古代史探訪

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杉原紙(すぎはらがみ)研究所

 兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽768-46   電:0795-36-0080  水曜日定休。
 駐車場は青玉神社と同じく「道の駅R427かみ」です。

 青玉神社参拝後、道の駅のレストラン車留満(しゃるまん)で昼食にしました。お勧めは播州百日地鶏定食の「しゃるまん定食」です。本当においしかったですよ!
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 昼食を済ませ、道の駅の川向こうにある杉原紙研究所に行きました。加古川の支流・杉原川が流れていますが、大変美しい綺麗な川です。ここは兵庫県のほぼ中央に位置する多可町加美区の杉原谷にあります。周りを800mほどの山に囲まれ、清流杉原川に沿って狭い平地が続きます。


 杉原紙研究所で作られる杉原紙(すぎはらがみ)は宮中の歌会始めに使われます。杉原紙研究所の左には和紙博物館もあります。
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 杉原紙は、兵庫県の重要無形文化財・伝統的工芸品に指定されており、1,300年の歴史と伝統を持つ和紙です。平安時代になると杉原紙は「播磨紙」と呼ばれ、他の地方より進んだ製紙技術で写経用箋などを漉(す)いており、紙の質・生産量は日本一の紙でした。
 天下の名紙として愛好され、江戸時代の杉原谷の製紙業者は300軒余りあったそうですが、近代には西洋紙に圧倒され途絶えてしまいます。伝統の紙を復活しようと、多可町が昭和47年に杉原紙研究所を設立し、昔ながらの技法で紙漉(かみすき)をしています。
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 研究所の前に原料の楮(こうぞ)が植えられていますが、桑の木かと思いました。説明を見ると、楮はクワ科でした。
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 楮(こうぞ)の川さらし。雪の舞う厳しい気候が杉原紙をより白くする。冬は雪深い地域です。
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     紙漉き(かみすき)の実演をしてくれました。体験実習もできますよ。
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       天日干し
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by enki-eden | 2013-09-30 00:05

青玉神社(あおたまじんじゃ)

 兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽(とりま)735
 祭神:天戸間見命(あまのとまみのみこと、出雲から来た製鉄の神、別名:天目一箇命)
 大歳御祖命(おおとしみおやのみこと、合祀)

 駐車場は神社の向かいの「道の駅R427かみ」です。
  (兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽 733-1  電:0795-36-1919)
 兵庫県宍粟市の伊和神社のように、道向かいの「道の駅」が駐車場になっています。地方を旅行していると「道の駅」が本当に便利ですねぇ。
       道の駅R427かみ
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 三国岳の頂上に鎮座し、後に現在地の村里へ遷座した「式内社天目一神社(あめのまひとつじんじゃ)」の祭場(まつりば)が「とりば」となり、「鳥羽」の文字が当てられ「とりま」と呼ばれるようになったといわれています。後に青玉神社と改称されました。
    赤のアイコンが青玉神社、黄が三国岳


 西日本の山間部は中国山地を中心として蹈鞴製鉄の盛んな地域です。中国山地は東西に長く、東は兵庫県の市川・円山川付近から、西は山口県までの約400kmもあります。兵庫県の氷ノ山(ひょうのせん、標高1,510m)を除くと、高い山では標高約1,000m ~1,300m、低い山では標高200m ~500mの山で構成されています。
 中国山地は花崗岩が多く、風化しやすく磁鉄鉱を多く含んでいます。風化して堆積した砂鉄は長門・石見・出雲・安芸・吉備・伯耆・因幡・但馬・丹波・播磨などの「たたら製鉄」の原料となりました。
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 従って、兵庫県でも素戔嗚・大歳・大己貴・天目一箇・金山彦・金屋子・石凝姥(イシコリメ)・天日矛・木花咲也姫など製鉄神を祀る神社が多いのです。天目一箇神は古語拾遺、日本書紀、播磨国風土記に登場しますが、目一箇(片目)は製鉄職人の特徴で職業病のようなものでしょう。
 天目一箇神は播磨国風土記の託賀郡(多可郡)の条に天目一命の名で登場します。道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父の分からない子を産んだので、道主日女命のところに通ったことのある豪族を集めて宴席を設けました。子に盟酒(うけいざけ)を注ぐ相手を諸豪族から選ばせたところ、天目一命に注いだことから天目一命が子の父であると分かったというものです。盟酒については1月2日に投稿の「盟酒(うけいざけ・父親を占いで探す)」をご覧ください。
 蹈鞴(たたら)の語源は、中央アジアトルコ系民族のダッタン(タタール)という説があります。

 青玉神社は加古川の支流杉原川の上流に鎮座、3km北には播州峠があり、播磨国と丹波国の国境です。
      社号標
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      天戸間見の森
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 鳥居は両部鳥居(りょうぶとりい)で、鳥居の柱を支える稚児柱があります。笠木の上には笠(屋根)がありますが、扁額にも屋根がついています。冬の雪対策か。
 この形の鳥居で一番大きいのは日本三景・安芸の宮島に鎮座の厳島神社の赤い大鳥居です。
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      入口の説明板
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      杉の大木
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      境内の案内板
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      手水舎の龍
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      池の中の岩に青玉が
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休み石
 その昔、井ノ岡(猪の岡)という狩人が三国山に狩りに行った帰り道、背中が急に重くなり、ここ迄やっと辿りつき、動けなくなった。
 この休み石に腰かけ、しばらく休んだ後、帰ろうと立ち上がれば背中が急に軽くなった。急いで村に帰り、この事を村の人に話した。村の長老がそれはきっと神様やと言った。
 山頂の青玉さまを背負ってきたのだから、ここに神様を祀れということだといって、この地を清め青玉神社として祀りましたとさ。
 休み石の前に「足腰の痛い人、肩がこる人、こんな方を知っている人 一度拝んで下さい。」と書いてあります。私も拝みました。
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      拝殿、千木は垂直切り、鰹木は5本。
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 本殿は柿葺(こけらぶき)流造、老朽化のため建物で覆われています。
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 乳の木(銀杏の大木、高さ25m・幹回り4m)は樹齢500年で、太い枝に大きな乳房に似た変形枝ができています。乳の出がよくない母親や乳房の悩みにご利益があるそうですよ。
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     本殿右に熊野神社(境内社、祭神:伊邪那岐神)
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      本殿左には愛宕神社、山神社、稲荷神社
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 境内には杉の巨木が林立し神聖な空間を感じます。その中の大杉7本が兵庫県指定天然記念物になりました。最も大きな杉は「夫婦杉」(高さ45m、幹回り11m)で、樹齢千年だそうです。地上8mから二俣に分かれているので夫婦円満と縁結びのご利益が信じられています。
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by enki-eden | 2013-09-27 00:03

神社の鳥居

 神社に参拝しますと入口に鳥居があります。入口が数ヶ所あればそちらにも鳥居があり、参道が長ければ途中にも二の鳥居・三の鳥居が続きます。境内社があれば小さめの鳥居があります。
 鳥居は、「入口の門」「神様への目印」という考え方もできますが、神社の神域と人間の俗界を区別する結界を示しています。ですから、神社に参拝する時は鳥居の前で一礼、手水舎で手と口をすすぎ、参拝をし、帰りは鳥居を出た所で向かい直して一礼することが一応の作法となっています。
 鳥居の起源は、日本列島に移住または逃亡してきた弥生人が江南地方で使っていた「村の門」という説があります。その門や庭に立てた高い柱の頂には鳥の模型がとまっています。

 その鳥居には多くの種類があるのに驚きます。同じ神社でも入口の鳥居と二の鳥居の種類が違う場合があります。
 一般的で多いのは明神鳥居です。中世以降に始まり、柱に台石がつき、笠木には反増(そりまし)のついているのが特徴です。2本の柱は少し転び(傾斜)がついています。次の写真に鳥居の各部名称を入れました。
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 明神系鳥居には、稲荷鳥居・両部鳥居・三ツ鳥居・住吉鳥居・宇佐鳥居・山王鳥居などがあり、少しずつ形が違ってそれぞれの特徴が出ています。
       若宮社(大神神社の境外摂社、奈良県桜井市)
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       桧原神社の三つ鳥居(三輪鳥居)と注連柱(奈良県桜井市)
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 明神鳥居と名前が似ていますが、神明鳥居は非常にシンプルで、貫が外に出ていない。島木や額束もありません。柱は垂直になっている場合が多いです。神明系鳥居には伊勢鳥居・鹿島鳥居・靖国鳥居・黒木鳥居などがあります。それぞれ少しづつ違いがあります。
     伊弉諾神宮(淡路市)
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 八幡鳥居と春日鳥居は、「転び」がついて2本の柱の下部が少し開いていることと、島木が笠木の下に重なるように加わり、額束がついているのが特徴です。反増はなく水平で、神明系ともいわれます。
     日前宮(和歌山市)
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 これ以外にも三柱鳥居などがあります。また、鳥居ではなく注連柱の形態もあります。
     伊和神社の注連柱(兵庫県宍粟市)
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 そして関西の神社では見ることのできない珍しい鳥居が九州にあります。肥前鳥居(ひぜんとりい)といいます。
 肥前鳥居は、肥前国の鳥居独特の形式で、慶長年間(1596~1615)に造営が盛んだったことから、慶長鳥居ともいわれています。石で出来ており、佐賀県・長崎県を中心に、福岡県の一部にも使用されています。
 肥前鳥居の特徴は、笠木の先端が大きな反りをみせて上方に跳ね上がることです。そして柱の下に行くほど太くなっていき、どっしりとした柱です。笠木・島木・柱が3本継ぎになっており、柱の上端に台輪(だいわ)があります。貫には楔が使われていません。
     村田八幡宮の肥前鳥居(鳥栖市村田町)
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神社の非常に多い壱岐島(長崎県壱岐市)
 壱岐島の面積は約139km²、人口は約28,000人です。人口密度は 202人/km²。
 古来より神社が多く、延喜式において市内の24社が式内社に指定され、現在でも150社が神社本庁に登録されている。市民187人に神社1社、神社密集地域ですね。
 その他の神社も含めると300社ほどあるそうです。その中でも、日本神道発祥の地と言われるのが月讀神社(つきよみじんじゃ)です。長崎県壱岐市芦辺町国分東触464に鎮座。鳥居は肥前鳥居です。
 京都市西京区松室山添町15の月読神社は、壱岐の県主(あがたぬし)の先祖忍見宿祢(おしみのすくね)が487年に壱岐島から分霊したものです。

 神社本庁で思い出しましたが、神社の神職には6段階の身分があり、最高位は「特急」です。一級、二級上、二級、三級、四級と続きます。兵庫県の「特急」は4人で、伊弉諾神宮(淡路市多賀)の名誉宮司、生田神社(神戸市)・長田神社(神戸市)・日岡神社(加古川市)の宮司です。正装(衣冠)は身分によって違います。

 壱岐市は地元産の大麦を使って麦焼酎発祥の地でもあります。次の写真の左側は私が6月にもらった壱岐の麦焼酎・猿川(さるこう)です。酒造会社は月讀神社の3kmほど東南にあります。更に2km南には原の辻(はるのつじ)遺跡があります。原の辻遺跡は弥生時代から古墳時代前期にかけての大規模環濠集落です。魏志倭人伝に記された一支国(いきこく)の王都に特定された遺跡で、国の特別史跡に指定されています。
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by enki-eden | 2013-09-24 00:08

東山古墳群(兵庫県多可郡)

 兵庫県指定文化財、神奈備山の妙見山(693m)の南麓にあります。
 隣接の「那珂ふれあい館」で出土物が展示されています。車はここに停めます。
   兵庫県多可郡多可町中区東山539‐3   電:0795‐32‐0685
 4世紀には当地周辺に無数の墳墓が築かれていますが、東山古墳群は飛鳥時代の円墳で、築造時期は7世紀初頭から後半までです。

 赤のアイコンが東山古墳群と那珂ふれあい館、黄が妙見山、直ぐ近くに妙見富士カントリークラブが展開していますが、25年前に友人とここでゴルフをしたことがあります。当時は古代史には全く興味はなかったですけどね…


       古墳群の向こうに妙見山(693m)を望む
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     多可高等学校の西隣にあります
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 東山古墳群は16基の古墳があり、当地(多可・西脇地域)を治めた豪族の墳墓群であると推定されています。東山1号墳の横穴式石室は12.5mと最も大きく、兵庫県でも最大級の大きさです。このような大型の石室をもつ古墳が一ヶ所にまとまっているのが特徴です。石室の長さが10mを超える古墳が5基あります。
      東山古墳群配置図
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      1号墳
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      2号墳
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      3号墳
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      4号墳
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      5号墳から8号墳までは4号墳の左側にあります。
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      9号墳
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      10号墳
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      11号墳
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 12号墳は径21m、高さ2.8m、石室は全長11.1m、最大幅1.95m、石室高さ2.55m、
側壁は小さめの石を使い上に行くに従って内部にせり出しています。奥には床面に川原石を敷きつめています。7世紀前半頃の築造です。
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 12号墳の石室の奥に陶棺、手前に木棺、その手前に箱式石棺がありました。副葬品も盗掘を受けずに残っていました。装身具・土器類・武器などが発見されています。
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 13号墳は径15m、高さ2.5mの円墳で最も小さい部類に入ります。床には貼床が行われており、奥壁に内法長(うちのり)75cm、幅20cmの小型の箱式石棺が据えられていました。火葬したのでしょうか。奥に箱式石棺の一部が見えています。7世紀中頃の築造です。
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      14号墳
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 15号墳は径25m、高さ4.5m、立ち上がりの周囲はテラス、1号墳に次ぐ規模です。石室は全長12.4m、床には川原石が敷きつめられています。盗掘を受けていますが多くの副葬品が残っていました。7世紀中頃の築造です。奥に木棺の見本が見えます。
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      16号墳
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by enki-eden | 2013-09-21 00:01

那珂ふれあい館(兵庫県多可郡)

 兵庫県多可郡多可町中区東山539‐3  電:0795‐32‐0685  無料駐車場あります。
 秀麗な神奈備山の妙見山(693m)の南麓にあります。


 多可郡は播磨北部(北播)に位置します。
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 那珂ふれあい館と秀麗な妙見山
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 那珂ふれあい館では隣接する東山古墳群や周辺遺跡の出土物を展示しています。東山12号墳では石室から陶棺・木棺・石棺が出土しました。その中でも陶棺が注目されます。
 須恵質家形の陶棺で横穴式石室の奥壁部から出土、長さ140cm、幅45cm(内側の長さ131cm、幅約30cm)で12本の脚と、切妻風屋根形の蓋がある。棺と蓋に突帯がめぐっています。内部には風化の著しい人骨や刀子2点、甕の破片1点などが出土。同じ部位の歯が2つ出ているので二人分の棺か? 陶棺の大きさからすると二人の火葬骨でしょうか。
 陶棺の通常の長さは2m前後ですが、火葬骨のために長さ1m以下の小型の陶棺もあるようです。陶棺は全国で約700基出土しており、岡山県で見つかった陶棺は500基ほどもあります。岡山県でも特に美作(みまさか)に多く、その出土数は340基以上あります。兵庫県は岡山県の東隣りですから影響を受けたのでしょうか、50基近く出土しています。
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 東山12号墳は径約21mの円墳です。全長11.1mの横穴式石室は天井石に向かって側壁が内側にせり出しています。
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     東山12号墳出土土器(7世紀後半)
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 陶棺の出土する近くには素戔嗚を祀る神社があるという説を聞きますが、当地の周辺は「妙見山、熊野神社、祇園神社、八坂神社、大歳神社、金刀比羅神社、稲荷神社、恵比寿神社、鍛冶屋」ほか素戔嗚関連の神社・地名が多いです。

 東山1号墳は東山古墳群で最初に築造された古墳で、径約30m、高さ約7mの円墳です。横穴式石室は全長12.5m以上の最大の規模です。6世紀末頃に造られますが、何度も木棺による追葬が行われ、100年近くも使われました。
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     1号墳出土土器
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 多可郡中町の「思い出遺跡」出土の壷棺(弥生時代後期)。口の部分を打ち欠いた壷に大型の鉢を被せた状態で出土。幼児の墓か。
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 那珂ふれあい館から南西約150mにある村東山古墳では、加工された組合せ式家型石棺が出土しました。7世紀末築造で他に須恵器、土師器、鉄釘なども出土し、兵庫県指定有形文化財です。
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 山口県から兵庫県西部にかけての中国山地は製鉄地帯ですが、中国山地の東にある東播磨・但馬・摂津は、生野銀山(兵庫県朝来市生野町)・明延鉱山(あけのべ、兵庫県養父市大屋町)・多田銀山(兵庫県川辺郡猪名川町)にいたる産銅地帯として知られています。東大寺大仏殿建立に際し、銅を供給しています。
 多可郡は生野鉱床帯にあり、古くからの産銅地域でした。産銅地域であっても砂鉄による蹈鞴製鉄は盛んだったことでしょう。
 赤のアイコンは生野銀山、黄は明延鉱山、青は多田銀銅山

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by enki-eden | 2013-09-18 00:36

海神社(わたつみじんじゃ、かいじんじゃ)

 兵庫県神戸市垂水区宮本町5‐1   電:078-707-0188  有料駐車場があります。
 祭神: 底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神(綿津見三神)
 配祀: 大日孁貴尊(おおひるめのむちのみこと、天照大神)
 創建: 神功皇后の時代(4世紀後半)
 創建理由は、廣田神社(西宮市)・生田神社(神戸市)・長田神社(神戸市)・住吉大社(大阪市)・住吉神社(明石市魚住町)などと同様で神功皇后関連です。

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 由緒:
 神功皇后が新羅遠征(363年)からの帰路、暴風雨で船を進めることができなくなりました。神功皇后が綿津見三神をお祀りし祈願したところ、たちどころに風波がおさまり無事に出港できました。 綿津見三神をお祀りした所に社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来です。この御神徳により、航海安全・漁業繁栄の神として仰がれ、交通安全の神としても仰がれています。
     赤のアイコンが海神社、黄が垂水漁港、青が五色塚古墳


  垂水漁港の海神丸。神社前の垂水漁港の漁船は全て「海神丸」です。
  漁船には海神社の神紋と神社名の入った旗を揚げているのがあります。
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 漁港から明石海峡大橋や淡路島を望む。
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 綿津見大神(綿津見豊玉彦)の娘・豊玉姫は彦火々出見尊の妃として、鵜草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)を出産。そのとき大変安産であったところから、安産の神でもあり、彦火々出見尊は満珠干珠(みつたまひるたま)の霊力によって水を司り、水産業・農業など水によって生計を立てる人の守護神であり、開運厄除の神です。
 ところが、綿津見大神と綿津見三神は別神となっています。住吉三神も別神です。別神ではなく同神という説もあります。
 京都府宮津市に鎮座の籠神社奥宮真名井神社に禁足地があります。そこの塩土老翁石碑には、塩土老翁(大綿津見神、亦名住吉同体、亦名豊受大神)とあります。
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 古代の豪族が部族ごとに祀っている神を姻戚関係や同盟関係により、それぞれの先祖神を異名同体として結束を固めたという形跡はあります。物部氏の祖神・饒速日と海部氏・尾張氏の祖神・天火明を同神とした神名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という長い名前になっています。

 海神社の西方約550mの所には兵庫県最大の前方後円墳である五色塚古墳があり、築造は4世紀末頃で海上航路の重要地である明石海峡を望む高台に造られています。
 この墳丘を覆っていた茸石は、明石海峡対岸の淡路島から運んできたものです。このことから被葬者は、本州淡路両岸で海運・漁業に従事していた人々を治めていた豪族でしょう。
 古代から海運・漁業に従事した人々がこの地に多く居住しており、安曇・海部などの海人族が綿津見大神を祀っていたのが海神社の始まりのようです。安曇氏は綿津見神の子・宇都志日金柝命(穂高見命)の子孫です。安曇(アヅミ)はアマツミで綿津見と同じです。
     五色塚古墳(神戸市教育委員会のパンフレット)
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  海神社の神紋は波に菊
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      海岸の垂水漁港に赤い大鳥居があります。海側にも陸側にも扁額があり、
      海側の扁額には「海神社」、陸側には「綿津見神社」とあります。
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 国道2号線を渡って境内入口には石造の鳥居があり、扁額には「海神社」とあります。
 その横に「國幣中社 海神社」の社号標があります。
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 鳥居を入ると狛犬が左右に2体づつ睨みを効かせています。
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   うしろを振り返ります。
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     手水舎の龍
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     拝殿と扁額
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     本殿(千木は垂直切り、鰹木は5本)
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     拝殿左奥の境内社は、蛭子・猿田彦・稲荷を合わせ祀ったものです。
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    左右に狛犬と狐(稲荷)の2体づつです。
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    参道に七福神
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    拝殿右奥に天神社(学問の神様)
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 海神社は伊和神社(宍粟市)、粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ、たつの市)とともに播磨三大社になっています。
 海神社の秋祭り(10月10日~12日、海上渡御祭は12日)では、船の航海の安全や漁業が栄える事を主として祈願します。大掛かりな御神輿巡幸です。
 どこの神社でも行列を先導するのは矛を持った猿田彦(天狗)ですねぇ。1月9日~11日の3日間、「えびす祭り」が行われます。海老(エビ)の古語はエビスで、スが落ちたそうです。えべっさんは海老で鯛を釣るから恵比寿と言うのでしょうか? えべっさんはいつでも右手に釣竿、左手に大鯛を抱えています。
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 海神社は神戸市垂水区にありますが、志賀 剛著「神名の語源辞典」によりますと、「垂水(たるみ)」は「たるむ」で、ゆるやかな低い丘などにタルミという地名が多い。「水が垂れると解するのは誤り」とあります。
 神戸市垂水区は海から山の方へ向かって登り傾斜になっています。

       垂水漁港に鎮座の濱ノ海神社(金刀比羅大権現)
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by enki-eden | 2013-09-15 00:21

春分と秋分の太陽信仰

 現在でも日の出を拝む方が多いと思いますが、数年前に淡路島の洲本温泉のホテルに宿泊した早朝、東の海のかなたから太陽が上がってくるのが見えて感動したことを覚えています。太陽信仰は世界中で見られますが、とりわけ日本ではその傾向が強いと思います。国旗は「日の丸」ですし、皇室の16弁菊花紋は菊ではなく太陽だという説があります。中近東の王族の紋も同じですから、これは中近東から伝来の太陽紋でしょうか。

 2013年の秋分の日は9月23日(月)、2014年の春分の日は3月21日(金)です。
 春分と秋分は太陽がほぼ真東から出て真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じということで、非常に重要な節目になっています。春分と秋分は、太陽信仰における聖なる東西軸(太陽の道)が年間で最も際立つ日で、日本では古代から「先祖を祀る行事」が春分と秋分に行われてきました。
 21代雄略天皇(425年頃-479年頃)の前までは、春秋暦が使われていたと考えられます。春分と秋分をそれぞれ1年の始めにしていたのです。つまり、1年の期間は現在の半分になっていたと考えられます。魏志倭人伝に「倭人の寿命長く、百年、あるいは八、九十年である」、「卑弥呼は年長大」とありますが、このことを言っているのだと私は考えています。雄略天皇からは通常の1年の期間になりますが、全国に徹底するには26代継体天皇(460年頃-531年頃)の時代までかかったようです。
 当時の正月は冬至の次の日だったかもしれません。冬至の次の日から日照時間が長くなっていきますから、一年の始まりには相応しいですね。今年の冬至は12月22日(日)です。

 皇室では、天皇が春分と秋分に皇室の祖先の霊をお祀りになります。それが「皇霊祭」です。この日、天皇は歴代天皇・皇族の霊をお祀りし、日本国と日本国民の無病息災を祈られます。戦前は春と秋の皇霊祭が祭日となっていましたが、戦後は「春分の日」と「秋分の日」の祝日に変わりました。
 こうした春分と秋分の行事の背景には、神道の太陽信仰と祖霊信仰(祖先崇拝)があります。皇室の祖先神は天照大神になっており、天照大神は太陽神とされますから、皇室では太陽信仰と祖霊崇拝は一体のものになっているのです。
 
 春分と秋分を農業の観点から眺めると、春分は種まきの時期、秋分は刈り取りの時期にあたります。作物を育ててくれる「太陽」と自分たちを守ってくれる「祖先神」への信仰が、先祖の霊に豊作を願う行事などと結びついていったようです。
 そして、この習俗は仏教にも取り入れられて「彼岸」の行事になっていきました。皆様もお彼岸にはご先祖のお墓参りに行かれると思います。

 古代人には、昼は人間の世界(この世)、夜は神の世界(あの世、常世)という考え方があったと考えられます。中国の墓は地下に掘りますから、掘ると黄土の黄色い地下水が出てきます。だから死後の世界を黄泉と言うようです。日本では黄泉を「よみ」と読みます。墓の中は真っ暗闇ですから、「闇」→「よみ」となったようです。
 このような考え方のなかで、春分・秋分の日は昼と夜の長さがほぼ同じというのは大変重要な日になります。この世とあの世が接する、通じると言うような感覚でしょうか。この日にご先祖様を特に丁重にお祀りする信仰習慣になっています。

 「常世(とこよ)」に関して、新撰姓氏録に「常世連出自燕王公孫淵」とあります。公孫淵は238年に魏の司馬懿に敗れ滅亡しました。
 2世紀後半から3世紀始めにかけて、公孫氏が山東半島・遼東半島から朝鮮半島北西部を支配していたために、奴国王兼倭王の卑弥呼が220年成立の魏と交易できず、公孫氏と交易せざるを得なかったようです。しかし、238年に公孫滅亡により、卑弥呼は早速239年に魏へ使者を送り「親魏倭王」となりました。
 常世連(とこよのむらじ)は公孫氏の逃亡者の子孫でしょうか。

 私はここで、日本書紀の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)を思い浮かべます。「大物主の神は昼は来ないで、夜だけやってきた。」 そして、倭迹迹日百襲姫が亡くなると、「その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。」とあります。昼は人の「この世」、夜は神の「あの世」という考え方があったようです。

 倭姫(やまとひめ、第11代垂仁天皇の第4皇女、母は皇后日葉酢媛命)が伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女、後の斎王となりました。第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命の跡を継いだ倭姫は天照大神の御杖代として大和国の檜原神社を出て、伊賀・近江・美濃・尾張を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮を創建しました。
 その斎宮跡が北緯34度32分にあり、三輪山の元伊勢・檜原神社、西の二上山などと同じ北緯となっています。太陽信仰による春分秋分のラインが檜原神社の真東にある伊勢の地を選んだのでしょう。

     太陽の道
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     伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図
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 2020年のオリンピックが東京に決まって嬉しいと思います。外国のメディアが「日本人がこんなに喜ぶ姿を始めて見た。」と言っていました。
 そして私事ですが、先日70才の誕生日にお酒のプレゼントをいただきました。ありがたいことです!
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by enki-eden | 2013-09-12 00:07

吉備津彦神社

吉備の中山
 吉備津神社や吉備津彦神社は、「吉備の中山(標高175m)」の麓に鎮座しています。「吉備の中山」は吉備の中心に位置し、人々から崇められていました。「吉備の中心」に位置していたことからその名がついたと言われています。多くの古墳や磐座祭祀跡が残っており、古代から神体山としての信仰がなされていました。
 本来の吉備は、現在の備前・備中・備後・美作(みまさか)から成っていました。吉備の勢力が大きすぎるために、大和朝廷によって細分され、力が分散されました。7世紀後半に備前国、備中国、備後国に分割され、713年に備前国から美作国が分離されました。
 吉備の中山は備前と備中の境にあります。太古より神奈備山として崇められていた「吉備の中山」を二つに分ける形で備前と備中の国境を定めました。備前も備中も、その国の一宮を吉備中山の麓に置きました。

 吉備津彦神社の駐車場横に桃太郎の像があります。
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 吉備中山の中央にある茶臼山頂上(162m)には10代祟神天皇の四道将軍・大吉備津彦命の墳墓(中山茶臼山古墳、前方後円墳)があり、西北麓(備中)に吉備津神社、北東麓(備前)に吉備津彦神社が鎮座しています。
     大吉備津彦命陵
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   真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ                             
                         古今和歌集
吉備津彦神社
 岡山市北区一宮1043  電:086-284-0031  備前国一の宮  無料駐車場あり
 祭神: 大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)
 相殿: 吉備津彦命(きびつひこのみこと、稚武吉備津彦命・大吉備津日子命の御子)
 第7代孝霊天皇(こうれいてんのう、大吉備津日子命の父)
 第8代孝元天皇(こうげんてんのう、大吉備津日子命の異母兄弟)
 第9代開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇の御子)
 第10代崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇の御子)
 彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと、大吉備津日子命の実兄)
 大倭迹々日百襲比賣命(おおやまとととひももそひめのみこと)
                (大吉備津日子命の姉)
 大倭迹々日稚屋比賣命(おおやまとととひわかやひめのみこと)
                (大吉備津日子命の妹)
 天足彦国押人命(6代孝安天皇の兄、妃は海部氏の宇那比姫)
 大山咋命(大歳命の子)
 金山彦大神(かなやまひこのおおかみ)(鉱山や金属業の祖神)

   赤のアイコンが吉備津彦神社、黄が中山茶臼山古墳、青が吉備津神社
   緑が古代吉備文化財センター


 社殿は、夏至の日に正面鳥居から朝日が差し込んで社殿の鏡に当たる造りになっているので、別称「朝日の宮」という。
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 神社の由来によりますと、「当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座・磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り、吉備の国を平定し、現人神として崇められました。諸民と国を深く愛し、永住された吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとなります。
 大和朝廷から派遣された大吉備津彦命が吉備の地を平定するに際して、渡来人として吉備の国に製鉄文化をもたらした温羅(うら)との戦いが、童話「桃太郎」の物語として今に伝承されています。また、邪馬台国の女王・卑弥呼とは大吉備津彦命の姉である大倭迹々日百襲比賣命ともいわれています。」とあります。

 吉備は製鉄の盛んな国でした。原料の鉄資源が豊富にあったからです。奈良時代以前には、原料として鉄鉱石と砂鉄の両方を使用していました。
 砂鉄は中国山地の花崗岩地帯で「鉄穴流し」により採取できますので、中国山地沿いの遺跡では砂鉄を原料とした鉄生産が確認できますが、遺跡数は鉄鉱石の遺跡には遠く及びません。吉備には鉄鉱石の埋蔵量が豊富でしたので、奈良時代以前の製鉄原料は砂鉄よりも鉄鉱石の方が多かったのです。
 しかし豊富な鉄鉱石も枯渇し、平安時代後半以降は砂鉄のみを原料とするようになりました。713年に備前北部の花崗岩地帯が美作として分国されましたので、備前では鉄鉱石が枯渇した時(9世紀頃か)に、原料の砂鉄が調達できなくなってしまいました。
 それで備前国の大和朝廷への納税(調=産物の貢ぎ)は他国から鉄を仕入れて納めたり、品目を鉄から糸などへ変えていきました。しかし、鉄生産に従事していた備前の職人たちに新しいチャンスも現れました。武士階級の出現により刀剣類の需要が高まったのです。
 鉄(玉鋼 たまはがね)を仕入れて刀鍛冶で生計を立てるのです。備前長船(おさふね)の刀鍛冶が頭角を現しました。国宝や重要文化財に指定されている刀剣の半数が備前で作られたようです。
 備前長船刀剣博物館(岡山県瀬戸内市長船町長船966、吉井川の東)では刀剣の展示や古式鍛錬の実演を公開しています。佐々木小次郎の愛刀は「備前長船長光」です。

     鳥居(後は吉備中山)
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     亀島神社(市寸島比売命、いちきしまひめのみこと)
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     五色島環状列石
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     細石
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     新しく石造物が建設中
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     随神門
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     拝殿(昔から拝殿前に鈴がないそうです)、右にご神木の平安杉
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     ご神木の平安杉(樹齢千年以上)
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     拝殿内
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     左横から拝殿(手前)と祭文殿
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     左横から渡殿(手前)と本殿
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     本殿を右から望む(千木は垂直切り、鰹木は2本)
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     本殿右に神籬(ひもろぎ)
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     摂社の子安神社
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     摂社・末社
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     稲荷神社鳥居
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     稲荷神社参道途中に温羅神社が鎮座。温羅の和魂(うらのにぎみたま)
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     稲荷神社(倉稲魂命、うかのみたまのみこと)
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   拝殿(5年前に撮影、外国人男性と日本人女性の結婚式がありました。)
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   左横から本殿と渡殿(5年前の春に撮影、桃が満開でした。)
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by enki-eden | 2013-09-09 00:17

古代吉備文化財センター

 岡山市西花尻1325-3   電:086-293-3211  駐車場あります。
 古代吉備文化財センターの案内には、
 「吉備中山は古今和歌集にも謳われ、枕草子では名山の一つにあげられました。その南山腹に古代吉備文化財センターがあります。
 緑豊かな自然環境のなか、岡山県の埋蔵文化財保護・保存を図る拠点施設として、発掘調査・研究・出土品の収蔵管理や活用・埋蔵文化財に関する普及啓発などに努めています。
 1階展示室では、これまでの発掘調査で出土した出土品の中から、約400点の出土品を常設展示しています。」とあります。


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   展示品の一部をご紹介しましょう。
   特殊器台・特殊壷・円筒埴輪
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   土井遺跡から出土した埴輪(5世紀・古墳時代後期)、岡山県赤磐市熊山町
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     斎富(さいどみ)遺跡2号墳に副葬された大量の須恵器(古墳時代後期)
     岡山県赤磐市斎富
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     須恵器の登場
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     津寺遺跡(岡山市北区津寺)の羽口と
     阿津走出(あづはしりで)遺跡(岡山県倉敷市児島阿津)の製塩土器
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     下坂遺跡(岡山県美作市、みまさかし)の鉄鉱石・炉壁・鉄滓、
     吉備は鉄鉱石の産地でした。
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     製鉄のイメージ図
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     鍛冶の作業図
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  高塚遺跡の銅鐸埋納壙レプリカ(1世紀の弥生時代後期、岡山市高塚)
  流水文の銅鐸(58cm)で、傾斜地ではなく集落中心部の平地からの出土です。
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 岡山県赤磐市弥上(やがみ)古墳(墳長30mの前方後円墳)出土の亀甲型陶棺。
 陶棺は古墳時代終わり頃(6世紀後半)の焼物の棺です。美作(みまさか)を中心とした有力者の棺として使用されました。美作の東隣の播磨北部でも、よく似た陶棺が使われています。播磨北部の陶棺については今月中旬頃にご紹介できると思います。
 弥上古墳の旧地名は赤磐郡熊山町で、私見ですが「熊」は楚人・素戔嗚の足跡を現しています。全国の「熊」や「襲」のついた地名・苗字の中に弥生人の「楚人」由来のものが多いと考えられます。弥上古墳の11km北西の赤磐市石上に素戔嗚を祭神とする石上布都魂神社が鎮座しています。
 紀元前4世紀から紀元前2世紀頃に波状的に列島にやって来た弥生人は、主に江南出身の呉人、楚人、越人です。日本人の遺伝子頻度では、呉系が32%、楚系が3%、越系が1%です。楚系の頻度は低いですが、中国地方(吉備)では19%弱の頻度になります。呉系は31%強の頻度です。楚系と呉系で50%になります。楚の国姓は羋(び)、呉は姫(き)ですので、吉備の語源は姫羋(きび)ではないかと密かに推測しています。
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     頭椎大刀(かぶつちのたち)、古墳時代後期、真庭市土井2号墳
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     鉄製武器・工具
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     岡山市西山古墳群の装身具(古墳時代後期)
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by enki-eden | 2013-09-06 00:37

淡路国の考古学

 「兵庫五国の考古学」最終回は「淡路国の考古学」、兵庫県立考古博物館で8月31日(土)に講演がありました。講師は洲本市教育委員会の金田(こんだ)匡史氏です。
 兵庫県立考古博物館の受付周辺とエントランス展示の土器
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 館内の壁は版築風になっています
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 バックヤード見学デッキのケース(舞子浜遺跡の円筒埴輪)
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淡路島の位置と環境
 瀬戸内海最大の島で、東は大阪湾、西は播磨灘、北は明石海峡、南西に鳴門海峡、南東に紀淡海峡に囲まれている。島の北部中央には六甲山系の山地(花崗岩)が縦断、南部は紀伊半島の和泉山脈から四国の讃岐山脈へ横断する諭鶴羽山(ゆづるはさん)系の山々(砂岩)と三原平野が広がる。海と山の幸を一度に味わえる自然豊かな島である。
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縄文・弥生時代の淡路島
 旧石器時代のナイフ型石器が出土している。縄文時代の遺構も確認されている。弥生時代前期・中期は遺跡の数は微増するが、後期には北淡路では海岸沿いにあった集落が姿を消し、標高200m程の山に集落が移動する。しかも遺跡数が中期に比べ7倍以上に膨れ上がる。
 ・洲本市の下内膳遺跡(弥生時代前期)
   洲本平野の中ほど、標高約10mの洲本川流域。
   弥生時代から中世まで続く。淡路を代表する拠点集落。
   弥生時代の竪穴住居跡、水田跡、方形周溝墓など。
   幾度かの土石流の痕跡があり、その度に地形変化に適した土地利用をしている。
 ・淡路市黒谷の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(国の史跡、弥生時代後期)
   北淡路の西海岸から約3km、標高約200mの丘陵上。
   国内最大規模の鉄器製造群落遺跡。
   弥生時代後期の鉄器工房跡が12棟確認された。
   鉄製遺物は約120点(鉄鏃、鋳造鉄斧、針、工具など)
   出土土器から讃岐、播磨、北近畿など他地域の土器が多く出土している。
   5km南西に伊弉諾神宮が鎮座、鉄器製造との関連はあるのでしょうか?
   赤のアイコンが五斗長垣内遺跡、黄が伊弉諾神宮


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淡路の青銅器文化
 淡路には銅鐸・銅剣・銅戈が高率に出土している。特に南淡路では顕著である。慶野の中ノ御堂銅鐸は8口、古津路(こつろ)銅剣は14本出土している。
 銅剣の一括出土数は、島根県の荒神谷遺跡から銅剣358本が発見されるまでは日本一であった。ちょっと差が大きすぎるかな…
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 (慶野)中ノ御堂遺跡出土の銅鐸には珍しく銅製の舌(ぜつ、10.7cm)が共に出土している。手前の棒が舌。銅鐸は殆ど前期物で小型の「聴く銅鐸」。
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 洲本市のコヤダニ古墳から淡路唯一の三角縁神獣鏡が出土。同笵鏡(どうはんきょう)として上平川大塚古墳(静岡)、椿井大塚山古墳(京都)、黒塚古墳(奈良)、古富波山古墳(滋賀)がある。
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海人族の足跡
 古事記・日本書紀には、15代応神天皇・16代仁徳天皇・17代履中天皇・18代反正天皇・19代允恭天皇の時代(4世紀終わりから5世紀半ば)に淡路の記述が多く見られる。中でも海を生業の場にした人々「野嶋の海人」「御原の海人」のことが記されており、淡路と天皇家との深い関わりがうかがえる。
 淡路市野島平林の貴船神社遺跡は弥生時代末から古墳時代の製塩遺跡。兵庫県で初めて「石敷き製塩炉」が発見された。

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 淡路の南西部、鳴門海峡を望む南あわじ市阿那賀伊毘(あながいび)の無人島・沖の島に沖の島古墳群があります。6世紀から7世紀にかけて造られた海人族の古墳17基。海人族らしく副葬品は鉄製釣針、土錘(どすい)、蛸壺形土器、軽石製の浮子(うき)など。須恵器も出土しています。

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 沖の島南西3kmの鳴門海峡にできる渦潮(うずしお)を「観潮船」に乗って見学できます。3年前に行きましたが感動しました。自分で撮った写真と汽船会社の絵はがきです。NHKの取材班も乗っていて取材を受けましたよ。
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 淡路島には160基ほどの古墳が確認されているが、大型古墳や前方後円墳はなく、殆どが後期の古墳。
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律令期の淡路国の遺跡
 淡路は南海道に属し、一国として取扱われ等級は下国。津名郡と三原郡の2郡に分かれ、国府は三原郡に置かれた。
 また、淡路は朝廷に調として海産物を貢いだ「御食国(みけつくに)」の一つで、主に塩を貢いでいた。
 南あわじ市の嫁ヶ渕遺跡出土の製塩土器
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 47代淳仁天皇淡路陵(733年?-765年、南あわじ市賀集)

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 淳仁天皇は40代天武天皇の孫ですが、藤原仲麻呂の乱に連座したとして帝位を剥奪され、淡路に流され崩御。死因は不明、暗殺されたか。淳仁天皇という諡号は122代明治天皇がおくり、47代天皇となった。
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金田氏の講演は中世・近世にまで及びましたが割愛します。
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by enki-eden | 2013-09-03 00:26