古代史探訪

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三木市立金物資料館

 兵庫県三木市上の丸町5-43  0794-83-1780 車は三木城跡の駐車場に停める。
 月曜日定休


 三木市の伝統産業である金物に関する資料の収集・保存・展示による市民の郷土文化への理解を深めることと、後世への鍛冶の伝統技術伝承を目的として、1976年に開設された。
 館内には近世から現代までの様々な大工道具が展示されている。前庭には、金物の古式鍛錬場が設けられており、毎月第1日曜日に三木金物古式鍛錬技術保存会による鍛冶の実演が行なわれる。

 秀吉によって三木城が落城した後、三木の町を復興させるために呼び寄せた大工たちの仕事道具を作るために、鉄の精製技術を導入し金物を作り始めたのが三木の金物の歴史です。ナイフの「肥後守」も三木の特産です。

     資料館の説明板
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     「村のかじや」記念碑、人が近づくと自動演奏機が演奏する。
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     金物資料館展示室
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     鍛冶が使う道具
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     ノコギリの展示
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     肥後守
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     はさみ
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     鉄穴流し(かんなながし)の風景
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     製鉄三神の掛け軸
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     三木金物鷲
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     鎌倉時代末の道具使用風景
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by enki-eden | 2013-10-30 00:03

金物神社(兵庫県三木市)

 兵庫県三木市上の丸町5-43  0794-83-1780 車は三木城跡の駐車場に停める。
 祭神: 天目一箇命(あめのまひとつのみこと、鍛冶の祖神)
      金山毘古命(かなやまひこのみこと、製鋼の祖神)
      伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと、鋳物の祖神)
  隣に上の丸稲荷神社が鎮座。
  

  
 神社の説明では、「金物業者共同の守護神として奉斎しています。1935年(昭和10年)に三木金物販売同業組合の呼び掛けで、この地に金物神社が創建されました。技量、人格ともに優れた匠が御番鍛冶となり、年番制で11月第1土曜日にふいごの火入式(鍛造)が行われています。鍛冶の祖神、製鋼の祖神、鋳物の祖神を祀っています。」
  
     入口の鳥居
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     手水舎の龍
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     本殿前の鳥居
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     本殿
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     隣の金物資料館に展示の金山毘古命、天目一箇命、伊斯許理度売命の掛け軸
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     境内の金物古式鍛錬場
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 三木の地名の由来は、神功皇后が九州・三韓への遠征途中に「君が峰」(現:君が峰町)で休まれた時、土地の者が壷に入れた酒を献上したことから、御酒(みき)、美壷(みつぼ)と呼んだのが始まりで、御酒⇒三木、美壷⇒美嚢(みのう)に転じたといわれています。(三木市は旧:美嚢郡です。)
 三木市は「金物の町」で、倭鍛冶の系統と韓鍛冶の系統が合流して誕生したようです。農業が盛んで、ぶどうや菊も有名ですが、ゴルフ場が多く西日本一です。三木市を地図で見るとゴルフ場ばかりに見えます。私もゴルフを楽しんでいた頃は三木市にしょっちゅう来ていました。
 また、三木市は明石市と同じく中央標準時(日本標準時)の東経135度に位置しています。
  
 毎年11月に「三木金物まつり」が行われています。今年は11月2日(土)・3日(祝・日)に三木市役所前広場周辺をメイン会場として実施されます。市役所向かいの文化会館では菊花展や盆栽展が催されます。
 市役所の説明では、「恒例の三木金物まつりは、市役所前広場をメイン会場として開催しており、例年、県内外からたくさんの人出で賑わう、三木市の一大イベントです。
 今年は、“金物と歴史にふれあう 金物まつり”をテーマとし、来場いただいた方々に三木の産業と文化に親しみ、楽しんでいただけるよう実行委員会では多彩なイベントを企画し、実施します。
 メイン会場のふれあい広場では、金物びっくり市をはじめ、金物古式鍛錬の実演、農業祭を開催するなど盛りだくさんの内容です。
 勤労者体育センター、市民体育館では、地元金物製品を一堂に集めた三木金物展示・直売会、刃物修理市を開催します。市民体育館では、三木金物のシンボル“金物鷲”を展示します。」と言っています。
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by enki-eden | 2013-10-27 21:45

三木城跡(国史跡)

 兵庫県三木市上の丸町
  
 三木城は美嚢川(みのうがわ)の南の台地にあり、天正6年(1578年)から2年半に渡って、別所長治と織田方の羽柴秀吉との間で三木合戦(三木の干殺し)の激しい攻防戦が繰り広げられました。
 織田信長が中国の毛利攻略の際、毛利側についた別所長治と羽柴秀吉が死闘を繰り広げ、兵糧攻めにより別所長治一族は自刃するが、その引き換えに城兵300名の命を守りました。
  
別所氏  
 平安時代の12世紀半ばに別所頼清(別所氏初代)が現在の三木市周辺を拠点にしていた。応仁の乱(1467年から1477年)の後、別所則治(11代目)が1492年頃に三木城を築いて初代城主となり、別所氏中興の祖と言われている。
 別所就治(13代目)は戦国大名として勢力拡大、東播磨八郡(美嚢郡、明石郡、加古郡、印南郡、加西郡、加東郡、多可郡、神東郡)を支配した。就治の孫・長治(15代目)の時に羽柴秀吉の攻撃を受け三木合戦となる。1580年に別所長治23才で自害し別所氏は滅んだ。

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 本丸周辺が上の丸公園として残っており、天守跡には別所長治の辞世句「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」の石碑があります。その北には城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」、そして近年に立てられた別所長治の乗馬像があります。
 小学校6年生の生徒に三木城跡を案内していた先生が、生徒に朗々と歴史の説明をしていました。私とすれ違う時に先生も生徒も「こんにちは!」と大きな声で挨拶してくれました。
     天守跡
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     天守跡に別所長治辞世の句碑
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     天守跡の北に建つ別所長治公の乗馬像
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     かんかん井戸
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     愛宕神社
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     三木城想像図
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 三木合戦で荒れた町を復興するために、各地から大工職人や鍛冶屋が集まり、三木市が「金物の町」と言われるようになりました。
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by enki-eden | 2013-10-24 00:07

行者塚古墳(兵庫県加古川市)

 兵庫県加古川市山手2丁目、 1973年に国の史跡になりました。
 国の史跡の西条古墳群にあり、全長99m、径70m、高さ9mの大型前方後円墳。
 築造は4世紀終わりから5世紀初め頃で、15代応神天皇、16代仁徳天皇の頃でしょうか。大和・河内では巨大古墳の時代です。
 行者塚古墳の西方2.3kmに播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、12代景行天皇の皇后、日本武尊の母)の陵墓(日岡御陵)と日岡山古墳群、日岡神社があります。播磨稲日大郎姫と行者塚古墳の主は50~60年ほどの年令差です。両者は同族なのでしょう、加古川周辺の大豪族でした。日岡山古墳群から西条古墳群に墓域を移動したと考えられています。
     赤いアイコンが西条古墳群、黄が播磨稲日大郎姫陵


 西条古墳群(行者塚・人塚・尼塚の3古墳)は住宅街の中にあるので、こんもりとした森がはっきりと見えて迷わずにたどり着けます。
     西条古墳群位置図
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 行者塚古墳説明板によると、三段の墳丘は竜山石の葺石で覆われていました。平面部には多くの円筒埴輪・朝顔形埴輪などが立てられ、総数は2,500本と推定されています。
 造り出しが4つあり、周濠もありました。発掘の結果、多数の副葬品が出土、中でも中国製の金銅製帯金具が有名です。これは大和葛城の馬見古墳群(4世紀末~6世紀、葛城氏の墳墓)出土物と類似しているようです。大和葛城と播磨稲日(印南)の豪族も363年の神功皇后新羅遠征に従軍したと考えられています。
 これらの副葬品は加古川総合文化センター(東加古川駅前)に展示されているので、別の機会に訪問したいと思います。
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 墳丘の裾の西側造り出し部分に埴輪と祭祀の様子が復元されています。
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     墳丘東側
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     墳頂には説明板があります。
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 当地周辺には古墳が多数あったそうですが、日本経済が高度成長期の宅地造成で小古墳は全部なくなり、行者塚・人塚・尼塚の3古墳だけになりました。当時、全国的に古墳は開発の犠牲になりましたが、最近は厳しく守られ整備されています。
 東国原氏が宮崎県知事の時代に私は知事にメールを送り、生目古墳群が開発のために壊されているので開発よりも文化財保護に力を入れて欲しいと申しました。教育委員長からメールが届き、そういうこともありましたので現在は厳しく管理整備していますとご返事がありました。

人塚古墳
 径60m、高さ9mの帆立貝式前方後円墳ですが、南西にある前方部は破壊されて長さが確定できないようです。5世紀前半の築造です。二段築成で葺石と埴輪があります。周濠も残っています。
 現在、整備工事中で内部には入れませんでした。
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尼塚古墳
 人塚古墳の南200mに位置し、南東に出っ張りのある帆立貝式前方後円墳です。二段築成で上段だけに葺石があり、下段には埴輪がありました。周濠の痕跡もあります。
 墳長は52m、径44m、高さ6mです。5世紀中頃の築造です。
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     造り出し
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     説明板
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     墳頂
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by enki-eden | 2013-10-21 00:06

八幡神社(宗佐厄神八幡神社、兵庫県加古川市)

 兵庫県加古川市八幡町野村580   電:079-438-6522  駐車場あります。
 祭神: 品陀別命(八幡大神、15代応神天皇)
     息長足媛命(神功皇后、応神天皇の母)
     仲姫命(応神天皇の皇后、尾張系)
 創建: 社伝によれば天平感宝元年(749年)に46代孝謙天皇の勅願所として設立。

 「道鏡を皇位につけよ」という宇佐神宮の神託を確認するために宇佐へ旅立った和気清麻呂が播磨の国野村の渡し(加古川)までやってきたとき、道鏡のさし向けた刺客が清麻呂を襲いました。そのとき、猪の大群が現れ刺客を倒し、清麻呂は九州に向かうことができました。
 宇佐神宮の神託を聞いた清麻呂は48代称徳天皇(女帝、46代孝謙天皇が重祚)に「道鏡のような皇族でない者を天皇の位につけてはならない。」ということを申しあげました。
 「八幡の厄神さん」はこの謂れから厄除けの神様として有名になりました。


     神社の由緒書
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     大鳥居
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     注連柱
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     右手前に立派な神楽殿
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     神楽殿奥に稲荷社
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     八幡神社境内の石棺の蓋
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     外拝殿(灯ろうの宝珠が矛形になっています)
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     拝殿前の狛犬は左右に2体づつ睨みをきかせています。
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     内拝殿
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     本殿(入母屋造り、千木は垂直切り、鰹木は5本)
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   二社の宮(天満社に菅原道真・学問の神、秋葉社に火之迦具土神・台所、火の神)
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   五社の宮(天照皇大神宮、高良社、若宮八幡宮、武塔天神社、愛宕社)
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弓削道鏡の神託事件
 45代聖武天皇と光明皇后の皇女である46代孝謙天皇が重祚して48代称徳天皇となりますが、女帝の寵愛を受けた弓削道鏡(ゆげのどうきょう、700年?-772年、物部一族の弓削氏の出自で法相宗の僧)が太政大臣禅師に昇進します。そして道鏡は法王にまで上り詰め、仏教の理念に基づいた政策を推進しましたが、更に皇位を望むようになりました。仏教会が皇室を乗っ取るような勢いです。
 西暦769年に大宰主神(だざいのかんづかさ)により、「道鏡を皇位につければ国平らかにならん」という宇佐神宮の託宣が奏上されました。称徳天皇は神託の真偽を確かめるため和気清麻呂(733年-799年)を宇佐神宮へ遣わせます。
 宇佐から帰った清麻呂は、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」とする宇佐神宮の神託を朝廷に持ち帰りました。皇位は必ず皇室の者に継がせよという神託です。
 これに怒った道鏡は、清麻呂を大隈国(鹿児島県)に追放し、追っ手を出します。清麻呂は道鏡の追っ手に足の筋を切られますが、突如現れた300頭の猪に助けられます。猪に守られて宇佐神宮に再度参拝、足のケガを治すことが出来ました。

 48代称徳天皇が770年に病死、49代光仁天皇(709年-781年、38代天智天皇の孫)が即位すると、道鏡は下野国に左遷され、清麻呂は平城京に呼び戻されて、平安遷都などに尽力しました。
 光仁天皇の皇子が50代桓武天皇(737年-806年)になると、794年に平安遷都。遷都のたびに移転を繰り返していた寺院は平安京に移転できませんでした。勢いを増す仏教会が政治に介入するのを防ぐためです。平安京では新たに許可した寺院だけが建立され秩序が守られていくことになります。都の入口である羅城門の東と西に官寺が置かれました。それが、東寺(とうじ)と西寺(さいじ)です。東寺は現存しますが西寺は残っていません。西寺跡があるだけです。
 平安京の東方を東寺が鎮護し、西方を西寺が鎮護する形ですが、平安京の外に以前から存在していた各豪族の寺院はそのまま存続を認められました。
 遷都のもう一つの理由は、天武天皇から続いた9代の天武天皇系から天智天皇系に政権を取り戻したので、天武系の平城京を離れ、新しい平安京に遷ったのです。
 更に、桓武天皇の血縁者や皇室内で病死・暗殺が続き、祟りを避ける為にも遷都は必要でした。そして平安京に何重にも結界を設けていきます。

 和気清麻呂(磐梨別乎麻呂の子)は、交通安全の神・学問の神・建築の神として信仰されています。和気清麻呂を祀る護王神社(京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町)では、神使として一対の猪像が拝殿の前にあります。1899年発行の拾圓札の表には和気清麻呂像と護王神社、裏にはこの神社の猪の像が印刷されています。
 和気神社(岡山県和気郡和気町藤野1130)の随神門にも一対の猪像がありますが、これは新しいものです。
 足立山妙見宮(福岡県北九州市小倉北区妙見町17-1、足の神様、足が立つ→足立山)の参道にも一対の猪像があります。清麻呂が宇佐神宮の神告にしたがって、石川村(北九州市小倉区足立山の麓の湯川町)の霊泉に入ると傷ついた足は数日で治りました。清麻呂は足立山へ登り、造化三神(北辰尊妙見菩薩)に皇統安泰を祈ります。
 この後、宇佐神宮への勅使を宇佐使(うさづかい)または和気使(わけづかい)といい、和気氏が派遣されるのが常となりました。清麻呂公は宇佐神宮末社護皇(ごおう)神社に祀られています。
 和気朝臣の元の氏姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)です。足立山妙見宮の宮司さんは磐梨文孝氏ですが、和気清麻呂の子孫だと推測します。神社にメールで問い合わせましたところ、磐梨宮司様からご返事をいただきました。私の推測通りご子孫でした。和気清麻呂公の四男・磐梨為綱(妙運)を初代として、代々ご奉仕されているそうです。今の宮司さんで磐梨為綱から41代目だそうです。
 岡山県赤磐市熊山町のあたりが備前国磐梨郡で、磐梨別公はここの出自ではないでしょうか。赤磐市は坂郡と梨郡を合わせた新しい地名で、現在岡山には磐梨姓はなく、北九州市に脈々と受け継がれています。
 清麻呂が京都の鎮護として、781年に京の西北(戌=乾)にあたる愛宕山(924m)に創設した「愛宕神社」(京都市右京区嵯峨愛宕町1、愛宕神社の総本社)の神使もです。
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by enki-eden | 2013-10-18 00:02

埴輪(2)

 「神戸の埴輪大集合」が開催されています。
 神戸市西区糀台6丁目1  神戸市埋蔵文化財センター  電:078‐992‐0656
 主催:神戸市教育委員会   10月5日(土)から11月24日(日)まで


     神戸市埋蔵文化財センター
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 岡山県総社市の宮山遺跡(弥生時代後期)で特殊器台(国指定重要文化財)と特殊壷が出土していますが、この特殊器台(レプリカ)は円筒棺として使われました。
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 神戸市東灘区の住吉宮町遺跡(古墳時代中期)出土の「入れ墨のある人物埴輪」、加古川市野口町の坂元遺跡(古墳時代後期)出土の武人埴輪、神戸市西区玉津町高津橋の高津橋大塚古墳(古墳時代後期)の巫女形埴輪。
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   左は住吉東古墳の馬形埴輪、右は住吉宮町遺跡の馬形埴輪。
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 古墳時代中期の住吉東古墳は円筒埴輪・馬形埴輪・朝顔形埴輪などの埴輪列が良く残っています。
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   神戸市西区玉津町出合の亀塚古墳(古墳時代後期)の円筒埴輪。
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古墳を彩る形象埴輪
 古墳時代中期(5世紀前半)の朝来市和田山町平野の池田古墳(但馬最大で141mの前方後円墳)の堀底から出土した23体の水鳥形埴輪。この数は全国でも最多で、応神天皇陵出土の15体を上回ります。
 池田古墳はすべてにおいて畿内の要素が強く、大和政権の強い影響下で造られました。但馬・丹後最大の王墓と考えられます。
 但馬国考古学については、8月19日(月)の投稿をご覧ください。
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 加古川流域の西条古墳群(加古川市山手)の行者塚古墳は古墳時代中期(5世紀初め)の前方後円墳です。全長100m、造り出しには多くの埴輪が出土しました。家形埴輪も多く見つかりました。屋根に千木と鰭をつけた埴輪は全国でも珍しいものです。
 行者塚古墳については10月21日頃に投稿できると思います。
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 6世紀築造(古墳時代後期)の加古川市野口町の坂元遺跡では円筒埴輪や形象埴輪が見つかっています。
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 盾形埴輪の一種に石見型(いわみがた)埴輪があります。奈良県橿原市石見遺跡の出土品を基に石見型と呼ばれています。
 この石見型盾形埴輪は、形状から盾形埴輪の一種として分類されていますが、研究により盾を模したものではなく、権威を象徴する杖である玉杖(ぎょくじょう)の形との関連性が考えられるようになりました。
 石見型埴輪。左は明石市魚住町長坂寺の寺山古墳(15mの円墳、古墳時代)出土、右は神戸市西区玉津町高津橋の高津橋大塚古墳(20mの円墳、古墳時代中期)出土。
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by enki-eden | 2013-10-15 00:07

埴輪(1)

 「神戸の埴輪大集合」が開催されています。
 神戸市西区糀台6丁目1  神戸市埋蔵文化財センター  電:078‐992‐0656
 主催:神戸市教育委員会   10月5日(土)から11月24日(日)まで
 西神中央公園のイチョウの木が色づき始めていました。(10月8日撮影)
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 パンフレットの案内によりますと、「兵庫県下最大の前方後円墳である五色塚古墳からの出土埴輪をはじめ、神戸市内の古墳や周辺の遺跡から出土した埴輪を一堂に会します。五色塚古墳出土の埴輪群は、平成23年度に国の重要文化財に指定され、今回初めてすべてそろえて展示します。
 また、埴輪出現に関わる資料、人物や馬、家といった様々な意匠の埴輪を展示し、古墳を彩る埴輪の多様性にご注目いただくとともに、埴輪造形の技術の高さ、当時の生活様式など、古墳時代の神戸の歴史を体感いただければと思います。」とあります。

 弥生時代から古墳時代にかけて、首長が亡くなると墳墓の周りに人を生きたまま埋め立てていました。11代垂仁天皇が殉死はいけないと考え、皇后の日葉酢媛命が亡くなられた時(西暦325年頃)に、野見宿禰に殉死に替わる案を出させました。野見宿禰は粘土で人や馬やいろいろな物の形を造って焼き物にし、これからはこの土物(はに)を生きた人に替えて陵墓に立てましょうと進言しました。そのアイディアの基になるのは、おそらく吉備地方の墳墓に立てられた円筒埴輪や特殊壷でしょう。
 日葉酢媛命の陵墓については、4月8日(月)投稿の「神功皇后陵」をご覧ください。

 形象埴輪は家形埴輪、器財埴輪、人物埴輪、動物埴輪などがあり、配置場所が大体決まっています。
 家形埴輪は、墳頂中央部に置かれる中心的な埴輪です。周りを円筒埴輪や器財埴輪が取り囲みます。器財埴輪は、冠や椅子、高坏や壺、武器などです。
 人物埴輪は、造り出しや外堤に置かれ、首長、巫女、武人、盾持ち人、力士などです。動物埴輪は、馬、犬、猪、鹿、水鳥、鶏、牛などで飾り馬が最も多く、人物埴輪とともに置かれています。
 兵庫県加古川市山手の行者塚古墳埴輪列再現
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埴輪出現前夜
 赤穂市の有年原(うねはら)・田中遺跡(弥生時代後期)の2基の墳丘墓から装飾壷と装飾器台のセットが出土しました。これは吉備地方の埴輪の祖形です。弥生時代の赤穂は播磨国ではなく吉備国に所属していました。
 左は装飾高坏(たかつき)、右は装飾壷と器台のレプリカ。
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 神戸市灘区都通の西求女塚(にしもとめづか)古墳は埴輪が出現する直前の古墳です(3世紀末)。海浜部に立地する前方後円墳で全長98m。三角縁神獣鏡などが12面(国指定重要文化財)、鉄製武器・工具、碧玉製石製品などが出土しました。墓上祭祀に使われた大量の山陰系土器が出土しています。
 10月8日のテレビニュースで、4年前に西求女塚古墳の公園で小学生が青銅器の破片を拾い、今回それが重要文化財の銅鏡の一部と分かり、神戸市長の表彰を受けました。
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     三角縁吾作三神五獣鏡
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     画文帯環状乳神獣鏡
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     二重口縁壷(重要文化財)
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古墳時代
 史跡五色塚古墳の円筒埴輪(重要文化財、古墳時代前期)。全長194mの前方後円墳で、10mに18本の割合で鰭付円筒埴輪と朝顔形埴輪が推定2,200本巡らされました。その埴輪と同じものが隣接する小壷古墳、500m西の歌敷山(うたしきやま)東・西古墳、900m西の舞子浜遺跡、16km西の明石市幣塚古墳、10km東の長田区念仏山古墳から出土しています。
 五色塚古墳については3月6日(水)の投稿をご覧ください。
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     CGで復元した五色塚古墳と小壷古墳
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 垂水区舞子浜遺跡(古墳時代前期)で20基ほどの埴輪棺が出土しました。調査地域はわずかですから、もっと多くの棺が埋まっていると考えられます。五色塚古墳の埴輪と同じ規格で製作されています。
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 舞子浜遺跡の埴輪円筒棺は円筒埴輪と盾形埴輪を二本つなげて棺とし、両端を蓋形(きぬがさがた)埴輪で塞いでいます。棺の回りを分厚い粘土で保護しています。葬られた男性は身長140-150cm、年令30-60才。華奢な体で平べったい顔立ちと推定されます。
 舞子浜遺跡については7月28日(日)の投稿をご覧ください。
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 幣(ぬさ)塚古墳は古墳時代前期の円墳で、直径34m、高さ4mです。墳丘裾には鰭付(ひれつき)円筒埴輪と鰭付朝顔形埴輪が巡らされていました。五色塚古墳と同じ規格の埴輪です。
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     葺き石と埴輪列
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 神戸市西区伊川谷町潤和の白水瓢塚(しらみずひさごづか)古墳の円筒埴輪・楕円埴輪円筒棺・朝顔形埴輪(古墳時代前期、3世紀後半)。明石川流域最古の前方後円墳で、全長56m、主体部は粘土で被覆された割竹形木棺です。被葬者は女性と見られています。
 棺内から青銅鏡1面、腕輪形石製品、ガラス製玉類、鉄製武器類が出土しました。
 埴輪は墳丘に樹立されたものと、墳丘周囲に埴輪棺として使用されたものがあります。
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   主体部から出土のヒスイ製勾玉・碧玉製管玉・琥珀製勾玉・ガラス小玉
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     画文帯同向式系神獣鏡
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     腕輪形石製品
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by enki-eden | 2013-10-12 00:02

天目一神社(あめのまひとつじんじゃ、兵庫県西脇市)

 兵庫県西脇市大木町648       車は鳥居の奥に停められます。
 祭神: 天目一箇神(あめのまひとつのかみ、製鉄・鍛冶の神、ふいごの神)
     合祀の平野神社祭神:
      大雀命(おおさざきのみこと、16代仁徳天皇)、日本武尊、天穂日命。


 12月第1日曜日に「ふいご祭り」が行われています。
 灯篭の屋根にある宝珠が矛の形をしていますが、この形は時々見かけます。 神社の周辺は水田になっており、社殿の背後には神奈備山が見えます。
     神明鳥居と社号標
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     趣のある狛犬
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     拝殿(瓦葺)と拝殿内
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 拝殿に掲示の由緒:(長いですから抜粋します。それでも長い。)
 『日野地区は、加古川の支流杉原川が作った沖積平野と段丘上に拓けた地域です。この地に人々が生活しはじめたのは古く、縄文時代後期(約4,000年前)の土器が発見されています。
 弥生時代(約2,300年前)になって稲作が伝わると、さらに開拓は進み、多くの集落跡が見つかっています。奈良時代(8世紀)には、託賀郡都麻里に含まれましたが、平安時代の中頃(10世紀)には、杉原川東岸地域は資母郷、西岸地域は那珂郷と呼ばれるようになりました。このころの開拓の様子を示す、条里という一辺109mの正方形の土地区画跡が道路や水路に残されています。
 平安時代後期から室町時代にかけては、東岸地域は這田荘、西岸地域は安田荘という荘園に含まれていたらしいのですが、戦国時代には富田荘というひとつの荘園になり、それぞれ富田郷、野中郷と呼ばれ、野間城(八千代町)に本拠を置く在田氏の支配下にありました。
 その後、豊臣氏の蔵入地を経て江戸時代には各村ごとに分割支配が行われましたが、大木、野中、市原、前島などの村々は姫路藩領、幕府領、古河藩領と移り変わりました。
 明治時代になって廃藩置県が行われ、明治9年にほぼ現在の兵庫県になりました。日野という地名は、明治22年の野村制の施行により十か村が合弁した時に、鎮守の春日神社の日と平野神社の野をとって日野と名付けたものです。
 大木町に鎮座する天目一神社の祭神は天目一命で、天久斯比止都命ともいいます。神話によれば、天照大神が弟の素盞鳴命の乱暴に怒って天岩戸に隠れた時、岩戸を開くための祭に使用する刃物や鉄鈴を作ったのが天目一命でした。それ以来、鍛冶の神、ふいごの神として崇拝されるようになったといわれています。また、天目一命は、播磨国風土記の託賀郡の条にも登場し、多可郡の地が古代から鍛冶に関する高度な技術をもっていたことも考えられるのです。
 社殿は地元をはじめ、播州や泉州の金物業者の援助を得て、大正12年に竣工し、鎮守である平野神社も平野山東山麓から移して合祀しました。竣工した本殿は神明造とよばれる特殊な形式を採用し、しかも近在では例を見ないほど大きく立派なものです。また、鳥居も本殿にあわせて神明鳥居が作られています。
 竣工以来、天目一神社は復興された式内社として有名になり、近在の鍛冶職人、金属加工職人たちの信仰を集めました。旧暦11月8日(現在は新暦12月第1日曜日に行われる「ふいご祭」には播磨をはじめ遠く丹波、但馬、美作、和泉からも参詣者があり、強風が吹くほどふいごの風が強くなると喜ばれました。
 戦後は金属工業などの機械化により、参詣者は減りましたが、現在では熱心な信者と地元大木町の努力によって、盛大にふいご祭が行われています。』

 平安時代の927年にできた、延喜式には延喜式内社と呼ぶ、全国で重要とされた神社が記載されていますが、その中の多可六座の一つに、この天目一神社が含まれています。
 天目一箇神は播磨国風土記の託賀郡(多可郡)の条に天目一命の名で登場します。土地の女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父のわからない子を産んだが、子に盟酒(うけいざけ)をつぐ相手を諸神から選ばせたところ、天目一命についだことから天目一命が子の父であると分かったというもので、この神話は農耕民と製銅者集団の融合を表しているという説もあります。
 道主日女命によく似た名前に、天火明命の妃・天道日女命(あめのみちひめ、あまじひめ)があります。そして宗像三女神は道主貴(みちぬしのむち)とも言われます。しかし、それぞれ時代と場所が違いますから、やはりこの道主日女命は播磨国託賀郡荒田村の女神でしょう。
 盟酒(うけいざけ)については、1月2日投稿の盟酒(うけいざけ・父親を占いで探す)をご覧ください。

 奈良時代に播磨国には、「忍海漢人(おしぬみのあやひと)」や「韓鍛首(からかぬちのおびと)」など、朝鮮半島から渡来してきた鍛冶集団が住みついており、その人々の一部がこの地で製鉄や製銅を行ない、天目一神社を祀ったようです。
 神社付近からは、鉄や銅を溶かした塊や祭器などの破片が出土しています。

     本殿、千木は垂直切り、鰹木は7本。
     神明造りの立派な棟持ち柱がいいですね。
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     本殿右の稲荷社(二社あります。)
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   本殿左の祠(小さな祠ですが、祭神がすごい。天之御中主大神、比留女之命、龍神)
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by enki-eden | 2013-10-09 00:09

大歳金刀比羅神社(兵庫県多可町、おおとしこんぴらじんじゃ)

 兵庫県多可郡多可町中区鍛冶屋736-2  電:0795-32-0076 無料駐車場あります。
 祭神: 大歳神、大巳貴命、保食神、事代主命
 往古には大歳神社(江戸時代以前の創建)として天目一命(鍛冶の神)が祀られていたと考えられる。
 厄除け、商売繁盛、子授け、縁結びにご利益があるといわれています。



 神社の由緒によりますと、1795年2月、鍛冶屋集落の藤井孫右衛門が病気平癒のため、讃岐琴平宮より勧請した神社ですが、1911年(明治44年)1月、大歳神社に合祀し、大歳金刀比羅神社と改称しました。(鍛冶屋のこんぴらさん)
 毎年11月に行われる金刀比羅祭礼は、かつて十万人余の参詣者があり、サーカスなどの催し物があり、鍛冶屋線の列車も5~6輌編成で賑わいました。
 また、姫路の総社祭、北条の住吉神社祭(北条の節句祭)と併せ「播州三大祭」と言われています。

   入口の両部鳥居(青玉神社と同じく稚児柱と扁額にも屋根がついています。)
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     扁額(大歳大明神)
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     説明板
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     参道の万燈籠(樹木は桜です。)
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     参道の右に江島神社(弁財天)
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     八坂稲荷神社(若宮さん)
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     北播護国神社
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 社殿は平安期以降の寝殿造りの様式を取り入れた「入母屋造平入」となっています。日本建築は出入口の位置によって、妻入り(つまいり)と平入り(ひらいり)とに別けられ、屋根の三角部分を正面とするものが妻入りであり、横の直線部分を正面としたものが平入りです。
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 拝殿内には「金毘羅神社」の額がかかっています。
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 本殿。屋根は流線型を描いており、軒周りには千鳥破風や唐破風が彫り込まれるなど華やかな装飾彫刻がすばらしいです。金毘羅さんの「金」の幕がかかっています。
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 本殿の左に、往古に祀られていた天目一箇神が境内社に祀られています。
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   天照皇大神社(灯ろうの宝珠が矛形になっています。)
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               ***
 古代史とは関係ありませんが、物質に質量を与えたとされる素粒子「ヒッグス粒子」の発見が、東京大学や高エネルギー加速器研究機構などの国際チームの実験で確定しました。
 「物理学の標準理論」で存在が予想された17種類の素粒子の中でヒッグス粒子が唯一未発見だったので、これで標準理論が完成しました。
 しかし、ダークマターとダークエネルギーについてはまだ殆ど分かっていないので、物理学はこれの解明に向けて新たなステージに入っていくことになるでしょう。
 人間が認識できる次元は4次元だけですが、それ以外に異次元があると私は考えています。異次元はまだ理論物理学の段階ですが、ダークマターとダークエネルギーの研究により異次元が解明できないかと期待しています。
 勿論、宗教的には異次元(あの世)があると古代から信じられていますが、私はそれが物理学的に解明されるのを待ち望んでいるのです。つまり、神を宗教的な信仰と同時に物理学的にもある程度理解したいと望んでいます。
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by enki-eden | 2013-10-06 00:03

荒田神社(兵庫県多可郡)

延喜式: 播磨國多可郡 荒田神社、   社格: 播磨国二宮(多可郡の筆頭)
兵庫県多可郡多可町加美区的場145-1   車は鳥居横に停められます。
祭神: 少名彦命(すくなひこな)
     素盞鳴命(すさのお)
     木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)

 古代、当地には鍛冶職人が多く居住していたようですが、社伝によりますと、46代孝謙天皇の時代に創始と伝えられており、天平勝宝元年(749年)に少名彦命が降臨し、大雨が降り田畑が流失した。住民が、雨があがるように祈ったところ、願いがかなったことから祠を建立した。
 平安時代になり、50代桓武天皇の時に坂上田村麻呂将軍(758年-811年)の崇敬を受け栄えた。 江戸時代には明石藩主の崇敬を受けた。
 播磨国風土記の天目一箇神と道主日女命を祀ったのが当社だともいわれている。



 入口の両部鳥居、大変立派です。扁額にも稚児柱にも立派な屋根がついています。
 雪と風対策でしょうか。遠方からでも良く見えますが、入口が分かり難かった。
 扁額に二宮正一位荒田大明神とあります。
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 由緒(古くなって見えにくい。スクナヒコナは一般的に少彦名と書きますが、ここでは少名彦と記されています。)
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     随神門も立派です。
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     立派な拝殿
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     拝殿内
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   立派な幣殿と本殿(千木は垂直切り、鰹木は5本)を右から望む。
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   本殿右の境内社、八幡神社(太和気命=応神天皇)と愛宕神社(迦具突智神)。
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     拝殿・幣殿・本殿を左から望む。
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     本殿左の境内社、春日神社(天児屋根命)
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               ***
 10月2日(水)の新聞に載っていましたが、大阪府茨木市の東奈良遺跡で見つかった土器のつぼに線刻で銅鐸が描かれていました。約2,000年前(弥生時代中期)の土器で、はっきりと銅鐸が描かれた土器の出土は全国でもはじめてです。
 綾杉文様のほか飾り耳も描かれていました。東奈良遺跡は1974年に唯一の完全な形の銅鐸鋳型(重要文化財)が見つかり、銅鐸生産工房があった遺跡です。銅鐸は全国で500個以上出土していますが、鋳型は当遺跡と奈良県の唐古・鍵遺跡など近畿を中心に僅かしか見つかっていません。銅鐸の生産は筑紫・出雲・近畿の政治的中心地域に制限されていたのでしょう。九州では佐賀県鳥栖市の安永田遺跡と本行(ほんぎょう)遺跡、福岡市赤穂ノ浦遺跡、福岡県春日市須玖・坂本遺跡で鋳型が出土しています。

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by enki-eden | 2013-10-03 00:08