古代史探訪

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吉田大塚古墳(桧笠岡古墳、神戸市西区)

 兵庫県神戸市西区大塚台3丁目(王塚公園内)、 宮内庁の玉津陵墓参考地。
 前方後円墳で周壕があり全長100m、墳丘長69m、後円部径38m、高さ8m。
  墳丘には埴輪列がありました。
 築造時期:5世紀から6世紀頃の古墳時代後期。陪塚があったが宅地開発で消滅した。
 被葬者: 舎人皇女(とねりのひめみこ)



 舎人皇女の父は29代欽明天皇、母は蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ、蘇我稲目の娘)です。舎人皇女は31代用明天皇の皇子・当麻皇子(たいまのみこ)の妃となる。
 当麻皇子は、33代推古天皇が新羅を討つ軍の将軍となり、難波から船出した。妃の舎人皇女も同行したが、途中の明石で亡くなった(西暦603年)。そこで舎人皇女を明石の桧笠岡(ひかさのおか)に葬った。当麻皇子は引き返し、征討はとりやめた。この桧笠岡陵が当古墳であるといわれています。古墳の築造は5世紀から6世紀頃となっていますので、時代があいませんねぇ。よくあることですが・・・
 そして、前方後円墳は物部守屋が587年に滅ぼされ中央では築造廃止となり、以降は蘇我氏の方墳に替わっていますので、603年に亡くなった蘇我系の舎人皇女の墳墓ではなさそうです。

 築造の5世紀から6世紀が正しいのであれば、弘計(をけ、23代顕宗天皇、487年崩御)と億計(おけ、24代仁賢天皇、498年崩御)が21代雄略天皇の粛清を恐れて播磨国に逃亡しますが、匿った豪族がいますので、その豪族の墓かもしれません。日本書紀には、その豪族を縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと、三木市志染)の忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)と記しています。何人もの豪族が連携して二人の皇子を匿ったと考えられますが、この時代の豪族であれば5世紀から6世紀頃に亡くなっています。豪族たちも雄略天皇に逆らう行為をするわけですから命がけだったでしょう。
 弘計と億計の逃亡伝承地は播磨国に何箇所かあり、その近くには顕宗天皇と仁賢天皇を祀る宗賢神社(そうけんじんじゃ)があります。神社名は顕宗の宗と仁賢の賢を使っているのでしょうね。
 吉田大塚古墳の近くにも宗賢神社が3社あります。
       赤のアイコンが吉田大塚古墳、黄が3ヶ所の宗賢神社。
       古墳の軸線は一番左の宗賢神社に向いています。


 逃亡伝承について、昨年8月16日(金)投稿の「押部谷住吉神社」をご参照ください。

       大塚公園
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       神戸市玉津土地区画整理事業完成記念碑
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       大塚古墳
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       前方部西側面
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       前方部西から後円部を望む
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       前方部
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       前方部東から後円部を望む
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       鴨の群れが周壕に
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       後円部
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       後円部から西側前方部を望む
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               *****
魔鏡現象
 1月29日(水)の夜のテレビ番組で、三角縁神獣鏡の魔鏡現象について報道していました。翌日には新聞でも大々的に報道されています。
 3Dプリンターで重要文化財の三角縁神獣鏡を素材・大きさ・模様などを現物と同じように造り、表面を丁寧に磨き上げる。その鏡に太陽の光を受けて壁に反射させると、鏡の裏の模様が浮かび上がる。これを魔鏡現象と言っています。中国前漢時代の銅鏡にも魔鏡現象があるようです。
 鏡の裏には模様があって凹凸があるので、表面を丁寧に磨くことにより表面の場所によって1,000分の1ほどの窪みの違いが出来る。裏の分厚い部分の表側を磨くと磨り減りやすく、薄い部分は磨り減りにくいので、裏の模様が表に現れる。これを反射させると鏡の裏の模様が壁に浮かび上がる。全体の肉厚が分厚い鏡ではこの現象が起きないので、薄くしなければならない。古代人はこの現象が分かって薄い銅鏡を造っていたのでしょうか。古代人はこの現象を見て、神に対する畏敬の念と支配者の偉大さを感じたのでしょう。
 私見ですが、三角縁神獣鏡は10代崇神天皇の時代(3世紀後半から4世紀前半)に大和の磯城郡田原本町で製造され、各地に交易品として出回ったと考えています。舶載鏡ではないと思います。
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by enki-eden | 2014-01-31 00:15

竜山石(たつやまいし、宝殿石)

 兵庫県高砂市の伊保山、竜山などに産する竜山石(たつやまいし)は凝灰岩(ぎょうかいがん)です。凝灰岩は火山灰が堆積してできた堆積岩で、色は様々です。生成条件により数種類に分類されますが、竜山石は流紋岩質凝灰岩です。
 他の凝灰岩に較べると加工しやすく丈夫で、強度は花崗岩と同じくらいです。古墳時代の石棺として奈良県葛城市の二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の凝灰岩とともによく使われています。
 竜山石や二上山石は近畿だけではなく、周辺地域でも石棺として使われました。
 赤のアイコンは竜山、黄は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)御陵


     二上山


   竜山石採石場(現在でも石材として採石されている。生石神社境内から撮影。)
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   篠山市の雲部車塚古墳の長持形石棺(5世紀)復元、兵庫県立考古博物館展示
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 古墳時代の石棺の形は、前期・中期の刳抜き式石棺(割竹形、舟形)、中期後期の組合せ式石棺(長持形、家形)、後期の刳抜き式家形石棺などがありますが、石棺の材質分析から産地を推定できます。
 石材の種類は竜山石と二上山の凝灰岩のほかに、鷲ノ山石(香川県綾歌郡国分寺町の石英安山岩質凝灰岩)、九州の阿蘇溶結凝灰岩などがあります。

 阿蘇石の使用例は、熊本県宇土市の鴨篭(かもご)古墳の家形石棺、熊本県玉名市の江田船山古墳の組合せ式家形石棺、奈良市南京終町(みなみきょうばてちょう)の野神古墳の初期家形石棺、奈良県桜井市の兜塚古墳の石棺、奈良県橿原市の植山古墳の石棺、京都府八幡市の八幡茶臼山古墳の舟形石棺、滋賀県野洲市の甲塚古墳と円山古墳の石棺、岡山市北区の造山古墳の長持形石棺などがあります。宇土市から奈良県までの海路は1,000kmほどもあります。阿蘇ピンク石は他には無く、特定の人物だけにしか手に入らなかったでしょう。

 二上山白色凝灰岩の使用例は、奈良県桜井市の赤坂天王山古墳の刳抜き式石棺、奈良県生駒郡平群町のツボリ山古墳の刳抜き式家形石棺、奈良県桜井市のホケノ山古墳の石棺、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石棺などがあります。

 竜山石の使用例は、王墓を始めとして、岡山市北浦の八幡(やはた)大塚2号墳の組合せ式家形石棺、奈良県桜井市の艸墓(くさはか)古墳の刳抜き式家形石棺、奈良県広陵町の牧野古墳の組合せ式家形石棺、大阪府茨木市の耳原古墳の刳抜き式家形石棺と組合せ式家形石棺など非常にたくさんあります。

 石材を調べると、大きな石を播磨・四国・九州から大和・近江にまで運んだことが分かります。阿蘇ピンク石(熊本県宇土市網津町の馬門石、まかどいし)は美しく、皇族や有力豪族に人気があったようですよ。邪馬台国時代に熊本・阿蘇は狗奴国の領地でした。
 馬門の石切り場近くに牧神社がありますが、ご神体を含め石製品は全てピンク石だそうです。地図で見ると九州では少ない大歳神社も石切り場の近くにありますね。兵庫県には非常に多い神社です。島根県にも多いです。出雲国風土記には神須佐乃烏命(素戔嗚命)の子に大歳神が記されています。
 九州でも阿蘇ピンク石の石棺は少ないと思いますが、兵庫県では、たつの市御津町に一基発見されています。

 神戸新聞の記事によりますと、『竜山石調査団が2004年に「竜山の上に山の神を祀る祠(ほこら)がある」と聞き、現地に行った。生石神社(おうしこじんじゃ)の宮司により扉が開けられると、木札に「火明神(ほあかりのかみ)」と書かれていた。木札は江戸時代後期のものである。』とあります。
 生石神社(おうしこじんじゃ)については、昨年4月29日(月)投稿の「生石神社」をご覧ください。

 5世紀から6世紀の古墳時代後半に大和朝廷のもとで氏姓制度のしくみが執られ、各豪族が朝廷の職務を分担していました。それぞれの氏族を統轄する首長を伴造(とものみやつこ)といいます。
 この時代に石棺・石人石馬などの石造りを担当していたのが石作連(いしづくりのむらじ)で、尾張氏と同族ですから火明命を祖神と仰いでいます。播磨国風土記には火明命は大汝命の子となっています。
 私見ですが、火明命は素戔嗚命と同じく西暦140年頃の出生、大汝命(大国主命・大己貴命)は160年頃の出生と見ています。
 石作氏は石作連を頭として、石作造(みやつこ)・石作首(おびと)→石作→石作部といった部民制の統括集団でした。播磨国風土記に、石作氏は神功皇后から14代仲哀天皇の石棺造りに讃岐国(香川県)の石材を使うよう命じられ探しましたが、最終的には播磨国の石宝殿で竜山石にたどり着きました。

 また、仲哀天皇の父は日本武尊で、日本武尊の母が播磨国風土記では印南別嬢(いなみのわきいらつめ)、日本書紀では播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)です。従って日本武尊(幼名は小碓、日本童男)は播磨で生まれているはずです。播磨風土記には印南別嬢の記載はありますが、日本武尊の記載がありません。生後すぐに大和へ移住したか、あるいは大和で生まれたのでしょうか。素戔嗚命の八岐大蛇退治が出雲国風土記に記されていないのと似ています。
 私のブログ名の印南は印南郡(いんなみぐん)からとっています。現在は兵庫県加古川市になっていますが、私が子供の頃は兵庫県印南郡でした。
   播磨稲日大郎姫の日岡御陵
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by enki-eden | 2014-01-28 00:17

白峯神宮(しらみねじんぐう)

 京都市上京区今出川通り堀川東入ル飛鳥井町261  電: 075-441-3810 
   駐車場は今出川通を東に進み、境内に左折します。 西行きで右折はできません。
 祭神: 75代崇徳天皇、47代淳仁天皇
 創建: 1868年、旧社格は官幣大社。

 配流されてその地で崩御した崇徳天皇(1119年-1164年)と淳仁天皇(733年-765年)を祀っています。白峯神宮の社地は、蹴鞠と和歌の宗家であった公家・飛鳥井家(あすかいけ)の跡地です。
 摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多く、拝殿には選手から奉納されたボールなどが多く見られます。

 崇徳天皇は1142年に上皇となったが、崇徳上皇は1156年の保元(ほうげん)の乱に敗れて讃岐に流され、その地で崩御。上皇が葬られた白峯陵(しらみねのみささぎ、香川県坂出市)の前に上皇を白峯大権現として祀る御影堂が建立されました。
 121代孝明天皇は崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう徳川幕府に命じましたが、孝明天皇は間もなく崩御。次の122代明治天皇がその意志を継ぎ、現在地に社殿を造営し、1868年(明治元年)に御影堂の神像を移してご神体とし、白峯宮を創建しました。

 崇徳天皇の和歌で有名な小倉百人一首
   瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

 淳仁天皇の神霊は明治6年に淡路島から白峯神宮に合祀されました。
 淳仁天皇は弓削道鏡の悪政を糺そうとしましたが、764年の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱を契機に廃位となり、淡路島に配流され、翌年の天平神護元年(765年)崩御。 和気清麻呂公は、宇佐八幡の神託を得ての帰路、ひそかに御陵を参拝して事の由を奉告したという伝承があります。
 弓削道鏡の神託事件については昨年10月18日(金)投稿の八幡神社(宗佐厄神八幡神社、兵庫県加古川市)をご覧ください。

 白峯神宮蹴鞠保存会により、奉納蹴鞠が毎年4月14日と7月7日に行われています。

     入り口の鳥居
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     由緒
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     拝殿
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     オガタマノキ(小賀玉の木、天然記念物)
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     蹴鞠の碑、碑の玉を回すとご利益がある。
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     奉納蹴鞠が行われる所。
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     昭和天皇お手植の松
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 地主社(鞠の精大明神 せいだいみょうじん、柊大明神 ひいらぎだいみょうじん、今宮大神、白峯天神、糸元大明神) 
 サッカーの守護神として、サッカー関係者や球技関係者の参詣が多い。
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     崇徳天皇欽仰の碑
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     伴緒社(とものおしゃ)、源為義・為朝を祀り、武道・弓道の神。
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     潜龍社(せんりゅうしゃ、白峯龍王、紅峯姫王、紫峯大龍王)
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     本殿
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by enki-eden | 2014-01-25 00:12

播磨国風土記の東西交流

 1月11日(土)に兵庫県立考古博物館にて講演会がありました。講師は館長の石野博信先生です。先生のご自宅は大和三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)に比較的近く、自転車で行けるそうです。
 昨年、私が昼食のために大神神社の近くの食堂に入ったときに、店の主人が「正月の参拝者数はものすごいですよ。車の列が隣の天理市まで続きますから。」と言っていたのを思い出しました。
    兵庫県立考古博物館(大中遺跡公園の中にあります)
     兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1  電話 079-437-5589
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     大中遺跡竪穴住居の復元
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 風土記は43代元明天皇(38代天智天皇の皇女)が713年に詔を出し、各国の国司が編纂して提出しました。全国から提出されたと思われますが、現在残っている写本は5カ国だけです。
 出雲国(733年、45代聖武天皇に提出)が完全本に近いですが、播磨国(715年頃提出、国宝)・肥前国(735年頃、聖武天皇に提出、猪熊家伝来写本は国宝)・常陸国(721年、44代元正天皇に提出)・豊後国(733年頃、聖武天皇に提出)は一部が欠けています。写本もたくさんあります。
 5カ国の中で播磨の国が一番先に解(げ、公文書・上申書)を提出しています。これは後に風土記と呼ばれます。5カ国以外の国は風土記逸文として断片的に知ることができます。

 石野先生の講演は、播磨国風土記には他国名や他国の神名も多く出てくるので、出雲や筑紫など他国と播磨国の交流という観点から多くの事例を説明していただきました。
               ***

 以下は私のコメントです。
 古代の竪穴住居は殆どがワンルームですが、間仕切りで部屋を区切った溝跡が見つかることがあります。これは出雲や因幡・伯耆の様式で、日本海側から各地に広がっていったものです。
 出雲大社の本殿内部も壁で仕切られていますね。出雲大社では60年ぶりの「平成の大遷宮」が行われましたが、昨年に「本殿遷座祭」が執り行われました。その模様がNHKで放送され、普段は入れない本殿内の映像も見ることができました。心御柱(しんのみはしら)が本殿中央にあり、壁で仕切られていました。壁の無い部分にはカーテンのようなものがありました。心御柱が本殿を支えています。
     出雲大社


 伊勢神宮など神明造りの社殿はワンルームで間仕切りはありません。伊勢神宮の心御柱は極めて重要で極秘にされており、床下に隠れていて本殿を支えていません。神明造りの籠神社(このじんじゃ、京都府宮津市)にも心御柱があるそうですが、やはり見ることができません。
 奈良県桜井市の纏向遺跡の大型建物も出雲の影響が考えられます。建物の南北が19.2mで柱が9本、東西が12.4mで柱が5本で45本の総柱になっていますので間仕切りがあった可能性が高いです。

 饒速日命(にぎはやひのみこと)と三炊屋媛(みかしきやひめ)の子、可美真手命(うましまでのみこと、物部の祖)は初代神武天皇に仕えた後、出雲国に隠遁し、石見国で亡くなりました。大和から出雲への行路は播磨を通るのが常でしたので、可美真手命も播磨を通って出雲へ行ったという伝承があります。
 播磨国風土記によりますと、土師氏の野見宿禰(のみのすくね)が大和から出雲に帰る途中、播磨の立野(現在の兵庫県たつの市)で病死し、葬られたとあります。播磨は東西交流の中継地点でした。

 姫路市の神功皇后由来の魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)に北部九州製の祭器である広形銅矛が所蔵されています。播磨と筑紫の交流の結果だと考えられます。

 九州系の方形竪穴住居について
 兵庫県播磨町大中遺跡5号住居は3世紀の長方形の住居跡で、柱は2本、短辺にベッド状の遺構があります。遺跡の説明板によりますと、このタイプの住居は九州に類例がありますが、近畿では大中遺跡にしか発見されていません。1800年前の筑紫人が住んでいたと思われますが、筑紫製土器はかけらも出てきません。

 神戸市西区玉津田中遺跡で「九州系銅剣に刺されて死んだ播磨の弥生人骨」が出土しています。九州系銅剣を使ったのは播磨人でしょうか? 筑紫人でしょうか?

 福岡市早良区の西新町(にしじんまち)遺跡には筑紫型、播磨型、朝鮮型の住居の集合体があり、これは人の交流・交易の証しです。今は遺跡の上に高校の校舎が建っています。西新は3~4世紀の国際交易港だったと考えられています。
 3世紀には倭と魏・晋の交易がありましたが、4世紀は中国の内乱と倭の中心が筑紫から大和に移ったことで中国との交易がなかったと考えられます。西新町遺跡に朝鮮型の住居跡があるように、筑紫と朝鮮半島との交易は続いていたのでしょう。
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by enki-eden | 2014-01-22 00:07

月読神社(つきよみじんじゃ、京都市)

 松尾大社の境外摂社で松尾山南麓に鎮座。
 京都市西京区松室山添町15   電: 075-394-6263   駐車場あります。
 祭神: 月読尊(つくよみのみこと)、相殿に高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)。
 創建: 23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)3年(西暦487年)
 松尾大社の摂社といいながら創建は松尾大社よりも古い。古くても、より威勢の良い神社の摂社に入るのですね。

 日本書紀の顕宗天皇3年、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が天皇の命を受け、任那(みまな)に使いした。このとき月の神が人に憑いて『わが祖高皇産霊尊は天地をお造りになった功がある。田地をわが月の神に奉れ。求めのままに献上すれば、慶福が得られるだろう』といわれた。
 事代は都に帰って詳しく報告し、山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉られた。壱岐の県主(いきのあがたぬし)の先祖の押見宿禰(おしみのすくね)がお祀りして仕えた。



   赤鳥居(扁額は月読大神)、階段の上に神門が見える。
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     説明板
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     拝殿
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    本殿(松尾大社と同じく千木・鰹木がありません)
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    本殿の左に願掛け陰陽石
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    本殿右に聖徳太子社。聖徳太子は月読尊を崇敬していた。
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 聖徳太子社の右に月延石(つきのべいし、子授け・安産)。
 神功皇后が15代応神天皇を生む時(西暦363年頃)に、この石で腹を撫でて安産だったという。この石は筑前恰土郡(現在は福岡県糸島市)の道のほとりにあったが、7世紀前半頃に月読尊の神託により当社に奉納された。
 大きな岩の上に乗っている円盤形の黒い石がそれだと思います。安産の願いを書いた白い小石(祈願石)がたくさん奉納されています。当神社では、戌の日(いぬのひ)ごとに安産祈願を奉修しています。
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 筑前国風土記逸文に、神功皇后の鎮懐石(ちんかいせき)伝承がありますが、この石のことでしょう。鎮懐石は3個あって、長崎県壱岐市の月読神社か本宮八幡神社(ほんぐうはちまんじんじゃ)のどちらかに1個。福岡県糸島市(筑前国恰土郡)の鎮懐石八幡宮に2個。そして京都の月読神社に1個奉納されています。
 数が合いませんがねぇ・・・鎮懐石八幡宮から京都の月読神社に1個が遷されたのであれば数は合いますね。
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by enki-eden | 2014-01-19 00:08

松尾大社(まつのおたいしゃ)②

 千早振る 松尾山(まつのおやま)の 影みれば 今日ぞ千歳の 初めなりける
                                              源 兼澄
 祭神の大山咋神は別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と称し、古事記には大年神と天知迦流美豆姫の子となっています。滋賀県大津市の日吉大社が大山咋神を祀る総本社です。大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼びます。日吉大社の山王祭(4月)では、大山咋神と妃神・鴨玉依姫神の結婚を再現する儀式があります。夫婦神となっており、鴨玉依姫神も祭神です。
 更に、大山咋神は別名を鳴鏑神(なりかぶらのかみ)ともいいます。

 松尾大社の社殿の軸線は夏至の日の出方向を向いているように見えますが、私には9km先の下鴨神社(鴨玉依姫・大山咋神の妃神)の方向を向いているようにも見えます。古代は何事にも方角を非常に重視したと思います。しかし、地図を良く見ると、更にその延長線上6km先に比叡山(848m)があるではありませんか! 大山咋神は小比叡というからには、やはり比叡山の方に社殿の軸線をとったのでしょうか。比叡山の東麓には大山咋神を祀る日吉大社が鎮座しています。



 祓戸大神(祓戸大神については、昨年1月30日投稿の「大祓い」をご覧ください。)
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   大きな亀と鯉。
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   本殿右に校倉造りの神庫。
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   滝御前、背後には美しい滝があります。罔象女神(みつはのめのかみ)
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   右が四大神社(しのおおかみのやしろ)で四季折々の神で年中平安を守る。
     春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神。
   左は三宮社で祭神は玉依姫命。山城国開拓の功労神。
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 亀の井。延命長寿・蘇りの水として有名な霊泉で、酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混和して用いる。一般には茶道・書道の水として、また家庭用水として酌み帰ります。
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 一挙社。祭神は一挙神ですが、素戔嗚尊の別名か。困難に出会ってもこの神に祈れば一挙に解決すると伝える。
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   金刀比羅社(大物主神)
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   伊勢神宮遥拝所
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   駕輿丁船(かよちょうぶね、神幸祭神輿の船渡御に使われた。)
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                         ***
 大物主神について、古事記には大国主神の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)とあり、日本書紀の一書に大国主神の別名とあり、大和三輪山の大神神社では大国主神の和魂(にぎみたま)としています。
 つまり大物主は大国主だということです。それでも私はずっと大物主は饒速日(にぎはやひ)ではないかと考えてきました。同じ考えの人も多いのですが、なかなか決定打がありませんので苦労しています。
 そして播磨国には大歳神社(大年神社)が大変多いのですが、大歳(大年)も饒速日ではないかと考えています。
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by enki-eden | 2014-01-16 00:07

松尾大社(まつのおたいしゃ)①

 京都市西京区嵐山宮町3  電 075-871-5016 無料駐車場あります。
 祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)、
    市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。
 創建 701年(42代文武天皇の時代)


 松尾大社は当地に居住した秦氏の創建で、酒造の神としても信仰されています。本殿は「松尾造り」の中では最古のものです。他に宗像大社と厳島神社があります。
 背後の松尾山(223m)には松尾社の古社地に磐座があります。磐座の神を701年に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が社殿を建造して移したものです。平安遷都以降、松尾の猛神と呼ばれ都鎮護の神として崇敬されています。
 摂社末社の中の四大神社、衣手社、三宮社、月読社、宗像社、櫟谷(いちたに)社と本社を合わせて松尾七社と呼ばれています。

 神社の説明によると、赤鳥居の上部に柱と柱を結ぶ注連縄があり、それに榊の小枝を束ねたものが数多く垂れ下っていますが、これは「脇勧請」というもので、榊の束数は平年は12本、閏年は13本吊り下げる慣わしとなっています。この形は鳥居の原始形式を示すもので、太古の昔、参道の両側に二本の木を植えて神を迎え、間に縄を張り、その年の月数だけの細縄を垂れて、月々の農作物の出来具合を占ったようです。

   参道と二の鳥居。鳥居の注連縄に榊が下がっています。扁額は松尾大神。
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   立派な楼門
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   説明板
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   拝殿、干支の大きな絵馬が飾られています。
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   手水舎の亀、当社の神使いは亀です。
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   撫で亀さん。
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   神輿庫、酒の神様だけあってたくさんの酒樽が奉納されています。
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   相生の松、恋愛成就・夫婦和合。
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   幸運の撫で亀、寿命長久・家庭円満。
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   重軽の石
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   釣殿と回廊
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 松尾造りの本殿は重要文化財で1397年築造。この造りは他に宗像大社と厳島神社のみ。屋根は両流れ造りになっており、千木と鰹木がありません。
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by enki-eden | 2014-01-13 00:07

上賀茂神社(かみがもじんじゃ)③

 賀茂別雷大神の母・玉依姫の兄は玉依彦で、賀茂県主の祖です。賀茂氏と同じく山城国を本拠地としていた秦氏とは密接につながっています。両氏とも50代桓武天皇の平安遷都に協力し、やがて陰陽博士を輩出します。

 摂社の須波神社(重要文化財)、五柱の神を祀っています。阿須波神(あすはのかみ)、波比祇神(はひきのかみ)、生井神(いくゐのかみ)、福井神(さくゐのかみ)、綱長井神(つながゐのかみ)。
 この五柱の神は坐摩巫祭神(いかすりのみかんなぎのまつるかみ)と呼ばれており、居住地を守る神で大阪市中央区の坐摩神社(ざまじんじゃ、いかすりじんじゃ)の祭神と同じです。元々は宮中で坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)によって祀られていました。今でも宮中三殿で祀られています。神功皇后が、新羅遠征(363年)より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったのが最初らしいです。
 上賀茂神社の境内末社であつた諏訪社は、明治10年に内務省より第7摂社と定められ、社名を須波神社と改めた。賀茂別雷神社の前庭を守るとされ、楼門前の御物忌川(おものいがわ、みものいみがわ、ならの小川の支流)を挟んで鎮座。心を鎮める癒しの神です。
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   末社の岩本神社、祭神は底筒男神、中筒男神、表筒男神の住吉三神。
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 渉渓園(しょうけいえん)、賀茂曲水宴開催の地。賀茂曲水宴(かもきょくすいのえん)は1182年に当時の神主・賀茂重保(かものしげやす)が催したのが始まりで、1994年に皇太子殿下と雅子様の御成婚・平安遷都1200年・上賀茂神社式年遷宮の奉祝行事として復元されました。4月第2日曜日に行われます。有料です(1,000円)。
 曲水宴は葵祭で選ばれた斎王代の1年間最後の仕事になります。
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   願い石(陰陽石)
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  摂社の賀茂山口神社、祭神は御歳神。御歳神は大歳神と香用比売(かよひめ)の子。
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   睦(むつみ)の木。樹齢300年以上で家内安全を見守る。
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                    ***

 古代史とは関係ありませんが、宇宙のダークマター(暗黒物質)の解明についてです。岐阜県飛騨市神岡町にある鉱山跡地で、東大宇宙線研究所がダークマターの検出プロジェクトを立ち上げています。
 ダークマターは光も出さず、地球も通り抜けてしまうために観測が困難ですが、2020年には正体が分かる可能性があり、日本がその先陣を切る勢いです。
 宇宙に存在する物質のうち、人間が認識できる物質は4.9%しかなく、残りは正体不明です。ダークマターは26.8%、ダークエネルギーは68.3%を占めています。ダークエネルギーは全く分かっていませんが、ダークマターは5~6年後に判明できそうです。約百年前にアインシュタイン博士が予言した「重力波」についても、同じ頃に発見される可能性があります。
 私は、古代史研究と共に、神と異次元を物理学・天文学の見地から研究していますので、ダークマターやダークエネルギーに重大な関心をもっています。
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by enki-eden | 2014-01-10 00:05

上賀茂神社(かみがもじんじゃ)②

 鴨川と賀茂川について
 「かもがわ」は同じ川でも賀茂川・加茂川・鴨川などと表記されていました。出町柳(でまちやなぎ)で東からの高野川と西からの賀茂川が合流しますが、明治になって合流するまでの川を「賀茂川」、合流してからの川を「鴨川」と表記することになりました。上賀茂神社・下鴨神社のあたりは賀茂川で、祇園四条あたりは鴨川になります。

 6月30日に行われる上賀茂神社の夏越祓式(なごしはらえしき)においては、午後8時から夕闇にかがり火が小川を照らす中、氏子崇敬者より持ち寄られた人形(ひとがた)を投じ半年間の罪穢を祓い清めます。気候によりますが、京都では5月の終わり頃から蛍が飛び交うようですよ。
   風そよぐ なら(楢)の小川の 夕暮れは 禊(みそぎ)ぞ夏の しるしなりける
                                  藤原家隆

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   末社の川尾神社、祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)で迷いを取り除く神。
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 正面に摂社の新宮神社(重要文化財、祭神は高龗神、たかおかみのかみ)、左奥は末社の山尾神社(祭神は大山津美神)。新宮神社は工事中のため仮本殿に鎮座。
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   伊勢神宮遥拝所
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 第一摂社の片岡社(重要文化財)。鈴緒の一番上に大きな鈴ではなく、小さな鈴がたくさん付いています。祭神は玉依姫(賀茂別雷大神の母神)で、ご利益は縁結び・恋愛成就・子授かり。
 玉依姫(鴨玉依姫)の父は賀茂建角身(かもたけつぬみ)で、山城の賀茂氏の始祖、下鴨神社の祭神です。八咫烏(やたがらす)となって神武東遷を先導したあと、大和葛城の高鴨から山城に移り住みました。玉依姫の母は丹波の神伊可古夜日売(かむいかこやひめ)です。丹波国氷上郡(現在は兵庫県丹波市氷上町)に神野神社(かんのじんじゃ)が鎮座、祭神は別雷命です。2km南東の氷上町賀茂に賀茂神社が鎮座、祭神は賀茂大明神です。
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 片岡社には紫式部が何度もお参りしました。縁結びの源氏物語絵馬がたくさん下がっています。絵馬はハート型をしていますよ。紫式部も縁結びをお願いしたのでしょうか?
     ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに 立ちや濡れまし   紫式部
        (ほととぎすの声を待ちわびて、片岡社の森の露に立ち濡れてみましょう。)
 この「ほととぎす」は「鳥」と「恋人」をかけているのでしょうか?
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 片岡社本殿、正式名は片山御子神社。片岡山(片山)の麓に鎮座。
 枕草子231に『岡は、船岡、片岡。鞆岡(ともおか)は、笹の生えているのが風情あり。語らいの岡。人見の岡』とあります。
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                    ***
遺跡の保存
 文化財保護法は1950年(昭和25年)に成立した歴史的・文化的・自然的遺産である文化財を保護する法律です。前年に法隆寺金堂の火災で金堂壁画が焼失したのをきっかけに法案が提出されました。文化財の保護は文部科学省の文化庁が担当します。自治体も条例などを定めて文化財の保護に努めています。
 遺跡・遺構の埋蔵文化財は、土地の所有者でも勝手に発掘できません。土木工事などを行う場合は事前に教育委員会に届け出・通知をしなければなりません。県や市町村の教育委員会では埋蔵文化財包蔵地の地図を作っています。出土物は、国や都道府県の所有になります。
 しかし、戦後の高度経済成長による開発のため、全国で多くの遺跡が破壊されてしまいました。外国でも同じです。
 教育委員会の職員が遺跡として登録しようとすると、批判され人事異動ではずされることがありました。開発優先の価値観では、遺跡の保護は邪魔でした。こうして多くの遺跡が失われましたが、最近では文化財保護の意識が高まり、全国で管理と整備が進むようになりました。23年間のデフレ不況で開発が鈍ったということも関係あるでしょうか。
 今後は再び経済が発展していくと考えられますが、文化財の保護は守られると思います。
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by enki-eden | 2014-01-07 00:03

上賀茂神社(かみがもじんじゃ)①

(賀茂別雷神社、かもわけいかづちじんじゃ)、下鴨神社と共に山城国一ノ宮。
京都市北区上賀茂本山339   電: 075-781-0011  有料駐車場があります。
世界文化遺産、賀茂川の東に鎮座。
祭神: 賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
創建は40代天武天皇の時代(678年)。

赤のアイコンが上賀茂神社、黄が下鴨神社、青が神山



 山城国風土記逸文の賀茂伝説には、賀茂建角身命の子・玉依比売が「石川の瀬見の小川」(賀茂川)で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れてきた。これを床の近くに置いていたところ、玉依比売は妊娠し男子を産んだ。これが賀茂別雷命です。「玉依比売」とは、神霊が憑依(ひょうい)する巫女という意味で、鴨族の玉依比売だから「鴨玉依比売」といいます。賀茂建角身命と玉依姫命は下鴨神社(賀茂御祖神社、かもみおやじんじゃ)の祭神です。
 昨年1月2日投稿の盟酒(うけいざけ、父親を占いで探す)の中で、盟酒によって賀茂別雷神の父親が誰かを占う記事がありますのでご参照ください。

 丹後一宮・籠神社の極秘伝に依れば、祭神の天火明命(海部氏・尾張氏の祖神)が賀茂別雷神と同一神との伝承があります。海部氏・尾張氏・賀茂氏は海人族ですから姻戚・同盟関係で、それぞれの祖神を同一と見なしていると考えられます。この海人族は九州と丹後から東遷し、大和葛城で合流。その後、賀茂氏は山城国へ移動、尾張氏は東海に移動しました。私見ですが、天火明の出生は西暦140年頃、賀茂別雷は200年頃と見ていますので、別神だと思いますが・・・神話と歴史を混ぜるなとおっしゃる方にはご容赦願いますね。

 京都三大祭は、葵祭が5月15日に京都御所から下鴨神社・上賀茂神社へ行列、7月1日から八坂神社の祇園祭が始まり、時代祭が10月22日の平安遷都の日に京都御所から平安神宮へ各時代の装束による行列が行われます。
 葵祭は京都最古の祭で、行列のすべてに葵の葉(双葉葵)が飾られます。主役は斎王代で、京都ゆかりの未婚女性から毎年選ばれます。7世紀に下鴨・上賀茂両神社の「賀茂祭」として始まり、17世紀終わり以降は「葵祭」と呼ばれています。平安時代には祭りといえば賀茂祭(葵祭)のことで、紫式部の源氏物語第九帖「葵」には賀茂祭のことを「祭(まつり)」と述べています。清少納言の枕草子第五段に「四月、(賀茂神社の)祭りのころいとをかし。」と述べています。
 そして「祭」と「の御紋」の徳川家の縁からでしょうか、幕府からの援助を受けています。
 下鴨神社については昨年1月6日の投稿、八坂神社については1月8日の投稿をご覧ください。

     社号標(賀茂大社)
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     一の鳥居を入り、振り返る。
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     二の鳥居
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     境内案内図
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     西の鳥居前の美しい紅葉。
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     西の鳥居
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 細殿(ほそどの)、1628年造替え、重要文化財。
 一対の大きな円錐形の盛り砂(立て砂)が印象的。立て砂は向かって左が陽で3本の松葉、右が陰で2本の松葉が上に挿してあります。立て砂は「神の依り代」です。
 立て砂は賀茂別雷大神が降臨した神山(こうやま、2km北)をイメージしているようです。
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 ユニークな手水舎。神山からの神聖な湧水で、「神山湧水(こうやまゆうすい)」と説明板があります。
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 御物忌川(おものいがわ、みものいみがわ)の向こうに赤い玉橋(重要文化財の太鼓橋)と楼門(重要文化財)が見えます。全て朱塗りです。
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 拝殿は工事中でした。本殿と権殿(ごんでん)は国宝で1863年に造替された三間社流造です。権殿は本殿が非常の場合に神儀を遷す御殿です。
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    由来の説明板(京都謡曲史跡保存会)
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by enki-eden | 2014-01-04 00:08