古代史探訪

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大神神社の若宮社と活日神社(いくひじんじゃ)

 大神神社(おおみわじんじゃ)の二の鳥居前駐車場に車を停めて、近くの三輪そうめん店で先ず昼食です。「冷やしそうめん」を注文しましたが、やはり三輪そうめんはおいしいですねぇ。大満足です!
 店内にそうめんが入った大きな木箱が並べてありました。180束入っていて、重さは9kg、値段は8,800円です。冬になると「にゅうめん」にすれば良いと思います。

       
       大神神社のパンフレット
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       大神神社二の鳥居
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   参道を進むと左に祓戸神社が鎮座。祭神は祓戸四神(祓戸大神)です。
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   更に進むと左に手水舎の蛇が酒樽の上に鎮座。口から水が出ています。
   酒樽には社紋の三つ杉、横には「志るしの杉」が鎮座。
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拝殿前の注連柱、注連縄は向かって左が元になっています。神体山の三輪山が
大物主神の墳墓(磐座)だからでしょう。
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    大神神社拝殿
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若宮社(大直禰子神社 おおただねこじんじゃ) 
 奈良県桜井市三輪字若宮   大神神社摂社
 祭神:太田田根子命(おおただねこのみこと、大物主神の子孫で大神神社初代祭主)
    配祀:少彦名命、活玉依姫命(大物主神の妃)

 10代祟神天皇の御世(3世紀後半)、天照大神と倭大国魂神を皇居に祀った。すると疫病、争乱により多くの民が死亡した。そのため二神を皇居の外に出して祀った。
 祟神天皇は神浅茅原(かむあさじがはら、現在の桜井市茅原)に八十万(やそよろず)の神をお招きして占いをした。神は倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ、7代孝霊天皇の皇女)に神憑(かみがか)りして、大物主神を祀るようにと言われた。なお後日、天皇が祈っていると大物主神の子・大田田根子に吾を祀らせよと告げられた。
 それで大田田根子を探し求めて、三輪山の麓で大物主神を祀る祭主とし、大神神社の創始となった。私は大田田根子が住んだ所が若宮社の地だと考えています。
 また、高橋邑の活日(いくひ)を、大物主神にたてまつる酒を掌る人とした。活日は後に大神神社摂社の活日神社の祭神(高橋活日命)となる。

   若宮社(大直禰子神社)鳥居
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  鳥居前に「おだまき杉」の古株が鎮座
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  社殿前の「御饌石」(みけいし)
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   社殿(明治の神仏分離までは、三輪明神の神宮寺「大御輪寺」でした。)
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   由緒
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   琴平社(鳥居の右、祭神は大物主神)
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    御誕生所社(祭神は鴨部美良姫命、鳥居の左)
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    御誕生所社ご神体の磐座
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活日神社(いくひじんじゃ)
 奈良県桜井市三輪活日川   大神神社摂社
 祭神:高橋活日命

 高橋邑(現在の天理市)の活日(いくひ)を、大物主神にたてまつる酒を掌る人とした。10代祟神天皇は大田田根子に大物主神を祀らせた。この日、活日は神酒(みき)を天皇に奉り、歌を詠んだ。
        此の神酒は わが神酒ならず 大和成す 大物主の醸(かみ)し神酒 
        幾久(いくひさ) 幾久

  (この酒は私が造った酒ではなく、倭の国を造られた大物主神が醸された神酒です。
   幾世までも久しく栄えよ、栄えよ。)

 祟神天皇も歌われた。
        味酒(うまざけ) 三輪の殿(との)の 朝門(あさと)にも 押し開かね三輪の
        殿門(とのど)を
     
  (一晩中酒宴をして、三輪の社殿の朝の戸を押し開こう。三輪の戸を。)
   「うま酒」は三輪の枕詞

 由来によると、活日命は大和国添上郡高橋邑の人で、酒造りが巧かったので、崇神天皇の8年、大物主神へ奉る神酒の醸造人として召された。その御魂を此の地にお祀りしたものである。
 大神神社の春の大神祭、醸造安全祈願祭(酒まつり)などで4人の巫女が舞う神楽「うま酒みわの舞」が奉納されています。
 奈良は日本酒発祥の地です。活日命は杜氏の先祖と信仰され、新酒の仕込みの前、杜氏さん達が全国からこの神社に参拝し、勤めを終えて郷里へ帰る時、再びお参りをされます。
     由緒
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     鳥居と石段
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     瑞垣と社殿
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     社殿(千木は垂直切り、鰹木は3本、注連縄は左が元)
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by enki-eden | 2013-05-31 00:52

茅原大墓(ちはらおおはか)古墳

 奈良県桜井市茅原(ちわら)722
 4世紀末から5世紀初めに築造された帆立貝式前方後円墳で、全長86m、高さ8m、後円部は径72mの3段、前方部は2段になっています。1982年に国史跡に指定されました。
 2011年2月、桜井市教育委員会は茅原大墓古墳から国内最古の人物埴輪が出土したと発表しました。2012年2月には、前方部の角で墳丘と外堤を結ぶ渡り堤が確認されたと発表しました。
 地元では倭佐保姫陵として伝えられています。被葬者は三輪山麓の豪族か、箸墓古墳の倭迹迹日百襲姫の子孫かもしれません。


 ここには駐車場がありませんし道路が狭いですから、ホケノ山古墳の駐車場に車を停めて歩いて行きました。約550mの徒歩です。
 北側に前方部の張り出し、東側は民家が一部食い込んでいます。
       北側から撮影(画面右に大神神社の大鳥居が見えます。)
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       桜井市教育委員会の説明板
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      墳頂に登り、東に三輪山を望む。
 
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       西南に耳成山と畝傍山を望む。その向こうは葛城山と金剛山。
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 斜面には葺石があり、壷形埴輪、円筒埴輪列、盾持人埴輪(たてもちびとはにわ、古墳を守る武人、高さ67cm以上、幅50cm)、水鳥形埴輪、埴輪棺(前方部で出土)などが出土しています。盾持人埴輪は、墳丘東側のくびれ部付近で出土しました。
 桜井市教育委員会によると、『茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部で3世紀代から続く大型古墳の系列の最後に位置付けられます。この地域では、それ以前は200m以上の巨大前方後円墳が築造されてきましたが、4世紀後半以降になるとそうした巨大古墳は築造されなくなり、かわって奈良盆地北部や河内地域において集中して築造されるようになります。
 これは当時の政権内における勢力変動を反映しているとされており、この時期になると奈良盆地東南部の勢力は衰退し、盆地北部や河内地域を根拠とする勢力がより強大になったと考えることができます。
 帆立貝式古墳とよばれる古墳の形態は、茅原大墓古墳と同じ4世紀末頃より多く見られるようになりますが、これは前方後円墳を築造することが規制された結果、創出されたものという考え方があります。』と説明しています。
 纒向古墳群では3世紀前半に帆立貝式前方後円墳が出現しましたが、その後も各地で造り続けられています。3世紀後半、10代祟神天皇の時代に大型の定形式前方後円墳が築造され古墳時代に入っていきますが、それ以前に大和に定着していた地元の豪族が帆立貝式に固執したのか、或いは身分規制により大型の前方後円墳を造れなかったのかもしれません。
 古墳から350mほど南へ行くと道路の西側に富士神社・厳島神社が鎮座、道路の東側に神御前神社(かみのごぜんじんじゃ)が鎮座しています。
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by enki-eden | 2013-05-28 13:41

「たたら製鉄再現」の続き

 先週の日曜日(5月19日)、兵庫県立考古博物館の野外で「たたら製鉄再現」がありましたので、ご紹介しましたが、途中で雨のために中止となりました。本日(5月26日)再度「たたら製鉄」が行われました。
      大中遺跡公園の案内図
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 1時間ほど炉を空焚きして1000度以上に温度を上げますと猛烈な炎が出ます。 
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 木炭と砂鉄を交互に投入します。
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 全部で木炭を6800g、砂鉄を2250g投入しました。
 取り出し口のフタを外してノロ(不純物)を取り出します。
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 さていよいよケラ(鉄の塊)出しですが、取り出し口が塞がってしまったので
炉を壊してケラを取り出します。
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 250gのケラと700gのノロができました。

 ケラの中でも上等の鉄は玉鋼(たまはがね)といって刀を作るのに使います。
  玉鋼の見本(小さいですが持つと大変重いです。色は白っぽいです。)
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by enki-eden | 2013-05-26 18:10

蹈鞴(たたら)製鉄②

日本書紀の神代下
 瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向の吾田国(あたのくに)に降臨、その国に美人がいた。名を鹿葦津姫(かしつひめ)またの名を木花開耶姫(このはなさくやひめ)ともいう。大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘である。
 皇孫(瓊々杵尊)は大山祇神に木花開耶姫を妻に欲しいと言う。大山祇神は木花開耶姫と姉の磐長姫の二人を奉る。皇孫は磐長姫が醜いので返し、木花開耶姫と交合した。すると一夜で妊娠した。皇孫は、わが子ではないのであるまいかと疑う。
 木花開耶姫は怒り、戸のない塗籠(ぬりこ)めのへやを作って、「この子がもし他の神の子ならば、きっと不幸になるでしょう。本当に天孫の子だったら、きっと無事で生まれるでしょう。」と言って、その室に入って火を点けて室を焼いた。炎がはじめて出た時に生まれた子を火酢芹命(ほすせりのみこと)、次に火の盛んな時に生まれた子を火明命(ほあかりのみこと)と名付けた。次に生まれた子を彦火火出見尊という。

 
 木花開耶姫が粘土で塗り固めた炉に砂鉄と木炭を交互に入れ、点火して鉄を造りました。出来の悪い鉄であれば(天孫瓊々杵の子でなければ)、それは捨てられるでしょう。しかし、出来上がった鉄は良質なものでした。(良質な鉄=天孫瓊々杵の子、マレビト)
 「良い鉄」は「天津神の子」、「品質のあまり良くない鉄」は「国津神の子」、「失敗作の悪い鉄」は「蛭子」と表現するのです。

 蛭子が生まれたので舟に乗せて川に流す話がありますが、これは失敗作の鉄を捨てる事を言っています。

 製鉄を出産に例えるように、「鉄」を「稲」に例えることもあります。砂鉄を「種」とも言いますので、「種」から生まれる「鉄」を「稲」に例えるのです。
 「稲」「穂」は農業関連と思いがちですが、「鉄」「火」であり、古代では製鉄関連の言葉です。
 旧暦の11月8日には、全国の鍛冶屋、刀工、鋳物師などが荷神社に参拝し、「鞴(ふいご)祭り」を行いました。京都伏見荷大社では「火焚祭(ひたきさい)」として今に残っています。
 鞴祭りの解説では、「もともと農耕の神、食物の神とされていた稲荷が、火の神とされたのは、穀物を調理するための火の神に転じ、火に関係する職業の守護神となっていったと考えられます。」とありますが、どうでしょうかねぇ・・ 私には逆に見えますがねぇ・・
 イナリはもともと製鉄・火の神ではないでしょうか。稲荷と書きますから、稲の連想で農業の神にもなっていったと私は見ています。伏見稲荷大社を創建し全国に広めた秦氏は、農耕・土木・製鉄・養蚕・機織・紙すき・製塩などの技術に優れた部族でした。

 「稲」と関係あるかどうかは私には分かりませんが、「イナ」は鉄(砂鉄)のことです。出雲の国譲りで有名な伊那佐の浜(佐の浜)には砂鉄が多く含まれています。砂鉄の多い浜の色は、当然ですが黒っぽいです。
 日本は火山列島ですから砂鉄が多いのです。日本海沿岸・静岡・房総半島・北海道など日本中で取れます。九州でも全県に砂鉄の浜が多く、例えば国東半島東部の富来から奈多にいたる海岸の砂浜あるいは海底の砂に含まれています。
 中国山地の砂鉄は火山の噴火によるよりも、花崗岩の磁鉄鉱が風化侵食されてできた山砂鉄のようです。中国山地北の出雲や南の吉備で製鉄が盛んな原因になっています。現在でも日本刀など、蹈鞴製鉄によって造られる玉鋼(たまはがね)の材料に砂鉄は欠かせません。太平洋側よりも日本海側の砂鉄(特に出雲地方の砂鉄)の方が良質のようです。吉備の枕詞は「真金吹く(まがねふく)」と言うくらいに製鉄が盛んでした。
   真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の音のさやけさ
 
 姫蹈鞴五十姫は製鉄族の出身で初代神武天皇の皇后になります。妹は五十依姫で2代綏靖天皇の皇后になります。
 弥生時代では、経済・軍事・祭祀の基盤を安定させるために銅・鉄・辰砂など金属類を採掘・加工して武器・農具・祭器・交易品などを作りました。王族も豪族も金属を扱うのが必須だったことでしょう。
 素戔嗚の長男・八島士奴美と、大山祗の娘・木花知流姫の子に「布波能母遅久奴須奴 ふわのもじくぬすぬ」がいます。「久奴須奴」について諸説は多いですが、製鉄関係の部族で蹈鞴と関係が深いですから、砂鉄との関係があると思います。
 私見ですが、魏志倭人伝の諸国名列挙のなかに、「華奴蘇奴国」がありますが、「久奴須奴」のことではないでしょうか。布波能母遅久奴須奴は華奴蘇奴国の王だったのでしょうか。他にも「蘇奴国」「姐奴国」が記されていますが、華奴蘇奴国の位置は大山祗関連で見れば北九州市あたりではないでしょうか。北九州は砂鉄の産地でした。「母遅」が「門司」であれば完璧ですが、地名の門司は辞典で調べますと「古代からの地名、豊前国企救郡に属した地、古代に大宰府の関門海峡の押さえとしての関所」とありますので、関門海峡と製鉄を支配していた王かもしれません。布波能母遅久奴須奴は初代神武天皇とほぼ同世代ですから、神武東遷に従った可能性はあります。
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by enki-eden | 2013-05-25 09:24

蹈鞴(たたら)製鉄①

 鉄分の多い水辺で育った葦・稲・薦(こも)・茅(かや)の茎周りには、鉄分が徐々に固まって筒状のスズができる。スズ(鈴)は褐鉄鉱ですから鉄の原料となります。砂鉄よりも低い温度(900度)で還元でき、砂鉄に比べると品質は悪いですが、野蹈鞴でも鉄を作る事ができるというメリットがあります。用途は限られ、矢じりなどに使われます。
 野蹈鞴(野焼き、露天蹈鞴)を行なうには、スズの付いた水辺の葦などを引き抜いて山積みにします。乾燥してから火をつけて燃やす。そうすると葦は灰になり、茎についていた鉄分が残される。または、葦の茎についた鉄分の塊りを取り、蹈鞴で鉄をつくる。
 水辺の葦などを引き抜いて山積みにすることから、「山」の枕詞は「あしびきの」になりました。
    あしびきの 山鳥(やまどり)の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む 
       柿本人麿
 
 日本列島は火山噴火による砂鉄(磁鉄鉱)が多いですから、山・川・浜の砂鉄を鉄穴流し(かんなながし)で採取し、炉の中に木炭と砂鉄を交互に入れ、火をつけて密封し炉内を高温にします。そして、ふいご(吹子、鞴)を使って炉の内部に風を送り込み、温度をより高くして酸化還元のスピードを早めます。木炭に酸化鉄の酸素を化合させて鉄を作り出すのです。

 古代において、「蹈鞴製鉄」は「子を出産する」話として記される場合があります。蹈鞴製鉄で「鉄を取り出す作業」が「出産の場面」として描かれているのです。取り出された「鉄」が「子」です。できた鉄が、「良い鉄」であれば「天津神の子」、「あまり良くない鉄」であれば「国津神の子」、「失敗作の悪い鉄」であれば「蛭子」と表現されています。蛭子は舟に乗せて川に流されますので、失敗作の悪い鉄や鉄滓は「金糞」と呼ばれて捨てられるのです。

 日本書紀神代上の「国生み」
 製鉄と出産の関わりでは、「子」だけでなく「国」も生みます。
 伊弉諾尊と伊弉冉尊が国土を生もうとされた。そこで陰陽が初めて交合して夫婦となった。子が生まれるときに、まず淡路洲が第一番に生まれたが、不満足な出来であった。それから大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)を生んだ。次に伊予の二名洲(四国)、次に筑紫洲(九州)、次に億岐洲と佐度洲を双児に生んだ。次に越洲(北陸)、次に大洲(山口県大島)、次に吉備子洲(児島半島)を生んだ。これによって初めて大八洲国(おおやしまのくに)の名ができた。
 次に風の神、倉稲魂命、海の神(少童命 わたつみ)、山の神(山祇 やまつみ)、海峡の神(速秋津日命 はやあきつひ)、木の神(句句廼馳 くくのち)、土の神(埴安神 はにやすのかみ)、そして後に万物が生まれた。
 火の神(軻遇突智 かぐつち)が生まれるとき、伊弉冉尊は身を焼かれておかくれになった。伊弉諾尊は長い剣で軻遇突智を切って三つに断たれた。すると多くの神々が次々に生まれてきた。

 
 これは蹈鞴の使用を通じて広域統合の始まりを意味します。伊弉諾尊と伊弉冉尊が国生み(国の建設・統合支配)を行い、蹈鞴製鉄を全国に広めました。火の神・軻遇突智の後に生まれてきた多くの神々は製鉄・金属加工の神々です。製鉄・加工を生業とする職人を育てたのでしょう。この倭国統合には素戔嗚・五十猛・饒速日・大己貴(大国主)・少彦名など出雲系の協力が必要でした。
 2世紀後半の倭国乱により、伊弉諾尊は淡路島の津名郡一宮に隠遁し、ここで亡くなりました。一宮の北東10kmにある淡路市黒谷の弥生時代後期の竪穴式住居跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」が、国内最大規模の鉄器製造群落と確認されています。
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by enki-eden | 2013-05-23 00:21

たたら製鉄の再現

 5月19日(日)10時より、兵庫県立考古博物館の野外で古代の「たたら製鉄」の再現が行われました。
 4個の練炭火鉢の底を抜いて重ね、炉を造ります。底の方に送風用のパイプを取り付け、中間部分には炉内温度を測るためのパイプが付いています。
 ユミギリ(弓錐)式で火を起こし、麻ひもをほぐした繊維に火を点けて炉に入れる。次に木炭を小さく砕いて炉に入れると、ふいごの代わりに送風機で風を送る。すると煙と火の子が噴出してきます。
 1時間ほど木炭を入れて送風すると、炉内の温度が1300度に上がり、炉の中に木炭と砂鉄を交互に入れます。3時間ほどすると鉄のケラ(塊)ができあがります。
       イベントの説明
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    炉とふいご
     炉は練炭火鉢の底を抜いて4つ重ねます。一番下にふいごの風を送るパイプが
     付いています。中間部に二つあるパイプは温度計を入れるためにあります。
     ふいごは小さな電気送風機で代用します。
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       古代のユミギリ(弓錐)式で火を起こし、火種を得る。
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       麻ひもをほぐした繊維に火種で火を点け、炉に入れる。
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       木炭を入れて燃やす。
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       炉の温度がどんどん上がっていく。
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     温度計をパイプから入れて測る。
      ここで雨が降り出し、中止になりました。このあとに砂鉄と木炭を
      交互に入れて、ケラ(鉄の塊)を造り、取り出す予定でした。
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     上がケラ(鉄の塊)で、下がノロ(炉の底にたまった不純物)
      前回の実験の生産効率は砂鉄1.6kgと木炭3.5kgで取れる鉄は
      400gだったそうです(効率25%)。多いときで効率は50%ほどらしいです。
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     古代では、砂鉄を砂から分離するには「鉄穴流し かんなながし」で
     取り出していました。樋の上部に砂を置き、水で下に流す。砂鉄と砂の
     比重差により分離できる。実際はもっと大掛かりなものです。
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       鉄穴流しで取り出した真っ黒な砂鉄
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 淡路市教育委員会の方々も来られていまして、五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)の鍛冶工房の説明をしてくださいました。
 1世紀から2世紀にかけて百数十年間も工房が営まれていたそうです。生産物は主に武器で、鉄鏃(やじり)が多いようです。鉄鏃の造り方を実演してくださいました。
       ふいごで風を送り、火の温度を上げる。
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       釘を火の中に入れる。
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       この火で熱した釘を石で叩いて平たくする。
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       水につけて冷ます。
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       それを砥石で磨いて鏃を造る。
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 次回から2回に分けて、記紀における「蹈鞴製鉄」と「国生みと出産」の関わりについて
お話します。
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by enki-eden | 2013-05-20 00:00

廣田神社(西宮)

 兵庫県西宮市大社町7‐7   電話:0798-74-3489 無料駐車場あります。
 主祭神: 天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)
     (つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)
 脇殿:第一脇殿 住吉大神、 第二脇殿 八幡大神、
    第三脇殿 諏訪健御名方大神、 第四脇殿 高皇産霊大神。
 社殿は美しく豪壮な神明造り(本殿は伊勢神宮遷宮時に譲渡を受けた)、
 創建は神功皇后2年、皇后の命により山背根子の娘・葉山媛が祀る。

 神功皇后が新羅遠征(363年)の帰り道、難波の海で船が海上を回って進むことができなくなった。そのため、武庫川の河口のあたりに向かい、皇后は神に祈りを捧げた。すると、「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない、広田国の地に置くのがよい」と。そこで、天照大神の荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)を山背根子の娘・葉山媛に祀らせたという。(364年頃)
 勝運、開運、厄除の神で、毎年阪神タイガースが必勝祈願に参拝する。当地から見て平安京は北東(寅の方角)にあるので、平安京を鎮護するために当神社では虎が祀られるようになったという。
 私見ですが、神功皇后の生年は330年頃で363年頃に摂政となり、389年頃に崩御。

   今日までは かくて暮らしつ 行末を 恵みひろたの 神に任せん
                  (藤原頼実 1155年~1225年)
     
   をしなぺて 心広田の 神ならば かヽるうき身を 恵まさらめや
        (二条院三河内侍  にじょういんのみかわのないし)

     赤のアイコンが廣田神社、黄が甲山

  境内から遠方に甲山(309m)を望む。
  神功皇后が国家平安のため山頂に兜を奉納したと言う伝承があるが、
  山頂からは昭和49年に銅戈(どうか)が出土している。
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  大鳥居
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  第一の神門
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  第二の神門
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神門を進み、右に曲がると拝殿ですが、途中に「ご神水」の湧き水があります。
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  拝殿
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  拝殿から本殿を望む
  伊勢神宮の荒祭宮(あらまつりのみや)旧社殿を1956年に移築したもの。
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  拝殿両側に翼殿があり、向かって右に第一脇殿、第二脇殿の遥拝所。
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  左に第三脇殿、第四脇殿の遥拝所がある。
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  拝殿左に伊和志豆神社(いわしずじんじゃ)
  祭神は伊和志豆大神。9代開化天皇の皇子・日子坐王の可能性がある。
  ヒコイマスノキミは神功皇后の4代前の先祖である。日子坐王は近江に移住し
  息長氏と組む。妃は息長水依比売で子は丹波道主王(丹波将軍)、孫は
  日葉酢姫で11代垂仁天皇皇后。
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伊和志豆神社の横に五社(八坂神社、子安神社、春日神社、地神社、稲荷神社)
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  松尾神社(祭神:大山咋命)
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  拝殿に向かって右側に斎殿神社(ときどのじんじゃ)
  天照大神の荒魂を祀った葉山媛を祀る。
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  境内の看板(4世紀頃の古代の入り江は当神社の近くまできていた。)
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by enki-eden | 2013-05-18 00:15

穂蓼八幡神社(ほたてはちまんじんじゃ)

(大蔵八幡神社)
 兵庫県明石市大蔵八幡町2571‐1
 祭神:鴨部大神(越智益躬)
    息長足姫命(神功皇后)、玉依姫命、応神天皇。

 33代推古天皇の時代(592年~628年)、新羅より鉄人が来襲した。朝廷から討伐を命じられた伊予国の小千(越智)益躬(ますみ)は、大山祇神に祈ったところ、鉄人が明石浦で休憩した時に稲妻とともに大山祇神が現れ、鉄人の弱点である足の裏を射よとお告げがあった。益躬が鉄人を矢で射殺できたので、益躬は大山祇神に感謝して伊予三嶋大明神を勧請したのが稲爪神社である。
 そして子孫が小千益躬を祀った神社が大蔵八幡神社である。地名も大蔵八幡町となっている。


       入口の鳥居
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       説明板
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       拝殿
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       本殿
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by enki-eden | 2013-05-15 00:07

稲爪神社(いなづめじんじゃ)と休天神社(やすみてんじんしゃ)

 稲爪神社
 兵庫県明石市大蔵本町6‐10   電:078-911‐3143  駐車場あります。
 祭神:大山祇神(おおやまつみのかみ、神世7代目伊弉諾尊の子)、
    面足神(おもだるのかみ、神世6代目)、惶根命(かしこねのかみ、面足神の妃)。
 合祀:伊和津比売大神(宍粟市・伊和神社の伊和大神の比売神)、
    宇留命、奥津日古命、奥津比売命。

 神紋は「折敷に三文字紋」で、愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社の神紋「折敷に縮三文字」とほぼ同じです。大山祇神社の注連縄は向かって左が元になっています。稲爪神社は通常通りに右が元です。

 神社の由来
 33代推古天皇の時代(592年~628年)に不死身の鉄人を大将とした新羅の軍勢が日本に攻めてきたが、九州では退治できなかった。
 四国伊予の国司、小千益躬(おちのますみ、伊予河野氏祖先)が退治せよという命令を受け、一族の守り神・三嶋大明神(愛媛県大三島の大山祇神社)に祈ると、神が現れ「鉄人の弱みは、鎧兜で守られていない足の裏だから、これを矢で射よ」と言われた。
 益躬は、明石の浦で鉄人達が休息をした時、空が突然曇り、稲妻がおき、おどろいた馬から鉄人が落ち、足の裏を見せた。益躬は弓矢で足裏を射て鉄人達は滅んだ。
 この矢を「鬼ざしの矢」という。益躬は、神の現れたこの地へお社を建て、守護神三嶋大明神を奉って「稲妻神社」と名づけ、後に社名は稲爪神社と変わった。
 稲爪神社から東に800mの大蔵八幡町の八幡神社に稲爪神社創建者の小千益射が祀られている。
     赤のアイコンが稲爪神社、青が休天神社、黄が八幡神社


         神門
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     神門に左甚五郎作の彫刻が有り、素盞嗚大神の大蛇退治の彫刻です。
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       手洗舎の亀
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       拝殿(神紋が見えます)
       拝殿前には、「鬼ざしの矢」が立てられています。
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拝殿内にも20本の矢が見えます。拝殿内の矢と牛はお祭りの時に使われるようです。
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       本殿
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     本殿の東に稲爪浜恵比須神社(祭神:事代主神)
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     稲爪浜恵比須神社の扁額
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     稲爪浜恵比須神社の本殿
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     境内社の猿田彦神社と稲荷社
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     国道側の入口
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休天神社
 稲爪神社の北向かいに休天神社が鎮座。 兵庫県明石市大蔵天神町8‐2511
 祭神は菅原道真公。 菅公聖蹟二十五拝・第15番。
 右大臣の道真が大宰府へ権帥として左遷され、京都から大宰府への旅の途中に
 明石で休息を取りました。
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     境内には菅公が腰をかけて休んだという「菅公踞石」
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     稲爪神社南の大蔵海岸から明石海峡大橋がよく見えます。
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by enki-eden | 2013-05-14 00:15

伊和大神と天日槍(あめのひぼこ)

 兵庫県立考古博物館 特別講演会  京都大学名誉教授 上田正昭(86才)
 上田先生は京都府亀岡市の小幡神社の宮司(上田家に養子)でもあります。
 2013年5月11日(土)1時半より上田先生の講演を拝聴しました。上田先生は4月の終わり頃から体調を崩され、5月10日に営まれた出雲大社本殿遷座祭も欠席されましたが、何とか当講演に駆けつけてくださいました。
 出雲大社は60年に1度の本殿修復工事で「よみがえり」ます。伊勢神宮は20年毎に社殿を造り替える式年遷宮で「若返り」ます(常若 とこわか)。 今年は62回目の式年遷宮です。
       兵庫県立考古博物館(北側から撮りました)
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       播磨国風土記展示会
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       講演される上田先生
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 和銅6年(713年)に官命により、日本最古の地誌「風土記」の編纂が始まります。下記の事項を記した報告書を提出せよと命じられました。
  ①好字(良い字)を用いて郡・郷の名を記す
  ②銀・銅・染料・草・木・鳥・獣・魚・虫などの物産(金は入っていない)
  ③土地の肥沃さ
  ④山・川・原・野などの地名の由来
  ⑤古老に相伝されている旧聞・異事
 現在我々が読むことのできるのは出雲国、常陸国、播磨間、豊後国、肥前国のわずか5ヵ国の風土記にすぎない。この内、完本で残っているのは出雲国風土記だけである。
 播磨国風土記が最も早くに提出され(715年頃か)、内容も上記の5か条が忠実に記載された形になっている。土地の肥沃さについては上中下を用いて上の上から下の下までの9段階でほとんどの里を評価している。また、伝承も神話・伝説・昔話・世間話・笑い話など多くが記されている。ただし、明石郡と赤穂郡の写本が残っていない。
 「風土記」という言葉は日本では奈良時代には使っておらず、平安時代から使用しだした。
 三種の神器(剣・勾玉・鏡)を天皇が身に着けている表記は播磨国風土記と日本書紀だけである。

 宍禾郡(しさはのこおり、宍粟郡)の条に、大汝命(大己貴命)と小比古尼命(少彦名命)が競争をした。大汝命は「糞をがまんして遠くまで行く」と、小比古尼命は「重い埴の荷を背負って遠くまで行く」と。数日後、大汝命は我慢できず糞をした。小比古尼命は重い荷を下ろした。それで、その地を埴岡と号く。(神前郡埴岡里) 「笑い話」である。
 播磨国風土記では、伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神・大国主の別称)は同神としているが、大国主を祖と仰ぐ出雲の人々が播磨に移住して、地元の伊和君(いわのきみ)が祀る伊和大神と習合したのであろう。伊和大神は宍粟市の伊和神社に祀られる。
 播磨国風土記には、伊和大神が先に播磨にいたが、後からやって来た天日槍と国争いになり、非常に激しいものとして描かれている。争いを収めたのは、山頂から黒葛(くろかずら)を投げるという神占で、古代の争いを収める方法の一つだったのか。

 天日槍(あめのひぼこ)は新羅の王子で、古事記には14代応神天皇の時代、日本書紀には11代垂仁天皇の時代と記されている。上田説では、天日槍には須恵器職人が従者として来ているので、応神天皇の頃(5世紀)にやって来たとする。
 天日槍は逃げた妻を追って、新羅から大分県の姫島へ、そして総社市の姫社神社へ、それから摂津国へと移っている。そして播磨まで来て伊和大神と争いになる。
 天日槍は但馬国に落ち着き、豊岡の円山川流域を開拓した。亡くなって、出石神社(いずしじんじゃ)に祀られた。

 天ノ日矛はアメノヒボコと読めるが、天日槍はそうは読みにくい。昔、学生が上田先生に「アメノヒヤリ」について質問に来たそうです。よく聴いてみると「アメノヒボコ」のことだったので、先生はひやりとしたそうです。

 播磨国は交流の十字路になっており、東は河内・大和、西は吉備・安芸、北は日本海、南は瀬戸内の交流の中心地で、海外とも繋がっている。また、播磨と出雲は密接に繋がっている。都の大和と出雲を結ぶ官道があり、国造(くにのみやつこ)が都へのぼったり、国司が赴任する道の中間点の要衝地が播磨である。
 播磨国風土記には天皇に関する記述が多い。応神、仁徳、景行、欽明、成務、雄略、
安閑、推古、孝徳、天智天皇の記述がある。
 移住してきた人の記述もあります。讃岐、但馬、伊予、筑紫、隠岐、出雲、伯耆、因幡、
河内、大和、宇治、石見、日向など。
 渡来人の記述も多い。韓人、新羅人、漢人(伽耶)など。
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by enki-eden | 2013-05-12 00:12