古代史探訪

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角倉稲荷神社(すみのくらいなりじんじゃ、京都市)

 京都市右京区嵯峨天竜寺角倉(すみのくら)町、 安倍晴明嵯峨墓所の東隣りです。
 駐車場がありませんので、長慶天皇陵に車を止めて行きます。

 町名も「角倉、すみのくら」です。角倉了以(1554年~1614年)は京都の豪商で、安南国(ヴェトナム)との朱印船貿易により莫大な財を成した。
 角倉了以は京都嵯峨の生まれで、京都の桂川(保津川、大堰川 おおいがわ)を私財で開削して丹波の産物を運んで富を築いた。また高瀬川も私財で開削し、水運を独占して更に財を成した。
 また幕命により富士川、天竜川などの開削も行った。商人としても優秀であったが、土木技師としても秀でていたので「水運の父」として有名です。
 邸宅はたくさんあったようですが、天竜寺角倉町9の旅館「花のいえ」は角倉了以の邸宅跡です。その中の「ごてんの間」だけは、約400年前の姿を今日に伝えています。

     赤のアイコンが角倉稲荷神社、黄が花のいえ、川は桂川


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   すぐ南には桂川が流れており、渡月橋がみえます。その向こうは嵐山です。
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by enki-eden | 2013-12-31 00:08

98代長慶天皇

 96代後醍醐天皇(1288年-1339年)が初代足利幕府将軍足利尊氏(1305年-1358年)と対立して奈良県吉野に移り、尊氏は光厳天皇を立てる。南朝と北朝の南北朝時代となります。朝廷と幕府の戦乱時代でした。
 長慶天皇(1343年-1394年)は97代後村上天皇(1328年-1368年)の第一皇子で98代天皇・南朝の第3代天皇となる。三種の神器は南朝が保有していましたので南朝が正統でしょう。
 長慶天皇は北朝に対して強硬派であったので、穏健派の弟が擁立され、1384年に弟に譲位して99代後亀山天皇(1347年-1424年)が即位。長慶天皇は譲位後に全国各地を巡ったので、青森県から福岡県まで全国各地に御陵伝承地があります。和歌・文学の才能に優れており、著書に源氏物語の注釈書「仙源抄」があります。
 後亀山天皇は3代将軍足利義満(1358年-1408年)の和平案により、北朝の後小松天皇(1377年-1433年)に三種の神器を渡して譲位しました。後小松天皇は100代目として即位したが足利幕府の傀儡でした。

長慶天皇陵(嵯峨東陵、さがのひがしのみささぎ)
 京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町に円墳の嵯峨東陵がある。隣に皇子の海門承朝(1374年-1443年、南禅寺住持)の墓所もあります。無料駐車場があります。
 桂川の北250mにあり、嵐山や渡月橋も近くにあります。



 長慶天皇の陵墓は確定できなかったが、1941年に慶寿院跡を整備して、1944年に嵯峨東陵と定めた。嵯峨東陵の南に安倍晴明公嵯峨墓所と角倉稲荷神社があります。

     長慶天皇嵯峨東陵
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     長慶天皇の皇子・承朝王墓
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     赤のアイコンが嵯峨東陵、黄が承朝王墓。

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by enki-eden | 2013-12-31 00:03

安倍晴明公嵯峨墓所

 京都市右京区嵯峨天竜寺角倉(すみのくら)町、 
 駐車場がありませんので、長慶天皇陵に車を止めて行きます。

 98代長慶天皇陵の南に隣接しており、東隣には角倉稲荷神社が鎮座。室町時代に晴明塚がたくさん造られていますので、その内の一つかもしれません。
 昭和47年(1972年)に晴明神社が購入・整備し、晴明神社の飛び地境内になっています。陰陽博士・安倍晴明(1005年没)の命日・9月26日に晴明神社により嵯峨墓所祭が行われます。



 安倍晴明公嵯峨御墓所、後ろ(北)は長慶天皇陵です。
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by enki-eden | 2013-12-27 00:07

晴明神社②

     拝殿
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     拝殿左の晴明公銅像
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     拝殿右の厄除桃(やくよけもも)。自分の厄をこの桃に撫でつける。
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 大きなご神木の楠は樹齢300年で、両手を当てて樹皮に触れると独特の感覚があり、大樹の力を感じ取れる。
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     拝殿から本殿を望む。
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   拝殿の右側に末社の天満社・斎(いつき)稲荷社・地主社の拝殿と奥に本殿が鎮座。
   晴明公はお稲荷様の生まれ変わりと云われた。
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by enki-eden | 2013-12-27 00:03

晴明神社①

 京都市上京区堀川通一条上ル806 電:075-441-6460 有料駐車場があります。
 京都御所の西方1.2kmの堀川通に面して東向きに鎮座。
 祭神: 安倍晴明御霊神
 創建: 66代一条天皇が1007年に創建。

 安倍晴明(921年~1005年)
 晴明は61代朱雀天皇に天文博士及び陰陽博士に任じられ、また晴明の名を与えられた。その後、62代村上天皇、63代冷泉天皇、64代円融天皇、65代花山天皇、66代一条天皇の六代の天皇に仕え、功績をあげた。藤原道長(966年~1028年)などにも支援され、没落していた安倍家を復興させて、一条堀川の西(現・晴明神社)に屋敷を構えた。
 陰陽師は修行を重ねて術を身に付けたが、晴明は生まれつき陰陽師の素質を備えていたといわれている。遣唐使として3年間の留学をし、伯道上人の弟子となり陰陽道を極めた。また晴明は式神を一条戻り橋の下に隠していたと言う。
 晴明が生きた時代は、庶民が現世に夢や希望を持てなくなっていた。そのような世の中で来世での救いを説く浄土教に対し、密教では現世利益を願い様々な祈祷を行った。その修法が「護摩」で、この時代に密教のまじないや加持祈祷が発達した。人々は陰陽師にも現世利益の修法を求めた。

 晴明の2人の子ども吉平(よしひら)と吉昌(よしまさ)が天文博士や陰陽博士に任ぜられ、晴明一代で師の賀茂忠行と並ぶ陰陽師としての地位を確立した。賀茂氏は京都伏見稲荷大社を創建した秦氏の一族です。
 晴明の墓所はいくつかありますが、「陰陽博士安倍晴明公嵯峨御墓所」は京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町(すみのくらちょう)の晴明神社飛び地境内にあります。98代長慶天皇陵の南にあり、荒れていた墓所を晴明神社が1972年に買い取り、整備しました。命日の9月26日には嵯峨墓所祭が晴明神社の神官により執り行われます。

 晴明の父は系図によると安倍益材(あべのますき)、伝説上では安倍保名(あべのやすな)といわれます。
 母は「葛の葉」と呼ばれる稲荷の狐の化身で、信太森葛葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ、大阪府和泉市葛の葉町2)の地に住んでいたという伝説があります。
 私は子供の頃、「きつねうどん」が好きでしたが、当時「きつねうどん」とは言わず「しのだ」と言っていたのを思い出しました。食堂のメニューにも「しのだ」と書いてありました。20円か25円だったでしょうか。

     赤のアイコンが晴明神社、黄が一条戻り橋

    
       堀川
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   堀川通に面して一の鳥居、扁額には五芒星(社紋の桔梗印)。
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        由緒
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       鳥居の後ろに趣のある狛犬
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    平成7年まで実際に使われていた一條戻橋の柱を境内に復元。式神石像も。
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       現在の一條戻橋
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 二の鳥居、扁額は晴明神社。後ろに五芒星のちょうちんと黒い扉の四神門が見える。当時、朝廷の使いなどが訪れると、この門が自動的に開き、帰るときには自動的に閉まった。現在は電動の扉となっており、夜は6時に閉門する。
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      四神門
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   社号標には陰陽博士、安倍晴明公居館之趾とある。晴明はここに住んでいた。
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      手水舎の龍。
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 晴明井。晴明公邸に古より湧き出ていた洛中名水の一つで諸病平癒の信仰が篤い。
 上部の石を回転して流水口が本年の恵方を向くようになっており、吉祥水が得られる。
 晴明井の前に黒い石で北斗七星が描かれている。(井の前に柄杓 ひしゃく)
 七星占(しっしょうせん)は、飛鳥時代に中国から日本に伝わり、平安時代にブームとなった。人間の運命を北斗七星の7つの星に当てはめて占う。晴明はこの占いをよく使った。
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      晴明神社と桔梗
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                         ***

 2013年の流行語は、「今でしょ!」、「お・も・て・な・し」、「じぇじぇじぇ」、「倍返し」、「アベノミクス」などがありましたが、一昨年の2011年に私が感動したのは、東日本大震災復興支援のために行われたプロ野球の慈善試合の時に、東北楽天ゴールデンイーグルスの嶋選手が宣誓したスピーチです。
   この1カ月半で分かった事があります。
   それは、『誰かのために闘う人間は強い』と言う事です。
   東北の皆さん、絶対に乗り越えましょう。今、この時を。
   絶対に勝ち抜きましょう、この時を。
   今、この時を乗り越えた向こう側には強くなった自分と明るい未来が待っているはず
   です。

   絶対に見せましょう、東北の底力を!

 私は嶋選手の言葉に今でも心を打たれ、涙が出ます。
 私の家も1995年の阪神淡路大震災により全壊しましたが、震災の半年後に家を新築し、今では元気に毎日を過ごしています。
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by enki-eden | 2013-12-24 00:03

京都の結界

 50代桓武天皇が、794年の平安遷都に際し、風水を元に京都の町そのものを結界として造っています。京の都造りに貢献した秦氏・賀茂氏の影響があったことでしょう。玄武(北)に山(船岡山、111.7m)があり、青龍(東)に河川(鴨川)があり、朱雀(南)に湖沼(巨椋池)があり、白虎(西)に大道(山陽道)がある場所が都を造るのに最適とされました。


 そして、方位の厄除の神社として素戔嗚尊を平安京の周囲に祀りました。北は大将軍神社(北区西賀茂角社町129)、東は大将軍神社(東山区三条大橋東3丁目下る長光町640)、南は藤森神社(伏見区深草鳥居崎町609)、西は大将軍八神社(上京区一条通御前西入ル西町48)です。それ以外にも寺社を置き、平安京を守護しました。
 桓武天皇が平安遷都をした理由の一つに、40代天武天皇の平城京から脱却して、自身の38代天智天皇系に世の中を様変わりに変えるというものです。
 徳川幕府も江戸を守護するために寺社を配置して強力な結界をつくっています。神田明神、寛永寺、日枝神社、日光東照宮、増上寺などです。明治政府になって陰陽師や結界の思想は否定されました。しかし、天皇は従来どおりに国家・国民の安泰のために祈っておられます。皇太子もそうです。9月12日(木)投稿の「春分秋分の日」をご覧ください。

京都守護魔方陣
 平安時代中頃になると、安倍晴明(921年~1005年)が京都に結界を張って守護しました。陰陽博士の賀茂忠行と賀茂保憲(917年~977年)の弟子となり、晴明一代で賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立します。(2001年に映画「陰陽師」が製作されましたので、私も見に行きました。)
 

五芒星の「中心の目」=晴明神社
 京都市上京区堀川通一条上ル806、  御所の西方700m、堀川通りに面しています。安倍晴明の屋敷跡であり、天文陰陽博士として活躍していた場所です。
 

五芒星結界
 1.賀茂別雷神社(上賀茂神社)、京都市北区上賀茂本山339
 2.松尾大社、京都市西京区嵐山宮町3
 3.慈照寺(銀閣寺)、京都市左京区銀閣寺町2
 4.鹿苑寺(金閣寺)、京都市北区金閣寺町1
 5.八坂神社(祇園神社)、京都市東山区祇園町北側625
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裏・五芒星結界
 1.鞍馬山(584m)、京都市左京区
 2.大原野神社、京都市西京区大原野南春日町1152
 3.醍醐寺、京都市伏見区醍醐東大路町22
 4.化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)、京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17
 5.宇治神社、京都府宇治市宇治山田1

 陰陽五行説は古代の物理学・哲学で、現代の物理学・哲学にも通じるものがあります。

 陰陽師は陰陽五行説を会得していますから、表五芒星と裏五芒星を結界として使い、更に泰山府君・天文学・暦・道教などを駆使して占いをし、平安時代に大活躍しました。
 安倍晴明が京都全体に張った結界が「星満道満、せいまんどうまん」です。五芒星と魔法陣の結界は泰星(シリウス)からのエネルギーが降り注ぎ、京都の碁盤状に整備された道を満たして守護するという結界です。シリウスは六芒星ですが、五芒星とは陰と陽の対(表裏一体)になっています。
 シリウス(Sirius)は、おおいぬ座の1等星。太陽を除けば地球上から見える最も明るい恒星です。オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオンともに「冬の大三角形」を形成しているので、冬の夜空を見上げればオリオン座の三ツ星と冬の大三角が非常に印象的です。
       シリウス、青星(あおぼし)ともいいます。
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 シリウスからのエネルギーで京都を守護したということですが、私は地球に届くシリウスのエネルギーだけでは小さすぎると思います。宇宙全体の巨大なエネルギーで守護したのではないでしょうか。「宇宙全体のエネルギー」では漠然としていますから、よく知られている大きな星・シリウスに代表させたと思いますがねぇ…
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by enki-eden | 2013-12-20 00:04

怨霊

 古代史を研究していると、古代に一貫して流れている日本の精神を感じる事があります。その一つが「和の精神」であり、もう一つが「怨霊信仰」です。

①縄文時代から「怨霊」はあった。 屈葬、土偶。

②弥生時代
 出雲の国譲り
 大国主命の子孫と自称する人の言い伝えでは、大国主命は洞穴に閉じ込められて殺され、その子・事代主命は稲佐浜で天孫族に呪いをかけ、海に入って自殺した事になっています。その後、出雲族は北陸・信濃・東北に逃れる事になりますが、天孫族から蝦夷として執拗に討伐される。一部の出雲族は山窩(さんか)となって姿を消して行きます。
 この怨霊を鎮めるために天孫族は出雲の神を熱心に祀っているのではないか。出雲族が1700年以上もの長い間怨念を忘れずに語り継いできたと言う事は、その恨みの執念深さが窺がわれます。
 蘇我氏の擁立した29代欽明天皇は韓神(からかみ、大己貴神・少彦名神)と園神(そのかみ、大物主神)を祀っています。今でも宮中で韓神と園神は祀られているのです。

③古墳時代の10代祟神天皇
 祟神天皇の七年に天災地変が続き凶作となった。天皇の夢に三輪の大物主神が現れ祟りを告げる。大物主神の子孫の大田田根子に大物主神を祀らせたところ豊作になった。
 被征服者の祀っていた神を征服者が祀ることによって、征服側と非征服側の社会がまとまって安定する事になる。これが古代日本の基本原理で、怨霊神を祀る事は神道の伝統となっています。
 日本は「和の社会」でまとまっていますから、闘争が起きて勝者と敗者が生まれた場合、勝者は敗者の鎮魂をしなければならない。そうしなければ社会がまとまらず、勝者の支配は崩れていくのです。

④奈良時代
 長屋王(684年~729年2月)は藤原氏と対立し、無実の罪で死に追いやられる。「国家に反逆を企てている。」と言う密告で長屋王は捕らえられ、家族と共に自殺を命じられる。
 730年代に藤原氏が次々に天然痘で死んでいく事になって、45代聖武天皇の光明皇后は怨霊を鎮めるために、670年に消失(焼失)していた法隆寺を再建する。

⑤平安時代
 50代桓武天皇(737年~806年)は京都御所の鬼門に当たる方角に上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)を祀り、その延長上の比叡山には最澄に延暦寺建立を命じた。最澄(767年~822年)は近江の人で804年に空海と共に唐へ行き、翌年帰国後比叡山に根本中堂を建立した。諡は伝教大師で天台宗を広めていった。
 桓武天皇の死後も継続して様々な怨霊対策が講じられたが、怨霊や鬼の出没は阻止できなかった。
 そして59代宇多天皇(867年~931年)没後に執行された菅原道真の大宰府左遷と、これに続く彼の憤死により怨霊はいよいよ平安京に跳梁跋扈することになる。まさに百鬼夜行の様相を呈した京において活躍の場を得た人達、それが安倍晴明(921年~1005年)を始めとする陰陽師であった。
 こうして怨霊と戦いながらも千年の都となる京都が誕生したのである。それは桓武天皇の政治的・呪術的思惑に端を発したものであった。その背後には秦氏と賀茂氏がいました。
 怨霊の鎮魂が今でも祭りとして残っていますが、中でも人気の高いのは大阪の天神祭り(菅原道真)と東京の神田祭り(平将門)です。
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by enki-eden | 2013-12-16 00:05

住吉大社③

 住吉大社は禊祓の神・海の神・航海の神・和歌の神ですが、近年は縁結び・商売繁盛・家内安全のご利益があると信仰されているようです。

 右は末社の海士子社(鵜茅葺不合尊)、安産の神。左は末社の児安社(興台産霊神)、縁結びと子育ての神。
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   末社の星宮
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   末社の招魂社(重要文化財)、住吉累代神主の祖霊。
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   末社の八所社(素戔嗚命)
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   末社の新宮社(伊弉冉命、事解男命、速玉男命)、熊野新宮に本社あり。
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   住吉文華館、住吉大社の宝物・文化財などを収蔵。
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   小さなお神輿、七五三参りの人が前の長いすに座って写真を撮っていました。
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   誕生石、島津家の家紋が入ったちょうちん。
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   摂社の志賀社(底津少童命、中津少童命、表少童命)、九州志賀島に本社あり。
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   摂社の大海神社(だいかいじんじゃ、重要文化財)、祭神は豊玉彦命と豊玉姫命。
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   第一本宮でご祈祷が始まります。
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   住吉の五大力・五所御前
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   神井と撫でうさぎ
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   摂社の船玉社(天鳥船命と猿田彦命)、造船・航海守護。
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 末社の市戎大国社(いちえびすだいこくしゃ)、えびすは事代主命、だいこくは大国主命。
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   末社の龍社(御井殿社)、祭神は水波野女神。
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by enki-eden | 2013-12-12 00:07

住吉大社②

 住吉大社は伊弉諾尊が、亡くなった伊弉冉尊に会いに黄泉国へ行って、戻って禊をした時に生まれた底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神と、気長足姫命(神功皇后)をお祀りしています。
 第一本宮が底筒男命、第二本宮が中筒男命、第三本宮が表筒男命、第四本宮が神功皇后が祀られています。現在の社殿は19世紀の初めに建てられました。

 伊勢神宮遥拝所。小さな鳥居の中の鏡は真ん中に穴が開いています。鏡が付いているように見えますが、裏から見ると穴だと分かります。ここから伊勢の方向に遥拝するのです。
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   後ろは神籬(ひもろぎ)のようになっています。
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 住吉大社の本宮の軸線は少し東南東を向いています。旧暦正月の日の出方向だという説がありますが、私は伊勢神宮の方向に軸線を設定していると考えています。


   末社の楠珺(なんくん)神社ご神木(樹齢800年の夫婦楠)
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 楠珺神社、祭神は宇迦魂命。後ろのご神木(樹齢千年の楠)の周りにも拝所が3ヶ所あります。たくさんの初辰まいりの旗があり、毎月の初辰日に催される初辰まいりの時は二番目にお参りする神社です。
 初辰さんのご利益を願う人は、月毎の初辰日に欠かさずにお参りをし、4年を1期、即ち48回お参りする事によって満願成就すると言われています。これは四十八辰(始終発達)の意味から来たもので、お参りの印として毎月招福猫を受けることになっています。
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   境内東の手水舎
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   末社の貴船社(高龗神 たかおかみのかみ)
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   南門(重要文化財)
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   南門をはいると、石舞台(重要文化財)があります。
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   更に朱塗りの門。
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   摂社の若宮八幡宮(応神天皇と武内宿禰)、鳥居の柱は四角柱。
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   第一本宮の東に高床式の高庫(たかくら)が南北に2棟あり、宝物庫のようです。
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   末社の種貸(たねかし)社、祭神は倉稲魂命。繁栄の種を貸してくれます。
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 手水舎の一寸法師。室町時代のおとぎ話で、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が祈願して一寸法師を授かった。祈願したのが住吉大社だったといわれています。
前面に「一粒万倍」と書かれています。
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   本殿の後ろ側。
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 1954年に国の重要文化財に指定された「住吉大社神代記 すみよしたいしゃじんだいき」は住吉大社が神宝として秘蔵しており、8世紀頃の神官が大社の縁起を記したものです。神官は天火明命の子孫の津守氏で、尾張氏と同族です。
 その中でよく知られている部分は、神功皇后が住吉大神と夫婦の関係になったというものです。ここで言う住吉大神は実際には津守氏でしょう。神功皇后が九州へ遠征するためには、海人族を統括している津守氏の協力を得なければ達成できません。当時の津守氏は田裳見宿禰(たもみのすくね)で、新羅遠征から帰還して住吉大社が創建されると初代神主になります。田裳見宿禰は天火明命の13代目で320年か330年頃の出生、住吉大社の末社・侍者社(おもとしゃ)の祭神です。
 記紀には、応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子となっていますが、住吉大社神代記の記事から推定すると、父は津守氏(田裳見宿禰)の可能性があると考えられます。応神天皇の父親については、武内宿禰という説もあります。
 そして、第一本宮の祭神は現在では底筒男命となっていますが、神代記では表筒男命となっていて、第一と第三が入れ替わっています。東を第一とするのか西を第一とするのかの違いであれば、同じことになるのですが、どうでしょうか。原文は漢字ばかりで読みにくいですね。
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by enki-eden | 2013-12-08 00:05

住吉大社①

大阪市住吉区住吉2-9-89   電:06-6672-0753   駐車場あります。
摂津国一ノ宮
祭神: 第一本宮 底筒男命、第二本宮 中筒男命、第三本宮 表筒男命、
     第四本宮 神功皇后。総称して住吉大神(航海の神)。
創建: 神功皇后11年(4世紀半ば)



 大阪で初詣といえば「すみよしさん、すみよっさん、住吉大社」です。神札や灯篭には「住吉大神宮」と書かれています。境内には大きな灯篭がたくさん奉納されています。
 大晦日の夜から参拝者でいっぱいになり、12時ちょうどに太鼓が打ち鳴らされると、1年の幸を祈願する人でごったがえすそうです。参拝者数は、三が日で毎年200万人を超えています。関西で参拝者が一番多いのは京都伏見稲荷大社で、住吉大社は二番の盛況です。全国でも5番目か6番目に多いようです。
 私が参拝したのは11月でしたから、七五三の参拝者で大賑わいでした。

 境内の一番東の奥に第一本宮、その西隣に第二本宮、その西隣に第三本宮、第三本宮の南に第四本宮が鎮座しています。社殿は東西に並び、西向きに建っています。大阪湾とその向こうにある瀬戸内海に向かい合っているのでしょう。


 4棟の本殿は住吉造で、柱・垂木・破風板は朱塗り、羽目板壁は白胡粉(原料は貝殻)塗り、屋根は桧皮葺で切妻、出入り口は直線型妻入式になっています。神社建築史上最古の特殊な様式で、4棟の本殿は国宝に指定されています。20以上の摂社・末社があり、反橋(そりばし)や大小260余の石灯篭、「住吉神代記」などは指定文化財です。
 御田植神事(6月14日)や夏越祓神事などは、昔からの儀式を継承し続けています。住吉大社ならではの初辰参りは、全国から参拝者が訪れます。
   
 南海電鉄住吉大社駅を降りると、灯篭が見えてきます。
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   鳥居と社号標
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   正門の少し南にも鳥居があります。四角柱の住吉鳥居です。
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   北参道にある鳥居(八幡鳥居)。
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   大きな灯篭が境内にたくさんあります。大小合わせて600以上あるそうです。
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   二の鳥居
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   由緒
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   朱塗りの反橋(そりばし、太鼓橋)。江戸時代には住吉大社の前は浜辺でした。
   現在では埋め立てにより5~6km内陸になっています。
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 手水舎の兎。住吉大社の創建が神功皇后の辛卯年の卯月であるご縁により神使いとされています。6月23日(日)投稿の住吉神社(明石市)をご覧ください。神社の創建日が4月の初卯日といわれており、同じく手水舎は兎です。いずれにしても神使いは兎ですね。
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 三の鳥居は「住吉鳥居」。四角柱の角鳥居(かくとりい)です。四角柱は古い様式で、拝殿と本殿の間に建っている木造朱塗りの鳥居が原型。鳥居の後ろは幸寿門です。
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   第三本宮の拝殿
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   第三本宮の本殿(国宝)
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   第四本宮の拝殿
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   第四本宮の本殿(国宝)
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 第三・第四本殿の後方から。左が第四本殿の神功皇后で千木は水平切り、右は第三本殿の表筒男命で千木は垂直切りになっています。鰹木はすべて5本です。
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   第二本宮の拝殿と本殿(国宝)
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   第一本宮の拝殿
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 古代史とは関係ありませんが、天体のヒミコについて新聞報道がありました。
 ヒミコは、129億光年の彼方に存在する巨大なライマンα天体。ハワイのすばる望遠鏡で大内正己特別研究員が率いる日米英の国際研究チームによって発見された。129億年前の光であり、研究者は「今まで宇宙初期時代で発見された物体として最も大規模なものかもしれない」としている。地球に光が到達するまで129億年かかっており、宇宙の始まりから8億年のころの天体であるとされる。また、宇宙初期の時代では最大の天体である。
 この天体名は3世紀に存在した邪馬台国の女王卑弥呼にちなんで名づけられた。(ウィキペディア)

 巨大天体ヒミコの質量は太陽の数百億倍。 ヒミコは3つの銀河が衝突してできた原始銀河か。
 地球から129億光年離れた宇宙初期の巨大天体「ヒミコ」は、3つの銀河がぶつかるような珍しい内部構造を持つことが、東大宇宙線研究所などの国際チームによる観測で分かった。銀河の形成過程を探る上で重要な成果という。
 ヒミコは宇宙誕生の大爆発ビッグバンから、わずか8億年後の明るい巨大ガス雲。大きさは同時期の一般的な天体と比べて約10倍、質量は太陽の数百億倍に上ることが分かっていたが、詳しい姿は謎だった。
 研究チームはハッブル宇宙望遠鏡と南米チリのアルマ望遠鏡でヒミコを観測。水素ガス雲の中で3つの銀河が長さ2万光年ほどの狭い幅に並んでいる様子をとらえた。1年間に太陽の約100倍の質量のガスが星に変わるほど活動は激しく、明るさはこのエネルギーで説明できるという。一方、星の形成で通常みられる炭素などは検出されず、ビッグバン直後にできた水素やヘリウムを含む原始銀河の可能性が強まった。
 同研究所の大内正己准教授は「3つの銀河は衝突する直前の可能性があり、非常に珍しい状態だ。今後の観測で形成過程を解明したい」と話している。
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by enki-eden | 2013-12-05 00:05