710年)に建てられ、45代聖武天皇が天平12年(740年)に恭仁京(くにきょう、京都府木津川市)へ遷都されるまでこの地にありました。天平17年(745年)に都が奈良に戻ってからの大極殿は第二次大極殿と呼んでおり、第一次大極殿の東側にありました。
 平城宮跡の整備は1978年に文化庁が策定した基本構想に基づいて行われています。第一次大極殿の復元は、奈良文化財研究所によって構造・材料等の調査や多くの模型作製などにより研究が積み重ねられました。
 中央の第一次大極殿の周囲は南北320m、東西180mの範囲を築地回廊で囲まれ、この区域は大極殿院と呼ばれています。第一次大極殿は平城宮の正門である朱雀門の真北に位置し、第二次大極殿は第一次大極殿の東に位置し、朱雀門東の壬生門北になります。
 2010年に平城遷都1300年記念事業が実施されました。それに合わせて、平城宮跡に第一次大極殿が竹中工務店により実物大で復元されました。東西44m、南北約19.5m、瓦は10万枚使ったそうです。大極殿中央には復元された高御座(たかみくら)が安置されています。平城宮正門の朱雀門も復元されました。
 平城宮跡は1998年に世界文化遺産に指定されています。発掘調査ができているのは全体の3割ほどで、全部の調査にはあと100年位かかるようです。
     奈良文化財研究所のパンフレット
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     大極殿
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     復元の高御座(たかみくら)
      高御座は大礼の際に天皇の玉座が置かれます。高御座は組み立て式に
      なっていたそうですから、北方遊牧民の習俗に習ったのでしょうか。
      本物は京都御所紫宸殿に安置、春・秋の一般公開時に見ることができます。
      今春の公開は4月4日(木)から4月8日(月)までの5日間です。
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     大棟中央の宝珠形飾りと同じもの(高さ約2m)
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     手摺りに玉飾り
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     南方に朱雀門
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     西方に生駒山を望む
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     平城宮跡資料館のパンフレット
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     平城宮跡資料館展示の隼人の盾
      宮殿警備用。儀式の時は盾と槍を持って門前に整列します。
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     平城宮跡資料館展示の奈良時代の食事
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     平城宮跡資料館展示の奈良時代の書斎と居間
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by enki-eden | 2013-04-07 01:00