古代史探訪

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北部九州中心勢力の東遷②

 素戔嗚(140年頃出生)の第二子である五十猛(160年頃出生)が葛城・紀伊に東遷しました。素戔嗚の第五子である饒速日(165年頃出生)が185年頃に、多くの部族長を従えて大部隊で東遷して大和を支配する。これは邪馬台国と投馬国の飛び地のような状況だと思います。
 先代旧事本紀には饒速日東遷に従った人々の部族名と首長名が詳しく記されています。豪族44人の率いる25軍団、船長6人が率いる船方とあり、膨大な人数による大部隊であったことでしょう。これらの人々の出身地は遠賀川と筑後川の沿岸地域が多い。末慮国・伊都国・奴国からは出ていない。しかし、安曇・海部・尾張・対馬・壱岐の海人族は出ています。天香語山(155年頃出生)・天牟良雲・天鈿売(あめのうずめ)・天児屋根・天糠戸(あめのぬかと)、更に高皇産霊神の子と孫など多くのマレビトも従っています。これらの東遷と2世紀終わり頃の倭国乱とは関係があるのでしょうか。
 また、この時は南九州からも出ていないが、後に磐余彦(神武、180年頃出生)が南九州から出発して故郷の遠賀川に滞在、そして大和に向かい、211年頃に饒速日から大和橿原地域の王を任される。
 五十猛・饒速日・大国主・少彦名・磐余彦(神武)などの大規模で波状的な東遷は、北部九州の倭国のシステムが近畿の大和へと連続しており、拡大発展していって大和朝廷が成立したものと考えられます。大和へ東遷の中心勢力は素戔嗚系・出雲系です。

 奴国王兼倭王の臺與が266年に晋に使者を送りましたが、この時、臺與は「親晋倭王」の金印を受けられなかったようです。以降、倭からの使節は途絶えます。これは中国で戦乱状態が続き交易が困難になったことと、列島の中心地域が筑紫から大和に移ったことが原因でしょう。倭国の統一支配を列島全体に拡げるために、奴国王兼倭王一族も270年頃に大和に東遷した可能性が考えられます。
 私見ですが、臺與は同部族の御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ、10代祟神天皇、250年頃出生)と大部隊を伴って270年頃に大和へ東遷したのではないでしょうか。臺與は大和の中心勢力である物部氏と結託して御間城入彦を大和10代目の王(崇神天皇)としたのではないでしょうか。臺與が本当に大和に東遷したのであれば、卑弥呼の墓から骨を一部取り出して大和に運んだでしょう。
 臺與は295年頃に亡くなり、箸墓古墳(278m)に卑弥呼の遺骸と共に埋葬されたと考えられます。日本書紀には、箸墓古墳は7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓と記されています。倭迹迹日百襲姫も295年頃に亡くなったと考えられます。父の7代孝霊天皇崩御が276年頃です。臺與と倭迹迹日百襲姫は同一人物でしょうか。
 倭迹迹日百襲姫は奈良県桜井市茅原の神御前神社(大神神社の境外摂社)の祭神になっています。6月2日(日)投稿の「富士神社・厳島神社・神御前神社」をご覧ください。
 奈良県桜井市の纏向遺跡の大型神殿は倭迹迹日百襲姫の祈祷の場で、崇神天皇のために神託を取り次いだと考えられます。神殿は箸墓古墳と同じく夏至の日の出の方向を向いています。
    纏向居館
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 巨大で画期的な箸墓古墳が築造されたことにより、600年ほど続いた弥生時代が終わり、古墳時代へと入っていきます。宮内庁管轄の古墳が発掘できれば、詳しいことが判明するでしょう。しかし、発掘の可能性は当分の間ありません。古墳を宮内庁管轄から外せる政治家が出てこなければなりませんね。我々国民の強い意思表示も必要でしょう。
     箸墓古墳
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 大和朝廷が初代神武天皇から9代開化天皇までの80年間に9代かけて拡げた版図は、奈良盆地全体とその周辺地域(近畿)です。3世紀後半の10代祟神天皇から古墳時代に入り、積極的に版図を全国に拡大していきました。
 そして北部九州の海人族の「3種の神器」(鏡・剣・勾玉)が大和にも全国にも拡がっていきます。それまで祭器として使われた大型の銅鐸は3世紀に埋納されてしまいます。初期の小型の銅鐸は紀元前後に埋納されているので、これで全ての銅鐸が埋納されました。
 神器の変更は支配者の変更を意味するでしょう。つまり、素戔嗚系(素戔嗚・五十猛・饒速日・初代から9代までの大和政権)と出雲系から奴国王兼倭王系(伊弉諾・卑弥呼・臺與・10代祟神天皇などの一族)への政権交代です。

 私見ですが、400年間ほど続いた銅鐸祭祀を担っていたのは素戔嗚系・出雲系です。素戔嗚系の大和の物部氏は銅鐸が埋納されて、定型式前方後円墳を構築するに際し、銅鐸の形を古墳に残そうと考えたのではないでしょうか。前方部の形が銅鐸に見えませんか? この仮説に同調する人はいますが、ごく僅かですがね・・・

 また、初代神武天皇から9代開化天皇までは、宮中で高皇産霊神を祀っていましたが、10代祟神天皇からは天照大神を祀りました。これは祟神天皇が明らかに奴国王兼倭王の一族であり、筑紫から大和に東遷してきたことの証しではないでしょうか。宮中の祭神変更により、大和では地元の豪族との軋轢や反乱が起き、祟神天皇は譲歩することになります。
 古墳時代に入って、奈良県磯城郡田原本町で製作された大量の三角縁神獣鏡が全国に流布しますが、これは古墳の魔除けの副葬品として大量に使用されました。北部九州の弥生時代の埋葬文化が大和の古墳時代の文化に引き継がれ、吉備や東海など他地域の要素も取り入れながら発展していったものと考えられます。
                    ***

     連日の冷え込みで、黄色く映えるイチョウ並木。
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by enki-eden | 2013-11-27 00:02

北部九州中心勢力の東遷①

 早速、私見ですが、記紀の「天照大神」は魏志倭人伝の「卑弥呼と臺與」と考えられます。神話と歴史を混ぜるなと言われる皆様にはご容赦願いますね。
 考古学者の故・森 浩一先生は考古学と文献史料の接点を追求しておられました。著書「日本神話の考古学」の前文に「考古学では神話や伝説とは一線を画し、それについては言及しないことが科学的だという逃避的な現象を起こさせている。」と述べられています。それに続く著書「記紀の考古学」のあとがきには、「戦後、“科学的な歴史”という言葉が流行しだし、古事記や日本書紀を口にするだけでも、あいつは科学的ではないというレッテル貼りが行われるようになった。そのピークは昭和三十年代だったと記憶する。そのような環境の中で、僕は昭和34年に“古墳出土の鉄鋌”について発表し、考古学資料と文献史料を総合する成果を示した。僕の理想は考古学と文献学を綜合して考えることである。」と述べられています。
     故・森 浩一先生
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 私は昨年12月14日(金)の投稿「日本の古代史」の中で、戦後の歴史学は津田左右吉氏の反皇国史観の影響で記紀を無視するようになったが、古代史に関して歴史学・考古学・神社伝承学・記紀・倭人伝や年輪年代学などを多面的に総合的に研究しなければならないと申しました。

 記紀の天の岩戸事件は、西暦247年頃の「卑弥呼の死」と「臺與の登壇即位の礼」を表していると考えられます。天照大神が天の岩戸に隠れるまでが卑弥呼で、再び天の岩戸から出てきたのが臺與でしょう。臺與が卑弥呼の墓において「登壇即位の礼」をして卑弥呼を継ぐ女王に就きました。登壇即位の礼は、大和朝廷においても前天皇陵で行われていましたが、21代雄略天皇(425年頃出生)から宮中で即位式が行われるようになりました。

 卑弥呼と臺與は博多湾沿岸部の奴国王族で海人族です。奴国王族の出自は揚子江(長江)の呉で、紀元前4世紀に博多湾に逃亡してきて、奴国を建てたと考えられます。
 呉人の渡来経路は、江南(BC473年、呉王夫差が越王勾践に敗れる)→呉人は徐州へ逃亡→(BC334年、越が楚に敗れて一部が徐州に逃亡してきたため)呉人は朝鮮半島南部と北部九州へ避難したと考えられます。

 筑後川流域の邪馬台国と有明海周辺(熊本県・長崎県・佐賀県の一部)の狗奴国との戦いは、領土紛争と有明海の制海権争いと考えられます。邪馬台国の王族は素戔嗚系、投馬国(豊国、福岡県東部と大分県)の王族も素戔嗚系です。素戔嗚の先祖・楚人の渡来経路は、江南の楚(BC223年、楚は秦に滅ぼされる)→中国北部→秦の圧政により漢人・楚人の一部が新羅へ逃亡→九州北部や日本海沿岸へ渡来と考えられます。
 BC221年に秦の始皇帝が天下を統一し、苛酷な税・労役に漢人や楚人の一部が新羅に逃亡、更に列島に逃れてくる者もいました。紀元前2世紀頃でしょうか。
 男系の遺伝子であるY染色体の日本における分布は、黄河系(漢人)のO3が15%、江南の楚系のO1aが3%です。これに比べて呉系のO2bは30%以上もあります。越系のO2aは1%です。縄文人(Y染色体のCとD)は45%です。
 邪馬台国と狗奴国も江南からやって来た弥生人が中心ですが、どちらの国も上層部は楚人が中心だと考えられます。楚人同士で戦争になったのは、両国が隣接している事と、渡来時期と経路が違うと思います。楚人は人数が少ないですが文化程度も高く、武力も強かった。楚の国姓は羋(び)で、王の氏は熊(ゆう)です。熊は日本の人名・地名に多く使われていますが、楚由来のものが相当あると思います。
 奴国・伊都国など北部九州沿岸の海人族は呉人で、人数も多く弥生人の中心です。


 西暦107年に後漢に朝貢した奴国王が倭王帥升と認証され、奴国王と倭王を兼任し、対外交易において倭を代表することになります。
 倭王兼7代目奴国王の伊弉諾(いざなぎ)の時、西暦180年から185年頃に倭国乱により伊弉諾が淡路島に隠遁、後を継いだ男王も鎮圧に失敗し、西暦200年頃に奴国王族の天照大神(卑弥呼、175年頃出生)が即位して政権が安定します。
 卑弥呼は239年、魏に朝貢して親魏倭王となる。奴国王の都は博多湾沿岸、邪馬台国の都は朝倉か久留米と考えられます。卑弥呼は奴国と邪馬台国の宮を往来したことでしょう。対外窓口は伊都国に置きました。 卑弥呼が「親魏倭王」の金印を受けたので、代々受け継いできた「漢委奴国王」の金印は卑弥呼(奴国王族)の聖地である志賀島に埋納されました。
 奴国にも弥生墳丘墓はありますが貧弱で、奴国王の墳墓は伊都国に設けたのでしょう。247年頃に卑弥呼が亡くなり男王が即位すると、再び倭国乱となる。卑弥呼と同族で海人族の臺與(235年頃出生、2代目天照大神)が即位して乱は治まる。
 日本書紀の成立した8世紀初めは、国家意識・民族意識の異常に高揚した時代で、皇室の先祖が中国に朝貢したことは表現したくなかった。従って、卑弥呼と臺與については直接表記せずにヒントを示して記しました。日本書紀巻第九として14代仲哀天皇の皇后、神功皇后の巻を設けてヒントを示しています。神功皇后(330年頃出生)と卑弥呼・臺與は時代が違いますので、きちんと年代を入れることにより両者を区別しています。
 この中で、日本書紀の紀元元年は西暦元年と重なることです。従って、記紀の成立した8世紀には西暦が理解されていたという説もあります。私は7月10日(水)投稿の「神世」で、日本書紀の紀元元年は西暦元年であると記しました。これは偶然に同じであっただけで、当時はまだ西暦についての理解はなかったと思います。私見ですが、初代奴国王の国常立神(漢委奴国王)が西暦元年に生まれたと考えられます。
                              ***
 
 古代史とは関係ありませんが、11月16日(土)にホテルクラウンパレス神戸で投資ストラテジストの武者陵司氏の講演を聴きました。演題は「円高デフレの終焉と日本大復活」です。
 その中で印象的だったのは、『アベノミクスによる超円高・長期デフレからの脱却により、2014年には日経平均は2万円超に上昇し、さらにその先のインフレの定着と改革の進展により、2020年東京五輪の頃には4万円、史上最高値更新の展望が開けてくるだろう。
 リーマン・ショックもユーロ危機にも対岸の火であったはずの日本が、世界経済の中で一人負けするという納得がいかないことが起きた。それは欧米の中央銀行が新機軸の量的金融緩和を推し進めた中で、日本銀行だけが白川前総裁の下で消極的な金融政策を取ったため、極端な円の独歩高が進んだからである。急激な円高が一気に日本企業の競争力を低下させた。それがアベノミクスによって是正されつつある。
 バブル崩壊後23年間に及ぶ日本の長期停滞の根本的要因は、米国による“日本封じ込め策”である。日本の1990年までの繁栄、自動車やエレクトロニクスなど著しい産業競争力の向上は、米国発技術の導入改善と米国市場における顕著なシェア獲得によって可能となった。しかし日本のそうしたオーバープレゼンスは覇権国である米国の産業基盤を脅かし、米国国益を損なうものとなった。このためジャパン・バッシングが起きて叩かれた。貿易摩擦、超円高等々。それが今、反転しているのである。
 なぜなら、日本経済の復活がアメリカの国益にとって決定的に重要だから。これ以上、日本が弱くなったらアジア全域が中国の支配下に入ってしまう。強い日本経済こそがアジアにおいて中国を封じ込め、アメリカのプレゼンスを維持することができる。つまり、日本経済に対する地政学的な逆風が順風に変わったのである。』
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by enki-eden | 2013-11-24 08:54

粟鹿神社(あわがじんじゃ)

 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152   駐車場あります。
 但馬国一宮は粟鹿神社(兵庫県朝来市)と出石神社(兵庫県豊岡市)の両社があり、どちらも全国一の宮会に加盟しています。出石神社については1月22日(火)の投稿をご覧ください。

 祭神: 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)
     日子坐王(ひこいますのみこ、9代開化天皇の第三皇子)
     阿米美佐利命(あめのみさりのみこと、大国主命の子)

 但馬国随一の古社で、宮内庁所蔵の粟鹿大名神元記によると、神社の創建は11代垂仁天皇の御代(4世紀初め)に祀られたとあります。
 粟鹿の名は、粟鹿山(962m)に住む一頭の鹿が粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教えたという。その鹿を祀ったのが当社で、粟鹿山の荒ぶる神を祀ったともいう。
 粟鹿神社の祭主は、古代には神部氏(三輪系)が務め、その後、日下部宿禰が務めるようになりました。
     赤のアイコンが粟鹿神社、黄が粟鹿山


 本殿裏の円墳は、当地で亡くなった日子坐王の墳墓という伝承があります。これに対して岐阜市岩田西には宮内庁陵墓参考地として日子坐王の墓があります。
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 日子坐王(265年頃出生)は、9代開化天皇(245年頃出生)と姥津媛(ははつひめ、和珥氏)の皇子で近江と但馬に関係が深い。近江の息長水依姫(おきながみずよりひめ)を妃とし、子は丹波道主(四道将軍の一人で丹波将軍)です。日子坐王の4代後に神功皇后(330年頃出生)が現れますが、神功皇后の父は息長宿祢王、母は葛城高額媛で但馬に渡来の天日矛(240年頃出生)の6代目子孫です。
 神功皇后の父親系
   開化天皇-日子坐王-山代之大筒木眞若王-迦邇米雷王-息長宿祢王
 神功皇后の母親系
  天日矛-多遅摩母呂須玖-多遅摩斐泥-多遅摩比那良岐-多遅摩比多訶-
  葛城高額媛
 
 神功皇后が新羅遠征(363年)の際に神助ありて、凱旋後に奉幣使を立てたという。

 北の鳥居と社号標、鳥居の台石の前に土盛り。土盛りは神門前や拝殿前などにもある。
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     扁額(粟鹿神社)
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     南の鳥居、台石の前に土盛りがある。
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     扁額(粟鹿大社になっている。)
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 朝廷の信頼が厚く、国の大難に対して4度の勅使(ちょくし)が遣わされた。約600年前には勅使門が建立されている。
   勅使門、2月の祈念祭と10月の例大祭の時に開かれる。
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   随神門(随神を安置)、日の出門ともいう。(東を向いているからか?)
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   随神門をくぐり、振りかえると随神の背後には狛犬が一対安置。
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     境内社の天満宮
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   天満宮の脇に大砲の弾のような石造物が。天満宮ですから「筆」でしょうか。
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   拝殿の右に猿田彦神社(猿田彦神、交通安全・除災の神)
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   拝殿の左に厳島神社(市杵島姫命、海上守護・財福技芸の神)
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   厳かな拝殿(趣のある狛犬の前に土盛りがあります。)
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   狛犬は阿吽の位置が左右逆になっており、左は子を連れている。(子取り)
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   本殿は神明造銅板葺で、千木は垂直切り、鰹木は5本、棟持柱があります。
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   本殿左に床浦神社(大己貴神、医療・縁結びの神)
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 稲荷神社(保食神、うけもちのかみ、農業・食物の神)、鳥居をくぐって急な山道を登る。
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 稲荷神社鳥居横の茗荷神社(みょうがじんじゃ、草野姫命)。粟鹿神社の神紋・抱き茗荷は境内にこの末社を祀るによる。
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 兵庫県西宮市の廣田神社の境内式内社・伊和志豆神社の祭神は彦坐命です。廣田神社については5月18日(土)の投稿をご覧ください。
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by enki-eden | 2013-11-20 00:08

摂津の弥生時代

 大手前大学史学研究所主催 公開講座
 会場: 西宮市大学交流センター 大講義室 (ACTA西宮 東館 6階)
 平成25年10月27日(日) 140名ほどが受講しました。

 講演① 山の鐸、里の鐸  ―銅鐸埋納と摂津の青銅器文化―
      難波(なんば) 洋三氏(58才)
   (独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長)

 1世紀から3世紀頃の中国では、生口(奴隷)1人で青銅50kg~70kgと対価になる。西暦107年、後漢の安帝に朝貢した倭王帥升は160人の生口を出した。それより前の西暦57年に後漢の光武帝に朝貢した倭の奴国王も生口を出したと考えられる。
 239年に魏に朝貢した卑弥呼は生口を10人献じている。生口は倭国の交易品であった。奴隷が原料金属の代価となっていたことが充分考えられる。当時の倭国でも中国でも銅は鉄の価格の4倍である。

 今までに出土した銅鐸の数は全国で約500個、神戸市灘区桜ヶ丘の斜面からの出土数は14個です。同時に7本の銅戈も出土しています。14個の銅鐸の総重量は50kgなので、原料価格は鉄200kgと等価になる。
   桜ヶ丘出土の銅鐸14個
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   桜ヶ丘出土の国宝・6号銅鐸復元品(神戸市埋蔵文化財センター)
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 銅鐸の製作総数は最少で1,200個、最大で4,400個と計算できます。出土数は500個ですから、製作総数の11~42%が今までに出土している。

 小型で古い形式の「聞く銅鐸」の製作総数は830~3,000個と計算できます。銅鐸出土地は九州以外で31カ国(郡の総数は260)。1郡に平均3~11個が製作された。
 摂津国の郡数は13ですから、この地域に40~140個の「聞く銅鐸」が供給されていたと推定できる。
 弥生中期末に大規模集落の解体と高地性集落の消滅が連動して起こり、集落の再編成に伴って不必要になった古い段階の銅鐸が埋納された。広域で起こった大きな社会変化と原料金属の入手状況の改善により銅鐸が大型化し、小型の「聞く銅鐸」が埋納されたのであろう。

 講演②  稲作の伝播と西摂津の弥生社会  ―縄文人と弥生人との出会い―
   森岡 秀人氏(62才)
       (日本考古学協会理事・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員)
   
       弥生時代の摂津国の水田
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   海浜部の初期農耕集落(網部分は弥生時代の推定海岸線)
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 川西市の加茂遺跡(国の史跡)は縄文時代後期には小さな集落ができていましたが、弥生時代中期には近畿有数の大規模な集落となりました。高さ40mの台地に環濠で囲まれ、東部は竪穴住居区域、西部は墓地になっています。現在の住宅が遺跡の形に従って建てられており、遺跡の中央に鴨神社が鎮座、祭神は別雷神(わけいかづちのかみ)です。また、川西市役所と文化財資料館があり出土物を展示しています。
   加茂遺跡
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 遺跡は東西800m、南北400mの大きさがあり、最大人口は500人ほどであったと考えられます。崖の斜面にも斜面環濠が造られており、防御性が高かったようです。台地の下には水田跡があります。
 ここは周辺地域を統括する中心集落と考えられ、このような統括・支配などの現象が弥生中期に発生し、それぞれの村で個別に行われていた銅鐸祭祀が中心区域に纏められ、使われなくなった銅鐸が埋納されたのではないでしょうか。ですから弥生中期の小型銅鐸(聞く銅鐸)の埋納は全国一斉ではなくある程度の期間の幅があったのでしょう。
 しかし弥生後期になると、この防御性の高い大型の集落は他の集落と同じように、小規模になっていきます。弥生後期から古墳時代にかけて中央政権の出現により、環濠集落の必要性がなくなったと考えられます。そして大型の銅鐸(見る銅鐸)も弥生後期に埋納されていきます。
   加茂遺跡出土の大型銅鐸
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 尼崎市田能(たの)から伊丹市岩屋にまたがる田能遺跡(国の史跡)は弥生時代全期間にわたる大集落で、近畿地方で初めて木棺墓が見つかり、人骨と共に碧玉製管玉の首飾りや白銅製の腕輪なども出土しました。その他に木蓋土壙墓・甕棺墓・方形周溝墓など、17基のさまざまな種類の墓が同じ遺跡内に営まれていました。現在は住居や高床倉庫などを復元して史跡公園になっており、田能資料館が出土物を展示しています。


 神戸市東灘区本山遺跡(弥生中期の集落)では、関西地方最古の遠賀川式土器が出土、壷・甕・鉢などその後の弥生土器の基礎となる器種が最も古い形態で揃う。その製法が九州・四国から近畿に伝わった最初の弥生土器である。その他、銅鐸埋納坑・袈裟襷文銅鐸(復元すると21.8cmの小型)・磨製石器などが出土した。

 会下山(えげのやま)遺跡(国の史跡)は兵庫県芦屋市三条町にある高地性集落で、弥生時代中期から後期にかけての遺跡です。六甲山から南に張り出した見晴らしのよい、標高200mの山の上で発見されました。竪穴住居などを復元した遺跡公園となっています。
 竪穴式住居跡・祭祀場・倉庫跡・土壙墓・狼煙場などから弥生式土器・石器・銅鏃・鉄器などが出土しています。

 銅鐸の生産地、祭祀圏、埋納地はそれぞれ場所が離れている。鏡と銅鐸は200年間ほど重なって存在していた。
   右が難波洋三氏、左が森岡秀人氏
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 お二人の講演の後、対談形式のお話もありました。
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by enki-eden | 2013-11-17 00:10

京都御所③

 京都御苑内には京都御所の他に、京都大宮御所、仙洞御所(庭園のみ)、京都迎賓館、宗像神社、白雲神社、皇宮警察などがあり、駐車場・食堂・トイレもあります。
 大宮御所は天皇陛下や皇太子殿下、国賓が入洛された時の宿泊等に利用されています。大宮御所と仙洞御所の参観にも事前の申請が必要です。
   御学問所(おがくもんしょ)
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   御学問所で天皇・皇太子・親王などが読書始めを行います。
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   小御所と御学問所の前に、とても美しい御池庭(おいけにわ)と御内庭(ごないてい)があります。
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   御涼所(おすずみしょ)。天皇の夏季の納涼所。
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   御常御殿(おつねごてん、天皇の日常の御座所)の襖絵
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   塩川文鱗の花鳥図の襖絵を展示
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 七夕梶葉宸翰(たなばたかじのはしんかん)之図。天皇が御三間(おみま)において梶の葉に和歌を書かれ、それを彦星と織姫の二星に手向けられるという行事です。
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   御所内には樹木が大変多いですが、中でも松の木が多く銘木が目立ちます。
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 御所の清所門(せいしょもん)。築地塀が美しい。築地塀には格式高い5本の白い横線が入っています。
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   御所を出て京都御苑の出口に向かう途中に縣井(あがたい)があります。
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by enki-eden | 2013-11-14 00:03

京都御所②

 京都御所は京都市上京区の京都御苑の中央部にあります。大きさは34,000坪以上あり、東西250m、南北450mです。御所の周囲は美しく格式高い築地塀(ついじべい)で囲まれています。内裏は鎌倉時代に焼失しましたが、江戸幕末の1855年に再建されました。
 御所の築地塀に門は六つあります。南側中央に建礼門(桧皮葺)、西側の南から宜秋門(ぎしゅうもん、桧皮葺)、清所門(せいしょもん、瓦葺)、皇后門(瓦葺)、北側中央に朔平門(さくへいもん、桧皮葺)、東側南に建春門(桧皮葺)です。
 築地内の紫宸殿と南庭も回廊(塀)で囲まれており、南中央に承明門、西中央に月華門、東中央に日華門があります。回廊は瓦葺、白い壁、柱類は朱塗りになっています。
   日華門から紫宸殿(ししんでん)の南庭に入りました。
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   南庭から承明門(じょうめいもん)を望む。
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 紫宸殿。重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿。大正天皇、昭和天皇の即位礼もここで行われた。平成天皇からは皇居で即位が行われるようになりましたので、即位に使う御所の高御座(たかみくら)が皇居に運ばれました。
 紫宸殿は入母屋造り桧皮葺きの高床式宮殿で南向き。中央に天皇陛下の高御座と右(東)に皇后陛下の御帳台(みちょうだい)がかすかに見えます。
 複製の高御座が奈良平城宮大極殿に展示されています。4月7日(日)投稿の「平城宮大極殿」をご覧ください。
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   向かって右に左近の桜、後ろの門は日華門。
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   向かって左に右近の橘
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 豊明節会大歌舞妓之図(とよのあかりのせちえおおうたぶぎのず)。新嘗祭の翌日辰の日の夜に紫宸殿で催される宴。右下の楽人5人に合わせ、2人の舞姫(一番奥)が五節舞(ごせちまい)を舞う。
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 清涼殿。入母屋造り桧皮葺きの寝殿造り。天皇の日常生活の場として使われたが、御常御殿(おつねごてん)に居住するようになってからは、清涼殿も儀式殿となった。紫宸殿の後ろ(北)にあり、東向きです。
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   清涼殿から紫宸殿の後ろを望む。
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 四方拝。元旦午前4時頃、清涼殿東庭で行われる恒例行事で、年頭にあたり天皇が天地四方を拝される儀式。現在も元日早朝に皇居で行われている。
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 清涼殿10月更衣之図。毎年4月1日と10月1日に行われ、紫宸殿・清涼殿の帷(とばり)などの装束を取り替える行事。人々の衣裳もこの時更衣が行われた。現在は立冬と立夏に行っている。
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 小御所(こごしょ)。1867年12月9日の王政復古の大号令が発せられた日の夜、「小御所会議」がここで行われた。1954年に焼失、1958年に復元された。
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 小御所での東遊(あずまあそび)。国風歌舞(くにぶりのうたまい)で他の雅楽曲と違い、外来音楽の影響を受ける以前から日本にあった古来の歌舞(うたまい)です。記紀に基づくものが多く、神道や皇室に深く関わる歌や舞で構成されています。
 現在は宮中で、神武天皇祭(4月3日)、春季皇霊祭(春分の日)、秋季皇霊祭(秋分の日)に賢所にて行われます。皇霊祭については9月12日(木)投稿の「春分と秋分の太陽信仰」をご覧ください。
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 小御所(こごしょ)舞楽東使拝見之図。幕府からの使い(東使)に舞楽の拝見と賜饌が行われた。
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by enki-eden | 2013-11-11 08:47

京都御所①

 京都御所の秋季一般公開が10月31日から11月4日まで行われました。地下鉄烏丸線の今出川駅の3番出口を出ると、京都御苑が目の前に現れます。京都御苑は江戸時代には200もの宮家や公家の邸宅が立ち並んでいましたが、明治になって邸宅は取り除かれ、公園として開放されました。
 その京都御苑の中に京都御所があり、春と秋に一般公開されます。大勢の人が参観されていますので、写真には多くの人が写ってしまいますが、ご容赦願います。


 京都御所は京都市上京区にある御所で、1331年(100代光厳天皇)から1869年(122代明治天皇)までの歴代天皇の宮殿になっています。50代桓武天皇が794年に平安遷都した時の内裏は、現在の御所の2kmほど西南にありました。今の二条城の北西方面になります。
 京都御所を囲んでいる築地塀(ついじべい)は大変美しく、江戸城や近くにある徳川幕府の二条城のようなお堀はありません。小さな溝はあります。平城京や藤原京、それ以前の御所も全てお堀はありませんでした。 日本には皇室を打倒しようとする勢力がないからでしょう。日本の皇室は世界的にも希な存在ですね。第二次世界大戦で日本は無条件降伏をしましたが、皇室は今日まで存続しています。皇室の立場は戦前とは少し変わりましたがね。

 御所の参観は春季・秋季の一般公開がありますが、普段は宮内庁に事前予約をすると御所内を参観できます。京都御苑の北の通りは今出川通で、その道向かいはNHK「八重の桜」で放映中の同志社大学と同志社女子大学があります。
 私は乾御門(いぬいごもん、北西の門)から京都御苑に入り、京都御所の西側築地塀の宜秋門(ぎしゅうもん)から御所に入りました。帰りは宜秋門の北の清所門(せいしょもん)から御所を出て、乾御門から烏丸通に出ました。
   京都御苑の乾御門
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   京都御所の宜秋門
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   御車寄(おくるまよせ)。昇殿を許されたものが参内するときの玄関。
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 諸大夫の間(しょだいぶのま)。参内した者の控えの間で、身分に応じて異なる部屋に控えた。襖の絵にちなんで、虎の間、鶴の間、桜の間と呼ばれる。
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   新御車寄。1915年、大正天皇の即位礼に際して、両陛下のための玄関として建てられた。
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   月華門(向こうに見えるのは日華門)
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   御所の南の門、建礼門。
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   承明門(じょうめいもん、建礼門の北向かい)。紫宸殿が見える。
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   建春門(築地塀の南東の門)
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by enki-eden | 2013-11-08 00:10

大宮八幡宮(播州三木)

 兵庫県三木市本町2丁目19番1号   電:0794-82-0401  駐車場あります。
 祭神:15代応神天皇を主座に、九柱の大神をお祀りしている神社です。
  応神天皇(八幡大神、主祭神) 厄除けの神、勝運の神。
  国水分神(くにのみくまりのみこと、蔵王大神) 五穀豊穣、水利、御子守の神。
  天照皇大神(あまてらすすめおおかみ、伊勢大神) 天地に瑞光を与える神。
  素戔嗚尊(すさのおのみこと、祇園大神) 悪事災難悪魔祓の神。
  天児屋根命(あめのこやねのみこと、春日大神) 神事祭祀の神。
  熊野久須毘命(くまのくすひのみこと、熊野大神) 万物の生成、和合を司る神。
  賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ、賀茂大神) 開拓殖産興業の神。
  中筒之男命(なかつつのおのみこと、住吉大神) 航海、交通の神。
  建御名方命(たけみなかたのみこと、諏訪大神) 開拓、耕作の神。

 神社の由緒によると、背後の山上に飛鳥時代以前から古代の祭祀場があり、祠が造られていた。祠は「美嚢郡(みなぎのこおり)高野里の祝田社(はふりたのやしろ)」として祀られていた。
 74代鳥羽天皇の時代(1111年)に現地に社殿を遷座した。やがて勝運厄除神の八幡宮となった。
 慶長8年(1603年)、応神天皇の左右に八柱の神を配祀した。1994年には割拝殿を境内北側能舞台横に移し、本殿を後方に引き、その前に両翼殿を備える拝殿を建造する大造営を行った。


   85段の急勾配の石段を登る。
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   登りきると石の鳥居をくぐる。右は手水舎。
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 手水舎の八幡鳩。八幡神の「神使い」は鳩です。
 京都府八幡市の石清水八幡宮の鳥居には扁額に「八」の字が二羽の鳩で描かれています。神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮随神門の額にも二羽の鳩が「八」の字を描いています。ご神符は鳩の鳥文字で書かれています。東京都新宿区四谷の亀ヶ岡八幡宮の鳥居の扁額も八の字は鳩です。
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   立派な拝殿
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   拝殿前のご神木
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   拝殿内
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   拝殿内の神輿
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   本殿(灯ろうの宝珠が矛形になっているものがあります。)
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   旧割拝殿が拝殿の北に残されています。
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   摂社・大宮天満宮(菅原道真、書道・学問の神)、本殿左に鎮座。
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   摂社・祝田社(はふりたのやしろ、元宮で農耕・縁結びの神)、本殿左奥に鎮座。
    玉帯志比古大稲男命(たまたらしひこおおいなおのみこと)
    玉帯志比売豊稲女命(たまたらしひめとよいなめのみこと)
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   摂社・尾引稲荷社、拝殿右に鎮座。
        倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
        稚産霊神(わかむすびのかみ)
        保食神(うけもちのかみ)
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   末社・豊玉姫社(縁結び、安産の神)、拝殿右奥に鎮座。
    豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
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   末社・祓殿(罪・けがれを祓除ける神)、拝殿右に鎮座。
    瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)
    速開都比売神(はやあきつひめのかみ)
    気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)
    速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ)
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   末社・播東稲荷社
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   末社・弁財天社(陸上・航海安全の神、財宝・芸能の神)、拝殿右に鎮座。
    市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
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 10月と11月は全国で秋祭りが行われますが、大宮八幡宮の秋祭りは10月12日(土)と13日(日)でした。
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by enki-eden | 2013-11-05 00:08

上の丸稲荷神社(兵庫県三木市)

 兵庫県三木市上の丸町798   三木城跡上の丸公園にあります。


 三木城跡の西側の下には滑原(なめら)商店街があり、その横に上の丸稲荷神社の大鳥居があります。100段以上の長い階段を登っていきます。
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 南側からも短い階段に鳥居と大木があり、拝殿が見えてきます。
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     本殿
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 稲荷神社の本殿後方には「お塚」と呼ばれる磐境があり、多くの石碑や稲荷鳥居などが建っています。三木合戦と関係があるのでしょうか、非常に強い霊気を感じる場所ですね。
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     祠もあります。
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by enki-eden | 2013-11-02 00:03