古代史探訪

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<   2013年 06月 ( 13 )   > この月の画像一覧

柿本神社(かきのもとじんじゃ、人丸神社)

 兵庫県明石市人丸町1-26   電:078‐911‐3930   無料駐車場あります。
 祭神:柿本人麿朝臣(三十六歌仙の一人、後世では柿本人丸と呼ばれている。)
 創建は仁和3年(887年)、地元では人丸神社、人丸さんとも言われています。

 東経135度の人丸山に鎮座、中央標準時に因み明石市立天文科学館が神社の山門前にあります。
 神社の由来によりますと、「主なご神徳は、学問・安産・火災除。更には人麿公の妻に捧げた歌も多くあり、非常に愛妻家であったことがうかがえる為、夫婦和合の神としてもお祀り致しております。御命日とされる旧暦3月18日(現在では4月の第2日曜日)には、本神輿に子供会の神輿も加わり、計5基のお神輿が練り歩き、境内は多いに賑わいます。」とあります。

 万葉歌人として有名で飛鳥時代に活躍した柿本人麿は、赴任していた石見国(島根県)で亡くなりました。41代持統天皇時代に特に活躍し、山部赤人と共に歌聖と呼ばれています。
 柿本氏は和珥氏・春日氏の一族で、柿本人麿は660年頃出生、720年頃没。柿本人麿の墳墓については、7月に和爾下神社(わにしたじんじゃ)を取り上げる時に写真を掲載する予定です。

    天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば
    明石の門(と)より 大和島見ゆ   (万葉集3-255)


    あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
                          (拾遺集778)


     東参道の鳥居(階段は90段ほどありました。)
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     西参道の鳥居と亀の水
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     山門と日時計
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     山門から明石海峡を望む(明石海峡大橋と淡路島が見えます。)
       銀色の屋根は天文科学館のプラネタリウムのドーム。
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     手水舎の亀
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     亀の碑(人麿顕彰碑)
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     拝殿
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     本殿(千木は外切り、鰹木は4本)
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     境内社の五社稲荷神社(稲荷大神)
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     境内社の天神社(菅原道真公)と三宝荒神社(竈神)
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     東経135度線上の天文科学館
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by enki-eden | 2013-06-30 00:03

岩屋神社(兵庫県明石市)

(岩屋恵比寿) 1月9日~11日は「十日えびす」で賑わいます。
 兵庫県明石市材木町8-10   電:078-911-3247
 祭神: 伊弉諾尊
  配祀:伊弉冊尊、大日孁尊(おおひるめのみこと)、月読尊、蛭子尊、素盞嗚尊

 神社の由緒によると、13代成務天皇時代(4世紀前半)に勅命により、淡路島石屋神社(いわやじんじゃ)の分霊を明石岩屋神社に遷して創建された。
 明石浦の名主(前浜六人衆)が新しい舟を仕立てて淡路から神霊を遷す際、海が大変荒れて舟を明石浦の浜に着けることができず、西方の松江海岸沖の赤石(あかいし、明石の名の起源)へ舟を着け、海難防止と豊漁を祈った。明け方には海も静まり、現在の地に無事神霊をお迎えすることが出来たが、このとき地元の住民が沖まで泳いで出迎え、「ご神体と一緒に乗船するのは畏れ多い」と泳ぎながら舟を押して岩屋の地に着いたという。
 稲爪神社、海神社と並んで東播磨地域の古社として人々の厚い崇敬を受けた。特に明石城の産土神として尊ばれ、例年藩主自らが参拝する神社の一つであった。
 毎年7月第3日曜日に、祭神を淡路島石屋神社から勧請した際の様子を再現した夏大祭(オシャタカ舟神事)が行われている。宮司を先頭に神社を出発して、天狗(猿田彦)に引き続き、明石浦の漁協青年団の氏子がおしゃたか舟(全長約2m弱)を海岸へ運ぶ。祭神6柱の御座船のお供である「おしゃたか舟」9隻を海上に浮かべ、立ち泳ぎで頭上高く持ち上げ「オシャタカー!」(よくおいでくださいました)と唱えつつ前方に投げ出して渡御祭を行う。宮司が赤石で宝剣を献上する儀式を行い、海難防止と豊漁を祈願する。昭和50年に明石市の無形民俗文化財に指定された。

 地図(赤いアイコンが岩屋神社、黄が赤石) 東松江川の沖130m
      明石市の調査によると「赤石」の正体は黒御影石ですが、
      赤く変色した理由は分からない。


     注連柱
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     恵比寿像
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     指定文化財説明
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     手水舎の竜
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     拝殿
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     神紋
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     拝殿内
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     本殿(千木は垂直切り、鰹木は5本)
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     本殿裏の遥拝所(諸願成就 開運招福)
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     境内社 右から弓洲恵神社(武道の神様)、住吉神社、八幡神社、
           竈神社、粟島神社、水分神社、隋神社(門の神様)
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     稲荷社
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 燈籠、常夜灯に盃状穴があり、昭和の代まで宮司が、灯明油といぐさの芯で
 火を点けておられたそうです。
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 オシャタカ舟神事の時は、この道を通り前の海へ行列します。
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 海岸からは淡路島、明石海峡大橋が見えます。
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by enki-eden | 2013-06-27 00:11

大祓え 夏越の祭

 日々の暮らしの中で犯した罪、穢(けがれ)を祓い清め、無病息災を祈る神事を「大祓(おおはらえ)」といいます。毎年6月と12月の2回、月末に行われます。6月の大祓を「夏越(なごし)の祓」、12月の大祓を「年越の祓」といいます。
 大祓では人形(ひとがた、紙を人の形に切り抜いたもの)に名前と年齢を書き、体を撫で息を吹きかけます。そうすることにより自分の罪・穢れを人形に託し、人形を海や川に流すことで我が身の代わりに清めてもらいます。
 多くの神社では拝殿の前などに茅(かや)で作った大きな輪を設け、それを3回くぐることで疫病や罪・穢れを祓う「茅の輪(ちのわ)神事」が行われます。これは備後国風土記逸文に、善行をした蘇民将来(そみんしょうらい)が素戔嗚尊(すさのおのみこと)から「もしも疫病が流行したら、悪疫除去のしるしとして、茅の輪を腰につけると免れることができる」といわれ、茅の輪を疫病除けのしるしとした伝承に由来します。

   水無月の 夏越の祓 する人は 千歳(ちとせ)の命 延(の)ぶというなり 
            拾遺和歌集 292番 「よみ人知らず」

   風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
           小倉百人一首 98番 藤原家隆(1158年~1237年)

 次の日曜日は6月30日で夏越の祭ですから、一度経験されてはいかがでしょうか。
 詳しくは1月30日投稿の「大祓い」をご参照ください。
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by enki-eden | 2013-06-24 13:40

住吉神社(兵庫県明石市)

 兵庫県明石市魚住町中尾1031   電:078‐946‐0417  無料駐車場あります。
 21代雄略天皇の8年(西暦464年)創建、西海英延宮司。
 祭神:第一本殿 底筒男命
    第二本殿 中筒男命
    第三本殿 表筒男命  この三柱の神を住吉三神または住吉大神という。
    第四本殿 息長足姫命(神功皇后)
     大阪の住吉大社では神功皇后を含めて住吉大神という。

 境内社
  八幡社(応神天皇)、 高良社(武内宿禰)、 大海社(大綿津見命、小綿津見命)、
  厳島社(市杵島姫命)、 稲荷社(稲倉魂命)、 神明社(天照大神・豊受大神)、
  粟島社(大己貴命・少彦名命)、天満社(菅原道真)、竈神社(奥津彦命・奥津姫命)


       
     住吉神社由緒
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     海岸からの鳥居
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     山門
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     楼門(二階づくりの門で豪壮、明石市指定文化財)
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     手水舎の兎
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     能舞台(うしろは楼門)
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     東からの門(奥は拝殿、右は社務所)
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     北の鳥居
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     拝殿
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     拝殿内
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     拝殿内の和船模型(正確な模型である)
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     拝殿内の絵馬(京都競馬の図)
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   本殿、向こうから順に第一殿、第二殿、第三殿、第四殿
          (四殿は神功皇后で千木は水平切り)
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     境内社(本殿右の応神天皇八幡社)
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     境内社(本殿左、手前から武内宿祢高良社、稲荷社、神明社)
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     境内社(本殿裏、左から大海社、粟島社、天満社、竈社)
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     絵馬
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   神木の槇(樹皮は白っぽい褐色で、細かく薄く縦長にはがれる)及び
   神木の「祓除(はらい)の藤」は野田藤(樹齢150年、紫)
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     白藤(5月13日の参拝でしたから藤が観賞できました。)
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 神功皇后が新羅遠征(363年)の帰路、播磨灘で暴風雨にあった際、当地に上陸し住吉大神に祈願したところ風雨はたちどころに治まったという伝承があります。その際に皇后の衣を松の枝に掛けて干したところ風になびき錦のように美しく見えたことから、前の海を「錦ヶ浦」と呼ぶようになりました。
 また、大阪の住吉大社と摂津の住吉神社の伝承によりますと、住吉大神が「播磨国に移り住みたいので藤の枝の流れ着く所に祀れ。」と神託を出されたので、藤の枝を海に浮かべると魚住に流れ着いた。そこで、21代雄略天皇の8年(464年)に当地に住吉大神を勧請したのが当社の創建になっています。神功皇后が遠征の帰路に魚住へ上陸してから100年ほど後のことです。
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by enki-eden | 2013-06-23 00:01

最古の木製仮面

 桜井市立埋蔵文化財センター(電:0744‐42‐6005)にて「発掘調査速報展、50センチ下の桜井」と題して出土物の展示が開かれています。大神神社の大鳥居の100mほど北にあります。昨年の発掘調査成果の紹介になっています。
 昨年度の調査では、13ヶ所の遺跡を発掘されたそうですが、大福遺跡で弥生時代の環濠が確認され、纏向遺跡で4世紀代の溝が見つかったことなど、50センチ下に広がる世界を見ることができます。
 桜井市の西部にある大福遺跡は弥生時代中期から後期の遺跡ですが、今回は古墳時代前期と奈良時代の井戸や条坊道路の側溝が見つかりました。
 纏向遺跡は奈良盆地の東南部、桜井市の北部にある遺跡で、北隣りの天理市にまで広がっている可能性があります。3世紀から4世紀にかけて栄えた集落ですが、他の遺跡と違うのは大和以外の地域から運ばれた土器が多いことと、最も古い時期の古墳が存在することです。
 戒重遺跡(かいじゅういせき)は縄文時代から弥生時代の遺跡です。古代の流路跡が見つかり、流れをせき止めるための柵(しがらみ)が設置されていました。柵は流路に直径10cmほどの木杭を打ち込み、木の枝を交差して編みこんでいます。
 茅原大墓古墳は帆立貝式古墳で前方部が小さい古墳です。最古の盾持人埴輪が出土するなど大きな成果があります。
地図(赤のアイコンが纏向遺跡、紫が茅原大墓古墳、青が大福遺跡、黄が戒重遺跡)


 大福遺跡出土の高野槇製の木製仮面の一部(2世紀後半、農業祭祀に使ったか)
  長さ23.4cm、厚さ5mm。目を表す穴と、ひもを通したとみられる穴があった。
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 纏向遺跡出土の木製仮面(木製の鍬を変形しているので農業祭祀に使ったか)
 3世紀前半、アカガシ製の転用品で、長さ約26cm、幅約21.5cm。
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     埴輪
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     茅原大墓古墳
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     盾持人埴輪
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 私事ですが、先日の父の日に娘夫婦がポロシャツをプレゼントしてくれました。
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by enki-eden | 2013-06-20 00:07

狭井神社

 (狭井坐大神荒魂神社、さいにいますおおみわあらみたまじんじゃ)
 奈良県桜井市三輪字狭井   大神神社摂社(花鎮社)
 主祭神: 大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ、大物主神の荒魂)
 配祀: 大物主神(おおものぬしのかみ)、
      媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)、
      勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)、
      事代主神(ことしろぬしのかみ)。
 狭井神社は11代垂仁天皇の時代に創建(4世紀前半)。荒魂(あらみたま)は、災時などに現れ、活動的な働きをもつ霊魂のことで、祭祀(さいし)を受けることによって和魂(にぎみたま)の性質に変わる。

 大神神社拝殿から左奥に進むと5分ほどで到着します。途中に活日神社(いくひじんじゃ)、磐座神社(いわくらじんじゃ)、市杵嶋姫神社(いちきしまひめじんじゃ)が鎮座しています。
    磐座神社(少彦名大神)、三輪山の麓にある辺津磐座(へついわくら)です。
     奥津磐座(山頂)・中津磐座(中腹)に比べると小さい磐座です。
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 4月18日に行われる鎮花祭(はなしずめのまつり、くすりまつり)は、大神神社と摂社狭井神社で行われる。10代祟神天皇の時代に疫病が流行り、多くの民が亡くなった。大田田根子に大物主神を祀らせたところ鎮まった。
 平安時代になっても京都で、春に花の咲く頃に良く病気が流行ったので、それを鎮めるために花鎮めの祭「やすらい祭り」を行う習わしがありました。
  のどかなる 春の祭の 花しづめ 風おさまれと なお祈るらし
                      新拾遺集・藤原長能

   狭井神社鳥居(左に市杵嶋姫神社が鎮座)
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     注連柱
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     拝殿
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     本殿
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 狭井神社拝殿左手奥に薬井戸(くすりいど)がある。ここから湧き出る水は「薬水」と
 呼ばれていて、この薬水を飲めば万病に効くといわれている。
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 三輪山(467.1m)の山頂に高宮神社があり、信仰者の登頂を認めている。
 狭井神社の社務所で申し込み初穂料を納め、拝殿の右側から登る。
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by enki-eden | 2013-06-17 01:37

太陽信仰における夏至

 夏至の日は、北半球では昼の時間が最も長くなり、夜の時間が最も短くなります。太陽のエネルギーが最も力強く感じられる「夏至の日」は、太陽年の元旦ともいわれます。それとは逆に、冬至の翌日から昼の時間が徐々に長くなっていくので、「冬至の翌日」が元旦という場合もあります。古代文明では冬至の日が一年の終わりになっている場合が多いのです。
 夏至や冬至あるいは春分・秋分の太陽の方位に合わせて作られた古代遺跡が、世界各地に残されています。
 夏至や冬至を特別な日として祭祀を行なう風習は、古代から世界各地に存在します。緯度の高いヨーロッパでは、夏至のお祭りが盛大に行われているようです。イギリスのソールズベリにあるストーンヘンジは、紀元前1,900年頃に作られたストーン・サークルの北東方向(夏至の日の出方向)に太陽観測の要石があり、太陽祭祀が行われました。南米のインカ文明でも、夏至に太陽神を崇める祭祀がありました。
 縄文時代の秋田県大湯環状列石(ストーンサークル)では、二ヶ所の環状列石の中に立つ「日時計」と呼ばれる立石と環状列石を結んだ線が、夏至の太陽の日没線と一致します。「夏至の日没線」は「冬至の日の出線」と同じですから、冬至を意識したのかもしれません。日本列島でも、縄文時代から夏至や冬至を特別な日とする考え方が存在していたと思われます。
 弥生時代以降の夏至は水田稲作の田植えと密接に繋がっていると思います。
 天皇の即位は記紀には正月即位の記述が多く、当時の正月は冬至の翌日になっています。例えば初代神武天皇は、辛酉の年春1月1日、橿原の宮にご即位になったとあります。橿原神宮は冬至の日の出方向に向いています。
 古代遺跡・神社・墳墓などで、「夏至の日の出方向」を意識したものがあります。
    例えば、箸墓古墳の軸

   12代景行天皇陵の軸

   三重県伊勢市二見浦と夫婦岩

岡山県「吉備の中山」の吉備津彦神社(夏至の太陽が神鏡を照らすようになっている。)
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   吉野ヶ里遺跡では遺跡の軸方向が「夏至の日の出」を意識しているのでは?
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夏至祭
 三重県伊勢市二見浦では、夏至の時期に夫婦岩の間から朝日が昇ります。これは夏至の日の前後2ヶ月しか見られない現象です。この海中には興玉神石(沖の石)があり、その沖の石は常世の国から神が依りつく聖なるところといわれてきました。
 夫婦岩は日の出(天照大神)と興玉神石を拝むための鳥居と見なされています。三重県伊勢市二見町江575の二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)の夏至祭では、夏至の日午前3時30分より斎行され、日の出(午前4時40分頃)と共に禊をする祭典で夫婦岩の前にて禊を行います。日の出は200km東の富士山山頂の向こうから昇って来ますので、天気が良ければ富士山のシルエットも小さいですが、はっきりと見えます。夏至(2013年は6月21日)は梅雨時ですから見える確立は高くないと思います。
 二見興玉神社の祭神は猿田彦大神と宇迦御魂大神で、猿田彦大神縁の興玉神石(沖合約700mの海中に沈む)を拝する神社です。
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by enki-eden | 2013-06-16 00:06

玉列神社(たまつらじんじゃ)

(玉椿大明神 たまつばきだいみょうじん) 
 三輪山の南麓に鎮座の大神神社の境外摂社。
 奈良県桜井市慈恩寺383    電:0744‐42‐6738
 祭神:玉列王子神(大物主大神の御子神)
 配祀:天照大御神、春日大御神

 社務所横に椿がたくさん植えられており、「玉列のつらつら椿」として有名です。三輪山周辺には、古代から椿の花が咲いており、海柘榴市(つばいち)の名前も椿に由来しています。
 2003年から始まった「椿まつり」が3月最終日曜日に行われます。


     鳥居と社号標
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     由緒
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     手水舎の竜
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     北向きの長い参道を進み石段を登ると拝殿(割拝殿)がある。
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     参道左に大神神社末社の祓戸社が鎮座。
       祭神:瀬織津姫神(せおりつひめ)・速秋津姫神(はやあきつひめ)・
           気吹戸主神(いぶきどぬし)・速佐須良姫神(はやさすらひめ)
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   誕生石(ヘイチョウ、カイチョウと三度唱えながら、廻ると元気な子に育つ。)
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       拝殿から本殿を望む(春日造り、檜皮葺き)
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  拝殿の右に金山彦社(金山彦神)、猿田彦社(佐田毘古神)、愛宕社(火産霊神)
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     参道入口の鳥居の右に慈恩寺阿弥陀堂があります。
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     阿弥陀堂の大木のケヤキ(樹齢800年)
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by enki-eden | 2013-06-13 00:09

久延彦神社(くえひこじんじゃ)

 奈良県桜井市三輪字若宮山   大神神社末社
 祭神:久延毘古命(智恵の神・学業の神) 境内には合格祈願の絵馬が多い。
 久延毘古命は古事記に出てくる「山田の曾富騰(そほど=かかし)」で、
「この神は歩けないが、ことごとく天下の事を知れる神なり。」とあります。



  若宮社の100m東から北向きに石段を登ると、拝殿が南面して見えてくる。
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       拝殿(切妻造り、瓦葺き)
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 拝殿前の展望台から西方向を望む。大神神社の大鳥居が見える。(高さ32.2m)
 その左に耳成山と畝傍山。遠方右端に二上山、左に葛城山と金剛山がかすんでいます。
 近くで雉(きじ)の鳴き声が聞えます。
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 ここ若宮山も「たたら製鉄」と関係があるのでしょうか、見晴らしが良く、風通しが良い。
 古事記によれば媛蹈鞴五十姫命は、当神社の横を流れている狭井川のほとりに
住んでいました。狭井神社の祭神の中にも媛蹈鞴五十鈴姫命と勢夜多々良姫命が
あります。二柱の蹈鞴の神様も祀られているのです。
 この地は古代の蹈鞴製鉄と大いに関係あるでしょうね。
   大神神社のパンフレット
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 私事ですが、昨日(6月9日)ちょっと早目の「父の日プレゼント」を息子夫婦からもらいました。麦焼酎2本です。八女市の喜多屋醸造の「吾空」と壱岐市の猿川伊豆酒造の猿川(サルコー)です。やっぱり焼酎は九州なんですね。
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by enki-eden | 2013-06-10 00:10

古事記・日本書紀・万葉集

 古事記(712年)と日本書紀(720年)は大和朝廷側の歴史書・伝承であり、朝廷側に不利な事や都合の悪い事はなるべく避けて記されています。あるいは粉飾して都合の良いように書かれています。
 万葉集は最終的には大伴家持(715?~785年)により759年頃に完成した和歌集です。

古事記
 40代天武天皇(?~686年)の命令で、稗田阿礼(ひえだのあれい)が旧事を研究し、太安万侶(おおのやすまろ、?~723年)が記録しました。上中下3巻に万葉仮名で書かれています。
 天皇と皇族が読む為に作られた皇室の歴史・伝承です。712年に43代元明天皇(女帝661~721年)に献上されました。元明天皇は713年、諸国に「風土記」の編纂を命じています。
 奈良県大和郡山市に稗田町があり、賣太神社(めたじんじゃ)が鎮座、祭神は稗田阿礼です。稗田阿礼は女性の名ですが、藤原不比等(659~720年)のペンネームではないかという梅原猛氏の説があります。山上憶良(660~733年?)だと云う説もあります。
 古事記は布留(ふる、饒速日)=物部=した書で、物部氏が勢いのあった時代の書であるから33代推古天皇(554年~628年)で終わっているのではないかという説があります。
 大海人皇子(おおあまのみこ、後の40代天武天皇)は、38代天智天皇(626~671年)の皇子・大友皇子(648~672年)と皇位継承をかけて672年に「壬申の乱、じんしんのらん」を起こし、大友皇子の死で勝利します。そして天皇の地位を有力豪族よりも格段に高くし、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を定めて国家統一の基盤としました。673年に天武天皇となり、自らを正当化する為に記紀の編纂を命じました。
 また、各豪族がそれぞれの祖先神を祀っていますが、皇室の祖先神を格段に高く国家の中心に据える事にしました。その為には出雲系の三輪山信仰より上位の神殿を必要とし、東国支配の根拠地でもあり、壬申の乱の時に天武天皇に味方した伊勢に最高の神殿を整えました。それが皇大神宮としての伊勢神宮です。
 これは国家神道・皇室神道への宗教改革となりますが、天武天皇亡き後も41代持統天皇(女帝645~702年)がこれを忠実に引き継ぎました。
 この新しい国家神道を祀る中臣氏・藤原氏がやがて一人勝ちしていく事になります。

日本書紀
 40代天武天皇の命令で、舎人親王(とねりしんのう、676~735年)と太安万侶(?~723年)が30巻の漢文体で編纂しました。720年に44代元正天皇(女帝680~748年)に献上しました。外国や官吏・地方豪族に向けた日本の歴史書で、古事記や各地の伝承、異伝も取り入れています。

万葉集
 万葉集の撰者は太安万侶(?~723年)で、約4,500首の歌が収められています。つまり、太安万侶は古事記、日本書紀、万葉集全部に関わっているのです。最終的に万葉集の校正・修正・整理をしたのは大伴家持(715?~785年)で759年頃に完成しました。
 歌は雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌(ばんか)の三種に分けられ、暗号・倒語が含まれています。
 5世紀初頭から8世紀半ばの歌が集められ、代表的歌人は額田王(ぬかたのおおきみ、635~715年)、柿本人麻呂(645?~709年?)、高市黒人(7世紀後半~8世紀)、山部赤人(8世紀)、山上憶良(660~733年?)、高橋虫麻呂(8世紀)、大伴旅人(665~731年)、大伴家持(718~785年)などです。
 古代天皇の代表として21代雄略天皇(在位456年-479年)の歌を巻頭に選んでいるので、奈良時代の人々においても雄略天皇は特別な天皇として意識されていたようです。しかも大伴家持の大伴家が盛んだったのは5世紀ですから、雄略天皇の歌が万葉集の最初の歌に選ばれたのかもしれません。

 雄略天皇の歌(万葉集 巻1、1番)
   籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち
   この岡に 菜摘(つ)ます子 家告(の)らせ 名告(の)らさね
   そらみつ大和の国は おしなべて 我れこそ居(お)れ 
   しきなべて 我れこそ座(ま)せ
   我れこそは 告らめ 家をも名をも

 日本書紀の暦法が雄略天皇以後とそれ以前で異なること、万葉集や日本霊異記の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、8世紀の朝廷人は雄略天皇を重要視していたと思われます。日本書紀の雄略天皇は在位23年の全ての年が記録されています。
 万葉集の配列には重要な意味が隠されており、記紀に記されていない歴史的事実を歌集を使って暗示しているようにみえます。また、敗北し抹殺された側の立場が歌を通してそれとなく暗示されているのです。
 万葉集は歌集として広まっていますが、歌集と歴史書を兼ねているのではないでしょうか。しかも歴史が「主」で歌が「従」の構造になっているように感じます。それが太安万侶や大伴家持の狙いだったのでしょうか。
 従って記紀と共に万葉集を合わせて読む事で、より真実に近づけるのではないでしょうか。万葉集は歌を文学的に理解すると同時に、その言葉の時代背景や歌の配列の仕方を歴史的な大きな事件とリンクさせて読み解けば面白いと思います。

 持統天皇の歌(万葉集 巻1 28番)
    春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 
     はるすぎて なつきたるらし しろたえの ころもほしたり あめのかぐやま

   藤原宮から天香具山を望む
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 三輪山は蛇神(龍)ですから、季節はです。アマテラスの日の神です。春(三輪山信仰)が終わって、夏(天照大神の皇室神道)がやってきた。藤原宮の東にある天香具山から太陽(日の神)が上がってくる、伊勢の方から日の神が上がってくる。
 「白妙の衣」を天女の羽衣と見立て、この天女の羽衣を奪い取ってしまえば、つまり物部の祭祀権を奪い、出雲系の神々を出雲に封印してしまえば、祭政一致で政治的にも宗教的にも天皇家の独裁が実現するわね!!!
 持統天皇は石上神宮と大神神社の古文書を没収しました。古文書には皇室の創始者は素戔嗚(すさのお)・饒速日(にぎはやひ)であると書いてあったからです。

   海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)    山行かば 草生(くさむ)す屍
   大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ   かへりみはせじ
       大伴家持

 大伴家持が越中国の国守に赴任していたときの749年、家持が詠んだ長歌「陸奥国より金を出せる詔書を賀(は)ける歌」の一節です。万葉集 巻18 4094番

梅澤恵美子著「額田王の謎」
 
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 万葉集・古文書などから独自の古代史像を構築されている梅澤恵美子氏の著書です。
 日本書紀は額田王の存在をまるで無視している。一方、万葉集における額田王はこの時代の中心人物であるかのように宮廷に深くかかわった姿が鮮やかに描かれている。この大きな食い違いは何を物語るのか。
 彼女を取り巻いた多くの人たちが怪死や暗殺などの不可解な死を遂げている。有間皇子、大津皇子、高市皇子、弓削皇子、柿本人麻呂、十市皇女などがおり、その家族や家臣まで同様の死を遂げている。
 額田王は歴史を変えるほどの魅力を持っていたと思われる。この当時は天智系と天武系の皇位継承問題を中心として豪族たちを巻き込んだ動乱の時代であった。
 この対立する両者の間を行き来した額田王を万葉歌人としてだけ捉えるよりも、政治に深くかかわり、秘密を握っていた人物として見直すと万葉集の作成意図が鮮明に浮かび上がってくる。
 持統天皇は藤原不比等と手を組んで朝廷の頂点に君臨する事に成功した。しかもそこに至るまでの手口は、父・天智天皇譲りの凶暴で陰湿なものであった。反対勢力を容赦なく弾圧し、強引に権力を私有化していく。
 万葉集では、ある事件にかかわる人物たちが一群となって配列され、前後の歌と呼応し反応しあってその人物に何が起きたかを知らせる仕組みになっている。
 また万葉集には体制側で活躍する人物の歌は少なく、反体制側にいて非業の死によって人生を終えた者が主役となっているのである。
 額田王は柿本人麻呂と同様に激動の時代の目撃者です。旧事本紀に額田の祖がニギハヤヒ大和入りの従者として記録されている。額田は物部系である。額田の本拠地は平群郡額田郷(大和郡山市額田部)である。
 天智と天武が額田王を取り合ったのは物部の女を手に入れることで立場を強くする必要があった。 587年に物部守屋が滅んだが、彼は物部の本流ではなく物部はまだ大きな力を発揮していた。
 元明天皇の710年に都を藤原京から平城京に移した。左大臣の石上朝臣麻呂(物部麻呂)は藤原京の留守役として置き去りにされる。大三輪の神と物部氏はこうして軽んじられ、祭祀権は中臣氏・藤原氏が獲得する。

額田王(635年頃~715年頃)
 額田王は鏡王と山背姫王の次女で鏡女王の妹。物部氏の出身で36代孝徳天皇(596年~654年)に仕える女官であった。
 額田王は大海人皇子(後の40代天武天皇)との間に十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけたが、668年に38代天智天皇が額田王を奪って妃とした。
 十市皇女は大友皇子(後の39代弘文天皇)の妃となり、葛野王(かどのおう)をもうける。大友皇子は壬申の乱で自決、十市皇女はその後急死する。おそらく自殺であろう。
 額田王の墳墓は野口植山城(のぐちうえやまじょう)の植山古墳という伝説があります。奈良県高市郡明日香村野口(天武・持統天皇陵の東)にあり、南北24m、東西46mの墳墓です。葛野王がここに額田王を埋葬したと言う地元の伝説があります。

 額田王の墳墓とされる山。天武持統天皇陵から東を見て撮影しました。
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by enki-eden | 2013-06-09 00:42