古代史探訪

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吉備津神社

 岡山市北区吉備津931   備中国一の宮   電:086-287-4111
 主祭神:大吉備津彦大神(五十狭芹彦命、7代孝霊天皇の皇子、倭迹迹日百襲姫の弟)
 相殿:若日子建吉備津日子命(異母弟)、吉備武彦命(若日子の子)ほか。
 本殿・拝殿は吉備津造り(比翼入母屋造り、檜皮葺き)で国宝になっている。

 吉備中山 赤のアイコンが吉備津神社、黄が大吉備津彦命陵(中山茶臼山古墳)

 
 吉備津神社は本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の分割により備中国の一の宮とされ、分霊が備前国(岡山市北区一宮の吉備津彦神社)と備後国(広島県福山市の吉備津神社)の一の宮となった。
     本殿・拝殿(国宝)
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 当神社は「吉備の中山(175m)」の西北麓に北面して鎮座。大吉備津彦は「吉備の中山」中央部の茶臼山(162m)に埋葬されました。全長120m、後円部径80m、高さ12mの前方後円墳(中山茶臼山古墳)で4世紀初期に築造。私見ですが大吉備津彦は250年頃に出生、310年頃に没。ほぼ10代祟神天皇(私見では250年頃出生、318年頃崩御)の時代です。
     吉備の中山
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     大吉備津彦命陵(中山茶臼山古墳)、急な階段を登ります。
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 社伝によると、大吉備津彦は「吉備の中山」の麓に「茅葺宮」を造って住み、この宮で薨じ中山に葬られた。5代の孫である加夜臣奈留美命が「茅葺宮」に社殿を建てたのが、当社の起源とされている。
 吉備津神社では随時、鳴釜神事(なるかましんじ)が行われており、大吉備津彦命に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で吉凶禍福を占う神事です。神官と阿曽女(あぞめ)と二人にて奉仕します。釜の下に温羅の首があるそうです。撮影は控えるようにとありますが、吉備津神社のホームページの鳴釜神事の項目には煮え立つ釜の前で祝詞をあげる神官と阿曽女の様子が載っています。
 私見ですが、吉備と有明海周辺に楚人が居住した関係で、「阿曽」は「阿蘇」と繋がっていると考えています。造山古墳の4km北西に東阿曽と西阿曽という地名があり、そこが阿曽女の出身地です。大吉備津彦に滅ぼされた温羅(うら)の妻は阿曽郷の祝(ほふり)の娘・阿曽媛でした。
 備中国賀陽郡庭瀬村出身の政治家犬養毅(1855年-1932年)は、犬養家の遠祖・犬飼健命(いぬかいたける)が大吉備津彦命の随神であったので当社を崇敬しました。
 お伽草子「桃太郎の鬼退治」において、桃太郎は大吉備津彦であり、家来の犬は犬飼健、猿は楽々森彦、雉は留玉臣、鬼は鬼ノ城(きのじょう)の温羅(うら)がモデルです。
 神池の畔に犬養毅の銅像が建ち、吉備津神社の社号標は犬養毅の揮毫です。
     石の鳥居をくぐり南入口駐車場に向かう。
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     犬養毅の銅像
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     駐車場から社殿を望む。
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     南入口の社号標(犬養毅の揮毫)
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 大吉備津彦は10代崇神天皇による四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦と吉備を平定した。強大な吉備の国を支配することと製鉄・製塩技術を取り込むことが重要な課題であった。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になった。
     南入口から南随神門に至る長い回廊(398m)、岡山県の文化財に指定。
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 吉備津神社本殿・拝殿の檜皮葺きの大屋根は50年に1度葺き替えがあり、5年前に参拝した時は工事中でした。今回は美しい大屋根を見ることができました。
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       拝殿前に「平賊安民」の額
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       拝殿
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       北入口の境内案内図
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       北入口(社号標は犬養毅の揮毫)
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       手水舎の龍
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       北随神門(国の重要文化財、入母屋造り桧皮葺き)
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       北随神門を拝殿前から振りかえる。
       南入口からは緩やかな傾斜の回廊を登るが、北入口からは急な階段を登る。
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by enki-eden | 2013-08-31 00:11

真宮神社(しんみやじんじゃ)

 岡山県倉敷市西尾504  古墳に囲まれて鎮座、駐車場はありません。
 祭神: 建速須佐之男命(たけはやすさのお、厄除けの神・縁結びの神・安産の守護神)
 氏子は地名の西尾と同じ西尾姓の人だけらしい。古墳群の埋葬者は西尾氏の
 ご先祖でしょう。そのご先祖の祀っていた神が須佐之男命でしょう。

   黄のアイコンが真宮神社、赤が楯築遺跡


 真宮神社は倉敷市の北部にある「王墓の丘史跡公園」の南端にあります。神社の北には王墓山古墳群、更にその北には楯築遺跡があります。
 王墓山古墳は明治末に破壊され石材を流用されてしまったらしい。6世紀後半の古墳で家形石棺と大量の副葬品があったので、埋葬者はこの地域の有力者だったのでしょう。副葬品は東京国立博物館に収蔵されています。
     倉敷市教育委員会の説明図
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     真宮神社入口の鳥居
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     大きな石段を登っていきます。右手に鐘楼が見えます。神仏習合?
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     参道左手に真宮古墳群の6号墳。墳丘は流出し横穴式石室が残っている。
     6世紀後半頃の築造。古墳時代が終わる前か終わった後か?
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     頂上近くに拝殿が見えてきました。
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     本殿は瓦葺で千木や鰹木はありません。
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     社殿の周りに環状列石が巡る。
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     社殿の背後には注連縄の岩が。磐座か?
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     一番奥には祠を載せた大きな岩があり、蛇の顔に似ています。(蛇頭岩)
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 古代の吉備国は「真金吹く吉備」といわれるくらいに製鉄の盛んな国でした。吉備国の製鉄遺跡は30ヶ所、製鉄炉跡も100基以上が発掘されているようです。従って吉備の神社に祀られる神様は製鉄関連の神様が多くなります。素戔嗚・五十猛・金山彦・金山姫・金屋子神・稲荷などです。
 吉備は鉄以外にも塩と米の産地で、港の整備・瀬戸内海の制海権により交易が盛んで豊かな国でした。しかし、3世紀から4世紀にかけて大和朝廷の支配に屈服し、税として鉄や塩を納める事になります。
 平安時代になると備前国では原材料の鉄鉱石を確保することができなくなり、鉄の納税を糸などに変更します。ところが、平安時代・鎌倉時代には武士階級による刀剣の需要が多くなります。製鉄の職を失った備前の職人により「備前長船の刀鍛冶」が頭角を現します。現存する日本刀の4割以上は備前製らしいです。備中では「青江の刀鍛冶」が有名になりました。
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by enki-eden | 2013-08-28 00:14

楯築遺跡(たてつきいせき、楯築弥生墳丘墓)

 岡山県倉敷市矢部西山、 弥生墳丘墓で双方中円墳、国の史跡、駐車場あります。
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 王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半)に造営された首長の墳丘墓である。直径約43m、高さ4、5mの不整円を主墳として、北東と南西に方形の突出部があり、全体の長さは72mで弥生墳丘墓としては最大級である。出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。
 楯築墳丘墓は後の時代の古墳につながる要素として、特殊器台やその上に載せる壺が多く見つかっている。独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、2世紀初めから3世紀中頃に作られ、首長埋葬の祭祀に使われるようになった。
 大和では最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)から出土しており、後の近畿の特殊器台型埴輪につながるもので、日本各地に広まっていった。
     王墓の丘史跡公園案内板
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     特殊器台・特殊壷(吉備文化財センターのパンフレット)
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 墳頂には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられている。斜面にも列石が2列に20個ほどめぐらされており、地表の露出分が高さ・幅とも1mほどある。
     墳頂の巨石
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     墳頂から東方に吉備の中山を望む
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 北東の突出部は団地造営で破壊されているが、約10m以上残っている。その上面は幅約3、4mで、平坦に近い。また円礫(丸い小石)が二重三重に置かれている。
 南西側の突出部の長さは約20m以上あり、高さ2mほどの細長い尾根状をしている。先端部の両側が丸く整形されていてその先端には大きな列石がある。
 丹塗りの壷形土器多数が置かれており、墳丘の各所から大型で飾られた器台形や壷形の土器・高坏などが発見され、盛大な埋葬の祭りが行われたことを示している。
     岡山大学による発掘
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 双方中円墳は他にもあり、奈良県天理市の櫛山古墳(祟神天皇陵の東隣り、4世紀後半155m)、香川県高松市の猫塚古墳(4世紀前半、96m)と鏡塚古墳(4世紀前半、約70m)があるが、楯築遺跡が先行的な形態をしている。
   祟神天皇陵の東にある櫛山古墳(両古墳は軸線が冬至の日の出方向を向いている)


 2世紀後半(弥生時代終末期)になると瀬戸内海地方では、古墳時代に先立って大きな墳丘墓が築造された。吉備の国では墳墓に特殊器台・特殊壺を使う大きな勢力があった。楯築墳丘墓はその代表的な首長の墓である。古墳時代中期になると造山古墳(350m)や作山古墳(270m)の前方後円墳が造られるようになる。
 楯築遺跡の主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部に埋葬されていた木棺がこの墓の主人のものと思われる。全長3.5m、全幅1.5mの木槨(外箱)の中に木棺があり、木棺は全長約2m、全幅約0.7mで底には30kgもの朱が厚く敷かれていた。副葬品が木槨の中に置かれており鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉が出土した。これらは岡山大学考古学資料館に収蔵されているが、普段は展示公開されていません。1981年に国の史跡に指定されました。

弧帯文石(弧帯石、国指定の重要文化財)
 墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社のご神体として神石(亀石)と呼ばれる弧帯文様が刻まれた石が鎮座、現在は墳丘上の収蔵庫に祀られている。この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通している。
     弧帯文石を祀る収蔵庫
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     収蔵庫の金網入りガラス窓を通して写したので画像が良くありません。
     数年前に博物館でレプリカを見たことがあります。
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     纏向遺跡弧文板(奈良県桜井市埋蔵文化財センター)
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 墳頂に立てられた環状列石を、古代人は矢を防ぐ楯と考えた。それで楯築という地名が付けられ、吉備津彦の温羅退治伝承の舞台の一つとなった。 列石は古墳につながる要素が多いが、古墳と全く異なる要素もあり、考古学上非常に重要な遺跡であるという。
 また、この墳丘墓には排水溝が作ってあり、こうした付帯設備は後の古墳に引き継がれている。  古墳時代の墓には見られない現象として、竪穴式石室の代わりに木槨が使われており、鏡は出土していない。また、墳頂部に葺石があったが、墳丘の裾の部分は石で囲んでいない。
 3世紀後半になると、大和において吉備の弥生墳丘墓・纏向型前方後円墳・北部九州の葬送儀礼などが収斂して古墳時代へ入っていく。箸墓古墳が画期となり、巨大な定形型前方後円墳が全国に広がっていく。それを進めていったのは10代祟神天皇(250年頃出生、318年頃崩御)です。

 岡山市にある津島遺跡は、北九州の板付遺跡とともに、日本で最も早く稲作が始まったことを示す遺跡です。吉備国の版図は岡山県全域、広島県東半分(備後)、香川県島嶼部、兵庫県西部(佐用郡の一部と播磨の一部など)にまたがる強大な国でした。巨大古墳が造られ、中国山地での鉄生産(たたら製鉄)が盛んで、吉備の枕詞が「真金吹く まがねふく」と言われるくらいでした。
   真金ふく 吉備の中山 帯にせる 細谷川の おとのさやけさ   (古今集)
 
 また、塩の一大生産地だった吉備は、全国への塩の供給地でもありました。瀬戸内海の制海権を握る強大な水軍もありました。
 出雲風土記に素戔嗚のヤマタノオロチ伝説が記載されていないのは、風土記が成立した8世紀には出雲南部は吉備国になっていたからという説があります。
 しかし、吉備国は強大であるが故に大和朝廷から何度も勢力削減策が講じられ、分国され、押さえ込まれていきました。

 DNAのY染色体を地方別に見ますと吉備(中国地方)の特徴が分かります。D系統(縄文系)が19%と低く、その分O1a(楚系)が19%と非常に高く、O3(漢系)も31%と非常に高くなっています。O2b(呉系)は平均より少し低くて31%です。これは揚子江(長江)の江南人が有明海と吉備に大勢やってきて住みついたという説の証明になると私は考えています。有明海や吉備の自然環境が揚子江(長江)と良く似ていたから定着したのでしょうか。
 縄文系のDNA(D系統)は本州や四国の山間部では5割を占めています。弥生人に追われて山に逃げた縄文人という説に合致すると思います。

 また、吉備の人は古代に大和にやって来て住み着いています。JR桜井線香久山駅の南の桜井市吉備です。もう1ヵ所、高取町の吉備で近鉄吉野線の壷阪山駅の南西です。大和には全国の地名が多いですが、それは全国から日本の中心に人々がやって来て住み着いたからでしょう。
 吉備姫王(きびひめのおおきみ・643年没、吉備島皇祖母命) は29代欽明天皇の孫娘です。茅渟王の妃となり、33代皇極天皇(37代斉明天皇)と36代孝徳天皇を産みました。吉備姫王の名の由来は母親が吉備人だったからでしょう。吉備姫王は欽明天皇陵の西側にある小円墳に葬られました。
     赤と青のアイコンが「吉備」、黄が吉備姫王墓


     吉備姫王墓
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     説明板
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     墓内の猿石
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by enki-eden | 2013-08-25 00:09

造山古墳(つくりやまこふん)

 岡山県岡山市北区新庄下(しも、旧加茂村)  5世紀前半築造の首長墓  国の史跡
 全長350m、後円部径約190m、後円部高さ約29m、前方部幅215m、高さ25mの3段築成で岡山県1位の大きさ、全国でも4位の巨大な前方後円墳。くびれ部には造り出しがあります。造山古墳群の中心墓になっており、幅20mの周濠跡がありました。



 墳丘表面には葺き石、各段には円筒埴輪が巡らされており、形象埴輪も検出されている。前方部前面には千足(せんぞく)古墳、榊山(さかきやま)古墳などの陪塚がある。千足古墳の石棺には直弧文が彫られている。
 この時期は畿内河内でも15代応神天皇陵(425m)、16代仁徳天皇陵(486m)、17代履中天皇陵(360m)など巨大前方後円墳が出現しました。造山古墳は大和朝廷の大王墓に匹敵する規模を持っているので、吉備の大首長にはそれ相応の勢いがあったのでしょう。
 造山古墳は吉備の首長ではなく、大和朝廷の王族墓という説もあります。発掘できる古墳ですが後世に現状を残すため、本格的な発掘は行われていません。
 前方部に荒(こう)神社が鎮座。境内に石棺と蓋石(残片)があります。石棺は阿蘇溶結凝灰岩製で、蓋石には直弧紋が彫られており、九州の石棺の特徴を持っています。
 造山古墳の5km北に総社市東阿曽西阿曽があり、この地の巫女を阿曽女(あそめ、あぞめ)といいます。吉備津彦の鬼退治に出てくる温羅(うら)の妻は阿曽の祝(はふり)の娘・阿曽媛でした。吉備と阿蘇は民族的・文化的に共通しているのでしょうか。
 岡山県総社市に作山古墳(つくりやまこふん、5世紀後半、286m)があるので、地元では造山古墳は「ぞうざんこふん」、作山古墳は「さくざんこふん」と呼んでいるようです。

 私見ですが、有明海周辺と吉備は弥生人の中でも楚人が多い地域となっています。楚人は高い文明と鉄器による強い武力で、影響力が非常に大きかったと思います。2世紀の楚人のマレビトが素戔嗚ではないでしょうか。素戔嗚(布都斯)は布都の子として西暦140年頃に生まれました。列島を纏め、国の始祖であったと考えています。全国に素戔嗚を祀る神社が多い訳です。素戔嗚の先祖が紀元前3世紀に列島へ渡来してきた経路は、秦→新羅→倭だと考えています。素戔嗚は北部九州では奴国王を支えていたと考えられます。奴国王の伊弉諾尊と綿津見豊玉彦とは姻戚と同盟関係により強く結びついていました。
 DNAのY染色体の比率は全国平均では呉人は33%弱、楚人は3%強ですが、吉備では呉人は31%強、楚人は19%弱で、吉備における楚人の比率は相当高くなっています。

   立派な無料駐車場があります。中央の金色は「吉備の大王」像。
   背景が造山古墳で、右が後円部、左が前方部。
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   駐車場にパンフレットが置いてあります。
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   造山古墳群
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   整理された階段を登ってきた
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   前方部から後円部を望む
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   東の方に吉備の中山を望む
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   岡山市教育委員会の説明板
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   前方部に鎮座の荒(こう)神社
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   荒神社前の石棺
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         拝殿
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      拝殿内
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      本殿
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      後円部墳頂
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      後円部から前方部を望む
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by enki-eden | 2013-08-22 00:05

但馬国の考古学

 「兵庫五国の考古学」第4回目は但馬国の考古学です。8月17日(土)に兵庫県立考古博物館で講演がありました。講演者は兵庫県豊岡市にある「但馬国府・国分寺館」の前岡孝彰氏でした。
     兵庫県立考古博物館
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   館内には時代別に壷や甕がたくさん展示されています。左の壷は弥生時代前期の
   加古川市美乃利遺跡出土で、地面に穴を掘り、据えられた状態で見つかりました。
   中央の弥生時代中期の壷は神戸市玉津町田中遺跡の川の中から見つかりました。
   右の壷は弥生時代末期の朝来市梅田東13号墳出土で、棺おけとして使われて
   いました。
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下の地図を航空写真地図に変更すると、但馬は殆どが山で川の周辺に平地があります。


   但馬の国の地理・地勢(面積 2,133km2、 人口 18万人、 85%が山地)
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       但馬国府・国分寺館
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但馬は近畿か山陰か!?
 日本海に面した但馬国は、兵庫県の中でも特異な歴史・文化をもつ。日本海側の文化と
瀬戸内側の文化とどちらの影響を強く受けているのか?
 現代は兵庫県(近畿地方)に属しており、テレビ・ラジオは全て関西のもの。
 人や物の流れは神戸・大阪・京都がほとんど。
 しかし、日本海側にあるので冬は雪が多く、古代の五畿七道では「山陰道」となっている。
 JRは山陰本線で、但馬弁も「~だしけぇ」「そうだら」など一部に山陰系が残っている。

旧石器時代から縄文時代の但馬
 想像以上に活発な地域間交流があり、旧石器時代には奈良県二上山産出のサヌカイトのナイフ形石器が出土しました。
 縄文時代には隠岐産出の黒曜石の石鏃、東北地方の縄文土器などが出土し、活発な交流があり、居住地域も転々として地域の特色はありません。

弥生時代前期の但馬
 日本海を通し活発な交流があり、日本海沿岸地域に土笛が出土しています。とは言っても山陰文化と呼ぶほどのものではありません。
 但馬には主要な王墓はなく、東の丹後に集中します。

弥生時代後期の但馬
 「墓と土器」に地域ごとの特徴が現れ始める。但馬・丹後では「台状墓」が造られるようになる。土器では山陰文化の影響を受けて統一された形になります。但馬・丹後は台状墓や土器など共通の独自の文化をもつようになりました。

古墳時代前期の但馬(3世紀~5世紀)
 大和政権が地方に進出するが、山陰には進出が遅い。
     円筒埴輪にも特徴があり、上部が開かずに閉じているものが出土する。
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古墳時代中期・後期の但馬(5世紀~6世紀)
 大和政権の影響力が大きくなる。畿内系横穴式石室が多く分布し、石室の地域性はありません。
 池田古墳(朝来市和田山町平野、141m、周濠を含めると170m)は中期に大和政権の強い影響下で造られ、但馬最大の前方後円墳です。但馬・丹後の王墓と考えられます。
 墳丘のテラスに円筒埴輪や葺石が並んでいるのが確認され、また三段築成で楯形の周濠を持っていました。
 4世紀末から5世紀初め頃の築造で、兵庫県指定文化財(史跡)に指定されています。
 鳥形埴輪23体分が出土し全国最多となりました(2位は応神陵の15体)。内1体は殆ど損傷がなく、水鳥形埴輪がほぼ完全な形で出土したのは、全国でも初めてのことです。
 埴輪の成分は奈良県の巣山古墳の埴輪と同じですから結びつきが考えられます。
   池田古墳地図


     池田古墳と、船宮古墳(91m)の円筒埴輪
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 但馬は古墳時代前期までは山陰・日本海側の文化であり、古墳時代中期以降は近畿の文化となります。その変化のきっかけは池田古墳の築造ですが、政治の変化により地域区分は容易に変わるが、実際の人々の動きはなかなか変わりません。

飛鳥・奈良時代の但馬(7世紀~8世紀)
 統一国家が誕生し、天皇集権国家が完成。全国統一の価値観が浸透する。

 結論として但馬は東の丹後との結びつきがあるが、古墳時代中期までは近畿に近い丹後に中心があった。4世紀末から5世紀始めに池田古墳が朝来市和田山町平野に築造される頃になると、但馬も近畿色が強くなっていく。

 神功皇后の新羅遠征時(363年頃)に難波根子建振熊が丹波・但馬・若狭の海人300人を率いて従軍。建振熊は和珥氏ですが丹波・但馬・若狭の長になり、海部氏の系図に大倉岐命の子として名が記載されています。
 海部氏は13代成務天皇の時(4世紀半ば)に大倉岐命が丹波国造(丹波・但馬・若狭)として任に就き、海部氏が8世紀の初頭までの約350年間当地を治めました。
 私見ですが、池田古墳の被葬者が海部直(海部氏の長)であった可能性が高いと考えます。被葬者は建振熊の子・建振熊宿禰か、孫・海部直都比かもしれません。
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by enki-eden | 2013-08-19 00:07

住吉神社(神戸市西区押部谷)

 神戸市西区押部谷(おしべだに)町細田302 電:078-994-4406 駐車場あります。
 祭神:第一本殿 底筒男命(そこつつおのみこと)
    第二本殿 中筒男命(なかつつおのみこと)
    第三本殿 表筒男命(うはつつおのみこと)
    第四本殿 気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)

 押部の庄の氏神となっています。神社の由緒によると『当神社は天平勝宝6年(754年)、摂津の国住吉神社の社家、津守連(つもりのむらじ)が楯神・鉾神と共に宮山「今の元住吉山」に勧請したのが創まりと伝えられている。その後、疫病が流行し、そのうえ五穀が実らぬ年が続いたので村人らは御神託により、永禄2年(1559年)に現在の宮地に移遷しました。
 また、文禄3年(1594年)には高和の社地(1km南の高和小学校前)に御旅所を定め奉りました。天正7年(1579年)の6月25日に豊臣秀吉の三木城攻めの兵火にかかり社殿をことごとく焼失するも、正保4年(1647年)に四別棟を再建し、享保19年(1734年)本殿が建立されます。本殿・四殿と正保4年の棟札が神戸市指定有形文化財に指定されております。
 また、住吉三神はその昔、伊邪那岐命が筑紫の日向で禊(みそぎ)をした時に生まれた清祓の神様です。
 気長足姫命は14代仲哀天皇(320年頃-362年頃)の皇后・神功皇后です。気長足姫命は熊襲ならびに新羅遠征に赴く折、当神社の場所に足を留めました。その時、皇后は皇子を懐妊していましたので、川の流れる水で清め、「皇子真に神の子ならば、事畢りて還る後筑紫にて生ませ給え」と神に祈られ、岩を砕いて帯の間に挟み征途につきました。
 そして新羅より帰途の筑紫にて皇子を出産しました。この言い伝えによって当神社の横を流れる明石川の河原には安産岩「産之磐」が今もあり、安産の神様として厚く信仰されております。』とあります。
 私見ですが、神功皇后の生没年は西暦330年頃-389年頃です。皇子・15代応神天皇の出生は363年頃です。神功皇后陵については4月8日投稿の記事「神功皇后陵」をご覧ください。

   赤のアイコンが住吉神社、緑が御旅所


     明石川沿いの住吉神社
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     社号標
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     説明書
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     鳥居
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     由来
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     拝殿
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     拝殿内
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     本殿
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 「押部谷」は、忍海部(おしんべ)に由来する地名です。忍海部は飯豊皇女(忍海部女王)の部民で、飯豊皇女の兄が23代顕宗天皇と24代仁賢天皇です。明石川上流の木幡若宮神社(こばたわかみやじんじゃ)には、顕宗天皇・仁賢天皇の逃亡伝説に登場する忍海部造(おしぬみべのみやつこ)細目の屋敷跡があります。「細目」や「目一箇 まひとつ」は製鉄関係者ならではの名前でしょう。
 顕宗・仁賢兄弟は21代雄略天皇(479年崩御)に父の市辺押磐皇子を謀殺され(456年)、追跡を逃れて明石郡を転々と移動して隠れていました。細目に保護されていましたが、細目の家の新築祝いで舞いを通じて身分を明かし、482年に宮中に迎え入れられました。
 この地域は物部氏の展開や、鍛冶製鉄技術者としての忍海漢人との関係が深いようで、大歳神社・住吉神社が鎮座しています。

   赤いアイコンが住吉神社、緑が大歳神社、青が木幡若宮神社、黄が顕宗仁賢神社


     大歳神社(押部谷町桜ヶ丘)
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by enki-eden | 2013-08-16 00:05

素戔嗚神社(三輪)

 考古学者の森浩一先生が8月6日に85才でお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 私は先生の著書を読むのが好きでしたが、昨年4月28日に大阪で特別講演がありましたので受講しました。題は「倭人伝を丁寧に読むことから」でした。その中で先生は、「当時の倭人は漢字を書ける人がいたので、倭人伝に出てくる倭人名は倭人が書いて渡した」と言われたのが印象的でした。また、「臺與の時に大和へ東遷した」とも言われました。
                 森浩一先生
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素戔嗚神社
 奈良県桜井市三輪、 駐車場はありませんが大神神社の駐車場から250mほどです。
 祭神: 素戔嗚尊



 参道入口の社号標、奥に薬師堂、右手に素戔嗚神社、その右隣に白山神社
  
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     由緒
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  素戔嗚神社の鳥居と拝殿(大きな注連縄が目立つ。ヤマタノオロチを連想。)
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     本殿(千木は垂直切り、鰹木は4本)
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     磐座
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by enki-eden | 2013-08-13 00:03

神宝神社(かんだからじんじゃ)と天皇社

 神宝神社
 (熊野社)   奈良県桜井市三輪字大宮川上   大神神社末社
 祭神: (熊野三神)家都御子神、熊野夫須美神、御子速玉神。
      (けつみこのかみ、くまのふすみのかみ、みこはやたまのかみ)
 本殿は春日造り、銅板葺き。大神神社の右奥に鎮座。
 由緒によると、祭神は室町時代の神社資料に「熊野権現」と記され、熊野三神をお祀りしています。 元日未明、大神神社の<ご神火(しんか)祭り>繞道祭(にょうどうさい)の十八社巡りにおいて、三ツ鳥居から出た御神火が捧げられ、最初に祭典が営まれる神社です。 古くから三宝荒神の信仰もあり、また財宝の神として 広く崇敬されています。
     大神神社三つ鳥居
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     神宝神社鳥居
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     神宝神社の由来
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     神宝神社本殿
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天皇社
 奈良県桜井市三輪字天王山   大神神社末社
 祭神: 御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにゑのみこと、10代祟神天皇)
 本殿は神明造り、桧皮葺き。神宝神社に隣接しています。
 奉讃祭(ほうさんさい)では斎主拝礼のあと巫女が舞う神楽「磯城の舞(しきのまい)」が奉奏されます。
      三輪山パンフレット(青い矢印が神宝神社、赤が天皇社)
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     天皇社鳥居
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     天皇社の由来
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     天皇社本殿
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by enki-eden | 2013-08-10 00:03

丹波国の考古学

 兵庫五国の考古学3回目は丹波国の考古学です。兵庫県立考古博物館で8月3日(土)に講演会が行われました。講師は篠山市教育委員会の植木 友氏でした。
       兵庫県立考古博物館
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        兵庫五国
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 「丹波(たんば)」の由来は、和名類聚抄に「太迩波(たには)」と載っています。「田庭」か「谷端」の意味でしょうか。丹波の地勢は篠山盆地(篠山川)、亀岡盆地(大堰川 おおいがわ)、福知山盆地(由良川)に分かれています。
 丹波国の郡は多紀郡(たきぐん)、氷上郡(ひかみぐん)、桑田郡、船井郡、何鹿郡(いかるがぐん)、天田郡(あまだぐん)です。
 植木氏は丹波国の中の篠山盆地における考古学について話してくれました。
 丹波山地に囲まれた篠山盆地の中央は湖だったが、縄文時代に排水され盆地になったようです。
     篠山市の位置
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     上空から見た篠山盆地
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 旧石器時代の板井寺ヶ谷遺跡、縄文時代の藤岡山遺跡(縄文土器)と波賀野遺跡(集落遺構)があります。
     縄文時代の篠山盆地
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 弥生時代前期には岩崎四ノ坪遺跡と口坂本遺跡(稲作のはじまり)、中期の桂ヶ谷遺跡(播磨系のイチマル型中央土坑を持つ竪穴住居)、後期のずえが谷遺跡(日本海系の墳墓)と内場山墳丘墓(素環頭太刀など副葬品・篠山盆地最初の首長墓)があります。
     弥生時代の篠山盆地・桂ヶ谷遺跡の大規模集落
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     弥生時代の大規模集落・桂ヶ谷遺跡(播磨系の影響)
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     弥生時代の墳墓(日本海系の影響)
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     最初の首長墓・内場山墳丘墓(副葬品が多い)
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 古墳時代には雲部車塚古墳(兵庫県第2位の前方後円墳で宮内庁陵墓参考地)、北条古墳(30mの方墳)、新宮古墳(篠山盆地最大の円墳)などがあります。
  古墳時代・雲部車塚古墳(158m、陵墓参考地、被葬者は丹波道主命か?)
  丹波道主命は3世紀後半から4世紀始めに活躍し、10代祟神天皇の丹波将軍に
  なりました。9代開化天皇の孫で、11代垂仁天皇皇后・日葉酢媛の父です。
  雲部車塚古墳は5世紀初頭に築造と推定されていますので、15代応神天皇の
  頃です。4世紀前半に亡くなった丹波道主とは時代が合いませんがねぇ…
  古墳の両脇に陪塚がありますので車のように見えることから車塚と呼ばれています。
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   兵庫県立考古博物館で4月に展示された雲部車塚古墳の石棺レプリカ
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     雲部車塚古墳を明治29年に調査しました。
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     中世の丹波焼窯跡(日本六古窯の一つ)
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 丹波篠山といえば、丹波黒大豆、丹波栗、松茸、ぼたん鍋、デカンショ祭、丹波焼き、篠山城、落語の桂文珍などでしょうか。一度行ってみたいですね。車塚古墳には行きましょう!
 由緒ある神社があるか探しておきますが、とりあえず丹波の地図を見ますと、住吉神社が多いです。篠山市今田町一帯は住吉大社の荘園「小野原荘」でした。
 多紀郡(特に今田町)から加東郡・小野市へかけて住吉神社の分布が多いのは、住吉大社の椅鹿山領(はしかやまりょう)がこのあたりにあったからだそうです。播磨の地図を見ますと大歳神社が多いですが、住吉神社も多いです。

 住吉神社で思い出しましたが、京都府宮津市中野に鎮座の籠神社奥宮真名井神社の背後の山は神体山として禁足地になっており、磐座があります。磐座に石碑(下の写真)があり、塩土老翁(亦名住吉同体・大綿津見神・亦名豊受大神)とあります。塩土老翁は大綿津見神であり、亦の名を住吉大神・豊受大神ともいう、四神が同じ神であると表記しているのです。
 本当に同じ神かもしれませんが、四神をそれぞれに祀る部族が姻戚や同盟により同族になって、それぞれの祖神を異名同神にしたということでしょう。
 籠神社については1月24日に投稿の記事を御覧ください。
       真名井神社背後の神体山の石碑
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by enki-eden | 2013-08-07 00:02

恵比須神社(桜井市三輪)

三輪坐恵比須神社(みわにいますえびすじんじゃ)、「三輪のえべっさん」
 奈良県桜井市三輪375   電:0744-42-6432   駐車場はありません
 祭神: 八重事代主命、八尋熊鰐命、加夜奈留美命
 由緒:
 日本最初の市場である海柘榴市(つばいち)の守護神として創建されました。「つばいちえびす」として商売繁盛、福徳円満の古社であり、恵比寿信仰の大元です。海柘榴市は三輪山の南麓の金屋で、初瀬川の川べりに物々交換の市として開かれました。
 926年7月(60代醍醐天皇の時代)の大雨で、初瀬川が氾濫して、市は海柘榴市から三輪の地へ移りました。その時、市の守護神も三輪に移されました。海石榴市の守護神から三輪市の守護神となり、市の繁栄とともに信仰を集め、今日の恵比須神社になっています。従って、当神社は「市場神社」あるいは、「日本最初市場の神」と称し、あらゆる産業の守護神として信仰されています。
   日本最初市場 三輪坐恵比須神社由緒・略記
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 海柘榴市は、歌垣(うたがき・市などに男女が集まり、歌や飲食などを楽しむ)が行われた所としても有名です。 現在の合コンのようなものでしょうか。私は行ったことがありませんが…
 万葉集にはこの海石榴市で詠まれた男女のやりとりの歌があります。

  紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十の街(やそのちまた)に 逢へる子や誰れ
                                   万葉集 12‐3101
  
  
  たらちねの 母が呼ぶ名を 申(まお)さめど 路行(みちゆ)く人を 誰と知りてか
                   3101への返歌      万葉集 12‐3102
  
  海石榴市の 八十の街に 立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも
                                   万葉集 12‐2951

     鳥居
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     拝殿
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     拝殿内
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     日本最初市場
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     ケヤキの神木
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   境内社の琴比羅神社(祭神:大物主神)
   日本で最初に開けた海柘榴市(つばいち)ゆかりの流れを汲む恵比須神社の
   境内に祀られ、恵比寿・大黒の大黒として増殖・蓄財のご神徳が仰がれています。
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 祭神の中で加夜奈留美命はあまり有名ではありません。備中一宮・吉備津神社の社家の筆頭は賀陽(かや)氏ですが、「加夜」は「賀陽」でしょう。賀陽氏は備中国賀夜(かや)郡(現在の岡山県総社市東部、岡山市西部、上房郡賀陽町、有漢町)を本拠地とした豪族です。大和朝廷に早くから采女(うねめ)を出していました。
 奈留美は現代的には女性名に見えますが、男性でしょう。
 吉備津神社の創建は、社伝によれば吉備津彦命(7代孝霊天皇皇子)より5代目の加夜臣奈留美命が、吉備の中山の麓に祖神である吉備津彦命を祀ったとあります。

 志賀 剛著「神名の語源辞典」によりますと、『賀夜奈留美命神社(大和・高市郡)の語源は「山の陜(かい)なだらかな所にある神社」。かい→かえ→かや(賀夜)となる。タルミは山や丘の傾斜地のこと。タルミ→ダルミ→ナルミとなる。』とあります。
 吉備津神社は北随神門から入るには急な階段を登りますが、南随神門から入るには「なだらかに上る」長い回廊を上って行くことになります。大和の飛鳥川上流に鎮座の加夜奈留美命神社は「なだらかな傾斜地(坂)」にあります。
 また、「三輪(ミワ)は水輪で、水(川)の曲がる地点を指す。三輪山は初瀬川が曲がって水の輪となる所にある。全国の三輪・美和・三和・箕勾・弥和は全て水(川)が輪になっている所である。」とあります。
     初瀬川が三輪山の南で曲がる所

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by enki-eden | 2013-08-04 00:03