古代史探訪

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摂津国の考古学

 「兵庫五国の考古学」の2回目は「摂津国の考古学」で、7月27日(土)に兵庫県立考古博物館で講演が行われました。講師は芦屋市教育委員会の竹村忠洋氏でした。
   兵庫県立考古博物館は大中遺跡公園の中にあります。
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   兵庫五国
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  写真は講演会場のスライド映像を写しましたので大変見にくいですがご勘弁を!
  摂津国とは「難波津を治めている国」という意味です。摂津国は兵庫県の
  東の端にあり、大阪府の一部(難波津)を含みます。
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   弥生時代の土器は特長により前期・中期・後期に分けられます。
   前期の土器は突帯文(粘土の紐を巻いている)やヘラ描沈線文(ヘラで
   線を1本づつ引いている)がある。
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   中期の土器は櫛のような道具で直線や波状の櫛描文を入れたり、
   凹線文を入れている。(1度に何本もの線を描ける)
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   後期の土器は全体的に無文化し、羽子板のような形の道具で「タタキ」を
   入れて粘土を硬く締めている。
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   弥生時代前期の集落は環濠に囲まれ、墓地は環濠の外にある。
   神戸市兵庫区の大開遺跡(環濠が巡っている)
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   3ヵ所の大きな集落がそれぞれ5kmづつ離れた位置にある。当時の海岸線は
   太い線で描かれているが、海岸線や川に沿って小さな集落(小さい丸)がある。
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   尼崎市田能遺跡の方形周溝墓
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   田能遺跡の人骨の腕にゴホウラ貝を模した白銅製の釧(腕輪)。
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   田能遺跡、左は穴を掘って死者を葬り、上に板をかぶせていた。
   右は子どもの土器棺墓。
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  川西市の加茂遺跡(現在の家屋も環濠に沿って丸く弧を描いている)
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  加茂遺跡の集落構成。右の円形環濠の中に大型建物と集落がある。
  大型建物は板塀で囲まれている。
  左の大きな外濠の中にも集落と方形周溝墓がある。
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   加茂遺跡復元図
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   尼崎市の武庫庄遺跡で大型建物(右下)が発掘された。
   ここも「夏至の日の出」方向に軸線が向いている。
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   纏向遺跡大型建物の「夏至の日の出」方向。
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   六甲山南麓の銅鐸出土地
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   神戸市灘区の桜ヶ丘出土の国宝・銅鐸と銅戈
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   銅鐸を使う巫女の祈り(2013年4月、兵庫県立考古博物館展示)
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竹村氏の銅鐸埋納に関する考え方
 『初期銅鐸は小型で音を聴く銅鐸、後期銅鐸は大型で見る銅鐸。初期の銅鐸と後期の銅鐸が同じ場所から出土することはないので、初期の銅鐸埋納と後期の銅鐸埋納の二期に分かれて埋納されたのではないか。弥生時代中期から後期に高地性集落がなくなると、初期の銅鐸が埋納された。必ず鰭を上下にして埋めるというルールがあった。
 銅鐸が出土する所の地名には「神」が付くことが多い。桜ヶ丘は通称、神岡(かみか)と言われている。出雲の神庭荒神谷遺跡など。』

 
 銅鐸は国・村にある神の聖地や国境にある傾斜地に埋納したのでしょう。私は銅鐸の埋納は古墳時代出現の前、3世紀中頃から後半頃に発生したと考えていましたので、竹村氏の複数時期埋納説に驚くと同時になるほどと思いました。紀元前後に初期の銅鐸(聴く銅鐸)が埋納されたというのです。調べると、多数の人が複数時期埋納を主張しています。
 祭器・神器などの大事なものを埋納する場所は聖地です。卑弥呼が西暦239年に親魏倭王金印を受けたので、西暦57年に奴国王が受けた漢委奴国王金印が聖地である志賀島に埋納されました。265年に魏が滅びると2代目女王の臺與は親魏倭王金印を臺與の聖地に埋納したでしょう。その聖地は関門海峡周辺(北九州市か下関市)ではないでしょうか。

   近畿の竪穴住居は2~3世紀に円形から方形(九州系)に変わる。
   九州勢(饒速日・神武など)が東遷してきた結果でしょう。近畿の弥生時代の竪穴住居
   は円形でしたが、大中遺跡には方形もありました。
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   大中遺跡公園の説明板
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by enki-eden | 2013-07-31 00:16

舞子浜遺跡

 神戸市垂水区東舞子町の兵庫県立舞子公園内にあります。
 舞子公園内からは、縄文・弥生時代の土器石器とともに、古墳時代の埴輪棺が砂浜に点在して発見されました。円筒埴輪を連結し、蓋(きぬがさ)形埴輪でふたをし、丁寧に埋葬されていたようです。埴輪棺は近畿地方の95カ所で出土しています。
 舞子公園の東へ1kmにある五色塚古墳で使用されている埴輪と同一規格で作られており、同じ職人が製作したのでしょうか。
 五色塚古墳は王墓で、舞子浜遺跡はその支配下住民の集団墓地でしょう。出土物は神戸市埋蔵文化財センターで保管・展示されています。
   左が五色塚古墳出土の鰭付朝顔形円筒埴輪(4世紀)、右が舞子浜遺跡出土の
   鰭付円筒埴輪(4世紀)です。(神戸市埋蔵文化財センター展示)
 
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     青のアイコンが舞子浜遺跡、黄色が五色塚古墳


 円筒棺と古墳の墳丘にある円筒埴輪は似ていますが、どちらの使用が古いのでしょうか。円筒棺が先で、後から古墳に使うようになったのかもしれません。
 円筒埴輪の元は弥生時代中期の吉備国の祭祀に始まりました。吉備国の祭祀では収穫物を入れる壷とそれを乗せる器台が使われていました。弥生時代後期になると器台が筒型になり、弧帯文の文様が刻まれて、器台の高さも1m前後にまで大きくなりました。これを特殊器台と呼んでいますが、吉備国から大和国に伝わり円筒埴輪に進化していきました。特にメスリ山古墳の巨大な特殊円筒埴輪が有名です。
 メスリ山古墳出土の特殊円筒埴輪(橿原考古学研究所付属博物館の入り口に復元展示)、被葬者は東海将軍の武渟川別命(たけぬなかわわけ、3世紀後半に活躍)と考えられます。安倍氏の祖です。
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 今城塚古代歴史館(大阪府高槻市郡家新町48‐8)では「大円筒埴輪展」が実施されています。7月13日から9月1日までです。今城塚古墳については1月10日投稿の記事をご覧ください。
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 弥生時代から古墳時代初期は王や豪族が亡くなると殉葬がありました。使用人を生きたまま王墓に埋めるのです。西暦247年頃に亡くなった卑弥呼の墓には100人が殉葬されたようです。有力豪族が亡くなった場合でも数十人が殉葬されたことでしょう。
 11代垂仁天皇の皇后日葉酢媛(ひばすひめ)が亡くなった時(西暦330年頃)に、野見宿禰が「殉葬を止めて埴輪に替えましょう。」と進言して天皇がこれを認めました。それで陵墓に埴輪を立てて殉葬の替わりとしました。埴輪は立物(たてもの)とも言われました。
 日葉酢媛陵については4月8日(月)投稿の「神功皇后陵」の中で取り上げていますのでご覧ください。

   舞子浜遺跡出土の円筒棺に葬られた人(4世紀、神戸市埋蔵文化財センター展示)
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   舞子浜遺跡はJR舞子駅の南にある県立舞子公園で見つかりました。
   明石海峡大橋の真下です。
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     現在は舞子公園の松林の中に案内板があるだけです。
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     孫文記念館(移情閣)
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     旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)の洋館
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   公園の東には「シーサイドホテル舞子ビラ神戸」があります。
   ホテルからの景色は昼夜とも抜群ですよ。
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by enki-eden | 2013-07-28 00:02

発掘された骨たち

 神戸市教育委員会の主催で「発掘された骨たち」と題した企画が神戸市埋蔵文化財センターにて開催されています。
 場所は西神中央公園内で、神戸市西区糀台6丁目1、電話は078‐992‐0656です。

 赤のアイコンが神戸市埋蔵文化財センター、青が新方遺跡、黄が五色塚古墳、
 緑が舞子浜遺跡。


   神戸市垂水区多聞町字小束山の「高塚山1号墳」の石室を埋蔵文化センターの
   前に移築・復元した。古墳時代後期の古墳で横穴式石室墳。玄室の奥行きよりも
   横幅が長いT字形の石室で近畿では珍しい形です。
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   神戸市埋蔵文化財センター
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     入口ロビーに展示のアケボノゾウ(アカシゾウ)。
     神戸市西区伊川谷町で発見された。肩の高さ約1.8m。
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     ロビーに展示の国宝・桜ヶ丘銅鐸6号鐸の復元品。
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   ロビーに展示の箱式石棺。神戸市西区伊川谷町別府の天王山古墳群5号墳。
   凝灰質砂岩を板状に加工し、同じ石材の石枕もあります。
   棺の内面は赤色顔料で塗られています。4世紀の古墳時代前期のもの。
   天王山古墳の近くには小さいですが大歳神社が鎮座、一度参拝したことがあります。
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   常設展の埴輪。左から五色塚古墳の鰭付朝顔形円筒埴輪(4世紀)、
   舞子浜遺跡の鰭付円筒埴輪(4世紀)、白水瓢塚古墳の円筒埴輪(4世紀)、
   白水瓢塚古墳の朝顔形円筒埴輪(4世紀)
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   柵に囲まれた豪族の建物、神戸市長田区の松野遺跡(6世紀はじめ)。
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   展示室の背後に収蔵展示室があり、ガラス越しに収蔵品を見学できます。
   写真は五色塚古墳出土の円筒埴輪です。2,200本の内の600本を復元
   しています。五色塚古墳については3月6日(水)の投稿を御覧ください。
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     神戸市西区新方(しんぽう)遺跡のパネル
      (弥生時代前期の墓地、約2,200年前)
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     新方遺跡の人骨のパネル(身長158cm、40~60才の男性)
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     新方遺跡木棺墓の20~30才男性の人骨。
     犬歯を抜歯し、右手に鹿の角でできた指輪をしています。
     身長は160cm、脚を交差させ、うつ伏せに寝かされていました。
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     新方遺跡のイノシシの骨
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     新方遺跡のイノシシの祭り
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   新方遺跡の卜骨(ぼっこつ)を使った占いとイノシシの肩甲骨製卜骨
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   左は新方遺跡出土の頭骨、20~40才の男性で上下の犬歯を抜歯している。
   右は神戸市垂水区の舞子浜遺跡(5世紀の古墳時代)の頭骨を複製したもので、
   円筒埴輪棺に葬られていた。身長150~153cmの40~60才の男性。
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   舞子浜遺跡の円筒埴輪棺埋葬人骨(舞子浜遺跡では、埴輪を棺として
   砂丘上に葬られた墓が多く見つかっている。5世紀の古墳時代。)
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    上は鉄製大刀、下は鉄剣
     (神戸市東灘区の住吉宮町遺跡出土、6世紀の古墳時代)
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    馬具(神戸市垂水区の狩口台きつね塚古墳、7世紀)
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by enki-eden | 2013-07-25 00:06

穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)

 奈良県桜井市穴師1065   電:0744‐42‐6420   無料駐車場あります
 祭神: 兵主神(中)、大兵主神(左)、若御魂神(右、稲田姫命)
 ご神体:  鏡、      剣、       勾玉と鈴
 創建: 10代祟神天皇の時代(西暦300年前後)

 JR巻向駅の真東1.5km、穴師山の山麓に鎮座。兵主神信仰は中国山東半島からの伝来と言われます。海人族による楽浪郡や山東半島との交易の結果でしょう。製鉄・鍛冶の神です。
 穴師大兵主(あなしおおひょうず)神社に穴師坐兵主神社(弓月岳)と巻向坐若御魂(まきむくにいますわかみたま)神社(巻向山)を合祀して、新神社名が穴師坐兵主神社となっています。従って3社の神様がお祀りされているのですが、合祀された兵主神が中央に祀られているので、主客転倒の形になっています。
 穴師の「穴」も稲田姫の「稲」も「鉄」の意味で、古代の当地は製鉄と関係が深い所です。製鉄関連の「稲穂」は「製鉄の火」のことです。現在の周辺地では果樹園や製麺所(三輪そうめん)などが多いです。



   国道169号巻野内交差点の一つ北の交差点を東に入った所に
   11代垂仁天皇纏向珠城宮(まきむくたまきのみや)跡碑が立っています。
   垂仁天皇(270年頃出生)はこのあたりに宮を構えていたのでしょう。
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     更に東に進むと「珠城山古墳群」があります。
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更に800m東に山道を進むと12代景行天皇纏向日代宮(まきむくひしろのみや)跡碑と穴師坐兵主神社の摂社・相撲神社(祭神:野見宿禰)が見えてきます。
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   穴師坐兵主神社の鳥居と社号標
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   穴師坐兵主神社参道(当神社は紅葉の頃に参拝すると綺麗でしょう。)
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     由緒
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     拝殿
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     拝殿内
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     本殿(三つ屋根造り)
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     明治神宮遥拝所
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by enki-eden | 2013-07-22 00:05

西山古墳

 奈良県天理市杣之内(そまのうち)町西ノ山、天理中学校の北隣、天理高校の南隣で駐車場はありません。
 天理市教育委員会の説明によりますと、全長約183m、 高さ16m 、3段構築の前方後方墳。下段の前方部の幅は約72m、後方部は一辺が約94mの正方形。中段は前方後円墳の形で、前方部全長が90m、後円部径72mとなっている。上段の後円部径は30m。
 下段は前方後方墳ですが、中段と上段は前方後円墳になっており、非常に変わった形です。周囲には濠が巡っていたと思われます。
 竪穴式石室の古墳時代前期の古墳(4世紀後半)で、盗掘されているが、出土品は鏡・石鏃・鉄製刀剣類の破片、管玉、埴輪などがある。葺石と埴輪の形跡が見られる。布留川が平野部へ流れ出た南岸に築造され、要害の地を占めているものと推定される。
 前方後方墳としては最大規模で、1927年に国指定の史跡となっています。

 

 当時この地は物部氏の領地で、杣之内古墳群の中でも最も古い時期の古墳ですから埋葬者は物部氏の首長でしょう。年代的には物部武諸隅(もののべのたけもろずみ、伊香色雄の孫で10代祟神天皇に仕える。)かもしれません。
 安本美典氏が物部の十千根、大新河、武諸隅の名前を挙げて、「物部氏関係の墳墓ではないか」と言っています。大新河と十千根は伊香色雄の子で、武諸隅は大新河の子です。
    245年頃   260年頃    275年頃     290年頃出生
    おおへそき  いかがしこお  おおにいかわ  もののべのたけもろずみ
     大綜杵―――伊香色雄―――大新河―――物部武諸隅
                       とおちね
                   ―――十市根
   
     西山古墳も「夏至の日の出方向」に軸を向けています。
     前方後方墳の上に前方後円墳が乗っているのが良く分かる。



     南から見る。右(東)が後円部で左が前方部。
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     石碑
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     東から見る。細い登り道があります。
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     墳頂から西方向に二上山を望む。
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   奈良県御所市室の宮山古墳(238m)も同じように「夏至の日の出方向」
   軸を向けています。
   宮山古墳の埋葬者は武内宿禰又はその子・葛城襲津彦と考えられます。


     私が持っている一円札の武内宿禰(私見ですが、西暦310年頃出生)
     麻生太郎副総理(1940年出生)に似ていませんか? 
     年齢は1,630年も違いますが…
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by enki-eden | 2013-07-19 00:03

播磨国(はりまのくに)の考古学

 兵庫県立考古博物館にて「兵庫五国の考古学」講演会が企画され、兵庫県の五つの国(播磨・摂津・丹波・但馬・淡路)の教育委員会等の職員が講演されます。
    兵庫県立考古博物館
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    兵庫県の五国
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 7月13日(土)に第一回目の「播磨国の考古学」が講演されました。担当は姫路市教育委員会の福井優氏でした。
 兵庫県の面積は約8,396平方キロで全国の12番目、人口は約556万人で全国の7番目です。大きな県ですが、特徴が掴みにくいところがあります。
 兵庫県は律令国時代の五畿七道では、畿内(摂津国の一部)、山陽道(播磨国)、山陰道(丹波国、丹後国の一部)、南海道(淡路国)で構成されています。
 播磨国は山陽道に属し、現在の兵庫県西南部に位置しています。国府は現在の姫路市本町にありました。当初は針間国と記されており、格は大国、京からは近国。播州(ばんしゅう)とも言います。
 播磨国風土記は冒頭が失われているので、「播磨」「針間」の由来は分かりませんが、「針」の生産が盛んでした。

考古学からみた播磨
弥生時代
 ①銅鐸の鋳造
  名古山(なごやま)弥生遺跡(姫路市安田)から銅鐸の石製鋳型が初めて出土した。
  
  今宿丁田遺跡(いまじゅくちょうだいせき、姫路市東今宿)から銅鐸の石製鋳型片が出土した。縄文時代後期前半から平安時代後半にかけての複合遺跡で、多量の弥生時代中期後半の土器にともない銅鐸の石製鋳型・鞴羽口・鉱滓・砥石が出土した。
 
  神種遺跡(こうのくさいせき、姫路市夢前町神種)から菱環鈕式銅鐸が出土した。山麓の山肌に露出して発見された。銅鐸が辺鄙な山の傾斜地に埋納されるのは、国境に結界をはるために埋めたのではないか。
  近くに神元神社が鎮座、祭神は高皇産霊神と素戔嗚尊。
     神種(こうのくさ、このくさ)遺跡地図(赤い丸)
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 ②その他、青銅器生産の遺跡は東川遺跡、和久遺跡、豊沢遺跡などがある。
 ③銅鐸と土器での文様の共有
   綾杉文、鋸歯文、横帯文など。
  播磨では、他の地域に先駆けて、遅くとも中期後半に出現した。後期後半以降になると
  吉備では、主に墳墓祭祀に使用された特殊器台にも見られる。(楯築弥生墳丘墓など)
    特殊器台(右から二番目、古代吉備文化財センターで7月2日撮影)
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 ④特徴的な広口壷
  中期中葉に出現し、地域によって形・文様が違うので人や物の動きが分かる。
 ⑤竪穴住居内の特徴的な燃焼施設
  イチマル型中央土坑
  播磨では円形住居の床面中央部に1O(イチマル)土坑と呼ばれる特殊な遺構を持つ例が分布する。土坑の形態から円形の土坑と楕円形の土坑二つのセットをイチマル型中央土坑と呼ぶ。
  一般的に円形土坑からは炭粒や灰が出土し、楕円形土坑からは一面の炭や被熱の痕跡が見られる。
 ⑥播磨における二種類の周溝墓
  吉備は円形が優位で畿内は方形が優位。播磨は二者の中間にある。

古墳時代
 人や物の動きが活発になり、各方面の土器が出土する。
 ①初頭
  在地産の精緻な庄内式甕
 ②中期から後期
  渡来人の足跡
  渡来系竪穴式石室、銀製釧(くしろ、腕輪)、装飾付須恵器、横穴式石室、鋳造鉄斧、
  鉄鋌など。
     鉄斧(古代吉備文化財センターで7月2日撮影)
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by enki-eden | 2013-07-16 00:03

石上神宮(いそのかみじんぐう)

 布留大明神
 奈良県天理市布留町384    電:0743-62-0900   無料駐車場あります
 布留山(266m)の北西麓に鎮座、物部氏の氏神。
 主祭神: 布都御魂大神(ふつのみたま)、 神体は布都御魂剣。布都は素戔嗚の父。
 配祀: 布留御魂大神 (ふるのみたま)、神体は十種神宝。布留は饒速日。
     布都斯魂大神 (ふつしみたま)、神体は天羽々斬剣。布都斯は素戔嗚。
     宇摩志麻治命 (うましまじのみこと)ほか。宇摩志麻治は饒速日の御子。
 創建: 崇神天皇7年(西暦300年頃に物部氏の伊香色雄が創建)
 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、宇摩志麻治命は「まじないの上手な命」という意味になります。「物部神道」には「まじない、呪文」の要素が濃厚です。



 私見ですが、物部氏の系図を記します。(数字は西暦の出生年)
   布都(ふつ)-布都斯(素戔嗚)-布留(饒速日、大歳)-宇摩志麻治-
    125年頃   140年頃     165年頃        190年頃
 
   彦湯支(ひこゆき)-出石心-大矢口宿禰-大綜杵(おおへそき)-伊香色雄
    205年頃    220年頃  235年頃    250年頃       265年頃

 石上神宮の周辺には布留町、布留川、布留山と饒速日(布留)に因んだ名が使われています。物部氏は軍事と祭祀を司る名門で、石上神宮は武器庫の役目も果たしていました。
 10代崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が布都御魂剣を現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建になります。この頃(西暦300年頃)、伊香色雄と伊香色謎(8代孝元天皇妃・9代開化天皇妃)により物部氏の勢力が大きく拡大することになりました。
 石上神宮には元々本殿はなく、拝殿後ろの禁足地を祀っていましたが、禁足地には2つの神宝が埋納されていると伝えられていました。1874年の発掘で布都御魂剣や勾玉などの神宝が出土しました。1878年の禁足地再発掘でも天羽々斬剣が出土。出土した神宝を奉斎するために本殿が建造され、1913年に完成しました。
 境内には多くの鶏がいますが、人や猫にも慣れていて逃げません。「常世の長鳴き鳥」と思われるような長い鳴き声の雄鶏もいました。

 毎年11月22日に鎮魂祭が催されます。国宝の拝殿で午後5時から7時まで行われます。物部氏の祖神・饒速日命の御子、宇摩志麻治命が十種神宝を献上し初代神武天皇の長寿を祈ったのが始まりです。(先代旧事本紀による)
 鎮魂祭では十種神宝、玉の緒、神鈴の付いた榊が使われます。鎮魂(たまふり)の神業(かむわざ)により玉の緒が斎い結ばれ、天皇陛下の長寿をお祈りする神秘的な神事です。宮司が「ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たり」と唱えつつ、「ふるべ ふるべ ゆらゆらとふるべ」と「十種の神宝」を揺り動かし、神鈴を鳴らし、呪文を唱え、生命の長寿を祈ります。これが「物部神道」だと思いますが、6世紀末に物部氏の衰退、7世紀末に天皇家と藤原氏の隆盛により「大祓えの国家神道」へと変遷していきます。
 同じ11月22日に、宮中でも鎮魂祭が宮中三殿の後方にある綾綺殿(りょうきでん)で行われます。

 「玉の緒」とは「魂の緒」に通じて「魂をつなぐ紐」、転じて命そのものを指すようです。節分の前夜に「玉の緒祭り」の神事が行われるそうです。
 横道にそれますが、「玉の緒」から「へその緒」を思い出します。数年前に「玉の緒地蔵尊」にお参りしたことも思い出しました。兵庫県加古川市志方町東飯坂にある「お地蔵さん」です。子授け地蔵として有名で、かなり遠方からも祈願に来られていますよ。ちょっと山奥へ入って行くので場所が分かりにくいですがね。
   玉の緒地蔵尊地図


 石上神宮の鎮魂祭で用いられる「十種神宝」は沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死返玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道返玉(ちかへしのたま)、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物之比礼(くさぐさのもののひれ)です。織田信長が石上神宮を焼き討ちにし、十種神宝が持ち去られたようで、実物はありませんので代用品で賄っているのでしょう。
 秋田県大仙市境字下台94の唐松神社には「物部文書」、「奥津鏡」、「辺津鏡」、「十握の剣」、「生玉」、「足玉」が所蔵されており、饒速日像もあります。
 大阪市平野区喜連6丁目1-38の楯原神社の境内に神宝十種之宮が鎮座。十種神宝が祀られています。
 饒速日から伝世の十種神宝は石上神宮の禁足地に埋納されたままなのか、戦国時代に滅失してしまったのか、唐松神社や楯原神社に分散しているのか、確認できません。

     石上神宮鳥居
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     鳥居の扁額(布都御魂大神)
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     柿本人麿の歌碑
  おとめらが そでふるやまの みずがきの ひさしきときゆ おもいきわれは
   (「袖振る」と「山」をかけている)
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     神杉
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     楼門(重要文化財)
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     拝殿(国宝)
  
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     拝殿内
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     拝殿背後の神庫(ほくら、校倉造り)と禁足地
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     禁足地に本殿がかすかに見える
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     拝殿の屋根の上に本殿が少しだけ見える。千木は外切り、鰹木は5本。
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     境内に七支刀の写真(国宝、369年百済で製造)
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     境内社の天神社
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     摂社・出雲建雄神社(祭神は草薙の剣の御霊、拝殿は国宝)
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     境内図
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     境内の鶏
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 岡山県に石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)があります。祭神は素戔嗚尊、所在地は岡山県赤磐市石上字風呂谷1448です。
 布都御魂は素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣(十握剣)であると伝えられており、その十握剣を祀ったのが当社の創始です。布都御魂と言うからには、素戔嗚(布都斯)が父・布都の剣を所持していたのでしょう。この剣は10代崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移された。それであれば、素戔嗚(布都斯)又は父の布都の出身地は吉備の国になるのでしょうか。明治時代になって、祭神も布都御魂から素戔嗚尊に変更されたようです。
 私見ですが、素戔嗚は弥生人の中でも楚人だと見ています。吉備国の人のY染色体に楚人系のO1aが平均値よりもずば抜けて高いことと、素戔嗚の出身地(吉備又は出雲)とは関係があるように感じます。

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by enki-eden | 2013-07-13 00:02

神世

 記紀に記載されている神名の内、主要な部分を下の表に掲げてみました。
 私見ですが、推定生年その他も載せています。「神話と歴史を混ぜるな」とおっしゃる方々にはご容赦願いますね。
 私の神話に対する捉え方は、古代人が歴史を自分たちの表現方法で伝承したものだと考えています。科学が発達した現代人には受け入れられない部分がありますが、そこは翻訳が必要です。特に日本書紀は孔子の「春秋の筆法」を過剰に使っていますので、専門家の解読が必要です。
 ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマン(1822年-1890年)は、ギリシャ神話の都市トロイアが実在すると考えて、発掘によって実証しました。彼は幕末に日本にも来ています。
 神話は荒唐無稽な作り話ではありません。古代人が自分たちの価値観と限られた知識で真剣に伝承したものです。由緒ある古い神社の伝承も重要です。
 日本の考古学者の中にも、記紀や中国の史書と取り組んでおられる方がいますので、心強いと思います。
 下の表で、緑の文字は別天神(ことあまつかみ)、青い文字は奴国関係、黒い文字は素戔嗚関係です。

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by enki-eden | 2013-07-10 00:03

和爾下神社(わにしたじんじゃ)

 奈良県天理市櫟本(いちのもと)町2490   駐車場なし
 西名阪自動車道路「天理インター」を出て直ぐです。
 「上治道宮 かみはるみちのみや」とも称し、創建:769年。

 祭神: 素盞鳴命 (すさのうのみこと) 中央、
   大己貴命(おおなむちのみこと)左側、 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)右側。
   江戸期の記録では、天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、
   若宮難波根子武振熊命が祭神になっています。
   天足彦国押人命は和爾氏の祖で、父は5代孝昭天皇、
   母は世襲足媛(よそたらしひめ、尾張氏)、弟は6代孝安天皇です。
 和爾下神社の神紋は素戔嗚の木瓜紋。
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 3世紀半ばの皇室系図
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 東大寺山古墳群の中でも最大級の和爾下神社古墳(撥型前方後円墳、全長120m、後円部径70m、高さ5m、前方部を北に向け、4世紀末~5世紀初頭に築造)の後円部の上に建てられた神社で、古代豪族和爾氏の氏神です。
 桃山時代の建築様式の本殿は切妻造りの檜皮葺きで重要文化財になっています。
 西へ2kmの大和郡山市に鎮座の和爾下神社と共に延喜式内の古社です。

 和爾氏は2~3世紀ごろからこの地を本拠地に栄えました。その同族である春日・小野・粟田・大宅・柿本・市井(櫟井)氏らがあり、5世紀末から6世紀前半に最も栄えました。息長氏も支族です。神社の麓に同族の柿本人麻呂の墓といわれる小古墳があります。
 息長氏と和爾氏は非常に近い関係にあり、この両氏族の女系が「息長腹」と「和邇腹」として天皇家の血脈維持に重要な役割を果たしています。
 「和爾氏、和邇氏、和珥氏、鰐氏」の語源は「鮫」のことですが、弥生人の故郷は揚子江(長江)ですから、彼らの先祖は実際に鰐を知っているわけで、語源は「鰐」でいいかもしれません。
 筑紫における鰐族は大型船で列島を巡り、楽浪郡まで交易に行っていました。福岡県遠賀川の岡の湊を本拠地にし、関門海峡を押さえていました。祖神は安曇氏と同じく綿津見豊玉彦でしょう。

     和爾下神社古墳
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     参道入り口の赤鳥居(国道169号線に面している)
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    伝・柿本人麻呂の墓(和爾下神社古墳の麓の公園)
 
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     参道の鳥居
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     古墳の天井石が麓に置かれている。
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     拝殿に向かう石段
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     拝殿
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     手前の拝殿から奥の本殿を望む(重要文化財)
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     神社の説明
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     本殿左横の若宮社(若宮は若宮難波根子武振熊か?)
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     和爾下神社古墳の説明
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 難波根子武振熊について私見ですが、「振」は「古、布留」で物部系との繋がりを示し、「熊」は「熊野大神=素戔嗚」で素戔嗚との繋がりを示していると考えています。
 弥生人は揚子江(長江)の江南人(呉人、越人、楚人)の渡来集団ですが、BC4世紀頃から百年以上かけて波状的に列島へ渡来・逃亡してきました。
 DNAのY染色体で見ると、江南人の中で楚人の渡来数は少ないですが、武力が強く文明度も高いので列島における影響度は大きかったと思います。楚の国姓は羋(び)で王族の氏は熊(ゆう)です。王名は例えば、熊繹、熊勝、熊楊、熊勇などです。
 素戔嗚の「熊野」は楚の熊(ゆう)で、素戔嗚は楚人だと私は見ています。楚人の渡来経路は秦→新羅→出雲又は吉備でしょう。
 「熊」に関しては、熊野・熊本県・球磨川・隅(くま)・熊襲・熊鰐・千熊長彦・羽白熊鷲など地名や人名に多く使われています。出雲の雲も熊と関係あるかもしれません。
 「襲」に関しても、「楚」ではないでしょうか。葛城津彦(武内宿禰の子)・倭迹迹日百姫(7代孝霊天皇の皇女)・世足媛(よそたらしひめ、5代孝昭天皇の皇后)・武媛(そのたけひめ、12代景行天皇妃)などに使われています。

 吉備国の人々のDNA(Y染色体)は日本の平均値に比べますと、縄文系が半分以下、江南系が平均値より35%多く、黄河系も平均値の倍あります。つまり、縄文系が少なく弥生系・黄河系が多いのです。縄文人は殺されたり、山奥へ逃げたりしたのでしょうか。
 楚の国姓は羋(び)で呉の国姓は姫(き)です。吉備の名の由来は穀物の黍(きび)という説がありますが、定説はありません。私は呉と楚の姫羋(きび)ではないかと密かに考えています。
 「古代史とDNA」については昨年の12月31日に投稿しましたが、私の母親系は吉備人で父親系は播磨人ですので、自分自身のDNAにも興味があります。Y染色体は父親から息子に伝わっていくものですから、私のY染色体は播磨系なのでしょう。

 「魏略」逸文や「梁書」東夷伝には、倭人は「自ら呉の太伯の後と謂う」と記されています。後漢に交易・朝貢に行っていた奴国は西暦57年に「漢委奴国王」の金印を受けます。初代奴国王となりました。奴国王は呉人系だったようです。
 西暦107年に後漢に朝貢した倭王帥升は奴国王兼倭王になっています。7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊は180年頃の倭国乱で淡路島に隠遁して多賀で亡くなりました。
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by enki-eden | 2013-07-07 00:08

東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)

 奈良県天理市櫟本町(いちのもとちょう)2525の天理教城法大教会の敷地内にあります。駐車場に車を停めて教会事務所に挨拶、古墳の解説書を頂いて登りました。解説書によりますと、「東大寺山古墳は盆地部を見おろすことのできる南北に連なった丘陵上に立地する。古墳群中最も時期の遡る盟主的古墳である。墳丘には葺石が敷きつめられ、墳頂部と中段・下段には埴輪が巡らしてあった。」とあります。

 東大寺山古墳は4世紀後半頃に築造された全長140m、前方部幅50m、後円部径84m、高さ15mの前方後円墳です。副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ鉄刀がありました。
 天理市和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては和邇氏の本拠地であり、関連一族が築造した古墳が丘陵上に点在しており、東大寺山古墳群をなしています。同規模の前方後円墳が他に3基あり東大寺山古墳→赤土山古墳→和爾下神社古墳→墓山古墳の順で築造されています。その一つが当古墳で、後円部を南に向け前方部を北に向けて築造されています。
 この丘陵には奈良県では最大規模の弥生時代後期の高地性遺跡があります。東西約400m、南北300mの範囲内に竪穴式住居があり、二重の空堀が巡っています。
 東大寺山古墳群は、この高地性遺跡と重複するようにして存在し、その遺跡の役割が終わって150~200年ほど後に築造されています。
     黄色のアイコンが東大寺山古墳


 後円部の埋葬施設の主体部は、墳丘主軸に平行する大型木棺(7.4m)を覆った粘土槨があり、長さ推定9.4mの大規模なもので、棺内は盗掘を受けていた。粘土槨の東西に豊富な武器や武具が副葬されていた。東側から「中平」の年号を持つ鉄刀が出土した。古墳からは通常、銅鏡が多数出土するが、当古墳からは1枚も出ていない。全部盗掘されてしまったのか、最初から無かったのか。
 副葬品は鉄刀20本、鉄剣9本、鉄槍10本、320本の鉄鏃・銅鏃、漆塗りの楯・短甲などの武器類、玉類、石製模造品などが出土している。「中平」銘鉄刀を含む5本の鉄刀の環頭は三葉環の鉄刀で、福岡市西区徳永下引地の若八幡宮古墳(4世紀)からも出土している。
 24文字を金象嵌で表した長さ110cmの鉄刀の銘文は、「中平■年 五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 下避不■」と記されている。意味は「中平■年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」。
 中平とは後漢の霊帝の年号で184~189年を指し、184年には「黄巾の乱」により群雄割拠して後漢の国力が衰え末期的症状であった。220年には後漢が滅亡、魏・呉・蜀の三国時代に突入していった。倭国では2世紀終わりごろに「倭国乱」が起こり、争乱状態であった。
 この鉄刀がいつどこで入手され、当古墳に副葬されたのかは分かりませんが、筑紫の鰐族が楽浪郡との交易で入手したのでしょう。
 私見ですが、西暦200年前後に鰐族が筑紫から大和に東遷、現在の天理市に拠点を置く。約200年後の4世紀末に刀剣などを東大寺山古墳に副葬したのでしょう。鰐族が大和に東遷したのは西暦185年頃の饒速日の時か、204年頃開始の神武天皇の時か、何れかだと考えられますが、和珥氏の本拠地が物部氏の領地内であることで、饒速日と共に大和へやってきたと見ています。饒速日東遷には安曇・海部・尾張などの海人族が多数協力していますから、鰐族も一緒だったのでしょう。
 鉄刀に着けられていた環頭は鳥文飾りであり、刀身は内反りしていて、日本の前期古墳に特有の直刀とは違い、中平の年号が示すように後漢製です。
 中国では2世紀後半に後漢の権威が衰え争乱状態になり、184年遼東太守となった公孫度(こうそんたく)は、この地域の実質的な支配者となります。189年に独立政権を樹立し「燕王」を名乗ります。山東半島や朝鮮半島の楽浪郡まで勢力を伸ばしました。西暦190年には後漢の都洛陽が炎上し廃墟となりました。204年には、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置します。和珥氏(鰐族)が交易した相手は楽浪郡の公孫度でしょう。この時期の後漢の記録は争乱のため多くが失われています。
 東大寺山古墳の被葬者は難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)の可能性が高いと思います。副葬されていたおびただしい武器や武具により埋葬者は武人です。難波根子建振熊は神功皇后新羅遠征時(363年)、丹波・但馬・若狭の海人300人を率いて従軍。帰国後の忍熊王との戦いでも活躍しました。建振熊は和珥氏ですが、丹波・但馬・若狭の長となり、海部氏の系図(国宝)にも記載されています。
 建振熊は神功皇后と15代応神天皇時代の功労者として、和珥氏の墓域に全長140mの比較的大型の前方後円墳を出現させたのでしょう。生年は4世紀前半、没年は4世紀末頃です。
 
 難波根子建振熊の系図
  5代孝昭天皇-天足彦国押人命-和爾日子押入-彦国姥津-彦国葺-大口納-
  難波根子建振熊-大矢田宿禰

     東大寺山古墳
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     登り口の説明
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     登り口
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     竹林の中を登る
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     墳頂(周囲は大きな竹林になっている)
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by enki-eden | 2013-07-04 00:19